2015/11/17 - 2015/11/17
115位(同エリア388件中)
ガッサンさん
旅とは行ってみたい。訪ねてみたい。という好奇心が原点だと思う。明知鉄道と聞いて、歴史好きの人なら、織田信長公を討った謀反人「明智光秀公」を連想するでしょう。明知鉄道の終点「明智駅」は正に明智光秀公の生誕地であり、故郷である。
斎藤道三の正室、小見の方(おみのかた)は美濃国明智長山城主明智光継の娘で明智光綱の妹である。道三との間に帰蝶(織田信長正室)、孫四郎(龍元)、喜平次(龍之)、末子の斎藤利治(長龍)らをもうける。明智光秀は甥にあたる。光秀は才知に優れていたので、道三に可愛がられ教えを受け育った。これは司馬遼太郎氏原作「国盗り物語」の話の筋である。「国盗り物語」は初めて明智光秀に光を当て、描き切った作品である。
斎藤道三は当初、東美濃衆を味方に加える為、この明知鉄道沿いを足重に通い調略を繰り返した。この小説は明智駅の手前にある岩村城「女城主おつやの方」の悲哀の物語にも触れていた。岩村という土地に興味があった。この歴史に触れたく「明知鉄道」の旅に来ました。
明知鉄道は昭和60年11月16日に国鉄明知線を引き継いで第三セクター方式で開業した地方鉄道です。岐阜県恵那市(中央本線恵那駅)を起点に、中津川市阿木を経由し、日本大正村で有名になった明智町にいたる東美濃地方の高原地帯を縫って南下する25.1kmの路線です。
途中の飯沼駅、野志駅は、日本屈指の急勾配駅として知られています。800年余の歴史を秘めた岩村城跡や寒天料理の山岡駅かんてんかん、花白温泉、そして大正のロマンを今に伝える日本大正村など四季を通じて「みどころ」は豊富です。「人を輸送する」という本来の役割だけでなく、地域住民の交流の場として、また各地の観光要所を結ぶ橋渡し役として文化的にも役割を担っている鉄道です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JR特急 JRローカル 私鉄 徒歩
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JR恵那駅(えなえき)に到着しました。恵那駅は、岐阜県恵那市大井町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・明知鉄道の駅です。
JR東海の中央本線と、第三セクター鉄道である明知鉄道の明知線との接続駅となっています。明知線は当駅が起点である。明知線は元々は中央本線ともども日本国有鉄道(国鉄)の路線であり、当駅も国鉄の単独駅であったが、明知線が第1次特定地方交通線への指定を経て1985年に明知鉄道に転換されたため、現在の形となりました。
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を有する地上駅です。1番線(単式ホーム)が副本線、2・3番線が本線となっています。上り列車については特急を除き、副本線である1番線に発着します。2つのホームは、ホーム東側にあるエレベーターが設置された跨線橋と、西側の階段がある跨線橋で連絡しています。恵那駅 駅
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JR恵那駅の改札口です。
駅舎は構内南側、単式ホームの中央付近にある。東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、中津川駅が当駅を管理している。駅舎内部にはみどりの窓口が設置されています。TOICA利用可能駅であり、自動改札機が設置されている。早朝・深夜は無人となります。恵那駅 駅
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JR東海・恵那駅の正面玄関です。ここを出て、明知鉄道・恵那駅に向かいます。
恵那駅 駅
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JR東海・恵那駅の正面玄関前の風景です。恵那駅 駅
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明知鉄道の恵那駅はJR東海の1番線の東側にある頭端式ホーム1面1線を有する地上駅です。JRのホームとは網で仕切られています。
明知鉄道発足時に中央本線との連絡線が撤去され、JR線とは繋がっていません。
駅舎はJR駅舎の東側にあり、2階部分には歯科医院が入居しています。(写真参照)自動券売機はなく、乗車券は窓口で購入となります。恵那駅 駅
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明知鉄道 恵那駅入口です。(明知鉄道発足時に中央本線との連絡線が撤去され、JR線とは繋がっていません)
駅舎はJR駅舎の東側にあり、2階部分には歯科医院が入居している。自動券売機はなく、乗車券は窓口で購入となる。連絡改札口があるが自動化されておらず、JR東海をTOICA等で利用後に明知鉄道に乗り換える利用客は、JR東海の改札を出た後で明知鉄道の乗車券を購入し、改めて明知鉄道の改札口に入る必要がある(逆の場合も一旦改札を出る必要がある)。早朝・夜間は無人となる。恵那駅 駅
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明知鉄道 恵那駅時刻表です。時刻を確認後、切符を購入します。
恵那駅 駅
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明知鉄道 恵那駅の「きっぷうりば」です。
自動券売機はなく、乗車券は窓口で購入となります。連絡改札口があるが自動化されておらず、JR東海をTOICA等で利用後に明知鉄道に乗り換える利用客は、JR東海の改札を出た後で明知鉄道の乗車券を購入し、改めて明知鉄道の改札口に入る必要があります(逆の場合も一旦改札を出る必要がある)。早朝・夜間は無人となります。恵那駅 駅
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明知鉄道 恵那駅の改札口を入ると、右側はJR東海の1番線です。JR東海のホームとは網で仕切られています。
(明知鉄道発足時に中央本線との連絡線が撤去され、JR線とは繋がっていません)恵那駅 駅
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明知鉄道 恵那駅のホームです。JR東海の1番線の東側にある頭端式ホーム1面1線を有する地上駅です。JR東海のホームとは写真の通り、網で仕切られています。
恵那駅 駅
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明智行きの列車が入線して来ました。列車の後部に[明知鉄道公式ゆるキャラ『てつじい』]のエンブレムがかかっていました。
恵那駅 駅
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ホームで列車を待っていた人々は乗車したようです。
恵那駅 駅
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出発間際のホームです。(明知鉄道 恵那駅)
恵那駅 駅
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飯沼駅(いいぬまえき)は、岐阜県中津川市飯沼字市之坪にある明知鉄道明知線の駅です。1面1線の単式ホームのみを持つ地上駅で、無人駅です。
普通鉄道としては日本で最も勾配が急な場所にある駅で、本来は駅設置が認められていない1000分の33(33パーミル)の急勾配中に設けられています。開業にあたっては、監督官庁である運輸省(当時)の担当者立ち会いのもと、停車・発進の安全性確認テストを繰り返し、特認により設置が認められました。線路際の看板には「勾配日本一の駅 飯沼駅」33パーミルとありました。飯沼駅 駅
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極楽駅(ごくらくえき)は岐阜県恵那市岩村町にあり、岩村駅の一つ手前です。建設費は約2160万円で、駅名は公募に寄せられたものから、駅所在地付近の字名および駅近くにかつて存在した寺「極楽寺」に由来して決められました。
地元岐阜県に本社があるスーパーマーケットのバローから1,080万円(費用の半額に相当する)の寄付金が寄せられたそうです。
駅構造は単式1面1線の無人駅で、ホームは愛知万博開催時に愛知環状鉄道 万博八草駅(現・八草駅)のホーム拡張に使われたものを再利用しています。極楽駅 駅
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岩村駅に到着しました。ホームの頭上にある「美濃国 岩村城 女城主の里」の看板が非常に目に入りました。
岩村駅(いわむらえき)は、岐阜県恵那市岩村町にある明知鉄道明知線の駅です。2004年3月29日まで、腕木式信号機が稼働していたが、2006年4月11日に構内にて腕木式信号機を「産業遺産」として復活させ、駅員の指導の下で見学者が実際に動かせるモニュメントとしました。
駅構造は上り線と下り線が斜交いに向き合う2面2線の相対式(千鳥式)ホームを持つ地上駅です。明知線内唯一の列車交換(行違い)可能駅となっています。跨線橋などは無く、構内踏切で連絡しています。
有人駅で、駅舎内には「御用承り処」と称する観光案内所があります。
岩村駅周辺は住宅地だが、広い駅前広場を持ち、徒歩3分ほどで岩村町商店街に出ます。岩村駅 駅
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イチオシ
岩村駅を出て、本町通りに出ました。そこはタイムスリップして、不思議な町並みに迷い込んだような錯覚を覚えました。
四百余年の歴史の中に生き続けてきた現在の城下町。
城山の麓の城下町を東西に流れる岩村川の北側を武家屋敷に、南側の
一本の路に沿って町人屋敷とした。
現在の本町通り(旧上町、中町、下町)に面する両側の屋並みの基礎は 江戸時代に入り造られたものです。
上町には、主として職人が住み、大工、指物師、葺き屋、石屋、鍛冶 屋、蹄鉄師などが軒を連ね、また織物染物の仕事もあり、中町、下町に は商い屋が並んでいました。
電線地中化によりよみがえった歴史的な町並み岩村町本通り 名所・史跡
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岩村城跡に向って、歴史の町並みを歩きます。
<岩村町歴史の町並み>
岩村は、この地方の経済の中心として、400余年の歴史の中に生き続けて来た城下町。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された、商家の町並みは城下町の繁栄を今に伝えています。岩村町本通り 名所・史跡
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<岩村町歴史の町並み>
同地区では、商店などの軒先に「女主人」の名を入れたのれんを掲げたり、「女城主」と名付けた日本酒を売り出したりして、地域おこしにも活用しています。岩村醸造 名所・史跡
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格子戸の歴史ある建物が今も保存され、歴史の町並みを形成しています。
岩村町本通り 名所・史跡
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本町通りを進み、岩村城へ向う曲り角の所に常夜灯があった。
常夜灯(じょうやとう)とは、一晩中つけておく明かりのこと。転じて街道沿いなどに設置されている建造物のことも指すようになった。
夜道の安全のため、街道沿いに設置されている常夜灯は、現在で言う街灯の役目を果たしており、街道の道標として設置されているものが多い。
常夜灯の脇にあった、立て札には以下のように記されていた。
<上町常夜灯>
寛政七年(1795年)、上町・中町の有志により、ここから約百m南東の上町木戸付近に建立したもので、銘には「明和二乙酉秋創立寛政七乙卯秋再建」とある。
戦前に国道二五七号沿いに移されていたが、昭和六十二年(1987年)、岩村城創築八百年を機にここに移された。
城下町は江戸時代に度々大火に見舞われたことから、火伏せ(神仏の力により火災を防ぐこと)を祈願して建立したと伝えられる。正面に大神宮(伊勢神宮)を配して天下泰平を、左側に秋葉大権現を配して火伏せを、右側に金比羅大権現を配して招福繁栄を願ったものである。岩村町本通り 名所・史跡
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藩主邸太鼓櫓です。江戸時代、城下に時を知らせる為に作られた櫓です。昔そのままの姿で、平成二年に藩主邸跡に復元されました。
岩村城藩主邸 太鼓櫓 名所・史跡
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「藩主邸太鼓櫓」の手前に「戦国料理」という幟が立っていました。その向いを見ると、城のような造りの建物が見えました。
岩村城藩主邸 太鼓櫓 名所・史跡
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「藩主邸太鼓櫓」の向いにある「岩村山荘」です。
三大山城の一つと云われる岩村城址の山裾に建つ岩村山荘です。外観は二の丸を意識した風格のあるたたずまいです。
合掌造り風の高い吹き抜けロビーからは、霊峰・御岳を望むことができます。銘木と銘石、そして空間を贅沢に配した造りです。岩村山荘 宿・ホテル
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イチオシ
「藩主邸太鼓櫓」と「表門」です。
岩村城藩主邸 太鼓櫓 名所・史跡
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イチオシ
<岩村城跡> (女城主ゆかりの霧ヶ城)
岩村城は鎌倉時代(1185年)に築城された。大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる城で標高717mの山頂にあり、城下町を見下ろし、四方の山々も一望することができます。天然の峻険な地形をよく利用した要害堅固な山城で、江戸諸藩の府城の中では、もっとも標高の高いところに築城されており、しかも明治維新まで在続したのが、この岩村城です。
<霧ヶ城伝説>
岩村城には、敵が急襲した際、城主秘蔵の蛇骨を城内の井戸に投げ入れると、たちまちのうちにどこからともなく深い霧が湧き出でて城山を覆い、敵陣が大いに戸惑い、慌てるところを迎え打って勝利を納めたという「霧ヶ城伝説」が残る。
その井戸は「霧ヶ井」といわれ、山の頂にある井戸にして、現在も満々と水をたたえている。岩村城跡 名所・史跡
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岩村城には「女城主おつやの方」の悲哀の物語が残る。
岩村城の縄張り図1570年(元亀元年) 遠山氏最後の城主は景任で、甲斐国の武田氏の家臣で、信濃伊那郡の大島城を拠点に伊那郡代であった秋山虎繁(信友)によって攻められたが織田信長の武将、明智光秀の援護もあり、守り抜いた。
1571年(元亀2年) 景任が病没すると信長は5男で当時6歳(2歳、3歳説もある)の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。景任夫人は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び虎繁に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、虎繁は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。
1575年(天正3年) 同年5月21日の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落した。開城の際、虎繁の助命が約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。岩村城跡 名所・史跡
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<一之門>
二層の櫓門で大手一之門と呼ばれる。城に向かって左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。前面左側には石塁が張り出しており、死角から敵が近づかないよう工夫されている内側には番所が置かれていた。岩村城跡 名所・史跡
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<藩校知新館正門>
藩主邸太鼓櫓の近くにあります。
岩村藩校・知新館は元禄15年(1702年)に松平乗紀(のりただ)によって創立されました。美濃においては最初の藩校で、全国的にみても藩学としては古く、10指に入るといわれています。創立当時2万石の小藩でありながら文教政策に重点をおき、有能な藩士の育成を図られていた点は注目に値します。知新館の知新とは孔子の論語の「温故知新」からとったものです。 城址公園に知新館の正門が移築されています。岩村藩校・知新館 名所・史跡
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<温故の井>
知新館の知新とは孔子の論語の「温故知新」からとったものです。「 藩政時代に藩校知新館に学ぶ」と記されていました。後の記しは読み取れませんでした。恐らく下田歌子女史の言葉と推測できます。下田歌子勉学所 名所・史跡
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<下田歌子>銅像
明治から昭和に活躍した教育家であり歌人。幼名平尾 鉐(ひらお・せき)。5歳で俳句・漢詩を詠み、和歌を作る神童で、後に日本女子教育の先覚者となりました。下田歌子勉学所 名所・史跡
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<下田歌子勉学所>
明治から昭和にかけ、日本女子教育の先覚者として活躍した下田歌子先生が幼くして勉学に励んだ建物の解説です。下田歌子勉学所 名所・史跡
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<下田歌子勉学所>
明治から昭和にかけて日本の女子教育の先駆者で歌人であった 下田歌子が勉学に勤しんだとされる勉強部屋(父の書斎)を復元したものです。
歌子の家系は代々学者で藩校知新館の教授を務めていました。江戸期には女子は藩校で習い事が出来なかった為、歌子は祖母から読み書きの手ほどきを受けました。その才は驚くことに5歳で俳句・和歌を詠み、8歳で漢書を理解したと言われています。明治から昭和の女子教育の先駆者としての基礎を養ったのがこの勉学所と言えるでしょう。下田歌子勉学所 名所・史跡
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<三好 学> 銅像
わが国の植物学の基礎を築き、桜と花菖蒲の研究における世界的な第一人者。天然記念物の保護を日本で最初に提唱しました。岩村城跡 名所・史跡
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「近代植物学、環境保護の先駆者 三好 学(1862〜1939)」の年譜です。岩村城跡 名所・史跡
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<佐藤一斎>像
幕末の大儒学者で日本の孔子とも云われる人物。半生に亘って執筆した随想録「言志四録」は指導者の座右の銘としても多く親しまれています。岩村城跡 名所・史跡
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石碑は一斎の言葉として有名な「三学戒」です。
2001年(平成13年)5月に総理大臣に就いて間もない小泉純一郎が、衆議院での「教育関連法案」審議中に、言志四録について述べ、知名度が上がった。 「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり壮にして学べば、則ち老いて衰えず老いて学べば、則ち死して朽ちず」が記されています。岩村城跡 名所・史跡
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岩村城跡から本町通りに下りてきました。
現在の本町通り(旧上町、中町、下町)に面する両側の屋並みの基礎は江戸時代に入り造られたものです。
上町には、主として職人が住み、大工、指物師、葺き屋、石屋、鍛冶屋、蹄鉄師などが軒を連ね、また織物染物の仕事もあり、中町、下町には商い屋が並んでいました。
現在、都会でも時計店を探すのは容易でない。しかし、ここ岩村には良き時計店が残っていました。やはり、伝統の街である。岩村町本通り 名所・史跡
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現在、チェーンのドラッグストアが多く、個人の薬局は数少なくなってきた。こういう昔ながらの薬局を見付けると、心が和んできます。何時までも残って欲しい風景である。
岩村町本通り 名所・史跡
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<木村邸>
木村家は、藩の財政窮乏の時御用金を才覚し、岩村藩駿河領の水害、同美濃領の麦の凶作など救済事業に尽力しました。また天保五年(1834年)の江戸藩邸類焼の折、復旧に多額の金品の用立てするなど、多くの事業に活躍しています。岩村町本通り 名所・史跡
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<土佐屋>
土佐屋さんの店構えです。店先に土佐屋さんの気さくな奥さんが居て、種々説明してくれました。
土佐屋は、今から約260年前に染物業を営んでいた商家で、建物自体は平成8年より復元工事が行われ、平成11年4月に「工芸の館」土佐屋としてオープンしました。
当時の藍染めの工程を学ぶことができる染工場や、土佐屋の歴史をおさめた土蔵の展示室、庭の天正疎水などは江戸時代の面影を残し伝えております。恵那市の指定文化財です。土佐屋(岐阜県恵那市) 名所・史跡
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<土佐屋>
中の間でしょうか。帳場に使用していたのでしょうか。
江戸時代、染物屋を営んでいた旧家で一階は土間店、中の間、仏間、座敷と続く一列四間型の家屋、二階は通りに面した表の間、十畳間、奥座敷八畳間と続き、中庭を望むことができます。土佐屋(岐阜県恵那市) 名所・史跡
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<土佐屋>
中庭です。土佐屋(岐阜県恵那市) 名所・史跡
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<土佐屋>
昔ながらの織り機で、機を織っていました。土佐屋(岐阜県恵那市) 名所・史跡
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<土佐屋>
藍染工場全景です。
江戸時代(約260年前)から藍染が始まり、染壷・火壷11基。中央にあるのが火壷といわれ廻りの染料を温めていました。
藍はタデ科の植物でジャパンブルーと呼ぶ。現在は四国の徳島に産出するくらいです。
大変重要な染壷で、他では余り見ることが出来ない珍しいものです。
染工場の二階は干し場として使用されていましたが、現在藍染の工程がパネルで展示されています。土佐屋(岐阜県恵那市) 名所・史跡
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<土佐屋>
江戸時代、染物屋を営んでいた旧家は見所が多い、歴史的な家筋であった。見学が終わって、上品な土佐屋の奥様であろうか、店先まで送ってくれた。土佐屋(岐阜県恵那市) 名所・史跡
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<明智駅>
明智駅(あけちえき)は、岐阜県恵那市明智町445-2にある明知鉄道明知線の駅です。明知線の始発・終着駅であり、駅近くには明知鉄道本社がある。駅周辺は旧恵那郡明智町の中心市街地であり、住民が大正時代の町並みを保存して観光資源として活用している「日本大正村」の玄関口である。
駅舎に接して1面1線の単式ホームがある地上駅。構内に車両基地があり、夜間滞泊もある。また、多くの側線を有する。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅>
明智光秀の故郷、明智駅に到着しました。明智光秀を大きくクローズUPし、取上げたのは、司馬遼太郎氏の「国盗り物語」である。
斎藤道三の弟子として、織田信長、明智光秀。両氏を交互に描いた意欲的な作品である。特に明智光秀に光を当てた画期的なものであった。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅>
明智駅の「きっぷうりば」です。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅>
明智駅の正面入口です。入口の上部には「日本大正村 明智駅」とありました。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅>
駅舎の隣には2012年、喫茶店や地元産品の販売コーナー、トイレを備えた交流施設「明智駅前プラザ」が開設された。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅前プラザ>
喫茶店や地元産品の販売コーナー、トイレを備えた交流施設です。
質素で殺風景な店内であった。明智の山里の素朴さを物語っているような雰囲気であった。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅前>
明智駅周辺には明智光秀公ゆかりの地が多い。明智城跡には「光秀公学問所」の天神神社、その近くに光秀公の母堂「お牧の方墓所」、龍護寺には「光秀公供養塔」、八王子神社には「光秀公手植えの楓」、千畳敷公園の中に「光秀公産湯の井戸」がある。
正面に八王子神社があります。明智駅 (恵那市) 駅
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<明智駅前>
駅前に「日本大正村総合案内図」がありました。明智光秀公の生誕地であり、ゆかりのものも存在する。しかし、日本の歴史を変えた謀反人として、案内をはばかっているように見え、駅前に明智光秀公の記しは何もなかった。明知光秀公を尋ねる人も少ないのであろう。仕方がないことかもしれない。
−光秀まつり−
「光秀まつり」は明智光秀誕生の伝承がある地として、名将光秀公をしのんで5月の第一日曜日に開催される明智町のお祭りです。
その歴史は浅く、1973年(昭和48)から始まった。ちょうどその年の1月7日から、原作 司馬遼太郎 NHK大河ドラマ「国盗り物語」が始まった年である。司馬遼太郎氏が世に明智光秀公を送り出さなかったなら、脚光を浴びることもなく、この「光秀まつり」は生まれて来なかったであろう。また、興味を持ち、訪れる人もいなかったに違いない。
ものものしくも華やかな戦国武将の衣装に身を包んだ現代版「光秀」の武者行列が、光秀ゆかりの史跡が残る町を練り歩く。光秀公を先頭に、騎馬武将、少年が扮する少年武将行列、少女が扮する少女姫行列、山車が続く。山車には、司葉子大正村村長が乗るほか、明智太鼓や火縄銃の実演も披露されるそうだ。
地元の「光秀まつり」で「明智光秀公」は浮かばれるでしょう。
明智駅 (恵那市) 駅
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