2015/10/31 - 2015/10/31
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naoさん
1880年(明治13年)、アメリカのカンザス州に生まれたウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1900年(明治33年)に建築家への道を志してコロラド大学に入学します。
しかし、1902年(明治35年)、外国伝道に携わっていたキリスト教宣教師、ミセス・ハワード・テイラーの講演に感銘を受けた彼は、長年思い続けていた建築家への夢を棄て、外国伝道にその身を捧げることを決意します。
1904年(明治37年)、建築科から哲学科へ進路変更してコロラド大学を卒業したヴォーリズは、滋賀県立商業学校(現 滋賀県立八幡商業高等学校)が英語の教師を求めていることを知ると、1905年(明治38年)、運命の糸に導かれるかのように、キリスト教伝道を目指して遥か海を渡って見ず知らずの日本へ降り立ちます。
商業学校で英語教師を務めるかたわら、精力的に伝道活動を繰り広げるヴォーリズは、赴任早々に放課後のバイブルクラスを開講し、多くの学生達をキリスト教へと導きます。
当時、まだまだ仏教色の濃かったこの地では、キリスト教に関わることについて、様々な面で宗教的な軋轢を生むところとなり、1907年(明治40年)、ヴォーリズは英語教師を辞めざるを得なくなってしまいます。
そんな矢先の1908年(明治41年)、一時は建築家への夢をあきらめていたヴォーリズに、京都YMCA会館新築工事の監督を依頼する話が舞い込み、この仕事を引き受けた彼は、これを契機に、伝道活動を続けるための経済基盤として、建築設計事務所を始めることになります。
その後ヴォーリズは、英語教師時代の教え子、吉田悦蔵氏等とともに、それまでの伝道活動を組織的に発展させた「近江ミッション(近江基督教伝道団)」を設立。
その一環として、「近江セールズ株式会社(後の近江兄弟社)」による輸入建材や家庭の常備薬メンソレータムの輸入販売、医療、教育、出版など、さまざまな分野で文化事業を展開するわけですが、これらの事業は、単に収益を目的としたものではなく、「様々な職業や日常生活を通じて、キリスト教の教えを徹底的に実践する」と云う精神に基づく、まさに彼が目指した伝道そのものでした。
1910年(明治43年)にヴォーリズ合名会社、1920年(大正9年)にヴォーリズ建築事務所と社名を変えながら続けてきた建築設計活動は、住宅、学校、教会、デパート、ホテル、オフィスなど、幅広い分野におよび、戦前に手掛けた作品だけでも1500件余りを数えるまでになります。
太平洋戦争開戦の気配が色濃くなり、多くの外国人が日本を離れた時でさえ、自らの意志で日本への帰化を決意して一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名するほど、日本を愛し、日本のために尽くしたヴォーリズは、1964年(昭和39年)、近江八幡市名誉市民の栄誉とともに83歳の生涯に幕を下ろしました。
今回、ヴォーリズが手掛けた「アンドリュース記念館」、「ウォーターハウス記念館」が特別公開されるのに合わせ、活動拠点だった近江八幡に残る、数多くの建築作品を訪ね歩きました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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先ず「ウォーターハウス記念館」を訪れるため、池田町洋風住宅街へやってきました。
煉瓦塀に囲まれたこの一角は、ヴォーリズが大正時代に手掛けた初期の作品で、今でいうモデルハウスの役割を担っていました。 -
こちらは、池田町洋風住宅街の最も南に建つ「石橋邸」です。
この建物は、吉田悦蔵氏の妻、清野夫人が婦人教育のために発足させた近江家政塾として利用されていました。 -
その「石橋邸」の北隣には・・・
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ヴォーリズとともに「近江ミッション」を支えた「吉田悦蔵邸」があります。
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「吉田悦蔵邸」の北側にあるのが、今回特別公開された「ウォーターハウス記念館」です。
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この記念館は、「近江ミッション」に加わった元早稲田大学英語科の講師、ウォーターハウス氏のために1913年(大正2年)に建てられた邸宅で、近江勤労女学校、近江兄弟社女学校などの施設として使われてきました。
竣工後100年余り経過した、2008年から2009年にかけて全面的に修復されたそうです。 -
特別公開された2館の共通入館券。
なお、館内の撮影は不可だったので外観の写真だけになってしまいました。 -
かわいい回転窓。
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北西側の外観です。
ちなみに、右側に見えているのは「吉田悦蔵邸」です。 -
熟した柿の実が・・・
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秋の風情をたたえています。
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妻面から見ると、屋根裏のスペースを上手く使って、部屋を設けているのが判ります。
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勝手口を照らす照明器具。
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お日様の強い光を浴びて、建物の影が面白い効果を生んでいます。
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正面の外観を特徴づける煙突。
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今回同時に特別公開された「アンドリュース記念館」の公開時間に制限があるので、次はそちらへ向かいます。
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こちらは、「アンドリュース記念館」へ向かう途中にある「近江八幡市立八幡小学校」です。
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ヴォーリズの設計ではないんですが、素晴らしい白亜の洋館建築なので、ちょっと寄り道しました。
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慌てて敷地の横から入ったので、正門の方へ廻ります。
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こちらが正門です。
勝手門が見学者のために開放されています。 -
大正時代に田中松三郎氏の設計で建てられた校舎の正面玄関には・・・
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バルコニーの付いた立派なポーチが設けられています。
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玄関ポーチ上部の破風と飾り窓。
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玄関ポーチに付けられたこの小学校のエンブレム。
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では、「アンドリュース記念館」へ急ぎます。
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「アンドリュース記念館」の手前にある「近江八幡教会」が見えてきました。
写真でもお判りのように、近江八幡には伝統的な町家建築が連なる素晴らしい町並みがあるんですが、今回はその町並みに惹かれる気持ちを抑えつけて、あえてヴォーリズの建築作品だけを訪ね歩きます。 -
「近江八幡教会」の鐘楼と十字架です。
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元々ここには、1924年(大正13年)に完成したヴォーリズ設計の教会が建っていましたが、残念ながら焼失したそうです。
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そのため、今の教会は1983年(昭和58年)に一粒社ヴォーリズ建築事務所の設計により建てられたものだそうです。
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「アンドリュース記念館」に面した東側の外観です。
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東側の樹木を透かして見た鐘楼。
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こちらは、「近江八幡教会」のお向かいにある「近江八幡教会牧師館」です。
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ヴォーリズ建築としてあまり知られていないこの建物は、1940年(昭和15年)に(株)近江兄弟社の独身寮、「地塩寮」として建てられたものです。
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1974年(昭和49年)に(株)近江兄弟社が経営困難により倒産した後、一時民間の所有になっていましたが・・・
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1984年(昭和59年)に日本キリスト教団近江八幡教会が取得し、現在の姿に改修されたものです。
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こちらが今回特別公開された「アンドリュース記念館」です。
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これは西側外観を特徴づけている煙突です。
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「アンドリュース記念館」は、ヴォーリズに導かれてキリスト教信者となり、若くして亡くなった大学時代の友人、故ハーバート・アンドリュースを記念してヴォーリズ自らが設計した「ハーバート・アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館(YMCA)」と名付けられた建物で、1907年(明治40年)に完成したものです。
ちなみに、当初の建物はヴォーリズが始めて設計した建物なんだそうです。 -
ここを拠点として、ヴォーリズは「近江ミッション(近江基督教伝道団)」による伝道活動を推し進めることとなります。
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現在の建物は1935年(昭和10年)に建て替えられたもので、外部デザインは一部変更されていますが、全体の規模や瓦葺屋根の入母屋造など、当初の建物のイメージを継承されています。
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1987年(昭和62年)にYMCAとしての役割を終え、使用されなくなっていたものを、2007年(平成19年)に「近江兄弟社創立100周年記念事業」として現在の姿に再生されました。
では、次に向かいます。 -
こちらは「旧八幡郵便局」です。
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1921年(大正10年)に竣工した後、1960年(昭和35年)まで八幡郵便局として使われていました。
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和瓦葺きの屋根に洋風の外観を持つ、とてもユニークな和洋折衷の建物です。
写真でも判るように、鬼瓦まで使われています。 -
半円形をモチーフにした窓上部の装飾が、この建物の外観にインパクトを与えています。
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以前、相当損傷が激しかった正面玄関は・・・
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2004年(平成16年)に復元されたそうです。
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現在、「旧八幡郵便局」の保存再生を通じて、ヴォーリズ建築が醸し出す情緒を後世に伝えたいと活動しておられるNPO法人・・・
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「ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会」の事務局として使われています。
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ギャラリーとして使われている2階のスペース。
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現在もNPO法人の方々の手で改修が進められているようです。
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窓越しに見た正面玄関上部の外観。
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本物のフローリング貼りの2階廊下。
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裏側の外観。
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1階の事務スペースにはトップライトが設けられています。
白熱灯の照明器具も良い雰囲気を漂わせています。 -
次に訪れたのは、「ヴォーリズ記念館」です。
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1931年(昭和6年)に建てられたこの建物は、1919年(大正8年)に結婚した満喜子夫人とともに暮らしたヴォーリズの自宅です。
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館内にはヴォーリズの日常生活に関する数々の遺品や貴重な資料が保管、展示されています。
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ここにも特徴的な煙突がありました。
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玄関へ続くアプローチ。
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アプローチと庭を隔てる木戸。
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煉瓦造りの門柱。
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では、次に向かいます。
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次にやってきたのはヴォーリズ学園です。
なお、門柱の名板には近江兄弟社学園と書かれていますが、ヴォーリズの志や生き方を教育の基本方針に掲げることとして、今年の4月からヴォーリズ学園に変更されています。 -
L字型に配置されている建物の、左が教育会館、右がハイド記念館です。
いずれの建物も、メンソレータムの創業者で、アメリカ人のアルバート・アレキサンダー・ハイド氏の寄付を受けて、1931年(昭和6年)にヴォーリズの設計により建てられたものです。 -
かつて礼拝堂として使われていた教育会館は、ヴォーリズ学園で最も古い建物だそうです。
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ハイド記念館は、かつて満喜子夫人も園長を務めたことのある清友園という幼稚園舎として2003年(平成15年)まで使われていました。
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ハイド記念館の西側にある、職員組合が使用している小さな建物。
雰囲気からして、この建物もヴォーリズの設計かと思われますが、定かではありません。 -
ハイド記念館の西側外観で、南側に四角く飛び出している部分が玄関ポーチになります。
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玄関ポーチの内部です。
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玄関の欄間には「ハイド記念館」と書かれています。
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「ヴォーリズ記念館」とよく似たデザインの門柱。
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次にやってきたのは「近江八幡市立資料館」です。
「京街道」と書かれた道標が示すように、この先には近江八幡を代表する素晴らしい町並みが続いているんですが・・・。 -
この建物は、安南(現ベトナム)貿易で活躍した代表的な近江商人、西村太郎右衛門の邸宅跡に・・・
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1886年(明治19年)に八幡警察署として建設されたもので、1953年(昭和28年)の改築の際の設計をヴォーリズ建築事務所が行いました。
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東側の外観です。
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ここにもヴォーリズ独特の煙突が・・・。
では、「アンドリュース記念館」へ急いだ関係で後回しにした池田町洋風住宅街へ戻ります。 -
池田町洋風住宅街へ向かう途中で見かけたコスモス。
西日を浴びて眩しそうです。 -
池田町洋風住宅街へ戻ってきました。
こちらが1920年(大正9年)年に建てられたダブルハウスです。 -
ダブルハウスは、煉瓦積みの区画壁を挟んで、左右対称の間取りの住宅が2戸、背中合わせに繋がった建物です。
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建築当時は、ヴォーリズの両親と建築事務所のアメリカ人技師が入居していましたが、その後近江ミッションの人たちに受け継がれ、現在も住宅として使われています。
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ヴォーリズが考える住宅のあり方を具体化したこの住宅は、日本の近代的住宅遺産として貴重な建物だと云われています。
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さて、今回いろんな建築作品を訪ね歩きましたが、建築の専門教育を受けていないヴォーリズが潜在的に備えていた、建築に対する類稀なセンスや能力を見た気がしました。
では、この辺りで家路につきます。
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