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朝倉城(あさくらじょう、高知県高知市朝倉字城山)は土佐守護で室町幕府管領をつとめた細川京兆家の臣下の一人として長岡郡の国人本山氏が勢力伸長に伴って築城した平山城です。<br /><br />その細川氏に発生した内訌により永正4年(1507)管領細川政元(ほそかわ・まさもと、1466~1507)が家臣によって暗殺される事態となり、これを機に土佐の細川一族は悉く京都に引き揚げる事になります。<br /><br />これにより細川氏に臣従してきた国衆らはそれぞれ台頭し自らの勢力拡大に傾注、いわゆる土佐における戦国時代が展開されます。<br /><br />有力国衆らは本山氏、長宗我部氏をはじめ安芸氏、香宗我部氏、大平氏、津野氏そして吉良氏ですが、各国衆の勢力が衝突し合従連衡も加わり幾多の戦いを経て次第に淘汰され最終的には土佐中央に広い領域を有する本山氏、一度は没落したものの一条氏の支援で勢力回復し土佐東部を支配する長宗我部氏の伸長から双方の衝突は必至な状況となります。<br /><br />長宗我部国親病死により家督を相続した嫡男元親(もとちか、1539~<br />1599)は本山氏勢力圏の城郭を次々に攻略し次第に圧迫を加え、永禄5年(1562)本山茂辰(もとやま・しげとき、1525~1564)が籠る朝倉城を攻めますが決定的な攻撃ができず膠着状態が続く中、翌年には茂辰は朝倉城籠城では勝利の見込めないと判断し本城の本山城に引き揚げます。<br /><br />本山城に退去した本山氏に対し元親は幡多郡に拠点を置く一条氏と語らい東西から本山氏を攻め続けますが茂辰病死後家督を継いだ貞茂(さだしげ、1545~1587)は居城の本山城を失うとこれ以上の抗戦はできないと判断し元亀2年(1571)元親の軍門に降ります。<br /><br />元親は本山氏を降した後、天正2年(1574)には一条氏所領の幡多郡も支配下に置き、翌年には安芸郡東部も制圧して土佐統一を実現する事となります。<br /><br />尚 降伏した本山貞茂はその後元親から気に入られ親茂(ちかしげ)と改名、元親嫡男信親(のぶちか、1565~1587)の家老として仕えますが天正14年(1586)12月における秀吉島津征伐の緒戦である戸次川合戦において島津軍の包囲に遭い信親共々討取られます。<br /><br /><br />詰ノ段に設置の説明板には次の如く記されています。<br /><br />「 朝 倉 城 跡<br /><br />古くは重松城ともいう。長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的・地理的に重要なこの地に築城して、天文9年(1540)ここに移った。<br /><br />永禄3年(1560)に始まった長宗我部氏との激突は、数度に及んだが、勝敗は決せず梅慶の後を継いだ子の茂辰(しげとき)は、不利な形成と朝倉城死守の困難さを悟り、永禄6年(1563)1月、城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。<br /><br />詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っている。県内随一の規模を誇る中世城跡である。<br /><br />       平成元年3月  高知市教育委員会」<br />

土佐朝倉 土佐守護細川氏内訌で影響力減に乗じて群雄割拠状況の中土佐中央部に勢力拡大図るも長宗我部氏に敗れた国衆本山氏が築いた『朝倉城』訪問

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2015/11/04 - 2015/11/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

朝倉城(あさくらじょう、高知県高知市朝倉字城山)は土佐守護で室町幕府管領をつとめた細川京兆家の臣下の一人として長岡郡の国人本山氏が勢力伸長に伴って築城した平山城です。

その細川氏に発生した内訌により永正4年(1507)管領細川政元(ほそかわ・まさもと、1466~1507)が家臣によって暗殺される事態となり、これを機に土佐の細川一族は悉く京都に引き揚げる事になります。

これにより細川氏に臣従してきた国衆らはそれぞれ台頭し自らの勢力拡大に傾注、いわゆる土佐における戦国時代が展開されます。

有力国衆らは本山氏、長宗我部氏をはじめ安芸氏、香宗我部氏、大平氏、津野氏そして吉良氏ですが、各国衆の勢力が衝突し合従連衡も加わり幾多の戦いを経て次第に淘汰され最終的には土佐中央に広い領域を有する本山氏、一度は没落したものの一条氏の支援で勢力回復し土佐東部を支配する長宗我部氏の伸長から双方の衝突は必至な状況となります。

長宗我部国親病死により家督を相続した嫡男元親(もとちか、1539~
1599)は本山氏勢力圏の城郭を次々に攻略し次第に圧迫を加え、永禄5年(1562)本山茂辰(もとやま・しげとき、1525~1564)が籠る朝倉城を攻めますが決定的な攻撃ができず膠着状態が続く中、翌年には茂辰は朝倉城籠城では勝利の見込めないと判断し本城の本山城に引き揚げます。

本山城に退去した本山氏に対し元親は幡多郡に拠点を置く一条氏と語らい東西から本山氏を攻め続けますが茂辰病死後家督を継いだ貞茂(さだしげ、1545~1587)は居城の本山城を失うとこれ以上の抗戦はできないと判断し元亀2年(1571)元親の軍門に降ります。

元親は本山氏を降した後、天正2年(1574)には一条氏所領の幡多郡も支配下に置き、翌年には安芸郡東部も制圧して土佐統一を実現する事となります。

尚 降伏した本山貞茂はその後元親から気に入られ親茂(ちかしげ)と改名、元親嫡男信親(のぶちか、1565~1587)の家老として仕えますが天正14年(1586)12月における秀吉島津征伐の緒戦である戸次川合戦において島津軍の包囲に遭い信親共々討取られます。


詰ノ段に設置の説明板には次の如く記されています。

「 朝 倉 城 跡

古くは重松城ともいう。長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的・地理的に重要なこの地に築城して、天文9年(1540)ここに移った。

永禄3年(1560)に始まった長宗我部氏との激突は、数度に及んだが、勝敗は決せず梅慶の後を継いだ子の茂辰(しげとき)は、不利な形成と朝倉城死守の困難さを悟り、永禄6年(1563)1月、城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。

詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っている。県内随一の規模を誇る中世城跡である。

       平成元年3月  高知市教育委員会」

旅行の満足度
4.5
交通手段
JR特急 徒歩 ジェットスター
  • 特急剣山3号<br /><br />阿波川島駅から再び特急剣山3号に乗って終点阿波池田に向かいます。

    特急剣山3号

    阿波川島駅から再び特急剣山3号に乗って終点阿波池田に向かいます。

  • 剣山3号内部<br /><br />3輌編成のディーゼル特急の最後の車輌に乗り込みます。車輛の2/3は自由席、後1/3は指定席となっており区分けは枕カバーにより識別されます。自分は当然ながら予め指定席を取っています。(徳島線特急車輌にはグリーンシートの設置はありません)

    剣山3号内部

    3輌編成のディーゼル特急の最後の車輌に乗り込みます。車輛の2/3は自由席、後1/3は指定席となっており区分けは枕カバーにより識別されます。自分は当然ながら予め指定席を取っています。(徳島線特急車輌にはグリーンシートの設置はありません)

  • 南風3号グリーン車輌内部<br /><br />阿波池田駅で10:20発南風3号(岡山始発8:51)に乗換えます。グリーン車輌(ペアシート・シングルシート)の内シングルシートの指定席に着席、阿波川島にて疲れ切った身体をシートに沈めて気分爽快です。

    南風3号グリーン車輌内部

    阿波池田駅で10:20発南風3号(岡山始発8:51)に乗換えます。グリーン車輌(ペアシート・シングルシート)の内シングルシートの指定席に着席、阿波川島にて疲れ切った身体をシートに沈めて気分爽快です。

  • 南風3号グリーン車輌内部<br /><br />車両内部に装着されたシングルシートの座席のリクライニングは最高です。

    南風3号グリーン車輌内部

    車両内部に装着されたシングルシートの座席のリクライニングは最高です。

  • アンパンマン仕様の南風3号<br /><br />高知駅着11:30、当該駅にて乗務員交代のため9分間停車します。アンパンマンのラッピング仕様の南風3号はこの後終点中村駅(土佐くろしお鉄道乗り入れ)向けて走行を続けます。

    アンパンマン仕様の南風3号

    高知駅着11:30、当該駅にて乗務員交代のため9分間停車します。アンパンマンのラッピング仕様の南風3号はこの後終点中村駅(土佐くろしお鉄道乗り入れ)向けて走行を続けます。

  • アンパンマンラッピング車輌

    アンパンマンラッピング車輌

  • 「阪神タイガーズ」ラッピング車輌<br /><br />高知駅離れたホームには偶然にも阪神タイガーズをラッピングした車輛が見えます。<br /><br />

    「阪神タイガーズ」ラッピング車輌

    高知駅離れたホームには偶然にも阪神タイガーズをラッピングした車輛が見えます。

  • 南風3号グリーン車輌<br /><br />高知駅では新たな乗客はおらず自分を含めて3~4名と閑散とした風景に変わります。

    南風3号グリーン車輌

    高知駅では新たな乗客はおらず自分を含めて3~4名と閑散とした風景に変わります。

  • JR朝倉駅舎<br /><br />特急停車駅朝倉駅で下車、山小屋風の駅舎が印象的です。(他駅でもよく見かけますがここでも女性駅員が対応)

    JR朝倉駅舎

    特急停車駅朝倉駅で下車、山小屋風の駅舎が印象的です。(他駅でもよく見かけますがここでも女性駅員が対応)

  • 朝倉城跡入口<br /><br />駅前の食堂で昼食を取った後5分程南進すると朝倉城跡入口の案内板に着きます。

    朝倉城跡入口

    駅前の食堂で昼食を取った後5分程南進すると朝倉城跡入口の案内板に着きます。

  • 朝倉城跡ポスター<br /><br />城跡入口の反対側バス停には朝倉城跡を紹介したポスター掲示されています。

    朝倉城跡ポスター

    城跡入口の反対側バス停には朝倉城跡を紹介したポスター掲示されています。

  • 朝倉城跡登城道<br /><br />緩やかな道から険しい道に変わりその後だらだら道を歩くと朝倉城跡見取図が道端に立っています。

    朝倉城跡登城道

    緩やかな道から険しい道に変わりその後だらだら道を歩くと朝倉城跡見取図が道端に立っています。

  • 朝倉城跡見取図<br /><br />城主は本山氏、城域は約13ha、形態は平山城、標高は102mとっ記載されています。更に朝倉城跡には土塁と空堀の他竪堀と堀切が施されていることがマークされています。また登城ルートは3ルートあり、自分は西口から入ります。(傍らには蛇注意の看板が見えます)

    朝倉城跡見取図

    城主は本山氏、城域は約13ha、形態は平山城、標高は102mとっ記載されています。更に朝倉城跡には土塁と空堀の他竪堀と堀切が施されていることがマークされています。また登城ルートは3ルートあり、自分は西口から入ります。(傍らには蛇注意の看板が見えます)

  • 朝倉城跡西登り口標柱<br /><br />標柱には蛇の絵が付されています。気を引き締めて西登り口から入っていきます。

    朝倉城跡西登り口標柱

    標柱には蛇の絵が付されています。気を引き締めて西登り口から入っていきます。

  • 標柱<br /><br />西登り口を進む途中に案内標柱がしっかりと矢印で示してくれます。

    標柱

    西登り口を進む途中に案内標柱がしっかりと矢印で示してくれます。

  • 三日月形状の空堀

    三日月形状の空堀

  • 堀切

    堀切

  • 切岸と城郭跡<br /><br />進むと正面には切岸が控え、その左側にはやや広めの城郭跡が見られます。

    切岸と城郭跡

    進むと正面には切岸が控え、その左側にはやや広めの城郭跡が見られます。

  • 朝倉城跡詰の段(主郭)<br /><br />平坦に切削された詰の段の規模は20m~30m程度の方形となっています。<br /><br />

    朝倉城跡詰の段(主郭)

    平坦に切削された詰の段の規模は20m~30m程度の方形となっています。

  • 朝倉城跡石柱

    イチオシ

    朝倉城跡石柱

  • 各種説明板

    各種説明板

  • 朝倉公園之碑

    朝倉公園之碑

  • 史蹟朝倉城趾石柱

    史蹟朝倉城趾石柱

  • 朝倉城跡説明板<br /><br />

    朝倉城跡説明板

  • 朝倉城跡平面図

    朝倉城跡平面図

  • 祠堂<br /><br />詰ノ段の一角に配された小規模祠堂が認められます。

    祠堂

    詰ノ段の一角に配された小規模祠堂が認められます。

  • 詰ノ段下<br /><br /><br /><br />

    詰ノ段下



  • 詰ノ段眼下

    詰ノ段眼下

  • 土塁<br /><br />詰ノ段東端に残された土塁が認められます。

    土塁

    詰ノ段東端に残された土塁が認められます。

  • 下段ノ郭<br /><br />詰ノ段から杉林に覆われた下段の郭を見下ろします。

    下段ノ郭

    詰ノ段から杉林に覆われた下段の郭を見下ろします。

  • 土塁の下段

    土塁の下段

  • 詰ノ段(主郭)<br /><br />詰ノ段南東部から中央部を捉えます。<br /><br />

    詰ノ段(主郭)

    詰ノ段南東部から中央部を捉えます。

  • 詰ノ段<br /><br />詰ノ段西端を南から北方を捉えます。西端部の外は急斜面となって落ち込んでいます。

    詰ノ段

    詰ノ段西端を南から北方を捉えます。西端部の外は急斜面となって落ち込んでいます。

  • 詰ノ段<br /><br />北端部から南方を一望します。周辺は樹木に囲まれ樹林を通して外部風景は望めません。

    詰ノ段

    北端部から南方を一望します。周辺は樹木に囲まれ樹林を通して外部風景は望めません。

  • 土塁<br /><br />二ノ段から詰ノ段の東端に配された土塁を見上げます。

    土塁

    二ノ段から詰ノ段の東端に配された土塁を見上げます。

  • 詰ノ段下<br /><br />狭いながらも詰ノ段の周囲を取り囲むような道が配されています。

    詰ノ段下

    狭いながらも詰ノ段の周囲を取り囲むような道が配されています。

  • 朝倉城跡の井戸

    朝倉城跡の井戸

  • 朝倉城井戸内部<br /><br />

    朝倉城井戸内部

  • 井戸説明板

    井戸説明板

  • 祠堂<br /><br />下段の道から詰ノ段に配されている祠堂を捉えます。

    祠堂

    下段の道から詰ノ段に配されている祠堂を捉えます。

  • 土橋<br /><br />中央部が通路可能な道で土橋の形状となり、左右は数段低くなって空堀となっています。

    土橋

    中央部が通路可能な道で土橋の形状となり、左右は数段低くなって空堀となっています。

  • 敵をふせぐ施設(概念図)説明板<br /><br />土塁や空堀と共に堀切や竪堀に関して説明されています。

    敵をふせぐ施設(概念図)説明板

    土塁や空堀と共に堀切や竪堀に関して説明されています。

  • 竪堀跡

    竪堀跡

  • 水堀の一部

    水堀の一部

  • 登城道出口<br /><br /><br /><br />

    登城道出口



  • 朝倉城跡東登り口標柱<br /><br />

    朝倉城跡東登り口標柱

  • 朝倉城跡見取図<br /><br />上る途中に掲立していた朝倉城跡見取図に戻ってきました。結局西登り口から登り東登り口から下りてきた事になります。<br />

    朝倉城跡見取図

    上る途中に掲立していた朝倉城跡見取図に戻ってきました。結局西登り口から登り東登り口から下りてきた事になります。

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