2016/05/28 - 2016/05/29
565位(同エリア1902件中)
クッキーさん
青空に映える黒と白のコントラストをもつ松本城天守閣。はるか後方に見える北アルプスの山々。
その姿だけに目を奪われ、内部までじっくり鑑賞できなかったのが残念でした。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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松本城は戦国時代に造られた深志城が始まりで、現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城です。
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ずいぶん早くに来たつもりだけど、既にかなりの数の人々が並んでいます。
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入場する前に、天守閣の姿を見ておかねば・・
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さらに南東から。この角度は気象条件がよければ北アルプスの山嶺と天守を一枚の写真に収められると聞いていましたが、この日、快晴に恵まれたおかげで、青空の中に黒と白のコントラストの天守閣が映え、はるか後方には北アルプスの山々も見え、素晴らしい景観を見ることができました。
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白漆喰の壁と黒漆塗りの板張りが青空に映えています。
建物の側面のうち、幅が広い方を平、狭い方を妻といいます。また、妻面に出来る三角形の部分のことを、破風(はふ)といいます。 -
千鳥破風(ちどりはふ)天守の飾り。三角形の破風を千鳥破風といいます。
千鳥破風は、切妻破風を屋根の上に直接置いた形。つまり屋根本体から独立した形です。古くは破風部屋などを置くこともありましたが、時代が下るにつれて、単純に格好良いからという理由で、千鳥破風を配置するようになりました。
唐破風(からはふ)は城郭建築や、近世の寺院などで多く見られて装飾性があります。
唐破風は曲線を連ねた形状の破風板を、屋根に付けたもの。
これは、出窓のように独立して葺き下ろしの屋根の上に置いた向唐破風(むこうからはふ)でしょうか。 -
もう少し南側から。
奥に赤い橋が見えます。 -
そろそろ入場時間です。
うーん、まさに江戸時代。 -
振り返ると、北アルプスの山々の姿がくっきり。
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本丸黒門桝形一の門は昭和35年に復元されたもの。
当時は資金不足のために、合板で造られています。
その為の接合部補強か黒と金の飾り具は史実に基づいたものではないそうです。 -
松本城天守(本丸庭園内)観覧料は大人610円。松本市立博物館との共通券になっていますが、時間がないので博物館への入場はあきらめます。
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たぶん内側から。
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こちらのスタッフでしょうか、戦国武士のコスチュームをまとった方が、観光客との撮影に応じてくれています。「おもてなし隊」の方たちだそうです。
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本丸広場から見る天守群。
向かって右から乾小天守、渡り櫓、大天守、奥が辰巳付櫓、手前の赤い欄干が月見櫓。
城マニアの中でも人気が高い城だと言われるのも納得です。 -
松本城を築城した石川氏は、豊臣秀吉の信頼の厚い武将でした。
松本城の天守が豊臣のシンボルカラーとも言える「黒」が全面に出ていることから「烏城」などと呼ばれることもあり、石川氏の秀吉への忠誠のしるしとも思われています。
城を包み込む黒い塗料は墨であると考えられていましたが、1950年に解体修理をおこなったところ黒漆塗りをした形跡が見つかったそうです。 -
全体的にシンプルな作りとなっており、関ヶ原の戦い以降の築城ラッシュ時に築かれた城とは異なり、万一城が攻められることになってもしっかりと応戦することができるような戦闘仕様の作りとなっているのが特徴だそうです。
一方、天守内部は無骨な作り。戦国時代の城らしく、美しく豪華に見せることよりも戦いに勝つことを最優先に考えられた城なのだとか。 -
戦国時代末期の戦場の武器の主役は火縄銃でした。石川数正は長篠合戦のときは徳川方として参加しています。火縄銃戦を知り尽くした石川氏は松本城を鉄砲戦に備えた砦としてつくりあげました。
矢狭間が60、鉄砲狭間は全部で55、狭い間隔で設置された石落としが11と、攻撃力はもちろん防御力にも優れた城となっています。特に矢狭間と鉄砲狭間は並べて配置するなど細部にまで徹底したこだわりがあるそうです。
唯一の欠点である地盤の緩さをカバーするために石垣を水はけのよい野面積にして、石垣の低さは石落としでカバーするなど攻守ともに完璧なものとしました。 -
天守へは、大天守と小天守の間の渡櫓一階から入ります。
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大天守。
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入口にビニール袋があって、その中に靴を入れて、出口まで持ち歩きます。
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天守台(てんしゅだい)は1000トンの天守を支える天守の基礎。石垣は野面積(のずらづみ)です。
だんだん石垣に詳しくなってきています。 -
戦闘仕様で作られた天守の内部とは・・・
「1階は食料や弾薬などが保管される倉庫のような役割を果たしており、周囲には50センチほど低めに作られた武者走りが外壁に沿って巡らされている。
3階には一切窓がないのが特徴で、作戦部屋として使われたそうだ。外からは存在がわからないため「秘密の部屋」と呼ばれることも多い。
4階は城主が過ごすために設けられた書院造りの部屋となっており、5階は重臣たちが集まり重要な話し合いをしたことが見て取れる。
最上階は展望台の役割も持っており、今は入側となっている部分が廻縁となっていた形跡も残っている・・・」 -
天守閣内は全体的に薄暗く、照明も必要最小限といった感じです。
階段というよりハシゴに近い角度の階段。
天守閣内全ての階段がここまでの傾斜ではありませんが、ほとんどこれに近いハシゴ状態なので、手すりを持って上り下りしなければいけません。
7つある階段のうち4階に設けられた階段は、日本で一番急な階段としても知られており、その勾配は61度だそうです。
この急階段からも、この城が戦闘向きであることがよく分かります。 -
北アルプスを背景に見える
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懸魚(けぎょ)芯材だそうです。
千鳥破風と入母屋破風に取り付けられているもの。材はヒノキで創建当時のものと推定されています。
外側からは見えないところの芯材なのに美しい形。 -
懸魚(けぎょ)芯材。
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この緑地の部分は本丸御殿跡。
御殿は城主の居所と政庁を兼ねていた、政治の中枢部。
1727年に焼失、以後再建されませんでした。藩の政庁は二の丸御殿に移され、幕末まで中枢機関でした。 -
大天守二階には当時の火縄銃などがズラリと展示されています。
松本市には古式火縄銃の保存会があり、毎年秋のお祭りの時に火縄銃演武が行われているそうです。 -
乾小天守?
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天守の上の鯱(しゃち)。
想像上の動物で、火事の時には水を吐いて守ってくれるという棟飾りです。 -
松本城の築城は関ケ原の戦いの前ですから、実際にこのようにして作られた弾や火縄が戦場で使われたのでしょうね。
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長篠合戦の絵図でしょうか。
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火縄銃。
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これも火縄銃?
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木造天守の階段はとても狭くて急なので、特に下りる時には怖いくらいでした。
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大天守から乾小天守の屋根を。
朱橋方面ですね。
おそらくここが天守最上階だったと思うのですが、最上階の天井中央に祭られているという二十六夜神は見逃したようです。
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最上階から東側、本丸御殿跡が眼下に。
本丸庭園の中に、瓦を使って仕切りをしてある部分が本丸御殿です。
主要建物は五棟、部屋数は60余り、建坪は830坪(約2,730平方メートル)。御殿の周囲をめぐる塀は長く続いて、西では天守側と北では内馬場側を区切っています。天守築造と同時に建設されたと推定されています。
さらにその向こう側に見える緑地部分が二の丸御殿跡。 -
木々に覆われている辺りが黒門。
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月見櫓から内堀を。
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市街地方面。
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薄暗い部屋です。解説書からすると、ここが天守3階だったのかもしれません。
「松本城の特徴として挙げられるものに、各階の役割がとてもわかりやすいということがあります。
特に3階と4階は大きく異なり、3階が真っ暗なのに対して4階は異常に明るく感じられる。これは3階が外側からは見えない「隠し階」となっている武士の集合場所、4階は城主の座る場所であったことから、明るく格式の高い作りになっていることがわかる。」
時間が限られている中、ただ見て回るだけで精一杯。 -
大天守四階の「御座所」。
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書院造り風のこの部屋は、いざというときには、城主がいるところ(御座所)になりました。
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明るくて天井も高く、この部屋なら居心地よく居られそうです。
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下りてくる途中の展示品。
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やはり火縄銃関連が多いかも。
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松本城の天守は現存天守で最も石落しの数が多いんだとか。多分実戦で使った事は一度も無いとは思いますが・・・。
石落としの壁面に矢狭間と鉄砲狭間が見て取れます。
その上が、竪格子窓(たてごうしまど)。 厚い部材が竪に並ぶ格子窓です。雨よけの「突上げ戸」が付いています。 -
辰巳附櫓には入ったのでしょうか?
通過しただけ? -
最後に松平直政が造営した月見櫓。開放的な空間です。
まるで能舞台のような造りです。
風が吹き渡って爽やかです。 -
月見櫓の窓から。
石落(いしおとし)とは、天守や櫓、門や塀などに設けられ、下に迫り来る敵兵を監視し、攻撃・撃退する施設を言います。天守や櫓の床や塀の一部を土台から張り出し、その床面に開部を設けています。柱間に石落しを設置する場合が多いため、横幅は一間が一般的です。内部の床面に設けられて開口部は、木製の蓋によって普段は閉じられています。瞬時に開くようにしてあります。 -
本来石落しは、狭間(さま・・銃眼)の一種で、ここから下方に向けて鉄砲を撃つ施設でした。しかし江戸軍学によって、石落しは石垣を上って来る敵兵に対して、ここから石を落とすとか、糞尿や汚水、熱湯を浴びせかけるためのものとされ、それが巷(ちまた)に広がってしまったのだそうです。
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月見櫓は石垣の上に無造作に置かれているような構造だったのでびっくりです。
出口はこちら。 -
ちょっと継ぎはぎ感の否めない月見櫓です。
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石川数正は幼少期から徳川家康に仕えており、徳川家臣の中でも重鎮でしたが、小牧・長久手の合戦の後、1585年に突如として一族郎党を率いて豊臣秀吉に寝返りました。
寝返った石川数正をすぐには信用できなかった豊臣秀吉は松本城の築城を命じ忠誠を試しました。松本に入った数正は城下の安定を図り、城の改築を図りますが、文禄の役に出陣した数正は、名護屋の陣中で病死。 -
父の後を継いだ康長は本格的な城普請に着手します。天守を建て、総掘りをさらい石垣を築いたとされています。さらに黒門や太鼓門を築き、城下町を整備しました。
実戦向きの内部の構造や外観へのこだわりは、徳川を知りつくした石川親子ならではのものです。 -
大天守。
手前は千鳥破風、北側には唐破風。
その後石川康長は、関ヶ原の戦いで、一度父が裏切った徳川家康率いる東軍に味方します。
石川家は数正の父から3代にわたり、裏切や寝返りで家康を翻弄してきたわけですから、家康も機会を窺っていたのでしょう。1613年(慶長18年10月19日)、大久保長安事件に連坐して改易されました。
しかし父数正が豊臣方に奔った遺恨があったのか、慶長13年(1613年)金山奉行であった大久保長安の不正にからみ、遠縁であったことや分不相応な城を作ったことを理由に改易された。
石川数正と言うと裏切者として有名ですが、数正は幼少期から徳川家康に仕え、家康の人質時代も行動を共にし、徳川家康の外交折衝役を務めたが、1585年突如として家康のもとから出奔して豊臣秀吉の元に逃亡?したと言う。1593年病死。
その後 石川康長(数正嫡男)と石川康勝(数正次男か康長嫡男)の代に、徳川家康によって改易される。 -
その後、城主は小笠原氏(4年間)、戸田氏(16年間)、松平氏(5年間)、堀田氏(4年間)、水野氏(83年間)、戸田氏(144年間)と変わっていきます。
一国の城主といえども、安泰とは言えなかったのですね。 -
戦国武将が去った後、長い江戸時代を経て、明治期の動乱を生き抜いた天守閣だと思うと感慨深いものがあります。
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南西から、しつこく最後の一枚。
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もう少し、北に進めば、赤い橋の左手に天守閣を写せたかもしれないのですが・・・
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江戸時代にお別れ。
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