2015/10/16 - 2015/10/17
505位(同エリア2327件中)
クッキーさん
午後から ガイドツアーに参加しての姫路城見学。
折角のガイドさんの説明も、今では記憶も薄れ 猫に小判だった部分もありますが、個人では目が届かない部分にまで注意を向けていただいて 有難いものとなりました。
2時間の見学でもまだまだ見たりないほどの姫路城の広さでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
今回も全員が集まりました。
お昼ご飯は簡単に明石焼きをいただきました。関西風のお好みソースではなく、和風スープで食べます。
朝ご飯を食べ過ぎたので半分ほどは友達に。 -
再び歩いて姫路城へ。昨夜から数えてもう3往復もしています。
内堀にかかる桜門橋は 2007年(平成19年)に復元されました。 -
大手門は高麗門となっていますが、これも江戸時代のものではなく1938年(昭和13年)に建てられたものです。
-
三の丸広場から。
-
午前中に歩いた時に見た光景と同じですね。
幹事役の人のお世話で、シニアガイドツアーを受けることになっています。
2000円のガイド料を5人で割り勘です。 -
菱の門東方石垣。左が菱の門です。
-
姫路城をズーム。
-
菱の門は 表玄関にふさわしく格式高い櫓門。片側だけ石垣に乗る 珍しい安土桃山様式の城門です。これは 姫路城でしか見ることのできない様式の門です。
そうぬりこめの白漆喰造り、屋根は本瓦葺きの入り母屋造り、二階にある武者窓や釣り鐘型の火打ち窓に黒漆が塗られ、飾り金具が打たれています。とても重厚な造りで、堂々とした門構えです。
ここで姫路城の瓦の特徴について 説明が始まりました。
滴水瓦(てきすいがわら)という瓦が 天守や菱の門など主要建物に使用されています。
滴水瓦とは雨樋の代わりになるもので 雨水の落ちる先端部分は切り取られて逆三角形になっています。
そして、その下にはちゃんと瓦で作った排水溝があります。(見ていないけど) -
聴きながらも ついついカメラに手が向かいます。
滴水瓦そのものは熊本城など関ヶ原合戦前後に築かれた城で他にも使用が知られています。しかし、その多くが後に和式の瓦へ葺き変えているのに対し、姫路城では現在まで使用されているのだそうです。 -
菱の門。
肝心の滴水瓦が写っていませんね。
滴水瓦は別名高麗瓦と呼ばれています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加し、陶工や瓦職人を連れて帰った加藤清正が熊本城を築いた時、彼ら渡来朝鮮人が滴水瓦を造ったのがその名の由来です。
輝政はその手法を姫路城に取り入れましたが、その瓦を造ったのは地元播州の瓦匠です。
瓦一つとっても 深い歴史があるんですね。 -
いの門。
菱の門から中にはいると、正面にあるのが「いの門」です。びっくりする位に小さな門です。
石垣の上には銃眼がたくさん並んでいます。 -
いの門。
軒の上に見える丸いのが家紋の入った丸瓦で、その間に逆三角形になっているのが滴水瓦です。
丸瓦や滴水瓦には 築城した城主池田家の揚羽蝶(あげはちょう)の家紋や官位を表す桐紋など様々なものがみられるそうです。
光の加減で かろうじて家紋が見えるでしょうか。 -
ろの門。
いの門からさらに中にはいると、正面にあるのが「ろの門」です。こちらも「いの門」同様に小さな門です。
全体の写真が撮れないのは 見学者を写さないようにするため。画像処理ができないので、基本、人物は写せません。 -
ろの門辺り。
-
いかにもお城、という雰囲気です。
-
はの門が見えるこのアングルの姫路城は時代劇によく使われるというのも納得の光景です。
有名どころでは暴れん坊将軍で江戸城として使っていたそうです。 -
正面に見えているのが大天守。
左手の入口が はの門。 -
はの門。
-
姫路城が名城たる由縁の一つが、綿密で巧妙に設計された堀の内にあります。
菱の門から天守に向かおうとすると、5つの門が設けられていて、その門の先には、更に6つの水の門が控えています。そのため、天守にどんどん近づいていたかと思うと、気が付くと遠ざかっていくという不思議な構造になっています。
確かに ここからは天守閣が遠くに見えますね。 -
これは、石垣の色の違い の説明をされた時に撮った一枚だったかな?
細かい説明は記憶になくとも 石垣を見ているだけで満足。 -
ここも何か説明を受けたところ。
-
石垣。
-
石垣。
-
この石積みは 野面積み以上に荒いですね。
-
左側と右側で石垣の色が違っています。
ここでも説明を受けたような気が・・・ -
にの門。
「にの門」の上には櫓があり、内部の通路はL字になっており、門を突破しても進入が難しいように作られています。
実は 石垣の美に気を取られている上に、ぼんやりしていても誘導してもらえるものですから どう歩いたのか記憶はほとんどありません。
ガイドの説明付きというのも 良し悪しです。 -
ガイドさんお勧めの とっておきスポットがここ。
屋根が全て重ならずに見える場所 ということだったと思います。 -
漆喰土塀も一緒にズーム。
手前の漆喰石塀の屋根ってずいぶん黒ずんで見えます。
せっかくの説明なのですから メモでもしておけばよかったのですが、聴いてはうなずき わかったつもりになるだけではだめですね。 -
ガイドさん。
-
ほの門。
「ほの門」は高さ1mほどの穴門形式となっています。本丸に近いため門扉も重厚なものになっています。 -
上方にみえるのは、大天守の北西側にある乾小天守です。乾(北西)の方角にあるからだということです。
-
天守閣の北側にある姫山の北辺は急斜面の原始林で、その上に高さ約10mの石垣が築かれ、西から東へ櫓(やぐら)が連なっています。
この櫓群にある建物は地形に応じて美しいカーブを描き、軒の曲線の連なりがとても優美で、「北腰曲輪」と呼ばれています。
-
北腰曲輪は二層になった「ホの櫓」を中心に「イ」「ロ」「ハ」「ニ」「ヘ」の渡櫓で構成。いずれも籠城のための食糧を貯蔵する倉庫として使われていました。
ここは「ロの渡櫓」。 -
中を覗くと 井戸がありました。
この井戸を拠点に「水ノ一門」から「水ノ六門」までを通って天守に水を運ぶ道も形成されていたそうです。 -
ここら辺りの石垣は薄黒く変色しています。
北側で日当たりが悪く コケやカビが生えるのだそうです。 -
ほの門を入ると、すぐ右に小さな門があります。
姫路城の天守に向かう最後の備えがこの「水の門」です。
敵軍が攻めてきた場合、この門は右斜め後ろに位置しているため死角になります。また門の向こう側が下っていくようにつくられているので、このルートが天守に通じるとは思わないことを狙った造りだそうです。
最初は「水一門(水の一門)」です。右側は油塀といって 秀吉時代のものとされ、城内で一か所だけ残る築地塀だそうですが・・・記憶にも写真にも残せず。
この水一門が、天守閣への最短ルートとなります。
戦時に敵兵がほの門を入ってきた時に死角になる位置にあり、門の向こう側は下りになっています。
他の門に比べみすぼらしく、また向こう側が下りになっているため、天守への道ではないと誤解することを狙ったということです。
侵入してきた敵を欺くために、この門はL字の折れています。 -
カメラはひたすら石垣に向かいます。
-
門はこのあと「水六門(水の六門)」まであるそうです。
それぞれは 狭い門になっており 直角に曲がったり その先が階段となっていたりと、攻める側にとっては攻めにくくなっている構造です・・・
が、いったいどのように これらの門をくぐって行ったのか記憶にないのです。 -
ようやく大天守の真下にたどり着きました。
大天守の屋根の連なり。
入口では靴を脱いでビニール袋に入れて、天守の中に入って行きます。
訪れる人が多いので 靴は自分で保管して、ということなのでしょう。 -
大天守に入場しました。
西の丸と男山方面です。 -
西の丸の全景が見えています。
右上が化粧櫓で それに続く百間廊下、その左上にはルの櫓、ヲの櫓が並び、さらに左には百間廊下入口。
左端がカの櫓で そこから右にずっと続く漆喰石塀に囲まれたところが西の丸ですね。
左中央の石垣の向こうが菱の門。 -
こうして見ると 人の数はあまり多くはないようですが、一時 列が動かないこともありました。
ガイドさんの話によると、この夏の最盛期には この辺りで2時間余り 列が全く動かないほどの混雑ぶりだったそうです。
さすが世界遺産の求心力ですね。 -
姫路城の木組み。
天守閣の内部は、5層6階+地下1階と言う構造になっています。
外から見ると5階建てに見えるのですが、3階と4階部分が外からだと1つの階に見えます。 -
この城は、1333年の元弘の乱(後醍醐天皇と鎌倉幕府の戦い)に応じて、後醍醐天皇に味方するために挙兵した播磨国の守護・赤松則村が姫山に砦を築いたことが始まりだと言われています。
-
その後、室町・戦国時代の 幾多の城主の変遷を経て、黒田氏が城主を務めることになります。
黒田孝高(官兵衛)が14代目の姫路城主に就任したのは1567年の事で、彼はその後6年に渡って城主を務めました。 -
1580年、播磨国の平定に伴い、官兵衛は秀吉に姫路城を献上します。
これにより秀吉が姫路城の15代目の城主となりました。
秀吉は姫路城の大改修を行い、3層の天守閣を築くなどして姫路城を近世城郭の域に押し上げます。城の名前が「姫山城」から「姫路城」に改められたのもこの頃です。 -
1600年には、関ヶ原の戦いでの働きが評価された池田輝政が18代目の姫路城の城主に就任します。家康の娘婿でもある輝政は「豊臣家に縁の深い大名をけん制せよ」という家康の命を受け、1601年から姫路城の大改修を行います。
約8年間に渡って改修を行った結果、姫路城は現在のような美しく、堂々たる城へと生まれ変わります。 -
天井に見えるパイプのようなものは、スプリンクラー用のものだったような・・・
姫路城が西国の要衝であるということから 江戸時代の姫路城はその後、本多氏や奥平松平氏、越前松平氏、榊原氏などの譜代大名が姫路城城主を歴任します。
1749年には酒井忠恭が城主に就任し、以後酒井氏が10代に渡って姫路城城主を務めました。
譜代大名であっても ずーっと同じ城の城主であり続けることができなかったというのはちょっと驚きです。
左遷があったり栄転があったりしたのでしょうか。 -
普段の天守閣は、いざというときのために武器や食料を保管していたための物置というのが最大の目的となります。そしていざというときにその本領が発揮されます。
これほどの天守でも 戦いがなければ宝の持ち腐れでしょうね。 -
江戸城の天守が焼失したとき、徳川秀忠の子であった保科正之が、莫大な金を費やしてまで作る必要はないと主張したそうで、結局江戸時代を通じて再建されませんでした。
-
天井の梁がすごい。
江戸時代に入ると(藩によって違いがあると思いますが)まず、家督を継いだ時に一度天守閣に登り、その後は本丸御殿で暮らす。二度と天守閣には登らないということが多かったそうです。 -
大天守から見た姫路駅方面の眺望です。手前に見えるのが三の丸広場。
駅まで真っ直ぐ続く道路が大手前通り。 -
大天守最上層から見る屋根のシャチホコ。
-
手前から本丸、二の丸、三の丸。
-
内濠の向こうは姫路市立美術館。
-
早朝に訪れた県立歴史博物館の窓ガラスも左端に見えています。
-
武者隠しの入口(たぶん)。
-
姫路城は戦禍を被ることはありませんでしたが、戦国時代にその基礎を築き 秀吉の時代を経てきたものですから、十分に戦を想定した造りになったのでしょうね。
-
最上階には、姫山の守護神である長壁神社(刑部神社)がありますが、天守に神社があるのは現存天守としては姫路城が唯一なのだそうです。
写真に収めるつもりが、人の姿を入れずには撮れないようなので あきらめました。
眼前には いずれかの小天守。屋根の色が全く違います。 -
ここも武者溜りだったかしら?
-
ここにもスプリンクラーの設置。
-
大工さんの署名。
-
こちらは文字というよりただの印っぽいです。
-
こちらはちゃんとした署名です。
ガイドさんが指し示していますから 説明を受けたはず。 -
せっかくののお城見学なのに 天守の内部にはあまり関心がない分、記憶が薄いようです。
-
大きな「流し」。
たぶん台所用だったと思うのですが。 -
本丸(備前丸)から。
左から乾小天守、西小天守、大天守。
天守の石垣は、隙間が少なく加工した石を使う「打込みハギ」で、角を下にした「落し積み」(谷積み)も混じる「乱積み」というのだそうです。 -
本丸から大天守を。
天守の屋根には、弓なりの唐破風や、山なりの千鳥破風、破風下の出格子などが設けられ、天守の外観を美しく飾っています。
それにしても やはり大天守の下の石組みは背が高すぎるように感じます。 -
大天守と西小天守をズーム。
西小天守に見える煌びやかな窓は 黒漆塗り、金箔金具で飾られた装飾性の高い火灯窓(かとうまど)。菱の門と同じですね。乾小天守にも見られるそうです。
この窓は 本来は禅宗寺院の仏殿など寺院建築に用いられ 高貴な建築物の象徴として使われたものだそうです。 -
大天守の窓は 敵の侵入や矢玉を防ぐため、太い格子がはめられた幅半間の格子窓になっています。
-
まだまだガイドさんの説明が続きます。
大天守を出て、備前門へ。備前丸への入口の門なので現在こう呼ばれていますが、これも江戸時代に東入口門なんていう地味な呼ばれ方だったようです。
門の見所は、右側の鏡柱のすぐ脇の石垣の、大きな縦長の石。これは、かつては古代の石棺を転用されていた石垣です。
門扉だけでなく、柱や梁もすべて鉄板で覆われています。
また、平時にはこの門が居館のお勝手口的な役割をしていたようです。
この2階部分は、折廻櫓(おれまわりやぐら)の2階と直接つながって、内部で行き来できるようになっています。 -
やはり 気になるのは その脇の石垣の姿。
-
りの門を内側から見たところ。小さな高麗門です。
このりノ門は、姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが証拠によって裏付けられている建物です。 -
門を出てりの門を振り返って。
-
石垣に転用されていた石棺の説明。
備前丸の東側石垣に積石として転用されていたもの。
石棺は中が空洞なので強度に問題があるため、凝灰岩を同じ大きさに加工した新しい石材が使われています。 -
かつては石垣の積石だった石棺です。
姫路周辺にあった古墳から掘り出して転用したのでしょう。。 -
二の丸にはお菊井戸もありますが
多くの人に取り囲まれていて、シャッターチャンスを逃しました。 -
ぬの門近くにある展示品でひと際目をひくのが、こちらの3つの大きなしゃちほこ。これらは、各時代に飾られたしゃちほこが並べられています。
-
様式とか形は決まっているものだと思っていましたが、職人さんの好み?などによって造られるそうで、時期によって形が変わっているそうです。
こちらは平成の鯱。 -
ぬの門。
厳重な守備力を持った門で、本丸へ上ってきたときに通った にの門と並ぶ姫路城随一の鉄壁の守りを誇っています。
ぬノ門の扉、柱、冠木などはすべて鉄板で覆われています。また、櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっていますが、この形の櫓門はかつて金沢城、彦根城、津山城、伊予松山城にもありましたが、現存例では日本でここだけ、という貴重なものです。 -
ぬの門を出た所に見られる そそり立っている高い石垣は、備前丸の石垣です。
-
扇の勾配と云われるもので、開いた扇の曲線に似ていることから名付けられた石垣です。
稜線が実にきれいに弧を描いて積まれています。
角の石は長方形の石の長辺と単辺を交互に積み重ねていく、いわゆる算木積みというものです。 -
いずれも、石垣が内部からの圧力で前方にはらみ出すのをおさえて、うまく力を分散させる積み方の工夫です。
この技術が開発されたことによって、石垣を飛躍的に高く積むことができるようになりました。 -
るの門は 石垣そのものをくりぬくタイプの埋門です。敵がこちらに向かってくるようなら、石垣自体を崩して門を埋めてしまうことができます。
菱の門の東側にありますが、菱の門の辺りからは見えないようになっています。 -
ほぼ2時間のガイドツアーも終了です。
-
右から大天守、西小天守、乾小天守。
いただいたパンフレットにも このアングルからの姫路城が載っていました。
明治時代の廃城令によって、これほどの城が 一時 個人に売却されたことがあったなんて信じられないほどです。 -
大天守と西小天守。
天守と二基以上の小天守(または隅櫓)を中庭を取り囲むように口字状に建て、それらを渡櫓で連結した形式・・・なのだそうですが、その中庭と云われるものが どの辺りだったのか?
ドローンでも使って 上からの俯瞰もしてみたい姫路城見学でした。
姫路城の詳細については 下記のサイトが有用です。
http://himejicastle-tour.jp/?page_id=44
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
クッキーさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
87