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オバマ大統領が広島を訪問したその日、私はトルーマンによって原爆投下の命令が下されたトルーマンハウスを訪れました。<br />このハウスの前には小さな広場があり「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名前がつけられています。<br /><br />2,3日前近所の本屋で「The Japan Times」オバマ大統領の広島スピーチの特集号を見つけました。<br />そこにはトルーマン大統領の原爆投16時間後に発表された声明文もありました。<br />今回はオバマ大統領、トルーマン大統領の二つのスピーチを表紙の言葉にしたいと思います。少々長いです。<br /><br />◎史上最大の爆弾、広島に投下(抜粋)<br />ハリー・S・トルーマン(第33代アメリカ合衆国大統領)1945年8月6日<br />・・・<br />広島の原爆投下から16時間後に発表された声明。<br />新型爆弾の威力、ドイツとの開発競争、科学者や労働者に対する称賛、原子力がいずれ石炭や石油に代わるエネルギーになることに加え、日本が降伏を受け入れなければさらなる惨状が待ち受けているという警告的内容が示されている。<br />・・・<br /> 16時間前、一機のアメリカ軍機が日本の主要軍事基地・広島に一個の爆弾を投下しました。一個でTNT火薬2万トン以上のパワーを持つ爆弾です。<br />今までに戦場で使われた爆弾で最大なのはイギリスの「グランドスラム」ですが、その2000倍以上も強力です。<br /><br /> 日本は真珠湾空襲で戦争を始めました。日本はその何倍もの仕返しを受けたのですが、まだ戦争をやめません。<br />この爆弾で、わが国は新たに革命的な破壊力を手にし、わが軍はますます強大になります。このタイプの爆弾は続々と製造中であり、より強力なタイプの開発も進んでいます。<br /><br /> これは原子爆弾です。宇宙の根源的なパワーを手なづけたのです。太陽のパワーの源であるフォースが、極東に戦争をもたらした者に対して放たれたのです。<br /><br />(中略)<br /> 7月26日、ポツダムで(無条件降伏の)最後通牒が発されたのは、日本の人々を完璧な破壊から救うためです。しかし日本の指導者たちは即座に拒否しました。<br />この期に及んでも受け入れないのなら、この世界で誰も目にしたことがないような破壊の雨を覚悟すべきでしょう。この空襲の後には海軍と陸軍が続きます。その数と力は日本人がいまだかって見たことのないものであり、その戦闘能力の高さは彼らが十二分に思い知らされているところです。<br />(後略)<br /><br />ーーーーーーー<br />◎オバマ大統領広島演説 <br /> 今こそ道徳的な目覚めを<br /> バラク・オバマ(第44代アメリカ合衆国大統領)<br /><br />(オバマ大統領広島演説:抜粋)<br /> 71年前、明るく雲一つない朝、空から死が降ってきて世界は変わりました。閃光と炎の壁が町を破壊し、人類は自らを破壊する道具を手にしたのです。<br /><br /> ここ広島へ、私たちはなぜ来るのか。そう遠くない過去に解き放たれた恐怖のパワーに思いをはせるため。亡くなった方々を思うため。日本人の男女、子供だけで10万人以上、朝鮮の方々が数千人、捕虜となっていたアメリカ人十数人も犠牲となりました。<br />彼らの魂が語りかけます。反省してくれ、自分たちが何者で、これからどうするつもりなのかを考えろと。<br /><br /> 広島を特別な存在としているのは戦争の事実ではありません。<br />振り返れば、人類は最初のころから暴力的な争いをしていました。石から刃(やいば)を、木から槍を作る術を学んだ私たちの遠い祖先は、それを狩りに使うだけでなく、同じ人間にも向けました。<br />文明の歴史はどこでも戦争の歴史です。穀物が足りないから、黄金が欲しいから戦争をする。民主主義の情熱、あるいは宗教の激情に駆られて戦争をする。<br />多くの帝国が勃興し、滅びました。人々が虐げられ、解放されました。<br />戦争のたびに罪なき人々が苦しみ、数えきれない人が死に、犠牲者の名は時の流れで忘れられる。<br /><br /> 広島と長崎で残酷な終焉を迎えたあの大戦を戦ったのは、最も豊かで最も強力な国々でした。<br />その文明はこの世界に偉大な都市を、素晴らしい芸術をもたらしました。その思想家たちは正義と調和、そして真理についての進んだ観念を持ち合わせていました。<br />それでも、あの戦争は支配や制服の原初的な本能から生まれました。最も単純な部族間に抗争をもたらしたのと同じ本能です。<br />昔ながらのパターンが新たな能力で強められ、しかし新たな抑制が働くことはありませんでした。<br /> わずか数年の間に6000万もの人が死にました。私たちと同じ男や女、子供たちが銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、囚われ、飢え、ガス室に送られて死んでいきました。<br /><br /> あの戦争を記録する場所は世界中にあります。<br />勇気とヒロイズムの物語を伝える記念碑があり、言葉にできない蛮行のこだまする墓地や空っぽの収容所があります。<br />しかし広島と長崎の空に立ちのぼったキノコ雲のイメージほど、人類の根本的矛盾を鋭く想起させるものはありません。<br />私たちの種を際立たせる才能、つまり考え、想像し、言葉を操り、道具を作り、私たちを自然から解き放ち、自然を自分たちの意思に従わせる能力、そうしたものが私たちに、比類なき破壊力をも与えてくれたのです。<br />(後略)<br />「The Japan Times」オバマ大統領の広島スピーチの特集号より<br />

オバマ大統領が被爆地広島を訪問した日、私は原爆投下命令が下されたトルーマンハウスを訪れた

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2016/05/27 - 2016/05/27

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frau.himmel

frau.himmelさん

オバマ大統領が広島を訪問したその日、私はトルーマンによって原爆投下の命令が下されたトルーマンハウスを訪れました。
このハウスの前には小さな広場があり「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名前がつけられています。

2,3日前近所の本屋で「The Japan Times」オバマ大統領の広島スピーチの特集号を見つけました。
そこにはトルーマン大統領の原爆投16時間後に発表された声明文もありました。
今回はオバマ大統領、トルーマン大統領の二つのスピーチを表紙の言葉にしたいと思います。少々長いです。

◎史上最大の爆弾、広島に投下(抜粋)
ハリー・S・トルーマン(第33代アメリカ合衆国大統領)1945年8月6日
・・・
広島の原爆投下から16時間後に発表された声明。
新型爆弾の威力、ドイツとの開発競争、科学者や労働者に対する称賛、原子力がいずれ石炭や石油に代わるエネルギーになることに加え、日本が降伏を受け入れなければさらなる惨状が待ち受けているという警告的内容が示されている。
・・・
 16時間前、一機のアメリカ軍機が日本の主要軍事基地・広島に一個の爆弾を投下しました。一個でTNT火薬2万トン以上のパワーを持つ爆弾です。
今までに戦場で使われた爆弾で最大なのはイギリスの「グランドスラム」ですが、その2000倍以上も強力です。

 日本は真珠湾空襲で戦争を始めました。日本はその何倍もの仕返しを受けたのですが、まだ戦争をやめません。
この爆弾で、わが国は新たに革命的な破壊力を手にし、わが軍はますます強大になります。このタイプの爆弾は続々と製造中であり、より強力なタイプの開発も進んでいます。

 これは原子爆弾です。宇宙の根源的なパワーを手なづけたのです。太陽のパワーの源であるフォースが、極東に戦争をもたらした者に対して放たれたのです。

(中略)
 7月26日、ポツダムで(無条件降伏の)最後通牒が発されたのは、日本の人々を完璧な破壊から救うためです。しかし日本の指導者たちは即座に拒否しました。
この期に及んでも受け入れないのなら、この世界で誰も目にしたことがないような破壊の雨を覚悟すべきでしょう。この空襲の後には海軍と陸軍が続きます。その数と力は日本人がいまだかって見たことのないものであり、その戦闘能力の高さは彼らが十二分に思い知らされているところです。
(後略)

ーーーーーーー
◎オバマ大統領広島演説 
 今こそ道徳的な目覚めを
 バラク・オバマ(第44代アメリカ合衆国大統領)

(オバマ大統領広島演説:抜粋)
 71年前、明るく雲一つない朝、空から死が降ってきて世界は変わりました。閃光と炎の壁が町を破壊し、人類は自らを破壊する道具を手にしたのです。

 ここ広島へ、私たちはなぜ来るのか。そう遠くない過去に解き放たれた恐怖のパワーに思いをはせるため。亡くなった方々を思うため。日本人の男女、子供だけで10万人以上、朝鮮の方々が数千人、捕虜となっていたアメリカ人十数人も犠牲となりました。
彼らの魂が語りかけます。反省してくれ、自分たちが何者で、これからどうするつもりなのかを考えろと。

 広島を特別な存在としているのは戦争の事実ではありません。
振り返れば、人類は最初のころから暴力的な争いをしていました。石から刃(やいば)を、木から槍を作る術を学んだ私たちの遠い祖先は、それを狩りに使うだけでなく、同じ人間にも向けました。
文明の歴史はどこでも戦争の歴史です。穀物が足りないから、黄金が欲しいから戦争をする。民主主義の情熱、あるいは宗教の激情に駆られて戦争をする。
多くの帝国が勃興し、滅びました。人々が虐げられ、解放されました。
戦争のたびに罪なき人々が苦しみ、数えきれない人が死に、犠牲者の名は時の流れで忘れられる。

 広島と長崎で残酷な終焉を迎えたあの大戦を戦ったのは、最も豊かで最も強力な国々でした。
その文明はこの世界に偉大な都市を、素晴らしい芸術をもたらしました。その思想家たちは正義と調和、そして真理についての進んだ観念を持ち合わせていました。
それでも、あの戦争は支配や制服の原初的な本能から生まれました。最も単純な部族間に抗争をもたらしたのと同じ本能です。
昔ながらのパターンが新たな能力で強められ、しかし新たな抑制が働くことはありませんでした。
 わずか数年の間に6000万もの人が死にました。私たちと同じ男や女、子供たちが銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、囚われ、飢え、ガス室に送られて死んでいきました。

 あの戦争を記録する場所は世界中にあります。
勇気とヒロイズムの物語を伝える記念碑があり、言葉にできない蛮行のこだまする墓地や空っぽの収容所があります。
しかし広島と長崎の空に立ちのぼったキノコ雲のイメージほど、人類の根本的矛盾を鋭く想起させるものはありません。
私たちの種を際立たせる才能、つまり考え、想像し、言葉を操り、道具を作り、私たちを自然から解き放ち、自然を自分たちの意思に従わせる能力、そうしたものが私たちに、比類なき破壊力をも与えてくれたのです。
(後略)
「The Japan Times」オバマ大統領の広島スピーチの特集号より

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  • 冷戦時代スパイ交換がなされたグリーニッカー橋を離れ、市電93番に乗ってポツダム市内に向かいます。<br /><br />車窓から見えるポツダムの郊外は高級住宅地らしく瀟洒な邸宅が並んでいます。<br />

    冷戦時代スパイ交換がなされたグリーニッカー橋を離れ、市電93番に乗ってポツダム市内に向かいます。

    車窓から見えるポツダムの郊外は高級住宅地らしく瀟洒な邸宅が並んでいます。

  • 10分足らずで「Platz der Einheit:統一広場」に着きました。<br />

    10分足らずで「Platz der Einheit:統一広場」に着きました。

  • これが乗ってきた電車。<br /><br />「統一広場」という名前に興味を持ち、ちょっとその辺を散策することにします。<br />

    これが乗ってきた電車。

    「統一広場」という名前に興味を持ち、ちょっとその辺を散策することにします。

  • 街中のオアシスのような静かな公園です。<br />ポツダム市で有名なのは、なんと言ってもフリードリヒ2世が建てたサンスーシー宮殿に代表されるように、プロイセン王家の華やかな街だという印象がありますが、ここは新しくできた公園なのでしょう。<br />

    街中のオアシスのような静かな公園です。
    ポツダム市で有名なのは、なんと言ってもフリードリヒ2世が建てたサンスーシー宮殿に代表されるように、プロイセン王家の華やかな街だという印象がありますが、ここは新しくできた公園なのでしょう。

  • まず目についたのはこの白い碑。<br /><br />ふいに私の脳裏にウィーンのアルベルティナー広場の白い石像が蘇ります。<br />あれは残酷なものでした。ナチスや戦争によって恐怖のうちに亡くなった方の怨念がにじみ出ている像でした。

    まず目についたのはこの白い碑。

    ふいに私の脳裏にウィーンのアルベルティナー広場の白い石像が蘇ります。
    あれは残酷なものでした。ナチスや戦争によって恐怖のうちに亡くなった方の怨念がにじみ出ている像でした。

  • この石造の題名は「脱走兵のために」。<br />その横の説明文を読むと、私のあやふや訳では、やはりナチス政権によって死刑執行された人々への慰霊の碑と言う風に読めます。<br />

    この石造の題名は「脱走兵のために」。
    その横の説明文を読むと、私のあやふや訳では、やはりナチス政権によって死刑執行された人々への慰霊の碑と言う風に読めます。

  • ここにも金属の花が開いたようなモニュメント。<br />

    ここにも金属の花が開いたようなモニュメント。

  • これは明らかにファシズムと戦争への抵抗のモニュメントですね。<br /><br />ドイツやオーストリアでは「負の歴史」を再び繰り返してはならないというこういうモニュメントをよく見かけます。<br />

    これは明らかにファシズムと戦争への抵抗のモニュメントですね。

    ドイツやオーストリアでは「負の歴史」を再び繰り返してはならないというこういうモニュメントをよく見かけます。

  • 公園の周りは賑やかなショッピング街。<br />

    公園の周りは賑やかなショッピング街。

  • こちらはノイエン門。<br /><br />私は今日は市内観光をするつもりはありませんので、この辺で。

    こちらはノイエン門。

    私は今日は市内観光をするつもりはありませんので、この辺で。

  • 次の目的地に向けて電車に乗り込みます。<br />

    次の目的地に向けて電車に乗り込みます。

  • ポツダム駅。<br />ここで乗換えです。<br />

    ポツダム駅。
    ここで乗換えです。

  • 駅前のバス停留所で待っていると・・。<br />

    駅前のバス停留所で待っていると・・。

  • しばらくして私の乗る694番バスがやって来ました。<br /><br />私は「Hiroshima-Nagasaki Platz」まで行きます。<br />中央駅より21分の距離。<br />

    しばらくして私の乗る694番バスがやって来ました。

    私は「Hiroshima-Nagasaki Platz」まで行きます。
    中央駅より21分の距離。

  • バスの中は意外と少なかった。<br />オバマ大統領が広島を訪問した日だから、あの記念碑を訪れる人はいるんじゃないかと思っていました。<br />

    バスの中は意外と少なかった。
    オバマ大統領が広島を訪問した日だから、あの記念碑を訪れる人はいるんじゃないかと思っていました。

  • まあ確かにバスで行かなくてもSバーンも通っているし、そちらから訪れる人もいるでしょう。<br /><br />ポツダムの観光名所を周るシティーバスがカラフルです。<br />

    まあ確かにバスで行かなくてもSバーンも通っているし、そちらから訪れる人もいるでしょう。

    ポツダムの観光名所を周るシティーバスがカラフルです。

  • 新しい建物が建つのでしょうか、目隠しにベルリンの壁を模した塀。<br />ベルリン近郊の土地ならではですね。<br />

    新しい建物が建つのでしょうか、目隠しにベルリンの壁を模した塀。
    ベルリン近郊の土地ならではですね。

  • だんだん静かな地域に入ります。<br />2両編成のバスの中はほとんど3,4名しか乗っていません。<br />

    だんだん静かな地域に入ります。
    2両編成のバスの中はほとんど3,4名しか乗っていません。

  • また歴史的装飾の建物が見え始めました。<br />ここはAlte Nowawesと言うところ。<br />

    また歴史的装飾の建物が見え始めました。
    ここはAlte Nowawesと言うところ。

  • 大きなレンガ色の建物も。<br />バーベルスベルクに入ってきたようです。<br /><br />バーベルスベルクは1912年に映画撮影所が出来て、往年の俳優・女優も訪れていた華やかな街でした。<br />

    大きなレンガ色の建物も。
    バーベルスベルクに入ってきたようです。

    バーベルスベルクは1912年に映画撮影所が出来て、往年の俳優・女優も訪れていた華やかな街でした。

  • バスの窓から見えてきたひときわ大きな建物は何処?<br />旧市庁舎のレンガ色の建物も見えてきました。<br />

    バスの窓から見えてきたひときわ大きな建物は何処?
    旧市庁舎のレンガ色の建物も見えてきました。

  • バスの表示ではラートハウス・バーベルスベルク。<br />

    バスの表示ではラートハウス・バーベルスベルク。

  • 今はラートハウスとしては機能していなくて、文化施設として活躍しているそうです。<br />

    今はラートハウスとしては機能していなくて、文化施設として活躍しているそうです。

  • 戦前は「嘆きの天使」や「メトロポリス」など数々の名作を生み出したバーベルスベルクススタジオがあり、ナチスの時代はプロパガンダ映画を造らされました。<br /><br />映画博物館がポツダム市内にあります。<br />

    戦前は「嘆きの天使」や「メトロポリス」など数々の名作を生み出したバーベルスベルクススタジオがあり、ナチスの時代はプロパガンダ映画を造らされました。

    映画博物館がポツダム市内にあります。

  • バーベルスベルクの街を抜け出るとまもなく目的地です。<br />

    バーベルスベルクの街を抜け出るとまもなく目的地です。

  • 「ヒロシマ・ナガサキ広場」はこちら・・。<br />

    「ヒロシマ・ナガサキ広場」はこちら・・。

  • 車も何台も停車しているし、きっとオバマ大統領の広島訪問に合わせて訪れている人も多いのだろう。<br />もしかしてマスコミ関係者も取材に来ているかも。<br />

    車も何台も停車しているし、きっとオバマ大統領の広島訪問に合わせて訪れている人も多いのだろう。
    もしかしてマスコミ関係者も取材に来ているかも。

  • 映画の街らしく「フィルムパーク」はこちらとの案内板。<br /><br />

    映画の街らしく「フィルムパーク」はこちらとの案内板。

  • 探している場所はここのようですが、人の姿は見えませんね。<br /><br />関係者らしき人が一人居るだけです。<br />

    探している場所はここのようですが、人の姿は見えませんね。

    関係者らしき人が一人居るだけです。

  • でも、ここが間違いなく「トルーマンハウス」なのです。<br />

    でも、ここが間違いなく「トルーマンハウス」なのです。

  • トルーマンハウスの前の小さな広場、女性が一人ベンチに座っていました。<br /><br />あの女性はもしか・・・と。<br />ところが私の姿を見ると立ち去りました。<br /><br />この場所がどんな場所か知ってきた人なのか、単にベンチで休憩したいからあそこにいたのか?。<br />

    トルーマンハウスの前の小さな広場、女性が一人ベンチに座っていました。

    あの女性はもしか・・・と。
    ところが私の姿を見ると立ち去りました。

    この場所がどんな場所か知ってきた人なのか、単にベンチで休憩したいからあそこにいたのか?。

  • このトルーマンハウスの前の広場は、ヒロシマ・ナガサキ広場と名づけらています。<br /><br />そこには、原爆の被災地広島と長崎から運ばれた二つの石が置かれています。<br />右は広島から、左は長崎から運ばれました。<br /><br />そしてこのように記載されていました。<br />『石はあの日、原爆によって被爆しました。<br />現在もう石に危険はありません。』<br />

    このトルーマンハウスの前の広場は、ヒロシマ・ナガサキ広場と名づけらています。

    そこには、原爆の被災地広島と長崎から運ばれた二つの石が置かれています。
    右は広島から、左は長崎から運ばれました。

    そしてこのように記載されていました。
    『石はあの日、原爆によって被爆しました。
    現在もう石に危険はありません。』

  • またここには英語とドイツ語、日本語でこのように刻まれています。<br /><br />『1945年8月6日と8月9日に広島と長崎に投下された原爆によって犠牲となった人々を追悼して<br /><br /> 連合軍によるポツダム会談が1945年7月17日から8月2日まで行われ、その間、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が正面にある邸宅に滞在していた。<br /> 1945年7月25日、アメリカ大統領の同意の下、ワシントンから軍の原爆投下命令が下された。<br /> 原爆の破壊力は数十万人の人々を死に追いやり、人々に計り知れない苦しみをもたらした。<br /><br />   核兵器のない世界を願って。』<br />

    またここには英語とドイツ語、日本語でこのように刻まれています。

    『1945年8月6日と8月9日に広島と長崎に投下された原爆によって犠牲となった人々を追悼して

     連合軍によるポツダム会談が1945年7月17日から8月2日まで行われ、その間、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が正面にある邸宅に滞在していた。
     1945年7月25日、アメリカ大統領の同意の下、ワシントンから軍の原爆投下命令が下された。
     原爆の破壊力は数十万人の人々を死に追いやり、人々に計り知れない苦しみをもたらした。

       核兵器のない世界を願って。』

  • ところでポツダム宣言とはどういうものであったのか?<br />どうして日本が原子爆弾の餌食にならなければならなかったのか?<br /><br />私なりに調べてみました。間違い勘違いがありましたらご指摘くださるとうれしいです。<br />写真は2014年ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿を訪れたときの写真を使っています。<br /><br />◇◆<br />アメリカの大統領ルーズベルトの急死に伴い急遽第33代アメリカ大統領になったハリー・S・トルーマンは、1945年7月15日、ポツダム会議に出席するためにポツダムに到着する。<br />アメリカの宿舎となるこの瀟洒な邸宅は「リトルホワイトハウス」と呼ばれる。<br /><br />7月16日、トルーマンの下に原爆の実験が成功したとの電報が届いた。<br />その頃、日本帝国の敗戦は時間の問題で、米国の陸軍長官スチムソンは『立憲天皇君主制」を盛り込んだ勧告案を作成していた。<br /><br />

    ところでポツダム宣言とはどういうものであったのか?
    どうして日本が原子爆弾の餌食にならなければならなかったのか?

    私なりに調べてみました。間違い勘違いがありましたらご指摘くださるとうれしいです。
    写真は2014年ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿を訪れたときの写真を使っています。

    ◇◆
    アメリカの大統領ルーズベルトの急死に伴い急遽第33代アメリカ大統領になったハリー・S・トルーマンは、1945年7月15日、ポツダム会議に出席するためにポツダムに到着する。
    アメリカの宿舎となるこの瀟洒な邸宅は「リトルホワイトハウス」と呼ばれる。

    7月16日、トルーマンの下に原爆の実験が成功したとの電報が届いた。
    その頃、日本帝国の敗戦は時間の問題で、米国の陸軍長官スチムソンは『立憲天皇君主制」を盛り込んだ勧告案を作成していた。

  • 7月17日、正午、ソ連のスターリンがリトルホワイトハウスにトルーマンを訪ね、ヤルタ密約どおり、ソ連は日本に向けて参戦すると告げた。<br /><br />17:00 アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの三巨頭が顔を揃え第1回目の首脳会談がはじまる。<br /><br />ところが会議ではソ連と米英との主張がことごとく対立する。<br />ソ連は自国の権利を強く主張し、トルーマンは失望します。<br /><br />(写真はポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿、2013年写) <br />

    7月17日、正午、ソ連のスターリンがリトルホワイトハウスにトルーマンを訪ね、ヤルタ密約どおり、ソ連は日本に向けて参戦すると告げた。

    17:00 アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの三巨頭が顔を揃え第1回目の首脳会談がはじまる。

    ところが会議ではソ連と米英との主張がことごとく対立する。
    ソ連は自国の権利を強く主張し、トルーマンは失望します。

    (写真はポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿、2013年写) 

  • 7月19日、表面上は穏やかに、トルーマンはチャーチルとスターリンをリトルホワイトハウスに招いて晩餐会を開催しますが、トルーマンとスターリンの亀裂は深くなる一方だった。<br /><br />7月21日、そんな折、トルーマンの下に原爆の決定的な成功の報がもたらせる。<br /><br />ソ連は8月中旬の日本への参戦に向けて着々と準備を進めていた。<br />しかし、トルーマンは原爆を使うとソ連の参戦前に日本を降伏させることが出来るのではないか、ソ連の参戦前に原爆投下を実施しなければならないと考えます。<br />

    7月19日、表面上は穏やかに、トルーマンはチャーチルとスターリンをリトルホワイトハウスに招いて晩餐会を開催しますが、トルーマンとスターリンの亀裂は深くなる一方だった。

    7月21日、そんな折、トルーマンの下に原爆の決定的な成功の報がもたらせる。

    ソ連は8月中旬の日本への参戦に向けて着々と準備を進めていた。
    しかし、トルーマンは原爆を使うとソ連の参戦前に日本を降伏させることが出来るのではないか、ソ連の参戦前に原爆投下を実施しなければならないと考えます。

  • 7月24日、トルーマンの下に決定的な知らせが。<br />8月10日までには原爆投下の準備が完了して投下できると。<br /><br />嬉しさを隠せないトルーマンは、スターリンに、自国でとてつもない新兵器が完成したと告げる。<br />それに対してスターリンは何の反応も示さなかったが、新兵器が使われる前に早く日本に参戦しようと決意する。<br /><br />24日夜、リトルホワイトハウスでは、原爆投下を目前に控えて、ポツダム宣言に向けて慌しい動きがあった。<br />草案にはスチムソンの提案した「立憲君主制」の項目は削除されていた。<br /><br />それと当初、米・英・ソ連・中国の4カ国の連名で出されるはずだったが、ソ連を外した3カ国の連名で日本に向けて出されることになり、急遽、中国の蒋介石にポツダム宣言の同意を求める電報が打たれた。<br />

    7月24日、トルーマンの下に決定的な知らせが。
    8月10日までには原爆投下の準備が完了して投下できると。

    嬉しさを隠せないトルーマンは、スターリンに、自国でとてつもない新兵器が完成したと告げる。
    それに対してスターリンは何の反応も示さなかったが、新兵器が使われる前に早く日本に参戦しようと決意する。

    24日夜、リトルホワイトハウスでは、原爆投下を目前に控えて、ポツダム宣言に向けて慌しい動きがあった。
    草案にはスチムソンの提案した「立憲君主制」の項目は削除されていた。

    それと当初、米・英・ソ連・中国の4カ国の連名で出されるはずだったが、ソ連を外した3カ国の連名で日本に向けて出されることになり、急遽、中国の蒋介石にポツダム宣言の同意を求める電報が打たれた。

  • 7月25日、トルーマン大統領の同意の下、米陸軍より原爆投下の命令書が下される。<br />それには、広島・小倉・新潟・長崎など投下される地名も盛り込まれていた。<br /><br />7月26日、蒋介石よりポツダム宣言同意の電報がトルーマンのもとに届いた。<br />トルーマンは、自ら米・英・中国の3カ国の代表の署名をし、日本に向けて降伏勧告書(ポツダム宣言)が発表された。<br /><br />(ポツダム会談の様子。2013年写)<br />

    7月25日、トルーマン大統領の同意の下、米陸軍より原爆投下の命令書が下される。
    それには、広島・小倉・新潟・長崎など投下される地名も盛り込まれていた。

    7月26日、蒋介石よりポツダム宣言同意の電報がトルーマンのもとに届いた。
    トルーマンは、自ら米・英・中国の3カ国の代表の署名をし、日本に向けて降伏勧告書(ポツダム宣言)が発表された。

    (ポツダム会談の様子。2013年写)

  • 7月27日、それを受けた日本政府の対策が話し合われたが、「立憲君主制」の1文がないことで陸軍が反対し、意思決定をせずに事態を見極めようとの決議がなされた。<br />そのことを新聞は「政府が黙殺した」と書いた。<br /><br />8月2日、17日間に及んだポツダム会談は幕を閉じ、トルーマンは急ぎ帰国した。<br />そして日本政府よりポツダム宣言が受諾されなかった今、残された最後の切り札を切るときが来たと考える。<br /><br />(写真上・広島に落とされた原子爆弾「リトルボーイ」<br />下・長崎に落とされたファット・マン」)<br />

    7月27日、それを受けた日本政府の対策が話し合われたが、「立憲君主制」の1文がないことで陸軍が反対し、意思決定をせずに事態を見極めようとの決議がなされた。
    そのことを新聞は「政府が黙殺した」と書いた。

    8月2日、17日間に及んだポツダム会談は幕を閉じ、トルーマンは急ぎ帰国した。
    そして日本政府よりポツダム宣言が受諾されなかった今、残された最後の切り札を切るときが来たと考える。

    (写真上・広島に落とされた原子爆弾「リトルボーイ」
    下・長崎に落とされたファット・マン」)

  • 8月6日に広島へ、8月9日には長崎へ、原子爆弾が投下され、その年の12月までに20万人以上が亡くなった。<br /><br />8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を認め、8月15日ようやく戦争は終結するのです。<br /><br />(写真は、ポツダム宣言降伏文書に署名する重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長。2013年写)<br />

    8月6日に広島へ、8月9日には長崎へ、原子爆弾が投下され、その年の12月までに20万人以上が亡くなった。

    8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を認め、8月15日ようやく戦争は終結するのです。

    (写真は、ポツダム宣言降伏文書に署名する重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長。2013年写)

  • 結局、私がいる間「ヒロシマ・ナガサキ広場」を誰一人として訪れる人はありませんでした。<br /><br />広場の前は花屋さん。<br />花1輪でも買って供えようかと思いましたが、勝手なことをして迷惑をかけてもいけません。

    結局、私がいる間「ヒロシマ・ナガサキ広場」を誰一人として訪れる人はありませんでした。

    広場の前は花屋さん。
    花1輪でも買って供えようかと思いましたが、勝手なことをして迷惑をかけてもいけません。

  • こんな日に誰もここを訪れないなんて、なんか日本人としてとても寂しい。<br />もしかして、報道陣でも訪れているかしらなんて・・・(笑)。<br /><br />結局あそこに見える何台もの車はフィルムパークに行く人が駐車しているのでしょうね。<br />

    こんな日に誰もここを訪れないなんて、なんか日本人としてとても寂しい。
    もしかして、報道陣でも訪れているかしらなんて・・・(笑)。

    結局あそこに見える何台もの車はフィルムパークに行く人が駐車しているのでしょうね。

  • 何だか立ち去りがたい。<br /><br />お花屋さんの隣にあったアイスクリームやさんでアイスをいただきながら、少しゆっくりいたします。<br />

    何だか立ち去りがたい。

    お花屋さんの隣にあったアイスクリームやさんでアイスをいただきながら、少しゆっくりいたします。

  • ここから、Sバーンのグリーブニッツゼー駅はそんなに遠くありません。<br /><br />それにここも面白い地区なのです。<br />

    ここから、Sバーンのグリーブニッツゼー駅はそんなに遠くありません。

    それにここも面白い地区なのです。

  • もう一度、ベルリンの壁記録センターで求めた地図を登場させます。<br /><br />下の手書きの赤丸のところ。<br />線路があって、赤丸のGriebnitz-SeeとあるところがSバーンの駅、駅前にSteinstueckenという周りを壁で囲まれた地域が見えます。<br />こここそが東ベルリンの中の西ベルリンの飛び地なのです。<br /><br />この地図では他に2か所同じような飛び地が見えます。<br />

    もう一度、ベルリンの壁記録センターで求めた地図を登場させます。

    下の手書きの赤丸のところ。
    線路があって、赤丸のGriebnitz-SeeとあるところがSバーンの駅、駅前にSteinstueckenという周りを壁で囲まれた地域が見えます。
    こここそが東ベルリンの中の西ベルリンの飛び地なのです。

    この地図では他に2か所同じような飛び地が見えます。

  • 駅はこちらという道案内。<br />道路の向こうは西ベルリンの飛び地だったのかしら。<br />

    駅はこちらという道案内。
    道路の向こうは西ベルリンの飛び地だったのかしら。

  • このノバラはどちら側に属していた?<br />

    このノバラはどちら側に属していた?

  • 駅前にはポツダム大学のキャンパスがあります。<br /><br />後から詳しい地図で調べると、このキャンパスの向こう側から西ベルリンの飛び地(シュタインシュトゥッケン)だったらしいです。<br />

    駅前にはポツダム大学のキャンパスがあります。

    後から詳しい地図で調べると、このキャンパスの向こう側から西ベルリンの飛び地(シュタインシュトゥッケン)だったらしいです。

  • ここも大学のキャンパス。<br /><br />あら、残念。<br />ここでカメラのバッテリーがなくなってしまいました。<br /><br />本当はグリープニッツゼー駅も撮りたかった。<br />ここは第二次大戦前は「Neubabelsberg (ノイバーベルスベルク)駅」という名前のとても歴史のある駅でした。<br />バーベルスベルクの映画スタジオから近いこともあり、銀幕のスターが乗り降りした駅だったそうです。<br />

    ここも大学のキャンパス。

    あら、残念。
    ここでカメラのバッテリーがなくなってしまいました。

    本当はグリープニッツゼー駅も撮りたかった。
    ここは第二次大戦前は「Neubabelsberg (ノイバーベルスベルク)駅」という名前のとても歴史のある駅でした。
    バーベルスベルクの映画スタジオから近いこともあり、銀幕のスターが乗り降りした駅だったそうです。

  • 夜、ホテルのテレビをつけると、オバマ大統領の広島訪問の様子を映し出していました。<br />

    夜、ホテルのテレビをつけると、オバマ大統領の広島訪問の様子を映し出していました。

  • オバマ大統領の演説を日本のテレビで見ていた夫からメールが届きました。<br />「素晴らしい演説だったよ」と。<br />

    オバマ大統領の演説を日本のテレビで見ていた夫からメールが届きました。
    「素晴らしい演説だったよ」と。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • norisaさん 2016/06/30 05:44:39
    おもーい広場
    frau.himmelさん

    おはようございます。

    トルーマンハウスに広島長崎広場などがあるのですね。

    原爆という究極殺りく兵器。
    その惨状にばかり目を奪われてこんな場所があるのは全く知りませんでした。

    トルーマンの判断の是非はともかくとしてこうした施設や広場が残されているのはありがたいといえばありがたいですね。
    そのご婦人が立ち去ったのはfrau.himmelさんが日本人だとわかったからなのでしょうかーーー。

    およそ民間人に焦点を絞って攻撃することはありえなかったのですが、第二次大戦はなんでもあり。
    恐らく100年後も核兵器はなくなっていないようですが、二度と使用しない晴天の傘となってほしいものですーー。

    norisa

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2016/06/30 20:46:18
    RE: おもーい広場
    norisaさん、こんばんは。

    いつもありがとうございます。

    本当に重〜い広場ですね。
    このトルーマンハウスの前にヒロシマ・ナガサキ広場を作るのにもいろいろ賛否両論があったようです。

    でも、私はいろいろ調べるうちに、本当に日本に原爆を落とす必要があったのかと考えます。
    そんなことをしなくても、早晩日本の敗戦は陽の目を見るより明らかでしたから。
    悪く言えば、そのころから明白になってきた米ソ対立の餌食になったのではないかと考えました。
    トルーマンはソ連が参戦する前に、早く原爆を落として自国を有利に導かなければ、スターリンはアメリカの原爆より早く日本に参戦して敗戦に持ち込み手柄を自分のものにしなければと。

    結局、原爆は落とされて、ソ連にも攻め込まれるわけですから、日本にとってはこれ以上の悲劇はなかったわけですね。
    まあ、戦争で幸せになる人なんていないのですから、絶対やってはいけませんね。ましてや核戦争なんてもってのほか。

    2回にわたり、冷戦とポツダム宣言のことを書いてきましたが、戦争でこれ以上悲劇を増やしてはいけないと強〜〜く思います。

    himmel

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