2015/05/15 - 2015/05/15
206位(同エリア1379件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
ダンテ広場からR4のバスで丘の上のカポディモンテに向かいます。話には聞いていましたが、ナポリのバスダイヤはほぼいい加減。時間通りには絶対来ないと断言できます。
やってきたバスは超満員。一台のバスに一つか二つしかない乗車時刻打刻機のそばにはまったく行けませんでした。私はアルテカードがあるからいいんだけれど、乗客の誰一人それを気にする人もいないようでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
丘を上り始めてしばらくたつと、誰もが必ず目を見張るのが、こちらの立派な、ローマのサン・ピエトロ大聖堂かと見紛う教会マードレ・デル・ブォン・コンシーリオ。英語に直すとグッド・カウンセラーの聖母。日本語ではなんと呼べば良いのでしょうか?
この教会の裏手には、サン・ジェンナーロのカタコンブがあり、こちらの方が広く知られています。アルテカードが使えますが、1日数回のガイドツアーでのみ入場可能です。
今回はここも泣く泣くパス。次回のナポリは、地下に徹するぞ!! -
バスが非常に混んでいたので運転手のそばまで行けず、隣にいたおじさんに、「カポディモンテはどこで降りたらいい?」と尋ねたところ、瞬く間に近くにいた乗客数人が「次だ!」、「いや、〇〇の方がいい」等口々に声を発し始めたのでびっくり!
これも話には聞いていたのですが、ナポリの人々の親切なこと というかお節介ぶりは感動モノです。本人の意向に関係なく話は進行していって、結局「ここだ!」と言われてバスを降りた時には、一緒に降りた人が美術館入り口まで案内するという話まで決まっていたようです。
親切な案内人のおかげで、スムーズに美術館までやってくることが出来ましたが、結構歩いたような記憶。ナポリ人の温かさはその後も何度も肌で感じましたよ。 -
さて、こちらの美術館は元々、一昨日訪れた考古学博物館同様、ナポリ王カルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)が母方ファルネーゼ家から受け継いだコレクションの展示をするために1738年より建て始めた宮殿でした。1815年の両シチリア王の復位後には、フェルディナンド1世が宮殿を再建拡充、1861年以降のイタリア王国時代に入るとサヴォイア家により作品数は更に増え続け、新たに歴史的な火器や武器等のコレクションも加わりました。
そして1950年には国立の美術館となり現在に至っています。 -
美術館は広大な敷地に建っているので、なかなか入り口までたどり着きません。帰るときに判明したのですが、どうやら私は一番近い正門からはやや離れたバス停で降りたようです。R4は行きと帰りでバスのルートも異なるようなのでご注意ください。
宮殿の長い廊下を端から端まで歩き、ようやく入場することが出来ました。 -
例によって例のごとく、自分の気にいった作品だけを並べてみましたので、お好きな方だけお付き合いくださいね。名作に次ぐ名作ばかりで足取りは重く、一作ごとに深い感動のため息?をついて、ノロノロと亀の如く歩みました。
ホールで出迎えてくれたのは、18世紀末のナポリの王立磁器工房(カポディモンテ焼というのだそう!)で作られた、フィリッポ・タニョリーニ作の「巨人の秋」。1787年〜98年。
この美術館もパンフレット1枚渡してくれないので、やみくもにつき進みます。 -
まずは1階。カルロス3世の息子枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ(後の教皇パウルス3世 在位:1534年〜1549年)のコレクションが並ぶガッレリアから。
いきなり、ファルネーゼ・ジャスティス」と呼ばれているジョルジョ・ヴァザーリの「正義、美徳と悪徳の寓話」からスタートです。1543年。
ローマのカンチェレッリア宮殿の最初の部屋を飾るために枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼにより委嘱された作品です。中央のダチョウと12の石板を抱えているのが正義。7つの大罪は、彼女の腰にぶら下げられたチェーンにより括りつけられています。 -
ラファエロ・サンツィオの作品で、「枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの肖像」。右手に持っているのは手紙だそうです。1509年〜11年。ファルネーゼ・コレクション。
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ティッツィアーノ(ティッツィアーノ・ヴェチェッリオ)の「パウルス3世と彼の孫たち=息子ピエール・ルイージの長男アレッサンドロ<左)と次男オッタヴィオ(右)」。1545年〜46年。上の肖像から35年ほど経過した計算になります。パウルス3世の本名と同じ名前を持つ孫アレッサンドロ・ファルネーゼも枢機卿の衣をまとっていますね。ファルネーゼ・コレクション。
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そしてこちらは、ティッツィアーノが描いたその「アレッサンドロ・ファルネーゼ(孫)の肖像」。上の作品と同じ1545年〜46年の制作です。この方なんと!14歳で枢機卿になったそうですよ。長男なのに、家を継がずに聖職者の道に入りました。これは彼が25、6歳の頃の肖像です。ファルネーゼ・コレクション。
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アンドレア・デル・サルト(本名アンドレア・ダニョーロ)の「教皇レオ10世(在位 1513年〜1521年)と二人の枢機卿(ジュリオ・デ・メディチとルイジ・デ・ロッシ)」。サルトはフィレンツェ出身で、メディチ家出身の教皇レオ10世を描いたこの作品は、ラファエッロのオリジナルの模写で、オリジナルはウフィツィにあります。ファルネーゼ・コレクション。1525年。
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こちらが、コレクションのパトロンのパウルス3世の胸像です。ギィリィエルモ・デッラ・ポルタの1560年の作品です。ファルネーゼ・コレクション。
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あまり代わり映えしないけれど、もう一つみっけ!ファルネーゼ・コレクション。
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こちらは年代を遡って、aquisizione post-unitariaという別のコレクションです。
わずか28歳で亡くなった初期ルネッサンスの画家マサッチョの「キリストの磔刑」1426年。ピサのカルミネ聖堂の中にある礼拝堂のために描かれた作品です。右側に立つキリストの愛弟子聖ヨハネの深い悲しみの表情が忘れられません。 -
「サンタ・マリア・マッジョーレの建立」マソリーノ・ダ・パニカーレの1420年の作品です。
ローマに招かれたマソリーノはサンタ・マリア・マッジョーレの主祭壇画を制作しました。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレは8月5日の真夏に雪が降ったエスクイリーノの丘に大聖堂を建てたんでしたね。
画家はこの奇跡を再現し、雪の地面に教会の平面図を描く教皇の姿を描いています。キリストとマリアがそれを見つめていますね。 -
マソリーノの作品からもう1点 「聖母の被昇天」です。1423年〜28年。上の作品、その他と合わせてトリプティク(三枚の板に描かれた祭壇用の聖画像)を構成していました。この作品が中央部分に当たります。
一番上にキリスト。そして聖母の周りをぐるりと取り囲む天使達。下の方にいる4人の黒衣の天使達は楽器を奏でています。とても珍しい構図ですね。
この2枚はファルネーゼ・コレクションです。 -
こちらは、ブルボン(家)・コレクション。ヴェネツィアの画家一家の家に生まれたアルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ作「アッシジのフランチェスコ、シエナのベルナルディーノと共にいる聖母子」1485年です。幼子の自然なあどけない表情が気にいっています。
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もう1枚ブルボン(イタリア語でボルボニコ)・コレクションです。バルトロメオ・ヴィヴァリーニの「聖母子」です。1465年。
この絵には、沢山の聖人が描かれています。聖アゴスティーノ、聖ロッコ、トゥールーズの聖ルイ、バーリの聖ニコラ、空には、聖カテリナ、聖ドメニコ、殉教者ピエトロ、そしてマグダラのマリアが浮かんでいます。 -
折角の名画もこうなってはお終い・・・という写真で済みません!
ルネッサンスヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニの「キリストの変容」です。1480年。キリストの両脇にいるのは、モーゼとエリヤ。前方で腰を抜かしているのは、左から聖ヤコブ、聖ペトロ(ピエトロ)、使徒聖ヨハネです。ヤコブとヨハネはともにゼベダイの子で兄弟です。ペトロとアンデレの兄弟同様、ガリラヤ湖で漁師をしていました。 -
ロレンツォ・ロットの「ベルナルド・デ・ロッシの肖像」。1505年。
ヴェネツィア生まれの画家の25歳の時の作品です。控えめな彩色がかえって人物を引き立たせているように感じます。 -
マルチェロ・ヴェヌスティの「最後の審判」1549年。
ヴァチカンシスティーナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコを模写した中では最も重要とされている1枚です。
1549年に枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ(孫)が直接ヴェヌスティに依頼したものです。ファルネーゼ・コレクション。 -
セバスティアーノ・デル・ピオンボ作 「ヴェールの聖母」。1530年。
これは文句なく美しいです。透明に近いヴェールがたなびく様まで伝わってきます。ビオンボによる同名の絵画の第2作で、もう1点はチェコのプラハにあります。一時ドイツに略奪され、オーストリアの塩鉱アルトアウスゼーに隠されていた絵画のうちの1点です。左下部分が未完成と言う説もあります。 -
ジュリオ・ロマーノ作「猫の聖母」。1519年〜20年。
とても興味深い作品です。登場人物は聖母、幼子のキリスト、洗礼者ヨハネ、聖母の隣で面白くなさそうに頬杖をついているのが聖アンナ(マリアの母)、そして、玄関から入っている途中なのが聖ヨセフ、そして猫です。
ファミリードラマの一場面みたいですが、右下のやぶにらみの猫の存在はどう解釈すれば良いのでしょう? -
ラファエッロ・サンツィオの「聖母子」の模写です。1520年〜30年。こちらはブルボン(ボルボニコ)・コレクションと書いてありました。
このオリジナルを探しているのですが、今のところ見つかっていません。コピーであろうとなかろうとうっとりです。 -
こちらはラファエッロ・サンツィオとジョヴァン・フランチェスコ・ペンニの「複製」と書かれていました。「洗礼者ヨハネがいる聖家族」別名「散歩の聖母」というタイトルがつけられています。1518年〜20年。
いつ見てもヨセフは離れたところにいて、付け足しのように描かれるのは気に食わないなあ・・・幼子キリストとヨハネのじゃれ合いがほほえましいです。こちらはファルネーゼ・コレクションです。 -
イアポコ・カルッチ作「生贄の場面」1545年。
変わった作品です。生贄となった羊とそれを見守る人々の様子が生々しく伝わってきます。右側手前の老人は体を折り曲げて、生贄台座に書かれた文字を読もうとしているかのように見えます。ファルネーゼ・コレクション。 -
アンドレア・ブレスチアニーノ作「洗礼者ヨハネと聖母子」1510年〜25年。
かなり傷んだ部分がある絵ですが、聖母の髪飾りの形が新鮮。透明なベールが聖母と幼子の体をミステリアスに覆っているのが印象的です。ファルネーゼ・コレクション。 -
フラ・バルトロメオ作 「洗礼者ヨハネとアレクサンドリアの聖カタリナnoいる聖母被昇天」。フラ・バルトロメオはフィレンツェ出身で、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらと同時代の画家です。
彼はフラ・アンジェリコがいたフィレンツェのサン・マルコ修道院に修道士として入り、サヴォナローラに傾倒した時期があるそうです。ブルボン・コレクション。 -
イル・ブレスチアニーノ作「聖母子と洗礼者ヨハネ」1514年〜15年。本名はアンドレア・ピッチネッリ。ブレスチアニーノはダンサーだった父親の出身地だそうです。同じく画家だった弟ラファエッロと主にシエナで過ごしました。
彼は聖母子とヨハネの絵を何点も手掛けています。華奢な聖母が支え切れないような発育過多なキリストです。ブルボン・コレクション。 -
ロッソ・フィオレンティーノ作 「カーペットに座る若い男の肖像」。ファルネーゼ・コレクション。画家はカーペットを敷いた小さなテーブルに座る男性を描いています。彼の一風変わったファッションと、彼の背後のマントルピースがなぜかとてもマッチしているように思えます。1525年。
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「ジューリオ・クロヴィオの肖像」。ファルネーゼ・コレクション。エル・グレコが16世紀の最も偉大なクロアチア生まれの細密画家ジューリオ・クロヴィオを描いた1枚です。1571年〜72年。クロヴィオはその手のなかにある、彼の作品の一つ「時祷書」il libro d'oreをさし示しています。
エル・グレコはクロヴィオの仲介によって、1570年ファルネーゼ宮にやってきたとのことですから、この絵には、彼に対する感謝の気持ちが溢れているように思います。
il libro d'oreは現在ニューヨークのピアポント・モーガン図書館にあるそうです。 -
ヴェネツィア派の巨匠ティッツィアーノ・コレクションです。
「ある少女の肖像」ティッツィアーノの娘ラヴィニアを描いた1枚とも言われています。1545年。 -
ティッツィアーノの「マグダラのマリア」。1565年。ファルネーゼ・コレクションに加えられたのは1567年のことです。
ティッツィアーノは1532年に乳房をあらわにしたマグダラのマリアを描き、その後も何枚か同じ絵(乳房は隠されている)を手掛けています。ティッツィアーノが亡くなるまで自宅で保管していた1枚は現在、エルミタージュ(サンクトペテルズブルグ)の最高傑作と呼ばれています。この絵とは背景が異なっています。 -
ティツィアーノの「ダナエ」。1544年〜45年。こちらも何枚か異なるヴァージョンがあります。
画家がファルネーゼ家のために描いたダナエ(ギリシア神話に登場するアルゴスの王女)です。ダナエは黄金に変身したゼウスに愛されて、英雄ペルセウスを生んだとされています。中央上から黄金のコインが降っているのがわかりますか? -
エル・グレコの「燃え木で蝋燭を灯す少年」。光が反射するので、けったいな構図となってしまいました。1570年〜72年。
かすかな光の中で浮かび上がる少年の表情に見とれてしまいました。 -
フェッラーラ生まれの画家ベンヴェヌート・ティシィ・ダ・ガロファロの「聖セバスティアーノ」。1520年〜25年。
セバスティアーノを覆うグリーンの布の色が大変鮮やかで目を惹きます。ローマのカピトリーノ美術館で見た彼のもう1枚の聖セバスティアーノよりは、こちらの方が好みです。 -
ちなみに、こちらが、ローマのカピトリーノ美術館にあったガロファロの「聖セバスティアーノ」1510年ですので、上の作品より10年以上古い作品です。
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「アンテア」 またのタイトルを「若い女性の肖像」と言うパルミジャニーノの傑作です。1524年〜27年。
こちらも第二次大戦中ドイツ軍によってベルリンに持ち去られ、その後オーストリアのアルタウスゼーの塩鉱で発見され、1945年にイタリアに戻ってきた作品です。 -
パルミジャニーノの「ルクレツィア」1540年。彼女の右手が握っているナイフの刃先は、すでに自身の肉体を切り裂いています。凌辱されたルクレツィアが自害する瞬間ですが、彼女の顔はあくまでも平静で、少しの迷いもないように見えます。少し上気したピンクの頬が印象的です。
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ジローラモ・ダ・カルピ作「ある紳士の肖像」1535年。
本日のイケメンNo.1に決定! この黒づくめの服はどういった衣装なのでしょう?左手で握っているステッキを見ても、相当裕福な階級のお方だと推察されます。袖口から覗いたフリルがバッチリアクセントとして決まっています。 -
ジョヴァンニ・アゴスティーノ・ダ・ロディ作「信者と共にいる聖母子」。1505年。
ロディの描く人物は、この聖母と幼子のように丸い大きな出目であることが多いです。少々違和感を覚えてしまいます。 -
「幼子の礼拝」ヤコブ・ファン・オーストザネン(北オランダ出身)1512年。
詳細が分かっていない画家の一人で、200枚の木版画と27枚の絵画を残していますが、こちらはその中の1枚です。こちらはブルボン家コレクション。 -
ベルナールト・ファン・オルレイ作「スペイン王カルロス5世の肖像」。1515年。
一見東洋風の容貌のカルロス5世の顔に注目したら、その後彼の顔が忘れられなくなりました。とんがった顎と共に非常に目を惹く顔ですよね。
オルレイはフランドル出身の画家で、1515年以降各地の王族や宮廷から肖像画の依頼を受けるようになりました。彼はこのカルロス5世の肖像を7枚描いているそうです。翌年の1516年、カルロス5世は神聖ローマ帝国の皇帝にもなります。 -
「盲人の寓話」 巨匠ペーター・ブリューゲル(父)の作品。1568年。盲人が盲人を案内するとどちらも終いには穴に落ちてしまうという寓話を描いた有名な作品ですね。
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こちらもペーター・ブリューゲル(父)の作品「人間嫌い」1568年。後ろの男の子は、前の黒い法服を着た男性の財布をかすめ取ろうとしています。黒服の聖職者はこれでますます人間嫌いになるのでしょうか?
ブリューゲルのコーナーは、ガラスが反射して、私のカメラでなくとも上手く写真が撮れない環境でした。 -
フランドルの画家が続きます。こちらは見ているだけで楽しい「広場の市場」という題名の絵画です。名前が読めないのですが、Joachim Beuckelaer ヨアヒム・ベーケラールで良いのかしら? 制作年は不明の様です。ファルネーゼ・コレクション。
フランドルの町の日常生活の一端を垣間見たような、ほっとした気分にさせてくれます。 -
こちらも同じ画家の「田舎の市場」。1566年。ファルネーゼ・コレクション。でっかいカボチャ、アーティチョーク、カリフラワー、ベリーなど今も野菜はあまり変わっていません。羊やウサギ、鶏は丸のまま。左下にはチーズも見えます。馴れ馴れしく肩を抱いているこの男性と前列の女性は夫婦ですかね?
何? 余計なお世話? はいはい。 -
ここからは、ファルネーゼ・コレクションの中でも枚数を占める、アゴスティーノとアンニバーレ・カラッチ兄弟とその弟子たちの絵画が続きます。
アンニバーレ・カラッチの「聖カタリナの神秘の結婚」。1586年。
やわらかい光の中で、伏し目がちな聖カタリナの口元にかすかな微笑みが感じられました。人生最高の瞬間に違いありません。歳の差なんて・・・ -
アゴスティーノ・カラッチ作「デモクリトス」。画家で版画家であるアゴスティーノ・カラッチは、同じく画家であるアンニバーレ・カラッチの実兄。
哲学者デモクリトスが世界の愚かさを笑っている場面を描いたこの1枚は、同じ哲学者ヘラクレイトスが世界の愚かさに泣いている姿とよく対比されます。1598年。 -
ジョヴァンニ・ランフランコ「マグダラのマリアの昇天」
とても気にいった絵の一つです。アンニバーレ・カラッチとその弟子ら(ランフランコやドメニキーノが含まれています)はファルネーゼ宮の天井装飾を終えた直後、今度は宮殿の背後にある小宮殿の装飾を依頼されました。
この絵は、ランフランコがその時に描いた4枚のフレスコ画、9枚の天井パネルのうち、現存する2枚のうちの1枚です。天使に支えられて、マグダラのマリアが天に導かれていく様子が描かれています。構図が素晴らしい!1605年。 -
アンニーバレ・カラッチ 「ヘラクレスの選択」。1596年。
快楽を象徴する女神(右)と苦難を象徴する女神<左>の間で、究極の選択に苦慮するヘラクレスの表情が面白いです。 -
アンニバーレ・カラッチ作「川の寓意像」1590年代。
水汲みに忙しいムキムキの全裸の男性が画面いっぱいに描かれています。ローマでたくさん見た川の神の像とは一味もふた味も異なりますね。カラッチはティッツィアーノをはじめとするヴェネツィア派に深く影響されてこれを描いたと言われています。 -
アンニバーレ・カラッチ「リナルドとアルミーダ」。1601年。
リナルドとアルミーダは、16世紀末頃にイタリアの詩人トルクアート・タッソーによって書かれた叙事詩「解放されたエルサレム」の登場人物です。魔法使いのアルミーダが、第1回十字軍に参加した若い兵士のリナルドを誘惑している場面は、多くの画家によって描かれています。アルミーダは魔法を使って、リカルドをそそのかしたのに、その後本当に彼を恋してしまうのです。 -
アンニバーレ・カラッチ「サティロス」。1588年〜89年。獣の足をしたサティロスの笑いは少々不気味ですね。
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アゴスティーノ・カラッチ「聖ヒエロニムス」。1600年。彼の晩年の作で、肉体の描写がドラマティックで、赤い布はかえって不自然に思えます。
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アゴステイーノ・カラッチ「洗礼者ヨハネとマグダラのマリアとともにいる聖家族」。1600年。
いつも同じくらいの年齢に描かれる洗礼者ヨハネは、この絵では立派な少年になっています。アゴスティーノの晩年に描かれた1枚です。 -
メインフロアの奥は、王宮らしい佇まいを残していました。アパルトメントの入口です。床まで届くドレス姿でないと似合わない感じ・・・
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ナポリ王カルロ7世(のちのスペイン王カルロス3世)が1938年に建て始めたこの建物は、フランス皇帝ナポレオン1世の浮名が絶えぬ妹カロリーヌ・ボナパルトをナポリ君主として迎えた頃に、ロイヤル・レジデンスとしての黄金期を迎えます。
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19世紀に入ると、フェルディナンド2世は新しい外観を欲し、舞踏の間を穏やかでかつ豪華なネオクラシック様式で装飾、南ウイングにある寝室の一部をナポリ湾を見下ろすことができるポンペイ・パーラーに模様替えを行いました。
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こんなところにグイド・レーニがありました!「四季」ブルボン・コレクションです。
1617年〜20年にボローニャで描かれたもので、四季のアレゴリー(寓意)である女性達の艶めかしい光を帯びた白い肌が薄暗いアパルトメントの中で輝いて見えました。
最も大胆に肌を見せているのが夏、コートを着て去っていくのが冬ですかねえ? -
これまでと打って変わった、懐かしささえ感じるヴェネツィアの風景を眺めて一休みしましょう。
ミケーレ・マリエスキの「ヴェネツィアの風景とサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会」。1744年〜46年の作品です。表面上は、今とあまり変わっていないところが嬉しいですね。 -
こちらも同じマリエスキの「ドゥカーレ宮殿」。1744年〜46年です。ドゥカーレ宮殿の前に停泊している、変わった形の船が気になります。
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ヴェローナ出身のマルカントニオ・バセッティ作「天国」。制作は1621年よりは前と書いてありました。ブルボン・コレクション。
いつも同じことばかり書いてますが、こちらの天国も思いっきり混雑していますよ。こんなところ行きたいですかねえ・・・ -
ゆりかごの部屋 sala della culla。今までの部屋で一番大きな部屋なのに、ゆりかごには広すぎます!
サヴォイア家のヴィットリオ・エマニュエーレ3世(2世ではない)が1869年にカゼルタの宮殿で誕生したことを記念して名づけられたそうです。床は、カプリのヴィッラ・ジョヴィスから運ばれた大理石でできています。そのためか、立ち入りできませんでした。 -
燭台も凝っています。
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こちらの青い壁紙の部屋アパルトメント・レアレには壁<左側)には、「ブルボン家のカルロがローマのサン・ピエトロを訪れた」というタイトルのジョヴァンニ・パオロ・パニーニの絵が飾られていました。1746年。
中央の大きな絵は、「ハンター姿のカルロ(カルロス)3世」。アントニオ・セバスティアーノ作。 -
同じ部屋にあった、ドイツの画家アントン・ラファエル・メングスによる「ブルボン家のフェルディナンド4世9歳の肖像」1760年。
大変ややっこしいですが、カルロス3世が1759年にスペイン王に即位したため、彼の三男が8歳でナポリ王、及びシチリア王フェルディナンド3世になったというわけです。つまり、この肖像画が描かれた9歳の時にすでに王様になっていたということ! そして彼はのちに両シチリア王フェルディナンド1世(1815年〜)となります。頭混乱☆彡 -
装飾が穏やかなので、ここなら心が休まりそうです。
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こちらは赤い壁紙の部屋にあった両シチリア王フランチェスコ1世(在位 1825年〜1830年)の家族の肖像画。フランチェスコ1世は8歳で即位した上の坊やの息子に当たります。ジュゼッペ・カマラーノ作。1820年。
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宮殿内で一番豪華とされるボールルームです。
建築当初はファルネーゼ・コレクションを展示するために設計されましたが、19世紀に入り、王室の権限を象徴する舞踏会場に作り替えられました。
派手派手しさは影を潜め、明るい南国的な装飾はサルヴァトーレ・ジュウシティの設計によるものです。中央のクリスタルのシャンデリアが見事。 -
この建物には二つの顔があります。美術館と王の住まいです。ここで、5代のブルボン家の王、2代のフランスの王、2代のアオスタの公爵が暮らしました。ただ、ここは町の中心に出るのが不便で、水不足に陥ることも多かったため、カルロス3世やフェルディナンド4世は町の中心にある王宮、ポルティチヤカゼルタの宮殿に住むことを好みました。
美術館の解説より -
食堂の間。カポディモンテ焼の人形コレクションがあちこちに飾られていました。
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これは食堂にあったものではないと思いますが、素晴らしいカポディモンテ焼のコレクションですよ。アラビアの商人や北アフリカのベルベル人らしい身なりの人々、象もいますよ。
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なんとにぎやかな聖誕の場面ですこと。 「天使の栄光と共にある聖誕」と名付けられた1986年の作品です。
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カポディモンテ焼のタイルで飾られたシノワズリーの間。
いや〜少々くどいですが、それはそれは見事なタイル造りの部屋でした。以前、スペインのアランフェスの宮殿で同様のものを見た記憶があります。中国風の装飾(シノワズリー)も似ていた気がします。見比べてみたいけれど撮影禁止だったため、残念ながらアランフェスの写真はありませんでした。
3000枚以上のタイルが使われているそうです。1757年〜59年の間に、ジョヴァンニ・バッティスティ・ナタリ」がポルティシの宮殿にカルロ3世の妃マリア・アマリアのために制作したものを1886年にカポディモンテに移築したものです。 -
その後の部屋では、ナポレオン1世の肖像画や、アントニオ・カノーヴァ作の「微笑むラモリーノ・ボナパルトの彫像などがありましたが、全てぼけていたので没(泣)!
ジャンボローニャの「サビニの女の略奪」。フィレンツェの有名な彫像しか知らず、こんなヴァージョンがあったことをはじめてここで知りました。 -
磁器ギャラリーを少しだけ紹介。カポディモンテ焼のお皿です。1860年以前は食卓用の磁器を作っていましたが、1873年にヴィットリオ・エマニュエーレ3世の命を受け、アンニバーレ・サッコにより、磁器美術館としての制作を続けてきたそうです。
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ブルボン家の紋章百合の入ったお皿がずらり・・・
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16世紀の金細工作家ジョヴァンニ・ベルナルディらによる浅浮彫が多用された箱。
なんとこの箱、四隅には、アマゾンの様な戦士、ケンタウロスと戦うマルス、女神ダイアナ、酒の神バッカスがいて、その下の足はスフィンクスになっています! そして蓋には岩に腰を下ろしたヘラクレス。他にも色々・・・
多分宝石箱として使われたのではないか? と言われている、今でも使い道が判明していない箱なのだそうです。「カゼッタ・ファルネーゼ」と呼ばれていました。 -
コイン・コレクションだったかな?
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象嵌細工や・・・
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見事な陶器もありました。
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1528年から31年の間に行われたパヴィアの戦い他全7作品が展示されているタペストリールーム sala degli arazziを抜けて次のコーナーに移ります。
もう周る順番がすっかりわからなくなっています。 -
「謙遜のマドンナ」はmaestro delle tempere francescaneの作と書かれていました。これはどう訳すのでしょうね?フランシスコ会のテンペラ画技術集団とでも言えば良いのでしょうか? どなたかご存知ならお教えください。1350年〜55年。左側に小さく描かれているのは、聖ドメニコと寄進者です。
この聖母は、どこか拗ねているように見えませんか? -
「キリストの受難」をモチーフとした素晴らしいトリプティク(主祭壇に置かれる三連の聖画)が残っていました。浅浮彫と透かし彫りが見事です。15世紀半ば。なんとこれは英国ノッティンガムから運ばれたものだそうです。白い部分はアラバスター大理石製。
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シモーネ・マルティーニ作 「トゥールーズの聖ルイが彼の兄弟ロベルト・ダンジューを戴冠している場面」1317年。
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これは大変有名な1枚。コラントニオ作「書斎のヒエロニムス」1444年。
ライオンのとげを抜いているヒエロニムスです。このお話は、ヤコブス・デ・ウォラーギネが書いた「黄金伝説」を元にしていて、その真偽は不明です。ある日ヒエロニムスが修道士に聖書を説いていると、傷ついたライオンが現れ、その傷ついた足をヒエロニムスが治したというものですが、この話は様々な絵画、彫刻に好んで取り上げられてきました。。 -
マッテオ・ディ・ジョヴァンニ作「ヘデロ王のベツレヘムの幼児大虐殺」。昨年シエナの大聖堂で、最も感銘を受けた床のモザイク画の一つでした。
ユダヤの王になる運命を持った子供の誕生のニュースを知ったヘロデ王が、自分の地位を脅かされることを恐れ、 ベツレヘムと近郊の幼児を殺害させたというお話。脈絡のないたとえで恐縮ですが、南京大虐殺と同様、かなりの誇張があるのは明らかなようです。ブルボン・コレクション。 -
ステファノ・スパラーノ作「聖セバスティアーノと聖ドメニコと共にいる感謝の聖母」1507年〜08年。お気に入りのセバスティアーノがいたのでパチリ!
いくらなんでも、矢が刺さっているのに、この微笑みはないでしょう・・・ブルボン・コレクション。 -
地味だけれど、こういった浅浮彫の彫刻は好みです。右側の3枚は、キリストを中心に、左に洗礼者ヨハネ、右に聖アンデレが彫られています。ジョヴァンニ・ダ・ノラの1540年〜45年の作品です。
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2階(日本式の3階)のナポリ・ギャラリー(ガッレリア・ナポレターナ)内に入ってきました。個人的な趣味の「受胎告知」シリーズです。
ペドロ・デ・ルビアレス作。1545年。イタリア人かスペイン人か不明というこの画家、1511年頃の生まれでローマとナポリで活躍したということくらいしか、わかっていません。 -
ティッツィアーノの「受胎告知」。1560年〜65年。ティッツィアーノがナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会のために描いたものです。ティッツィアーノは受胎告知も何枚か描いていて、一番状態の良いものは現在ヴェネツィアノサン・サルヴァドールにあるそうです。
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フランチェスコ・クーリアの「受胎告知」。1596年。ルネッサンス期の画家で主にホームタウンであるナポリで活躍しました。ヴァザーリの影響を強く受けているそうです。
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シピオーネ・プルゾーネの「受胎告知」。1587年にローマで描いたこの作品、1957年に故郷に帰ってきました。ティッツィアーノの「受胎告知」に感化されました。この世のものとは思えない「光」に照らされた聖母の横顔が美しいです。
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こちらは、ジョルジョ・ヴァザーリがナポリのサン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会のために描いた複合画です。1545年〜46年。
左の1枚はひどく傷んでいますが、他の4枚は修復を経て、素晴らしく迫力があります。 -
こちらも同じくヴァザーリの作品です。サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会では、この他にも沢山のヴァザーリの傑作を見ることが出来るそうです。
個々の絵に関する情報が乏しいため、口をあんぐり開けて見るだけでした。 -
イタリア名テオドーロ・デリコとして知られるオランダ出身の画家ディルク・ヘンドリクスの「最後の晩餐」です。1585年。
容易にユダを見つけることが出来ます。左手前の人は、何を指さしているのでしょう? -
カラヴァッジョの「キリストの鞭打ち」のある部屋は、数十人の人達がいたにもかかわらず、カメラのシャッター音以外は音のない世界でした。1608年。
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この絵は、元々ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会に飾られていたそうです。
喧嘩に明け暮れたカラヴァッジョが殺人を犯し、ローマからナポリへと逃亡したのが1606年。その後マルタへと逃げて、マルタ騎士団長の庇護下に入りますが、ここでも暴行事件を起こし、シチリアへと逃亡、再びナポリに戻って、有力な貴族コロンナ家の庇護の下に入った頃の作品と思われます。
人間的には問題のあったカラヴァッジョですが、卓越した人物描写と、教会と言う舞台に置いて最大限の視覚効果を発揮する技の熟知にはただただ恐れ入るばかりです。この作品が美術館でなく、当初の教会の礼拝堂にあったら、この感動は少なくとも数倍に膨れ上がっていたはずです。 -
フィリッポ・ヴィターレ作「イサクの犠牲」1615年〜20年。レンブラントやカラヴァッジョも描いている古典的なテーマの一つ「イサクの犠牲」。ナポリ人であるヴィターレはカラヴァッジョに影響を受けた画家の一人で、イサクの他、ヒエロニムス、マグダラのマリアなどの作品がありますが、作品の殆どが個人蔵のため、今まで全くその存在を知りませんでした。イサクの目が素晴らしい!
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ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチョロまたの名バッティステッロ作の「磔刑」。1610年の作品です。彼もまた、カラヴァッジョの追従者の一人です。
1606年にこの画家の前に現れたカラヴァッジョの存在はとてつもなく大きなものだったようです。カラヴァッジョよりわずか5歳しか年下でなかったバッティステッロは、最初にカラヴァッジョからドラマティックな明暗対比画法、視点というよりは光で人物を捉える画法を学んだ、一人と言われています。
彼の「キリストの磔刑」は、カラヴァッジョの1607年の作品「聖アンデレの磔刑」の強い影響力がうかがえます。 -
こちらもバッティステッロの作品「この人を見よ」。1610年。
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バッテイステッロ「柱に括りつけられるキリスト」1610年。
1612年、ローマに旅行したバッティステッロは、同じくカラヴァッジョから大きな影響を受けたオラツィオ・ジェンティレスキと知り合い、その経験を元に1615年に大作「聖ピエトロの解放」を描きます。この絵はナポリのピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂で、カラヴァッジョの「慈悲の7つの行い」の隣を飾ることになります。 -
アルテミジア・ジェンティレスキ作 「ユディトとホロフェルネス」1625年〜30年。
アルテミジアは、オラツィオ・ジェンティレスキの娘で、父と同じカラヴァッジョ派の画家です。
見れば見るほど恐ろしい絵です。全く表情を変えていない右側の女性がユディット。彼女は、旧約聖書外典の1つである「ユディト記」に登場するユダヤ人女性で、村を取り囲んだ敵軍の大将ホロフェルネスに酒をしこたま飲ませて眠らせ、彼の短剣で首を切り落とすのです。大将を失った敵軍勢は動揺し、その間にユダヤ人が攻勢に出て敵を打ち破る といったストーリー。
唯一の神を信じるものの勝利 というのが基本テーマとなっています。それにしても、生々しい絵ですね。 -
「オルガンを弾くサンタ・チェチリア」は、カルロ・セッリットの1610年の作品。音楽の聖人として知られるチェチリアですが、オルガンが彼女の時代からあったとは思えませんね。
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まだまだ見るものはあったのですが、今日しかナポリを見る時間がないので、現代美術はすっ飛ばして、美術館を後にします。広い芝生では、家族連れや恋人たちがくつろいでいました。
帰りのバスでまた大失敗。宮殿から一番近い出口そばにあったバス停から66番のバスに乗車し、ダンテ広場に行きたいと言ったら、乗り換える必要があると言って、連絡しているバス停で降ろしてくれたまではいいのですが、次にやってきたR4のバスに乗って安心しきっていたら、全くの反対方向でした。一方通行の道路を走ることが多い路線なので、また乗り換えるのも面倒で、結局終点まで行ってしまいました。1時間はロスしたみたいですが、良い休養になりました・・・というのはいいわけで、ああ〜時間を損したぁ! -
ばっちいナポリの中心部に戻ってまいりました。
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急がないとまた閉まっちゃうよ。ジェズ・ヌオヴォ(新しいイエスズ会)教会。
この教会の建っている場所は、ナポリの旧市街西側の城壁のすぐ外側に位置しています。古いナポリの旧市街は、ここより東側だったんですね。教会前の広場は、16世紀初めの市街地拡張の結果によるものです。
イエスズ会は、この教会が建つ前にもナポリに教会を持っていました。現在そちらはジェズ・ヴェッキオ(古いイエスズ会)と呼ばれています。前回の旅行記で触れたように、こちらの教会は、サレルノの王子ロベルト・サンセヴェリーノが所有していた宮殿でした。特徴的な突起のある外壁は、以前の宮殿の壁をそのまま使用したもので、ダイアモンド・アシュラーと言う工法だそうです。ピペルノ産の堅い石を使用しています。 -
ギリシャ十字の形をした内部は、コジモ・ファンツァゴが1630年に設計しました。大理石をふんだんに使った豪華な装飾が施されています。
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カウンター・ファサードには、フランチェスコ・ソリメーナによるフレスコ画「ヘリオドルスの神殿からの追放」がありました。バロック時代の1725年の作品で、彼のマスターピースと言われています。
ローマのヴァチカン宮殿には、ラファエロの絵で飾られた4つの部屋がありますが、その一つがヘリオドルスの間。そこにもにラファエロが描いた「ヘリオドロスの神殿からの追放」があります。
ヘリオドロスはシリアの宮廷財務官で、財宝を奪うためにユダヤ教のエルサレム宮殿に向けて送り出されたが、僧侶達が熱心に祈りを捧げたところ三人の天使がそれに応えてヘリオドロスらを打ち負かし、神殿から追い出したという旧約聖書外典の話だそうです。
泥棒を祈りで撃退したという、教会にふさわしいストーリーですね。 -
ドームはイニャッツァオ・ディ・ナルドにより再建されたもので、鉄筋で強化されているそうです。地震の多いナポリでは、耐震強度のある建物でないと多くの犠牲を出すことになりかねませんからね。
ドームの周りのスパンドレル(三角の部分)に描かれた4人の福音記者達のフレスコ画は、先ほどカポディモンテでも見た、ジョヴァンニ・ランフランコの作品です。実はランフランコはドームの内側にも絵を描いたのですが、それは1688年の地震で崩れてしまったのだそうです。 -
主祭壇は、6本の大理石の柱が目立つ造りで、イエスズ会のエルコーレ・グロッシによって設計された19世紀半ば。中央の聖母像も、アントニオ・ブスチオラーノの1859年の作品で、ともに比較的新しいものです。
聖母の両脇に立つのは、ご存知ピエトロとパオロ。 -
聖母像が置かれている天使達が集う台座は、18世紀に遡りますが、作者は分かっていません。
この教会の古い作品は、主祭壇の両翼と礼拝堂に残されているようなので、駆け足で見ていくことにしました。 -
巨大な蝋燭に火が灯されていました。稚拙な造りですが、信者から寄進されたものでしょうか? ほのぼのとした気持ちになったのでパシャッ!
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右側廊2番目の訪問の礼拝堂 cappella della Visitazione
マッシモ・スタンツィオーネの祭壇画は、マリアがいとこのエリザベスを訪ねた「聖母の訪問」。祭壇下には、ナポリ大学における生化学の教授であり、インクラビリ病院のチーフだった、ジュゼッペ・モスカティの棺が安置されています。彼は1987年に教皇ヨハネ・パウロ2世により列聖されました。
彼の棺は、アメデオ・ガルフィが制作した彫刻で装飾されています。
1990年には、聖人の彫像が祭壇左側に建てられました。 -
教会には、ジュゼッペ・モスカティに関する表示が多くみられました。彼が生前使用していた部屋は、彼の姉から教会に寄贈され、そのまま残されているそうです。写真は彼の部屋へと導く案内パネル。
1927年の4月、いつもの通り教会のミサに出席、病院での仕事を終えた後診療所に戻り、そこでも診察をこなしたモスカティは、診療所の椅子に腰かけたままの姿で亡くなったそうです。 -
こちらもドクター・モスカティの日常を描いた浅浮彫ですね。
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ジュゼッペ・モスカティに関する説明書きもイタリア語のほか、英語と仏語でも書かれていました。
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彼専用のオラトリオ(礼拝堂、祈祷所)まで作られていました。比較的最近の人なので、youtubeに写真集までアップされていて、これにはびっくりしました!
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モスカティのオラトリオから出てきた右翼廊に、フランシスコ・ザビエルの礼拝堂がありました。聖母からヴィジョンを受けるザビエルを描いた祭壇画は、ジョヴァンニ・ベルナルティーノ・アッツォリーノの作品。祭壇左右のファンツァゴによる彫像は、左聖アンボローズと聖アウグスティヌスです。
壁にはルカ・ジョルダーノによるザビエルのインド行きの物語が絵でつづられていたのですが、目に入らなかったようです!(泣)
祭壇下では、今にも起きあがりそうな! ザビエルの寝姿を見ることが出来ます。 -
左側廊に入って初めの礼拝堂は、ジェロニモの聖フランチェスコに捧げらていました。大理石で作られた祭壇のレリーフに効果的なライトニングが仕掛けられています。ジェロニモの聖フランチェスコについては、全く存じ上げなかったのですが、1642年生まれのイエスズ会出身の列福者で、ナポリで亡くなった方です。
圧倒されたのは、左右の壁一杯に並べられた小さな木像。その数70以上あるそうです。これらは、黄金の木で作られた殉教者の聖遺物を納めた箱で、その殆どは1617年にナポリの木彫り職人ジョヴァン・ドメニコ・ヴィナッキアによって作られたそうです。 -
磔と聖サイラス(イタリア名チロ)の礼拝堂には、沈痛な面持ちの聖母と聖ヨハネが見守るキリストの木製の磔像がありました。ミケランジェロ・ナッケリーノの弟子フランチェスコ・モッリカによる16世紀半ばの作品。
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祭壇の高いところにあった、ヴェロニカのヴェールを持った天使の姿が印象的でした。
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聖イグナチティウス・ディ・ロヨラの礼拝堂は、左翼廊にありました。
中央の祭壇画は、パオロ・デ・マッテイスの1715年の作で、聖母子の両脇にいるのはロヨラとザビエル。
祭壇画の両脇には、コジモ・ファンツァゴによるダビデとエレミヤの像が飾られています。1643年〜54年。1688年の地震後、ファンツァゴは礼拝堂の再建にも尽力しています。
半分切れてしまっていますが、彫像の上には、デ・マッテイスによるロヨラにまつわるフレスコ画が描かれています。 -
キリスト生誕に捧げられている礼拝堂cappella nativita
祭壇画は、後期ルネッサンス時代のナポリで主に活躍したジローラモ・インパラートの1602年の作品。天井のヴォールトには、コレンツィオによる聖誕、ダビデとイザヤ等の物語が描かれています。
この礼拝堂は11もの彫像で飾られているのが特徴。祭壇の左にはミケランジェロ・ナッケリーノによる聖アンデレ、右にはジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父ピエトロによる聖マタイを見ることが出来ます。
また祭壇の左右の壁には、左洗礼者ヨハネ、右福音記者聖ヨハネの二つの像が高い位置で向かいあって設置されています。 -
聖殉教者に捧げられている礼拝堂
前の礼拝堂と造りが似ています。祭壇画「聖母子といる聖殉教者たち」は、アッツォリーノの作品。こちらの礼拝堂もトマソ・モンタニらによる左右に向き合った彫像が見られます。
速足でこれだけ廻って教会を後にしました。楽しみにしていた割には、中には意外性はありませんでしたねえ。 -
時刻はもうすでに午後7時半。もうそろそろ帰らねば。教会はこの位にして、あと見逃したモニュメントをいくつか見て帰りましょう。
ジェズ・ヌオヴォ教会からほど近いサン・ドメニコ・マッジョーレ教会のある広場には、ジェズ教会前広場にあったものに似たサン・ドメニコのオベリスクがありました。こちらは、サン・ジェンナーロのオベリスクに次いで市内で二番目に高いオベリスクです。1656年、その年に流行したペストの駆逐を願って、ナポリの人々から奉納されました。てっぺんには聖ドメニコの像が立っていました。オベリスクの設計者は、ジェズ・ヌオヴォの内装を手掛けたコジモ・ファンツァゴです。
背後に見えるのは、コリッリアーノ宮殿palazzo Corigliano。現在大学の宿泊施設として使用されています。 -
時間的に厳しくて、外観のみになってしまったサン・ドメニコ・マッジョーレ教会。教会と言うよりは、城壁の一部のようですね。広場に面しているのは後陣でしょうか?
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サン・ドメニコ・マッジョーレ教会の先にあった、赤と黒の外装が美しい(鐘楼も可愛い!)サンタンジェロ・ア・ニロ教会。ドナテッロとミケロッツォによる枢機卿ライナルド・ブランカッチの墓があることで知られています。
この辺りはギリシャ−ローマ時代のナポリの中心に当たる場所で、ニロというのはエジプトのナイル川のイタリア読みで、ナイルを崇拝していたエジプト商人らによって、そう呼ばれるようになりました。 -
そして、この人がニロ ナイル川の神の像で、2世紀から3世紀の間に作られたと言われています。ニロの横にはちゃんとスフィンクスがいますね。
ニロ像には1657年にピペルノ石の台座が与えられました。台座には大理石の碑文があり、像の数千年に及ぶ変遷の歴史がラテン語で書かれています。 -
ニロにも会えたことなので、そろそろ帰りましょう。ニロ像の背後のビルは壁がボロボロ剥げ落ちているオンボロビル。背景としてはイマイチですねえ。
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というわけで、長い1日がようやく終わりました。宿のお兄ちゃんお勧めのトレド駅には行かないで、一番近いダンテ駅から地下鉄で帰りました。
こちらはダンテ駅構内。派手な宇宙空間が続いていましたよ。こちらはわざわざ見に来るような代物でもないです。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その42 エルコラーノで!
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