2015/05/16 - 2015/05/16
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
ナポリ滞在最終日は、カンパニア州アルテカードを使って、二つの世界遺産を訪れます。
お世辞ににも綺麗とはいえないチルクム・ヴェスヴィアーナ鉄道で、一昨日と同じソレント行きに乗りこみます。ポンペイは14年前に訪れたので(もうほとんど忘れていますが)、今日は、火砕流に覆われた町エルコラーノを訪ねます。
今朝は日本の某大手メーカーのおじさま方約10名と駅で遭遇。イタリアとの合弁事業を立ち上げるために出張でいらっしゃったとのことで、今日がナポリ最終日なので、これからポンペイへ向かうと話しておられました。
ナポリ駐在員を決めなければならないのだけれど、誰も手を挙げる人がいないようで、前回インドに駐在されていた、集団の中では比較的若い男性を皆が「お前だったら、どんなところでも住めるよ」と言ってしきりに持ち上げていたのが印象的でした。
一つ気になったのは、おじさま方が駅のホームで、札束を財布から出して会計をしていたこと。「お金持っています」って宣伝しているようで、大変気になりました。集団だと気が大きくなるのだろうけれど、スリがうじゃうじゃいるんですよ。この国には!
「財布を人前で出すのは厳禁ですよ。気をつけてくださいね。」って申し上げましたが、ご無事だったでしょうか?
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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エルコラーノはナポリから約15分。おじさま方に別れを告げて、海の方向に向かって、なだらかな坂を下りていきます。7、8分で、こちらの門に到着。
門にはラテン語でHERCULANEUMと書いてあります。ヘルクラネウムとはヘラクレスのこと。エルコラーノというのはヘラクレスのイタリア語読みなんですね。伝説によれば、エルコラーノは紀元前1243年にヘラクレスによって発見された町なのだそうです。紀元前479年にギリシャの植民地となり、紀元前89年にはローマ人の支配下に入りました。したがって、ギリシャの文化が色濃く残っていた町でした。 -
門をくぐると見えてきましたよ。エルコラーノはこじんまりとした城壁に囲まれた町で、紀元79年のヴェスヴィオス火山噴火当時人口は4000人ほど、町の面積は20ヘクタールほどだったそうです。
ポンペイを襲ったのは高熱の有毒ガスと火山灰が高速で移動する「火砕サージ」と呼ばれる現象だったと言われていますが、こちらのエルコラーノを襲ったのは有毒ガスに加えての火砕泥流。そのため、町は全て溶岩の下敷きになってしまったのです。 -
町の発掘は1738年から始まりました。地下トンネルを掘り、探索と換気シャフトの設置を並行して行う方式を1828年まで続け、その後は露天掘り方式に切り替え1875年まで作業を継続。長い中断後、1927年から発掘を再開し、1958年までかかって今の町並みを復元したのです。
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火砕流の固まった溶岩は平均16mの高さがあったというから驚きです。
溶岩にすっぽり埋まったために、ポンペイでは見られない植物や家具、木造建築の家や建材、船等の人工物がそのままの姿で残ったということがエルコラーノの特徴の一つであるようです。 -
復元された古代の町を見ながら、長いプロムナードを歩いていきます。古代の町は、現在より10m以上低い場所にあったんですね。
水平線が斜めになってしまいましたが、進行方向にうっすらと海が見えているのがお分かりでしょうか? エルコラーノは東西を2本の川に挟まれた海岸近くの険しい崖の上に築かれた町で、その川岸は天然の良港となっていました。 -
ここが遺跡の入口です。入場料は11ユーロ。5遺跡共通券(ポンペイ、エルコラーノ、オブロンティ、スタビア、ボスコレアーレ)は3日間有効で22ユーロです。私はカンパニア州アルテカード2つ目の入場でフリーでした。
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ローマでも咲いていた赤いポピーが、エルコラーノの町を彩っていましたよ。
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ティヴォリのヴィッラ・アドリアーノを赤く染めていたのもこの花でした。
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日本と異なり、道順がまことに不親切…案の定迷いましたが、どうやらあそこに見える橋を渡って遺跡に入場するようです。
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エルコラーノから見るヴェスヴィオスは、富士山のような形をしていました。望遠で撮ったので近く感じますが、実際にはそれほど山に近いという印象はありません。それでも、火砕流はあっという間にやってきたんですね。
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実際のヴェスヴィオスはこの距離。そんなに威圧感を感じない距離ですよね。こういう認識が甘いのかな?
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ようやく地下に降りる階段を見つけて、橋を渡ります。
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もしかして、これが溶岩をくり貫いたトンネルなのかな?
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ここから出てきました。
エルコラーノでは珍しく立派な解説冊子が入場ゲート脇に置いてありました。日本語版はなく、イタリア語版、英語版のみです。冊子には残念ながら地図がついていないので、あらかじめネットで地図をダウンロードしておくと便利ですよ。 -
地図と冊子片手に1番から順に回ります。
2000年前、現在草が生えている場所は海岸だったそうです。橋の両側にずらりと並ぶアーチは、2000年前の倉庫及び船の格納庫です。1980年の春、少なくとも300体の骸骨とネックレス、コインなどの貴重品がここで発見されました。紀元79年の噴火の際、貴重品を持ってここから逃げ出そうとした人々だと見られています。彼らは火砕流が届く前に熱風により一瞬で焼死したとみられています。
また1982年には、9mの長さがあるローマ帝国時代の状態の良いボートが、こぎ手、兵士の骸骨と共にこのエリアで見つかっています。 -
城壁の階段を半分上ると右手に現れるのが、テラスになっている長方形の広場す。
ローマの支配下に入り、やがて町はローマ帝国の上流貴族社会の住宅地となりました。中でも全盛期には、地元の元老院議員だったマルコ・ノニオ・バルボが神殿、浴場、劇場などを建設しています。紀元62年に大地震が起こり、町はかなりのダメージを受けますが、その後も復旧工事を行い、生活の営みは続けられてきました。79年までは・・・ -
広場にあったのは、マルコ・ノニオ・バルボの記念碑です。記念碑に捧げられた長い碑文には、彼がどれほどエルコラーノの町のために尽力したかということが書かれています。そしていくつもの彫像が記念碑の上に立てられていました。
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記念碑のそばに海に向かって立っているのはマルコ・ノニオ・バルボ本人です。像は大理石製で、頭部分は20世紀半ばに見つかっていましたが、胴体部分の断片を集めて修復されたのは1981年になってからのことです。
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記念碑の上の子供の像は大変キュート!建てられた当時は10体もこの上に乗っていたそうですよ。
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城壁と海の間に建てられたのがこちらの浴場。1世紀の初めに作られたもので、大変保存状態が良かったです。こちらもバルボの命によるものです。
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皆が覗いているので、私もマネをして見たけれど、中にあるのが何なのかよくわかりませんね・・・解説によれば、円形の噴水、待合室、フリギダリウム(冷温風呂)、カルダリウム(通常の温かい風呂)、ラブルム(清めのための風呂)、スイミングプールなどが揃っていたそうです。
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下に降りていく階段とその先の部屋が見えました。タイルが敷かれている様子がわかります。
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浴場施設の天井部分。窓を除いてはオリジナルのままだそうですよ。
エルコラーノを襲った火砕泥流が固まった溶岩は凝灰岩に近いですが、もっと柔らかいそうです。皮肉なことにこの溶岩がすっぽりと覆ったことが、町の保存に貢献したのです。 -
広場の左側には、神聖な場所とされるエリアがありました。
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こちらが紀元62年の地震以降に修復された跡のあるヴィーナスの神殿です。手前にあるのは祭壇かな? 壁にはフレスコらしきものが描かれていますが、よくわかりませんね。解説によると、この神殿は船乗りを導く「幸運のヴィーナス」に捧げられていて、安全航行のシンボル舵が描かれているのだそうです。
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ヴィーナスの神殿の隣には、4神ミネルヴァ、ネプチューン、メルクリウス(マーキュリー)、ウルカヌスに捧げる神殿がありました。壁は赤く塗られており、4神の浅浮彫が飾られていました。オリジナルは現在ナポリの考古学博物館に保管されています。見た記憶ないけれど・・・
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その先にもアーチ状の部屋がありましたが、解説なし。沢山の柱が残っているところを見ると、こちらにも立派な建物が建っていたようです。
聖なるエリアには、町に関わる重要な会議が開かれる集会用の部屋があったという記録も残っています。 -
では傾斜道を上って、町の目抜き通りへと足を進めましょう。
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町にある3本の大通りの一つカルド?を上ります。
エルコラーノは計画都市で、町は碁盤の目のように整備されています。東西の通りが3本、南北が2本。この通りは町の一番南側を東西に貫く通りです。 -
やってきたのは、ギリシャ神話の登場人物「テーレポス(Telephus)の救済の家」Casa del Rilievo di Telefo。
いくつかの建物が組み合わさった大きな家で、広さとしてはエルコラーノで二番目。先ほど彫像を見たマルコ・ノニオ・バルボの家とされています。眺望の良い家でマリーナを望むことができます。 -
こちらは古代ギリシャ建築の影響が見られる中庭に面したアトリウムです。アトリウムというのは、伝統的なローマ時代の家のメインホールに当たります。屋根で覆われている場合もあれば、中央部に開口部がある場合もあり、大抵は中央に水槽が備わっています。
こちらのアトリウムの壁や柱には赤や黄の色が鮮明に残っていますね。
柱と柱の間にぶら下がっているのは、オスチッラという大理石でできた円盤状のプレート。両面に浮彫が施してあり、悪を追い払うために用いられたものだとか。 -
オスチッラの一つを写してみました。これはサティロスかな?パーンかな?
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少々見えにくいですが、反対側にも異なったデザインが彫られていました。
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南側の壁には、ギリシャ・ネオアティック様式の、テーレポスの神話からのエピソードが描かれた浮彫が飾られていました。テーレポスは幼いころに捨てられ、後に母と再会しミューシアの王となった人物です。
テーレポス(右)はトロイと間違えてミューシアを攻撃したアキレス(左)の投げた槍で太ももに深手を負いますが、傷がどうしても癒えず、アポロンの神託により、傷をつけた者の槍によってのみ癒されると告げられます。
このレリーフは、テーレポスがトロイに行く道をアキレスに教える代わりに彼の槍で傷を治してもらっている場面だそうです。 -
続いての「鹿の家」Casa dei Verviは最も豪華なウォーターフロントの屋敷ですが、入場できませんでした。後の時代にこの屋敷内で発見された食パンにつけられていたスタンプから、屋敷の主がヴェルスという人物であると特定できたとのことですよ。パンの化石だったに違いありませんね。
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「布の家」casa della stoffaには、半分炭になった木製の階段が保存されていました。エルコラーノには2階建て、3階建ての家が多かったそうです。1階部分が比較的無傷で残っているのは、そのおかげだと思います。
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壁には比較的クリアなフレスコが残っていました。
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カルド?通りの風景です。
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プリアポス食堂Taverna di Priapo。プリアポスはギリシャ神話に出てくる羊飼い。とても大きな男性シンボルを持っているのが特徴です。そういえば考古学博物館にも沢山いましたね。食堂の名前にふさわしいかどうかは???
タベルナでは食堂という機能のほか、食べ物や日用品などの販売も行っていたそうです。こちらのタベルナの特記事項としては、クルミが入っているのが見つかったこの半分壊れた甕。そして・・・ -
こちらの壁のフレスコ画です。このお店では温かい食べ物と飲み物が提供されていました。当時の人々は昼食を外で取るのが習慣だったようで、この辺りには「タベルナ」が何軒も続いていました。町が豊かだったということが容易にわかります。
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お隣も大きなタベルナGrande Tavernaです。ここには大理石のカウンターがあり、大きな甕がいくつもその中に収められていました。奥に大理石の二段の棚も見えますね。棚の上には食べ物と飲み物のコンテナーがずらりと並べられていました。
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食べるな・・・ではないタベルナが続きます。こちらは陶器のタベルナTaverna Vasariaと呼ばれるお店。この店からはギリシャ製のワインを入れたアンフォラと呼ばれる陶器製の壺が多く見つかりました。このことから、店はいわゆる酒を売る酒場ではなく、当時カンパニア州で大量に作られていたアンフォラやテラコッタ等を販売する店だったと考えられています。
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町でいくつも見かけた水飲み場の一つです。川の神のような風貌の持ち主が水を吐きだしています。
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次にやってきたのは、パレストラPalestraと呼ばれる主としてスポーツ競技に使われた複合施設です。アウグストゥスの時代(BC27〜14)に建てられました。2本の大きな柱のあるのが特徴的です。柱の前がカルド?通り。奥に続いている通りがデクマノ通りです。
この2本の柱があるために、過去には神殿ではないかと間違えられたことがあるそうですが、今で言うスポーツジムですね。スポーツで汗を流し、お風呂に入り、タベルナでワインを飲み食事をして、・・・本当に優雅な生活だったんですね。 -
今いるところは前室。その奥にかつてはアーチ型の屋根を持つ大きな長方形の部屋がありましたが、今は壁のみとなっています。
どういう使われ方をしていたのかは、想像力に乏しい私には難しいなあ・・・ -
残念ながら立ち入り禁止でしたが、長方形の部屋の更にその奥には、イオニア式の柱が並ぶ巨大な回廊(105m×70m)の一部を見ることが出来ました。回廊の80%は未だに溶岩に埋もれたままで、今見えているのはそのほんの一部に過ぎません。
中央部には、十字の形をした池があって、真ん中にはブロンズ製のレルナのヒュドラ(ヘラクレスの12の功業に出てくる頭が9つもある大蛇)を形どった噴水があったとのことです。 -
回廊の南西角の部分のみ屋根が一部残っていました。
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沢山のお店が連なっているカルド?通りを更にぶらつきます。エルコラーノでは様々な建材が見つかったと冒頭で書きましたが、こうした類の建築資材が多く残されていたようです。
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煮炊きできる竈だけぽつりと残っていました。この辺りの住宅については解説なしです。
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またありましたよ。大理石のカウンターつきタベルナが! ポンペイでも見かけたような記憶が蘇ってきました。この中に先が尖ったワインの入ったアンフォラを入れて、客にサーヴしたとガイドに説明を受けたのを思い出しました。
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こちらは、町で2軒確認されているパン屋Pistrinumのうちの一つです。
写真は2台の製粉機。奥の製粉機に開いている穴は粉を挽くときに使う木の棒を差し込むためのものです。多分ロバを使って挽いていたのでしょう。
ここには店部分がないので、純然たるパン焼きの仕事だけを行っていた様です。焼きあがったパンは他のお店や旅商人などに売られたと考えられています。 -
パン屋の住居は2階部分まで綺麗に壁が残っていました。
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内部には大きな窯がありましたよ。今あるナポリのピッツァ窯とそう変わらない造りです。
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美しい石畳と、一段高くなった歩道部分が続くカルド?通りです。
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列柱のある歩道部分。ここはアーケードになっていたのかな?
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「コリント式柱のアトリウムのある家」casa dell'atrio corinzio。
6本のコリント式柱頭を持つ柱が中庭をぐるりと囲むアトリウムが魅力の家だったのですが、ここも修復中で入場できず。 -
こんなに背の高い建物も残っていました。
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溶岩を取り除いたのは良いが、その後風雨で崩壊したということがあってはならないので、継続的に修復が必要なことはわかってはいるのですが、至る所で修復中です。
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カルド?通りから横道のデクマノ小通りに入り、しばらく進むと、特徴的な大きな門を持つ家が見えてきます。この門は62年の地震以降に建てられたものですが、石灰華で作られたギリシャ風のイオニア式柱頭は以前のものを再利用しています。
勝利の女神がついている柱頭は素晴らしく、屋敷の主が再利用したわけが分かりました。ここは入れそうです。 -
門を入った先にあったのは、ギリシャ風のオエクスと呼ばれる居間です。通常、夕食を摂るところだそうです。ここでも赤いフレスコ画が壁面を覆っていました。
このフレスコは皇帝ネロの治世の終わりから68年頃までに良く見られた様式だそうです。第4期様式と呼ばれ、建築物が描かれていることが多いのが特徴です。 -
中央部分にある四角い部分の絵の拡大です。4人の人物がいることはわかりますね。左端に小さな彫像が見えます。
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こちらは二つあったベッドルームのうちの一つです。赤い柱の様な縦の線が特徴的ですね。
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こちらも中央部分を接写。二羽の鳥が木の実をついばんでいるシーンです。
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もう一つのベッドルームには、素晴らしい状態のブルーのフレスコが残っていました。上部にはやはり第4期様式の建物が描かれているようですね。今日見た中では最良の部類に入ります。中央のドレープがの部分はほぼ完璧!
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床はご覧のようなモザイクが敷き詰められています。こちらも完璧!
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L字型をした前庭からベッドルームを撮った1枚。左側奥に小さな噴水がある中庭が見えます。
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2000年前の両側に歩道のある石畳の道とその彼方に広がる現代住宅。なかなか面白い構図だと勝手に自己満足。
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先を急ぎましょう。
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デクマノ小通りからカルド?通りを右折します。もう驚かなくなった大理石のカウンターですが、こちらのには甕が入っている穴はありませんね。ということは、食堂ではなくて小売店かしら?
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2階部分が残っている家発見!
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エルコラーノの町の一番東側を通るデクマノ大通りにやってきました。なるほど今までで一番幅の広い道です。一番奥にクアドリフロンテ門が見えます。
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こちらの水飲み場、まるで誰かがお風呂に入っているように見えますね。
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デクマノ大通りの左側と・・・
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右側です。こちらの大きな建物は一体何でしょうか?こちらについても何も書いてありません。
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可愛い椅子みっけ!
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こんなに立派な建物が、地図にも案内書にも出ていないなんて・・・???
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梁に注目ください! 手前も奥の梁も完全に炭になっていて真っ黒ですよ! この辺りが激しく燃えたようですね。
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炭になった梁は、道路の反対側にも見られました。木造って案外火災に強いんですよ。鉄骨がぐにゃりと曲がっても、木は炭化して残ると聞いたことがあります。
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水飲み場その3です。
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この水飲み場は両側から水が飲めるようになっていました。
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「黒いサロンのある家」Casa del salone neroは、豪華な邸宅の一つと聞いているので入ってみましょう。
入り口にあるこちらの絵は、隣接するお店の看板です。 -
入口は狭いですが、奥に長い、ウナギの寝床のような家でした。こちらはアトリウムを臨む部屋の一つですが、こちらのフレスコはかなり傷んでいました。
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列柱でぐるりと四方を囲まれた中庭(ペリスタイル)です。床には灰色と黒のドットのあるモザイクが残っていました。この中庭に面して、リビングルーム、ベッドルームがゆったりと配置されていました。確かに豪邸です。
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奥のベッドルームの比較的状態の良いフレスコです。こちらも第四期様式ですね。
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こちらが中庭の西側にあった、この家の名前の由来となった黒いサロンです。同じく第四期様式です。
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黒いサロンはアーチ型をしたヴォールト天井になっていました。状態は悪いですが、天井も黒地に幾何学模様で飾られていました。
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この壺は綺麗に残っていましたよ。ここで初めて、フレスコの厚みを直に観察することが出来ました。思っていたより厚かった・・・
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白地に赤。こちらも壺がテーマです。
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2000年前はどんなにか綺麗だったろうと想像力を掻き立てるベッドルーム。ヴォールトの装飾も見事です。
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表の壺の看板のところに戻ってきました。色の異なる壺の中身は勿論ワイン。こちらのお店では4種類のワインを売っているというわけです。ククマスというお店のでしたよ。
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この商店には炭化した梁と中2階のロフトが残っていて、今までのお店とは趣が変わっていました。ロフトには階段で上れるようになっていたそうです。
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「トスカーナ風列柱のある家」Casa del Colonnato Tuscanicoです。
トスカーナ地方の山岳地帯に住んでいたサムニウム族の文化(紀元前600年〜紀元前290年)の時代に建てられた格式ある貴族の館と言われています。家の主は1世紀に土地を買い増しし、そこに新たなトスカーナ風列柱と庭を作ったようです。
家の玄関の両脇に店がありますが、こちらは状態の良い方のお店の中です。
このフレスコは第三期様式と呼ばれていて、赤い地の上に青と白のパネルが額縁のように並んでいます。第三期様式はアウグストゥスの治世の終わり頃から始まった様式で、エジプト風のカラフルな色彩が特徴で、エジプト様式とも呼ばれています。 -
ギリシャ神話に出てくる豊饒の角を携えた男性が描かれていました。柱の上にはスフィンクスがいます。
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生贄にする牛を運ぶ場面でしょうか?
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アトリウムとその西側のメインベッドルーム(タブリヌム)です。ベッドルームのフレスコは62年の地震後に描き直されたようですが、状態が悪く、左右の壁に第四期様式で描かれたフレスコがかろうじて残っていました。
この奥にはもっと美しいフレスコがあったらしいのですが、私はさっさと出てきてしまったようです。先ほど道路の端に見えた門が気になったのです。 -
先ほど、デクマノ大通りの一番奥に見えたクアドリフロンテ門にやってきました。
門の奥にはまだその殆どが溶岩に埋もれたままの聖堂(バシリカ)があるそうです。ローマ皇帝への祈りを捧げた場所だったようで、聖堂と呼ぶのにふさわしいかどうかはいまだに論議の的になっています。クアドリフロンテ門はそのファサード前のアーケードを構成する一部だったようで、二つの門がペアで両脇についていました。
聖堂については入り口でもらった案内では一切触れていないので、ウィキペディアを参考にしました。聖堂のファサードではたくさんの彫像が見つかっています。あそこに座っている方は十字架を手にしていますが、ヴェスヴィオスが噴火した頃、エルコラーノではローマやギリシャの神々への信仰が主流だったと思われます。 -
一部分だけ天井の装飾が残っていました。
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アウグステウムと呼ばれていた聖堂は1754年にはその存在を知られていました。とてつもなく大きな建物で、長さ60m、幅40m、出入り口が5つもありました。(写真左上)
今地上に出ているのは正面の入り口部分だけで、そこにあったニッチェから、リヴィア・ドルシッラ、アグリッパ、ゲルマニクス、町の長老マルコ・ノニオ・バルボの家族など多数の彫像が見つかっています。現在彫像やフレスコ類はナポリの国立考古学博物館にあります。 -
クアドリフロンテ門の内側に残されていた装飾です。
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そしてこちらが「寝そべるサティロス」。
長くなりましたので、ここで一休みしましょうか?
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その42 エルコラーノ2で!!
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