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高野山は、和歌山県北部、周囲を1000m級の山々に囲まれた標高800mの平坦地に位置し、現在は117寺の寺院が密集する宗教都市です。その中にあってこの金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山になります。<br />元々は真然大徳の住居があった場所で、1131(天承元)年に覺鑁上人が鳥羽上皇の許しを得て大伝法院を建立しました。その後、豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて青厳寺と興山寺を建立させました。以後、再三の火災によって焼失しましたが、現在の本殿は1863(文久3)年に再建されたものです。1869(明治2)年、興山寺と青厳寺が統合されて金剛峯寺と改称し、全国3600に及ぶ末寺を代表する高野山真言宗の総本山となりました。因みに、「金剛峯寺」の名は、『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(愛染明王坐像附)』という経典が由来と伝えられています。<br />高野山全体の宗務が行われており、住職には高野山真言宗管長が就任するしきたりになっています。国内最大級の広さを誇る石庭「蟠龍庭」や歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」にある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩です。<br /><br />金剛峯寺のHPです。<br />https://www.koyasan.or.jp/

九夏三伏 高野山彷徨③金剛峯寺

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2016/07/28 - 2016/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

高野山は、和歌山県北部、周囲を1000m級の山々に囲まれた標高800mの平坦地に位置し、現在は117寺の寺院が密集する宗教都市です。その中にあってこの金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山になります。
元々は真然大徳の住居があった場所で、1131(天承元)年に覺鑁上人が鳥羽上皇の許しを得て大伝法院を建立しました。その後、豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて青厳寺と興山寺を建立させました。以後、再三の火災によって焼失しましたが、現在の本殿は1863(文久3)年に再建されたものです。1869(明治2)年、興山寺と青厳寺が統合されて金剛峯寺と改称し、全国3600に及ぶ末寺を代表する高野山真言宗の総本山となりました。因みに、「金剛峯寺」の名は、『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(愛染明王坐像附)』という経典が由来と伝えられています。
高野山全体の宗務が行われており、住職には高野山真言宗管長が就任するしきたりになっています。国内最大級の広さを誇る石庭「蟠龍庭」や歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」にある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩です。

金剛峯寺のHPです。
https://www.koyasan.or.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 石柱<br />総本山としての威厳のある門構えです。<br />石柱の結界を超えると左手に手水舎があります。<br />高野山の中だけでも高野山真言宗は117の寺がありますが、全国では約3600ものお寺があります。<br />

    石柱
    総本山としての威厳のある門構えです。
    石柱の結界を超えると左手に手水舎があります。
    高野山の中だけでも高野山真言宗は117の寺がありますが、全国では約3600ものお寺があります。

  • 正門<br />最初に潜る門は正門と言われ、金剛峯寺の建物の中で一番古く、1593(文禄2)年に再建されて以来、今日までその姿を留めています。<br />右側には小さな入り口があり、一般の僧侶が使用されるものです。かつてはこの正門から出入りできるのは天皇や皇族、高野山の重職に限られていたそうです。<br />また、提灯を見て判るように、「金剛峯寺」には寺紋が2つあります。<br />左が豊臣秀吉から拝領した青厳寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守 丹生都比売神社の寺紋「三頭右巴」です。

    正門
    最初に潜る門は正門と言われ、金剛峯寺の建物の中で一番古く、1593(文禄2)年に再建されて以来、今日までその姿を留めています。
    右側には小さな入り口があり、一般の僧侶が使用されるものです。かつてはこの正門から出入りできるのは天皇や皇族、高野山の重職に限られていたそうです。
    また、提灯を見て判るように、「金剛峯寺」には寺紋が2つあります。
    左が豊臣秀吉から拝領した青厳寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守 丹生都比売神社の寺紋「三頭右巴」です。

  • 主殿<br />門を潜ると正面に巨大な主殿が現れます。現在の主殿は、幕末の1863(文久3)年に再建されたものです。衰えつつあったとは言え、江戸幕府にもこれだけ立派な再建ができる余力が残されていたとは吃驚ポンです。<br />持仏間には本尊「弘法大師坐像」が安置され、日々の勤行が行われています。また、持仏間の正面手前には塔婆が立てられています。

    主殿
    門を潜ると正面に巨大な主殿が現れます。現在の主殿は、幕末の1863(文久3)年に再建されたものです。衰えつつあったとは言え、江戸幕府にもこれだけ立派な再建ができる余力が残されていたとは吃驚ポンです。
    持仏間には本尊「弘法大師坐像」が安置され、日々の勤行が行われています。また、持仏間の正面手前には塔婆が立てられています。

  • 主殿<br />金剛峯寺は、寺紋だけではなく玄関も2つあります。左側の大玄関は、天皇・皇族や高野山重職だけが出入する特別な玄関でした。囲いがなされた大玄関の右手に唐破風の小玄関があり、上綱職の僧侶はそこから出入りしました。また、一般の僧侶は、かつては玄関ではなく裏口より出入りしましたが、今は一般参詣入口を利用しています。 <br />

    主殿
    金剛峯寺は、寺紋だけではなく玄関も2つあります。左側の大玄関は、天皇・皇族や高野山重職だけが出入する特別な玄関でした。囲いがなされた大玄関の右手に唐破風の小玄関があり、上綱職の僧侶はそこから出入りしました。また、一般の僧侶は、かつては玄関ではなく裏口より出入りしましたが、今は一般参詣入口を利用しています。

  • 主殿<br />主殿の前身は桃山時代に遡り、1593(文禄2)年に秀吉が大政所(天瑞院)の菩提を弔うために建立しました。往時は、大政所の剃髪が納められたことから剃髪寺、その後は青厳寺と呼ばれました。高野山は織田信長と対立しましたが、秀吉とは良い関係を築けたことで今の姿を留めることができたのだと思います。<br />余談ですが、受付の廊下にダイソン製扇風機が置かれていました。そういえば、以前、ダイソン社が寄進したとニュースになっていましたが、お寺の雰囲気を壊さないデザインで違和感のないものでした。

    主殿
    主殿の前身は桃山時代に遡り、1593(文禄2)年に秀吉が大政所(天瑞院)の菩提を弔うために建立しました。往時は、大政所の剃髪が納められたことから剃髪寺、その後は青厳寺と呼ばれました。 高野山は織田信長と対立しましたが、秀吉とは良い関係を築けたことで今の姿を留めることができたのだと思います。
    余談ですが、受付の廊下にダイソン製扇風機が置かれていました。そういえば、以前、ダイソン社が寄進したとニュースになっていましたが、お寺の雰囲気を壊さないデザインで違和感のないものでした。

  • 主殿 持仏間 正面 破風向拝<br />主殿の屋根の上には、複数の天水桶が置かれています。<br />普段から雨水を溜めておき、火災が発生した時、火の粉が飛んで屋根が燃え上がらないように桶の水を撒いて湿らせるという役割を担っています。ここまでしなければならないくらい、歴史的に高野山は火災による焼失被害を受けてきたことが窺えます。 <br />

    主殿 持仏間 正面 破風向拝
    主殿の屋根の上には、複数の天水桶が置かれています。
    普段から雨水を溜めておき、火災が発生した時、火の粉が飛んで屋根が燃え上がらないように桶の水を撒いて湿らせるという役割を担っています。ここまでしなければならないくらい、歴史的に高野山は火災による焼失被害を受けてきたことが窺えます。

  • 主殿 持仏間 正面 破風向拝<br />鳩除けなのか金網が張られていて見え難いのですが、2羽の鶴が彫られています。<br />

    主殿 持仏間 正面 破風向拝
    鳩除けなのか金網が張られていて見え難いのですが、2羽の鶴が彫られています。

  • 主殿 持仏間 正面 破風向拝<br />かなり傷んでいますが、虹梁の左右には虎の透かし彫りが施されています。

    主殿 持仏間 正面 破風向拝
    かなり傷んでいますが、虹梁の左右には虎の透かし彫りが施されています。

  • 主殿 持仏間 正面 破風向拝<br />唐獅子のようでもありますが、竹があることからこちらも虎と思われます。

    主殿 持仏間 正面 破風向拝
    唐獅子のようでもありますが、竹があることからこちらも虎と思われます。

  • 主殿<br />大玄関の妻面には龍の彫り物が施されています。<br />目が判りにくいためか、どこかとぼけた印象です。<br />正に「画竜点睛」と言ったところでしょうか?

    主殿
    大玄関の妻面には龍の彫り物が施されています。
    目が判りにくいためか、どこかとぼけた印象です。
    正に「画竜点睛」と言ったところでしょうか?

  • 柳の間<br />優雅で荘厳な装飾や襖絵が内部を彩っています。特に、秀吉に関白の座を追われた秀次が1595(文禄4)年に自刃した「柳の間」が有名です。再建された部屋と分かっていても思わず見入ってしまい、秀次の悲哀に思いを馳せます。<br />32歳(一般には28歳)で権力の中枢から引きずり降ろされた挙句、自刃は自己責任だったとしても、何の関係もない一族が殺戮された訳ですから…。秀吉は、秀次を象徴する聚楽第や彼の痕跡を完膚なきまでに潰しました。関白の切腹という前代未聞のスキャンダルに動揺する世間に、「謀反人」を始末したと印象付けて政権を守ろうとするパフォーマンスだったと言われています。<br />江戸の世に書かれた『甫庵太閤記』により、秀次は素行の悪い残忍な「殺生関白」とも評されましたが、それは秀次が冷遇されたことや、やり場のない鬱憤を拡大解釈して彼をおとしめるためのものであり、実際は優秀な人物だったようです。イエズス会宣教師ルイス・フロイス著『関白秀次の最後』には、「この少壮の関白殿は優れた才能を持ち、気前のよい人で、多くの資質を備え、機敏、怜悧、かつまれに見る賢明さの持ち主で、特に親切で、その他にも多くの優れた徳を備えていました」 と評しています。<br />この事件がなければ豊臣政権は安泰だったことだろうし、歴史も変わっていたかもしれません。たった一人の死がその後の歴史のターニングポイントになったとは…。大河ドラマ『真田丸』では、矢部健太郎著『関白秀次の切腹』にあるような新しい時代考証が採用されていたことには吃驚ポンでした。<br /><br />この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

    柳の間
    優雅で荘厳な装飾や襖絵が内部を彩っています。特に、秀吉に関白の座を追われた秀次が1595(文禄4)年に自刃した「柳の間」が有名です。再建された部屋と分かっていても思わず見入ってしまい、秀次の悲哀に思いを馳せます。
    32歳(一般には28歳)で権力の中枢から引きずり降ろされた挙句、自刃は自己責任だったとしても、何の関係もない一族が殺戮された訳ですから…。秀吉は、秀次を象徴する聚楽第や彼の痕跡を完膚なきまでに潰しました。関白の切腹という前代未聞のスキャンダルに動揺する世間に、「謀反人」を始末したと印象付けて政権を守ろうとするパフォーマンスだったと言われています。
    江戸の世に書かれた『甫庵太閤記』により、秀次は素行の悪い残忍な「殺生関白」とも評されましたが、それは秀次が冷遇されたことや、やり場のない鬱憤を拡大解釈して彼をおとしめるためのものであり、実際は優秀な人物だったようです。イエズス会宣教師ルイス・フロイス著『関白秀次の最後』には、「この少壮の関白殿は優れた才能を持ち、気前のよい人で、多くの資質を備え、機敏、怜悧、かつまれに見る賢明さの持ち主で、特に親切で、その他にも多くの優れた徳を備えていました」 と評しています。
    この事件がなければ豊臣政権は安泰だったことだろうし、歴史も変わっていたかもしれません。たった一人の死がその後の歴史のターニングポイントになったとは…。大河ドラマ『真田丸』では、矢部健太郎著『関白秀次の切腹』にあるような新しい時代考証が採用されていたことには吃驚ポンでした。

    この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

  • 枯山水小庭<br />柳の間から蟠龍庭(ばんりゅうてい)に辿り着く前に趣のある枯山水の小庭があります。<br />見事な砂紋(さもん)に目を瞠ります。<br />この廊下の先に別殿があり、それをとり囲むのが蟠龍庭です。<br />

    枯山水小庭
    柳の間から蟠龍庭(ばんりゅうてい)に辿り着く前に趣のある枯山水の小庭があります。
    見事な砂紋(さもん)に目を瞠ります。
    この廊下の先に別殿があり、それをとり囲むのが蟠龍庭です。

  • 新別殿<br />通路から木立越しに見る蟠龍庭です。

    新別殿
    通路から木立越しに見る蟠龍庭です。

  • 新別殿<br />1984年の弘法大師御入定1150年御遠忌大法会の際、大勢の参詣者への接待所として新設されました。鉄筋コンクリート造りですが、本山の荘厳に合わせて入母屋の荘重なもので、169畳の大広間になっています。<br />ここでは、参拝者の休憩所としてお茶の接待があります。<br />広間の壁には曼荼羅や掛け軸が多数掛けられており、自由に見られるようになっています。こうしたものだけで「悟り」が開けることはありませんが、観光寺院とは一線を画している気がし、「さすがは高野山」と感心させられました。

    新別殿
    1984年の弘法大師御入定1150年御遠忌大法会の際、大勢の参詣者への接待所として新設されました。鉄筋コンクリート造りですが、本山の荘厳に合わせて入母屋の荘重なもので、169畳の大広間になっています。
    ここでは、参拝者の休憩所としてお茶の接待があります。
    広間の壁には曼荼羅や掛け軸が多数掛けられており、自由に見られるようになっています。こうしたものだけで「悟り」が開けることはありませんが、観光寺院とは一線を画している気がし、「さすがは高野山」と感心させられました。

  • 蟠龍庭<br />大広間で寛いでパワーを充電した後は、颯爽と蟠龍庭へと向かいます。<br />正面奥の左側に勅使門があり、そこを中心にして左右に龍が潜む姿をイメージすると石庭の表現が掴み易いと思います。<br />

    蟠龍庭
    大広間で寛いでパワーを充電した後は、颯爽と蟠龍庭へと向かいます。
    正面奥の左側に勅使門があり、そこを中心にして左右に龍が潜む姿をイメージすると石庭の表現が掴み易いと思います。

  • 蟠龍庭<br />1984年の弘法大師入定1150年御遠忌大法会の際、新別殿と同時に新たに造られた石庭です。枯山水の石庭としては日本最大級の広さ(2340平方m)を誇ります。<br />天に昇らずに地上でトグロを巻いて潜んでいる龍のことを「蟠龍」と言います。白い雲海の中に、雌雄1対の龍が向かい合い、「金胎不二(こんたいふに)」の相で奥殿を守護する様を表現し、勅使門より左側に雄龍、右側に雌龍を配しています。静の中にも動を感じさせる表現方法です。<br />左奥には勅使門があり、その正面にあるのが奥殿です。

    蟠龍庭
    1984年の弘法大師入定1150年御遠忌大法会の際、新別殿と同時に新たに造られた石庭です。枯山水の石庭としては日本最大級の広さ(2340平方m)を誇ります。
    天に昇らずに地上でトグロを巻いて潜んでいる龍のことを「蟠龍」と言います。白い雲海の中に、雌雄1対の龍が向かい合い、「金胎不二(こんたいふに)」の相で奥殿を守護する様を表現し、勅使門より左側に雄龍、右側に雌龍を配しています。静の中にも動を感じさせる表現方法です。
    左奥には勅使門があり、その正面にあるのが奥殿です。

  • 蟠龍庭<br />龍は空海の誕生の地である四国の青い花崗岩140個を使い、雲海には京都の白川砂が使われています。 <br />「金胎不二」とは、「金剛界と胎藏界は2つでありながら1体である」という教えで、真言密教の教学の根本思想です。金剛界は堅固な永遠の覚りの智慧、胎蔵界は仏の慈悲という母親から生まれた曼荼羅となります。

    蟠龍庭
    龍は空海の誕生の地である四国の青い花崗岩140個を使い、雲海には京都の白川砂が使われています。
    「金胎不二」とは、「金剛界と胎藏界は2つでありながら1体である」という教えで、真言密教の教学の根本思想です。金剛界は堅固な永遠の覚りの智慧、胎蔵界は仏の慈悲という母親から生まれた曼荼羅となります。

  • 蟠龍庭<br />大名庭園などの庭園に比べてしまうと決して大きなものではありませんが、平面の石庭でこの規模は驚きです。これで半分ということですから…。庭園に秘められた意味や芸術性を愛でる前に、まずその雄大な規模に圧倒されます。<br />しかし、この広い空間を白砂と石だけでデザインするのは、大変だったことでしょう。壮大でダイナミックな石庭表現は、高野山と言う神秘的な雰囲気にマッチし、時間が止まっているかのようです。<br />枯山水と言うと禅寺の代名詞ですが、国内最大の枯山水が密教寺院にあるとは吃驚ポンです。

    蟠龍庭
    大名庭園などの庭園に比べてしまうと決して大きなものではありませんが、平面の石庭でこの規模は驚きです。これで半分ということですから…。庭園に秘められた意味や芸術性を愛でる前に、まずその雄大な規模に圧倒されます。
    しかし、この広い空間を白砂と石だけでデザインするのは、大変だったことでしょう。壮大でダイナミックな石庭表現は、高野山と言う神秘的な雰囲気にマッチし、時間が止まっているかのようです。
    枯山水と言うと禅寺の代名詞ですが、国内最大の枯山水が密教寺院にあるとは吃驚ポンです。

  • 蟠龍庭<br />ここから見ると連なる石群が確かに龍の背中のように見えます。

    蟠龍庭
    ここから見ると連なる石群が確かに龍の背中のように見えます。

  • 蟠龍庭<br />ここからは雌龍の尻尾の辺りが少しだけ見られます。

    蟠龍庭
    ここからは雌龍の尻尾の辺りが少しだけ見られます。

  • 書院上段の間<br />以前は天皇、上皇が入山された際の応接間として使用されていた部屋で、現在は高野山の重要な儀式に使用されています。<br />上段の間には上々段の間と装束の間があり、壁は全面総金箔押しで、天井は折上式格天井の書院造り様式になっています。上段右側にある小さな房の着いた襖は「武者隠し」と呼ばれ、襖の向こうには一室の部屋が設けられています。<br /><br />この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

    書院上段の間
    以前は天皇、上皇が入山された際の応接間として使用されていた部屋で、現在は高野山の重要な儀式に使用されています。
    上段の間には上々段の間と装束の間があり、壁は全面総金箔押しで、天井は折上式格天井の書院造り様式になっています。上段右側にある小さな房の着いた襖は「武者隠し」と呼ばれ、襖の向こうには一室の部屋が設けられています。

    この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

  • 鐘楼<br />正門を潜って右にある建物が、金剛峯寺の前身「青巌寺」の時代の鐘楼です。<br />その構造形式から、1860(万延元)年の大火で類焼後、主殿などの建物と共に鐘楼もその4年後に再建されたものとされています。<br />桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造りの形式で、県指定文化財になっています。

    鐘楼
    正門を潜って右にある建物が、金剛峯寺の前身「青巌寺」の時代の鐘楼です。
    その構造形式から、1860(万延元)年の大火で類焼後、主殿などの建物と共に鐘楼もその4年後に再建されたものとされています。
    桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造りの形式で、県指定文化財になっています。

  • 経蔵<br />正門を潜って左手前方に見えるのが経蔵です。<br />1679(延宝7)年に大阪天満の伊川屋から釈迦三尊像と併せて寄進されたものです。<br />経蔵は重要なものを収蔵する倉庫ですから、火災が発生しても延焼しないように主殿とは別に離れた場所に建てられました。

    経蔵
    正門を潜って左手前方に見えるのが経蔵です。
    1679(延宝7)年に大阪天満の伊川屋から釈迦三尊像と併せて寄進されたものです。
    経蔵は重要なものを収蔵する倉庫ですから、火災が発生しても延焼しないように主殿とは別に離れた場所に建てられました。

  • 六時の鐘<br />正門から出て壇上伽藍へと向かうと、小高い石垣の上に鐘楼が建てられています。<br />福島正則が両親の追善を祈り、1618(元和4)年に建立したものです。正則は、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで七本槍と称された豊臣家きっての勇将です。一度焼失し、1635(寛永12)年に正則の子 正利によって再鋳され、以来山内の生活に刻み込まれた音韻は歴史の流れの中に大きく息づいていました。ここの鐘は、鐘銘が仮名混じり文である事でも知られています。<br />今では機械仕掛けで、午前6時から午後10時までの間、偶数時に時刻を告げています。1時に12回撞き、1日に合計108回撞かれます。名の由来は、単純に午前6時から鐘の音が鳴り響くからです。

    六時の鐘
    正門から出て壇上伽藍へと向かうと、小高い石垣の上に鐘楼が建てられています。
    福島正則が両親の追善を祈り、1618(元和4)年に建立したものです。正則は、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで七本槍と称された豊臣家きっての勇将です。一度焼失し、1635(寛永12)年に正則の子 正利によって再鋳され、以来山内の生活に刻み込まれた音韻は歴史の流れの中に大きく息づいていました。ここの鐘は、鐘銘が仮名混じり文である事でも知られています。
    今では機械仕掛けで、午前6時から午後10時までの間、偶数時に時刻を告げています。1時に12回撞き、1日に合計108回撞かれます。名の由来は、単純に午前6時から鐘の音が鳴り響くからです。

  • 六時の鐘<br />石川五右衛門は安土桃山時代の大泥棒ですが、その大泥棒が何とか高野山に忍び込んだ際、「鎹(かすがい)」と言う大工が家を建てるときに使う金属金具をこの石垣の隙間に隠したとの伝承があります。<br />秀次の切腹にまつわる話とされ、石川五右衛門が高野山に情報収集に訪れた際、身体検査で泥棒だとバレないようにここに隠したものとされています。その場所は、「六時の鐘」の石垣の基礎部分になります。<br />目印は、この小さな石仏です。石仏の左にある赤い隅石とその下の隅石の間に挟まっています。

    六時の鐘
    石川五右衛門は安土桃山時代の大泥棒ですが、その大泥棒が何とか高野山に忍び込んだ際、「鎹(かすがい)」と言う大工が家を建てるときに使う金属金具をこの石垣の隙間に隠したとの伝承があります。
    秀次の切腹にまつわる話とされ、石川五右衛門が高野山に情報収集に訪れた際、身体検査で泥棒だとバレないようにここに隠したものとされています。その場所は、「六時の鐘」の石垣の基礎部分になります。
    目印は、この小さな石仏です。石仏の左にある赤い隅石とその下の隅石の間に挟まっています。

  • 六時の鐘<br />この鎹にそっと触れると夫婦の絆が深まるそうです。これは、鎹が物と物を繋げる役割を果たしていることから縁起を担いでいるそうです。昔から「子は鎹」と言われる所以です。<br />本当のところ、何故こんな処に鎹があるのか謎ですが、石川五右衛門が絡んでくると結構真実味を帯びてくるから不思議です。<br /><br />この続きは、九夏三伏 高野山彷徨④壇上伽藍でお届けいたします。

    六時の鐘
    この鎹にそっと触れると夫婦の絆が深まるそうです。これは、鎹が物と物を繋げる役割を果たしていることから縁起を担いでいるそうです。昔から「子は鎹」と言われる所以です。
    本当のところ、何故こんな処に鎹があるのか謎ですが、石川五右衛門が絡んでくると結構真実味を帯びてくるから不思議です。

    この続きは、九夏三伏 高野山彷徨④壇上伽藍でお届けいたします。

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