高野山周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
高野山彷徨のフィナーレを飾るのは、少し本流から外れたマイナーなスポットですが、それぞれに趣が深く魅力あふれるエリアのアラカルト版です。<br />とはいえ、大門と徳川家霊台は世界遺産の一角を占めます。日光東照宮を建立している最中に高野山でも家康と忠秀の霊屋の建立が進められていたとは、歴史的にも興味深い所です。霊屋の煌びやかな装飾や彫刻は、日光東照宮を意識したものだったのかも知れません。<br />蓮華定院は、関ヶ原の戦い後、真田昌幸・信繁父子が蟄居させられた宿坊です。高野山に真田家の家紋「六文銭」が躍る姿は、歴史ファンなら必見です。宿坊の近くには真田信之・信政の墓所もあり、宿泊客でなくてもお参りすることができます。また、真田父子が蟄居を命じられた寺院の近所に徳川家霊台があるのも不思議な縁としか言いようがありません。勿論、真田父子が蟄居していた頃は、徳川家霊台は影も形もなかったはずですが…。<br />最後に訪れたのが女人堂でした。しっとりと雨に濡れたその姿には、とても女性的なものが感じれられました。ひょっとするとこの雨はご褒美だったのかもしれません。女人堂は、女人禁制が解かれるまで、その入口に高野山に入れない女性が祈願できるように山の外に参籠所を建てたものです。往時の女性の信仰の篤さには頭が下がる思いです。<br />メジャーの奥の院や壇上伽藍、金剛峯寺以外にも高野山には魅力的なスポットが沢山あることが伝われば幸いです。

九夏三伏 高野山彷徨⑤徳川家霊台・蓮華定院・女人堂(エピローグ)

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2016/07/28 - 2016/07/28

2位(同エリア1142件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

高野山彷徨のフィナーレを飾るのは、少し本流から外れたマイナーなスポットですが、それぞれに趣が深く魅力あふれるエリアのアラカルト版です。
とはいえ、大門と徳川家霊台は世界遺産の一角を占めます。日光東照宮を建立している最中に高野山でも家康と忠秀の霊屋の建立が進められていたとは、歴史的にも興味深い所です。霊屋の煌びやかな装飾や彫刻は、日光東照宮を意識したものだったのかも知れません。
蓮華定院は、関ヶ原の戦い後、真田昌幸・信繁父子が蟄居させられた宿坊です。高野山に真田家の家紋「六文銭」が躍る姿は、歴史ファンなら必見です。宿坊の近くには真田信之・信政の墓所もあり、宿泊客でなくてもお参りすることができます。また、真田父子が蟄居を命じられた寺院の近所に徳川家霊台があるのも不思議な縁としか言いようがありません。勿論、真田父子が蟄居していた頃は、徳川家霊台は影も形もなかったはずですが…。
最後に訪れたのが女人堂でした。しっとりと雨に濡れたその姿には、とても女性的なものが感じれられました。ひょっとするとこの雨はご褒美だったのかもしれません。女人堂は、女人禁制が解かれるまで、その入口に高野山に入れない女性が祈願できるように山の外に参籠所を建てたものです。往時の女性の信仰の篤さには頭が下がる思いです。
メジャーの奥の院や壇上伽藍、金剛峯寺以外にも高野山には魅力的なスポットが沢山あることが伝われば幸いです。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 大門<br />壇上伽藍の中門からは、緩い坂を上って徒歩10分程の距離です。<br />高野山の西端に聳え立つ大門は重文に指定された総門であり、この門こそが高野山の表玄関であり、聖域の結界です。九度山の慈尊院からの20km超に亘る表参道を歩いてきた巡礼者たちが、高野山で最初に目にするものです。威風堂々とした門構えには、畏敬の念を抱かずにはいられません。<br />開創当時は現在の地より少し下った九十九折谷に鳥居が建てられ、それを総門と称していたそうです。現在のものは1705(宝永2)年に再建されたもので、1986年に全面解体修理が行われ、素木造りからかつての朱塗りの姿に戻されました。深い碧の杉や檜の木立に映える朱の楼門の雄姿は壮観です。<br />この場所は眺望もよく、天気が良ければ遠くにある四国や淡路島、六甲山まで望むことができます。また、門周辺から望む夕日も抜群で、「日本の夕陽百選」スポットに選ばれているほどです。<br />大門の横手には、山頂に空海が勧請した嶽弁才天が祀られている弁天岳への登山口があります。

    大門
    壇上伽藍の中門からは、緩い坂を上って徒歩10分程の距離です。
    高野山の西端に聳え立つ大門は重文に指定された総門であり、この門こそが高野山の表玄関であり、聖域の結界です。九度山の慈尊院からの20km超に亘る表参道を歩いてきた巡礼者たちが、高野山で最初に目にするものです。威風堂々とした門構えには、畏敬の念を抱かずにはいられません。
    開創当時は現在の地より少し下った九十九折谷に鳥居が建てられ、それを総門と称していたそうです。現在のものは1705(宝永2)年に再建されたもので、1986年に全面解体修理が行われ、素木造りからかつての朱塗りの姿に戻されました。深い碧の杉や檜の木立に映える朱の楼門の雄姿は壮観です。
    この場所は眺望もよく、天気が良ければ遠くにある四国や淡路島、六甲山まで望むことができます。また、門周辺から望む夕日も抜群で、「日本の夕陽百選」スポットに選ばれているほどです。
    大門の横手には、山頂に空海が勧請した嶽弁才天が祀られている弁天岳への登山口があります。

  • 大門 金剛力士像(吽形)<br />高さ25mの間三戸の堂々たる二重門(二層門)で、両脇には東大寺南大門の仁王像に次ぐ阿形像・吽形像の金剛力士像を配した、五間三戸の二階二層門、高さ25.1mの丹塗り重層の大楼門です。<br />左側に立つのが吽形像で高さ5.58m、江戸時代に京都の法橋運長が造立したものです。

    大門 金剛力士像(吽形)
    高さ25mの間三戸の堂々たる二重門(二層門)で、両脇には東大寺南大門の仁王像に次ぐ阿形像・吽形像の金剛力士像を配した、五間三戸の二階二層門、高さ25.1mの丹塗り重層の大楼門です。
    左側に立つのが吽形像で高さ5.58m、江戸時代に京都の法橋運長が造立したものです。

  • 大門 金剛力士像(阿形)<br />右側に立つのが阿形像でその高さは5.46m、京都の仏師 康意が造立したものです。密教を意識したのか、独鈷杵を持たせています。<br />康意、法橋運長共に鎌倉時代に活躍した運慶・快慶の流れをくむ江戸時代の名工だと言われています。<br />いずれも非常にダイナミックな像で躍動感があり、今にも動き出しそうで圧倒的な存在感です。<br /><br />高野山駅までバスで行く際には、千手院橋バス停(東口)まで戻ると本数が多く便利です。千手院橋バス停(西口)に止まる大門発のバスは1時間に1本の割合ですので時間を読みながら行動する必要があります。

    大門 金剛力士像(阿形)
    右側に立つのが阿形像でその高さは5.46m、京都の仏師 康意が造立したものです。密教を意識したのか、独鈷杵を持たせています。
    康意、法橋運長共に鎌倉時代に活躍した運慶・快慶の流れをくむ江戸時代の名工だと言われています。
    いずれも非常にダイナミックな像で躍動感があり、今にも動き出しそうで圧倒的な存在感です。

    高野山駅までバスで行く際には、千手院橋バス停(東口)まで戻ると本数が多く便利です。千手院橋バス停(西口)に止まる大門発のバスは1時間に1本の割合ですので時間を読みながら行動する必要があります。

  • 波切不動尊 南院<br />全国に祀られている浪切不動尊の元祖 総本家が、ここ南院の浪切不動明尊です。護摩修行の道場「東大寺 南院」の住職だった子島寺の真興(しんぎょう)が建立したことからこの名があります。壇上伽藍の丁度裏側にあり、近畿三十六不動霊場の結願寺となる性格ゆえか、おもてなしの精神でやさしく迎え入れていただけるお寺です。作家 家田荘子女史は、「高野山という高貴な場所にあるお寺ですが、ホッとする雰囲気を携えたお寺」と感想を述べられています。

    波切不動尊 南院
    全国に祀られている浪切不動尊の元祖 総本家が、ここ南院の浪切不動明尊です。護摩修行の道場「東大寺 南院」の住職だった子島寺の真興(しんぎょう)が建立したことからこの名があります。壇上伽藍の丁度裏側にあり、近畿三十六不動霊場の結願寺となる性格ゆえか、おもてなしの精神でやさしく迎え入れていただけるお寺です。作家 家田荘子女史は、「高野山という高貴な場所にあるお寺ですが、ホッとする雰囲気を携えたお寺」と感想を述べられています。

  • 波切不動尊 南院<br />本尊は、空海が恵果阿闍梨から授かった霊木「赤栴檀(しゃくせんだん)」で彫ったと伝わる浪切不動明王像(重文)です。かつては山王院に安置されていましたが、平安時代の南院住職維範大徳の時代にここに移されました。山外不出の秘仏であり、6月28日のみのご開帳です。<br />空海が唐からの帰路に嵐に遭い、船が難破しそうになった時、その嵐を鎮めるために師の恵果和尚から授かった霊木に自ら「一刀三礼」にて不動明王を刻ざんで無事を祈願すると、不動明王が火炎を放ち、利剣で波を切り裂いて航路をつくり、空海一行を導きました。この伝説が「波切不動」の名の由来です。その後も平将門の乱や元寇の役など、国難の度に霊験あらたかだったようです。

    波切不動尊 南院
    本尊は、空海が恵果阿闍梨から授かった霊木「赤栴檀(しゃくせんだん)」で彫ったと伝わる浪切不動明王像(重文)です。かつては山王院に安置されていましたが、平安時代の南院住職維範大徳の時代にここに移されました。山外不出の秘仏であり、6月28日のみのご開帳です。
    空海が唐からの帰路に嵐に遭い、船が難破しそうになった時、その嵐を鎮めるために師の恵果和尚から授かった霊木に自ら「一刀三礼」にて不動明王を刻ざんで無事を祈願すると、不動明王が火炎を放ち、利剣で波を切り裂いて航路をつくり、空海一行を導きました。この伝説が「波切不動」の名の由来です。その後も平将門の乱や元寇の役など、国難の度に霊験あらたかだったようです。

  • 波切不動尊 南院<br />香炉にしがみついている狛犬のけなげな表情が、何とも可愛らしいです。<br />それで、「よくがんばったね!」と頭を撫でられ、ピッカピカに光り輝いているのでしょうね!

    波切不動尊 南院
    香炉にしがみついている狛犬のけなげな表情が、何とも可愛らしいです。
    それで、「よくがんばったね!」と頭を撫でられ、ピッカピカに光り輝いているのでしょうね!

  • 波切不動尊 南院<br />拝殿の天井には巨大な白龍が描かれ、これが通称「鳴龍」と呼ばれる天井画です。浪切不動明王の化身とも言われ、仏典に登場する龍神「八大龍王」を吉田高嶺が描いた『浪切龍天井』です。空海絡みであれば、善女龍王ということでしょうか?<br />龍の両目の中央真下で柏手を打つと、天井と床が共鳴して鈴の鳴るような心地よい音が響きます。

    波切不動尊 南院
    拝殿の天井には巨大な白龍が描かれ、これが通称「鳴龍」と呼ばれる天井画です。浪切不動明王の化身とも言われ、仏典に登場する龍神「八大龍王」を吉田高嶺が描いた『浪切龍天井』です。空海絡みであれば、善女龍王ということでしょうか?
    龍の両目の中央真下で柏手を打つと、天井と床が共鳴して鈴の鳴るような心地よい音が響きます。

  • 波切不動尊 南院<br />「鳴龍」の原理は、2枚の硬い板が平行に並んでいる間を音波が繰り返し跳ね返ることで起こり、専門用語で「フラッター・エコー」と言います。天井を凹レンズ状に湾曲させて音波が床に当たる箇所を集中させ、音を逃がさない仕掛けです。トンネルの中で手を叩くのと同じ効果です。<br />また、この「鳴龍」は、スタジオジブリ作品『千と千尋の神隠し』に登場する「ハク」の化身のような「血の涙を流す白龍の神」だとネットで話題になりました。確かに右目の塗料の剥落は、「血の涙」を彷彿とさせます。

    波切不動尊 南院
    「鳴龍」の原理は、2枚の硬い板が平行に並んでいる間を音波が繰り返し跳ね返ることで起こり、専門用語で「フラッター・エコー」と言います。天井を凹レンズ状に湾曲させて音波が床に当たる箇所を集中させ、音を逃がさない仕掛けです。トンネルの中で手を叩くのと同じ効果です。
    また、この「鳴龍」は、スタジオジブリ作品『千と千尋の神隠し』に登場する「ハク」の化身のような「血の涙を流す白龍の神」だとネットで話題になりました。確かに右目の塗料の剥落は、「血の涙」を彷彿とさせます。

  • 波切不動尊 南院<br />真興は、平安時代中期の真言宗の僧で、子島僧都・子島先徳とも称されます。興福寺仲算に法相教学を学び、後に吉野の仁賀から密教の法を受けました。初め壺坂寺に、その後子嶋寺の住職となって寺内に観覚寺を創建し、東密子島流を開きました。また、一条天皇の病気平癒を祈願し、子島寺両界曼荼羅図を賜ったとも伝わっています。

    波切不動尊 南院
    真興は、平安時代中期の真言宗の僧で、子島僧都・子島先徳とも称されます。興福寺仲算に法相教学を学び、後に吉野の仁賀から密教の法を受けました。初め壺坂寺に、その後子嶋寺の住職となって寺内に観覚寺を創建し、東密子島流を開きました。また、一条天皇の病気平癒を祈願し、子島寺両界曼荼羅図を賜ったとも伝わっています。

  • 波切不動尊 南院<br />金網が張られていて見え難いのですが、ここにも2頭の龍が潜んでいます。

    波切不動尊 南院
    金網が張られていて見え難いのですが、ここにも2頭の龍が潜んでいます。

  • 徳川家霊台<br />波切不動尊のお隣にあります。<br />高野山の奥の院には弘法大師御廟への参道沿いに多くの戦国武将や江戸時代の大名達の霊が鎮まっていますが、意外なことに著名な戦国武将の墓所がそこにはありません。その墓所は、奥の院のある高野山の東側ではなく、正反対の西側のここにあります。<br />1643(寛永20)年、3代将軍家光が大檀主となって20年の歳月をかけて落成させた江戸時代の代表的な霊屋(たまや)です。ひっそりと佇む徳川家霊台は、大振りなものではありませんが、右が東照宮(家康霊屋)、左が御霊屋(秀忠霊屋)となります。かつては大徳院の境内だった場所に、現在はこの建物だけがポツンと取り残されています。大徳院は高野聖派の代表寺院で代々徳川家と深い繋がりがあったそうですが、明治時代に入り他の寺院と合祀されたため現存していません。<br />江戸時代前期を代表する霊廟建築物であり、重文、そして世界遺産でもあります。

    徳川家霊台
    波切不動尊のお隣にあります。
    高野山の奥の院には弘法大師御廟への参道沿いに多くの戦国武将や江戸時代の大名達の霊が鎮まっていますが、意外なことに著名な戦国武将の墓所がそこにはありません。その墓所は、奥の院のある高野山の東側ではなく、正反対の西側のここにあります。
    1643(寛永20)年、3代将軍家光が大檀主となって20年の歳月をかけて落成させた江戸時代の代表的な霊屋(たまや)です。ひっそりと佇む徳川家霊台は、大振りなものではありませんが、右が東照宮(家康霊屋)、左が御霊屋(秀忠霊屋)となります。かつては大徳院の境内だった場所に、現在はこの建物だけがポツンと取り残されています。大徳院は高野聖派の代表寺院で代々徳川家と深い繋がりがあったそうですが、明治時代に入り他の寺院と合祀されたため現存していません。
    江戸時代前期を代表する霊廟建築物であり、重文、そして世界遺産でもあります。

  • 徳川家霊台 眠り猫???<br />日光東照宮の「奥宮」の入り口にある左甚五郎作『眠り猫』に対抗している訳ではないのでしょうが、受付の窓口で気持ちよさそうにお昼寝の真っ最中でした。<br />現在は金剛峯寺が所管しており、拝観時間は、8:30〜16:30です。<br />ここで拝観料200円を支払って入場します。<br /><br />高野山霊宝館のHPです。霊屋の内棟の写真もあります。<br />http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/kenzobutsu/tokugawa.html

    徳川家霊台 眠り猫???
    日光東照宮の「奥宮」の入り口にある左甚五郎作『眠り猫』に対抗している訳ではないのでしょうが、受付の窓口で気持ちよさそうにお昼寝の真っ最中でした。
    現在は金剛峯寺が所管しており、拝観時間は、8:30〜16:30です。
    ここで拝観料200円を支払って入場します。

    高野山霊宝館のHPです。霊屋の内棟の写真もあります。
    http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/kenzobutsu/tokugawa.html

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />2つの霊屋は比較的コンパクトな堂宇ですが、建造には実に10年の歳月を要したそうです。丁度、日光東照宮の大改築が行われていた頃、ここ高野山でもこの徳川将軍家の豪華な霊屋が造られていたとは不思議なことです。<br />家康霊屋は、「東照宮」として祀っているため、このように鳥居が建てられています。

    徳川家霊台 家康霊屋
    2つの霊屋は比較的コンパクトな堂宇ですが、建造には実に10年の歳月を要したそうです。丁度、日光東照宮の大改築が行われていた頃、ここ高野山でもこの徳川将軍家の豪華な霊屋が造られていたとは不思議なことです。
    家康霊屋は、「東照宮」として祀っているため、このように鳥居が建てられています。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />門の梁には「三つ葉葵」が燦然と輝いています。思わず一礼せずにはいられない雰囲気です。<br />「大徳院」は、代々徳川家との関係が深く、1536(天文5)年には家康の祖父に当たる松平清康の納骨が行われています。1594(文禄3)年の家康の高野山参詣を機にそれまでの「蓮華院」を弘法大師の「大」と徳川の「徳」を合わせて「大徳院」と改められたと言われています。まさしく徳川ありきの寺院と言えます。以後、近世までは徳川家の菩提寺であり、高野山における徳川家の宿坊でした。<br />大徳院は明治になり、総本山金剛峯寺の東隣に移転し「蓮花院」に名前を戻しています。

    徳川家霊台 家康霊屋
    門の梁には「三つ葉葵」が燦然と輝いています。思わず一礼せずにはいられない雰囲気です。
    「大徳院」は、代々徳川家との関係が深く、1536(天文5)年には家康の祖父に当たる松平清康の納骨が行われています。1594(文禄3)年の家康の高野山参詣を機にそれまでの「蓮華院」を弘法大師の「大」と徳川の「徳」を合わせて「大徳院」と改められたと言われています。まさしく徳川ありきの寺院と言えます。以後、近世までは徳川家の菩提寺であり、高野山における徳川家の宿坊でした。
    大徳院は明治になり、総本山金剛峯寺の東隣に移転し「蓮花院」に名前を戻しています。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />江戸時代初期の代表的霊廟建築として「東の日光東照宮、西の高野山徳川家霊台」と称されるほど、絢爛を極めたもので重文に指定されています。<br />共に方桁行三間、梁間三間の一重宝形造、瓦棒銅板葺、前方に唐破風向拝が付けられた建築様式です。外部は素木で唐様(禅宗様式)の仏殿造りとなっており、素朴な佇まいながら、優雅で繊細な装飾や彫刻が施され、格式の高さが感じられます。<br />

    徳川家霊台 家康霊屋
    江戸時代初期の代表的霊廟建築として「東の日光東照宮、西の高野山徳川家霊台」と称されるほど、絢爛を極めたもので重文に指定されています。
    共に方桁行三間、梁間三間の一重宝形造、瓦棒銅板葺、前方に唐破風向拝が付けられた建築様式です。外部は素木で唐様(禅宗様式)の仏殿造りとなっており、素朴な佇まいながら、優雅で繊細な装飾や彫刻が施され、格式の高さが感じられます。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />日光東照宮家康霊屋は、家康が信仰していた薬師如来像を安置するため、薬師堂とも呼ばれています。<br />かつてはこの東に家光以降の将軍や御三家を祀る尊牌堂があったそうですが、残念なことに1888(明治22)年に焼失しています。

    徳川家霊台 家康霊屋
    日光東照宮家康霊屋は、家康が信仰していた薬師如来像を安置するため、薬師堂とも呼ばれています。
    かつてはこの東に家光以降の将軍や御三家を祀る尊牌堂があったそうですが、残念なことに1888(明治22)年に焼失しています。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />家康は寅年生まれですから、蟇股には虎が彫られ、その両脇を麒麟という霊獣が固めています。中国の神話では、聖人が良い政治を行うと麒麟が現れるとされています。

    徳川家霊台 家康霊屋
    家康は寅年生まれですから、蟇股には虎が彫られ、その両脇を麒麟という霊獣が固めています。中国の神話では、聖人が良い政治を行うと麒麟が現れるとされています。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />金襴豪華な日光東照宮に比べると素木造りの霊廟は見劣りしますが、権力の象徴として彫刻や金具の装飾をふんだんに施しています。<br />金ピカに惑わされてしまったのか、オートフォーカスが甘くなっています。雨に濡れたせいでしょうか?

    徳川家霊台 家康霊屋
    金襴豪華な日光東照宮に比べると素木造りの霊廟は見劣りしますが、権力の象徴として彫刻や金具の装飾をふんだんに施しています。
    金ピカに惑わされてしまったのか、オートフォーカスが甘くなっています。雨に濡れたせいでしょうか?

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />一見地味ですが、飾り金具を重ね張りにし、建物全体に彫刻を施した豪華な作りとなっています。<br />赤い枠内に彫られた鳳凰は、軒下に彫られている麒麟と同様に中国の伝説上の霊獣で、唐獅子も中国伝来の獅子に日本独特のアレンジが加えられた霊獣に準ずるものです。

    徳川家霊台 家康霊屋
    一見地味ですが、飾り金具を重ね張りにし、建物全体に彫刻を施した豪華な作りとなっています。
    赤い枠内に彫られた鳳凰は、軒下に彫られている麒麟と同様に中国の伝説上の霊獣で、唐獅子も中国伝来の獅子に日本独特のアレンジが加えられた霊獣に準ずるものです。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />扉に施された天女像のズームアップです。<br />左の天女は横笛を吹き、右の天女は琴をつま弾いています。

    徳川家霊台 家康霊屋
    扉に施された天女像のズームアップです。
    左の天女は横笛を吹き、右の天女は琴をつま弾いています。

  • 徳川家霊台 家康霊屋<br />内棟は壁面に極彩色の絵を描き、天井は折上小組格天井、贅を凝らした金蒔絵を施した唐様須弥壇の上には入母屋造妻入、唐破風の一間厨子で絢爛豪華な装飾になっているそうです。<br />しかし、残念ながら、それらは非公開です。(毎年、10月の数日だけの特別開帳)

    徳川家霊台 家康霊屋
    内棟は壁面に極彩色の絵を描き、天井は折上小組格天井、贅を凝らした金蒔絵を施した唐様須弥壇の上には入母屋造妻入、唐破風の一間厨子で絢爛豪華な装飾になっているそうです。
    しかし、残念ながら、それらは非公開です。(毎年、10月の数日だけの特別開帳)

  • 徳川家霊台 秀忠霊屋<br />台徳院秀忠霊屋は、歴代将軍の位牌を納めているため、位牌堂とも呼ばれています、<br />

    徳川家霊台 秀忠霊屋
    台徳院秀忠霊屋は、歴代将軍の位牌を納めているため、位牌堂とも呼ばれています、

  • 徳川家霊台 秀忠霊屋<br />形と大きさは、家康霊屋と変わりません。<br />いずれの霊屋も野晒にされているため、色彩が落ちているのが少々残念なところです。<br />

    徳川家霊台 秀忠霊屋
    形と大きさは、家康霊屋と変わりません。
    いずれの霊屋も野晒にされているため、色彩が落ちているのが少々残念なところです。

  • 徳川家霊台 秀忠霊屋<br />関ヶ原の戦いに際し、家康率いる東軍や豊臣方の諸大名は東海道を進みましたが、秀忠率いる3万8000人の軍勢は別働隊として中山道を進みました。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城が立ちはだかったことが、初陣の秀忠にとっての不運でした。秀忠の軍勢は4万近い大軍ですから、まさか田舎の小大名の真田家(軍勢3500人)に負けるはずがないと誰もが考えました。しかし、一気に城内へと攻め入ろうとする秀忠軍は、鉄砲隊の猛攻撃に遭い、城内でも鉄砲弾と矢が降り注ぎ、わずか1日で敗れました。<br />秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぎましたが、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして関ヶ原に到着したのは9月19日、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯したのです。この失態に家康は激怒し、秀忠に暫くは対面することすら許さなかったそうです。

    徳川家霊台 秀忠霊屋
    関ヶ原の戦いに際し、家康率いる東軍や豊臣方の諸大名は東海道を進みましたが、秀忠率いる3万8000人の軍勢は別働隊として中山道を進みました。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城が立ちはだかったことが、初陣の秀忠にとっての不運でした。秀忠の軍勢は4万近い大軍ですから、まさか田舎の小大名の真田家(軍勢3500人)に負けるはずがないと誰もが考えました。しかし、一気に城内へと攻め入ろうとする秀忠軍は、鉄砲隊の猛攻撃に遭い、城内でも鉄砲弾と矢が降り注ぎ、わずか1日で敗れました。
    秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぎましたが、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして関ヶ原に到着したのは9月19日、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯したのです。この失態に家康は激怒し、秀忠に暫くは対面することすら許さなかったそうです。

  • 徳川家霊台 秀忠霊屋<br />秀忠は卯年生まれですから、蟇股には兎が彫られ、その両脇が虎です。<br />洞察力の鋭い方は、虎が兎を襲う処と察せられているかもしれませんが、そうではなく、「兎=秀忠」が両脇の「虎=家康」に守られていることを象徴したものだそうです。<br />装飾のような彫刻も、職人の腕や幕府の権力を見せ付けるためだけのものではなく、それぞれに意味があります。例えば兎は、子供を一度に沢山産むことから、豊作や子孫繁栄の象徴ともされています。

    徳川家霊台 秀忠霊屋
    秀忠は卯年生まれですから、蟇股には兎が彫られ、その両脇が虎です。
    洞察力の鋭い方は、虎が兎を襲う処と察せられているかもしれませんが、そうではなく、「兎=秀忠」が両脇の「虎=家康」に守られていることを象徴したものだそうです。
    装飾のような彫刻も、職人の腕や幕府の権力を見せ付けるためだけのものではなく、それぞれに意味があります。例えば兎は、子供を一度に沢山産むことから、豊作や子孫繁栄の象徴ともされています。

  • 徳川家霊台 秀忠霊屋<br />こちらも何故かオートフォーカスが甘くなっています。<br />何か曰くでもあるのかと勘ぐってしまいます。

    徳川家霊台 秀忠霊屋
    こちらも何故かオートフォーカスが甘くなっています。
    何か曰くでもあるのかと勘ぐってしまいます。

  • 徳川家霊台 秀忠霊屋<br />家康の霊台の彫刻とは微妙に違えてあります。

    徳川家霊台 秀忠霊屋
    家康の霊台の彫刻とは微妙に違えてあります。

  • 徳川 家霊台 秀忠霊屋透塀(瑞垣)<br />裏手は深い山林になっており、柔らかい風が吹き降ろし、その静寂の中に時折ヒグラシが神聖な雰囲気を醸します。<br />往時を思うに、戦国武将や大名には「奥の院」に墓所を造営させ、徳川将軍家は別格だということを見せ付ける意図があったのかと勘ぐってしまうほどです。<br />しかし今となっては、往時周囲にあった大徳院の伽藍はすっかり焼失してしまい、この徳川家霊台だけがポツンと寂しく佇む風景に、哀愁が漂っています。奥の院の方が沢山の同時代の武将や大名たちと一緒の空間を共有でき、賑やかなのではないのか…。そんなことに思いを馳せながら、土砂降りの雨の中、徳川家霊台を後にしました。<br />滂沱で景色が白く曇っています。

    徳川 家霊台 秀忠霊屋透塀(瑞垣)
    裏手は深い山林になっており、柔らかい風が吹き降ろし、その静寂の中に時折ヒグラシが神聖な雰囲気を醸します。
    往時を思うに、戦国武将や大名には「奥の院」に墓所を造営させ、徳川将軍家は別格だということを見せ付ける意図があったのかと勘ぐってしまうほどです。
    しかし今となっては、往時周囲にあった大徳院の伽藍はすっかり焼失してしまい、この徳川家霊台だけがポツンと寂しく佇む風景に、哀愁が漂っています。奥の院の方が沢山の同時代の武将や大名たちと一緒の空間を共有でき、賑やかなのではないのか…。そんなことに思いを馳せながら、土砂降りの雨の中、徳川家霊台を後にしました。
    滂沱で景色が白く曇っています。

  • 蓮華定院 山門<br />徳川家霊台から徒歩5分程の距離にありますが、たった5分がこれほど長いものとは思いもしませんでした。山門に下げられた真田家の家紋「六文銭」が記された提灯が見えた時は、内心ホッとしました。<br />高野山の町外れの一心院谷という地区にあります。今から800年ほど前の鎌倉時代初期に行勝上人が開基した寺院です。当初は高野聖方の一本拠との格式にあり、その前身は奥の院の念仏坊だったそうです。一見近寄りがたい雰囲気は、こうした処から湧き出しているのかもしれません。その後、200年ほど時代を下った室町時代後期に、信州真田家をはじめとする信濃国の佐久・小県両郡の豪族と「檀縁」と呼ばれる宿坊契約が結ばれました。当時は、高野山に詣でる滞在所として利用されたそうです。<br /><br />蓮華定院を紹介されているサイトです。上段の間の写真も掲載されています。<br />http://guide.travel.co.jp/article/12672/

    蓮華定院 山門
    徳川家霊台から徒歩5分程の距離にありますが、たった5分がこれほど長いものとは思いもしませんでした。山門に下げられた真田家の家紋「六文銭」が記された提灯が見えた時は、内心ホッとしました。
    高野山の町外れの一心院谷という地区にあります。今から800年ほど前の鎌倉時代初期に行勝上人が開基した寺院です。当初は高野聖方の一本拠との格式にあり、その前身は奥の院の念仏坊だったそうです。一見近寄りがたい雰囲気は、こうした処から湧き出しているのかもしれません。その後、200年ほど時代を下った室町時代後期に、信州真田家をはじめとする信濃国の佐久・小県両郡の豪族と「檀縁」と呼ばれる宿坊契約が結ばれました。当時は、高野山に詣でる滞在所として利用されたそうです。

    蓮華定院を紹介されているサイトです。上段の間の写真も掲載されています。
    http://guide.travel.co.jp/article/12672/

  • 蓮華定院 本坊<br />山門を潜ると正面に玄関、左側に本堂が見えます。現在の本堂は萬延年間(1860年頃)に真田家により再建されたものであり、他の宿坊に比べると小ぶりです。<br />関ヶ原の戦いで負けた西軍に与した真田昌幸・信繁父子にも家康の手が迫り、本来なら死罪に処せられるところ、家康陣中にいた真田信幸やその義父 本多忠勝が武功にかえてもと嘆願したことでこれを免れ、昌幸と信繁はここに蟄居(軟禁)の身となりました。こうして父子の隠棲生活が始まりましたが、ここでは家族と一緒に暮らせなかったため、その年の冬に庵を九度山に移しました。当時の高野山は女人禁制のため、妻子は真田父子とは別に九度山に留め置かれたからです。そして九度山の跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、別名「真田庵」です。昌幸はそこで生涯を終え、信繁は大坂夏の陣にて戦死しましたが、蓮華定院は長野市松代に移った真田家の高野山における菩薩寺として保護されました。

    蓮華定院 本坊
    山門を潜ると正面に玄関、左側に本堂が見えます。現在の本堂は萬延年間(1860年頃)に真田家により再建されたものであり、他の宿坊に比べると小ぶりです。
    関ヶ原の戦いで負けた西軍に与した真田昌幸・信繁父子にも家康の手が迫り、本来なら死罪に処せられるところ、家康陣中にいた真田信幸やその義父 本多忠勝が武功にかえてもと嘆願したことでこれを免れ、昌幸と信繁はここに蟄居(軟禁)の身となりました。こうして父子の隠棲生活が始まりましたが、ここでは家族と一緒に暮らせなかったため、その年の冬に庵を九度山に移しました。当時の高野山は女人禁制のため、妻子は真田父子とは別に九度山に留め置かれたからです。そして九度山の跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、別名「真田庵」です。昌幸はそこで生涯を終え、信繁は大坂夏の陣にて戦死しましたが、蓮華定院は長野市松代に移った真田家の高野山における菩薩寺として保護されました。

  • 蓮華定院 本坊<br />本堂前の枯山水の庭園は住職 添田隆昭氏が作庭されたものだそうで、中心にあるのは本堂の本尊「阿弥陀如来」の梵字「クリーク」です。この梵字は、池中に咲く白蓮華とその上で禅定(蓮華定)に入る阿弥陀仏を象徴しているそうです。<br />山門の鎖樋から流れる水量で、どれほどの雨脚か推し量れるかと思います。

    蓮華定院 本坊
    本堂前の枯山水の庭園は住職 添田隆昭氏が作庭されたものだそうで、中心にあるのは本堂の本尊「阿弥陀如来」の梵字「クリーク」です。この梵字は、池中に咲く白蓮華とその上で禅定(蓮華定)に入る阿弥陀仏を象徴しているそうです。
    山門の鎖樋から流れる水量で、どれほどの雨脚か推し量れるかと思います。

  • 蓮華定院 本坊<br />屋根の上にも六文銭の金色の家紋が輝いています。松代にある真田家の菩提寺長国寺と同じものです。<br />『上段の間』は真田父子が滞在した部屋ですが、ここをはじめ内部の見学は宿泊客以外は残念ながらできません。この部屋と共に彼らの遺品を保存、一般公開しており、宿泊の際は必見です。<br />残念なことに江戸時代に蓮華定院は焼失し、現在残っている本堂はその後に再建されたものでが、上段の間は焼失前と同じ位置に復元され、基本的な造りは当時のままを再現しているそうです。因みに、上段の間は二間ほどの広さがあり、主に昌幸が使用した場所であり、信繁をはじめとしたお供の武士たちは昌幸よりも下座にある大広間で逗留したそうです。

    蓮華定院 本坊
    屋根の上にも六文銭の金色の家紋が輝いています。松代にある真田家の菩提寺長国寺と同じものです。
    『上段の間』は真田父子が滞在した部屋ですが、ここをはじめ内部の見学は宿泊客以外は残念ながらできません。この部屋と共に彼らの遺品を保存、一般公開しており、宿泊の際は必見です。
    残念なことに江戸時代に蓮華定院は焼失し、現在残っている本堂はその後に再建されたものでが、上段の間は焼失前と同じ位置に復元され、基本的な造りは当時のままを再現しているそうです。因みに、上段の間は二間ほどの広さがあり、主に昌幸が使用した場所であり、信繁をはじめとしたお供の武士たちは昌幸よりも下座にある大広間で逗留したそうです。

  • 蓮華定院 墓所<br />奥の院には信州真田家の墓所がありますが、その墓所の何倍もの規模の墓所が宿坊の裏庭にあります。この墓所へは蓮華定院の山門を経由しなければ行けないため、宿泊者以外の方が参拝する場合は社務所に一声掛ける必要があります。<br />場所は、本坊の右脇にある狭い通路を経由し、一旦外部へ出た細い上り坂の先の右手にあります。<br /><br />雨が降り止む気配がないため、意を決して墓所へ向かうことにします。<br />真田家の菩提寺でもあるため、松代藩藩祖 真田信之とその次男で第2代藩主 信政の墓所があります。扁額に「大鋒院」、「圓陽院」と書かれた2基の鳥居の奥にそれぞれの墓所があり、鬱蒼と茂る杉林の前に寡黙に佇んでいます。

    蓮華定院 墓所
    奥の院には信州真田家の墓所がありますが、その墓所の何倍もの規模の墓所が宿坊の裏庭にあります。この墓所へは蓮華定院の山門を経由しなければ行けないため、宿泊者以外の方が参拝する場合は社務所に一声掛ける必要があります。
    場所は、本坊の右脇にある狭い通路を経由し、一旦外部へ出た細い上り坂の先の右手にあります。

    雨が降り止む気配がないため、意を決して墓所へ向かうことにします。
    真田家の菩提寺でもあるため、松代藩藩祖 真田信之とその次男で第2代藩主 信政の墓所があります。扁額に「大鋒院」、「圓陽院」と書かれた2基の鳥居の奥にそれぞれの墓所があり、鬱蒼と茂る杉林の前に寡黙に佇んでいます。

  • 蓮華定院 墓所<br />鳥居の扁額に「大鋒院」とある右側が信之の墓所になります。徳川家康の養女(本多忠勝の娘 小松姫)を正室とした信之は家康の東軍を支持し、関ヶ原の戦い後、徳川幕府においても沈着冷静かつ戦では常に先陣を切って進むという豪快さを併せ持つ英傑で知られました。<br />

    蓮華定院 墓所
    鳥居の扁額に「大鋒院」とある右側が信之の墓所になります。徳川家康の養女(本多忠勝の娘 小松姫)を正室とした信之は家康の東軍を支持し、関ヶ原の戦い後、徳川幕府においても沈着冷静かつ戦では常に先陣を切って進むという豪快さを併せ持つ英傑で知られました。

  • 蓮華定院 墓所<br />左側が真田信政の墓所です。<br />信之は小松姫との間に2人の息子を授かり、信政は次男、信重は三男となります。<br />信政は、関ヶ原の戦いの際は江戸城へ人質として預けられ、後に忠義の褒美として「吉光の短刀」が与えられています。<br />大坂の陣では長男 信吉(母は清音院)と共に出陣しました。休戦の間、信繁が親しく接したのは嫡男となる信吉の方で、信政とはあまり話さなかったそうです。信政の母が徳川重臣本多忠勝の娘というのも影響していたかもしれません。夏の陣では、毛利勝永ら捨て身で突撃してくる豊臣勢に苦戦し、敗走します。兄と共に命からがら帰還した信政に、母は「2人もいるのだから、討死すれば忠義を示せたのに」と連れなく言い切ったそうです。<br />その後、支藩の藩主を務め父 信之の隠居後は松代藩主になります。子宝に恵まれた割りには、後継者に恵まれないという不遇の晩年を送っています。

    蓮華定院 墓所
    左側が真田信政の墓所です。
    信之は小松姫との間に2人の息子を授かり、信政は次男、信重は三男となります。
    信政は、関ヶ原の戦いの際は江戸城へ人質として預けられ、後に忠義の褒美として「吉光の短刀」が与えられています。
    大坂の陣では長男 信吉(母は清音院)と共に出陣しました。休戦の間、信繁が親しく接したのは嫡男となる信吉の方で、信政とはあまり話さなかったそうです。信政の母が徳川重臣本多忠勝の娘というのも影響していたかもしれません。夏の陣では、毛利勝永ら捨て身で突撃してくる豊臣勢に苦戦し、敗走します。兄と共に命からがら帰還した信政に、母は「2人もいるのだから、討死すれば忠義を示せたのに」と連れなく言い切ったそうです。
    その後、支藩の藩主を務め父 信之の隠居後は松代藩主になります。子宝に恵まれた割りには、後継者に恵まれないという不遇の晩年を送っています。

  • 蓮華定院 山門<br />観光バスが山門の所まで乗り入れ、どうやらここに泊まるツアーのようです。羨ましい半面、ツアーで宿坊に泊まる魅力がよく判りません。ツアーに組み込まれてしまうと個人で宿坊を手配するのが難しくなるデメリットも発生します。個人の外人さんも泊まられているようですが、どんな目で団体さんを見ていることやら…。<br />紳士淑女のツアー客であって欲しいと心の中で願いながら、蓮華定院を後にしました。

    蓮華定院 山門
    観光バスが山門の所まで乗り入れ、どうやらここに泊まるツアーのようです。羨ましい半面、ツアーで宿坊に泊まる魅力がよく判りません。ツアーに組み込まれてしまうと個人で宿坊を手配するのが難しくなるデメリットも発生します。個人の外人さんも泊まられているようですが、どんな目で団体さんを見ていることやら…。
    紳士淑女のツアー客であって欲しいと心の中で願いながら、蓮華定院を後にしました。

  • 蓮華定院 築地塀<br />山門から真田家の家紋「六文銭」が配せられた扉のある築地塀が続きます。<br />六文銭に見送られながら、寡黙にゴールの女人堂を目指します。<br />

    蓮華定院 築地塀
    山門から真田家の家紋「六文銭」が配せられた扉のある築地塀が続きます。
    六文銭に見送られながら、寡黙にゴールの女人堂を目指します。

  • 女人堂<br />かつて高野山への入口は、高野七口と言われるように7箇所あったそうです。1872(明治5)年に女人禁制が解かれるまで、その入口に高野山に入れない女性が祈願できるように山の外に参籠所を建てたのが女人堂の由来です。かつてはこの堂宇で真言を唱えつつ夜を明かしたそうです。<br />現在は不動坂口にあるこの女人堂だけしか残されていませんが、7つの中で一番大きな女人堂でした。それでも、山内の建造物と比べると質素な造りです。解放後は高野山参拝の休憩所的存在となりました。かつては7つの女人堂を結ぶ尾根道を「女人道」と呼び、御廟を遠くからでも拝みたいと危険を冒して歩いたそうです。昔の女性の信仰心には頭が下がる思いです。<br />実は、この女人堂を支える柱には、国宝に指定されている「古い柱」があるそうです。その古柱は、鎌倉時代後期の物だということが判明しており、その時代から女性の高野山信仰があったことが窺えます。<br />堂宇には弁財天、大日如来、神変大菩薩が祀られ、極楽橋から不動坂を登ってきて最初に辿り着く場所のため、登山者の休憩処にもなっています。拝観時間は、8:30〜16:30です。<br />ご住職によると、これほどの雨が降ったのは久しぶりのようです。

    女人堂
    かつて高野山への入口は、高野七口と言われるように7箇所あったそうです。1872(明治5)年に女人禁制が解かれるまで、その入口に高野山に入れない女性が祈願できるように山の外に参籠所を建てたのが女人堂の由来です。かつてはこの堂宇で真言を唱えつつ夜を明かしたそうです。
    現在は不動坂口にあるこの女人堂だけしか残されていませんが、7つの中で一番大きな女人堂でした。それでも、山内の建造物と比べると質素な造りです。解放後は高野山参拝の休憩所的存在となりました。かつては7つの女人堂を結ぶ尾根道を「女人道」と呼び、御廟を遠くからでも拝みたいと危険を冒して歩いたそうです。昔の女性の信仰心には頭が下がる思いです。
    実は、この女人堂を支える柱には、国宝に指定されている「古い柱」があるそうです。その古柱は、鎌倉時代後期の物だということが判明しており、その時代から女性の高野山信仰があったことが窺えます。
    堂宇には弁財天、大日如来、神変大菩薩が祀られ、極楽橋から不動坂を登ってきて最初に辿り着く場所のため、登山者の休憩処にもなっています。拝観時間は、8:30〜16:30です。
    ご住職によると、これほどの雨が降ったのは久しぶりのようです。

  • 高野山結界の石碑<br />高野山との結界を示すための立派な石碑が道路の両側に建てられています。<br />右には「高野山」、左には真言宗の総本山である「金剛峯寺」の文字が書かれています。<br />石碑の裏面には昭和二十九年八月吉祥日と書かれていますので、今から62年前に建てられた石碑ということになります。

    高野山結界の石碑
    高野山との結界を示すための立派な石碑が道路の両側に建てられています。
    右には「高野山」、左には真言宗の総本山である「金剛峯寺」の文字が書かれています。
    石碑の裏面には昭和二十九年八月吉祥日と書かれていますので、今から62年前に建てられた石碑ということになります。

  • お竹地蔵尊<br />道路を挟んだ向かい側には、1845(延享2)年に横山竹さんが建立した巨大な地蔵尊が佇んでいます。高野山で一番大きな地蔵尊です。亡き夫の供養のために高野山を訪れ、この女人堂に籠っていた折、地蔵尊の霊夢を見て、一念発起して建立されたそうです。<br />安政年間に起こった江戸大地震で亡くなられた人々のため、また夫や父母の菩提を弔うために30年間も身を粉にして年期奉公し、私財を投じて建てられたものです。お竹地蔵尊と崇められ、今なお多くの参拝者で線香の煙が絶える事がありません。御利益は、縁談、進学、子授、水子供養等です。<br />ここから高野山駅までの道路は南海りんかんバス専用道路ですので、歩くこともできませんので注意してください。「女人堂前」バス停からバスに乗車し、10分足らずで高野山駅に到着します。

    お竹地蔵尊
    道路を挟んだ向かい側には、1845(延享2)年に横山竹さんが建立した巨大な地蔵尊が佇んでいます。高野山で一番大きな地蔵尊です。亡き夫の供養のために高野山を訪れ、この女人堂に籠っていた折、地蔵尊の霊夢を見て、一念発起して建立されたそうです。
    安政年間に起こった江戸大地震で亡くなられた人々のため、また夫や父母の菩提を弔うために30年間も身を粉にして年期奉公し、私財を投じて建てられたものです。お竹地蔵尊と崇められ、今なお多くの参拝者で線香の煙が絶える事がありません。御利益は、縁談、進学、子授、水子供養等です。
    ここから高野山駅までの道路は南海りんかんバス専用道路ですので、歩くこともできませんので注意してください。「女人堂前」バス停からバスに乗車し、10分足らずで高野山駅に到着します。

  • 高野山ケーブル<br />最大斜度30度の急勾配ポイントです。<br />ケーブルカーの中からでも、覗き込むと足がすくみます。<br />路線は真っ直ぐではなく、左に大きくカーブしています。

    高野山ケーブル
    最大斜度30度の急勾配ポイントです。
    ケーブルカーの中からでも、覗き込むと足がすくみます。
    路線は真っ直ぐではなく、左に大きくカーブしています。

  • 極楽橋駅<br />夕暮れの風鈴も趣があります。

    極楽橋駅
    夕暮れの風鈴も趣があります。

  • 極楽橋駅<br />真田信繁の赤備え甲冑をモチーフにした、南海「赤備え電車」かと思いきや、こうや「花鉄道」の列車でした。<br />色も形もそっくりなので全て改装されてもいいのでは!?<br />帰途は特急に乗らず、橋本駅で急行に乗り換え、2時間ほどかけて難波までのんびりと旅の余韻を愉しみました。夢うつつ状態ではありましたが…。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    極楽橋駅
    真田信繁の赤備え甲冑をモチーフにした、南海「赤備え電車」かと思いきや、こうや「花鉄道」の列車でした。
    色も形もそっくりなので全て改装されてもいいのでは!?
    帰途は特急に乗らず、橋本駅で急行に乗り換え、2時間ほどかけて難波までのんびりと旅の余韻を愉しみました。夢うつつ状態ではありましたが…。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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