![高野山は言わずと知れた世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として有名ですが、何よりも真言宗の宗祖である空海が1200年前に宗教活動の拠点として開山した真言密教の聖地です。しかしながら「高野山」という名の山は存在せず、和歌山県伊都郡高野町にある標高1000m前後の8つの峰々(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)を総称して「高野山」と呼んでいます。<br />高野山を八葉蓮華に例えると、その花托の位置が金剛峯寺や壇上伽藍にある荘厳な堂宇や塔頭などが建ち並ぶ天空の聖地に相当します。高野山を浄土の象徴とも言える蓮台と見立て、高野山の内輪山を内八葉、外輪山を外八葉と呼び、合わせて16葉の峰々を金剛界曼荼羅の十六大菩薩とし、大日如来の浄土である蓮華胎蔵世界を実現した聖域です。<br />空海は留学生(るがくしょう)として遣唐使の一員として渡航し、長安の密教僧 恵果(えか)に師事し、往時中国で最先端だった密教の奥義を学びました。帰国後、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜り、高い峰々に囲まれた平坦地に両界曼荼羅世界を創造すべく、弟子たちに命じて伽藍の建立に取りかかりました。しかし工事は難航し、空海と弟子 真然(しんぜん)の2代が約70年の歳月をかけ、真言密教のシンボルとして根本大塔などの伽藍を整備しました。<br />今回は「聖地中の聖地」と言われている奥の院にスポットを当ててみました。<br /><br />高野山観光協会が配布している高野山全体マップ<br />https://www.wakayama-kanko.or.jp/worldheritage/koyasan1200/contents/pdf/map_koyasan.pdf<br />奥の院のマップへリンク<br />http://www.su-chan.net/gallery/nara2011/kouyasan/thumb/page_thumb4.html<br />http://hirotravel.com/kansai/kouyasan/tizu-2.pdf](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/15/35/650x_11153564.jpg?updated_at=1470007518)
2016/07/28 - 2016/07/28
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montsaintmichelさん
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高野山は言わずと知れた世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として有名ですが、何よりも真言宗の宗祖である空海が1200年前に宗教活動の拠点として開山した真言密教の聖地です。しかしながら「高野山」という名の山は存在せず、和歌山県伊都郡高野町にある標高1000m前後の8つの峰々(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)を総称して「高野山」と呼んでいます。
高野山を八葉蓮華に例えると、その花托の位置が金剛峯寺や壇上伽藍にある荘厳な堂宇や塔頭などが建ち並ぶ天空の聖地に相当します。高野山を浄土の象徴とも言える蓮台と見立て、高野山の内輪山を内八葉、外輪山を外八葉と呼び、合わせて16葉の峰々を金剛界曼荼羅の十六大菩薩とし、大日如来の浄土である蓮華胎蔵世界を実現した聖域です。
空海は留学生(るがくしょう)として遣唐使の一員として渡航し、長安の密教僧 恵果(えか)に師事し、往時中国で最先端だった密教の奥義を学びました。帰国後、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜り、高い峰々に囲まれた平坦地に両界曼荼羅世界を創造すべく、弟子たちに命じて伽藍の建立に取りかかりました。しかし工事は難航し、空海と弟子 真然(しんぜん)の2代が約70年の歳月をかけ、真言密教のシンボルとして根本大塔などの伽藍を整備しました。
今回は「聖地中の聖地」と言われている奥の院にスポットを当ててみました。
高野山観光協会が配布している高野山全体マップ
https://www.wakayama-kanko.or.jp/worldheritage/koyasan1200/contents/pdf/map_koyasan.pdf
奥の院のマップへリンク
http://www.su-chan.net/gallery/nara2011/kouyasan/thumb/page_thumb4.html
http://hirotravel.com/kansai/kouyasan/tizu-2.pdf
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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今回利用させていただいたのは、阪神電車版「高野山・九度山1Dayチケット」です。高野山の主だった拝観施設や飲食店などの割引クーポンと「九度山・真田ミュージアム」の入園割引券が付いていてとてもお得です。
阪神電車のHPです。
http://rail.hanshin.co.jp/ticket/otoku/?mode=detail&seq=41 -
南海難波駅
難波からは特急「こうや一号」で1時間30分ほどの列車の旅になります。
後で調べて分かったのですが、急行でも橋本駅で極楽橋行に連絡しているものがあり、時間的にはそれほど変わりません。ゴールデンウィークやお盆の時期でなければ急行でも座って行けると思います。
特急料金を別途支払う列車なのですが、他と代わり映えのしないフロントマスクには正直なところがっかりです。南海鉄道さんにはもう少し頑張っていただきたいですね! -
九度山周辺(車窓)
この辺りから徐々に高野山に向かっているという実感が湧き出してきます。
九度山町は、南は高野山、北は紀ノ川に囲まれた風光明媚な地にあり、戦国時代の武将 真田信繁が関ヶ原の戦いの後、大坂冬の陣までの間を過ごした隠れ里でした。
また、九度山にある慈尊院は、空海の母 玉依御前が晩年滞在していたお寺です。ある時、玉依御前は、「わが子の開いた山を一目見たい」と、香川県善通寺から慈尊院のある高野山の麓まで訪ねてきました。しかし、当時の高野山は女人禁制。母親ですら入山はできなかったため、慈尊院に滞在してもらったのです。空海は母親の滞在中、1ヶ月に9度も通ったため、この辺りは「九度山」と呼ばれるようになったそうです。
弥勒菩薩を篤く崇拝していた母親の没後、空海は慈尊院に廟を造り、弥勒堂を建てました、それが、現在の本堂です。 -
九度山駅
「真田丸」ブームで一躍脚光を浴びた、無人駅の九度山駅です。
武家屋敷風に改装してリニューアルオープンした駅舎には、真田家の家紋「六文銭」を黒く染め抜いた真っ赤な陣幕が爽やかな風に躍っています。 -
九度山周辺
周辺道路にも真田カラーの赤色の幟がなびいています。 -
極楽橋
終盤はさながら山岳鉄道の趣で、車両を軋ませながら幾つものトンネルや急カーブを抜けていきます。よくぞこんな所に鉄道を敷いたものです。
終点の極楽橋に到着する少し手前で、右手に朱色の極楽橋が見られます。これが駅名の由来にもなっている「極楽橋」です。この橋は、江戸〜明治時代は「不動橋」と呼ばれ、不動坂と呼ばれる高野山への参道に通じていましたが、現在は通行止めになっています。
現在の橋は1954年に架け替えられたものです。 -
南海「極楽橋」駅
ここでケーブルカーに乗り換えです。
連絡橋は、夏場は「風鈴のトンネル」になり、約550個のガラス製風鈴が涼しげな音色を奏でています。カラフルな短冊は、沿線の小中学生らが協力して作ったものだそうです。 -
南海「極楽橋」駅
通称「高野山ケーブル」と呼ばれていますが、正式名は「南海電気鉄道鋼索線」と言います。頂上の高野山駅までは330mの標高差があり、日本有数の最大56.82%(30度)ある急勾配を5分程で一気に昇ります。
ケーブルカーと列車は連絡されており、すぐにケーブルカーに乗れます。
1930年に高野山電気鉄道により開業し、当時は1両編成だったのが1964年の大改装により2両編成の260人乗りの現在の車両が導入されました。現在の車両(コ11・21形)は52年間使われてきたことになります。
因みに、極楽橋駅の標高は538mあります。 -
奥の院
高野山駅からは「南海りんかんバス」に乗車します。20分程で到着するバス停「奥の院前(終点)」で降りれば御廟まで徒歩20分程で到着できる最短コースになりますが、お勧めは「奥の院口(一の橋)」で降り、40分程かけて御廟まで歩くコースです。こちらが正式な参拝ルートになります。
バスを降り、道なりに進むと奥の院の参道へ合流する脇道が見えてきます。
奥の院は壇上伽藍と共に誰もが訪れる高野山の2大聖地です。弘法大師入定の地であり、弘法大師御廟は大師信仰の中心的な浄域となっています。「聖地の中の聖地」とも言われる奥の院は、一歩足を踏み入れるとその空気さえも凛と張りつめているような不思議な感覚になります。さながら、「現世の中の冥土」と言ったところでしょうか?
一の橋から弘法大師御廟まで約2kmの参道両側には、推定樹齢700年の杉木立が聳え立ち、その老杉がつくる木陰には大師の近くで供養されたいと願う20万基を超える各時代の皇族、諸大名をはじめ、文人墨客や庶民に至るまであらゆる階層の人々の墓碑や供養塔、慰霊碑が鎮まっています。こうした景観を見れば、高野山が日本一の霊場であることを実感できます。
毎年8月13日には、萬燈供養会(高野山ろうそく祭り)が開催され、一の橋から奥の院までの参道が約10万本の蝋燭の灯りで照らされる様は幻想的です。 -
奥の院
暫く進むと右手にロケットの形をした物故者慰霊碑が見えてきます。この辺りは、参道の左右に企業や団体のユニークな形をした慰霊塔が立ち並び、写真で見るような荘厳な奥の院のイメージとは程遠く、呆気に取られます。
これは、兵庫県にある航空機メーカ「新明和工業(株)」のものです。前身は川西航空機と言い、九七式飛行艇や二式大型飛行艇などの飛行艇、局地戦闘機紫電/紫電改の開発・製造を担当していました。戦後、新明和工業に改称して民需転換し、ゴミ収集車やタンクローリなどの特装車を製造する産業機械メーカとなっています。
こうした慰霊塔が見られたのは、少しでも楽しようと思って「奥の院前」バス停で降車し、正式の入口から入らなかったためです。
これから行かれる方の利便性を勘案し、以降は正式の入口「一の橋」からの順路に編集し直してみました。 -
一の橋
有田川の本流筋に当たる御殿川に架けられた橋で、正式には「大渡橋(おおばし)」や「大橋」と言われ、弘法大師御廟に向かうために最初に渡る橋です。橋の前で合掌一礼してからお参りします。
近くには「一の橋観光センター」があり、精進料理をベースした創作御膳をいただける食事処や特産品・名産品が揃うお土産屋、高野山観光についてのアドバイスもしてもらえます。 -
龍泉院墓所
「龍泉院」というお寺の名前はよく見聞きするのですが、同じ名前の人物がいたとは知りませんでした。ネットで調べてみると、それらしき人物には、江戸時代の大名で松平伊豆守系大河内松平家3代 松平信輝の母という情報があります。
一の橋を渡ると直ぐに参道が分岐していますが、左側の参道の左側にあります。この奥の院では珍しい青銅製の塔ですので、是非お参りしてください。 -
武田信玄・勝頼父子墓所
主だった方々の墓所は奥の院マップに記されていますので、それを頼りに巡ってください。
石門の奥に2つの宝篋印塔(供養塔)が並んでいます。左の大きい方が信玄、右の小さい方が勝頼の供養塔です。武田信玄の方は3回忌の時に建てられたそうです。
戦国時代のオールスターズが生前の恩讐を忘れ、肩を寄せ合うようにこぞってこの地に眠っている理由については、高野山が弘法大師により近い総菩提所であるとの大師信仰に基づくと説明されているのですが、それだけでは腑に落ちません。
調べてみるとやはり他にも理由がありました。高野山が弥勒菩薩と関係が深い霊地だったことが挙げられます。また、人々が末法思想に怯えていたのも理由のひとつです。
仏教では、釈迦の入滅後、正法・像法・末法の3つの時代が来るとしています。正法とは、仏法が正しく行き渡る時代。像法とは、信仰が形式的になる時代。末法とは、仏法がすたれて戦乱や悪疫がはびこり、いくら信仰しても救われることがなく、ついにはこの世まで阿鼻地獄と化す暗黒の時代。その時期は、正法は釈迦が入滅後500年、像法が1000年、末法が無限という説があり、釈迦が入滅してから1500年目から末法に入る計算になり、これが1052(永承7)年に当たると言われていたのです。
しかし、絶望的な末法思想にも救いの道が残されており、それが弥勒菩薩信仰でした。56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に下生し、その説法を聴聞できた者は末法の呪縛から解かれ、永劫の苦患から逃れ、安らかに成仏できるというものです。人々は弥勒菩薩に来世での救いや死後の成仏を求めるようになり、弥勒菩薩が降臨する場所として広く信じられていたのが高野山だったのです。
これで空海の母親が彼を訪ねて来た時、足止めを食らった慈尊院で本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していたという件にも納得できました。 -
上杉謙信・景勝父子墓所(重文)
参道左手の高台にあるのが、重文に指定されている上杉謙信・景勝の霊屋です。
実際に高野山にも足を運んだ上杉謙信の霊屋は、桃山建築様式を彷彿とさせる豪華なものです。
内部には位牌が納められているそうです。 -
上杉謙信・景勝父子墓所
意図があるのかないのか、生前の「龍虎相搏つ」の例えになぞらえて、宿敵 武田信玄の墓碑と参道を挟んで対峙する位置に建てられています。
ネット情報では、上杉謙信の霊屋から左に進むと崩れかけている五輪塔があり、右側が豊臣秀吉の側室の淀殿(茶々)、左側が秀吉の3男である秀頼のものとあります。ガイドマップにも載っていないものだそうですが、それらしき供養塔は見当たりませんでした。崩れてしまったのでしょうか? -
伊達政宗墓所
武田家の墓碑から少し歩くと、右手に伊達政宗、石田三成、明智光秀と立て続けに有名武将の供養塔が現れます。
こちらは伊達政宗1周忌の時に建てられた五輪塔です。この塔の周囲には、彼の後を追って殉死した20人の家臣たちの供養塔が並んでいます。こうした多数の殉死者の供養塔があるのは、奥の院ではとても珍しいそうです。政宗は死後も多くの家臣たちならびにその家臣たちに見守られながら、永遠の眠りについています。
因みに、奥の院内に伊達家の供養塔は2ヶ所あります。 -
伊達政宗墓所
梵字が刻まれ、生前の独眼竜「政宗」を彷彿とさせる威風堂々とした五輪塔です。
このように苔生した巨石が積み上げられていますが、宝篋印塔はこうした形の五輪搭が多いようです。仏教の「地・水・火・風・空」の五大を表し、下から地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表され、密教系の塔であり、各輪四方に梵字を表したものが多いようです。
それにしても、戦国時代では考えられない隣人関係です。何故か微笑ましくもあります。 -
石田三成墓所
三成が30歳の時、自ら生前葬を行なって建てた「逆修墓」です。1590(天正18)年当時では、この五輪塔が一番大きかったそうです。
三成は高野山の木食応其上人と懇意にしていましたが、それは秀吉の紀州攻めの際、上人が間に立って三成たちと相談し、高野山が降伏を申し出て滅亡を免れて以来の関係でした。紀州攻めでは、雑賀衆は敗北し、根来寺や粉河寺は焼き払われましたが、高野山は憂き目に遭わずに済んだのです。 -
石田三成墓所
弘法大師御廟の右側にひっそりと一切経堂が建てられていますが、これは三成が寄進したものです。母の菩提を弔うために経堂を建て、一切経を奉納しました。しかし、その経堂が焼失したため、経堂を再建し、高麗版の一切経を奉納しています。当時のままの姿を留める重文であり、経堂に掲げられた額に三成が寄進した旨が漢文で書かれています。 -
明智光秀墓所
参道から脇道を少し右奥へ入った所に佇んでいます。
こちらの五輪塔は、御廟に背を向けた配置です。
光秀を示す銘文がどこにもなく、あくまでも伝承により光秀の墓と推定されたものだそうです。因みに、光秀の墓や首塚、胴塚は全国に8箇所ほどあるそうです。
大きさは織田信長の供養塔とほぼ同等の比較的小ぶりなものです。間接的にではあれ信長から瀕死状態の高野山を救った立役者だったのですから、もう少しご利益があってもよさそうなものですが…。 -
明智光秀墓所
伝承によると、この五輪塔は、織田信長の怨念により、何度建てても石が割れてしまうそうです。五輪塔は、上から順に頭、顔、胸、腹、足に例えられ、上から4番目の丸い石、つまり腹部の中央部に縦に「クラック」が入っています。一見梵字のように見えますが、かなり深いクラックです。 -
中の橋
一の橋と御廟橋の中間にあるため、中の橋と言われます。正式には「手水橋(ちょうずばし)」と言われ、平安時代には、この場所で身を清めて参りました。
中の橋の下を流れる川は「金の河」と呼ばれ、かつて金は死の隠語とされたことから死の河(三途の川)を意味し、中の橋から先は「死の世界」に入ります。
中の橋の近くには、奥の院まで至便な2階建の駐車場があり、マイカーで訪れる方にはこちらがお勧めです。また、道路を挟んで駐車場の向かいには観光案内所があります。 -
中の橋
奥の院の参道を振り返るとこんな景色です。 -
汗かき地蔵
中の橋を渡るとすぐに地蔵堂があり、ここには「汗かき地蔵」が祀られています。巳の刻(午前9〜11時)に汗を流すと伝えられ、「高野七不思議」のひとつになっています。この地蔵は、世の中の人々の焦熱の苦を地蔵尊が身代わりになって受け、いつも汗をかいていると伝えられています。 -
姿見の井戸
汗かき地蔵の右脇にあります。
この小さな井戸は、空海が高野山に登った時に掘られたものと言われています。古来より、この姿見の井戸を覗き込んで自分の影が映らなければ、3年以内に亡くなってしまうとの言い伝えがあります。
さらに、この井戸の水で目を洗えば、どんな眼病も治るとの伝承もあります。 -
姿見の井戸
結構深い井戸ですが、このように外部の景色が水面に映ります。
ここまで来て覗かない訳にはいかないので恐る恐る覗いてみると、井戸の底にはドギマギした表情の自分の顔がありました。 -
地蔵尊
覚鑁坂(かくばんざか)の手前右には、このように苔生した老杉の幹に小さな地蔵尊が守られています。 -
覚鑁坂
密厳堂前にある石段は、覚鑁坂と呼ばれています。 42(死)を越えるという意味があるのか、43段の石段になっています。石段が普通の階段とは違って踏面が広く歩き難いのですが、僧の修行のために意図的に歩き難くしてあるそうです。
そして、ここで転ぶと3年以内に死ぬと言われており、別名「三年坂」と呼ばれています。特に雪の日や雨の日は要注意だそうです。 -
毛利家墓所
御廟寄りにある毛利家の墓所です。鳥居の後ろに3基の大きな五輪塔が並んでいます。
毛利家墓所はここ以外にも一の橋近くの高台に10基の五輪塔が並ぶ墓所があります。 -
一番石塔
奥の院最大の供養塔は、駿河大納言 忠長の母 (2代将軍秀忠夫人「崇源院(お江)」)の供養塔です。高さ6.6m、一番下の基段は8畳もの大きさがあり、見上げると圧倒されます。
建てられたのは1627(寛永4)年の1周忌の折、建てたのは弟の忠長です。亡き母への想いがこの規模の石塔を造らせたと言われています。石材は瀬戸内海周辺で切り出されたものが使われ、船で紀ノ川を遡って運ばれ、人馬の力で海抜1000mの山上まで運ばれました。 -
一番石塔
兄の3代将軍家光ではなく弟の忠長が建てたのが、兄弟間の確執のトリガーになったのだろうかと気になります。これも忠長が家光に憎まれ、自害に追い込まれた理由のひとつだったのではないでしょうか?
因みに、お江は没した後、江戸の増上寺で荼毘に付されましたが、その際に用いられた火種はわざわざ高野山の奥の院燈籠堂の「消えずの火」から採られたそうです。高野山に対する信仰心が篤かったことが窺われます。 -
天樹院(千姫)墓所
崇源院(お江)の供養塔の左には、彼女の娘 天樹院(千姫)の供養塔が寄り添っています。
7歳で豊臣秀頼の妻となり、大坂夏の陣で大坂城落城時に救出されて本多忠刻に再嫁、姫路城に移り住み十万石の化粧料を与えられるも1626(寛永3)年に最愛の忠刻と死別し江戸に帰って髪を下ろし、天樹院と号しました。
足元に彫られた三ツ葉葵が、それとなく威厳を添えています。 -
お化粧地蔵尊
このような聖域にこうした地蔵尊が突如現れると吃驚してしまいます。
お地蔵さまにお化粧を施して差し上げると美人になれるとか…。
お地蔵さまの何とも言えない表情に思わず頬が緩みます。少し流し目をされたお地蔵さまですので、やや右寄りから撮るとカメラ目線になります。
でも暗がりで遭遇したら、案外怖いかも!? -
結城家石廟(重文)
苔生した石造りの立派な霊屋です。
右は、家康の次男 結城秀康、左はその母(正室築山殿の侍女、於万の方)の石廟です。母子2つの石廟は、瓦や壁、柱、棟木、扉まで全て石造りです。外壁には、仏様などのレリーフが刻まれています。
人質として秀吉の元へ出され、秀吉に鶴松が生まれると今度は結城家へ婿養子に出された人物ですが、よく出来た人物だったそうです。
因みに、家康の世継ぎに本多正信・正純等は秀康を推挙しています。しかし、豊臣家へ養子に出した上、結城家へ婿養子に入った秀康を後継者にすること無理でした。1607年に秀康は家康に先立って他界し、秀康の長男 松平忠直により石廟が建立されました。
母の石廟は1601年に秀康自身が母を祀るために生前に「逆修墓」として建立したものです。しかし秀康の方が先に逝き、秀康の死後、於万の方は出家して長勝院と名乗り、1619年に72歳で他界しています。
忠直は、時代と生まれた家系に翻弄された父のことを思い、せめて母を祀る石廟の隣でゆっくり休んで欲しいと願ったのかもしれません。 -
豊臣家墓所
他の武将よりも少々広い敷地にあります。そして墓所の中に入れないように柵が設けられています。
これらの供養塔で名前が確認されているのは、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、それに淀君の逆修碑と推定されるものの6基です。 -
豊臣家墓所
秀吉の墓碑は中央の一番大きなものですが、1940(昭和15)年に奉公会という秀吉を信奉する人々が建てた比較的新しいものだそうです。
墓碑の中には、秀吉の衣冠束帯の木造が納められていると伝えられています。 -
豊臣家墓所
豊臣家墓所から右へトラバースして織田信長墓所を探している時に偶然見付けた高台から豊臣家墓所を俯瞰しています。
これだけの敷地を豊臣家に拝領する所を見ると、秀吉と高野山の蜜月が疑われます。事実、高野山を無血降伏に導いた木食上人と秀吉のその後の関係は良好だったようですが、それには元々深い因縁がありました。
信長の死後、後継者争いで秀吉と家康が鉾を交えた小牧・長久手の戦いで、高野山は負け組みの家康に見方し、5百丁の鉄砲を送っていたのです。こうした後ろめたさも手伝い、上人は秀吉との関係改善に尽力されたのでしょう。 -
織田信長墓所
信長の墓所は、参道が御廟橋の手前で合流する地点のすぐ手前を左に少し登った左手にあります。豊臣家墓所からトラバースせず、一旦参道へ降りた方が見付け易いかもしれません。登り坂の途中にある標識が小さいため見逃し易いのですが、足元の標識に注意すれば大丈夫です。
坂と墓所の入口は狭いのですが、墓所自体は広くなっています。また、他の墓所と異なるのは御廟に向けて五輪塔が建てられていることです。因みに、信長の墓所は全国に20箇所以上あるそうです。
信長は比叡山延暦寺だけでなく、この高野山とも敵対関係でしたので、本能寺の変がなかったら高野山もどうなっていたか判りません。そんな信長ですから、奥の院にその墓所が建てられたのは、かなり時が経ってからだと言われています。江戸時代の記録では、元々は目立たない別の場所に建てられたそうです。その後、人々の記憶から抹殺されていたのですが、1970年になって現在の場所で発見されたと言う経緯があります。尚、この織田信長や織田秀勝(羽柴秀勝)の供養塔は、信長の側室 養観院が建立したと考えられています。 -
織田信長墓所
天台宗の比叡山延暦寺を焼き討ちした信長の墓所が、いくら宗派は違えども真言宗の高野山に存在するというのも妙なものです。また、信長を討った明智光秀の墓所も同じ敷地内にあるというのも不思議な縁です。
死後は敵・味方も、生前に成した所業も関係なく、全ての御霊が等しく受け入れられるという高野山の懐の深さを感じずにはいられません。戦国武将たちがあの世でどのような会話を交わしているのか、想像しただけでも頬が弛みます。有名人の墓参りが趣味の「墓マイラー」という人たちがいるそうですが、これだけの数を回れば仲間入りできるかもしれません。
戦国時代、多数の僧兵を擁していた高野山は、比叡山焼き討ちや石山合戦を行った信長と対立するようになります。1581年、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めましたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野聖を数百名殺害し、さらに数万の軍勢で高野山攻めを行いました。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れます。
続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけましたが、高野山にいた武士出身の僧 木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山はなんとか存続することができたのです。後に秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺(金剛峯寺の前身)を建てました。 -
水向地蔵
御廟橋を渡る前に右手を見ると、玉川清流を背に金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩像が立ち並んでいます。
奥の院に参詣する人々が、御供所で水向塔婆を求めてこの地蔵尊に納め、右側から順番に水を手向けてご先祖の冥福を祈る場所です。 -
護摩堂
水向地蔵の正面手前にあるのが、護摩堂です。
護摩焚き祈祷をする所です。
奥にあるのが供養堂です。奥の院の社務所といった所で、弘法大師の食事もここで料理されて燈籠堂まで運ばれます。 -
嘗試地蔵(あじみじぞう)
供養堂の護摩堂側にあり、生身供(しょうじんぐ)で弘法大師に届ける食事を地蔵尊に毒味してもらう儀式が行われる場所です。
今も瞑想を続ける大師のために、1200年もの間、毎日食事が作られています。食事が運ばれるのは、午前6時と午前10時半の1日2回です。食事を運ぶ2人の僧の前を歩くのが維那(ゆいな)と呼ばれる仕待僧という空海の世話役を代々務める方で、年に1度の入定日には大師の衣替えも担当されます。因みに、午後に食事がないのは瞑想に集中するためだそうです。 -
嘗試地蔵
「生身供」と呼ばれる出発の儀式は、この嘗試地蔵から始まります。毒味が終わった後、食事の入った白木の木箱は燈籠堂へと運ばれ、肖像画が飾られている前に置かれます。そして、長い読経が始まります。他の情報によると30分程とあります。
余談ですが、メニューは、温かいご飯と汁物、季節の野菜を使ったおかずで、シチューやカレー、パスタといった洋食が給仕されることもあるそうです。
ラッキーなことに、11時過ぎに燈籠堂で食事を下げる場面に遭遇することができました。読経が終わると直ぐに下げるということのようです。 -
供養堂
ここで、納経・御朱印をいただきます。
もしも途中で団体さんを見かけたら、急ぎ足で追い抜かれることをお勧めします。御朱印をいただく団体さんが多いので、行列ができてしまうこともしばしばです。 -
弥勒石
御廟橋の先には、小さな祠に黒い石「弥勒石」が安置され、この石に触れると弥勒菩薩勝縁を結ぶと伝えられています。また、善人には軽く、悪人には重く感じられると言われ、石を持ち上げることができると願い事が叶うとの言い伝えがあります。
実際に持ち上げようとしてみましたが、あまりにも大きく、重いため手首や肘などの筋を痛めそうになります。通常は、持ち上がらないそうですので、無理なさらないでください。 -
頌徳殿(しょうとくでん)
供養堂の左手には 頌徳殿という茶屋があります。
1915(大正4)年、高野山開創1100年の記念事業として建立されたもので、高野山では数少ない大正時代の建造物です。和歌山市の寺院が発起人となり、沢山の方々の寄進によって建築されました。 -
頌徳殿の奥
現在は茶所として、参拝の方々の休憩所として開放されており、奥の建屋でセルフサービスでお茶を飲むことができます。
お釜は熱せられていますので、蓋を開ける際には火傷に気を付けてください。通常は、ヤカンにお茶が準備されていますのでそれを湯呑茶碗に注ぐだけです。
この建屋の左隣には公衆トイレがあります。 -
無縁仏
頌徳殿の裏側にある玉川に架けられた橋を渡ると、無縁仏がピラミッド状に整然と積まれています。
かつて庶民たちは、小型の石塔や石仏を持って必死に高野山を登ったそうです。血縁者たちの来世の安楽を祈り、重さに耐えながら登ったことでしよう。そうした小型の石塔や石仏たちは、奥の院周辺の土中に無数に埋まっているそうです。そして掘り出された石塔は、このように無縁仏として丁重に供養されています。 -
御廟橋
霊峰 揚柳山に流れを発する玉川清流に架けられたこの橋は御廟への霊域との結界に当たり、その先に弘法大師御廟や燈籠堂があります。この橋まで大師が出迎え、見送りをしてくださると言われています。
この橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数えて金剛界37尊を表し、橋板の裏には仏尊のシンボルの梵字が刻まれ、とても神聖な橋とされています。また、苅萱道心(かるかやどうしん)と石童丸親子(いしどうまる)が初めて巡り合った場所とも伝えられています。
元々は木橋でしたが、現在は原型を保った石橋に架け替えられています。しかし、神秘的な雰囲気はかつての面影を留めているそうです。
尚、この先は撮影禁止、ペットの連れ込みも禁止です。脱帽し、私語を慎み、神聖な気持ちで進んでください。何故このようなことを徹底するかと言えば、今でも空海が御廟で救いの手を差し伸べるために瞑想を続けているとの思想からです。 -
御廟橋 流水灌頂(ながれかんじょう)
御廟橋ができるまでは、橋の下を流れる玉川で禊を済ませてから聖地に足を踏み入れました。現在も、寒中水行の場として信者たちが使用しています。ですから、この橋を渡る時には、服装を正し、礼拝し、清らかな気持ちで足を踏み入れます。
玉川は、奥の院裏山の霊峰 楊柳山から流れ出る清水です。川の中に立てられている卒塔婆は、流水灌頂と言い、水難事故や難産でこの世を去った人々の霊を水で清めて追善供養するためのものです。
また、「高野七不思議」のひとつとしてこの川に住む小魚にまつわる伝説があります。
大師様は、山男が玉川の畔で小魚を捕って串に刺して焼いて食べようとするのを見つけ、その小魚を買い取り、魚の串を抜いて自ら玉川に放しました。すると、焼かれた魚が生き返って泳いだと言います。それを見た山男は、殺生の罪を悔い、魚を獲ることをやめたそうです。そして、この川に棲む魚には、今でもその背中に串の跡とされる斑点が見られ、お山の人はこの魚を食べることがないそうです。 -
御廟橋
この橋には、時代と共に2つの言い伝えがありました。「橋を渡るとあらゆる罪障が消滅する」と「罪障の深い人が渡ると祟りが生じる」と言うものです。豊臣秀吉が奥の院を参詣した時代には、後者が主流でした。天下をとるために多くの人々を殺めた秀吉は、無事にこの橋を渡れたことを大いに喜んだそうです。
とはいえ、策略家の秀吉ですので、そこには裏工作があります。実は、今まで自分がしてきたことを顧みて、果たして無事に渡れるか心配だったそうです。そこで木食上人に頼んで、参詣の前日の夜、上人に先導してもらってこの橋を渡ることができるかどうか確かめたそうです。すると足が竦むこともなく何事もなく渡ることができ、翌日の本番では胸を張り、颯爽と行列を進めたそうです。そして無事渡り終えた後、供奉の大名たちに、「太閤の罪のほども知られたり、方々いかに」と見得を切ったそうです。 -
御廟橋
元高野山大学 日野西教授によると、平安時代より奥の院のみならず大門の内側の高野山地域全てを聖なる領域と考えていたそうです。鎌倉期以後は、奥の院に亡き人を慰霊するための多数の五輪塔が競って造られたようです。しかし、鎌倉時代の石塔の多くは、財力のある限られた支配者階層のものだったようです。
死せる魂が安らぐ場所であり、生かされた我々の心にも平安を与える場所であり、数百年の長きに亘り人々の「死者への思い」を集めて来た特別な場所であることは確かなようです。 -
燈籠堂
御廟橋の100m先、御廟の手前に建つ燈籠堂は、高野山第二世の真然大徳が建立し、1023(治安3)年に藤原道長が現在の規模に拡張した堂宇です。現在の建物は1965(昭和40)に再建されたものです。
堂内の天井は、1万6千余基の献灯に埋め尽くされています。皇族から、貧しい女性まで、身分を超えて献灯されています。その中に「消えずの火」と呼ばれる2つの燈籠があります。祈親上人が献じた祈親燈と、白河上皇が献じた白河燈です。これらは、900年以上も燃え続けていると伝わります。「祈親燈」は、祈親上人の勧めで貧しい女性(お照)が髪を売って献灯したと言う説もあり、「貧女の一灯」とも言われています。
「長者の万灯より貧者の一灯」という諺があります。金持ちが多額の寄進をするよりも、貧しい人が真心を込めてする寄進のほうが尊いという意味です。これは、経典『阿闍世王授決経』に載せられた古代インドを舞台にした説話から生まれものですが、「消えずの火」はこれになぞらえた話だそうです。
また、燈籠堂の地下には、奉納された5万体もの小さな弘法大師像が並んでいます。
この燈籠堂を抜け、奥に進むと、空に向かって伸びる千年杉に囲まれた厳かな佇まいの弘法大師御廟が現れます。そこには、聖地ならではの凛とした空気感が漲っています。
この写真は、http://www.koya.org/tourism-koyasan3.htmlより借用させていただきました。 -
燈籠堂
燈籠堂には弘法大師からのご利益を授かることができる最強アイテムが売られています。それは「御衣切(おころもぎれ)」です。しかし単なる衣の切れ端ではなく、弘法大師が実際にお召しになったお衣のものです。
弘法大師は今でも御廟で瞑想され続けているとされ、年に1回、お衣を着替えることになっており、その時の古着の切れ端です。
持っているだけでもの凄いご利益を授かれますが、ご利益を更にパワーアップする方法があります。コップに入れた水に切れ端の縦糸と横糸を各1本入れ、「南無大師遍照金剛」と7回唱えながらかき混ぜ、それを飲み干すのです。
因みに、「御衣切」は燈籠堂だけでなく、喜宝院でもお守りとして授受されます。実は、弘法大師がお召しになるお衣は、喜宝院にある井戸の水を使って染められているのです。訪れる方は少ないようですが、燈籠堂には地下室があり、そこからは御廟の地下(3m)の霊窟から10mの距離で弘法大師と正対してお参りすることができます。燈籠堂の右側面に「地下法場」に降りていく階段があります。奥まった所に大師の御影が掛けられており、この絵の位置が弘法大師が瞑想している高さと同じ高さになるそうです。
この写真は、http://www.koya.org/tourism-koyasan3.htmlより借用させていただきました。 -
弘法大師御廟
大師信仰の中心聖陵に当たります。
転軸、楊柳、摩尼の3山の千年杉に囲まれた「奥の院」の一番奥にあるのが、弘法大師の霊を祀る「大師御廟」です。
空海は835(承和2)年3月21日寅の刻、62歳で予言通り入定しました。入定後、弟子たちはその場所に御廟を建立し、入定後86年を経た921(延喜21)年に醍醐天皇より弘法大師の諡号を賜りました。この御廟で祈願すれば、大師が必ず応えて下さると言われており、祈りを捧げる参拝者が絶えません。
当然ながら、御廟は究極のパワースポッです。特に人のいない冬の早朝などは、神秘的なパワーを感じ易いと言われています。
御廟の中に入ることはできませんので、その前で多くの人がお祈りをしています。弘法大師は、御廟の地下で今も瞑想を続けています。御廟に30cmほどの穴が開けられており、そこから弘法大師が出たり入ったりしていると言われています。
この写真は、http://www.koya.org/tourism-koyasan3.htmlより借用させていただきました。
この続きは、九夏三伏 高野山彷徨②苅萱堂・金剛三昧院でお届けいたします。
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