2016/02/06 - 2016/02/06
306位(同エリア662件中)
滝山氏照さん
茂春山・宝成寺(ほうじょうじ、千葉県船橋市西船)は天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後関東移封となった徳川家康の側近の一人である成瀬正成(なるせ・まさなり、1567~1625)に与えられた葛飾郡栗原郷の領地に創建された浄土宗の寺院です。
正成は三河国出身で幼少の頃から小姓として家康に仕えいわゆるエリート出世街道を進むなか、天正12年(1584)小牧長久手の戦いで初陣し首級を挙げ家康より禄と脇差を与えられ、更に翌年には離散した旧根来衆を編成し鉄砲隊を率いる武将となります。
上述の如く下総国葛飾郡栗原に4千石で入封した正成は江戸四谷に居を与えられ、家康より預けられた根来組鉄砲隊を新宿に配して秀吉勢力下となった甲斐国に通ずる甲州街道の防衛に従事します。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では鉄砲隊を率いて先鋒を務め武功を収めた正成は堺奉行を経て、駿府に隠居した家康の側近として政務を執り大御所政治に参画、やがて甲斐国内に2万石、三河国賀茂郡内に1万石をそれぞれ加増され3万4千石を有する大名となります。
関ヶ原合戦の軍功により家康四男松平忠吉(まつだいら・ただよし、1580~1607)は52万石を以て清洲に入城するも慶長12年(1607)後嗣なく死去、その後甲斐甲府藩より転じた家康九男徳川義直(とくがわ・よしなお、1601~1650)が入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移りここに徳川家尾張藩が立藩します。
尾張藩運営については旧甲府藩時代の家老であった譜代の重臣平岩親吉(ひらいわ・ちかよし、1542~1611)ら家臣団が尾張に移動、付家老として尾張犬山城主となり尾張支配を主導、義直自身が家康死去後の元和2年(1616)にそれまでの駿府城を離れ名古屋城に入るまで継続します。
慶長16年(1611)尾張藩創生期を主導していた平岩親吉が70歳で死去、継嗣なく親吉の死を以て断絶、その所領は一時尾張藩に吸収されますが、元和3年(1617)、義直を補佐する付家老として成瀬正成が3万石で犬山城に入り、以降尾張藩を補佐するする犬山成瀬氏が歴代に亘り継続します。
万治2年(1659)三代城主成瀬正親(なるせ・まさちか)の頃5千石の加増を得て3万5千石という尾張藩最大の知行を有する重臣となりますが、身分はあくまでも尾張藩主である徳川家を補佐する重臣という立場は不変で一部歴代城主は尾張藩からの独立を企てますが未実現に終わっています。
慶応4年(1868)1月、明治政府の維新立藩により、犬山成瀬家は正式に犬山藩主となり晴れて徳川尾張藩から独立しますが翌年の明治2年(1869)版籍奉還により、最後の藩主成瀬正肥(なるせ・まさみつ)は犬山藩知事に任じられます。
成瀬氏廟の脇に立てられた説明板には次の記載がなされています。
「 市指定史跡
成 瀬 氏 の 墓
現在の船橋市西部、旧葛飾町一帯は栗原郷といわれ、江戸時代初期に大名成瀬氏の領地でありました。ここ法成寺にある成瀬家の墓所は、船橋市で唯一の大名関係の墓です。
成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、天正18(1590)年に家康が関東に移封されるとすぐに栗原郷4千石を与えられ、その後関ヶ原の合戦などの武功で石高を加増され、大名に列しました。やがて家康の九男義直が尾張徳川家を創設すると付家老として後見役に任ぜられ、元和3(1617)年尾張犬山城主となりました。正成の死後、犬山城主は長男正虎が継ぎましたが、正成は生前次男之成に栗原郷4千石を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となりました。その後之成は37歳で没し、1歳の之虎が後を継ぎましたが、その之虎も寛永15(1638)に5歳で夭折したため、栗原藩成瀬家は断絶しました。一方犬山の成瀬家は存続し、明治時代には子爵となり、子孫が犬山城を所有しました。法成寺は江戸における成瀬家の菩提寺とされていたので、一族の墓の一部が営まれ、明治9(1876)年までの墓碑が残されています。
墓地内には、之成とその殉死者3名の墓碑があります。殉死者を副葬した大名の墓は非常に珍しいものです。また、駒型の墓は第7代犬山城主のもので、台石を除いた高さは約3.6m、幅90cm、厚さ40cm余りで、県内ではさいだいきゅうの墓石です。
昭和44(1969)年に正寿の遺骨を国元の日林寺に移すため墓石の下を発掘した際、正寿の墓誌が出土し、その後墓地の整理を行った際には、正寿の兄成瀬信濃守正賢の子である成瀬鍋吉の墓誌が出土しました。この二つの墓誌の存在は非常に稀であり貴重なものです。
船橋市教育委員会」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
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宝成寺・寺門
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宝成寺・石柱
寺号である「宝成寺」が刻されています。 -
宝成寺・石柱
宗派の「曹洞宗」が刻されています。 -
成瀬氏の墓説明板
正門の傍には「成瀬の墓」と題する説明板(宝成寺制作)が建てられています。
「 市指定文化財(史跡)
成 瀬 氏 の 墓 付墓誌
1970年(昭和45)5月10日指定
成瀬正就は幼少より徳川家康に仕え、家康の子の義直が尾張徳川家を創設した際、お付け家老として後見した。正成は当初、栗原郷に四千石を与えられ、やがて三万石余の犬山城主となった。正就の跡は、長男正虎が犬山城主を継ぎ次男之成が栗原藩を継いだが、栗原藩は之成の之虎が早世して廃絶し、幕府直轄地となった。当寺は江戸時代の初め頃に成瀬氏の江戸における菩提所の一つとなった。
墓所に入り南側の駒型の大きな墓は第七代犬山城主正寿のもので、県内最大級の大きさである。西側にある駒型の墓は之成のもので堀杏庵の筆になるという字を刻している。ほかに之成の殉死者三名の墓もある。
昭和44年に正寿の遺骨を犬山市の白林寺に移すため墓石の下を発掘したときに、その墓誌が発見された。また、その後、墓所の整理・縮小を行った際、正寿のおいの成瀬鍋吉の墓誌も発見されている。
1992年3月
茂春山 宝成寺 」 -
宝成寺・山門
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宝成寺山門・扁額
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宝成寺・本堂
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宝成寺本堂・扁額
本堂には「茂春山」の山号が揮毫された扁額があります。 -
宝成寺本堂
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宝成寺・境内
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宝成寺・鐘楼
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漕洞宗茂春山宝成寺沿革
本堂落慶記念碑には寄進者一覧と共に当該寺院の沿革が刻されています。 -
宝成寺本堂落慶記念石碑
宝成寺沿革の部分については下記の通り記述されています。
「開山は月渓智泉大和尚。大本山總持寺開祖常済大師十三世法孫。
草創開基は葛西六郎茂春。法名、茂春宗繁居士。
創立の年月は不詳(天正年間、1500年代後期)。
本尊は、實冠釈迦如来。
徳川家康公入国、御順見の際、長久手の戦い、関ヶ原合戦で戦功があった成瀬正成公が供奉し、行徳領に更封を請け、当時下総国葛飾郡栗原郷に於いて知行4千石余を賜る。
家康公御上意にて栗原八ヶ村(北郷村、寺内村、古作村、印内村、小栗原村、二子村、山野村、西海神村)が領地となり、領地内にあった法城寺を菩提所と定め、城の字を成瀬の成字に、法の字を實字に替え、法成寺と改める。
草庵同様のたたずまいであった宝成寺は、当山三世、名州太誉和尚の代(1600年代中期)、成瀬氏より、法器、仏具の新添をうけ殿堂の建立も成し遂げ、曹洞宗門における一角に、宗風挙揚の専門道場を築き上げた。(以下略)」 -
本堂庫裏山門大修理・石門石垣敷居竣工記念碑
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宝成寺・本堂(遠景)
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イチオシ
成瀬氏墓所
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成瀬家墓所石標
入口には「成瀬家墓所」と刻されています。 -
成瀬家墓所内部
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犬山七代成瀬正壽墓石(表側)
成瀬正壽(なるせ・まさなが、1782~1838)は尾張藩付家老で 尾張犬山藩成瀬家の第七代当主。 -
正壽墓石(裏側)
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成瀬信濃守正賢墓石
犬山7代城主成瀬正壽(なるせ・まさなが)の兄である成瀬信濃守正賢(なるせ・まさかた、1760~1798)の墓となっています。犬山藩嫡子として生まれ、安永7年(1778)将軍家治に拝謁、寛政9年(1797)に叙任したが、翌年家督を継ぐことなく39歳で早世。 -
成瀬正賢墓石(裏側)
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栗原藩2代成瀬之成(ゆきなり)墓石
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栗原藩2代成瀬之成(ゆきなり)墓石一部
之成死去に3名の殉死者が出ています。 -
成瀬氏の墓説明板
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関連掲載資料
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成瀬家墓石配置図
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成瀬家墓石一蘭
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成瀬正成説明
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成瀬家系図一蘭
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成瀬鍋吉(なべきち)墓石
成瀬信濃守正賢子息の墓石となっています。 -
成瀬鍋吉墓石(裏側)
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成瀬之成に殉じた家臣3名の墓石
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葛飾の地名とその由来
京成電車西船駅ホームに掲示された説明板が興味を引きます。
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