高野山周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
壇上伽藍は、奥の院と共に高野山二大聖地のひとつです。伽藍とは、僧侶が集まり、厳しい修行をすることで悟りを開くための場所です。空海が高野山を開山した際、七里結界の法を修して伽藍を建立した最初の地と伝えられています。819(弘仁10)年5月3日、地主神として丹生、狩場(高野)両明神を勧請し、さらに小高くした壇上に大塔や講堂(金堂)を初め諸堂、僧房が建立されていきました。 <br />現在では総本堂「金堂」や多宝塔「根本大塔」以外にも国宝「不動堂」、重文「西塔」や「明神社」が建ち並ぶ高野山一の伽藍群となっています。ただし、不動堂以外は落雷などで焼失し、再建されたものになっています。<br />ここには正式な参拝方法があり、右肩を壇上伽藍の中央に位置する金堂の仏像に向け、時計回りで巡ることだそうです。これは右手を清浄(浄手)とするインドから伝わった礼拝方法で、右遶(うにょう)と言います。<br /><br />壇上伽藍を説明しているサイトです。<br />http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html

九夏三伏 高野山彷徨④壇上伽藍

928いいね!

2016/07/28 - 2016/07/28

3位(同エリア1146件中)

2

49

montsaintmichel

montsaintmichelさん

壇上伽藍は、奥の院と共に高野山二大聖地のひとつです。伽藍とは、僧侶が集まり、厳しい修行をすることで悟りを開くための場所です。空海が高野山を開山した際、七里結界の法を修して伽藍を建立した最初の地と伝えられています。819(弘仁10)年5月3日、地主神として丹生、狩場(高野)両明神を勧請し、さらに小高くした壇上に大塔や講堂(金堂)を初め諸堂、僧房が建立されていきました。
現在では総本堂「金堂」や多宝塔「根本大塔」以外にも国宝「不動堂」、重文「西塔」や「明神社」が建ち並ぶ高野山一の伽藍群となっています。ただし、不動堂以外は落雷などで焼失し、再建されたものになっています。
ここには正式な参拝方法があり、右肩を壇上伽藍の中央に位置する金堂の仏像に向け、時計回りで巡ることだそうです。これは右手を清浄(浄手)とするインドから伝わった礼拝方法で、右遶(うにょう)と言います。

壇上伽藍を説明しているサイトです。
http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 蛇腹路<br />伽藍入り口から東塔付近まで伸びている小径を「蛇腹路」と呼びます。しかし、真っ直ぐな道で、何処を見てもそのような形には見えません。<br />実は空海は、高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容し、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院までを龍が臥している形に例えたのです。そして、丁度この小道が龍のお腹の辺りなることから蛇腹路と呼ばれるようになったそうです。<br />青モミジが美しい参道ですので、秋には紅葉のトンネルが愉しめそうです。

    蛇腹路
    伽藍入り口から東塔付近まで伸びている小径を「蛇腹路」と呼びます。しかし、真っ直ぐな道で、何処を見てもそのような形には見えません。
    実は空海は、高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容し、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院までを龍が臥している形に例えたのです。そして、丁度この小道が龍のお腹の辺りなることから蛇腹路と呼ばれるようになったそうです。
    青モミジが美しい参道ですので、秋には紅葉のトンネルが愉しめそうです。

  • 壇上伽藍<br />密教は、古い時代には信仰であると共に文化でもあり、原初的な概念の科学でもありました。特に、古代エジプトの冶金をルーツとする卑金属から黄金を精製する錬金術や、不老長生の仙薬を実現する錬丹術に幻想を抱き、悲喜劇が繰り返されてきました。しかし、密教における錬丹術の真の目的は、「即身成仏=生きたまま悟りの境地に至って不死の状態になること」を実現する補助手段を得るためのものでした。また、こうした錬金、錬丹術には潤沢な水銀が不可欠でした。<br />天野の里にある丹生都比売神社は水銀の神様です。実際、空海にまつわる伝説の中には、水銀で得たお金を活動資金に宛てたという話があります。『平林寺縁起』には、「水銀の女祖 丹生都比売が誕生したのは、九州伊都国。この一族は、八代や嬉野の水銀を押さえる氏族だった。九州勢力が衰え始めた時、丹生都比売が率いた氏族は四国を進み、更に和歌山へと進出し、紀の川流域に優れた水銀鉱脈を見つけ、そこに住みついた。中でも丹生一族は、紀州、吉野・宇陀、伊勢の豪族と一緒になった一大勢力だった。古代の発掘は坑道の長さは50mが限界で、次々に移動して発掘するものであり、頻繁な移動を余儀なくされたことが、主要な神社が高千穂、出雲、紀伊、吉野、伊勢、諏訪、そして鹿島へと続く要因になった」との記述があります。<br />空海が修験道の山野を巡って高野山に白羽の矢を立てたのは、長安で学んだ錬丹術や薬学の視点を省いて解明できません。高野山は中央構造線上にあり、四国霊場、空海開創寺院もまた中央構造線上にあります。真言宗の霊場付近に水銀鉱床があることが多いのは、空海が家伝として構造線上に鉱物が多いことを知っていたからに違いありません。<br />

    壇上伽藍
    密教は、古い時代には信仰であると共に文化でもあり、原初的な概念の科学でもありました。特に、古代エジプトの冶金をルーツとする卑金属から黄金を精製する錬金術や、不老長生の仙薬を実現する錬丹術に幻想を抱き、悲喜劇が繰り返されてきました。しかし、密教における錬丹術の真の目的は、「即身成仏=生きたまま悟りの境地に至って不死の状態になること」を実現する補助手段を得るためのものでした。また、こうした錬金、錬丹術には潤沢な水銀が不可欠でした。
    天野の里にある丹生都比売神社は水銀の神様です。実際、空海にまつわる伝説の中には、水銀で得たお金を活動資金に宛てたという話があります。『平林寺縁起』には、「水銀の女祖 丹生都比売が誕生したのは、九州伊都国。この一族は、八代や嬉野の水銀を押さえる氏族だった。九州勢力が衰え始めた時、丹生都比売が率いた氏族は四国を進み、更に和歌山へと進出し、紀の川流域に優れた水銀鉱脈を見つけ、そこに住みついた。中でも丹生一族は、紀州、吉野・宇陀、伊勢の豪族と一緒になった一大勢力だった。古代の発掘は坑道の長さは50mが限界で、次々に移動して発掘するものであり、頻繁な移動を余儀なくされたことが、主要な神社が高千穂、出雲、紀伊、吉野、伊勢、諏訪、そして鹿島へと続く要因になった」との記述があります。
    空海が修験道の山野を巡って高野山に白羽の矢を立てたのは、長安で学んだ錬丹術や薬学の視点を省いて解明できません。高野山は中央構造線上にあり、四国霊場、空海開創寺院もまた中央構造線上にあります。真言宗の霊場付近に水銀鉱床があることが多いのは、空海が家伝として構造線上に鉱物が多いことを知っていたからに違いありません。

  • 東塔<br />1127(大治2)年、白河院の御願によって醍醐寺三宝院勝覚権僧正によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世明王の2体も脇侍として祀られました。1843(天保14)年に焼失してから暫くの間再建されず、140年経った1984年に再建されました。<br /><br />朱色は、魔除けや不老長寿を象徴する色として古代より宮殿や神社仏閣に用いられてきました。この朱色は中国の錬丹術に由来し、硫化水銀の粉末 辰砂(丹砂・朱砂)が原料です。これを古代日本では「丹(に)」と呼び、中国では薬にも処方していました。もちろん水銀は奈良の大仏の金メッキにも使われましたが、錬金術ではなく錬丹術が発達したのは、「金」よりも「丹」を重視したからです。空海は、八葉に囲まれた水銀鉱床が埋まる土地が欲しくなり、朝廷に具申したと推測できます。空海自身、丹を薬に処方していたと言われ、晩年頭に癰(よう=悪性の腫瘍)を患い、苦しんだそうですが、これこそが水銀中毒の証だったとは言えないでしょうか?因みに、高野山麓には九度山があります。関ヶ原の戦いの後に真田信繁が配流された地です。後に信繁が大坂の陣で「赤備え」を率いて現れるのも、この地の豊富な水銀に支えられていたことの証とは言えまいか…。<br />

    東塔
    1127(大治2)年、白河院の御願によって醍醐寺三宝院勝覚権僧正によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世明王の2体も脇侍として祀られました。1843(天保14)年に焼失してから暫くの間再建されず、140年経った1984年に再建されました。

    朱色は、魔除けや不老長寿を象徴する色として古代より宮殿や神社仏閣に用いられてきました。この朱色は中国の錬丹術に由来し、硫化水銀の粉末 辰砂(丹砂・朱砂)が原料です。これを古代日本では「丹(に)」と呼び、中国では薬にも処方していました。もちろん水銀は奈良の大仏の金メッキにも使われましたが、錬金術ではなく錬丹術が発達したのは、「金」よりも「丹」を重視したからです。空海は、八葉に囲まれた水銀鉱床が埋まる土地が欲しくなり、朝廷に具申したと推測できます。空海自身、丹を薬に処方していたと言われ、晩年頭に癰(よう=悪性の腫瘍)を患い、苦しんだそうですが、これこそが水銀中毒の証だったとは言えないでしょうか? 因みに、高野山麓には九度山があります。関ヶ原の戦いの後に真田信繁が配流された地です。後に信繁が大坂の陣で「赤備え」を率いて現れるのも、この地の豊富な水銀に支えられていたことの証とは言えまいか…。

  • 大会堂(だいえどう)<br />元々は鳥羽法皇の追福菩提のため、皇女の五辻斎院内親王の命で西行法師によって建立された「蓮華乗院」という名の堂宇でした。<br />後世になり、高野山の大きな法要の集会所(しゅえしょ)として使われようになってから、「大会堂」と呼ばれるようになったそうです。<br />愛染堂と大会堂は、共に1848(嘉永元)年に再建された堂宇です。

    大会堂(だいえどう)
    元々は鳥羽法皇の追福菩提のため、皇女の五辻斎院内親王の命で西行法師によって建立された「蓮華乗院」という名の堂宇でした。
    後世になり、高野山の大きな法要の集会所(しゅえしょ)として使われようになってから、「大会堂」と呼ばれるようになったそうです。
    愛染堂と大会堂は、共に1848(嘉永元)年に再建された堂宇です。

  • 三昧堂<br />済高座主が929(延長7)年に建立した堂宇で、済高がこの堂宇で「理趣三昧」と言う儀式を執り行ったことにより、三昧堂と呼ばれました。<br />元々は総持院境内にありましたが、後世に伽藍に移され、この時の修造に西行法師が関わったと伝えられています。現在の建物は、1816(文化13)年に再建されたものです。<br />ところで「理趣三昧」という言葉は馴染みがありません。調べてみると、「理趣経を中心とした密教立の法要。真言系諸宗で勤め、護摩供と共に最も多用される。大壇またはその略式の修法壇を設け、その前の礼盤に導師が登って理趣法(理趣経法)の修法をする。職衆はその間に声明を唱え、読経を行う」とあり、一般人には難解な説明になっています。<br />簡単に言えば、密教僧が「大日如来」や「金剛薩た」を祀った仏壇の前で『理趣経』というお経を唱えてお勤めすることだと思います。

    三昧堂
    済高座主が929(延長7)年に建立した堂宇で、済高がこの堂宇で「理趣三昧」と言う儀式を執り行ったことにより、三昧堂と呼ばれました。
    元々は総持院境内にありましたが、後世に伽藍に移され、この時の修造に西行法師が関わったと伝えられています。現在の建物は、1816(文化13)年に再建されたものです。
    ところで「理趣三昧」という言葉は馴染みがありません。調べてみると、「理趣経を中心とした密教立の法要。真言系諸宗で勤め、護摩供と共に最も多用される。大壇またはその略式の修法壇を設け、その前の礼盤に導師が登って理趣法(理趣経法)の修法をする。職衆はその間に声明を唱え、読経を行う」とあり、一般人には難解な説明になっています。
    簡単に言えば、密教僧が「大日如来」や「金剛薩た」を祀った仏壇の前で『理趣経』というお経を唱えてお勤めすることだと思います。

  • 西行桜<br />西行法師が三昧堂を伽藍へ修造した際の記念植樹として、1147(久安5)年に三昧堂の前に手植えした桜と伝えられています。この桜が西行が「風で花が散らないよう周りに囲いをした」と伝わる、かの桜なのでしょうか?<br />年代ものにしては小ぶりですので、何代目かのクローンと思われますが…。

    西行桜
    西行法師が三昧堂を伽藍へ修造した際の記念植樹として、1147(久安5)年に三昧堂の前に手植えした桜と伝えられています。この桜が西行が「風で花が散らないよう周りに囲いをした」と伝わる、かの桜なのでしょうか?
    年代ものにしては小ぶりですので、何代目かのクローンと思われますが…。

  • 愛染堂<br />1334(建武元)年、後醍醐天皇の綸命によって四海静平、玉体安穏を祈るために建立された堂宇です。本尊には愛染明王像を祀り、後醍醐天皇の御等身と言われています。<br />かつてはこの堂宇で不断愛染護摩供や長日談義が行われ、「新学堂」とも呼ばれていたそうです。この堂宇も何度か罹災し、現在の建物は1848(嘉永元)年に再建されたものです。<br />

    愛染堂
    1334(建武元)年、後醍醐天皇の綸命によって四海静平、玉体安穏を祈るために建立された堂宇です。本尊には愛染明王像を祀り、後醍醐天皇の御等身と言われています。
    かつてはこの堂宇で不断愛染護摩供や長日談義が行われ、「新学堂」とも呼ばれていたそうです。この堂宇も何度か罹災し、現在の建物は1848(嘉永元)年に再建されたものです。

  • 壇上伽藍<br />空海の生涯については数多の書籍があるのでそれらに譲るとして、何故空海がエリートコースから修行僧へと180度の転換を決意したのかをまとめてみました。<br />空海は744年に讃岐の国屏風ヶ浦、今の香川県善通寺市の名門佐伯氏に生まれ、幼名は真魚(まお)と呼ばれ、御曹司として育ちました。佐伯氏は砂鉄や水銀の採鉱に携わっており、その管理の功により、四国讃岐に移住して来ました。母方は渡来人系の阿刀氏ですが、こちらも産鉄に携わっていたとの伝承があります。<br />空海は幼い頃より学問の道を志し、一流学者の伯父 阿刀大足の薫陶を受け、上京して国営大学に入りました。往時の大学は国のエリート官僚を養成する場であり、身分が五位以上でないと入学できない時代であったことから、空海の入学は特別待遇だったようです。当然ながら、親や親類は、空海が官吏としてエリートコースを邁進し、佐伯氏の復興を成し遂げてくれると信じていたに違いありません。しかし、空海は儒学よりも仏道に興味を抱くようになり、大学の学問が貴族の立身の道具に過ぎない、形骸化したものと感じ始めました。その頃、一人の修行僧と偶然出会い、「虚空蔵求聞持法」という行法を授かります。虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えれば、全ての経典を記憶して諳んじることができるというものです。空海はこれを会得し、以後驚異的かつ膨大な知識を頭に入れていきました。この僧との出会いをきっかけに空海は大学を中退し、勘当に近い状態で私度僧として山岳修行者になり、放浪の旅へ発ったのです。そして、遣唐使に志願して最澄と共に長安へ渡り、恵果和尚から教わった密教に生涯を捧げる決意を新たにしたのです。<br />この華麗なる変身の最大の理由は、「大学で修める学問よりも、もっと多くの人々を救える方法」を追求するためと言っています。実は、エリートコースを捨てた空海には親不孝者という批判が寄せられましたが、それに対して晩年、「親孝行は父と母の2人しか救えないが、仏教はより多くの人々を救える」と説いています。恐らく聖人と称された空海にも葛藤があり、それを乗り越えた末の英断だったのでしょう。<br />

    壇上伽藍
    空海の生涯については数多の書籍があるのでそれらに譲るとして、何故空海がエリートコースから修行僧へと180度の転換を決意したのかをまとめてみました。
    空海は744年に讃岐の国屏風ヶ浦、今の香川県善通寺市の名門佐伯氏に生まれ、幼名は真魚(まお)と呼ばれ、御曹司として育ちました。佐伯氏は砂鉄や水銀の採鉱に携わっており、その管理の功により、四国讃岐に移住して来ました。母方は渡来人系の阿刀氏ですが、こちらも産鉄に携わっていたとの伝承があります。
    空海は幼い頃より学問の道を志し、一流学者の伯父 阿刀大足の薫陶を受け、上京して国営大学に入りました。往時の大学は国のエリート官僚を養成する場であり、身分が五位以上でないと入学できない時代であったことから、空海の入学は特別待遇だったようです。当然ながら、親や親類は、空海が官吏としてエリートコースを邁進し、佐伯氏の復興を成し遂げてくれると信じていたに違いありません。 しかし、空海は儒学よりも仏道に興味を抱くようになり、大学の学問が貴族の立身の道具に過ぎない、形骸化したものと感じ始めました。その頃、一人の修行僧と偶然出会い、「虚空蔵求聞持法」という行法を授かります。虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えれば、全ての経典を記憶して諳んじることができるというものです。空海はこれを会得し、以後驚異的かつ膨大な知識を頭に入れていきました。この僧との出会いをきっかけに空海は大学を中退し、勘当に近い状態で私度僧として山岳修行者になり、放浪の旅へ発ったのです。そして、遣唐使に志願して最澄と共に長安へ渡り、恵果和尚から教わった密教に生涯を捧げる決意を新たにしたのです。
    この華麗なる変身の最大の理由は、「大学で修める学問よりも、もっと多くの人々を救える方法」を追求するためと言っています。実は、エリートコースを捨てた空海には親不孝者という批判が寄せられましたが、それに対して晩年、「親孝行は父と母の2人しか救えないが、仏教はより多くの人々を救える」と説いています。恐らく聖人と称された空海にも葛藤があり、それを乗り越えた末の英断だったのでしょう。

  • 不動堂(国宝)<br />1197年(建久8年)、鳥羽上皇と美福門院の皇女 八条女院の発願により、高野山一心院の開祖 行勝上人が建立した、高野山を代表する歴史的建造物のひとつです。現在の建物は鎌倉時代後期の14世紀前半に再建されたものとされ、金剛三昧院の多宝塔と並び、高野山で最も古い建築物であり、国宝に指定されています。元々は、一心院谷(現在の金輪塔所在地付近)に阿弥陀堂として建てられましたが、1910(明治43)年の解体修理の際、現在の伽藍の地に移されました。平安期の寝殿造りを仏堂建築に応用した和様の面影を偲ばせながらも、鎌倉時代の書院造様式を基調とした、見れば見るほど趣のある堂宇です。<br />

    不動堂(国宝)
    1197年(建久8年)、鳥羽上皇と美福門院の皇女 八条女院の発願により、高野山一心院の開祖 行勝上人が建立した、高野山を代表する歴史的建造物のひとつです。現在の建物は鎌倉時代後期の14世紀前半に再建されたものとされ、金剛三昧院の多宝塔と並び、高野山で最も古い建築物であり、国宝に指定されています。元々は、一心院谷(現在の金輪塔所在地付近)に阿弥陀堂として建てられましたが、1910(明治43)年の解体修理の際、現在の伽藍の地に移されました。平安期の寝殿造りを仏堂建築に応用した和様の面影を偲ばせながらも、鎌倉時代の書院造様式を基調とした、見れば見るほど趣のある堂宇です。

  • 不動堂<br />正面から見ると外観は鳥が羽を広げたような美しい姿をしています。また、堂宇の四隅は全て形を違えていますが、これは4人の工匠がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。屋根の背面処理方法も異なっているそうです。<br />屋根は檜皮葺の一重入母屋造で、正面に一間の向拝が設けられ、また左右に小室が存在するため、庇を両側へ伸ばした形になっています。正面左右の一間は通り庇となっており、庇と屋根が角度をもって繋がる曲線が美しい縋破風(すがるはふ)で仕上げられており、これが左右にあることで鳥が羽を広げたような優美な姿に魅せています。<br />また、仏壇に見られる勾欄や羽目板の格狭間の形、蟇股や出三斗の様式などは鎌倉時代後期の特徴をよく残し、この時期に再建されたことの証となっています。

    不動堂
    正面から見ると外観は鳥が羽を広げたような美しい姿をしています。また、堂宇の四隅は全て形を違えていますが、これは4人の工匠がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。屋根の背面処理方法も異なっているそうです。
    屋根は檜皮葺の一重入母屋造で、正面に一間の向拝が設けられ、また左右に小室が存在するため、庇を両側へ伸ばした形になっています。正面左右の一間は通り庇となっており、庇と屋根が角度をもって繋がる曲線が美しい縋破風(すがるはふ)で仕上げられており、これが左右にあることで鳥が羽を広げたような優美な姿に魅せています。
    また、仏壇に見られる勾欄や羽目板の格狭間の形、蟇股や出三斗の様式などは鎌倉時代後期の特徴をよく残し、この時期に再建されたことの証となっています。

  • 不動堂<br />これが縋破風と言われる様式です。<br />当初は阿弥陀堂だったとされていますが、後に平安時代後期の作の秘仏「不動明王坐像」(重文)を本尊とし、脇侍として「八大童子像」が奉安されました。この「八大童子」(8体のうち6体が国宝、2体は南北朝時代の補作)は運慶作として知られ、現在は霊宝館に収められています。特に矜羯羅(こんがら)童子は運慶の代表作として知られ、その生き生きとした表情や衣装のリアルな造形には目を瞠ります。

    不動堂
    これが縋破風と言われる様式です。
    当初は阿弥陀堂だったとされていますが、後に平安時代後期の作の秘仏「不動明王坐像」(重文)を本尊とし、脇侍として「八大童子像」が奉安されました。この「八大童子」(8体のうち6体が国宝、2体は南北朝時代の補作)は運慶作として知られ、現在は霊宝館に収められています。特に矜羯羅(こんがら)童子は運慶の代表作として知られ、その生き生きとした表情や衣装のリアルな造形には目を瞠ります。

  • 不動堂<br />八大童子は八大金剛童子とも呼ばれ、一般には慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あくた)童子、持徳(指徳)(しとく)童子、烏倶婆伽(うぐばか)童子、清浄比丘 (しようじようびく)、矜羯羅(こんがら)童子、制多迦(せいたか)童子を指します。<br />このうち矜羯羅と制多迦の2童子は、不動明王の両脇侍に使われることが多いようです。尚、不動明王の眷属として八大童子を配することは、サンスクリット経典には書かれておらず、中国で独自に考案されたものと言われています。<br />矜羯羅童子は、「秘要法品」によると15歳の童子であり、頭には蓮華の冠を戴き、体は白く合掌した手には独鈷杵を持ち、天衣と袈裟で厳飾するとされます。また、その性格は小心者で従順であるとされ、童子像の穏やかで親近感のある表情にそれが表現されているように思われます。<br />因みに、霊宝館に行けば常に八大童子像が見られるという訳ではなく、文化財保護の観点から、数年に1度、2躯が主に夏の大宝蔵展で展示される程度であり、8躯全てを1度に見られる機会は少ないそうです。

    不動堂
    八大童子は八大金剛童子とも呼ばれ、一般には慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あくた)童子、持徳(指徳)(しとく)童子、烏倶婆伽(うぐばか)童子、清浄比丘 (しようじようびく)、矜羯羅(こんがら)童子、制多迦(せいたか)童子を指します。
    このうち矜羯羅と制多迦の2童子は、不動明王の両脇侍に使われることが多いようです。尚、不動明王の眷属として八大童子を配することは、サンスクリット経典には書かれておらず、中国で独自に考案されたものと言われています。
    矜羯羅童子は、「秘要法品」によると15歳の童子であり、頭には蓮華の冠を戴き、体は白く合掌した手には独鈷杵を持ち、天衣と袈裟で厳飾するとされます。また、その性格は小心者で従順であるとされ、童子像の穏やかで親近感のある表情にそれが表現されているように思われます。
    因みに、霊宝館に行けば常に八大童子像が見られるという訳ではなく、文化財保護の観点から、数年に1度、2躯が主に夏の大宝蔵展で展示される程度であり、8躯全てを1度に見られる機会は少ないそうです。

  • 蓮池<br />勧学院の前にある池は、昭和の頃までは美しい蓮が咲き誇っていたため、「蓮池」と呼ばれています。祠のある中島に架けられた朱色の橋は、緑の水面とのコントラストが見事です。この蓮池は高野山開創の当時からあった水沢が発展したと伝わる歴史ある池であり、中島にある祠には雨乞いの守護神「善女龍王」を祀っています。<br />1996年に祠と共に橋が修復され、毎年10月17日には縁日としてお勤めが営まれています。

    蓮池
    勧学院の前にある池は、昭和の頃までは美しい蓮が咲き誇っていたため、「蓮池」と呼ばれています。祠のある中島に架けられた朱色の橋は、緑の水面とのコントラストが見事です。 この蓮池は高野山開創の当時からあった水沢が発展したと伝わる歴史ある池であり、中島にある祠には雨乞いの守護神「善女龍王」を祀っています。
    1996年に祠と共に橋が修復され、毎年10月17日には縁日としてお勤めが営まれています。

  • 蓮池<br />明和年間のこと、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。そこで1771(明和8)年、瑞相院慈光が善女龍王像と仏舎利を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立して祀ったところ、たちまち霊験が現れたそうです。そんな伝説が語り継がれ、かつて高野山で祈雨の法を行う時には、金堂に善女龍王の軸を掛けて祈願したそうです。<br />元々は、中国の青龍寺に飛来して同寺の守護神「清龍」となった神です。空海が帰国する際、船中に現れて密教を守護することを誓ったため、高雄山麓に勧請されました。その際、海を渡ったため「龍」の字を「瀧」として「清瀧権現」と敬称しました。清瀧権現は、空海の御遺告によるとインド神話に登場する八大竜王のひとつの善女龍王に相当します。清瀧権現は日本に飛来して複数の寺を巡った後、10世紀頃、聖宝により現在の安置所である醍醐寺山頂に降臨し留まりました。以後同寺に伝えられる真言密教を守護する女神となっています。<br />

    蓮池
    明和年間のこと、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。そこで1771(明和8)年、瑞相院慈光が善女龍王像と仏舎利を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立して祀ったところ、たちまち霊験が現れたそうです。そんな伝説が語り継がれ、かつて高野山で祈雨の法を行う時には、金堂に善女龍王の軸を掛けて祈願したそうです。
    元々は、中国の青龍寺に飛来して同寺の守護神「清龍」となった神です。空海が帰国する際、船中に現れて密教を守護することを誓ったため、高雄山麓に勧請されました。その際、海を渡ったため「龍」の字を「瀧」として「清瀧権現」と敬称しました。 清瀧権現は、空海の御遺告によるとインド神話に登場する八大竜王のひとつの善女龍王に相当します。清瀧権現は日本に飛来して複数の寺を巡った後、10世紀頃、聖宝により現在の安置所である醍醐寺山頂に降臨し留まりました。以後同寺に伝えられる真言密教を守護する女神となっています。

  • 大塔の鐘(高野四郎:白鐘楼)<br />鐘楼堂は、1958(昭和33)年にそれまでの木造から鉄筋コンクリート製に、屋根は銅板葺に替えられています。<br />空海が鋳造を発願し、第2世 真然の時代に漸く完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、梵鐘も3度ほど改鋳しているそうです。<br />現在の銅鐘は1547(天文16)年に完成し、直径2.12mもある大鐘です。往時は日本で4番目に大きな鐘であったことから、「高野四郎」と愛称で呼ばれていました。因みに、口径寸法順では、知恩院(太郎)、東大寺(二郎)、方広寺(三郎)、金剛峰寺(四郎)となります。しかし、江戸時代以前には東大寺に次ぐ2番目の大きさだったそうで、実際に「高野二郎」と呼ばれていたそうです。また、知恩院、東大寺のものと合わせ「日本三大名鐘」のひとつと紹介されることもあります。

    大塔の鐘(高野四郎:白鐘楼)
    鐘楼堂は、1958(昭和33)年にそれまでの木造から鉄筋コンクリート製に、屋根は銅板葺に替えられています。
    空海が鋳造を発願し、第2世 真然の時代に漸く完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、梵鐘も3度ほど改鋳しているそうです。
    現在の銅鐘は1547(天文16)年に完成し、直径2.12mもある大鐘です。往時は日本で4番目に大きな鐘であったことから、「高野四郎」と愛称で呼ばれていました。因みに、口径寸法順では、知恩院(太郎)、東大寺(二郎)、方広寺(三郎)、金剛峰寺(四郎)となります。しかし、江戸時代以前には東大寺に次ぐ2番目の大きさだったそうで、実際に「高野二郎」と呼ばれていたそうです。また、知恩院、東大寺のものと合わせ「日本三大名鐘」のひとつと紹介されることもあります。

  • 大塔の鐘<br />あまりに大きいために撞き方も異なり、撞木の下に立って綱を持って撞くのではなく、吊るされた撞木の反対側に立って撞木を引き込むようにして撞きます。<br />現在でも午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回、時刻を高野山内に知らせています。<br />1日に108回撞くため、1時に18回撞き、午後11時には36回撞くようです。午後11時に撞く鐘は「後夜の鐘」と言い、これにまつわる幾つかの伝説があります。そのひとつは明神様に関する説で、『紀伊続風土記』59巻に紹介されています。それによると、この時間には明神様が悪魔を降伏するために矢を放つと言われ、もし鐘が鳴った時に外を出歩いていたならば、必ずその場に平伏して息を潜めていなければならず、もしそれを怠れば、神罰が下り、その矢に当たって命を失うとしています。高慢横柄な者がよくこの矢に当たり、その様な例は枚挙に暇がないとしています。そして、「矢越」という地名はこの事に拠るとしています。<br />別の説は、庚申を守るためというものです。庚申の夜には、三尸(上尸、中尸、下尸)という人間の身体に巣くう蟲が寝ている間に体内から抜け出し、天帝にその人の罪を告げ口をする。それによって人は天帝の裁きを受け、ぽっくりと死んでしまう。それを防ぐため、庚申の夜は眠らずにいるのですが、その夜が始まる時間が午後11時だったとの説です。この「三尸」の説は、元々は道教の説ですが、仏教にも取り入れられ、日本では庚申を「かのえさる」に当て、三尸を「不見、不言、不聞の猿」に当て嵌めています。ただ現在では、「かのえさる」に拘ることなく午後11時に鐘を撞いているそうです。

    大塔の鐘
    あまりに大きいために撞き方も異なり、撞木の下に立って綱を持って撞くのではなく、吊るされた撞木の反対側に立って撞木を引き込むようにして撞きます。
    現在でも午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回、時刻を高野山内に知らせています。
    1日に108回撞くため、1時に18回撞き、午後11時には36回撞くようです。 午後11時に撞く鐘は「後夜の鐘」と言い、これにまつわる幾つかの伝説があります。そのひとつは明神様に関する説で、『紀伊続風土記』59巻に紹介されています。 それによると、この時間には明神様が悪魔を降伏するために矢を放つと言われ、もし鐘が鳴った時に外を出歩いていたならば、必ずその場に平伏して息を潜めていなければならず、もしそれを怠れば、神罰が下り、その矢に当たって命を失うとしています。高慢横柄な者がよくこの矢に当たり、その様な例は枚挙に暇がないとしています。そして、「矢越」という地名はこの事に拠るとしています。
    別の説は、庚申を守るためというものです。庚申の夜には、三尸(上尸、中尸、下尸)という人間の身体に巣くう蟲が寝ている間に体内から抜け出し、天帝にその人の罪を告げ口をする。それによって人は天帝の裁きを受け、ぽっくりと死んでしまう。それを防ぐため、庚申の夜は眠らずにいるのですが、その夜が始まる時間が午後11時だったとの説です。 この「三尸」の説は、元々は道教の説ですが、仏教にも取り入れられ、日本では庚申を「かのえさる」に当て、三尸を「不見、不言、不聞の猿」に当て嵌めています。ただ現在では、「かのえさる」に拘ることなく午後11時に鐘を撞いているそうです。

  • 中門<br />819(弘仁10)年に空海の命を受けた弟子 実慧が建立したと伝えられています。壇上伽藍の建物のほとんどが焼けた1843(天保14)年の大火以降、礎石だけ遺されていましたが、2015年の高野山開創1200年大法会に合わせて172年ぶりに鎌倉時代の建築様式を基に再建されました。初代から数えて8代目になります。<br />新たな中門をどの時代の形式で再建するか議論の末、五間形式で建てられた1253(建長5)年建立の門をモデルにしたそうです。<br />中門を支える18本もの柱は、礎石に幾度も摺り合せて据えられ、釘等で固定されることなく各柱が自立しています。四方には四天王が配され、壇上伽藍の入口の結界としての役目を果たし、落ち着いた雰囲気の佇まいです。四天王の配置は「じぞうこうた」と言われ、普通は手前の右が多聞天、左が持国天、後ろの左が増長天、右が廣目天になりますが、こちらは左からの鎮座になってます。また今回の再建で作られた増長天は現代風のお顔になっています。<br />

    中門
    819(弘仁10)年に空海の命を受けた弟子 実慧が建立したと伝えられています。壇上伽藍の建物のほとんどが焼けた1843(天保14)年の大火以降、礎石だけ遺されていましたが、2015年の高野山開創1200年大法会に合わせて172年ぶりに鎌倉時代の建築様式を基に再建されました。初代から数えて8代目になります。
    新たな中門をどの時代の形式で再建するか議論の末、五間形式で建てられた1253(建長5)年建立の門をモデルにしたそうです。
    中門を支える18本もの柱は、礎石に幾度も摺り合せて据えられ、釘等で固定されることなく各柱が自立しています。四方には四天王が配され、壇上伽藍の入口の結界としての役目を果たし、落ち着いた雰囲気の佇まいです。 四天王の配置は「じぞうこうた」と言われ、普通は手前の右が多聞天、左が持国天、後ろの左が増長天、右が廣目天になりますが、こちらは左からの鎮座になってます。また今回の再建で作られた増長天は現代風のお顔になっています。

  • 中門 持国天<br />表側に配された持国天と多聞天(毘沙門天)像は、二天門であった先の中門に安置されていた江戸時代後期の作品です。かろうじて類焼を免れたもので、保存修理が完成しました。<br />左手に密教法具の三鈷杵を持っています。

    中門 持国天
    表側に配された持国天と多聞天(毘沙門天)像は、二天門であった先の中門に安置されていた江戸時代後期の作品です。かろうじて類焼を免れたもので、保存修理が完成しました。
    左手に密教法具の三鈷杵を持っています。

  • 中門 多門天<br />左手に宝塔を持っています。<br />四天王に踏まれているのは邪鬼です。顎のデザインや浮き上った血管、表情が踏ん張っている姿をよく表しています。この邪鬼は、通路の方向に顔を向けて彫られているため、中門を潜る度に邪鬼に睨まれているような気分になります。<br />

    中門 多門天
    左手に宝塔を持っています。
    四天王に踏まれているのは邪鬼です。顎のデザインや浮き上った血管、表情が踏ん張っている姿をよく表しています。この邪鬼は、通路の方向に顔を向けて彫られているため、中門を潜る度に邪鬼に睨まれているような気分になります。

  • 中門 増長天<br />増長天と廣目天像は、京都在住の「慶派」の流れを受け継ぐ平成の大仏師 松本明慶師の手により新造されたものです。約2年の歳月をかけて制作された二天王は、質の良いヒバの木で制作されており、高4.3m、1体当たり1トン程の質量があります。両天の表情は、畏怖を抱くほど両眼をカッと見開き、憤怒の表情を顕わにしています。<br />増長天は甲冑にトンボを留まらせています。<br />増長天は、五穀豊穣や政治を司り、自分自身や他人の威徳を増長するなど、超人的な成長力でもって仏教を守護します。槍を持つのは邪悪なものから守るためであり、松本氏はその象徴として胸の甲冑にトンボをあしらいました。これにはどんな意味が込められているかと言いますと、トンボは前にしか飛ばないことから、「決して後ろに退かないぞ!」という強い戦闘意志を示しています。トンボは「勝ち虫」とも呼ばれ、縁起物としても一般的に広く用いられるモチーフです。

    中門 増長天
    増長天と廣目天像は、京都在住の「慶派」の流れを受け継ぐ平成の大仏師 松本明慶師の手により新造されたものです。約2年の歳月をかけて制作された二天王は、質の良いヒバの木で制作されており、高4.3m、1体当たり1トン程の質量があります。両天の表情は、畏怖を抱くほど両眼をカッと見開き、憤怒の表情を顕わにしています。
    増長天は甲冑にトンボを留まらせています。
    増長天は、五穀豊穣や政治を司り、自分自身や他人の威徳を増長するなど、超人的な成長力でもって仏教を守護します。槍を持つのは邪悪なものから守るためであり、松本氏はその象徴として胸の甲冑にトンボをあしらいました。これにはどんな意味が込められているかと言いますと、トンボは前にしか飛ばないことから、「決して後ろに退かないぞ!」という強い戦闘意志を示しています。トンボは「勝ち虫」とも呼ばれ、縁起物としても一般的に広く用いられるモチーフです。

  • 中門 廣目天<br />こちらは、胸にセミを留まらせています。<br />廣目天は、悪人を罰して仏心を起こさせることを司り、「通常ならざる目を持つ者」と言われ、その意味は千里の遠くをも見通す者ということです。どこまでも届くセミの鳴き声のように、「広く全てを見ているぞ!」と威嚇する姿を表現しているそうです。また、セミは、木の樹液を吸って生きており、殺生しない清らかな生き物ともされています。<br />「カエルを彫るときはカエルの人生まで考えて彫る」と豪語される松本氏は、このように彫り物に命を吹き込みながら、四天王像の大義名分「仏法守護(悪いものを寄せ付けない)」を全うさせるように、それぞれの役割に思いを巡らせながら彫られたそうです。<br />「仏作って魂入れず」のものが氾濫している今の世ですが、それとは大違いの「いい仕事」をされています。

    中門 廣目天
    こちらは、胸にセミを留まらせています。
    廣目天は、悪人を罰して仏心を起こさせることを司り、「通常ならざる目を持つ者」と言われ、その意味は千里の遠くをも見通す者ということです。どこまでも届くセミの鳴き声のように、「広く全てを見ているぞ!」と威嚇する姿を表現しているそうです。また、セミは、木の樹液を吸って生きており、殺生しない清らかな生き物ともされています。
    「カエルを彫るときはカエルの人生まで考えて彫る」と豪語される松本氏は、このように彫り物に命を吹き込みながら、四天王像の大義名分「仏法守護(悪いものを寄せ付けない)」を全うさせるように、それぞれの役割に思いを巡らせながら彫られたそうです。
    「仏作って魂入れず」のものが氾濫している今の世ですが、それとは大違いの「いい仕事」をされています。

  • 中門 <br />多門天と持国天は、少しだけ前傾姿勢をとられています。<br />伽藍とは、僧侶が修行をする場所という意味で、由来はインドのサンスクリット語からきています。サンスクリット語で「僧侶の修行場」と発すると「そうぎゃらんま(僧伽藍摩)」となり、略して僧伽藍や伽藍と呼ばれることに由来します。<br />高野山の伽藍は、気付き難いのですが、石段の上に伽藍が建立されています。つまり、地面から少し一段高い所に伽藍の建物が建てられています。<br />これを伽藍と合わせ、壇上にある伽藍という意味で「壇上伽藍」になります。この壇上伽藍は、「胎蔵曼荼羅」という大日如来が創造した世界観が描かれた視覚的な仏画を空海が実際に具現化して形にしたものだと言われています。<br />さらに、この壇上伽藍は、空海がこの高野山を開山した後、真っ先に造営に取り組んだ場所だとも伝わっています。しかし、開山した頃の高野山には資金がなく、空海はこの伽藍の完成を見ることなく入定することになります。

    中門
    多門天と持国天は、少しだけ前傾姿勢をとられています。
    伽藍とは、僧侶が修行をする場所という意味で、由来はインドのサンスクリット語からきています。サンスクリット語で「僧侶の修行場」と発すると「そうぎゃらんま(僧伽藍摩)」となり、略して僧伽藍や伽藍と呼ばれることに由来します。
    高野山の伽藍は、気付き難いのですが、石段の上に伽藍が建立されています。つまり、地面から少し一段高い所に伽藍の建物が建てられています。
    これを伽藍と合わせ、壇上にある伽藍という意味で「壇上伽藍」になります。この壇上伽藍は、「胎蔵曼荼羅」という大日如来が創造した世界観が描かれた視覚的な仏画を空海が実際に具現化して形にしたものだと言われています。
    さらに、この壇上伽藍は、空海がこの高野山を開山した後、真っ先に造営に取り組んだ場所だとも伝わっています。しかし、開山した頃の高野山には資金がなく、空海はこの伽藍の完成を見ることなく入定することになります。

  • 中門 <br />ご覧のように、増長天と廣目天の前傾姿勢は半端ではありません。<br />前に立つと今にも襲い掛かって気そうな迫力です。<br /><br />秀吉が高野山へ参詣した際、能が見たいと言いだしました。僧たちが言うには、「能をご覧になるのは結構なことですが、当山では大師様のお定めにより、笛を吹くことを戒めております。いかが致しましょうか?」。秀吉は不思議に思い、「楽器の中で、笛だけがいかんとはどういう事か?」と尋ねました。<br />『実は蛇柳の向こう側に一匹の龍が棲んでおり、大師様は、龍をこのままにしておけば誰も近づけまいと思われ、龍に向かってこう言われました。「私は、この山を仏法の霊地にしようと思っている。しかし、おまえがここにいては皆が恐れて近づくこともできない。すまないが、別の場所へ移り住んではくれぬか」。龍は、「わしはこの山で無量の年月を過ごしておる。何故今更ここを動かねばならんのか」と答えました。大師様は、幾度か説得しましたが、龍は動こうとしません。ならばと秘密の真言でもって龍のうろこへ毒虫を撒き散らしました。龍は五体を投げ出し、かゆみにのたうち回り、ついに降参しました。「この虫を消してくれたら、何処へでも行く」。この嘆願を聞き、「それほど苦しいのなら、虫を取ってやろう。だから、この場から移ってくれたまえ」と言って虫を取り払いました。龍はとても喜び、二十町向こうの山麓へ立ち退きました。<br />しかし、笛は龍の声を表す楽器ですので、この音を聞いて友が来たと龍が勘違いして動き出さないように笛を戒めているのです』。これを聞いた秀吉は、「なるほど。笛が無くとも苦しゅうないぞ」と笛なしで能を鑑賞したそうです。

    中門
    ご覧のように、増長天と廣目天の前傾姿勢は半端ではありません。
    前に立つと今にも襲い掛かって気そうな迫力です。

    秀吉が高野山へ参詣した際、能が見たいと言いだしました。僧たちが言うには、「能をご覧になるのは結構なことですが、当山では大師様のお定めにより、笛を吹くことを戒めております。いかが致しましょうか?」。秀吉は不思議に思い、「楽器の中で、笛だけがいかんとはどういう事か?」と尋ねました。
    『実は蛇柳の向こう側に一匹の龍が棲んでおり、大師様は、龍をこのままにしておけば誰も近づけまいと思われ、龍に向かってこう言われました。「私は、この山を仏法の霊地にしようと思っている。しかし、おまえがここにいては皆が恐れて近づくこともできない。すまないが、別の場所へ移り住んではくれぬか」。龍は、「わしはこの山で無量の年月を過ごしておる。何故今更ここを動かねばならんのか」と答えました。大師様は、幾度か説得しましたが、龍は動こうとしません。ならばと秘密の真言でもって龍のうろこへ毒虫を撒き散らしました。龍は五体を投げ出し、かゆみにのたうち回り、ついに降参しました。「この虫を消してくれたら、何処へでも行く」。この嘆願を聞き、「それほど苦しいのなら、虫を取ってやろう。だから、この場から移ってくれたまえ」と言って虫を取り払いました。龍はとても喜び、二十町向こうの山麓へ立ち退きました。
    しかし、笛は龍の声を表す楽器ですので、この音を聞いて友が来たと龍が勘違いして動き出さないように笛を戒めているのです』。これを聞いた秀吉は、「なるほど。笛が無くとも苦しゅうないぞ」と笛なしで能を鑑賞したそうです。

  • 中門<br />壇上伽藍は過去に何度も火災により焼失したため、江戸時代中期の中門の屋根は銅板葺に代えられていました。しかし今回の再建では鎌倉時代の中門を忠実に再建するため、檜皮葺を用いています。檜皮は直径1m、高さ20mの檜80本で8坪分しかとれないと言われています。高野檜皮はかつては日本のブランド品であり、この地域の特産品でしたが、林業の衰退により今では大変貴重なものとなっています。ざっと計算して、この中門には1500本分の檜皮を使用しているそうですので吃驚ポンです。また檜皮は、全国に50〜60人しかいない専門職人により、1枚ずつ手作業で作られています。檜皮は軽く、また油分が多くて雪や雨をよく弾くため、雪は積もらずにサラサラと落ちます。また、湿気も籠らないため、デザイン面での優美さと機能を兼ね備えた優れものです。一方、油分が多いため火災に弱く、一度燃えると火の塊となって飛んでいき、類焼させてしまう欠点があります。<br />新しい中門には、火災対策として周囲にスプリンクラーを設置しているそうですので安心です。

    中門
    壇上伽藍は過去に何度も火災により焼失したため、江戸時代中期の中門の屋根は銅板葺に代えられていました。しかし今回の再建では鎌倉時代の中門を忠実に再建するため、檜皮葺を用いています。 檜皮は直径1m、高さ20mの檜80本で8坪分しかとれないと言われています。 高野檜皮はかつては日本のブランド品であり、この地域の特産品でしたが、林業の衰退により今では大変貴重なものとなっています。ざっと計算して、この中門には1500本分の檜皮を使用しているそうですので吃驚ポンです。 また檜皮は、全国に50〜60人しかいない専門職人により、1枚ずつ手作業で作られています。檜皮は軽く、また油分が多くて雪や雨をよく弾くため、雪は積もらずにサラサラと落ちます。また、湿気も籠らないため、デザイン面での優美さと機能を兼ね備えた優れものです。一方、油分が多いため火災に弱く、一度燃えると火の塊となって飛んでいき、類焼させてしまう欠点があります。
    新しい中門には、火災対策として周囲にスプリンクラーを設置しているそうですので安心です。

  • 金堂<br />伽藍の中央に建てられた高野山の総本堂に当たり、重要な行事がここで執り行われています。元々は空海が鎮護国家を目指して建てた堂宇だったそうです。本尊は、高村光雲作「薬師如来(阿閃如来)」ですが、秘仏となっています。インド的な顔立ちだそうです。<br />高野山開創当時は講堂として利用され、平安時代半ばから一山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。現在の建物は7度目の再建になり、1932(昭和7)年)に完成したものです。

    金堂
    伽藍の中央に建てられた高野山の総本堂に当たり、重要な行事がここで執り行われています。元々は空海が鎮護国家を目指して建てた堂宇だったそうです。本尊は、高村光雲作「薬師如来(阿閃如来)」ですが、秘仏となっています。インド的な顔立ちだそうです。
    高野山開創当時は講堂として利用され、平安時代半ばから一山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。現在の建物は7度目の再建になり、1932(昭和7)年)に完成したものです。

  • 金堂<br />真言密教の教理は、人間の宇宙観や人生観の至極を窮め、生き甲斐のある人生を送るための大切な要を説くものです。ですから、それを会得して活かせば、無限の喜びと幸福が湧いてくると言われています。しかし宇宙と人間を同一視するなど、一筋縄にはいかない難解な教えとなっています。<br />具体的に言えば、眼の前で子供が転んで泣いていたら、子供に手を差し伸べて手を取り、「立ちなさい」と叱咤するのは密教ではないそうです。自分も子供と同じように転び、泣いているその子供と視点を同じにし、にっこりと微笑みかけて「一緒に立って遊ぼう」と誘うのが密教だそうです。<br />もうひとつの特徴は、「成仏」の考え方です。「成仏」とは、悟りの境地に達した仏がいる極楽浄土に往くことを指します。密教以外の仏教、例えば顕教の場合は、何代にも渡って生まれ変わりながら、無限の歳月を費やす修行が求められます。しかし、空海は、全ての人は元々仏と同じように悟りの境地に達する資質を内に秘めており、修行によって本来の姿にたち返るなら、肉身のまま即時に成仏できると説いています。これが真言密教の根幹とも言える「即身成仏」説です。大切なのは「今を如何に生きるか」であり、「今が苦しいのならば、今、救われなければ意味がない。この世で救われず、あの世で救われるはずがない」という現実的な哲学です。<br />また、真言密教は懐が深く、様々な異宗教を排除するのではなく、広大な信仰の中にそれらを組み入れ、そのカオスの中で統一性のある曼荼羅的境地を創り上げたものと言えなくもありません。その意味で、フリーメイソンが目指している世界統一政府に近い発想の宗教なのかもしれません。<br />

    金堂
    真言密教の教理は、人間の宇宙観や人生観の至極を窮め、生き甲斐のある人生を送るための大切な要を説くものです。ですから、それを会得して活かせば、無限の喜びと幸福が湧いてくると言われています。しかし宇宙と人間を同一視するなど、一筋縄にはいかない難解な教えとなっています。
    具体的に言えば、眼の前で子供が転んで泣いていたら、子供に手を差し伸べて手を取り、「立ちなさい」と叱咤するのは密教ではないそうです。自分も子供と同じように転び、泣いているその子供と視点を同じにし、にっこりと微笑みかけて「一緒に立って遊ぼう」と誘うのが密教だそうです。
    もうひとつの特徴は、「成仏」の考え方です。「成仏」とは、悟りの境地に達した仏がいる極楽浄土に往くことを指します。密教以外の仏教、例えば顕教の場合は、何代にも渡って生まれ変わりながら、無限の歳月を費やす修行が求められます。しかし、空海は、全ての人は元々仏と同じように悟りの境地に達する資質を内に秘めており、修行によって本来の姿にたち返るなら、肉身のまま即時に成仏できると説いています。これが真言密教の根幹とも言える「即身成仏」説です。大切なのは「今を如何に生きるか」であり、「今が苦しいのならば、今、救われなければ意味がない。この世で救われず、あの世で救われるはずがない」という現実的な哲学です。
    また、真言密教は懐が深く、様々な異宗教を排除するのではなく、広大な信仰の中にそれらを組み入れ、そのカオスの中で統一性のある曼荼羅的境地を創り上げたものと言えなくもありません。その意味で、フリーメイソンが目指している世界統一政府に近い発想の宗教なのかもしれません。

  • 金堂<br />梁間23.8m、桁行30m、高さ23.7m、入母屋造りですが「関西近代建築の父」と称される武田五一博士の手により、パッと見は木造のイメージそのものですが、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計されています。<br />8度目の再建が無いよう、末永く大切に使っていただきたいところです。<br />

    金堂
    梁間23.8m、桁行30m、高さ23.7m、入母屋造りですが「関西近代建築の父」と称される武田五一博士の手により、パッと見は木造のイメージそのものですが、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計されています。
    8度目の再建が無いよう、末永く大切に使っていただきたいところです。

  • 金堂<br />内陣にある壁画は、岡倉天心に師事した木村武山画伯の筆『釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図』や『八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)』になります。両側にある両界曼荼羅は、平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせたという、血曼荼羅の模写が掲げられています。祭壇裏側の菩薩の絵は、移動しても視線が追ってくるように見えるため、「八方睨み」と言われる騙し絵になっています。<br />

    金堂
    内陣にある壁画は、岡倉天心に師事した木村武山画伯の筆『釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図』や『八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)』になります。両側にある両界曼荼羅は、平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせたという、血曼荼羅の模写が掲げられています。祭壇裏側の菩薩の絵は、移動しても視線が追ってくるように見えるため、「八方睨み」と言われる騙し絵になっています。

  • 金堂<br />根本大塔再建の際、平清盛は金堂の東西の壁に掲げる金剛界・胎蔵界曼荼羅の2幅を寄進しました。その胎蔵界曼荼羅の中心、八葉の蓮台には密教の最高仏 大日如来が座し、『絹本著色両界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくりょうがいまんだらず)』と呼ばれています。清盛の頭から流れた血を絵具に混ぜ、大日如来が被っている宝冠に自ら彩色したシロモノであることから、通称「血曼荼羅」という胡乱な名が付けられています。ただし、ちょこんと1点だけだそうですが…。『平家物語』には、「東曼陀羅をば清盛書かんとて自筆に書かれけるが八葉の中尊の宝冠をばいかが思はれけん我が首の血を出だいて書かれけるとぞ聞えしと記されています。<br />果たして血曼荼羅の伝承は事実なのか?この曼荼羅には軸木が付けられており、それを1985年にX線で透視したところ、胎蔵界の軸木内には7包み、金剛界のには1包みの頭髪の束が納められているのが判明しています。 実は大正時代末年に修理された際、双方の軸木を取り外したそうです。修理記録には、金剛界の軸木から頭髪7包みと江戸前期の1688年に修理した記述が、胎蔵界軸木内からは豊臣秀吉の没年の1598年修理の記録が発見されたとあるそうです。修理記録にある金剛界の納髪の数とX線透視で確認した胎蔵界の数が一致するため、胎蔵界の軸木内の頭髪7包みは元々金剛界のもので、大正修理の際に入れ替わったものと考えられています。 軸木内の頭髪は、再建事業半ばで亡くなった忠盛のものと見られ、清盛が供養のために納髪した可能性が示唆されています。頭髪の包みが8つもあり、その中に清盛のものも含まれていると考えるのが自然です。平安時代以降、逆修と言い、生前に自分の死後の冥福を祈る仏事を行うことが珍しくなかったからです。 血曼荼羅の伝承は史実とは異なるかもしれませんが、高野山へ平家2代の惜しみない貢献、特に軸木への納髪の事実が、こうした伝承の背景にあるものと窺われます。<br /><br />この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

    金堂
    根本大塔再建の際、平清盛は金堂の東西の壁に掲げる金剛界・胎蔵界曼荼羅の2幅を寄進しました。その胎蔵界曼荼羅の中心、八葉の蓮台には密教の最高仏 大日如来が座し、『絹本著色両界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくりょうがいまんだらず)』と呼ばれています。清盛の頭から流れた血を絵具に混ぜ、大日如来が被っている宝冠に自ら彩色したシロモノであることから、通称「血曼荼羅」という胡乱な名が付けられています。ただし、ちょこんと1点だけだそうですが…。『平家物語』には、「東曼陀羅をば清盛書かんとて自筆に書かれけるが八葉の中尊の宝冠をばいかが思はれけん我が首の血を出だいて書かれけるとぞ聞えしと記されています。
    果たして血曼荼羅の伝承は事実なのか?この曼荼羅には軸木が付けられており、それを1985年にX線で透視したところ、胎蔵界の軸木内には7包み、金剛界のには1包みの頭髪の束が納められているのが判明しています。 実は大正時代末年に修理された際、双方の軸木を取り外したそうです。修理記録には、金剛界の軸木から頭髪7包みと江戸前期の1688年に修理した記述が、胎蔵界軸木内からは豊臣秀吉の没年の1598年修理の記録が発見されたとあるそうです。修理記録にある金剛界の納髪の数とX線透視で確認した胎蔵界の数が一致するため、胎蔵界の軸木内の頭髪7包みは元々金剛界のもので、大正修理の際に入れ替わったものと考えられています。 軸木内の頭髪は、再建事業半ばで亡くなった忠盛のものと見られ、清盛が供養のために納髪した可能性が示唆されています。頭髪の包みが8つもあり、その中に清盛のものも含まれていると考えるのが自然です。平安時代以降、逆修と言い、生前に自分の死後の冥福を祈る仏事を行うことが珍しくなかったからです。 血曼荼羅の伝承は史実とは異なるかもしれませんが、高野山へ平家2代の惜しみない貢献、特に軸木への納髪の事実が、こうした伝承の背景にあるものと窺われます。

    この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

  • 金堂<br />伽藍境内には、龍臥洞という地名があります。これは、伽藍閼伽井の東南の土地を指しますが、壇上伽藍の地形は大龍が臥せている姿に似ていることから、「龍臥」と呼ばれていました。それを閼伽井の東南に限って龍臥洞と称するのは、この井戸を龍の口と見做す説があるからです。『遍明院大師明神御託宣記』には、「大塔は西龍の頚、御影堂と松(三鈷の松)とは頭」、さらに「閼伽井は口より出す云々」と記されています。御影堂が西龍なら、東龍もいるはずです。東龍は、御廟を頭、御廟橋を頚、中門を尾とし、西龍は御影堂を頭、大塔を頚とし、瑜祇塔を尾とするとの説があります。<br />同書の別本に「当山の地形は二龍東西に臥せ、二虎南北にうずくまる。東龍の頭は奥の院。西龍の頭は壇上なり。南虎の頭は大瀧、北虎の頭は天野なり」とあります。これらの説は、空海の高野山四至啓白の文に「山の状ちたるや東西は龍の臥せるが如くにして、東に流水あり。南北は虎の踞るが如くにして棲息するに興あり」が由来のようです。

    金堂
    伽藍境内には、龍臥洞という地名があります。これは、伽藍閼伽井の東南の土地を指しますが、壇上伽藍の地形は大龍が臥せている姿に似ていることから、「龍臥」と呼ばれていました。それを閼伽井の東南に限って龍臥洞と称するのは、この井戸を龍の口と見做す説があるからです。 『遍明院大師明神御託宣記』には、「大塔は西龍の頚、御影堂と松(三鈷の松)とは頭」、さらに「閼伽井は口より出す云々」と記されています。御影堂が西龍なら、東龍もいるはずです。東龍は、御廟を頭、御廟橋を頚、中門を尾とし、西龍は御影堂を頭、大塔を頚とし、瑜祇塔を尾とするとの説があります。
    同書の別本に「当山の地形は二龍東西に臥せ、二虎南北にうずくまる。東龍の頭は奥の院。西龍の頭は壇上なり。南虎の頭は大瀧、北虎の頭は天野なり」とあります。 これらの説は、空海の高野山四至啓白の文に「山の状ちたるや東西は龍の臥せるが如くにして、東に流水あり。南北は虎の踞るが如くにして棲息するに興あり」が由来のようです。

  • 六角経蔵<br />鳥羽法皇の皇后 美福門院が、法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納める経蔵として平安時代後期の1159年に建立したものです。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川の庄を寄進された事に由来し、荒川経とも呼ばれ、別名「荒川経蔵」とも言います。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重文として霊宝館に収蔵されています<br />幾度も火災に遭い、現在の六角経蔵は1934年に再建されたものですが、形状が6角なところからこの名前が付けられています。<br />静寂な場所にあり、経蔵の基壇の辺りに把手が付けられ、人力で回すことができます。一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得られると言われていますが、かなり重たいものです。当初造られたものは蔵全体が回せるようになっていたそうですので、それよりは軽く回るはずなのですが…。

    六角経蔵
    鳥羽法皇の皇后 美福門院が、法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納める経蔵として平安時代後期の1159年に建立したものです。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川の庄を寄進された事に由来し、荒川経とも呼ばれ、別名「荒川経蔵」とも言います。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重文として霊宝館に収蔵されています
    幾度も火災に遭い、現在の六角経蔵は1934年に再建されたものですが、形状が6角なところからこの名前が付けられています。
    静寂な場所にあり、経蔵の基壇の辺りに把手が付けられ、人力で回すことができます。一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得られると言われていますが、かなり重たいものです。当初造られたものは蔵全体が回せるようになっていたそうですので、それよりは軽く回るはずなのですが…。

  • 登天の松と杓子の芝<br />金堂の西側に植えられた松の木は、登天の松と呼ばれています。松の木の間からの木漏れ日が哀愁を誘います。明王院の如法上人が、1149(久安5)年にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたと言われています。<br />「杓子の芝」の名の由来は、上人が昇天される際に斎食の準備をしていた弟子の小如法も後を追って昇天した折、手に持っていた杓子を昇天の途中で落としたのがこの芝生だったからだそうです。<br />余談ですが、如法上人がおられた明王院は、816(弘仁7)年に創建された高野山で最も初期の寺院です。本尊は、日本三不動「赤不動明王の感得像」です。空海の甥の智証大師円珍和尚は、その余りの有り難さに、修行中に感得した不動明王の姿を自分の頭を岩に打ち付けてその血を絵の具に混ぜて写しとったと言われています。<br />その本尊の御開帳は、4月28日です。<br />

    登天の松と杓子の芝
    金堂の西側に植えられた松の木は、登天の松と呼ばれています。松の木の間からの木漏れ日が哀愁を誘います。明王院の如法上人が、1149(久安5)年にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたと言われています。
    「杓子の芝」の名の由来は、上人が昇天される際に斎食の準備をしていた弟子の小如法も後を追って昇天した折、手に持っていた杓子を昇天の途中で落としたのがこの芝生だったからだそうです。
    余談ですが、如法上人がおられた明王院は、816(弘仁7)年に創建された高野山で最も初期の寺院です。本尊は、日本三不動「赤不動明王の感得像」です。空海の甥の智証大師円珍和尚は、その余りの有り難さに、修行中に感得した不動明王の姿を自分の頭を岩に打ち付けてその血を絵の具に混ぜて写しとったと言われています。
    その本尊の御開帳は、4月28日です。

  • 山王院 鳥居<br />赤鳥居の両側は高野槙の林です。狛犬はスマートなので一見狐のようにも見えます。<br />御社の赤鳥居の前で拝むお坊さんの姿は違和感を感じられるかもしれませんが、「神仏混淆」が続く高野山ではごく当たり前の日常風景と言えます。<br /><br />

    山王院 鳥居
    赤鳥居の両側は高野槙の林です。狛犬はスマートなので一見狐のようにも見えます。
    御社の赤鳥居の前で拝むお坊さんの姿は違和感を感じられるかもしれませんが、「神仏混淆」が続く高野山ではごく当たり前の日常風景と言えます。

  • 山王院<br />鳥居の奥にある山王院は、藤原時代に御社の拝殿として建立された九間三面入母屋造りの建物です。山王院とは地主神を山王として礼拝する場所の意味です。内部には三十六歌仙の額、絵馬などが掛けられているそうです。<br />この堂宇では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神様に神法楽として捧げられます。<br />金剛峯寺の寺紋のうちの一つが丹生都比売神社の寺紋であることもこれで納得できます。空海にとって丹生都比売神社は特別な存在であり続けたのです。 <br />雨がひどくなってきたので山王院の軒を拝借して暫く雨宿りです。

    山王院
    鳥居の奥にある山王院は、藤原時代に御社の拝殿として建立された九間三面入母屋造りの建物です。山王院とは地主神を山王として礼拝する場所の意味です。内部には三十六歌仙の額、絵馬などが掛けられているそうです。
    この堂宇では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神様に神法楽として捧げられます。
    金剛峯寺の寺紋のうちの一つが丹生都比売神社の寺紋であることもこれで納得できます。空海にとって丹生都比売神社は特別な存在であり続けたのです。
    雨がひどくなってきたので山王院の軒を拝借して暫く雨宿りです。

  • 御社(重文)<br />壇上伽藍の西端にあり、819(弘仁10)年に空海が伽藍諸堂の建設に先立ち、丹生明神、高野明神を山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とした社です。空海は密教を広めるに当たり、地元の神々を駆逐するのではなく、地主神によってその教えが尊ばれ守られるとする新機軸を打ち出し、神仏習合思想の原点を築いています。この高野山にあっても、修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は大変大切にされています。<br />現在は「高野山」と呼ばれていますが、その昔は「御社山」と呼ばれていたほど崇敬されていた社です。<br />毎月16日に高野山内の僧侶による法会が行われています。

    御社(重文)
    壇上伽藍の西端にあり、819(弘仁10)年に空海が伽藍諸堂の建設に先立ち、丹生明神、高野明神を山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とした社です。空海は密教を広めるに当たり、地元の神々を駆逐するのではなく、地主神によってその教えが尊ばれ守られるとする新機軸を打ち出し、神仏習合思想の原点を築いています。この高野山にあっても、修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は大変大切にされています。
    現在は「高野山」と呼ばれていますが、その昔は「御社山」と呼ばれていたほど崇敬されていた社です。
    毎月16日に高野山内の僧侶による法会が行われています。

  • 御社<br />社殿は3つあり、一宮は丹生明神(丹生都比売命) 、二宮は高野明神(狩場明神、丹生明神の御子) 、三宮は総社として十二王子・百二十伴神が祀られています。丹生、高野明神社の構造様式は春日造り、総社は三間社流見世棚造りと呼ばれ、どちらの屋根も檜皮葺です。現在の社殿は1594(文禄3)年の再建になりますが、重文に指定されています。<br />空海をこの地に導いた高野明神の白と黒の犬が、狛犬として鎮座しています。色も白黒になっています。今昔物語や鎌倉初期の重要文化財では黒犬2匹、鎌倉時代末期〜室町には黒犬1匹、白犬1匹になっています。<br />

    御社
    社殿は3つあり、一宮は丹生明神(丹生都比売命) 、二宮は高野明神(狩場明神、丹生明神の御子) 、三宮は総社として十二王子・百二十伴神が祀られています。丹生、高野明神社の構造様式は春日造り、総社は三間社流見世棚造りと呼ばれ、どちらの屋根も檜皮葺です。現在の社殿は1594(文禄3)年の再建になりますが、重文に指定されています。
    空海をこの地に導いた高野明神の白と黒の犬が、狛犬として鎮座しています。色も白黒になっています。今昔物語や鎌倉初期の重要文化財では黒犬2匹、鎌倉時代末期〜室町には黒犬1匹、白犬1匹になっています。

  • 御社<br />空海と密接な関係にある丹生明神、波切不動、成田不動、目黒不動には対になった和犬像が安置されています。これらは「弘法大師の和犬」像とも言えるものです。<br />平安時代中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはほのぼのとしたストーリが書かれており、空海は和犬に先導されて高野山に辿り着き、開山を決めたとしています。ですから、この和犬は神使として大切にされています。<br />空海は、804年に最澄らと共に唐に渡り、唐の都長安の青龍寺で恵果から真言密教を学びました。帰国の折、空海は唐から日本に向かって「密教を広めるのに最適の地に落ちよ」と唱えて、三鈷杵(さんこしょ)を投げました。<br />

    御社
    空海と密接な関係にある丹生明神、波切不動、成田不動、目黒不動には対になった和犬像が安置されています。これらは「弘法大師の和犬」像とも言えるものです。
    平安時代中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはほのぼのとしたストーリが書かれており、空海は和犬に先導されて高野山に辿り着き、開山を決めたとしています。ですから、この和犬は神使として大切にされています。
    空海は、804年に最澄らと共に唐に渡り、唐の都長安の青龍寺で恵果から真言密教を学びました。帰国の折、空海は唐から日本に向かって「密教を広めるのに最適の地に落ちよ」と唱えて、三鈷杵(さんこしょ)を投げました。

  • 御社<br />帰国後、その三鈷杵を探し求めて高野山に分け入った空海は、山中で白黒2匹の犬を連れた狩人に出会い、その犬たちの先導で松の木に懸かった三鈷杵を見つけ、「真言密教の地」として高野山開山を決めたとされます。『今昔物語』によると、この時の犬を連れた狩人は丹生都比売(にうつひめ)神の子 狩場(高野)明神だったと言います。<br />故に、空海は「金剛峯寺」建立時、丹生都比売神と狩場明神を地主神として敬い、高野山へ勘請しました。こうした故事から、丹生・狩場明神は、空海並びに密教の「護法(守護神)」ともされ、空海や高野山の関連する寺社などにも、その神使の和犬が置かれるようになったと推察されています。 <br />

    御社
    帰国後、その三鈷杵を探し求めて高野山に分け入った空海は、山中で白黒2匹の犬を連れた狩人に出会い、その犬たちの先導で松の木に懸かった三鈷杵を見つけ、「真言密教の地」として高野山開山を決めたとされます。『今昔物語』によると、この時の犬を連れた狩人は丹生都比売(にうつひめ)神の子 狩場(高野)明神だったと言います。
    故に、空海は「金剛峯寺」建立時、丹生都比売神と狩場明神を地主神として敬い、高野山へ勘請しました。こうした故事から、丹生・狩場明神は、空海並びに密教の「護法(守護神)」ともされ、空海や高野山の関連する寺社などにも、その神使の和犬が置かれるようになったと推察されています。

  • 西塔<br />空海の伽藍建立計画『御図記(ごずき)』に基づき、第2世 真然によって建立されました。空海は、大塔と西塔を大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔」として二基一対として建立する計画でした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、大師入定後の887(仁和3)年に漸く完成に至りました。<br />

    西塔
    空海の伽藍建立計画『御図記(ごずき)』に基づき、第2世 真然によって建立されました。空海は、大塔と西塔を大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔」として二基一対として建立する計画でした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、大師入定後の887(仁和3)年に漸く完成に至りました。

  • 西塔<br />方形の初層にこれを覆う裳階とその上に小さな覆鉢を置き、さらに大きな屋蓋で全体を覆うといった複雑な構造をしており、全体を見渡すと重厚感溢れる建物です。<br />柱は外陣に20本、内陣に12本、中心に4本の合計36本に心柱を加えて金剛界三十七尊を象徴しており、塔に込められた深い想いには驚かされます。大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、本尊の金剛界大日如来を中心に、その周囲に胎蔵界四仏を奉安し、これによって金胎両部不二の深義を表しています。<br />金剛界大日如来座像は、西塔創建当時からのものであり、高野山で最古と言われています。重文に指定され、現在は霊宝館にて管理されています。

    西塔
    方形の初層にこれを覆う裳階とその上に小さな覆鉢を置き、さらに大きな屋蓋で全体を覆うといった複雑な構造をしており、全体を見渡すと重厚感溢れる建物です。
    柱は外陣に20本、内陣に12本、中心に4本の合計36本に心柱を加えて金剛界三十七尊を象徴しており、塔に込められた深い想いには驚かされます。大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、本尊の金剛界大日如来を中心に、その周囲に胎蔵界四仏を奉安し、これによって金胎両部不二の深義を表しています。
    金剛界大日如来座像は、西塔創建当時からのものであり、高野山で最古と言われています。重文に指定され、現在は霊宝館にて管理されています。

  • 西塔<br />現在の塔は、1834(天保5)年の5度目の再建に当たるもので、柱間五間、擬宝珠高欄付の多宝塔で高さは27.3mあります。根本大塔や東塔とは異なり、朱色には塗られていない素木造りですが、そのシンプルな色使いに趣が漂います。 <br /> <br />

    西塔
    現在の塔は、1834(天保5)年の5度目の再建に当たるもので、柱間五間、擬宝珠高欄付の多宝塔で高さは27.3mあります。根本大塔や東塔とは異なり、朱色には塗られていない素木造りですが、そのシンプルな色使いに趣が漂います。

  • 壇上伽藍<br />高野山開創1200年に合わせ、悲願だった中門が再建されることになり、ここにあった樹齢374年の檜が資材として切り出されたそうです。そして今、この切り株がスピリチュアルスポットになっています。場所は、壇上伽藍の西塔の奥になります。

    壇上伽藍
    高野山開創1200年に合わせ、悲願だった中門が再建されることになり、ここにあった樹齢374年の檜が資材として切り出されたそうです。そして今、この切り株がスピリチュアルスポットになっています。場所は、壇上伽藍の西塔の奥になります。

  • 孔雀堂<br />西塔の東、金堂の北西には3つの堂宇が軒を連ね、その一番西側に控えるのが孔雀堂です。後鳥羽法王の御願により、京都の東寺長者の延杲(えんごう)が神泉苑にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就しました。その功績により、1199(正治元)年に法王の命により建立しました。当時は雨が降らないと全国ネットで「雨乞い神事」が行われていたようです。<br />1926(昭和元)年に金堂より出火した大火で焼失しましたが、1983年に弘法大師入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。1200(正治2)年に安置された本尊「孔雀明王像」は快慶作と伝わり、重文に指定され霊宝館に保存されています。因みに、ここにはそのレプリカが安置されています。<br />

    孔雀堂
    西塔の東、金堂の北西には3つの堂宇が軒を連ね、その一番西側に控えるのが孔雀堂です。後鳥羽法王の御願により、京都の東寺長者の延杲(えんごう)が神泉苑にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就しました。その功績により、1199(正治元)年に法王の命により建立しました。当時は雨が降らないと全国ネットで「雨乞い神事」が行われていたようです。
    1926(昭和元)年に金堂より出火した大火で焼失しましたが、1983年に弘法大師入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。1200(正治2)年に安置された本尊「孔雀明王像」は快慶作と伝わり、重文に指定され霊宝館に保存されています。因みに、ここにはそのレプリカが安置されています。

  • 准胝堂<br />空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立したと伝えられる本尊「准胝観音像」を祀る堂宇です。高野山の僧侶の得度の本尊、つまり守り神に相当します。<br />准胝観音像は、伽藍が建立された当時は、今でいう食堂に安置されていたそうです。この堂宇が973(天禄4)年に建立され、ここに移されたそうです。しかし、この准胝堂も何度も火災に見舞われ、その度に再建されてきたものですが、その度に本尊を守るのは大変なことだったに違いありません。現在の堂宇は1883(明治16)年に再建されたものです。<br />毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会の法会が営まれています。

    准胝堂
    空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立したと伝えられる本尊「准胝観音像」を祀る堂宇です。高野山の僧侶の得度の本尊、つまり守り神に相当します。
    准胝観音像は、伽藍が建立された当時は、今でいう食堂に安置されていたそうです。この堂宇が973(天禄4)年に建立され、ここに移されたそうです。しかし、この准胝堂も何度も火災に見舞われ、その度に再建されてきたものですが、その度に本尊を守るのは大変なことだったに違いありません。現在の堂宇は1883(明治16)年に再建されたものです。
    毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会の法会が営まれています。

  • 御影堂<br />三鈷の松の前に建つ、宝形造りの堂宇が御影堂です。元々は、空海の持仏堂だったそうです。真如親王が描かれた大師御影を祀っていたことから、御影堂と名付けられたと言われています。<br />現在の建物は、1843(天保14)年に焼失後、1847(弘化4)年に紀州徳川家によって再建されました。緩やかな勾配を持つ屋根と深い軒を持つ山内随一の典雅な形をした堂宇です。<br />堂内の外陣には十大弟子の肖像画が掛けられており、それらはまるで大師の御影を守護しているかのように見えるそうです。<br />御逮夜法会(おたいやほうえ)の後のみ、一般内拝が許されています。<br />

    御影堂
    三鈷の松の前に建つ、宝形造りの堂宇が御影堂です。元々は、空海の持仏堂だったそうです。 真如親王が描かれた大師御影を祀っていたことから、御影堂と名付けられたと言われています。
    現在の建物は、1843(天保14)年に焼失後、1847(弘化4)年に紀州徳川家によって再建されました。緩やかな勾配を持つ屋根と深い軒を持つ山内随一の典雅な形をした堂宇です。
    堂内の外陣には十大弟子の肖像画が掛けられており、それらはまるで大師の御影を守護しているかのように見えるそうです。
    御逮夜法会(おたいやほうえ)の後のみ、一般内拝が許されています。

  • 三鈷の松<br />金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木には、次のようなエピソードが残されています。<br />空海が唐から帰国する際、明州の浜から真言密教を広めるのに相応しい場所を探すため、日本へ向けて三鈷杵と呼ばれる法具を投げたそうです。その後すぐに紫雲がたなびき、雲に乗って日本へと飛んできたと言われています。後に空海が高野近辺を訪れると、狩人から夜な夜な光を放つ松があると聞きました。早速、その松の所へ行ってみると、唐より投げた三鈷が引っかかっており、それを見た空海はこの地こそ密教を広めるに相応しい土地だと決めたという伝説が残っています。<br />幾度もの火災に焼かれ、今ある松は6代目の実生(種から生えたもの)です。<br />三鈷の松には3つ葉の松があり、参詣者の縁起物として大切にされています。一般的に松の葉は2葉か5葉なので、3つ葉は珍しいものです。財布に入れておくと幸福になれたり、お金が貯まると言われています。<br />余談ですが、空海が明州の浜から投げた三鈷杵が掛かった松は、現在大塔が建っている場所に生えていたという異説もあります。『高野山秘記』には、「自大唐所令擲三古杵、落御落所、大塔心柱跡也」とあり、大塔の丁度心柱の下が三鈷の松の生えていた所だったとしています。また、『紀伊続風土記』は、大塔跡に生えていた松を現在の場所へ植え直したと記しています。<br />これらから推測できるのは、元々の「三鈷の松」は焼失や切り倒されたのではなく、現在の場所に植え替えられたと見る方が自然だということです。<br />因みに、現在の三鈷の松は、1982年に枯死したため、かねてより育成していた新しい松を移植したものだそうです。総本山金剛峰寺山林部が種子から育成した黒松と、金剛峰寺の寺有林から移植した赤松の2本が植えられています。

    三鈷の松
    金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木には、次のようなエピソードが残されています。
    空海が唐から帰国する際、明州の浜から真言密教を広めるのに相応しい場所を探すため、日本へ向けて三鈷杵と呼ばれる法具を投げたそうです。 その後すぐに紫雲がたなびき、雲に乗って日本へと飛んできたと言われています。後に空海が高野近辺を訪れると、狩人から夜な夜な光を放つ松があると聞きました。早速、その松の所へ行ってみると、唐より投げた三鈷が引っかかっており、それを見た空海はこの地こそ密教を広めるに相応しい土地だと決めたという伝説が残っています。
    幾度もの火災に焼かれ、今ある松は6代目の実生(種から生えたもの)です。
    三鈷の松には3つ葉の松があり、参詣者の縁起物として大切にされています。一般的に松の葉は2葉か5葉なので、3つ葉は珍しいものです。財布に入れておくと幸福になれたり、お金が貯まると言われています。
    余談ですが、空海が明州の浜から投げた三鈷杵が掛かった松は、現在大塔が建っている場所に生えていたという異説もあります。 『高野山秘記』には、「自大唐所令擲三古杵、落御落所、大塔心柱跡也」とあり、大塔の丁度心柱の下が三鈷の松の生えていた所だったとしています。また、『紀伊続風土記』は、大塔跡に生えていた松を現在の場所へ植え直したと記しています。
    これらから推測できるのは、元々の「三鈷の松」は焼失や切り倒されたのではなく、現在の場所に植え替えられたと見る方が自然だということです。
    因みに、現在の三鈷の松は、1982年に枯死したため、かねてより育成していた新しい松を移植したものだそうです。総本山金剛峰寺山林部が種子から育成した黒松と、金剛峰寺の寺有林から移植した赤松の2本が植えられています。

  • 根本大塔<br />真言密教の根本道場のシンボルとして建立された高さ48.5m、幅23.5m四面の多宝塔です。多宝塔様式としては日本最初のものと言われ、空海、真然の2代で816年から70年の歳月をかけて完成したと伝えられています。現在の塔は、弘法大師入定後1100年目を迎えた1937(昭和12)年に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。 <br />

    根本大塔
    真言密教の根本道場のシンボルとして建立された高さ48.5m、幅23.5m四面の多宝塔です。多宝塔様式としては日本最初のものと言われ、空海、真然の2代で816年から70年の歳月をかけて完成したと伝えられています。現在の塔は、弘法大師入定後1100年目を迎えた1937(昭和12)年に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。

  • 根本大塔<br />根本大塔は火災に祟られたらしく、記録に残るだけでも5度焼失し、その度に建て替えられてきました。<br />32歳だった平清盛は、1149(久安5)年に落雷で焼失した根本大塔を再建するため、鳥羽法皇の命で建立奉行を務めました。90人近い死者を出す大事故にも遭い、1156(保元元)年に漸く完成し、清盛は晴れて奥の院へ参詣しました。 <br />すると何処からともなく白髪の老僧が現れ、根本大塔修理の完了を喜び、さらに厳島神社も修理するよう勧めたのです。老僧の周囲には香の薫りが漂い、「悪行を行うことがあれば、この先子孫まで願望が叶うことはない」と説いた後、姿を掻き消してしまいました。清盛はこの老僧は空海の化身に違いないと確信して鳥羽法皇にその出来事を報告し、法皇までがそれを素晴らしいと讃えたそうです。<br />厳島神社修理後、厳島神社大明神からの合力を得て、後に鬼のように出世し、権力を得えた清盛ですが、あるきっかけで大明神からの合力が消え、西に沈む太陽のように一族も滅ぶこととなりました。<br />実は清盛が空海と対面したのは、奥の院ではなく金堂前だったという説もあります。2人が出会った場所にはかつて大きな桜の木があり、このエピソードからその桜の木は「対面桜」と呼ばれたそうです。『高野大師行状図画』にも金堂前に「対面桜」が描かれていますが、残念なことに往時の対面桜は今は残っていません。

    根本大塔
    根本大塔は火災に祟られたらしく、記録に残るだけでも5度焼失し、その度に建て替えられてきました。
    32歳だった平清盛は、1149(久安5)年に落雷で焼失した根本大塔を再建するため、鳥羽法皇の命で建立奉行を務めました。90人近い死者を出す大事故にも遭い、1156(保元元)年に漸く完成し、清盛は晴れて奥の院へ参詣しました。
    すると何処からともなく白髪の老僧が現れ、根本大塔修理の完了を喜び、さらに厳島神社も修理するよう勧めたのです。老僧の周囲には香の薫りが漂い、「悪行を行うことがあれば、この先子孫まで願望が叶うことはない」と説いた後、姿を掻き消してしまいました。清盛はこの老僧は空海の化身に違いないと確信して鳥羽法皇にその出来事を報告し、法皇までがそれを素晴らしいと讃えたそうです。
    厳島神社修理後、厳島神社大明神からの合力を得て、後に鬼のように出世し、権力を得えた清盛ですが、あるきっかけで大明神からの合力が消え、西に沈む太陽のように一族も滅ぶこととなりました。
    実は清盛が空海と対面したのは、奥の院ではなく金堂前だったという説もあります。2人が出会った場所にはかつて大きな桜の木があり、このエピソードからその桜の木は「対面桜」と呼ばれたそうです。『高野大師行状図画』にも金堂前に「対面桜」が描かれていますが、残念なことに往時の対面桜は今は残っていません。

  • 根本大塔<br />鮮やかな金色と朱色、極彩色に彩られ、非日常感に目が眩みそうです。中央の本尊「胎蔵大日如来像」を囲むように金剛界の四仏像が配されています。<br />周囲の16本の柱には堂本印象画伯の筆による「十六大菩薩」が描かれ、四隅の壁には密教を伝えた「真言八祖像」や花鳥が描かれ、胎蔵界と金剛界をひとつに融合した空海独自の立体曼荼羅の世界を出現させています。絵画と外壁は、平成の大修理の一環として修復・塗り替えが行なわれています。<br />正面の梁に掲げられた勅額「弘法」は昭和天皇の宸筆になります。また、一般的には胎蔵界像と金剛界像は別々に安置しますが、弘法大師の両者は根本的にはひとつであるという思想により一緒に安置されているのが特徴です。<br />内部は残念ながら撮影禁止ですが、極彩色の小宇宙は必見です。<br /><br />この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。<br /><br />この続きは、九夏三伏 高野山彷徨⑤徳川霊台・蓮華定院・女人堂(エピローグ)でお届けいたします。

    根本大塔
    鮮やかな金色と朱色、極彩色に彩られ、非日常感に目が眩みそうです。中央の本尊「胎蔵大日如来像」を囲むように金剛界の四仏像が配されています。
    周囲の16本の柱には堂本印象画伯の筆による「十六大菩薩」が描かれ、四隅の壁には密教を伝えた「真言八祖像」や花鳥が描かれ、胎蔵界と金剛界をひとつに融合した空海独自の立体曼荼羅の世界を出現させています。絵画と外壁は、平成の大修理の一環として修復・塗り替えが行なわれています。
    正面の梁に掲げられた勅額「弘法」は昭和天皇の宸筆になります。また、一般的には胎蔵界像と金剛界像は別々に安置しますが、弘法大師の両者は根本的にはひとつであるという思想により一緒に安置されているのが特徴です。
    内部は残念ながら撮影禁止ですが、極彩色の小宇宙は必見です。

    この写真は、http://www.koya.orgから借用させていただきました。

    この続きは、九夏三伏 高野山彷徨⑤徳川霊台・蓮華定院・女人堂(エピローグ)でお届けいたします。

この旅行記のタグ

関連タグ

928いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (2)

開く

閉じる

  • こあひるさん 2016/08/01 23:53:19
    消化しきれないガイドブック
    montsaintmichelさん、こんばんは。

    ちょうど今週末、仙台から高野山に・・・はるばる行く予定なので・・・タイムリーな旅行記・・・とっても参考になります・・・というよりものすごく勉強になります。

    しかしながら・・・あまりにも詳しすぎて・・・消化しきれないまま行き、帰ってきてから自分の実感と照らし合わせながら、改めて勉強し直すことになるでしょうね〜〜(笑)。

    こあひる

    montsaintmichel

    montsaintmichelさん からの返信 2016/08/02 17:14:11
    RE: 消化しきれないガイドブック
    こあひるさん、こんにちは!

    近々高野山へ行かれるとのこと、当方の旅行記が参考になれば幸いですが・・・。
    正直なところ、見所が多過ぎて消化不良の感があります。
    何度も参拝して、はじめて空海の境地に達する場所なのかもしれません。
    こあひるさんの目線で捉えた旅行記を楽しみにしております。
    どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ!

    montsaintmichel

montsaintmichelさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP