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 かねてから行きたかった新疆ウイグル自治区の外務省の危険情報が2009年のウルムチ騒乱以来、レベル3(渡航自粛)からレベル1(十分注意)になったの早速訪ねる事にした。<br /> 大阪港~上海~ウルムチ~トルファン~敦煌~西安~洛陽~上海~大阪港、前回と違って余裕をのある日程を組んだが、前回よりも予想外、想定外の事が起きてしまったのである。<br /><br /> 今回は、洛陽、洛陽と云えば子供の頃読んだ芥川龍之介の小説「杜子春」の最初の一節、「唐王朝の洛陽の都。西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。」と挿絵が浮かんで来る。それと三国志である。特に董卓が魏の都であった洛陽を焼き払う場面である。戦乱の三国時代、のどかな唐王朝の洛陽のイメージがあったが、着いたとたん大都会でそんなイメージはどこかに吹き飛んでしまった。

3度目の中国 烏魯木斉~トルファン~敦煌~洛陽への旅 vol.11 洛陽 三国志 関林廟

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2012/05/28 - 2012/06/13

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ノスタルジア

ノスタルジアさん

 かねてから行きたかった新疆ウイグル自治区の外務省の危険情報が2009年のウルムチ騒乱以来、レベル3(渡航自粛)からレベル1(十分注意)になったの早速訪ねる事にした。
 大阪港~上海~ウルムチ~トルファン~敦煌~西安~洛陽~上海~大阪港、前回と違って余裕をのある日程を組んだが、前回よりも予想外、想定外の事が起きてしまったのである。

 今回は、洛陽、洛陽と云えば子供の頃読んだ芥川龍之介の小説「杜子春」の最初の一節、「唐王朝の洛陽の都。西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。」と挿絵が浮かんで来る。それと三国志である。特に董卓が魏の都であった洛陽を焼き払う場面である。戦乱の三国時代、のどかな唐王朝の洛陽のイメージがあったが、着いたとたん大都会でそんなイメージはどこかに吹き飛んでしまった。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス タクシー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 平成24年6月8日(金)洛陽と周辺地図

    平成24年6月8日(金)洛陽と周辺地図

  • 平成24年6月7日(木)西安から洛陽までの 列車切符 162元2,106円<br /> 18時52分発K318次 車両番号09 座席番号001 軟臥 下段<br /> 頭文字Kは快速列車で日本の急行列車に相当する。<br /><br /> コンパートメント室は自分一人だった。洛陽には翌日の午前0時15分着なので寝ていたところ、突然、騒々しく開けるドアと部屋の点灯で叩き起こされた。時計を見ると22時過ぎだった。<br /> 入って来たのは小学生の男児を連れた3人家族である、何度も出入りする度の音、何よりも迷惑を省みない大声の会話、最初、父親に口に一本指を当てて「しー」と言ったが、全く意に介せず、その内カップラーメンを食べ始めて一層うるさくなって遂にはキレた。「うるさい!いい加減にしろ!」と日本語で父親を怒鳴った。父親は「この男何を怒っているのか?」という顔をした。何を言っても無駄と思って横になって毛布を被ったが頭に来ていたせいか眠れないので通路に出た。窓の外は真っ暗でどの辺りを走っているか分からない、食堂車にいた年配の男の車掌が休憩時間なのか本を読んでいたので、「洛陽には何時に着きますか?」をメモ用紙に「幾點鐘在洛陽駅到達?」と書いて、遠慮越しに見せたら、いきなり大きな声で怒鳴りつけて来たのである。どうやら休憩中に話し掛けたことにキレたらしい、そんなに怒ることか!、マックの店員、同室の家族連れ、車掌といい、夕方からろくな中国人にか出会っていなかった。いちいちこんな事を気にしていたら中国旅行は出来ない。

    平成24年6月7日(木)西安から洛陽までの 列車切符 162元2,106円
     18時52分発K318次 車両番号09 座席番号001 軟臥 下段
     頭文字Kは快速列車で日本の急行列車に相当する。

     コンパートメント室は自分一人だった。洛陽には翌日の午前0時15分着なので寝ていたところ、突然、騒々しく開けるドアと部屋の点灯で叩き起こされた。時計を見ると22時過ぎだった。
     入って来たのは小学生の男児を連れた3人家族である、何度も出入りする度の音、何よりも迷惑を省みない大声の会話、最初、父親に口に一本指を当てて「しー」と言ったが、全く意に介せず、その内カップラーメンを食べ始めて一層うるさくなって遂にはキレた。「うるさい!いい加減にしろ!」と日本語で父親を怒鳴った。父親は「この男何を怒っているのか?」という顔をした。何を言っても無駄と思って横になって毛布を被ったが頭に来ていたせいか眠れないので通路に出た。窓の外は真っ暗でどの辺りを走っているか分からない、食堂車にいた年配の男の車掌が休憩時間なのか本を読んでいたので、「洛陽には何時に着きますか?」をメモ用紙に「幾點鐘在洛陽駅到達?」と書いて、遠慮越しに見せたら、いきなり大きな声で怒鳴りつけて来たのである。どうやら休憩中に話し掛けたことにキレたらしい、そんなに怒ることか!、マックの店員、同室の家族連れ、車掌といい、夕方からろくな中国人にか出会っていなかった。いちいちこんな事を気にしていたら中国旅行は出来ない。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 1泊朝食付き340元 4,420円<br /><br /> 列車は0時35分に着いた。駅前で拾ったタクシーの運転手は良かった。乗る時は必ずメーターを倒すかどうか確認するのだが、真夜中で客待ちのタクシーも1台だけだったので、言いなりに払うつもりだったがメーターを倒してくれた。ホテルまでの道路はオレンジ色の街灯の灯りしか無く街は真っ暗でどこを走っているか分からなかった。タクシー料金は30元390円だった。<br /> ホテルに入るとロビーには真夜中なのに結構宿泊客がいて驚いた。チェックインしてすぐに寝た。

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 1泊朝食付き340元 4,420円

     列車は0時35分に着いた。駅前で拾ったタクシーの運転手は良かった。乗る時は必ずメーターを倒すかどうか確認するのだが、真夜中で客待ちのタクシーも1台だけだったので、言いなりに払うつもりだったがメーターを倒してくれた。ホテルまでの道路はオレンジ色の街灯の灯りしか無く街は真っ暗でどこを走っているか分からなかった。タクシー料金は30元390円だった。
     ホテルに入るとロビーには真夜中なのに結構宿泊客がいて驚いた。チェックインしてすぐに寝た。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館<br /><br /> 1時過ぎに寝たのに6時には目が覚めた。旅行中は興奮しているせいか目覚めが早い。

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館

     1時過ぎに寝たのに6時には目が覚めた。旅行中は興奮しているせいか目覚めが早い。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館<br /><br /> 広々とした部屋で自分にとっては今までホテルの中で一番豪華ホテルだった。<br />これで朝食付きで4,420円は安いと思った。

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館

     広々とした部屋で自分にとっては今までホテルの中で一番豪華ホテルだった。
    これで朝食付きで4,420円は安いと思った。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 レストラン<br /><br /> 他と同じビュッフェスタイルの朝食だったが、他よりメニューは豊富だった。

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 レストラン

     他と同じビュッフェスタイルの朝食だったが、他よりメニューは豊富だった。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 レストラン

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 レストラン

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 レストラン

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館 レストラン

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館<br /><br /> 朝食を終えてフロントに行って旅行社から明日の上海行の切符が届いていないか?と訊いたら、今、預かったところだと言いながら洛陽龍門石窟国際旅行社の 呂珺さんに電話してくれ、近くにいたのかすぐに現れた。  <br />

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館

     朝食を終えてフロントに行って旅行社から明日の上海行の切符が届いていないか?と訊いたら、今、預かったところだと言いながら洛陽龍門石窟国際旅行社の 呂珺さんに電話してくれ、近くにいたのかすぐに現れた。  

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館<br /><br /> 呂珺さんは30代と思しき女性で日本語も流暢に話し、愛想も良く見るからに親切だった。<br /> 呂珺さんに今晩のホテルは駅の近くにしたい、と言ったら、駅前にはたくさんあるので一緒に探しましょうか、と快く言われ、早速チェックアウトしてタクシーに乗った。<br /> 友誼賓館でも良かったが明日の19時48分発の列車で上海に向かうので駅の近い方が良いと思った。<br />

    平成24年6月8日(金)洛陽 友誼賓館

     呂珺さんは30代と思しき女性で日本語も流暢に話し、愛想も良く見るからに親切だった。
     呂珺さんに今晩のホテルは駅の近くにしたい、と言ったら、駅前にはたくさんあるので一緒に探しましょうか、と快く言われ、早速チェックアウトしてタクシーに乗った。
     友誼賓館でも良かったが明日の19時48分発の列車で上海に向かうので駅の近い方が良いと思った。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽 タクシーの車窓から ごくありふれた日常の風景<br /><br /> 呂珺さんは街案内もしてくれて明日の少林寺へ行くバスターミナルも教えてくれた。駅前にはホテルも多くあってその内のオープン間もない綺麗なホテルにこれは、と思って呂 ?万さんと入ったらフロントで、ここのホテルは外国人を泊める事は出来ない、と言われた。あ、そうだった、中国のホテルには外国人が泊まれるホテルと泊まれないホテルがある事を忘れていた。<br /> これ以上呂さんに付き合って貰うのは悪いと思い、呂さんの知っているホテルを頼んだ。

    平成24年6月8日(金)洛陽 タクシーの車窓から ごくありふれた日常の風景

     呂珺さんは街案内もしてくれて明日の少林寺へ行くバスターミナルも教えてくれた。駅前にはホテルも多くあってその内のオープン間もない綺麗なホテルにこれは、と思って呂 ?万さんと入ったらフロントで、ここのホテルは外国人を泊める事は出来ない、と言われた。あ、そうだった、中国のホテルには外国人が泊まれるホテルと泊まれないホテルがある事を忘れていた。
     これ以上呂さんに付き合って貰うのは悪いと思い、呂さんの知っているホテルを頼んだ。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店 1泊朝食付き300元3,900円<br /><br /> 呂さんは嫌な顔もせず、他にも幾つかののホテルを案内してくれたが、結局このホテルに決めた。

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店 1泊朝食付き300元3,900円

     呂さんは嫌な顔もせず、他にも幾つかののホテルを案内してくれたが、結局このホテルに決めた。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店 フロントロビー

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店 フロントロビー

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店 フロントロビー

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店 フロントロビー

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店<br /><br /> 部屋は友誼賓館ほど広くはなかったが綺麗でこれで十分だった。

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店

     部屋は友誼賓館ほど広くはなかったが綺麗でこれで十分だった。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店からの眺望

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店<br /><br /> 関林廟と龍門石窟に行くバスルートをフロントで書いて貰った。中国はタクシーが安いからバスで行くより楽だが、それでは街を覚えらないので出来るだけタクシーには乗らないようにしている。

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店

     関林廟と龍門石窟に行くバスルートをフロントで書いて貰った。中国はタクシーが安いからバスで行くより楽だが、それでは街を覚えらないので出来るだけタクシーには乗らないようにしている。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で<br /><br /> バス停はホテルに前にあって、関羽廟と龍門石窟は同方向なので便利だった。

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

     バス停はホテルに前にあって、関羽廟と龍門石窟は同方向なので便利だった。

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

  • 平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

    平成24年6月8日(金)洛陽牡丹大酒店前のバス停で

  • 平成24年6月8日(金)関林廟の入口の交差点

    平成24年6月8日(金)関林廟の入口の交差点

  • 平成24年6月8日(金)関林廟<br /><br /> 関林廟に着いたと思ったら、バスは左折して門をくぐり抜けて関林南街を走り廟まで1キロ余りだった。

    平成24年6月8日(金)関林廟

     関林廟に着いたと思ったら、バスは左折して門をくぐり抜けて関林南街を走り廟まで1キロ余りだった。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟広場<br /><br /> 関林廟は漢の時代から築き始められ、明の万歴20年(1592年)に修築され、敷地面積は12万平方メートルあり、明と清の時代の建築物は150軒余り、古代の石碑は70枚余りが残されている。

    平成24年6月8日(金)関林廟広場

     関林廟は漢の時代から築き始められ、明の万歴20年(1592年)に修築され、敷地面積は12万平方メートルあり、明と清の時代の建築物は150軒余り、古代の石碑は70枚余りが残されている。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟広場

    平成24年6月8日(金)関林廟広場

  • 平成24年6月8日(金)関林廟大門<br /><br /> 大門は清の乾隆56年(1791年)に建築され、その上には81枚の金色の釘が飾られており、封建社会では最も高い身分の象徴。大門の両側には壁があり、「忠義」、「仁勇」 という四つの文字が書かれ、関羽の「君主に忠実、友人に仁義、勇敢」の一生を総括している。大門の前に白い大理石で彫刻された雄の石獅子が二頭踞っており、洛陽で現存する明の時代に彫刻された石獅子の中に一番大きい。

    平成24年6月8日(金)関林廟大門

     大門は清の乾隆56年(1791年)に建築され、その上には81枚の金色の釘が飾られており、封建社会では最も高い身分の象徴。大門の両側には壁があり、「忠義」、「仁勇」 という四つの文字が書かれ、関羽の「君主に忠実、友人に仁義、勇敢」の一生を総括している。大門の前に白い大理石で彫刻された雄の石獅子が二頭踞っており、洛陽で現存する明の時代に彫刻された石獅子の中に一番大きい。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 大門<br /><br /> 

    平成24年6月8日(金)関林廟 大門

     

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 入廟券40元520円

    平成24年6月8日(金)関林廟 入廟券40元520円

  • 平成24年6月8日(金)関林廟<br /><br /> 関羽の首が埋葬されているのは「関林」で「林」は中国の古代封建社会の埋葬の示す言い方としては最高のものだと言われている。皇帝でも王でもない将軍だった関羽の廟が「関林」と呼ばれているのは、関羽がそれだけの人物だったことを表している。<br /> 関羽を陥れ、首をとった呉の孫権は、義兄弟を殺された劉備の怒りを恐れて、関羽の首を魏の曹操に送り、曹操が企んだように見せかけたのだが、関羽の軍人としての能力、人柄を高く買っていた曹操は、関羽の首を手厚く埋葬した。それが関林。

    平成24年6月8日(金)関林廟

     関羽の首が埋葬されているのは「関林」で「林」は中国の古代封建社会の埋葬の示す言い方としては最高のものだと言われている。皇帝でも王でもない将軍だった関羽の廟が「関林」と呼ばれているのは、関羽がそれだけの人物だったことを表している。
     関羽を陥れ、首をとった呉の孫権は、義兄弟を殺された劉備の怒りを恐れて、関羽の首を魏の曹操に送り、曹操が企んだように見せかけたのだが、関羽の軍人としての能力、人柄を高く買っていた曹操は、関羽の首を手厚く埋葬した。それが関林。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 儀門

    平成24年6月8日(金)関林廟 儀門

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 獅子御道<br /><br /> 獅子御道は皇帝または朝廷遣官致祭時の専用歩道。長さ35メートル、両辺石の欄干、36本の望柱、104の石獅子が配されている。

    平成24年6月8日(金)関林廟 獅子御道

     獅子御道は皇帝または朝廷遣官致祭時の専用歩道。長さ35メートル、両辺石の欄干、36本の望柱、104の石獅子が配されている。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿

    平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿<br /><br /> 中央は関羽、左右に廖化、王甫

    平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿

     中央は関羽、左右に廖化、王甫

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿<br /><br />  中央は関羽、左右に廖化、王甫<br />

    平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿

      中央は関羽、左右に廖化、王甫

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿<br /><br /> 関平は関羽とともに斬首。周倉はその報を受け、自殺。<br /> 王甫も同じく後を追っている(但し、正史ではその3年後の夷陵の戦いで戦死)。<br /> 廖化は関羽に信頼された幕僚長。関羽死後も劉備、次代の劉禅に仕え、蜀滅亡まで生き抜く。蜀滅亡時、魏の洛陽に送られる途中に病死したと伝わっている。<br />

    平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿

     関平は関羽とともに斬首。周倉はその報を受け、自殺。
    王甫も同じく後を追っている(但し、正史ではその3年後の夷陵の戦いで戦死)。
     廖化は関羽に信頼された幕僚長。関羽死後も劉備、次代の劉禅に仕え、蜀滅亡まで生き抜く。蜀滅亡時、魏の洛陽に送られる途中に病死したと伝わっている。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿<br /><br /> 右から関羽、廖化、周倉

    平成24年6月8日(金)関林廟 拝殿

     右から関羽、廖化、周倉

  • 平成24年6月8日(金)関羽廟<br /><br /> 左から関羽、王甫、関平、関平は関羽とともに斬首された。<br /><br /> 王 甫(おう ほ、? - 222年)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての政治家。字は国山。益州広漢郡?県の人。子は王祐。従兄は王士。<br /> 風貌が凛々しく、人物評価や政治手腕に優れていた。はじめは劉璋に益州の書佐(書記の事務を担当する者)として仕えた。後に劉備が益州を奪うと、綿竹県令となり、次いで荊州議曹従事に異動となった。章武2年(222年)、劉備の呉討伐に従ったが、軍が秭帰(南郡)で敗北した際に戦死した(夷陵の戦い)。<br /> 小説『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。荊州を狙う孫権軍や、荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言する。<br /> しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を作るよう王甫に命令している。<br /> その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落。関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになる。<br /> 王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を進むべきと諌める。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしない。仕方なく王甫は、周倉と共に麦城の留守を守ることになる。<br /> しかし、王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、殺されてしまう。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を追って櫓から身を投げ、自殺することになっている。また、周倉も自刎し果てている。<br /><br /><br />

    平成24年6月8日(金)関羽廟

     左から関羽、王甫、関平、関平は関羽とともに斬首された。

     王 甫(おう ほ、? - 222年)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての政治家。字は国山。益州広漢郡?県の人。子は王祐。従兄は王士。
     風貌が凛々しく、人物評価や政治手腕に優れていた。はじめは劉璋に益州の書佐(書記の事務を担当する者)として仕えた。後に劉備が益州を奪うと、綿竹県令となり、次いで荊州議曹従事に異動となった。章武2年(222年)、劉備の呉討伐に従ったが、軍が秭帰(南郡)で敗北した際に戦死した(夷陵の戦い)。
     小説『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。荊州を狙う孫権軍や、荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言する。
     しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を作るよう王甫に命令している。
     その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落。関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになる。
     王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を進むべきと諌める。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしない。仕方なく王甫は、周倉と共に麦城の留守を守ることになる。
     しかし、王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、殺されてしまう。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を追って櫓から身を投げ、自殺することになっている。また、周倉も自刎し果てている。


  • 平成24年6月8日(金)関羽廟<br /><br /> 右から関羽、周倉、寥化<br /><br /> 廖化は字を元倹といい、もとの名を淳といって、襄陽郡の出身である。<br />劉備が荊州にいるころ、廖化は仕えて、後に前将軍の関羽の主簿となった。<br />関羽が呉に敗北した際、呉に身を委ねて投降した。劉備のもとへ戻りたい一心で、死んだという嘘の情報を流し、当時の人々は本当に死んだと思い込んだ。そこで老母を連れて昼夜兼行で西方に向かった。<br /> ちょうど劉備は東征に出たときに遭遇した。劉備はたいそう喜び、廖化を宜都太守に任じた。<br />劉備が逝去すると、丞相参軍となり、後に督広武となったが、次第に昇進して右車騎将軍・仮節まで昇り、并州刺史を兼任し、中郷侯に封じられ、果敢な烈しい人物として知られた。官位は張翼と同等であった。<br /> 262年、姜維が軍勢を率いて狄道に出陣したとき、廖化は、「戦争をやめなければ、必ず自分の身をやくことになろう」という言葉は、伯約(姜維)にあてはまる。智謀が相手を上まわっていないうえに、武力も敵より劣っているのだ。あくことなく戦争をしかけたとしても、どうして手柄を立てられよう。「我れより先だたず、我れより後れず」という言葉は、現在の事態にあてはまるものである、といった。<br /> 264年、春、蜀滅亡後に廖化は洛陽に移住させられたが、途中で病気のために亡くなった。享年不明。宗預伝における会話を見るに、没年齢は70歳を越えて没したのが伺える。<br />

    平成24年6月8日(金)関羽廟

     右から関羽、周倉、寥化

     廖化は字を元倹といい、もとの名を淳といって、襄陽郡の出身である。
    劉備が荊州にいるころ、廖化は仕えて、後に前将軍の関羽の主簿となった。
    関羽が呉に敗北した際、呉に身を委ねて投降した。劉備のもとへ戻りたい一心で、死んだという嘘の情報を流し、当時の人々は本当に死んだと思い込んだ。そこで老母を連れて昼夜兼行で西方に向かった。
     ちょうど劉備は東征に出たときに遭遇した。劉備はたいそう喜び、廖化を宜都太守に任じた。
    劉備が逝去すると、丞相参軍となり、後に督広武となったが、次第に昇進して右車騎将軍・仮節まで昇り、并州刺史を兼任し、中郷侯に封じられ、果敢な烈しい人物として知られた。官位は張翼と同等であった。
     262年、姜維が軍勢を率いて狄道に出陣したとき、廖化は、「戦争をやめなければ、必ず自分の身をやくことになろう」という言葉は、伯約(姜維)にあてはまる。智謀が相手を上まわっていないうえに、武力も敵より劣っているのだ。あくことなく戦争をしかけたとしても、どうして手柄を立てられよう。「我れより先だたず、我れより後れず」という言葉は、現在の事態にあてはまるものである、といった。
     264年、春、蜀滅亡後に廖化は洛陽に移住させられたが、途中で病気のために亡くなった。享年不明。宗預伝における会話を見るに、没年齢は70歳を越えて没したのが伺える。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

    平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

    平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

    平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿<br /><br /> 中央に関羽、左に周倉、右に関平<br /><br /> 周倉は元は黄巾の乱に参加した賊徒で、裴元紹らと臥牛山で山賊をしていた。裴元紹が語るところによると周倉は関西(涼州方面)の出身で、両腕に一千斤(約600kg)の怪力があり、厚い鉄板のような胸と渦を巻くような縮れ髭の持ち主。<br /> 黄巾の乱の時に見た関羽の勇姿に惚れ込み、その配下になることを夢見ていた。<br />曹操のもとを辞去して劉備のもとに向かう途中、関羽と出会い裴元紹に子分を預けて単身仲間に加わる。あとで裴元紹を仲間に迎えようとしてその途中で趙雲に出くわし散々に打ち負かされる。<br /> 関羽が呉の魯粛と「単刀会」で会見した時関羽の従者として同席。席上で「天下の土地は徳がある者が治めるので呉のものではない」と大声を張り上げ関羽に退出させられる。しかしこれは関羽とあらかじめ練った策で、退出した周倉は味方の水軍を呼び寄せ、関羽と共に荊州に無事帰還した。演義だけでなく京劇などでも知られる名場面である。<br /> 魏の于禁と龐徳の軍が攻めてきた時、関羽は水攻めでこれを打ち破る。周倉は龐徳の乗った小船に自船をぶつけ水中に叩き落とすと、得意の水泳で龐徳を捕獲した。<br />のち呉の呂蒙の軍が荊州を落とした後、関羽は蜀に救援を求めに行き周倉と王甫は麦城で救援を待つ。しかし呂蒙に捕獲され処刑された関羽の首を見た周倉と王甫は城壁から飛び降りて(あるいは自刎して)関羽に殉じた。<br />

    平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

    中央に関羽、左に周倉、右に関平

     周倉は元は黄巾の乱に参加した賊徒で、裴元紹らと臥牛山で山賊をしていた。裴元紹が語るところによると周倉は関西(涼州方面)の出身で、両腕に一千斤(約600kg)の怪力があり、厚い鉄板のような胸と渦を巻くような縮れ髭の持ち主。
     黄巾の乱の時に見た関羽の勇姿に惚れ込み、その配下になることを夢見ていた。
    曹操のもとを辞去して劉備のもとに向かう途中、関羽と出会い裴元紹に子分を預けて単身仲間に加わる。あとで裴元紹を仲間に迎えようとしてその途中で趙雲に出くわし散々に打ち負かされる。
     関羽が呉の魯粛と「単刀会」で会見した時関羽の従者として同席。席上で「天下の土地は徳がある者が治めるので呉のものではない」と大声を張り上げ関羽に退出させられる。しかしこれは関羽とあらかじめ練った策で、退出した周倉は味方の水軍を呼び寄せ、関羽と共に荊州に無事帰還した。演義だけでなく京劇などでも知られる名場面である。
     魏の于禁と龐徳の軍が攻めてきた時、関羽は水攻めでこれを打ち破る。周倉は龐徳の乗った小船に自船をぶつけ水中に叩き落とすと、得意の水泳で龐徳を捕獲した。
    のち呉の呂蒙の軍が荊州を落とした後、関羽は蜀に救援を求めに行き周倉と王甫は麦城で救援を待つ。しかし呂蒙に捕獲され処刑された関羽の首を見た周倉と王甫は城壁から飛び降りて(あるいは自刎して)関羽に殉じた。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿<br /><br />  中央に関羽、左に周倉、右に関平<br /><br /> 「関平」(? 〜 219)は、三国時代の軍神「関羽」の子であり、関羽が呂蒙・陸遜らに敗れた際に共に捕らえられて処刑され、現在では周倉と共に関帝廟の随神として祭られている武将である。<br />正史では関羽の実子だが、三国志演義では養子になっている。<br /> 劉備から荊州を任された関羽が、魏の曹仁の立て篭もる樊城を包囲した際に、呉の呂蒙・陸遜に背後をつかれた関羽が呂蒙・陸遜の軍と戦う際に、趙累らと共に関羽に従ったものの、呉の馬忠に捕らえられて父・関羽と共に処刑された。<br />

    平成24年6月8日(金)関林廟 光昭日月殿

      中央に関羽、左に周倉、右に関平

     「関平」(? 〜 219)は、三国時代の軍神「関羽」の子であり、関羽が呂蒙・陸遜らに敗れた際に共に捕らえられて処刑され、現在では周倉と共に関帝廟の随神として祭られている武将である。
    正史では関羽の実子だが、三国志演義では養子になっている。
     劉備から荊州を任された関羽が、魏の曹仁の立て篭もる樊城を包囲した際に、呉の呂蒙・陸遜に背後をつかれた関羽が呂蒙・陸遜の軍と戦う際に、趙累らと共に関羽に従ったものの、呉の馬忠に捕らえられて父・関羽と共に処刑された。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 関羽塚の説明文<br /><br /> Guan Yuは関羽、Cao Caoは曹操

    平成24年6月8日(金)関林廟 関羽塚の説明文

     Guan Yuは関羽、Cao Caoは曹操

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 関帝塚<br /><br /> 関羽の首を曹操が埋葬したと伝わる首塚。<br /> 係員に「本当に関羽の首はここにあるのか?」と訊いたら「本当にある。」との答え、今の中国なら信じられないが、当時の中国の事なら信じられた。

    平成24年6月8日(金)関林廟 関帝塚

     関羽の首を曹操が埋葬したと伝わる首塚。
     係員に「本当に関羽の首はここにあるのか?」と訊いたら「本当にある。」との答え、今の中国なら信じられないが、当時の中国の事なら信じられた。

  • 平成24年6月8日(金)関羽廟 関帝塚<br /><br /> 関帝塚は八角形をしていて、高さは10メートル、敷地面積は250平方メートルとなっており、周りは壁に囲まれている。

    平成24年6月8日(金)関羽廟 関帝塚

     関帝塚は八角形をしていて、高さは10メートル、敷地面積は250平方メートルとなっており、周りは壁に囲まれている。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 石坊

    平成24年6月8日(金)関林廟 石坊

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 石坊 関羽像<br /><br /> 関羽(?―219)は、三国蜀の武将で河東解(山西省臨晋(りんしん)県)出身。字は雲長。諡(おくりな)は忠義侯。河東解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。<br /> 亡命して涿(たく)郡(河北省)にきて、劉備や張飛と知り合った。桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』にみえるが、それに近いことはあったろう。<br /> 劉備が起兵すると関羽も参加し、寝食をともにした。200年、曹操と劉備が戦い、劉備は敗れ、関羽は曹操に捕らえられた。曹操は関羽を礼遇して帰順を勧めたが、関羽は曹操と袁紹との戦いに、袁紹の将である顔良の首を斬って、これを置き土産に劉備の所に帰った。<br />やがて劉備とともに荊州に赴き、曹操が南下してくると、ここを逃れたが、ついで起こった赤壁の戦い(208年)では、水戦で敗れた曹操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。<br /> 劉備が諸葛亮や張飛らと蜀に入ったのちも、彼は荊州の留守(りゅうしゅ)を命ぜられ、江陵を基地とした。<br /> 219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(はんじょう)(河南省襄樊(じょうはん)市)を囲んだ。しかし、荊州領有をもくろむ孫権が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(りんしょ)(湖北省南?範(なんしょう)県)において、子の関平とともに戦死した。<br /> 関羽は美しい髯の持ち主で、諸葛亮も彼を髯の愛称でよんだ。また彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。しかし人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。死後、軍神、財神として祀られている。

    平成24年6月8日(金)関林廟 石坊 関羽像

     関羽(?―219)は、三国蜀の武将で河東解(山西省臨晋(りんしん)県)出身。字は雲長。諡(おくりな)は忠義侯。河東解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。
     亡命して涿(たく)郡(河北省)にきて、劉備や張飛と知り合った。桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』にみえるが、それに近いことはあったろう。
     劉備が起兵すると関羽も参加し、寝食をともにした。200年、曹操と劉備が戦い、劉備は敗れ、関羽は曹操に捕らえられた。曹操は関羽を礼遇して帰順を勧めたが、関羽は曹操と袁紹との戦いに、袁紹の将である顔良の首を斬って、これを置き土産に劉備の所に帰った。
    やがて劉備とともに荊州に赴き、曹操が南下してくると、ここを逃れたが、ついで起こった赤壁の戦い(208年)では、水戦で敗れた曹操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。
     劉備が諸葛亮や張飛らと蜀に入ったのちも、彼は荊州の留守(りゅうしゅ)を命ぜられ、江陵を基地とした。
     219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(はんじょう)(河南省襄樊(じょうはん)市)を囲んだ。しかし、荊州領有をもくろむ孫権が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(りんしょ)(湖北省南?範(なんしょう)県)において、子の関平とともに戦死した。
     関羽は美しい髯の持ち主で、諸葛亮も彼を髯の愛称でよんだ。また彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。しかし人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。死後、軍神、財神として祀られている。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 石坊<br /><br /> 首を切られる前の関羽の遺体が安置されていた。

    平成24年6月8日(金)関林廟 石坊

     首を切られる前の関羽の遺体が安置されていた。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 八角亭<br /><br /> 碑文には「忠義神武霊祐仁勇威顕関圣大帝林」、歴代帝王の最高の封号は主君に絶対の忠誠を誓った人物、関羽。<br />

    平成24年6月8日(金)関林廟 八角亭

     碑文には「忠義神武霊祐仁勇威顕関圣大帝林」、歴代帝王の最高の封号は主君に絶対の忠誠を誓った人物、関羽。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 春秋殿

    平成24年6月8日(金)関林廟 春秋殿

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 五虎殿

    平成24年6月8日(金)関林廟 五虎殿

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 五虎殿<br /><br /> 蜀の五虎将軍を祀ったところである。五虎大将軍は、趙雲、関羽、張飛、黄忠、馬超の五名であり、その筆頭には関羽が任命された。漢中を平定し、漢中王となった劉備が、諸葛亮の進言により、信頼と功績のある武将五名に五虎大将軍の称号を授け、重要な軍事の際にはそれぞれ軍を率いて活躍し、軍事における中心的な役割を果たした。趙雲は他の四名より位が低く、関羽・張飛の二名は劉備の義兄弟であり、黄忠は老将、馬超は新参の武将と、地位・老若・経歴等は選出に問われなかった。

    平成24年6月8日(金)関林廟 五虎殿

     蜀の五虎将軍を祀ったところである。五虎大将軍は、趙雲、関羽、張飛、黄忠、馬超の五名であり、その筆頭には関羽が任命された。漢中を平定し、漢中王となった劉備が、諸葛亮の進言により、信頼と功績のある武将五名に五虎大将軍の称号を授け、重要な軍事の際にはそれぞれ軍を率いて活躍し、軍事における中心的な役割を果たした。趙雲は他の四名より位が低く、関羽・張飛の二名は劉備の義兄弟であり、黄忠は老将、馬超は新参の武将と、地位・老若・経歴等は選出に問われなかった。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 五虎殿<br /><br /> 左から関羽、張飛、趙雲<br /><br /> 張飛(?―221)は三国蜀の武将で河北省県涿(たく)郡()の出身。字は益徳(えきとく)。諡号(しごう)は桓(かん)侯。劉備と同郷で、備が兵をおこすと関羽とともに参加し、以後行動をともにした。関羽より数年の年少であったので、羽に兄事した。<br /> 208年、魏の曹操が南下すると、荊州にいた劉備は南に逃れるが、このとき、当陽の長坂(ちょうはん)橋上(湖北省当陽県)で、矛を横たえ目をいからし「我は張益徳なるぞ、きたりてともに死を決すべし」と叫んだのは有名である。<br /> 劉備が入蜀すると、これに同行したが、益州牧の劉璋(りゅうしょう)の任じていた巴(は)郡太守厳顔(げんがん)と対戦し、顔の璋に対する忠節に感じて彼を賓客にした。劉備は張飛を巴西(はせい)太守に任命して、魏の将張(ちょうこう)の巴西侵入を防いで功があった。<br /> 彼は勇猛であり、平生部下をあわれまぬところがあり、つねに鞭(むち)打っていたので、備はいつもこのことを飛に注意していた。備の対呉戦争に同行する準備の最中に、部下の手にかかって殺された。備は飛からの使者と聞いて、ただちにその死を予感したという。<br /><br /> 趙雲(?―229)は 三国蜀の武将で字は子龍。常山郡真定県(河北省正定県)の人。はじめ後漢の公孫瓉(こうそんさん)に仕え、公孫の将として袁紹との戦いに派遣された劉備に、主騎として従った。そののち、改めて劉備に仕え、「劉備と同じ床で眠った」という。<br /> 関羽、張飛に匹敵する待遇を受けたのである。荊州で曹操に敗れた際には、単身で敵軍の真っただ中に駆けこみ、長坂坡(ちょうはんは)で逃げ遅れた阿斗(あと)(のちの劉禅(りゅうぜん))とその生母の甘夫人を救いだし、牙門将軍に昇進した。入蜀時には、諸葛亮孔明とともに劉備を助け、漢中争奪戦では曹操の大軍を門を開けて迎え撃ち、劉備から称賛された。軍中では、趙雲を「虎威(こい)将軍」とよんだという。また、劉備が関羽のために呉を討とうとするのをとどめた。<br /> 諸葛亮の第一次北伐に従って、おとりの軍として箕谷(きこく)に進出、主力軍と勘違いをして大軍を派遣した曹真に敗れた。しかし、自らが殿軍となったため、軍需物資をほとんど捨てず、将兵はまとまりをなくさず撤退できた。軍需物資の絹を将兵に分け与えようとした諸葛亮に、「敗戦の際に下賜をすべきではない」と述べ、敗戦の責任を明らかにした。至誠に貫かれた趙雲の生涯は、『三国志演義』ではさらに高く評価され、五虎(ごこ)将軍の一人とされている。

    平成24年6月8日(金)関林廟 五虎殿

     左から関羽、張飛、趙雲

     張飛(?―221)は三国蜀の武将で河北省県涿(たく)郡()の出身。字は益徳(えきとく)。諡号(しごう)は桓(かん)侯。劉備と同郷で、備が兵をおこすと関羽とともに参加し、以後行動をともにした。関羽より数年の年少であったので、羽に兄事した。
     208年、魏の曹操が南下すると、荊州にいた劉備は南に逃れるが、このとき、当陽の長坂(ちょうはん)橋上(湖北省当陽県)で、矛を横たえ目をいからし「我は張益徳なるぞ、きたりてともに死を決すべし」と叫んだのは有名である。
     劉備が入蜀すると、これに同行したが、益州牧の劉璋(りゅうしょう)の任じていた巴(は)郡太守厳顔(げんがん)と対戦し、顔の璋に対する忠節に感じて彼を賓客にした。劉備は張飛を巴西(はせい)太守に任命して、魏の将張(ちょうこう)の巴西侵入を防いで功があった。
     彼は勇猛であり、平生部下をあわれまぬところがあり、つねに鞭(むち)打っていたので、備はいつもこのことを飛に注意していた。備の対呉戦争に同行する準備の最中に、部下の手にかかって殺された。備は飛からの使者と聞いて、ただちにその死を予感したという。

     趙雲(?―229)は 三国蜀の武将で字は子龍。常山郡真定県(河北省正定県)の人。はじめ後漢の公孫瓉(こうそんさん)に仕え、公孫の将として袁紹との戦いに派遣された劉備に、主騎として従った。そののち、改めて劉備に仕え、「劉備と同じ床で眠った」という。
     関羽、張飛に匹敵する待遇を受けたのである。荊州で曹操に敗れた際には、単身で敵軍の真っただ中に駆けこみ、長坂坡(ちょうはんは)で逃げ遅れた阿斗(あと)(のちの劉禅(りゅうぜん))とその生母の甘夫人を救いだし、牙門将軍に昇進した。入蜀時には、諸葛亮孔明とともに劉備を助け、漢中争奪戦では曹操の大軍を門を開けて迎え撃ち、劉備から称賛された。軍中では、趙雲を「虎威(こい)将軍」とよんだという。また、劉備が関羽のために呉を討とうとするのをとどめた。
     諸葛亮の第一次北伐に従って、おとりの軍として箕谷(きこく)に進出、主力軍と勘違いをして大軍を派遣した曹真に敗れた。しかし、自らが殿軍となったため、軍需物資をほとんど捨てず、将兵はまとまりをなくさず撤退できた。軍需物資の絹を将兵に分け与えようとした諸葛亮に、「敗戦の際に下賜をすべきではない」と述べ、敗戦の責任を明らかにした。至誠に貫かれた趙雲の生涯は、『三国志演義』ではさらに高く評価され、五虎(ごこ)将軍の一人とされている。

  • 平成24年6月8日(金)関羽廟<br /><br /> 右から関羽、黄忠、馬超<br /><br /> 黄忠は生没年不詳で三国蜀の武将。字(あざな)は漢升(かんしょう)。河南省南陽市出身。初め荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表の中郎将として、劉表の甥である劉磐(りゅうはん)とともに長沙郡を守っていたが、荊州が曹操の支配下に入ると、裨将軍に任ぜられた。赤壁の戦いに曹操が敗れると、劉備に帰順、その入蜀に随行して大きな功績をあげた。<br /> すでに老将であったが、先頭に立って果敢に敵を攻めたてて陣地を奪うありさまは、三軍の筆頭であったという。219年、劉備が漢中を攻略した際には、定軍山で魏の夏侯淵を斬り、味方を勝利に導いた。<br /> 劉備が漢中王となると、後(こう)将軍に昇格するが、諸葛亮孔明は、「黄忠は、名声も人望も関羽や馬超と同格ではなく、実際に活躍を目にしている張飛はともかく、同等の位につかせることには、関羽が納得しないでしょう」と劉備をいさめた。劉備は、「自分が関羽を説得する」として、あえて諸葛亮の進言を退け、黄忠を抜擢した。今でも中国では、「老(ろう)黄忠」ということばで、「老いてますます盛んな人」という意味を表す。<br /><br /> 馬超(176―222)は、三国蜀の武将で字は孟起(もうき)。陝西省興平県出身。<br />涼州に独立勢力を築いていた馬騰の長子。後漢の曹操が漢中を攻めたことに身の危険を感じ、韓遂と連合して反乱を起こし、軍を潼関(どうかん)まで進めた。<br /> これにより、都で隠居生活をしていた父・馬騰は殺された。曹操との会談の際に、曹操をひそかに殺そうとしたが、許褚(きょちょ)が厳しく警護にあたっていたので失敗した。さらに、賈詡(かく)の計略によって、馬超と韓遂の仲は引き裂かれた。<br /> 渭水の戦いでは、馬超の軽騎兵は、曹操の親衛隊である「虎豹騎(こひょうき)」とよばれる重装騎兵に敗れた。道士・張魯(ちょうろ)を頼ったのち、漢中を支配下においた劉備に仕えて、左(さ)将軍となった。『三国志演義』では、曹操におびき出された父の馬騰と弟たちが殺されたので、劉備から曹操討伐の誘いを受けた馬超が、韓遂とともに曹操を攻めて、長安を取ったとしている。史実とは違い、父の死去の順序を入れ換え、劉備に仕えた馬超を善玉にしている。

    平成24年6月8日(金)関羽廟

     右から関羽、黄忠、馬超

     黄忠は生没年不詳で三国蜀の武将。字(あざな)は漢升(かんしょう)。河南省南陽市出身。初め荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表の中郎将として、劉表の甥である劉磐(りゅうはん)とともに長沙郡を守っていたが、荊州が曹操の支配下に入ると、裨将軍に任ぜられた。赤壁の戦いに曹操が敗れると、劉備に帰順、その入蜀に随行して大きな功績をあげた。
     すでに老将であったが、先頭に立って果敢に敵を攻めたてて陣地を奪うありさまは、三軍の筆頭であったという。219年、劉備が漢中を攻略した際には、定軍山で魏の夏侯淵を斬り、味方を勝利に導いた。
     劉備が漢中王となると、後(こう)将軍に昇格するが、諸葛亮孔明は、「黄忠は、名声も人望も関羽や馬超と同格ではなく、実際に活躍を目にしている張飛はともかく、同等の位につかせることには、関羽が納得しないでしょう」と劉備をいさめた。劉備は、「自分が関羽を説得する」として、あえて諸葛亮の進言を退け、黄忠を抜擢した。今でも中国では、「老(ろう)黄忠」ということばで、「老いてますます盛んな人」という意味を表す。

     馬超(176―222)は、三国蜀の武将で字は孟起(もうき)。陝西省興平県出身。
    涼州に独立勢力を築いていた馬騰の長子。後漢の曹操が漢中を攻めたことに身の危険を感じ、韓遂と連合して反乱を起こし、軍を潼関(どうかん)まで進めた。
     これにより、都で隠居生活をしていた父・馬騰は殺された。曹操との会談の際に、曹操をひそかに殺そうとしたが、許褚(きょちょ)が厳しく警護にあたっていたので失敗した。さらに、賈詡(かく)の計略によって、馬超と韓遂の仲は引き裂かれた。
     渭水の戦いでは、馬超の軽騎兵は、曹操の親衛隊である「虎豹騎(こひょうき)」とよばれる重装騎兵に敗れた。道士・張魯(ちょうろ)を頼ったのち、漢中を支配下においた劉備に仕えて、左(さ)将軍となった。『三国志演義』では、曹操におびき出された父の馬騰と弟たちが殺されたので、劉備から曹操討伐の誘いを受けた馬超が、韓遂とともに曹操を攻めて、長安を取ったとしている。史実とは違い、父の死去の順序を入れ換え、劉備に仕えた馬超を善玉にしている。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟 儀門から獅子御道を撮る

    平成24年6月8日(金)関林廟 儀門から獅子御道を撮る

  • 平成24年6月8日(金)関林廟広場<br /><br /> 1時間余りの見学と参拝を終えて時計を見ると13時だった。<br />次の目的地龍門石窟に向かう事にした。

    平成24年6月8日(金)関林廟広場

     1時間余りの見学と参拝を終えて時計を見ると13時だった。
    次の目的地龍門石窟に向かう事にした。

  • 平成24年6月8日(金)関林廟のランドマーク<br /><br /> 関林廟広場から龍門石窟への直行バスはなくてここまでバスに乗った。<br /> 

    平成24年6月8日(金)関林廟のランドマーク

     関林廟広場から龍門石窟への直行バスはなくてここまでバスに乗った。
     

  • 平成24年6月8日(金)龍門石窟に向かうバス車内<br /><br /> 交差点で乗り換えたバスはほとんど客が乗っていなかった。中国では珍しいことだった。今まで乗ったバスは全て前乗りだった。運転手はサンダル履きだった。

    平成24年6月8日(金)龍門石窟に向かうバス車内

     交差点で乗り換えたバスはほとんど客が乗っていなかった。中国では珍しいことだった。今まで乗ったバスは全て前乗りだった。運転手はサンダル履きだった。

  • 平成24年6月8日(金)龍門石窟に向かうバス車内<br /><br /> 客が乗っていないと車内も綺麗。

    平成24年6月8日(金)龍門石窟に向かうバス車内

     客が乗っていないと車内も綺麗。

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