北千住・南千住旅行記(ブログ) 一覧に戻る
東京の北の玄関でJR常磐線を始め各電車が乗り入れる北千住駅から徒歩約10分、稲荷山・源長寺(げんちょうじ、東京都足立区千住仲町)は慶長15年(1610)掃部宿(かもんじゅく)を開発した鎌倉時代から室町時代にかけて下総国守護であった名門千葉氏の流れをくむ石出掃部亮吉胤(いしで・かもんのすけ・よしたね、1532又は1542~1618)創建による浄土宗の寺院です。<br /><br /><br />当該境内に建てられた源長寺説明板には下記の通り記載されています。<br /><br />「源長寺 千手仲町41<br /><br />浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長3年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同15年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。<br /><br />本尊は阿弥陀如来である。<br /><br />墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。<br /><br />また、草創期の寺小屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。<br />              東京都足立区教育委員会」<br /><br /><br />また、石出掃部亮吉胤に関しては吉胤墓石の脇に掲げられた説明板があり次のように紹介されています。<br /><br />「石出掃部亮吉胤の墓<br />石出掃部亮吉胤は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。<br /><br />その業績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に帰されている。これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(1592?96)本木に移って土地開発をし、慶長3年(1598)には掃部宿に移住して開発に当たったという。元和2年(1616)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長2Kmの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。<br /><br />また「南足立郡誌」(大正5年版)には、大永2年(1522)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正18年(1590)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和4年6月22日に97歳(数え年)で没したと記述している。天正5年(1916)、従五位を追贈された。<br /><br />石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長15年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和58年12月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。<br />       平成18年4月  足立区教育委員会」<br />

武蔵北千住 千住掃部宿開発に従事した下総守護千葉氏後裔小出吉胤が敬慕する千住大橋架橋に尽力の関東代官頭伊奈良忠次の法名に因む『源長寺』散歩

7いいね!

2016/01/31 - 2016/01/31

175位(同エリア481件中)

0

31

滝山氏照

滝山氏照さん

東京の北の玄関でJR常磐線を始め各電車が乗り入れる北千住駅から徒歩約10分、稲荷山・源長寺(げんちょうじ、東京都足立区千住仲町)は慶長15年(1610)掃部宿(かもんじゅく)を開発した鎌倉時代から室町時代にかけて下総国守護であった名門千葉氏の流れをくむ石出掃部亮吉胤(いしで・かもんのすけ・よしたね、1532又は1542~1618)創建による浄土宗の寺院です。


当該境内に建てられた源長寺説明板には下記の通り記載されています。

「源長寺 千手仲町41

浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長3年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同15年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。

本尊は阿弥陀如来である。

墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。

また、草創期の寺小屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
              東京都足立区教育委員会」


また、石出掃部亮吉胤に関しては吉胤墓石の脇に掲げられた説明板があり次のように紹介されています。

「石出掃部亮吉胤の墓
石出掃部亮吉胤は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。

その業績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に帰されている。これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(1592?96)本木に移って土地開発をし、慶長3年(1598)には掃部宿に移住して開発に当たったという。元和2年(1616)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長2Kmの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。

また「南足立郡誌」(大正5年版)には、大永2年(1522)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正18年(1590)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和4年6月22日に97歳(数え年)で没したと記述している。天正5年(1916)、従五位を追贈された。

石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長15年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和58年12月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。
       平成18年4月  足立区教育委員会」

旅行の満足度
4.0
交通手段
私鉄

PR

  • 掃部宿憩いのプチテラス<br /><br />北千住駅から源長寺に至る途中に「掃部宿憩いのプチテラス」と称する広場に出くわします。

    掃部宿憩いのプチテラス

    北千住駅から源長寺に至る途中に「掃部宿憩いのプチテラス」と称する広場に出くわします。

  • 千住掃部宿・説明板<br /><br />千住掃部宿は日光・東照宮への将軍参詣や参勤交代を中継する重要な宿場町でした。

    千住掃部宿・説明板

    千住掃部宿は日光・東照宮への将軍参詣や参勤交代を中継する重要な宿場町でした。

  • 千住図会(千住掃部宿一部拡大)<br /><br />

    千住図会(千住掃部宿一部拡大)

  • 千住掃部介吉胤(千住掃部宿一部拡大)<br />

    千住掃部介吉胤(千住掃部宿一部拡大)

  • 源長寺・山門

    源長寺・山門

  • 源長寺・石塔

    源長寺・石塔

  • 源長寺・山門扁額<br /><br />山門に掲載される「稲荷山」と書かれた山号があります。

    源長寺・山門扁額

    山門に掲載される「稲荷山」と書かれた山号があります。

  • 源長寺・境内

    源長寺・境内

  • 大欅<br /><br />

    大欅

  • 多坂梅里墓石

    多坂梅里墓石

  • 多坂梅里先生追悼碑

    多坂梅里先生追悼碑

  • 源長寺・本堂(全景)<br /><br />「源長寺」という寺名は小出吉胤が敬愛する関東代官頭として治水事業に貢献した伊奈忠次(いな・ただつぐ)の戒名である「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」を因んでいます。

    源長寺・本堂(全景)

    「源長寺」という寺名は小出吉胤が敬愛する関東代官頭として治水事業に貢献した伊奈忠次(いな・ただつぐ)の戒名である「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」を因んでいます。

  • 源長寺・本堂扁額

    源長寺・本堂扁額

  • 源長寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を一望します。

    源長寺・境内

    本堂から山門方向を一望します。

  • 源長寺由緒説明板

    源長寺由緒説明板

  • 源長寺・通用門

    源長寺・通用門

  • 歴代住職墓石

    歴代住職墓石

  • 石出掃部亮吉胤墓石<br /><br />一般墓地の中に石出掃部亮吉胤の墓石があります。

    石出掃部亮吉胤墓石

    一般墓地の中に石出掃部亮吉胤の墓石があります。

  • 石出掃部亮吉胤供養塔<br /><br />

    石出掃部亮吉胤供養塔

  • 小出掃部吉胤供養塔(近景)

    小出掃部吉胤供養塔(近景)

  • 小出掃部吉胤供養塔(近景)

    小出掃部吉胤供養塔(近景)

  • 小出掃部亮吉胤廟

    小出掃部亮吉胤廟

  • 石出掃部亮吉胤墓石(全景)

    石出掃部亮吉胤墓石(全景)

  • 石出掃部亮吉胤墓説明(近景)

    石出掃部亮吉胤墓説明(近景)

  • 矢野和泉守正倫(やの・いずみのかみ・まさとも)墓石標柱<br /><br />大坂の陣に際して豊臣方の武将として徳川家康率いる軍と奮戦するも城下今福の砦にて敗死し、後嗣無によりお家断絶となった主家である中村家の再興実現の道が断たれます。

    矢野和泉守正倫(やの・いずみのかみ・まさとも)墓石標柱

    大坂の陣に際して豊臣方の武将として徳川家康率いる軍と奮戦するも城下今福の砦にて敗死し、後嗣無によりお家断絶となった主家である中村家の再興実現の道が断たれます。

  • 矢野和泉守正倫供養塔

    矢野和泉守正倫供養塔

  • 矢野和泉守正倫供養塔

    矢野和泉守正倫供養塔

  • 境内風景

    境内風景

  • 源長寺・境内

    源長寺・境内

この旅行記のタグ

7いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP