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太田城(おおたじょう、茨城県常陸太田市中城町)は別名舞鶴城とも称され、JR水郡線(常陸太田支線)常陸太田駅から徒歩約10分、南北に細長く走る台地を進むと太田小学校があり、ここに太田城本丸跡を示す石碑を残すのみで周辺は宅地化が激しく遺構はほとんどありません。<br /><br />太田城を本拠におく佐竹氏は後三年の役で有名な八幡太郎義家の実弟である新羅三郎義光を祖とする清和源氏の流れをくむ名家で現在の茨城県北部から福島県南部にかけて支配してきた有力氏族です。<br /><br />佐竹氏は頼朝挙兵の時、同じ源氏一族でありながら木曽義仲と同じように頼朝の動向に呼応せず、その結果治承4年(1180)に頼朝に攻められすべての所領を没収されます。<br /><br />その後頼朝の関東における覇権が固まると、奥州藤原氏攻略に向かう頼朝に臣従・随陣し、軍功を挙げた事によって先に没収された奥七郡(那珂東・那珂西・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・多珂)の領有回復が許されますが鎌倉時代は御家人ながらも冷遇され、常陸国においても小田・宍戸、大掾らの勢力に押されがちでした。<br /><br />南北朝期では八代当主貞義(さだよし、1287~1352)は足利尊氏に属し各地で戦功を挙げ、常陸守護職に任命されてその後の佐竹氏発展の基礎が固まり、貞義息子の義篤(よしあつ、1311~1362)は宿敵小田氏を破り常陸北部における支配を確立します。<br /><br />戦国時代では鬼義重と異名をとる十八代当主義重(よししげ、1547~1612)の代では一族庶流を支城に配し今までにない領土の拡大を実現し大きく飛躍、合わせて豊臣秀吉による小田原北条氏攻略により常陸南部での北条氏の影響力が失われ、間隙を捉えて佐竹氏の南部進出が果たされ宇都宮仕置きという秀吉の後ろ盾もあってここに佐竹氏は悲願の常陸統一を実現します。<br /><br />常陸国統一を果たした佐竹氏は本拠を太田から水戸に移し54万余石の大大名となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは西軍石田方や東軍家康方から誘いがあったものの態度を鮮明にしない中、合戦が始り結果東軍の勝利に終わります。<br /><br />慶長7年(1602)、大坂城にて家康に謁見を果たし同地滞在中の義重嫡男で当主の義宣(よしのぶ、1570~1633)は突然仙北へ国替の命が発せられます。<br /><br />しかも義宣には限られた家臣の随行のもと、大坂から所領の本拠水戸を経ずにそのまま仙北への直接入封という極めて異例な沙汰でした。この理由は関ケ原合戦には参陣しなかった佐竹氏には無傷の兵力が温存されており、もし義宣を国元に帰せばその戦力を背景に水戸城にて籠城を決めこむなどして反抗に及ぶのではないかといった懸念が家康の胸中にあったものと思われます。<br /><br />佐竹氏転出後は慶長20年(1615)の一国一城令によって太田城は破却されますが、以降城の機能は残され太田御殿と称され、水戸藩付家老である中山氏の管理下に置かれることになります。<br /><br />太田小学校に舞鶴城趾と刻した石碑があり、石碑の裏側に舞鶴城に関する説明があるようですが判読できず、やむなく常陸太田市ホームページよりその説明を代替します。<br /><br /><br />「 舞 鶴 城 (太 田 城)跡<br /><br />舞鶴城は太田城の通称で、佐竹氏約470年間の居城。佐竹氏三代隆義が入城する日に、鶴が城の上空を舞いながら飛んでいたことから「舞鶴城」とよばれるようになりました。<br /><br />その起源は定かではないが、平安末期に藤原秀郷の子孫である通延が、太田大夫と称して築城したのが始りとされます。その後、佐竹氏が秋田に移封されたのに伴い廃城となりました。<br /><br />本郭は現在の太田小学校一帯、二ノ郭は内堀町から若宮八幡宮一帯、三ノ郭は栄町の大半で、搦手は北側にあったとされています。なお、若宮八幡宮の境内には、「太田故城碑」が建っており、当時の名残を留めています。」

常陸太田 清和源氏新羅三郎義光を遠祖とし戦国期に悲願の常陸統一するも関ヶ原では家康に敵とみなされ仙北に左遷された佐竹氏本貫地『太田城』訪問

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2016/08/14 - 2016/08/14

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滝山氏照

滝山氏照さん

太田城(おおたじょう、茨城県常陸太田市中城町)は別名舞鶴城とも称され、JR水郡線(常陸太田支線)常陸太田駅から徒歩約10分、南北に細長く走る台地を進むと太田小学校があり、ここに太田城本丸跡を示す石碑を残すのみで周辺は宅地化が激しく遺構はほとんどありません。

太田城を本拠におく佐竹氏は後三年の役で有名な八幡太郎義家の実弟である新羅三郎義光を祖とする清和源氏の流れをくむ名家で現在の茨城県北部から福島県南部にかけて支配してきた有力氏族です。

佐竹氏は頼朝挙兵の時、同じ源氏一族でありながら木曽義仲と同じように頼朝の動向に呼応せず、その結果治承4年(1180)に頼朝に攻められすべての所領を没収されます。

その後頼朝の関東における覇権が固まると、奥州藤原氏攻略に向かう頼朝に臣従・随陣し、軍功を挙げた事によって先に没収された奥七郡(那珂東・那珂西・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・多珂)の領有回復が許されますが鎌倉時代は御家人ながらも冷遇され、常陸国においても小田・宍戸、大掾らの勢力に押されがちでした。

南北朝期では八代当主貞義(さだよし、1287~1352)は足利尊氏に属し各地で戦功を挙げ、常陸守護職に任命されてその後の佐竹氏発展の基礎が固まり、貞義息子の義篤(よしあつ、1311~1362)は宿敵小田氏を破り常陸北部における支配を確立します。

戦国時代では鬼義重と異名をとる十八代当主義重(よししげ、1547~1612)の代では一族庶流を支城に配し今までにない領土の拡大を実現し大きく飛躍、合わせて豊臣秀吉による小田原北条氏攻略により常陸南部での北条氏の影響力が失われ、間隙を捉えて佐竹氏の南部進出が果たされ宇都宮仕置きという秀吉の後ろ盾もあってここに佐竹氏は悲願の常陸統一を実現します。

常陸国統一を果たした佐竹氏は本拠を太田から水戸に移し54万余石の大大名となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは西軍石田方や東軍家康方から誘いがあったものの態度を鮮明にしない中、合戦が始り結果東軍の勝利に終わります。

慶長7年(1602)、大坂城にて家康に謁見を果たし同地滞在中の義重嫡男で当主の義宣(よしのぶ、1570~1633)は突然仙北へ国替の命が発せられます。

しかも義宣には限られた家臣の随行のもと、大坂から所領の本拠水戸を経ずにそのまま仙北への直接入封という極めて異例な沙汰でした。この理由は関ケ原合戦には参陣しなかった佐竹氏には無傷の兵力が温存されており、もし義宣を国元に帰せばその戦力を背景に水戸城にて籠城を決めこむなどして反抗に及ぶのではないかといった懸念が家康の胸中にあったものと思われます。

佐竹氏転出後は慶長20年(1615)の一国一城令によって太田城は破却されますが、以降城の機能は残され太田御殿と称され、水戸藩付家老である中山氏の管理下に置かれることになります。

太田小学校に舞鶴城趾と刻した石碑があり、石碑の裏側に舞鶴城に関する説明があるようですが判読できず、やむなく常陸太田市ホームページよりその説明を代替します。


「 舞 鶴 城 (太 田 城)跡

舞鶴城は太田城の通称で、佐竹氏約470年間の居城。佐竹氏三代隆義が入城する日に、鶴が城の上空を舞いながら飛んでいたことから「舞鶴城」とよばれるようになりました。

その起源は定かではないが、平安末期に藤原秀郷の子孫である通延が、太田大夫と称して築城したのが始りとされます。その後、佐竹氏が秋田に移封されたのに伴い廃城となりました。

本郭は現在の太田小学校一帯、二ノ郭は内堀町から若宮八幡宮一帯、三ノ郭は栄町の大半で、搦手は北側にあったとされています。なお、若宮八幡宮の境内には、「太田故城碑」が建っており、当時の名残を留めています。」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 水郡線・常陸太田駅<br /><br />水郡線(水戸~郡山)上菅谷駅から分かれた常陸太田支線の終点常陸太田駅で下車します。

    水郡線・常陸太田駅

    水郡線(水戸~郡山)上菅谷駅から分かれた常陸太田支線の終点常陸太田駅で下車します。

  • 常陸太田駅車輪止め<br /><br />いわゆる盲腸線につき常陸太田駅のすぐ先は車輪止めが設置されその先は行けません。

    常陸太田駅車輪止め

    いわゆる盲腸線につき常陸太田駅のすぐ先は車輪止めが設置されその先は行けません。

  • 常陸太田駅舎<br /><br />平成23年(2011)新駅舎として使用開始、徳川光圀公の隠居所である西山壮をイメージしたものだそうで、鉄筋コンクリート一部鉄骨造りの平屋建てとなっています。

    常陸太田駅舎

    平成23年(2011)新駅舎として使用開始、徳川光圀公の隠居所である西山壮をイメージしたものだそうで、鉄筋コンクリート一部鉄骨造りの平屋建てとなっています。

  • 常陸太田市案内地図

    常陸太田市案内地図

  • 常陸太田市案内図(拡大)<br /><br />地図によれば太田城跡は東を南北に流れる里川、西を南北に流れる源氏川に挟まれた南北に走る高台に造られているようです。

    常陸太田市案内図(拡大)

    地図によれば太田城跡は東を南北に流れる里川、西を南北に流れる源氏川に挟まれた南北に走る高台に造られているようです。

  • 常陸太田駅前広場とバス停

    常陸太田駅前広場とバス停

  • 内堀町切通<br /><br />県道293号から内堀町に入る道路は中城町に繋がる切通となっています。

    内堀町切通

    県道293号から内堀町に入る道路は中城町に繋がる切通となっています。

  • 太田進徳幼稚園建物<br /><br />和風の独特な珍しい建物が見えます。

    太田進徳幼稚園建物

    和風の独特な珍しい建物が見えます。

  • 中城町交差点<br /><br />交差点北方には太田小学校が見えます。

    中城町交差点

    交差点北方には太田小学校が見えます。

  • 太田進徳幼稚園

    太田進徳幼稚園

  • 太田小学校グランド

    太田小学校グランド

  • 太田小学校正門<br /><br />太田城を示す石碑は正門を入ったすぐ右側に配されています。

    太田小学校正門

    太田城を示す石碑は正門を入ったすぐ右側に配されています。

  • 舞鶴城(太田城)阯石碑<br /><br />天正18年(1590)佐竹義宣が本拠を水戸城に遷すまで約470年間に亘って佐竹氏の本城でした。義宣が水戸に遷した後は父義重が隠居城として義宣を支えます。

    イチオシ

    舞鶴城(太田城)阯石碑

    天正18年(1590)佐竹義宣が本拠を水戸城に遷すまで約470年間に亘って佐竹氏の本城でした。義宣が水戸に遷した後は父義重が隠居城として義宣を支えます。

  • 舞鶴城(太田城)阯石碑裏面

    舞鶴城(太田城)阯石碑裏面

  • 舞鶴城(太田城)説明

    舞鶴城(太田城)説明

  • 太田小学校敷地

    太田小学校敷地

  • 日下部先生父子事蹟顕彰石碑<br /><br />石碑の場所は天保8年(1837)に水戸藩によって開設された郷校である共習館があった所だそうです。この初代館守が日下部連(くさかべ・むらじ)で水戸藩に認められ同館の館守に取立てられ、連没後は長男伊三治(いさじ)は父を引き継いで館守となって教育にあたっています。

    日下部先生父子事蹟顕彰石碑

    石碑の場所は天保8年(1837)に水戸藩によって開設された郷校である共習館があった所だそうです。この初代館守が日下部連(くさかべ・むらじ)で水戸藩に認められ同館の館守に取立てられ、連没後は長男伊三治(いさじ)は父を引き継いで館守となって教育にあたっています。

  • 聖上御駐躍処の石碑

    聖上御駐躍処の石碑

  • 市街展望<br /><br />太田小学校西端から源氏川方向を一望します。

    市街展望

    太田小学校西端から源氏川方向を一望します。

  • 市街展望

    市街展望

  • 太田小学校グランド<br /><br />太田城主郭にあたる太田小学校を見ても往時の雰囲気は感じられません。

    太田小学校グランド

    太田城主郭にあたる太田小学校を見ても往時の雰囲気は感じられません。

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