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ロンドンから来たゲストを案内して長府を廻った。<br /><br />国宝の「功山寺」を先に案内したが、残念ながら見せたい「長府博物館」は昨年6月以来建て替え中で閉鎖のまま。仕方なく、そのコレクションの紹介を口頭でしただけで、高杉晋作の像を見ていると、なんと、かなりの数のお坊さんたちが突然あらわれて、お経をあげた。この日は花まつりだったのだ。多分60年ぶりくらいに甘茶を頂いた後は、長府の「毛利邸」に移動し、最後に「乃木神社」に立ち寄った。<br /><br />防府の毛利邸を先週見たばかりだったので、つい比較してしまうのだが、あちらは、萩の毛利家の住む明治時代の邸宅だったので規模も大きいが、こちらはかなり小さい長府の毛利藩の子孫が住んだ邸宅で、1903年に建てられていて、規模もかなり小ぶりだ。建設された時期は防府の毛利邸よりは古い。入館料も200円。資料室にはほとんど実物はない。ただ、それでも、回遊式の庭園は苔むして、なかなか雰囲気がよい。庭の散歩もできるようになっている。明治天皇が2度宿泊された部屋にも入ることができる。<br /><br />長府の毛利藩といえば、記憶しているのは、坂本竜馬を歓迎したことだ。長府藩の槍の達人、三吉慎蔵は竜馬とともに京に上る。三吉の活躍もあり、竜馬が危うく難を逃れた話しは有名だが、三吉は竜馬の死後残された妻お龍の世話を3か月もして、さらに高知まで届けた話もよく知られている。これは生前、竜馬がもしもの時はよろしく頼むと、三吉にお願いしていたからでもある。二人の信頼関係を示す話しである。<br /><br />この長府の閉鎖中の「博物館」には、竜馬の重要な直筆が8点も残されているのは、そういった下関での活躍と交流が関係しているだろう。下関の廻船問屋の商人白石正一郎(明治になって、赤間神宮の宮司になった)の家で、西郷隆盛、坂本竜馬、長州の志士達が合流していた話しもよく知られていると思うが、この地では才能や見識があれば、下級武士出身だからと言って、蔑まれることはなかったようだ。失職組の元武士たちからは、後に妬みの対象となるが。。。<br /><br />次に訪問したのが「乃木神社」だ。乃木将軍の評価は歴史上おおいに揺れたようだが、その人物の高潔さを疑う人は少ないであろう。宝物館の中に家計図があるが、吉田松陰の師でもある玉木文之進に、乃木も弟子入りしているが、玉木家と乃木家は先祖が繋がっている。<br /><br />台湾総督としての業績、学習院院長としての業績だけでも、大変な人物であることは自明の理だ。<br /><br />日英同盟が既に結ばれ、最新鋭の英国製等の軍艦を豊富に購入して戦えた日本の海軍と比べ、(ロシア海軍の軍艦の性能は当時最新の英国製の軍艦とは大きな性能の差があった。日本製の軍艦はまだなかった時代であるから、逆に強かったともいえる。)<br /><br />一方、陸伝いで集結できた当時世界最強のロシア陸軍を相手に、船で人員、機材等を送り込んだだけの日本の陸軍とでは、まともに戦えたはずがないだろう。日本には機関銃さえなかった。日本の陸軍の苦戦は想定内であったろう。負けなかっただけでも、凄いといわざるを得ないように思う。<br /><br />乃木はその点で、割りを食わされた人物だと思う。当時世界最強のイギリス海軍で勉強でき、さらに最新の軍艦で戦えた東郷は幸運であった。日本で拡散している話はあまりに一方的なものが多い。乃木を神格化する必要はないが、東郷を神格化する必要もないと思うのだが。。。<br /><br />むしろ、当時の英国と同盟が結べた「外交力」が最大の勝利者だと思う。伊藤、陸奥、青木、西園寺、加藤等といった優れた外交手腕を発揮した人材が続いたことを忘れてはならないだろう。<br /><br />最初の写真は国宝「功山寺」の境内にある高杉晋作の像。この日は韓国の団体客がたくさんいた。<br />

ロンドンから来たゲストを長府と唐戸に案内

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2016/04/08 - 2016/04/08

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tad

tadさん

ロンドンから来たゲストを案内して長府を廻った。

国宝の「功山寺」を先に案内したが、残念ながら見せたい「長府博物館」は昨年6月以来建て替え中で閉鎖のまま。仕方なく、そのコレクションの紹介を口頭でしただけで、高杉晋作の像を見ていると、なんと、かなりの数のお坊さんたちが突然あらわれて、お経をあげた。この日は花まつりだったのだ。多分60年ぶりくらいに甘茶を頂いた後は、長府の「毛利邸」に移動し、最後に「乃木神社」に立ち寄った。

防府の毛利邸を先週見たばかりだったので、つい比較してしまうのだが、あちらは、萩の毛利家の住む明治時代の邸宅だったので規模も大きいが、こちらはかなり小さい長府の毛利藩の子孫が住んだ邸宅で、1903年に建てられていて、規模もかなり小ぶりだ。建設された時期は防府の毛利邸よりは古い。入館料も200円。資料室にはほとんど実物はない。ただ、それでも、回遊式の庭園は苔むして、なかなか雰囲気がよい。庭の散歩もできるようになっている。明治天皇が2度宿泊された部屋にも入ることができる。

長府の毛利藩といえば、記憶しているのは、坂本竜馬を歓迎したことだ。長府藩の槍の達人、三吉慎蔵は竜馬とともに京に上る。三吉の活躍もあり、竜馬が危うく難を逃れた話しは有名だが、三吉は竜馬の死後残された妻お龍の世話を3か月もして、さらに高知まで届けた話もよく知られている。これは生前、竜馬がもしもの時はよろしく頼むと、三吉にお願いしていたからでもある。二人の信頼関係を示す話しである。

この長府の閉鎖中の「博物館」には、竜馬の重要な直筆が8点も残されているのは、そういった下関での活躍と交流が関係しているだろう。下関の廻船問屋の商人白石正一郎(明治になって、赤間神宮の宮司になった)の家で、西郷隆盛、坂本竜馬、長州の志士達が合流していた話しもよく知られていると思うが、この地では才能や見識があれば、下級武士出身だからと言って、蔑まれることはなかったようだ。失職組の元武士たちからは、後に妬みの対象となるが。。。

次に訪問したのが「乃木神社」だ。乃木将軍の評価は歴史上おおいに揺れたようだが、その人物の高潔さを疑う人は少ないであろう。宝物館の中に家計図があるが、吉田松陰の師でもある玉木文之進に、乃木も弟子入りしているが、玉木家と乃木家は先祖が繋がっている。

台湾総督としての業績、学習院院長としての業績だけでも、大変な人物であることは自明の理だ。

日英同盟が既に結ばれ、最新鋭の英国製等の軍艦を豊富に購入して戦えた日本の海軍と比べ、(ロシア海軍の軍艦の性能は当時最新の英国製の軍艦とは大きな性能の差があった。日本製の軍艦はまだなかった時代であるから、逆に強かったともいえる。)

一方、陸伝いで集結できた当時世界最強のロシア陸軍を相手に、船で人員、機材等を送り込んだだけの日本の陸軍とでは、まともに戦えたはずがないだろう。日本には機関銃さえなかった。日本の陸軍の苦戦は想定内であったろう。負けなかっただけでも、凄いといわざるを得ないように思う。

乃木はその点で、割りを食わされた人物だと思う。当時世界最強のイギリス海軍で勉強でき、さらに最新の軍艦で戦えた東郷は幸運であった。日本で拡散している話はあまりに一方的なものが多い。乃木を神格化する必要はないが、東郷を神格化する必要もないと思うのだが。。。

むしろ、当時の英国と同盟が結べた「外交力」が最大の勝利者だと思う。伊藤、陸奥、青木、西園寺、加藤等といった優れた外交手腕を発揮した人材が続いたことを忘れてはならないだろう。

最初の写真は国宝「功山寺」の境内にある高杉晋作の像。この日は韓国の団体客がたくさんいた。

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