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平成22年(2010年)6月1日から6月16日まで神戸~上海~シルクロード河西回廊<br />(西安~敦煌)~大同~青島~下関11,800キロを船と列車での一人旅をした。<br /> 本当は青蔵鉄道でラサへ行きたかったが、ラサで高山病が悪化した場合、<br />強制的にヘリコプターで成都の病院まで輸送される、と云う事が判り、<br />また、2008年5月12日四川大地震が、旅行直前には2010年4月14日に<br />青海地震が、発生したのでラサ行は断念した。<br /> 他にも昆明は干ばつによる乾燥の影響で感染病が蔓延し、桂林の漓江下りは<br />4月初めまでは干ばつの影響で、通常ルートの半分くらいに短縮されていたが、<br />大雨が振り、今は逆に洪水で漓江下りは中止となっていて、ウルムチは<br />2009年ウイグル騒乱による外務省の渡航自粛が出されていたので、結局、行先は<br />旅行記のタイトルとなった。<br /> 飛行機に乗らない、乗れない旅は何かと限定されるのである。<br /><br /> ご参考まで<br />激変前の80年代 大阪港~上海航路~上海~蘇州~上海~杭州西湖~上海~上海航路~神戸港 1/3~3/3<br />http://4travel.jp/travelogue/11030574<br />http://4travel.jp/travelogue/11032025<br />http://4travel.jp/travelogue/11032698

飛行機に乗らずに神戸~上海~西安~敦煌~嘉峪関~大同~青島~下関11,800キロの旅 vol.19 道教の聖地 北岳恒山

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2010/06/01 - 2010/06/16

4位(同エリア136件中)

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ノスタルジア

ノスタルジアさん

平成22年(2010年)6月1日から6月16日まで神戸~上海~シルクロード河西回廊
(西安~敦煌)~大同~青島~下関11,800キロを船と列車での一人旅をした。
 本当は青蔵鉄道でラサへ行きたかったが、ラサで高山病が悪化した場合、
強制的にヘリコプターで成都の病院まで輸送される、と云う事が判り、
また、2008年5月12日四川大地震が、旅行直前には2010年4月14日に
青海地震が、発生したのでラサ行は断念した。
 他にも昆明は干ばつによる乾燥の影響で感染病が蔓延し、桂林の漓江下りは
4月初めまでは干ばつの影響で、通常ルートの半分くらいに短縮されていたが、
大雨が振り、今は逆に洪水で漓江下りは中止となっていて、ウルムチは
2009年ウイグル騒乱による外務省の渡航自粛が出されていたので、結局、行先は
旅行記のタイトルとなった。
 飛行機に乗らない、乗れない旅は何かと限定されるのである。

 ご参考まで
激変前の80年代 大阪港~上海航路~上海~蘇州~上海~杭州西湖~上海~上海航路~神戸港 1/3~3/3
http://4travel.jp/travelogue/11030574
http://4travel.jp/travelogue/11032025
http://4travel.jp/travelogue/11032698

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
タクシー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 山西省観光ガイドマップ<br /><br />6月10日(木)雲岡石窟<br />6月11日(金)懸空寺、北岳恒山他をタクシーで<br />6月12日(土)雲岡石窟 大同から列車で青島へ

    山西省観光ガイドマップ

    6月10日(木)雲岡石窟
    6月11日(金)懸空寺、北岳恒山他をタクシーで
    6月12日(土)雲岡石窟 大同から列車で青島へ

  • 平成22年6月11日(金)懸空寺から北岳恒山に向かう途中で

    平成22年6月11日(金)懸空寺から北岳恒山に向かう途中で

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 景区入山券10元138円<br /><br /> 大灵公路から左折して北岳恒山への道に入った途端、関所があって景区入山券を<br />買わされた。運ちゃんはタクシーから降りて文句を言っていたが、無料になる筈もなく結局、払ったのはこちらだった。タクシーを降りて歩いて行く中国人もいたが、それは無料の様だった。入山券というより車の通行料金という感じ。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 景区入山券10元138円

     大灵公路から左折して北岳恒山への道に入った途端、関所があって景区入山券を
    買わされた。運ちゃんはタクシーから降りて文句を言っていたが、無料になる筈もなく結局、払ったのはこちらだった。タクシーを降りて歩いて行く中国人もいたが、それは無料の様だった。入山券というより車の通行料金という感じ。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 景区入山券20元277円<br /><br /> 北岳恒山に着くと麓の山門でまた景区入山券、今度は20元だった。歩いて登って来る客もいるのでここで徴収漏れを防ぐ為か、登り道は結構距離があって勾配もきつい、10元なら車で行った方が良いと多くの客は思うだろう、、最初20元にすると歩く客が多くなるだろう、最初から30元にすると客は右折して五台山に行ってしまうだろう、いかにも中国人らしい商売のやり方だった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 景区入山券20元277円

     北岳恒山に着くと麓の山門でまた景区入山券、今度は20元だった。歩いて登って来る客もいるのでここで徴収漏れを防ぐ為か、登り道は結構距離があって勾配もきつい、10元なら車で行った方が良いと多くの客は思うだろう、、最初20元にすると歩く客が多くなるだろう、最初から30元にすると客は右折して五台山に行ってしまうだろう、いかにも中国人らしい商売のやり方だった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 駐車場から見上げると多くの廟が岩壁に建っていた。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     駐車場から見上げると多くの廟が岩壁に建っていた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 駐車場から

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 駐車場から

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフト往復乗車券45元623円、裏面は絵葉書<br /><br /> 廟巡りをするには、ゴンドラリフトで行くか、登山道を歩いて登る、どちらかだったが歩いてだと1時間以上かかるとの事だったのでゴンドラリフトにした。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフト往復乗車券45元623円、裏面は絵葉書

     廟巡りをするには、ゴンドラリフトで行くか、登山道を歩いて登る、どちらかだったが歩いてだと1時間以上かかるとの事だったのでゴンドラリフトにした。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> 乗車券を買って乗り場に行ってすぐに後悔した。余りにもゴンドラがちゃちで、窓にはアクリル板は無く、何よりも驚いたのはドアの開閉はフックを回して引っ掛けるだけの代物なのである。遊園地の観覧車をそのままケーブルに付け替えた感じである。 <br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     乗車券を買って乗り場に行ってすぐに後悔した。余りにもゴンドラがちゃちで、窓にはアクリル板は無く、何よりも驚いたのはドアの開閉はフックを回して引っ掛けるだけの代物なのである。遊園地の観覧車をそのままケーブルに付け替えた感じである。 

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> 恐る恐る乗り出したが、想像していたより風が無くて揺れず、これなら大丈夫だと安心して写真を撮る余裕もあった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     恐る恐る乗り出したが、想像していたより風が無くて揺れず、これなら大丈夫だと安心して写真を撮る余裕もあった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> ところが観覧車が谷底の上に入り始めたら強い風が吹き抜けていて横揺れが激しくなり、このまま観覧車ごと谷底に振り落とされる!という恐怖感でいっぱいで、またこんな所で停まってしまって宙づりにならない事をひたすらに祈ったのである。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     ところが観覧車が谷底の上に入り始めたら強い風が吹き抜けていて横揺れが激しくなり、このまま観覧車ごと谷底に振り落とされる!という恐怖感でいっぱいで、またこんな所で停まってしまって宙づりにならない事をひたすらに祈ったのである。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> この辺りが谷底の真上で一番揺れた。落ちる時はカメラの動画モードのボタンを押し忘れないように心の準備をした。落ちるのならせめて樹木の上に落ちて欲しいと祈った。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     この辺りが谷底の真上で一番揺れた。落ちる時はカメラの動画モードのボタンを押し忘れないように心の準備をした。落ちるのならせめて樹木の上に落ちて欲しいと祈った。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> 画像中央の岩壁の下が谷底、遠くに駐車場が見える。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     画像中央の岩壁の下が谷底、遠くに駐車場が見える。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> 谷底の上を過ぎると風も収まり揺れもなくなって気分的に落ち着いてきた。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     谷底の上を過ぎると風も収まり揺れもなくなって気分的に落ち着いてきた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから<br /><br /> 

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラリフトから

     

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 廟群遊覧券18元249円<br /><br /> ようやく山頂駅に着き時計を見ると乗っていたのは12分間だったが、1時間位乗っていた感じだった。<br />山頂駅から少し歩いたあたりのゲートで今度は廟群遊覧券を買わされた。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 廟群遊覧券18元249円

     ようやく山頂駅に着き時計を見ると乗っていたのは12分間だったが、1時間位乗っていた感じだった。
    山頂駅から少し歩いたあたりのゲートで今度は廟群遊覧券を買わされた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラ山頂駅近くで<br /><br /> 以下の説明文はウィキペディアから引用<br /> 恒山は、道教の五岳の一つ、北岳。中国山西省大同市にあり、北を司るとされる。最高標高は2,016m。中国本土では五指に入る最高峰である。八仙のひとり張果老が住まうとされている。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラ山頂駅近くで

     以下の説明文はウィキペディアから引用
     恒山は、道教の五岳の一つ、北岳。中国山西省大同市にあり、北を司るとされる。最高標高は2,016m。中国本土では五指に入る最高峰である。八仙のひとり張果老が住まうとされている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 道教は、中国三教(儒教・仏教・道教)の一つで、中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。<br /> 

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     道教は、中国三教(儒教・仏教・道教)の一つで、中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。
     

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は?(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それは1つの道に成ろうとしている。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は?(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それは1つの道に成ろうとしている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 現在でも台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在では共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっている。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     現在でも台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在では共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ミニ懸空寺があった。<br /><br /> 老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ミニ懸空寺があった。

     老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 道教は複数の要素を含み、様々な論が試された。<br />梁の時代の文学理論家劉勰著『滅惑論』では、「道教三品」として、上:老子、次:神仙、下:張陵を襲う(醮事章符)と記している。これはそれぞれ老子の無為や虚柔の思想、神仙の術、祭祀や上章(神々への上奏文を燃やす儀式)および符書(お札)の類を指す。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     道教は複数の要素を含み、様々な論が試された。
    梁の時代の文学理論家劉勰著『滅惑論』では、「道教三品」として、上:老子、次:神仙、下:張陵を襲う(醮事章符)と記している。これはそれぞれ老子の無為や虚柔の思想、神仙の術、祭祀や上章(神々への上奏文を燃やす儀式)および符書(お札)の類を指す。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 広大な駐車場が見える。<br /><br /> 元の馬端臨は『文献通考』「経籍考」にて道教が雑多であると述べ、「清浄」「煉養」「服食」「符録」「経典科教」の5つを要素に挙げている。「清浄」は黄帝・老子・列子・荘子らの著にある清浄無為の思想、「煉養」は赤松子や魏伯陽らに代表される内丹などの修練、「服食」は盧生や李少君らに代表される外丹服薬、「符録」は張陵や寇謙之などに代表される符を用いた呪術、「経典科教」は杜光庭など道士と彼らが膨大な経典を元に行う儀礼をそれぞれ指す。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 広大な駐車場が見える。

     元の馬端臨は『文献通考』「経籍考」にて道教が雑多であると述べ、「清浄」「煉養」「服食」「符録」「経典科教」の5つを要素に挙げている。「清浄」は黄帝・老子・列子・荘子らの著にある清浄無為の思想、「煉養」は赤松子や魏伯陽らに代表される内丹などの修練、「服食」は盧生や李少君らに代表される外丹服薬、「符録」は張陵や寇謙之などに代表される符を用いた呪術、「経典科教」は杜光庭など道士と彼らが膨大な経典を元に行う儀礼をそれぞれ指す。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> どちらの書も、それぞれの要素は並列するだけでなく、歴史的な出現順を追って書かれた。仏教の立場から道教を批判的に書いた『滅惑論』も、その流れを汲み著された『文献通考』も、古い要素(老子の教え)は良いが、時代が下るほどに価値のないものになると論じている。以下、『滅惑論』の区分で解説する。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     どちらの書も、それぞれの要素は並列するだけでなく、歴史的な出現順を追って書かれた。仏教の立場から道教を批判的に書いた『滅惑論』も、その流れを汲み著された『文献通考』も、古い要素(老子の教え)は良いが、時代が下るほどに価値のないものになると論じている。以下、『滅惑論』の区分で解説する。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 老子は実在の人物か否かの意見は分かれ、司馬遷の『史記』も自身に裏打ちされた記述とは言えない。著書『老子道徳経』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書や郭店楚簡から類推するに、戦国時代後期には知られていたと考えられる。また「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった。<br /> その一方で『老子道徳経』本来の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えたような黄老思想となった。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが、武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     老子は実在の人物か否かの意見は分かれ、司馬遷の『史記』も自身に裏打ちされた記述とは言えない。著書『老子道徳経』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書や郭店楚簡から類推するに、戦国時代後期には知られていたと考えられる。また「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった。
     その一方で『老子道徳経』本来の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えたような黄老思想となった。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが、武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 関帝廟<br /><br /> 老子とは別に道教の源流の一つとなった神仙とは、東の海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、飛翔や不老不死などの能力を持つ人にあらざる僊人(仙人)や羽人を指す伝説である。やがて方術や医学が発展すると、人でもある方法を積めば仙人になれるという考えが興った。<br /> 『漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。しかしそこに使われた単語から内容を類推できる。「歩引」は馬王堆から発見された図「導引」と等しく呼吸法などを含めた体の屈伸運動で、長生きの法の一つである。「按摩」は現代と同じ意味、「芝菌」は神仙が食べたというキノコ、「黄治」は錬丹術を指す。これらは黄帝や伏羲など神話的人物の技とみなされていた。また『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論であった経絡や陰陽、また針灸などの技法)、「経方」(本草すなわち薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った。<br /> 『漢書』以外にも様々な法技行われていた。呼吸法のひとつ「吐故納新」、五臓を意識して行う瞑想の「化色五倉の術」、禹の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などが伝わる。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 関帝廟

     老子とは別に道教の源流の一つとなった神仙とは、東の海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、飛翔や不老不死などの能力を持つ人にあらざる僊人(仙人)や羽人を指す伝説である。やがて方術や医学が発展すると、人でもある方法を積めば仙人になれるという考えが興った。
     『漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。しかしそこに使われた単語から内容を類推できる。「歩引」は馬王堆から発見された図「導引」と等しく呼吸法などを含めた体の屈伸運動で、長生きの法の一つである。「按摩」は現代と同じ意味、「芝菌」は神仙が食べたというキノコ、「黄治」は錬丹術を指す。これらは黄帝や伏羲など神話的人物の技とみなされていた。また『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論であった経絡や陰陽、また針灸などの技法)、「経方」(本草すなわち薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った。
     『漢書』以外にも様々な法技行われていた。呼吸法のひとつ「吐故納新」、五臓を意識して行う瞑想の「化色五倉の術」、禹の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などが伝わる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 様々な神々を祀る寺院に庶民が参る風景は、道教をイメージする代表的風景である。この源流は、殷の上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものが考えられる。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられた。<br /> また道教では神秘的な「符」を用いて護身や鬼の使役ができると考えられた。睡虎地秦簡・日書には符の存在を暗示する「禹符」の文字や馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。洛陽郊外の邙山漢墓は延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された。<br /> どのようにして現在のような宗教的思想体系になったのか、ほとんど不明である。その他の要素では、老荘(道家)の「玄」と「真」の形而上学、さらに中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などが重層的・複合的に取り入れられたと考えられる。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     様々な神々を祀る寺院に庶民が参る風景は、道教をイメージする代表的風景である。この源流は、殷の上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものが考えられる。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられた。
     また道教では神秘的な「符」を用いて護身や鬼の使役ができると考えられた。睡虎地秦簡・日書には符の存在を暗示する「禹符」の文字や馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。洛陽郊外の邙山漢墓は延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された。
     どのようにして現在のような宗教的思想体系になったのか、ほとんど不明である。その他の要素では、老荘(道家)の「玄」と「真」の形而上学、さらに中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などが重層的・複合的に取り入れられたと考えられる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 道教とは、「道の教え」である。広義には、「従うべき聖人の教え」という意味で、この語(道教)は使われる。この場合儒教や仏教を指すこともある。実際、「道学」と言えば、それは儒学を指す。狭義には、「『老子』や『荘子』の中で述べられているような道の教え」「老荘」と言う意味で使われる場合もある。そして、この「老荘」と関連して、「5世紀に歴史的に形成された道教」(茅山派)という意味でも、使われる。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     道教とは、「道の教え」である。広義には、「従うべき聖人の教え」という意味で、この語(道教)は使われる。この場合儒教や仏教を指すこともある。実際、「道学」と言えば、それは儒学を指す。狭義には、「『老子』や『荘子』の中で述べられているような道の教え」「老荘」と言う意味で使われる場合もある。そして、この「老荘」と関連して、「5世紀に歴史的に形成された道教」(茅山派)という意味でも、使われる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 「老荘の思想」と「5世紀に歴史的に形成された道教」とは、伝統的に中国では前者を《道家》と呼んで後者の神仙思想を下にした道教とは厳密に区別されるが、欧米では両者ともに“Taoism”と呼ばれたため、それを承けて近年は道教と道家は同じものを指すと考えられるようになった。<br /> 道(タオ)は、自然とか無為と同義とされ、また陰陽の思想で説明される。道は真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれる。これらの思想は、太極図で示される。朱子学として大成される宋学の形成に重要な役割を担ったのは、この太極図である。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     「老荘の思想」と「5世紀に歴史的に形成された道教」とは、伝統的に中国では前者を《道家》と呼んで後者の神仙思想を下にした道教とは厳密に区別されるが、欧米では両者ともに“Taoism”と呼ばれたため、それを承けて近年は道教と道家は同じものを指すと考えられるようになった。
     道(タオ)は、自然とか無為と同義とされ、また陰陽の思想で説明される。道は真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれる。これらの思想は、太極図で示される。朱子学として大成される宋学の形成に重要な役割を担ったのは、この太極図である。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 初期の教団組織の面での形成は、神祭儀礼の完成や神学教理より遅れた。同時期に整って行った仏教教団の影響も大きい。教義面に関しての一応の成立は南北朝初期の寇謙之を遡らないが、宗教としての教団組織と儀礼と神学教理の三要素が完成したといえるのがいつなのかは難しい問題であり、隋から五代にかけて、漠然と唐代を中心にした時期とみられる。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     初期の教団組織の面での形成は、神祭儀礼の完成や神学教理より遅れた。同時期に整って行った仏教教団の影響も大きい。教義面に関しての一応の成立は南北朝初期の寇謙之を遡らないが、宗教としての教団組織と儀礼と神学教理の三要素が完成したといえるのがいつなのかは難しい問題であり、隋から五代にかけて、漠然と唐代を中心にした時期とみられる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得た神書『太平清領書』を弟子が順帝に献上したが役人によって死蔵された。これを入手した張角が、「黄老道を奉事」して立ち上げた宗教集団が太平道である。実際の活動は「首過」(天や鬼神への懺悔)や「符水」(符を入れた水を飲む)などで病を癒すようなものだったが、後漢末期の不安定な時代に多くの信者を集め、やがて軍隊のような組織化を成した。そのため政府から弾圧を受けたが、184年ついに蜂起、これが黄巾の乱である。しかし太平道は間もなく鎮圧され、教団は壊滅した。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得た神書『太平清領書』を弟子が順帝に献上したが役人によって死蔵された。これを入手した張角が、「黄老道を奉事」して立ち上げた宗教集団が太平道である。実際の活動は「首過」(天や鬼神への懺悔)や「符水」(符を入れた水を飲む)などで病を癒すようなものだったが、後漢末期の不安定な時代に多くの信者を集め、やがて軍隊のような組織化を成した。そのため政府から弾圧を受けたが、184年ついに蜂起、これが黄巾の乱である。しかし太平道は間もなく鎮圧され、教団は壊滅した。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 太平道よりやや遅れ、蜀で張陵が興した五斗米道(天師道)も道徳的反省を行い鬼神の祟りを避け病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。しかしこちらは政治と上手く折り合いをつけ、また天師(教主)を頂点に置いたしっかりした教団組織を持つなどの違いから発展し、3代目張魯の頃には蜀から中原に広まっていた。魏の曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河や渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     太平道よりやや遅れ、蜀で張陵が興した五斗米道(天師道)も道徳的反省を行い鬼神の祟りを避け病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。しかしこちらは政治と上手く折り合いをつけ、また天師(教主)を頂点に置いたしっかりした教団組織を持つなどの違いから発展し、3代目張魯の頃には蜀から中原に広まっていた。魏の曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河や渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 後に八王の乱など戦乱を避けた信者の一部は江南に移り、天師道と呼ばれるようになった教団は南北に分かれた。北では、北魏の時代に天師となった寇謙之が房中術などで堕落した教団の綱紀粛正を実施し、彼に心酔した太武帝によって天師道は国教にまでなった。しかし寇謙之が亡くなると元の木阿弥になった。南では、宋の歴代皇帝から尊敬を集めた陸修静が同様に綱紀粛正を主張した。彼は明帝に請われて建康に建てられた崇虎観に入り、ここで著述とともに、さまざまな道教系の経典を蒐集整理し、道教の基本経典「三洞」を定め『三洞経書目録』を作成した。宋末期にはこれに「四輔」が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系成立が、道教を儒教・仏教と並ぶ三教のひとつに並ばせる端緒となった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     後に八王の乱など戦乱を避けた信者の一部は江南に移り、天師道と呼ばれるようになった教団は南北に分かれた。北では、北魏の時代に天師となった寇謙之が房中術などで堕落した教団の綱紀粛正を実施し、彼に心酔した太武帝によって天師道は国教にまでなった。しかし寇謙之が亡くなると元の木阿弥になった。南では、宋の歴代皇帝から尊敬を集めた陸修静が同様に綱紀粛正を主張した。彼は明帝に請われて建康に建てられた崇虎観に入り、ここで著述とともに、さまざまな道教系の経典を蒐集整理し、道教の基本経典「三洞」を定め『三洞経書目録』を作成した。宋末期にはこれに「四輔」が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系成立が、道教を儒教・仏教と並ぶ三教のひとつに並ばせる端緒となった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 三洞四輔の「三洞」とは、洞真経・洞玄経・洞神経の3つであり、元々はそれぞれ上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)と言い、別々の集団によって伝えられた。<br />三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、山東省任城の女性・魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人・許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという。これは、精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く。後に活躍した道士の陶弘景は、この上清経をとりわけ重視した。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     三洞四輔の「三洞」とは、洞真経・洞玄経・洞神経の3つであり、元々はそれぞれ上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)と言い、別々の集団によって伝えられた。
    三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、山東省任城の女性・魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人・許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという。これは、精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く。後に活躍した道士の陶弘景は、この上清経をとりわけ重視した。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 霊宝経の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にある。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備されたという。その内容は仏教特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である。<br /> 三皇経という名は天皇・地皇・人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという。<br /> 「四輔」は「三洞」を補足するもので、4部に纏められた。太玄部は『老子道徳経』および関係する経典類、太平部は残存した『太平経』、太清部は金丹術に関係した文献類、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     霊宝経の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にある。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備されたという。その内容は仏教特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である。
     三皇経という名は天皇・地皇・人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという。
     「四輔」は「三洞」を補足するもので、4部に纏められた。太玄部は『老子道徳経』および関係する経典類、太平部は残存した『太平経』、太清部は金丹術に関係した文献類、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 参観券35元484円<br /><br /> これが最後の券で1番高い35元、最後に1番高い券を買わせる恐るべき中国商法、合計金額83元1,150円になっていた。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 参観券35元484円

     これが最後の券で1番高い35元、最後に1番高い券を買わせる恐るべき中国商法、合計金額83元1,150円になっていた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 「四輔」太清部は金丹の術関連の書が纏められている。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた。<br /> 金丹は古くから興っていたと考えられるが、西晋の頃に方法論の文献『抱朴子』が、「三洞」の霊宝経を伝えた一派とも密接に関係していた葛洪によって著された。彼によると、後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。葛洪は方法を知りながらも経済的理由で必要な金属や鉱物を入手できないため実践に至らないと言っていた。<br /> 彼に代表される金丹に重きを置く集団と、五斗米道・天師道のような教団を形成していた人々は、どちらも同じく仙人を目指すところで同じだったが、ただどの方法を重視するかという差があるに過ぎなかった。そのため反目など起こらず、むしろ密接に繋がり、場合によっては婚姻関係にあるなど重なり合っていた。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     「四輔」太清部は金丹の術関連の書が纏められている。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた。
     金丹は古くから興っていたと考えられるが、西晋の頃に方法論の文献『抱朴子』が、「三洞」の霊宝経を伝えた一派とも密接に関係していた葛洪によって著された。彼によると、後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。葛洪は方法を知りながらも経済的理由で必要な金属や鉱物を入手できないため実践に至らないと言っていた。
     彼に代表される金丹に重きを置く集団と、五斗米道・天師道のような教団を形成していた人々は、どちらも同じく仙人を目指すところで同じだったが、ただどの方法を重視するかという差があるに過ぎなかった。そのため反目など起こらず、むしろ密接に繋がり、場合によっては婚姻関係にあるなど重なり合っていた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 南北朝の北朝では、道教は儒教および仏教と三つ巴の抗争時代へと入り、それは権力者の目前で論争するという敗れれば存亡に関わる厳しい状況で行われた。そのため充分な理論の形成が必要となった。南朝で形成された「三洞四輔」をさらに深め三洞をそれぞれ12部に分けて充実させた「三十六部尊経」を作り上げた。さらに北周時代には武帝が主導して初期の教理書『無上秘書』が完成した。<br /> また、特に対立した仏教に対する優位性を示すため、老子が西域に渡り釈迦になったという説を西晋の王浮が述べた『老子化胡経』や、仏教の「三界二十八天」を上回る「三界三十六天説」を作り出すなど、教理の拡充と強化を進めた。<br /> これら教理の体系を解説する史書に『隋書』経籍志の道教解説部分がある。不滅の神である元始天尊がおられ、その下で天地は「劫」という41億万年毎に生成と消滅を繰り返す。世界が生成された際、元始天尊は秘道を神仙らを介して人間に授ける。道教を学びたい者は入門すると先ず『五千文録』(『老子道徳経』)の勉強から始め、進捗に応じて『三洞(皇?)籙』(三皇経)、『洞真籙』(霊宝経)、『上清籙』(上清経)が、祭壇を設け星宿を祀る大掛かりな儀式の下で与えられる。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     南北朝の北朝では、道教は儒教および仏教と三つ巴の抗争時代へと入り、それは権力者の目前で論争するという敗れれば存亡に関わる厳しい状況で行われた。そのため充分な理論の形成が必要となった。南朝で形成された「三洞四輔」をさらに深め三洞をそれぞれ12部に分けて充実させた「三十六部尊経」を作り上げた。さらに北周時代には武帝が主導して初期の教理書『無上秘書』が完成した。
     また、特に対立した仏教に対する優位性を示すため、老子が西域に渡り釈迦になったという説を西晋の王浮が述べた『老子化胡経』や、仏教の「三界二十八天」を上回る「三界三十六天説」を作り出すなど、教理の拡充と強化を進めた。
     これら教理の体系を解説する史書に『隋書』経籍志の道教解説部分がある。不滅の神である元始天尊がおられ、その下で天地は「劫」という41億万年毎に生成と消滅を繰り返す。世界が生成された際、元始天尊は秘道を神仙らを介して人間に授ける。道教を学びたい者は入門すると先ず『五千文録』(『老子道徳経』)の勉強から始め、進捗に応じて『三洞(皇?)籙』(三皇経)、『洞真籙』(霊宝経)、『上清籙』(上清経)が、祭壇を設け星宿を祀る大掛かりな儀式の下で与えられる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 隋王朝は、最初の年号「開皇」こそ道教の劫から採り定めたが、基本的には仏教に重きを置いていた。しかし次の唐は、珍しい崇道の王朝であった。高祖李淵と次男李世民は、易姓革命の戦いの中で難局に立った際、現れた白髪の老人に導かれて窮地を脱したと言い、その後も現れては助言を下す老人は李淵の先祖に当たる老子だと名乗ったという言い伝えがある。これは道士の王遠知による演出という説もあるが、唐王朝は老子を宗室の祖と仰ぎ、宮中での道教の席次を仏教の上に置いく道先仏後の態を採った。<br /> 唐代の道教重視は科挙に強く反映され、高宗時代には『老子道徳経』が項目に加えられ、玄宗時にはさらに『荘子』『列子』『文子』も加わった。玄宗は司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、自ら『道徳経』の注釈書を作り、崇玄学(道教の学校)を設置してその試験の合格者は貢挙の及第者と同格とされた(道挙)。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     隋王朝は、最初の年号「開皇」こそ道教の劫から採り定めたが、基本的には仏教に重きを置いていた。しかし次の唐は、珍しい崇道の王朝であった。高祖李淵と次男李世民は、易姓革命の戦いの中で難局に立った際、現れた白髪の老人に導かれて窮地を脱したと言い、その後も現れては助言を下す老人は李淵の先祖に当たる老子だと名乗ったという言い伝えがある。これは道士の王遠知による演出という説もあるが、唐王朝は老子を宗室の祖と仰ぎ、宮中での道教の席次を仏教の上に置いく道先仏後の態を採った。
     唐代の道教重視は科挙に強く反映され、高宗時代には『老子道徳経』が項目に加えられ、玄宗時にはさらに『荘子』『列子』『文子』も加わった。玄宗は司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、自ら『道徳経』の注釈書を作り、崇玄学(道教の学校)を設置してその試験の合格者は貢挙の及第者と同格とされた(道挙)。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> しかし皇帝の面前で三宗が行う論争は続けられた。この頃の仏教は、西域から逐次伝わるさまざまな経典の間に整合性を持たせる必要から系統的な解釈を重ね、教相判釈という中国独自の価値序列を編み出し、思弁性を高めた。これに対抗し論争ができるよう、道教側も時に仏教的な要素も吸収しながら理論の深化を推し進めた。唐の時代を代表する経典『太上一乗海空智蔵経』(『海空経』)や『太玄真一本際経』『大乗妙林経』などには「道性」(「道」を具えた本性)を誰しもが持つと説くが、これは仏教の『涅槃経』が言う「仏性」の概念から導入されている。他にも司馬承禎の『坐忘論』は禅定論の「止観」の影響を受けている。ただしこれらは単純な模倣ではなく、それぞれに老子や荘子らの思想を下敷きに置きながら、思弁性を高めたものである。<br /> 唐の特に末期には、金丹が隆盛になった。財力豊富な皇帝たちは練丹にも手を出し、多くの道士を宮廷に招いた。しかしその結果、多くは中毒死に結びつき穆宗・武宗・宣宗が命を落とした。文人などにも流行し、儒者である韓愈も硫黄を服用し亡くなったという。結局は成果を挙げられない金丹は、内丹の興隆もあって唐代を最後に廃れ始めた。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     しかし皇帝の面前で三宗が行う論争は続けられた。この頃の仏教は、西域から逐次伝わるさまざまな経典の間に整合性を持たせる必要から系統的な解釈を重ね、教相判釈という中国独自の価値序列を編み出し、思弁性を高めた。これに対抗し論争ができるよう、道教側も時に仏教的な要素も吸収しながら理論の深化を推し進めた。唐の時代を代表する経典『太上一乗海空智蔵経』(『海空経』)や『太玄真一本際経』『大乗妙林経』などには「道性」(「道」を具えた本性)を誰しもが持つと説くが、これは仏教の『涅槃経』が言う「仏性」の概念から導入されている。他にも司馬承禎の『坐忘論』は禅定論の「止観」の影響を受けている。ただしこれらは単純な模倣ではなく、それぞれに老子や荘子らの思想を下敷きに置きながら、思弁性を高めたものである。
     唐の特に末期には、金丹が隆盛になった。財力豊富な皇帝たちは練丹にも手を出し、多くの道士を宮廷に招いた。しかしその結果、多くは中毒死に結びつき穆宗・武宗・宣宗が命を落とした。文人などにも流行し、儒者である韓愈も硫黄を服用し亡くなったという。結局は成果を挙げられない金丹は、内丹の興隆もあって唐代を最後に廃れ始めた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 宋の時代は、中国の大きな転換期であった。五代十国時代の混乱で貴族階級は衰え地主層が台頭、商業や生産技術が活発になり、印刷技術の普及は知識や文化を裕福な庶民層に広げた。<br /> そのような中、道教も民間からの様々なものが持ち込まれた。唐代までの仙人とは、『列仙伝』や『神仙伝』などで語られる存在だったが、宋代には民間から信仰される対象が仙人に列された。その代表が呂洞賓という唐後期から五代に生き弱者や善良な者を助け、道教の布教を行ったと伝わる人物である。彼を中心に様々な人物が八仙と呼ばれて敬われた。他にも、玉皇は真武神(北極玄天上帝)、三国志の英傑関羽(關帝)なども民間信仰に発し、後に王朝が権威を与えた仙人である。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     宋の時代は、中国の大きな転換期であった。五代十国時代の混乱で貴族階級は衰え地主層が台頭、商業や生産技術が活発になり、印刷技術の普及は知識や文化を裕福な庶民層に広げた。
     そのような中、道教も民間からの様々なものが持ち込まれた。唐代までの仙人とは、『列仙伝』や『神仙伝』などで語られる存在だったが、宋代には民間から信仰される対象が仙人に列された。その代表が呂洞賓という唐後期から五代に生き弱者や善良な者を助け、道教の布教を行ったと伝わる人物である。彼を中心に様々な人物が八仙と呼ばれて敬われた。他にも、玉皇は真武神(北極玄天上帝)、三国志の英傑関羽(關帝)なども民間信仰に発し、後に王朝が権威を与えた仙人である。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> また、金丹が衰え内丹術が隆盛になったのもこの頃である。内丹とは瞑想などを通じて体内の気を練り神(しん、こころ)を通じて体の中に金丹を生み、不老長寿に至る方法論である。これも過去の金丹が莫大な出費を要するのに対し、基本的に身体のみを使う内丹は誰でも取り組める上、出版により手軽に広がった事もある。内丹も当初は2系統があり、ひとつは「気」の修練を重視し肉体的な不老不死を目指す「命宗」と、もうひとつは「神性」の修練に重きを置く「性宗」であり、こちらは禅の思想に近い。この2つの系統ややがて性宗が優勢になり、道教は内面化・精神化の傾向を強めてゆく。<br /> 道教の一側面である咒術にも「雷法」という新しい概念が持ち込まれた。雷を天の意思を代行する雷帝(九天応声雷元普化天尊雷官)による悪しき者を罰する正義の力と考え、内丹で練った神気を外に向ければ強烈な力を使役できると考えられた。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     また、金丹が衰え内丹術が隆盛になったのもこの頃である。内丹とは瞑想などを通じて体内の気を練り神(しん、こころ)を通じて体の中に金丹を生み、不老長寿に至る方法論である。これも過去の金丹が莫大な出費を要するのに対し、基本的に身体のみを使う内丹は誰でも取り組める上、出版により手軽に広がった事もある。内丹も当初は2系統があり、ひとつは「気」の修練を重視し肉体的な不老不死を目指す「命宗」と、もうひとつは「神性」の修練に重きを置く「性宗」であり、こちらは禅の思想に近い。この2つの系統ややがて性宗が優勢になり、道教は内面化・精神化の傾向を強めてゆく。
     道教の一側面である咒術にも「雷法」という新しい概念が持ち込まれた。雷を天の意思を代行する雷帝(九天応声雷元普化天尊雷官)による悪しき者を罰する正義の力と考え、内丹で練った神気を外に向ければ強烈な力を使役できると考えられた。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 宋代の江南地方では、道士に資格と位を授ける拠点を基礎に、道教の宗派が形成された。これは「経?咸三山」と呼ばれる龍虎山(天師道系)、茅山(上清派系)、閤?・山(霊宝派系)の3つが過去からの正統をそれぞれ主張しながら権威を誇った。しかしやがて龍虎山が隆盛を誇り、江南全域の総本山となった。その頃には教派名も「正一」が使われ、正一教(正一派)と呼ばれるようになった。<br /> 一方、河北は金の領地となり、不安定な政治状態に陥った。女真族の王朝は宗教統制に馴れなかった事もあり、新興の教派が人心を集めた。特に大きな組織となり元代まで続いたのが太一教・真大道教・全真教の3派であった。このうち太一教と真大道教はやがて衰退したが、全真教は七真人と呼ばれた高弟のひとり丘処機がチンギス・カンと会見するなど王朝の後見を受けて勢力を伸ばした。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     宋代の江南地方では、道士に資格と位を授ける拠点を基礎に、道教の宗派が形成された。これは「経?咸三山」と呼ばれる龍虎山(天師道系)、茅山(上清派系)、閤?・山(霊宝派系)の3つが過去からの正統をそれぞれ主張しながら権威を誇った。しかしやがて龍虎山が隆盛を誇り、江南全域の総本山となった。その頃には教派名も「正一」が使われ、正一教(正一派)と呼ばれるようになった。
     一方、河北は金の領地となり、不安定な政治状態に陥った。女真族の王朝は宗教統制に馴れなかった事もあり、新興の教派が人心を集めた。特に大きな組織となり元代まで続いたのが太一教・真大道教・全真教の3派であった。このうち太一教と真大道教はやがて衰退したが、全真教は七真人と呼ばれた高弟のひとり丘処機がチンギス・カンと会見するなど王朝の後見を受けて勢力を伸ばした。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> これら南北2つの派は元代末期には二大宗派となり、明代初期には国家の制度に組み込まれて正一と全真が正当な道教の宗派と定められた。どちらも道観を拠点に道士が宗教活動を行う点で共通するが、出家した道士に戒律を伝授し資格を認める厳しさを持つ全真に対し、正一は符?咸を与える制度で地位を与えられた道士には妻帯も許された。その後も小さな派閥が生まれては消えたが、正一と全真を本流とする道教の構造は今に引き継がれている。<br /><br /> <br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     これら南北2つの派は元代末期には二大宗派となり、明代初期には国家の制度に組み込まれて正一と全真が正当な道教の宗派と定められた。どちらも道観を拠点に道士が宗教活動を行う点で共通するが、出家した道士に戒律を伝授し資格を認める厳しさを持つ全真に対し、正一は符?咸を与える制度で地位を与えられた道士には妻帯も許された。その後も小さな派閥が生まれては消えたが、正一と全真を本流とする道教の構造は今に引き継がれている。

     

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 20世紀に入ると道教が拠点とする道観が2つの形態に分かれた。正一教の小規模な子孫派(小道院)となり、住持がおり弟子から後継者を選ぶ形式を持った。全真教は大規模な十方派(十万叢林)という道観を持ち、各地の道士を集め修行を積む場となった。<br /><br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     20世紀に入ると道教が拠点とする道観が2つの形態に分かれた。正一教の小規模な子孫派(小道院)となり、住持がおり弟子から後継者を選ぶ形式を持った。全真教は大規模な十方派(十万叢林)という道観を持ち、各地の道士を集め修行を積む場となった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 1957年には全国的な組織である中国道教協会が設立され、社会主義体制内での信仰の自由を保つため、政府への協力を行った。しかし文化大革命の時期には他の宗教同様に攻撃の対象となり、道士は還俗し、多くの道観が破壊された。1980年代になると徐々に宗教活動が認められ、中国道教協会が運動して「全国重点道観」21箇所が国務院宗教事務局から指定されるなど、道教は復興を果たした。<br /> <br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     1957年には全国的な組織である中国道教協会が設立され、社会主義体制内での信仰の自由を保つため、政府への協力を行った。しかし文化大革命の時期には他の宗教同様に攻撃の対象となり、道士は還俗し、多くの道観が破壊された。1980年代になると徐々に宗教活動が認められ、中国道教協会が運動して「全国重点道観」21箇所が国務院宗教事務局から指定されるなど、道教は復興を果たした。
     

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 日本における道教、各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。<br /> 

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     日本における道教、各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。
     

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。<br /> この意味で日本において本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。<br /> しかし、例えば仏教などに融合しつつ体現された道教は存在したとする研究、または確立された道教の必要性も唱えられた。日本では吉岡義豊・福井康順・窪徳忠・福永光司・宮川尚志・澤田瑞穂等が道教研究をリードしている。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。
     この意味で日本において本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。
     しかし、例えば仏教などに融合しつつ体現された道教は存在したとする研究、または確立された道教の必要性も唱えられた。日本では吉岡義豊・福井康順・窪徳忠・福永光司・宮川尚志・澤田瑞穂等が道教研究をリードしている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 道教の廃止と共に、それに代わって、陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照。すなわち北極星という意味であるという説)。<br /> 五行思想は、日本における陰陽道の中核をなす思想である。もともとは暦法や易は易経に起源を持ち、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であった。占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。<br /><br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     道教の廃止と共に、それに代わって、陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照。すなわち北極星という意味であるという説)。
     五行思想は、日本における陰陽道の中核をなす思想である。もともとは暦法や易は易経に起源を持ち、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であった。占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br />ここには後世につたわる占術としての軽さは皆無であり常に研鑽も求められるものであったが、日本ではすでに確立されたツールとしての利用のみが伝わった。現在でも街頭で易者を見掛けるなどして根付いている。<br /> 古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

    ここには後世につたわる占術としての軽さは皆無であり常に研鑽も求められるものであったが、日本ではすでに確立されたツールとしての利用のみが伝わった。現在でも街頭で易者を見掛けるなどして根付いている。
     古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本や台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。風水では天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ、円になっている。<br /> 陰陽道の思想は沖縄の首里城、平城京・平安京・長岡京など古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本や台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。風水では天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ、円になっている。
     陰陽道の思想は沖縄の首里城、平城京・平安京・長岡京など古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば、庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。<br /> 辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば、庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。
     辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 恒山は、五岳の他の山々と同じく周時代から道教の聖地とされていたことが記録に残るが、他の四山ほど重要視されず、主要な巡礼地となることもなかったようである。漢時代には現在の北岳廟の前身となる寺院が山腹に建設されたが、遼がこの地を支配するようになると、宋朝の皇帝は恒山から南へおよそ150キロメートル離れた曲陽県に北岳を祀る廟を別に建設した。<br /><br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     恒山は、五岳の他の山々と同じく周時代から道教の聖地とされていたことが記録に残るが、他の四山ほど重要視されず、主要な巡礼地となることもなかったようである。漢時代には現在の北岳廟の前身となる寺院が山腹に建設されたが、遼がこの地を支配するようになると、宋朝の皇帝は恒山から南へおよそ150キロメートル離れた曲陽県に北岳を祀る廟を別に建設した。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 結構怖いでしょう。<br /><br /> 今日、恒山にある最も有名な寺院は道教寺院ではなく、仏教寺院の懸空寺である。懸空寺は恒山のふもとに近い絶壁に築かれた木造寺院である。創建は491年であるが、明時代 (1368年 - 1644年) および 清時代 (1644年 - 1911年) に大規模な修復が行われている。また、1900年には解体修理も実施された。40の木造堂宇が数々の柱や梁、廊などで巧みに繋がれている。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 結構怖いでしょう。

     今日、恒山にある最も有名な寺院は道教寺院ではなく、仏教寺院の懸空寺である。懸空寺は恒山のふもとに近い絶壁に築かれた木造寺院である。創建は491年であるが、明時代 (1368年 - 1644年) および 清時代 (1644年 - 1911年) に大規模な修復が行われている。また、1900年には解体修理も実施された。40の木造堂宇が数々の柱や梁、廊などで巧みに繋がれている。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 4千年前、舜が四方を巡遊したさい、その雄大さを目にして北岳に封じたと伝える。その後、秦の始皇帝、漢の武帝などが訪れ、祭りをしている。<br /> 西は雁門関(代県)、東は河北省まで、連綿として数百キロにわたって山西省の北部に横たわる。主峰は海抜2,017mで、東西両峰からなり、東を天峰嶺、西を翠屏山という。 主峰「天峰嶺」の前方にある北岳廟をはじめ、数々の廟が点在していて道教以外にも仏教の施設も多い。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     4千年前、舜が四方を巡遊したさい、その雄大さを目にして北岳に封じたと伝える。その後、秦の始皇帝、漢の武帝などが訪れ、祭りをしている。
    西は雁門関(代県)、東は河北省まで、連綿として数百キロにわたって山西省の北部に横たわる。主峰は海抜2,017mで、東西両峰からなり、東を天峰嶺、西を翠屏山という。 主峰「天峰嶺」の前方にある北岳廟をはじめ、数々の廟が点在していて道教以外にも仏教の施設も多い。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 以下の説明文「旅情中国」より引用<br /> 恒山は「塞北第一の名山」との美称があり、人々は北岳と呼び、東岳の泰山、南岳の衡山、中岳の嵩山とともに五岳と称されている。恒山は北方に位置し、古人は北方は万物が伏す恒常のところと考えたことが恒山の名の由来。<br /> 

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     以下の説明文「旅情中国」より引用
     恒山は「塞北第一の名山」との美称があり、人々は北岳と呼び、東岳の泰山、南岳の衡山、中岳の嵩山とともに五岳と称されている。恒山は北方に位置し、古人は北方は万物が伏す恒常のところと考えたことが恒山の名の由来。
     

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 恒山山脈は山西省北部と河北省北部にまたがり、東西に延々250km続き、秀麗な108の峰がある。 主峰は山西省渾源県に位置し、海抜2,017m、非常に雄大で「絶塞の名山」と称されている。その特殊な軍事戦略的位置から、歴代の軍事専門家から重視され、後に歴史的経験として「代国は恒山に依存して天下に残り、燕趙は恒山に依存して天下を立て、匈奴は恒山に依存して天下を争い、普慕容は恒山に依拠して天下に威を張り、拓跋氏は恒山を持って天下を分けた」と総括しており、これは恒山の軍事的価値を十分に証明するものである。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     恒山山脈は山西省北部と河北省北部にまたがり、東西に延々250km続き、秀麗な108の峰がある。 主峰は山西省渾源県に位置し、海抜2,017m、非常に雄大で「絶塞の名山」と称されている。その特殊な軍事戦略的位置から、歴代の軍事専門家から重視され、後に歴史的経験として「代国は恒山に依存して天下に残り、燕趙は恒山に依存して天下を立て、匈奴は恒山に依存して天下を争い、普慕容は恒山に依拠して天下に威を張り、拓跋氏は恒山を持って天下を分けた」と総括しており、これは恒山の軍事的価値を十分に証明するものである。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 恒山には漢代に廟が建立され、清代初めまでに主峰の周辺だけでも60数カ所に各種の寺院や廟が建てられた。 「三寺四祠七亭閣」とか「七宮八洞五廟」とも言われ、非常に壮観で大規模な古代建築群が形成され、道教文化の雰囲気も非常に濃厚だった。玄妙で古い中国道教は恒山に歴史の転換を経た足跡を残している。太上老君は千仏嶺で不老長寿の丹薬を作る。前漢の皇帝、宣帝年間、三茅真君(即ち茅盈、茅固、茅衷の兄弟三人)は神仙の術を修練し千年も聞かない三茅窟を残す。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     恒山には漢代に廟が建立され、清代初めまでに主峰の周辺だけでも60数カ所に各種の寺院や廟が建てられた。 「三寺四祠七亭閣」とか「七宮八洞五廟」とも言われ、非常に壮観で大規模な古代建築群が形成され、道教文化の雰囲気も非常に濃厚だった。玄妙で古い中国道教は恒山に歴史の転換を経た足跡を残している。太上老君は千仏嶺で不老長寿の丹薬を作る。前漢の皇帝、宣帝年間、三茅真君(即ち茅盈、茅固、茅衷の兄弟三人)は神仙の術を修練し千年も聞かない三茅窟を残す。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 北魏時代、太武帝に天師として崇められた冠謙之は道教の新法を宣揚し、その弟子の李皎は嵩岳から恒山に身を寄せて修練を積み、線香を上げ、一時極めて栄える。唐代、八仙の一人である張果老はここで修練し、恒山道教の道場の名を天下に広める。   <br /> 天峰嶺と翠屏峰は、恒山の東西の主峰である。互いに向き合い、断崖と緑帯、それぞれに層が鮮明で、絵巻のように美しい。峰の間の渓谷は静寂で、絶壁が両側に立ち、石が青空に挟まれているかのようで、最も狭いところでわずか10m。ここは昔も今も天険であり、交通の難所でもある。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     北魏時代、太武帝に天師として崇められた冠謙之は道教の新法を宣揚し、その弟子の李皎は嵩岳から恒山に身を寄せて修練を積み、線香を上げ、一時極めて栄える。唐代、八仙の一人である張果老はここで修練し、恒山道教の道場の名を天下に広める。
     天峰嶺と翠屏峰は、恒山の東西の主峰である。互いに向き合い、断崖と緑帯、それぞれに層が鮮明で、絵巻のように美しい。峰の間の渓谷は静寂で、絶壁が両側に立ち、石が青空に挟まれているかのようで、最も狭いところでわずか10m。ここは昔も今も天険であり、交通の難所でもある。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 217年秦の始皇帝は恒山を祭るために、ここを通った際、舞い上がる巨大な竜、口をあけて急速に流れ落ちる飛瀑を目にし、この真に迫った「巨大な竜が滝を吐く」様子は始皇帝を驚嘆させて止まなかった。「依然として神の竜なり」。後の人は崖に「金竜口」の3文字を刻んだことから、この渓谷は金竜峡と呼ばれるようになった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     217年秦の始皇帝は恒山を祭るために、ここを通った際、舞い上がる巨大な竜、口をあけて急速に流れ落ちる飛瀑を目にし、この真に迫った「巨大な竜が滝を吐く」様子は始皇帝を驚嘆させて止まなかった。「依然として神の竜なり」。後の人は崖に「金竜口」の3文字を刻んだことから、この渓谷は金竜峡と呼ばれるようになった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 北魏の時代、道武帝は兵士数万人を派遣し、山を切り開いて道を作り、中原に出入りする門とした。宋代には、楊業父子は懸崖を背に警備に当り、外部からの民族の侵入に抵抗した。   <br />「虎口懸松」や「果老仙迹」などは恒山の古代十八景であり、18副の美しい絵巻のごとき、観光客の足を止め、世を離れた桃源郷にいるかのように思わせる。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     北魏の時代、道武帝は兵士数万人を派遣し、山を切り開いて道を作り、中原に出入りする門とした。宋代には、楊業父子は懸崖を背に警備に当り、外部からの民族の侵入に抵抗した。
    「虎口懸松」や「果老仙迹」などは恒山の古代十八景であり、18副の美しい絵巻のごとき、観光客の足を止め、世を離れた桃源郷にいるかのように思わせる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 各廟内には白髪の長い髪、長いひげの仙人が2,3人はいたが、写真撮影は全て強く拒否された。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     各廟内には白髪の長い髪、長いひげの仙人が2,3人はいたが、写真撮影は全て強く拒否された。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 廟群は全て巡ったのでそろそろ下山することにしたが、歩いて下りるか、ゴンドラリフトで下りるかずっと迷っていた。あの恐怖感をまた味わうかと思うと歩くか、と思ったりしたが、1時間は掛かりそうだし・・・、それよりも生来の貧乏性が災いして乗車券45元が惜しくてゴンドラで下りる事にした。これで落ちたら笑いものになると思った。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     廟群は全て巡ったのでそろそろ下山することにしたが、歩いて下りるか、ゴンドラリフトで下りるかずっと迷っていた。あの恐怖感をまた味わうかと思うと歩くか、と思ったりしたが、1時間は掛かりそうだし・・・、それよりも生来の貧乏性が災いして乗車券45元が惜しくてゴンドラで下りる事にした。これで落ちたら笑いものになると思った。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから<br /><br /> 乗り始めたら気温が上がっていて谷底からの上昇気流と横風によって昇りの時より揺れが激しかった。それでも窓にアクリル板など無いから風が吹き抜けてその方が揺れに対して良いと思った。それにしてもこっちは恐怖で顔が引きつっているのにすれ違う中国人たちははしゃいでいる。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

     乗り始めたら気温が上がっていて谷底からの上昇気流と横風によって昇りの時より揺れが激しかった。それでも窓にアクリル板など無いから風が吹き抜けてその方が揺れに対して良いと思った。それにしてもこっちは恐怖で顔が引きつっているのにすれ違う中国人たちははしゃいでいる。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 谷底の真上から

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 谷底の真上から

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから<br /><br /> 山麓駅に着いてまさに「やれやれ」だった。「安全第一」とは書いてあるが、次に来た時は絶対に乗らない。<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 ゴンドラから

     山麓駅に着いてまさに「やれやれ」だった。「安全第一」とは書いてあるが、次に来た時は絶対に乗らない。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 駐車場の北側に割と新しい廟群があるので参観する事にした。幸い入場料は要らなかった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     駐車場の北側に割と新しい廟群があるので参観する事にした。幸い入場料は要らなかった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br />

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 威鎮清都

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 威鎮清都

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 真武廟

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 真武廟

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山 真武廟

    平成22年6月11日(金)北岳恒山 真武廟

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山<br /><br /> 廟巡りも終わり駐車場に戻ると、来た時と違って広大な駐車場には多くのタクシーがいて、どのタクシーだったか分からなくなってうろうろしていたら運ちゃんが見つけてくれた。時計を見ると丁度14時で3時間の廟巡りだった。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山

     廟巡りも終わり駐車場に戻ると、来た時と違って広大な駐車場には多くのタクシーがいて、どのタクシーだったか分からなくなってうろうろしていたら運ちゃんが見つけてくれた。時計を見ると丁度14時で3時間の廟巡りだった。

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山から下山途中から

    平成22年6月11日(金)北岳恒山から下山途中から

  • 平成22年6月11日(金)北岳恒山から大同市に戻る途中<br /><br /> ポプラ並木の街道は中国らしい風景の一つで癒される。

    平成22年6月11日(金)北岳恒山から大同市に戻る途中

     ポプラ並木の街道は中国らしい風景の一つで癒される。

  • 平成22年6月11日(金)大同市<br />

    平成22年6月11日(金)大同市

  • 平成22年6月11日(金)大同市

    平成22年6月11日(金)大同市

  • 平成22年6月11日(金)大同市<br /><br /> ホテルに戻ったのは15時半過ぎだった。運ちゃんとの会話らしき会話は無かったが温厚で真面目な性格は伝わって来たし、何よりも心配していた交通事故に遭わなかったのでほっとした。

    平成22年6月11日(金)大同市

     ホテルに戻ったのは15時半過ぎだった。運ちゃんとの会話らしき会話は無かったが温厚で真面目な性格は伝わって来たし、何よりも心配していた交通事故に遭わなかったのでほっとした。

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