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平成22年(2010年)6月1日から6月16日まで神戸~上海~シルクロード河西回廊<br />(西安~敦煌)~大同~青島~下関11,800キロを船と列車での一人旅をした。<br /> 本当は青蔵鉄道でラサへ行きたかったが、ラサで高山病が悪化した場合、<br />強制的にヘリコプターで成都の病院まで輸送される、と云う事が判り、<br />また、2008年5月12日四川大地震が、旅行直前には2010年4月14日に<br />青海地震が、発生したのでラサ行は断念した。<br /> 他にも昆明は干ばつによる乾燥の影響で感染病が蔓延し、桂林の漓江下りは<br />4月初めまでは干ばつの影響で、通常ルートの半分くらいに短縮されていたが、<br />大雨が振り、今は逆に洪水で漓江下りは中止となっていて、ウルムチは<br />2009年ウイグル騒乱による外務省の渡航自粛が出されていたので、結局、行先は<br />旅行記のタイトルとなった。<br /> 飛行機に乗らない、乗れない旅は何かと限定されるのである。<br /><br /> ご参考まで<br />激変前の80年代 大阪港~上海航路~上海~蘇州~上海~杭州西湖~上海~上海航路~神戸港 1/3~3/3<br />http://4travel.jp/travelogue/11030574<br />http://4travel.jp/travelogue/11032025<br />http://4travel.jp/travelogue/11032698

飛行機に乗らずに神戸~上海~西安~敦煌~嘉峪関~大同~青島~下関11,800キロの旅 vol.17 雲岡石窟

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2010/06/01 - 2010/06/16

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ノスタルジア

ノスタルジアさん

平成22年(2010年)6月1日から6月16日まで神戸~上海~シルクロード河西回廊
(西安~敦煌)~大同~青島~下関11,800キロを船と列車での一人旅をした。
 本当は青蔵鉄道でラサへ行きたかったが、ラサで高山病が悪化した場合、
強制的にヘリコプターで成都の病院まで輸送される、と云う事が判り、
また、2008年5月12日四川大地震が、旅行直前には2010年4月14日に
青海地震が、発生したのでラサ行は断念した。
 他にも昆明は干ばつによる乾燥の影響で感染病が蔓延し、桂林の漓江下りは
4月初めまでは干ばつの影響で、通常ルートの半分くらいに短縮されていたが、
大雨が振り、今は逆に洪水で漓江下りは中止となっていて、ウルムチは
2009年ウイグル騒乱による外務省の渡航自粛が出されていたので、結局、行先は
旅行記のタイトルとなった。
 飛行機に乗らない、乗れない旅は何かと限定されるのである。

 ご参考まで
激変前の80年代 大阪港~上海航路~上海~蘇州~上海~杭州西湖~上海~上海航路~神戸港 1/3~3/3
http://4travel.jp/travelogue/11030574
http://4travel.jp/travelogue/11032025
http://4travel.jp/travelogue/11032698

同行者
一人旅
交通手段
タクシー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 大同 その周辺地図<br />6月1日(火)〜3日(木)神戸から船で上海<br />6月3日(木)〜4日(金)上海から列車で西安<br />6月4日(金)兵馬俑博物館、大慈恩寺 大雁塔 西安観光<br />6月5日(土)〜6日(日)西安観光 西安から列車で敦煌<br />6月6日(日)敦煌 莫高窟、鳴沙山観光<br />6月7日(月)ヤルダン地質公園、陽関、玉門関他タクシーで410キロ<br />6月8日(火)敦煌から列車で嘉峪関<br />6月9日(水)〜10日(木)嘉峪関から列車で大同<br />6月10日(木)雲岡石窟<br />6月11日(金)懸空寺、恒山他をタクシーで<br />6月12日(土)〜13日(日)雲岡石窟 大同から列車で青島<br />6月13日(日)青島観光<br />6月14日(月)〜16日(水)青島から船で下関

    大同 その周辺地図
    6月1日(火)〜3日(木)神戸から船で上海
    6月3日(木)〜4日(金)上海から列車で西安
    6月4日(金)兵馬俑博物館、大慈恩寺 大雁塔 西安観光
    6月5日(土)〜6日(日)西安観光 西安から列車で敦煌
    6月6日(日)敦煌 莫高窟、鳴沙山観光
    6月7日(月)ヤルダン地質公園、陽関、玉門関他タクシーで410キロ
    6月8日(火)敦煌から列車で嘉峪関
    6月9日(水)〜10日(木)嘉峪関から列車で大同
    6月10日(木)雲岡石窟
    6月11日(金)懸空寺、恒山他をタクシーで
    6月12日(土)〜13日(日)雲岡石窟 大同から列車で青島
    6月13日(日)青島観光
    6月14日(月)〜16日(水)青島から船で下関

  • 山西省観光ガイドマップ<br /><br />6月10日(木)雲岡石窟<br />6月11日(金)懸空寺、恒山他をタクシーで<br />6月12日(土)〜13日(日)雲岡石窟 大同から列車で青島<br />

    山西省観光ガイドマップ

    6月10日(木)雲岡石窟
    6月11日(金)懸空寺、恒山他をタクシーで
    6月12日(土)〜13日(日)雲岡石窟 大同から列車で青島

  • 平成22年6月10日(木)大同駅からホテルに向かう途中<br /><br /> 中国の学校は給食がない為、昼食は家に帰って食べた後また登校するので<br />道路は自転車でラッシュとなる。

    平成22年6月10日(木)大同駅からホテルに向かう途中

     中国の学校は給食がない為、昼食は家に帰って食べた後また登校するので
    道路は自転車でラッシュとなる。

  • 平成22年6月10日(木)大同駅からホテルに向かう途中

    平成22年6月10日(木)大同駅からホテルに向かう途中

  • 平成22年6月10日(木)大同<br />雁北賓館ホテル 4つ星クラス 1泊朝食付き6,300円 一番豪華なホテルだった。<br /><br /> 駅から歩くと1時間掛かった。

    平成22年6月10日(木)大同
    雁北賓館ホテル 4つ星クラス 1泊朝食付き6,300円 一番豪華なホテルだった。

     駅から歩くと1時間掛かった。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雁北賓館ホテル812号室

    平成22年6月10日(木)大同 雁北賓館ホテル812号室

  • 平成22年6月10日(木)大同 雁北賓館ホテルで1万円を721.49元(1元13.86円)<br /><br /> ホテルで、カウンターで日本の銀行にある様な青色のプラスチックの釣り銭皿に1万円札を置いて両替手続きをしていたら、横にいたチェックイン中の中国人の男がいきなり1万円を手に取り、透かしながらに「これが日本のお金か、透かしもあるから本物だな。」とか何とか言いながら両替手続きしている女性係員に話し掛けたのである。女性係員はお札を戻せと注意すると思いきや、驚いた事に話し相手になったのである。これには頭に来て男からお札を取り戻し早く両替しろ、とばかり係員に突き出した。男は「この日本人、何で怒っているのか。」全く理解出来ない表情をしていた。疲れる!

    平成22年6月10日(木)大同 雁北賓館ホテルで1万円を721.49元(1元13.86円)

     ホテルで、カウンターで日本の銀行にある様な青色のプラスチックの釣り銭皿に1万円札を置いて両替手続きをしていたら、横にいたチェックイン中の中国人の男がいきなり1万円を手に取り、透かしながらに「これが日本のお金か、透かしもあるから本物だな。」とか何とか言いながら両替手続きしている女性係員に話し掛けたのである。女性係員はお札を戻せと注意すると思いきや、驚いた事に話し相手になったのである。これには頭に来て男からお札を取り戻し早く両替しろ、とばかり係員に突き出した。男は「この日本人、何で怒っているのか。」全く理解出来ない表情をしていた。疲れる!

  • 平成22年6月10日(木)大同 デジカメ用のSDカード8GB125元1,732円買った。<br /><br /> デジカメ用のSDカードが足りなくなったのでフロントで売っている店を尋ねたら一人の男を呼んでくれた。男は20代前半でたどたどしい日本語を話せるという事で呼ばれたらしい。早速、SDカードを見せながら近くで売っている店を教えて欲しいと言ったら、分かったと言いながらエレベーターに乗って何階かの従業員控室と書かれたドアの前に行き、「ここで待っていて。」言い中に入って行った。<br />何か変、と思いつつ部屋から出て来た男はホテルの制服から私服に着替えていた。<br />「さあ、行こう。」と言うので「店の場所さえ地図にでも書いてくれたら自分で行くから。」と言ったが「いいよ、いいよ、一緒に行ってあげるから。」と勝手に歩き出しこちらも付いて行く破目になってしまった。近くの店に行くだけなのに何で私服に着替えたのか、疑問に思って訊いたら「仕事が終ったから、気にしないで。」とか言ってホテルを出て店に向かった。2軒目でSDカードを購入したら今日の予定は?と訊くので雲岡石窟に行く予定と答えたら「そこは一番のお薦め、詳しく案内するよ。」おい、おい、勝手にそんな事を言って貰っては困るよ、「自分で一人で行けるから。」「こっちの事は気にしないで、他に用事もなく時間があるから。」と通りかかったタクシーを停めた。これは金を間違いなく請求されると思い<br />「一人で行きたいから。」と強く断ったら「自分はパート勤務で今までの時間の給料は貰えないので、その分払って欲しい。」遂に本性を現したか、「幾らか?」<br />と訊いたら「100元、ホテルに戻ってまた働かないといけない。」と言い出す始末、そんな事知った事では無い、大体、こっちはSDカードの店を教えて欲しい、と言っただけなのに何で100元も払わなければならないのか!・・・タクシーは停まったまま、時計を見ると4時を過ぎている、雲岡石窟に行かないと、仕方なく100元払った。タクシーに乗ってからもどうしても納得行かないので、ホテルに帰ってから取り返す事にした。それにしてもとんでもない奴、全く中国人は油断も隙も無い、とにかく疲れる国である。

    平成22年6月10日(木)大同 デジカメ用のSDカード8GB125元1,732円買った。

     デジカメ用のSDカードが足りなくなったのでフロントで売っている店を尋ねたら一人の男を呼んでくれた。男は20代前半でたどたどしい日本語を話せるという事で呼ばれたらしい。早速、SDカードを見せながら近くで売っている店を教えて欲しいと言ったら、分かったと言いながらエレベーターに乗って何階かの従業員控室と書かれたドアの前に行き、「ここで待っていて。」言い中に入って行った。
    何か変、と思いつつ部屋から出て来た男はホテルの制服から私服に着替えていた。
    「さあ、行こう。」と言うので「店の場所さえ地図にでも書いてくれたら自分で行くから。」と言ったが「いいよ、いいよ、一緒に行ってあげるから。」と勝手に歩き出しこちらも付いて行く破目になってしまった。近くの店に行くだけなのに何で私服に着替えたのか、疑問に思って訊いたら「仕事が終ったから、気にしないで。」とか言ってホテルを出て店に向かった。2軒目でSDカードを購入したら今日の予定は?と訊くので雲岡石窟に行く予定と答えたら「そこは一番のお薦め、詳しく案内するよ。」おい、おい、勝手にそんな事を言って貰っては困るよ、「自分で一人で行けるから。」「こっちの事は気にしないで、他に用事もなく時間があるから。」と通りかかったタクシーを停めた。これは金を間違いなく請求されると思い
    「一人で行きたいから。」と強く断ったら「自分はパート勤務で今までの時間の給料は貰えないので、その分払って欲しい。」遂に本性を現したか、「幾らか?」
    と訊いたら「100元、ホテルに戻ってまた働かないといけない。」と言い出す始末、そんな事知った事では無い、大体、こっちはSDカードの店を教えて欲しい、と言っただけなのに何で100元も払わなければならないのか!・・・タクシーは停まったまま、時計を見ると4時を過ぎている、雲岡石窟に行かないと、仕方なく100元払った。タクシーに乗ってからもどうしても納得行かないので、ホテルに帰ってから取り返す事にした。それにしてもとんでもない奴、全く中国人は油断も隙も無い、とにかく疲れる国である。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 新たな観光施設を建設中<br /><br /> 雲岡石窟の駐車場までタクシーで40分程掛かって45元だった。改めてさっきの100元は高過ぎると思った。<br /> 中国の観光地はどこでもそうだが、駐車場から雲岡石窟の入口までかなりの距離がある。その間にお土産店が立ち並び観光客に買わせる為である。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 新たな観光施設を建設中

     雲岡石窟の駐車場までタクシーで40分程掛かって45元だった。改めてさっきの100元は高過ぎると思った。
     中国の観光地はどこでもそうだが、駐車場から雲岡石窟の入口までかなりの距離がある。その間にお土産店が立ち並び観光客に買わせる為である。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟入り口門<br /><br /> 急いで急いで入口に着いたら切符窓口は閉まっていた。入場券販売は17時まで、時計を見ると17時05分、このまま帰る訳にはいかない、出口に走った。<br />出口に入った所に警備員が2人いてここから入ってはいかん、とばかり制止した。<br />こちらは必死だった。通じぬ日本語と身振り、手振りで「入場券は5分遅れた為、窓口は閉まっていて買えなかった。はるばる日本から来たので何とか入れて欲しい、窟には入らず写真だけでいいから撮らして欲しい、せめてすぐそこの仏像(第20窟釈迦牟尼の座像)1枚だけでも。」と哀願した。若い方の警備員は困ったような顔をして、年上の警備員の方に顔を向けた。年上の警備員は迷った顔だったのでここぞとばかり哀願した。根負けしたのか入っていいよ、と身振りした。<br />中国では絶対無理だと半ばあきらめていたのでこれには驚いたのである。<br />そして入場料130元を渡そうとしたら、要らないと拒否されたので、周囲に悟られないようにチップとして渡そうとしたがこれも拒否された。こんな融通の利く中国人もいるのだと感激した。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟入り口門

     急いで急いで入口に着いたら切符窓口は閉まっていた。入場券販売は17時まで、時計を見ると17時05分、このまま帰る訳にはいかない、出口に走った。
    出口に入った所に警備員が2人いてここから入ってはいかん、とばかり制止した。
    こちらは必死だった。通じぬ日本語と身振り、手振りで「入場券は5分遅れた為、窓口は閉まっていて買えなかった。はるばる日本から来たので何とか入れて欲しい、窟には入らず写真だけでいいから撮らして欲しい、せめてすぐそこの仏像(第20窟釈迦牟尼の座像)1枚だけでも。」と哀願した。若い方の警備員は困ったような顔をして、年上の警備員の方に顔を向けた。年上の警備員は迷った顔だったのでここぞとばかり哀願した。根負けしたのか入っていいよ、と身振りした。
    中国では絶対無理だと半ばあきらめていたのでこれには驚いたのである。
    そして入場料130元を渡そうとしたら、要らないと拒否されたので、周囲に悟られないようにチップとして渡そうとしたがこれも拒否された。こんな融通の利く中国人もいるのだと感激した。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟の全景(雲岡石窟研究院のウェブから引用)<br /><br /> 東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院で窟番号は右から始まる。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟の全景(雲岡石窟研究院のウェブから引用)

     東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院で窟番号は右から始まる。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 中に入ってまずは何はともあれ雲岡石窟の代表的作品、第20窟の前にある露天大仏(釈迦牟尼の座像)を撮りまくった。 <br />高さは約14メートル、顔の表情は優しいが、目力が強く感じられた。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     中に入ってまずは何はともあれ雲岡石窟の代表的作品、第20窟の前にある露天大仏(釈迦牟尼の座像)を撮りまくった。
    高さは約14メートル、顔の表情は優しいが、目力が強く感じられた。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 窟の前の壁と天井は早くから倒壊して、遼の時代に木造の庇を掛けたが、後の戦争で壊され、露天の像となった。主仏の高さは13.7メートルで、高い肉髻で、広い額で、長い目で、高い鼻で、八字の口髭がある。手は禅印を結んで、重々しい袈裟を右からかけて、衣服の紋様は盛り上がって、ガンダーラの造像の遺風がある。大仏が真っ直ぐに聳えている健碩の体、気勢の雄壮な表情、殊に鮮卑の遊牧民族の強大さを表現して、雲岡石窟の彫刻の代表作で、中国に於ける初期の仏教の彫刻芸術の前例のない傑作だ。大仏の両側は仏脇侍と脇侍菩薩があったが、西側はもの惜しく崩れた。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     窟の前の壁と天井は早くから倒壊して、遼の時代に木造の庇を掛けたが、後の戦争で壊され、露天の像となった。主仏の高さは13.7メートルで、高い肉髻で、広い額で、長い目で、高い鼻で、八字の口髭がある。手は禅印を結んで、重々しい袈裟を右からかけて、衣服の紋様は盛り上がって、ガンダーラの造像の遺風がある。大仏が真っ直ぐに聳えている健碩の体、気勢の雄壮な表情、殊に鮮卑の遊牧民族の強大さを表現して、雲岡石窟の彫刻の代表作で、中国に於ける初期の仏教の彫刻芸術の前例のない傑作だ。大仏の両側は仏脇侍と脇侍菩薩があったが、西側はもの惜しく崩れた。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 以下の雲岡石窟の説明文は旅チャイナから、仏像、窟、壁画の説明文は雲岡石窟研究院のウェブから引用しました。<br /><br /> 中国山西省北部の都市・大同(だいどう)は、北京から西へ350kmのところに位置している。北魏(386 - 534)の最初の国都・平城はこの地に置かれた。洛陽の竜門石窟、敦煌の莫高窟と並んで中国三大石窟の一つに数えられる雲崗石窟は、華北最大の石窟寺院であり、大同の西約16kmにある武周山の麓に築かれている。開鑿(かいさく)は北魏の和平元年(460)に始まり、太和18年(494)の洛陽遷都を経て、正光5年(524)まで約64年をかけて行われたという。但し、その後も造営は継続され、隋・唐時代や遼・金時代の仏像も見ることができる。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     以下の雲岡石窟の説明文は旅チャイナから、仏像、窟、壁画の説明文は雲岡石窟研究院のウェブから引用しました。

     中国山西省北部の都市・大同(だいどう)は、北京から西へ350kmのところに位置している。北魏(386 - 534)の最初の国都・平城はこの地に置かれた。洛陽の竜門石窟、敦煌の莫高窟と並んで中国三大石窟の一つに数えられる雲崗石窟は、華北最大の石窟寺院であり、大同の西約16kmにある武周山の麓に築かれている。開鑿(かいさく)は北魏の和平元年(460)に始まり、太和18年(494)の洛陽遷都を経て、正光5年(524)まで約64年をかけて行われたという。但し、その後も造営は継続され、隋・唐時代や遼・金時代の仏像も見ることができる。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 北魏時代の仏教興隆の功労者は第4代・文成帝(在位452〜465)とされている。452年、第3代・太武帝が宦官に殺され、彼が実施してきた廃仏が終了した。崇仏者だった文成帝が皇帝に即位すると、仏教復興に力を尽くした。彼の治世の時代には、国家と仏教の結びつきが強くなっていった。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     北魏時代の仏教興隆の功労者は第4代・文成帝(在位452〜465)とされている。452年、第3代・太武帝が宦官に殺され、彼が実施してきた廃仏が終了した。崇仏者だった文成帝が皇帝に即位すると、仏教復興に力を尽くした。彼の治世の時代には、国家と仏教の結びつきが強くなっていった。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 文成帝は仏教復興の詔を下し、仏教教団を統率する中央官庁である沙門統の長官に曇曜(どんよう)を任命した。和平元年(460)、曇曜は北魏の都・平城の西にある武周山に石窟を築くことを建議した。文成帝は曇曜の建議を受け入れると、彼を責任者として五窟を開くことを許可した。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     文成帝は仏教復興の詔を下し、仏教教団を統率する中央官庁である沙門統の長官に曇曜(どんよう)を任命した。和平元年(460)、曇曜は北魏の都・平城の西にある武周山に石窟を築くことを建議した。文成帝は曇曜の建議を受け入れると、彼を責任者として五窟を開くことを許可した。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 第2代・明元帝の時から武周山は歴代の北魏皇帝から福を祈る山とされてきた。一方、当時の平壌は中国北方の政治・宗教・文化の中心であり、全国から優秀な人材が集められていた。その中には、涼州から移住を強制された僧侶3千人、官吏・人民・工匠3万人がいた。北魏の皇室はその国力をもとに、大規模な雲崗石窟の開鑿を始めた。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     第2代・明元帝の時から武周山は歴代の北魏皇帝から福を祈る山とされてきた。一方、当時の平壌は中国北方の政治・宗教・文化の中心であり、全国から優秀な人材が集められていた。その中には、涼州から移住を強制された僧侶3千人、官吏・人民・工匠3万人がいた。北魏の皇室はその国力をもとに、大規模な雲崗石窟の開鑿を始めた。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 雲岡石窟を世に知らしめた日本人の功績は大きい。最初にこの石窟を世界に紹介したのは東京帝国大学の伊東忠太教授(1954年没)で、東亜古建築の研究のため、明治35年から36年にかけて中国各地を歴遊し、その旅行中に雲岡石窟を発見し、近代的学術的手法で調査し、世界に広めた。 <br />その後、関野貞(1935年没)が石窟を調査し、共著『支那仏教史蹟』の中で雲崗石窟を紹介している。 <br />京都の東方文化研究所の若い所員、水野清一と長廣敏雄の両氏は昭和13年(1938)から組織的な調査を開始し、昭和19年(1944)まで7回の調査を行った。その報告書は戦後『雲岡石窟』全16巻として出版された。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     雲岡石窟を世に知らしめた日本人の功績は大きい。最初にこの石窟を世界に紹介したのは東京帝国大学の伊東忠太教授(1954年没)で、東亜古建築の研究のため、明治35年から36年にかけて中国各地を歴遊し、その旅行中に雲岡石窟を発見し、近代的学術的手法で調査し、世界に広めた。
    その後、関野貞(1935年没)が石窟を調査し、共著『支那仏教史蹟』の中で雲崗石窟を紹介している。
    京都の東方文化研究所の若い所員、水野清一と長廣敏雄の両氏は昭和13年(1938)から組織的な調査を開始し、昭和19年(1944)まで7回の調査を行った。その報告書は戦後『雲岡石窟』全16巻として出版された。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 武州川の北岸は砂岩質台地の断崖が続いている。その断崖に東西約1kmにわたって開鑿(かいさく)された雲岡石窟は、いずれも仏教の石窟で、開鑿は紀元453年に始まり、今日まですでに1500年の歴史がある。中国の調査では、現存する主要な石窟は45あり、それに付属する大小の窟龕(くつがん)は252にのぼる。これらの石窟には、10m以上の大仏像が9体、1〜10mまでのものが911体、1m以下のものが4万8,170体、その他の彫像が2,080体、合計すると5万1,170体の仏像が彫られているという。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     武州川の北岸は砂岩質台地の断崖が続いている。その断崖に東西約1kmにわたって開鑿(かいさく)された雲岡石窟は、いずれも仏教の石窟で、開鑿は紀元453年に始まり、今日まですでに1500年の歴史がある。中国の調査では、現存する主要な石窟は45あり、それに付属する大小の窟龕(くつがん)は252にのぼる。これらの石窟には、10m以上の大仏像が9体、1〜10mまでのものが911体、1m以下のものが4万8,170体、その他の彫像が2,080体、合計すると5万1,170体の仏像が彫られているという。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> そのほとんどは、北魏の第4代・文成帝の和平年間(460 - 465)から第6代・孝文帝の太和17年(493)までに開鑿された。石窟の総面積は約40万?である。1961年に、雲崗石窟は中国国務院から国の初めての重点文化財と指定された。2001年にはユネスコの世界遺産にも指定された。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

    そのほとんどは、北魏の第4代・文成帝の和平年間(460 - 465)から第6代・孝文帝の太和17年(493)までに開鑿された。石窟の総面積は約40万?である。1961年に、雲崗石窟は中国国務院から国の初めての重点文化財と指定された。2001年にはユネスコの世界遺産にも指定された。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 山の地形によって、石窟全体は東部・中部・西部の3つに分けられ、東から西に番号が付けられている。東方の丘には第1窟から第4窟、中央の丘には第5窟から第13窟、西方の丘には第14窟から第45窟がある。西方の丘は、さらに東側半分と西側半分に区分され、東側半分に位置する第16窟から第20窟は、和平元年(460)に沙門統の曇曜が提出した建議によって皇室が造営したもので、曇曜五窟と呼ばれている。これらの石窟は第一期の造営に属し、和平年間(460 - 465)に開鑿された。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

    山の地形によって、石窟全体は東部・中部・西部の3つに分けられ、東から西に番号が付けられている。東方の丘には第1窟から第4窟、中央の丘には第5窟から第13窟、西方の丘には第14窟から第45窟がある。西方の丘は、さらに東側半分と西側半分に区分され、東側半分に位置する第16窟から第20窟は、和平元年(460)に沙門統の曇曜が提出した建議によって皇室が造営したもので、曇曜五窟と呼ばれている。これらの石窟は第一期の造営に属し、和平年間(460 - 465)に開鑿された。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 第一期に開鑿された曇曜五窟(第16−20窟)は、床面が楕円形をしていて、天井は穹窿状になっているのが特徴である。主要な造像は三世仏と千仏で、三世仏は石窟内の大部分を占め、千仏は外壁に彫られている。曇曜五窟のもう一つの特徴は、窟内いっぱいに16.8m、15.5m、13.7mといった巨大な仏像を彫りだしている点にある。五窟を企画した曇曜は、敦煌莫高窟の第275窟などのように、主尊が窟内いっぱいに安置して、見る者を圧倒するような故郷涼周の石窟を頭に描いていたものと思われる。その背景には、4世紀から5世紀にかけてガンダーラ地方で巨大化した粗像製作の影響が指摘されている。 <br /> 第二期の石窟は、文成帝の死後から孝文帝が落陽遷都する太和18年(494)までの30年にわたって造営されたもので、床面が方形になっているものが多い。上下左右は層または段に分かれていて、龕像(がんぞう)が多くなる。第一期のような巨大な仏像は少なくなるが、題材が多様化してくる。内部は前後二室に分かれ、方柱塔がある。第2期に属する主な石窟は5組ある。そのうち4組な双窟(第7・8窟、第9・10窟、第5・6窟、第1・2窟)で、あと一組は3窟から構成されている。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     第一期に開鑿された曇曜五窟(第16−20窟)は、床面が楕円形をしていて、天井は穹窿状になっているのが特徴である。主要な造像は三世仏と千仏で、三世仏は石窟内の大部分を占め、千仏は外壁に彫られている。曇曜五窟のもう一つの特徴は、窟内いっぱいに16.8m、15.5m、13.7mといった巨大な仏像を彫りだしている点にある。五窟を企画した曇曜は、敦煌莫高窟の第275窟などのように、主尊が窟内いっぱいに安置して、見る者を圧倒するような故郷涼周の石窟を頭に描いていたものと思われる。その背景には、4世紀から5世紀にかけてガンダーラ地方で巨大化した粗像製作の影響が指摘されている。
     第二期の石窟は、文成帝の死後から孝文帝が落陽遷都する太和18年(494)までの30年にわたって造営されたもので、床面が方形になっているものが多い。上下左右は層または段に分かれていて、龕像(がんぞう)が多くなる。第一期のような巨大な仏像は少なくなるが、題材が多様化してくる。内部は前後二室に分かれ、方柱塔がある。第2期に属する主な石窟は5組ある。そのうち4組な双窟(第7・8窟、第9・10窟、第5・6窟、第1・2窟)で、あと一組は3窟から構成されている。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 第三期の石窟は、孝文帝が洛陽に都を遷した太和18年(494)以後、北魏滅亡(535)にいたる時代に造営されたもので、主な石窟は第20窟から西に位置している。小窟龕が多く、塔窟もあり、壁に三龕や二龕を設けた石窟が多い。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     第三期の石窟は、孝文帝が洛陽に都を遷した太和18年(494)以後、北魏滅亡(535)にいたる時代に造営されたもので、主な石窟は第20窟から西に位置している。小窟龕が多く、塔窟もあり、壁に三龕や二龕を設けた石窟が多い。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 北魏の文成帝の和平初年(西暦460年)から5年間、高僧・曇曜の指揮によって開鑿されたとされる曇曜五窟は、西方の第16窟から第20窟の5窟がこれに相当する。曇曜五窟は、北魏仏教が世俗の王権に依存していた特徴をよく表しているとよく言われる。本尊はいずれも巨大であり、それぞれの石窟において主要な位置を占めている。五窟の大仏はそれぞれ北魏建国の五人の皇帝を象徴しているという。礼仏とは皇帝を拝することと同義だった時代の証である。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     北魏の文成帝の和平初年(西暦460年)から5年間、高僧・曇曜の指揮によって開鑿されたとされる曇曜五窟は、西方の第16窟から第20窟の5窟がこれに相当する。曇曜五窟は、北魏仏教が世俗の王権に依存していた特徴をよく表しているとよく言われる。本尊はいずれも巨大であり、それぞれの石窟において主要な位置を占めている。五窟の大仏はそれぞれ北魏建国の五人の皇帝を象徴しているという。礼仏とは皇帝を拝することと同義だった時代の証である。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟<br /> <br /> 左から第20窟白仏洞、第19窟宝生仏洞 西暦460-470年<br /><br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟
     
     左から第20窟白仏洞、第19窟宝生仏洞 西暦460-470年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 主像は結跏趺坐で、高さ16.8メートルで、雲岡石窟の中で第二の大仏だ。仏像の耳髱は肩に届けて、顎は破損した。右手を挙げて、肘の下に支える一本の柱がある。衣服の紋様は簡潔に明快で、軽薄で体にぴったり合って、袈裟の裾には紋様を付けてある。南壁のラーゴラ因縁は雲岡石窟に於いて一番早い仏教のストーリの画像だ。窟外にそれぞれ一つずつ耳洞をつけて、内は倚坐仏像を配した。このような分窟は三世仏を安置する設計は、変化があっても、厳粛を失わなく、北朝の石窟の形と構造の初めての試みだ。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞 西暦460-470年

     主像は結跏趺坐で、高さ16.8メートルで、雲岡石窟の中で第二の大仏だ。仏像の耳髱は肩に届けて、顎は破損した。右手を挙げて、肘の下に支える一本の柱がある。衣服の紋様は簡潔に明快で、軽薄で体にぴったり合って、袈裟の裾には紋様を付けてある。南壁のラーゴラ因縁は雲岡石窟に於いて一番早い仏教のストーリの画像だ。窟外にそれぞれ一つずつ耳洞をつけて、内は倚坐仏像を配した。このような分窟は三世仏を安置する設計は、変化があっても、厳粛を失わなく、北朝の石窟の形と構造の初めての試みだ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞 西暦460-470年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞 西暦460-470年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞 釈迦如来像 西暦460-470年<br /><br /> 主像は結跏趺坐で、高さ16.8メートルで、雲岡石窟の中で第二の大仏だ。仏像の耳髱は肩に届けて、顎は破損した。右手を挙げて、肘の下に支える一本の柱がある。衣服の紋様は簡潔に明快で、軽薄で体にぴったり合って、袈裟の裾には紋様を付けてある。南壁のラーゴラ因縁は雲岡石窟に於いて一番早い仏教のストーリの画像だ。窟外にそれぞれ一つずつ耳洞をつけて、内は倚坐仏像を配した。このような分窟は三世仏を安置する設計は、変化があっても、厳粛を失わなく、北朝の石窟の形と構造の初めての試みだ。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞 釈迦如来像 西暦460-470年

     主像は結跏趺坐で、高さ16.8メートルで、雲岡石窟の中で第二の大仏だ。仏像の耳髱は肩に届けて、顎は破損した。右手を挙げて、肘の下に支える一本の柱がある。衣服の紋様は簡潔に明快で、軽薄で体にぴったり合って、袈裟の裾には紋様を付けてある。南壁のラーゴラ因縁は雲岡石窟に於いて一番早い仏教のストーリの画像だ。窟外にそれぞれ一つずつ耳洞をつけて、内は倚坐仏像を配した。このような分窟は三世仏を安置する設計は、変化があっても、厳粛を失わなく、北朝の石窟の形と構造の初めての試みだ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞東側燃燈佛像 西暦460-470年<br /><br /> この仏像について知りたくて雲岡石窟研究院に問い合わせしたところ返信がありました。中国語による返信でしたのでこまちゃん(http://4travel.jp/traveler/chinaart)に和訳して貰いました。<br />1.写真は第19窟東側石窟の座佛像で、高さは8mあります。<br />この種類の石窟は、中央の石窟とコラボレーションされた配置を形成しており、<br />過去,現在,未来を表す三世佛の構造になっています。<br />中央の佛像は、現在を司る釈迦如来像で、両側の佛像は、過去を司る燃燈佛像と<br />未来を司る弥勒佛像で、雲岡石窟の「曇曜五窟」中で三世佛を題材とした彫刻<br />となっております。<br />2.「雲岡石窟研究院」からの引用である事を明記して下さい。<br />3.旅行記ブログに雲岡石窟オフィシャルページからの引用明記して下さい。<br />  但し、雲岡石窟のURL(ページ:http://www.yungang.org)を記載して戴いても構いません。<br />(2,3の注釈は、ネット社会の定番で「引用元を明記すること」と書かれています)<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第19窟宝生仏洞東側燃燈佛像 西暦460-470年

     この仏像について知りたくて雲岡石窟研究院に問い合わせしたところ返信がありました。中国語による返信でしたのでこまちゃん(http://4travel.jp/traveler/chinaart)に和訳して貰いました。
    1.写真は第19窟東側石窟の座佛像で、高さは8mあります。
    この種類の石窟は、中央の石窟とコラボレーションされた配置を形成しており、
    過去,現在,未来を表す三世佛の構造になっています。
    中央の佛像は、現在を司る釈迦如来像で、両側の佛像は、過去を司る燃燈佛像と
    未来を司る弥勒佛像で、雲岡石窟の「曇曜五窟」中で三世佛を題材とした彫刻
    となっております。
    2.「雲岡石窟研究院」からの引用である事を明記して下さい。
    3.旅行記ブログに雲岡石窟オフィシャルページからの引用明記して下さい。
      但し、雲岡石窟のURL(ページ:http://www.yungang.org)を記載して戴いても構いません。
    (2,3の注釈は、ネット社会の定番で「引用元を明記すること」と書かれています)

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟(雲岡石窟研究院のウェブから引用) <br /><br /> 左から第20窟(白仏洞)、第19窟(宝生仏洞)、第18窟(立三仏洞)、第17窟(弥勒三尊洞)、第16窟(立仏洞)、第15窟(万仏洞)、第14窟

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟(雲岡石窟研究院のウェブから引用) 

     左から第20窟(白仏洞)、第19窟(宝生仏洞)、第18窟(立三仏洞)、第17窟(弥勒三尊洞)、第16窟(立仏洞)、第15窟(万仏洞)、第14窟

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 第18、19、20窟は一組で、第19窟は中心の窟で、時間を切り開くのは一番早い。第18窟の設計は厳格で、配置は完備して、北壁の主な仏像の高さは15.5メートルで、高い肉髻で、頬の豊円で、鼻筋の真っ直ぐで、身に千仏袈裟を羽織って、両側には脇侍仏と脇侍菩薩と十大弟子の像を配した。左側の脇侍仏は頭の上に天蓋を差され、顔は真ん丸くて、体格は逞しい。右の脇侍菩薩は頭に花冠をつけて、美しくて優雅だ。上端に五体弟子を彫刻して、皆西域人の特徴があり、或いは瓶を持って静かに立ったり、或いは花を摘んで微笑んだり、或いは目を閉じて耳を傾けたり、或いはある程度悟ったり、或いは心から喜びが生んだりで、入神のわざ、人を感嘆させるものだ。 <br /><br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年

     第18、19、20窟は一組で、第19窟は中心の窟で、時間を切り開くのは一番早い。第18窟の設計は厳格で、配置は完備して、北壁の主な仏像の高さは15.5メートルで、高い肉髻で、頬の豊円で、鼻筋の真っ直ぐで、身に千仏袈裟を羽織って、両側には脇侍仏と脇侍菩薩と十大弟子の像を配した。左側の脇侍仏は頭の上に天蓋を差され、顔は真ん丸くて、体格は逞しい。右の脇侍菩薩は頭に花冠をつけて、美しくて優雅だ。上端に五体弟子を彫刻して、皆西域人の特徴があり、或いは瓶を持って静かに立ったり、或いは花を摘んで微笑んだり、或いは目を閉じて耳を傾けたり、或いはある程度悟ったり、或いは心から喜びが生んだりで、入神のわざ、人を感嘆させるものだ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年 <br /><br /> 

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年

     

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年 <br /><br /> 第18、19、20窟は一組で、第19窟は中心の窟で、時間を切り開くのは一番早い。第18窟の設計は厳格で、配置は完備して、北壁の主な仏像の高さは15.5メートルで、高い肉髻で、頬の豊円で、鼻筋の真っ直ぐで、身に千仏袈裟を羽織って、両側には脇侍仏と脇侍菩薩と十大弟子の像を配した。左側の脇侍仏は頭の上に天蓋を差され、顔は真ん丸くて、体格は逞しい。右の脇侍菩薩は頭に花冠をつけて、美しくて優雅だ。上端に五体弟子を彫刻して、皆西域人の特徴があり、或いは瓶を持って静かに立ったり、或いは花を摘んで微笑んだり、或いは目を閉じて耳を傾けたり、或いはある程度悟ったり、或いは心から喜びが生んだりで、入神のわざ、人を感嘆させるものだ。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年

     第18、19、20窟は一組で、第19窟は中心の窟で、時間を切り開くのは一番早い。第18窟の設計は厳格で、配置は完備して、北壁の主な仏像の高さは15.5メートルで、高い肉髻で、頬の豊円で、鼻筋の真っ直ぐで、身に千仏袈裟を羽織って、両側には脇侍仏と脇侍菩薩と十大弟子の像を配した。左側の脇侍仏は頭の上に天蓋を差され、顔は真ん丸くて、体格は逞しい。右の脇侍菩薩は頭に花冠をつけて、美しくて優雅だ。上端に五体弟子を彫刻して、皆西域人の特徴があり、或いは瓶を持って静かに立ったり、或いは花を摘んで微笑んだり、或いは目を閉じて耳を傾けたり、或いはある程度悟ったり、或いは心から喜びが生んだりで、入神のわざ、人を感嘆させるものだ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第18窟立三仏洞 西暦460-470年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第17窟弥勒三尊洞 西暦460-470年<br /><br /> 主像は菩薩装の交脚弥勒で、高さ15.6メートルで、頭に宝冠をつけられ、胸に蛇飾りと短い瓔珞を付けられ、腕にブレスレットを付けられ、斜めに衣を羽織って、ウェスト引き締めのお腹スッキリで、下にマキシをはいて、獅子座で、濃厚な外国の情緒がある。西壁の立仏の顔は真ん丸くて、造型は古風で質朴で雄壮で美しい。東壁の仏陀は両肩を聳えて座って、服の線は滑らかだ。窟内の四方の壁には千仏が施された。彫像は清簡で、純真質素で、雲岡の初期の造像の特徴を反映した。西壁の仏像の光背の外縁にある供養天は片足が跪いて、両手はハスを捧げ持って、表情は落ち着いて、造型は優美だ。明り窓の東に太和13年(487)造像の龕があり、それは雲岡石窟の期間を分ける重要な標尺だ。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第17窟弥勒三尊洞 西暦460-470年

     主像は菩薩装の交脚弥勒で、高さ15.6メートルで、頭に宝冠をつけられ、胸に蛇飾りと短い瓔珞を付けられ、腕にブレスレットを付けられ、斜めに衣を羽織って、ウェスト引き締めのお腹スッキリで、下にマキシをはいて、獅子座で、濃厚な外国の情緒がある。西壁の立仏の顔は真ん丸くて、造型は古風で質朴で雄壮で美しい。東壁の仏陀は両肩を聳えて座って、服の線は滑らかだ。窟内の四方の壁には千仏が施された。彫像は清簡で、純真質素で、雲岡の初期の造像の特徴を反映した。西壁の仏像の光背の外縁にある供養天は片足が跪いて、両手はハスを捧げ持って、表情は落ち着いて、造型は優美だ。明り窓の東に太和13年(487)造像の龕があり、それは雲岡石窟の期間を分ける重要な標尺だ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第17窟弥勒三尊洞 西暦460-470年<br /><br /> 主像は菩薩装の交脚弥勒で、高さ15.6メートルで、頭に宝冠をつけられ、胸に蛇飾りと短い瓔珞を付けられ、腕にブレスレットを付けられ、斜めに衣を羽織って、ウェスト引き締めのお腹スッキリで、下にマキシをはいて、獅子座で、濃厚な外国の情緒がある。西壁の立仏の顔は真ん丸くて、造型は古風で質朴で雄壮で美しい。東壁の仏陀は両肩を聳えて座って、服の線は滑らかだ。窟内の四方の壁には千仏が施された。彫像は清簡で、純真質素で、雲岡の初期の造像の特徴を反映した。西壁の仏像の光背の外縁にある供養天は片足が跪いて、両手はハスを捧げ持って、表情は落ち着いて、造型は優美だ。明り窓の東に太和13年(487)造像の龕があり、それは雲岡石窟の期間を分ける重要な標尺だ。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第17窟弥勒三尊洞 西暦460-470年

     主像は菩薩装の交脚弥勒で、高さ15.6メートルで、頭に宝冠をつけられ、胸に蛇飾りと短い瓔珞を付けられ、腕にブレスレットを付けられ、斜めに衣を羽織って、ウェスト引き締めのお腹スッキリで、下にマキシをはいて、獅子座で、濃厚な外国の情緒がある。西壁の立仏の顔は真ん丸くて、造型は古風で質朴で雄壮で美しい。東壁の仏陀は両肩を聳えて座って、服の線は滑らかだ。窟内の四方の壁には千仏が施された。彫像は清簡で、純真質素で、雲岡の初期の造像の特徴を反映した。西壁の仏像の光背の外縁にある供養天は片足が跪いて、両手はハスを捧げ持って、表情は落ち着いて、造型は優美だ。明り窓の東に太和13年(487)造像の龕があり、それは雲岡石窟の期間を分ける重要な標尺だ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第16窟立仏洞 西暦460-470年 <br /><br /> 第16〜20窟は雲岡に於いて最初切り開いた一組の洞窟で、有名な高僧である曇曜がリードして造営したので“曇曜五窟”と呼ばれる。洞窟の形は同じで、平面は馬蹄形で、天井は穹廬頂で、三世仏を掘った。主像の彫刻は装飾が誇大で、それぞれ北魏の5人の皇帝を象徴する。<br />第16、17窟は一組である。第16窟の主像は釈迦の立像で、高さ13. 5メートルで、波紋の形の髷で、美しくて抜きんでている。仏像は褒衣博?式の袈裟をかぶって、胸先は垂れ下がるリボンを結んで、北魏太和年間に漢化を推進する時の服の様式だ。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第16窟立仏洞 西暦460-470年

     第16〜20窟は雲岡に於いて最初切り開いた一組の洞窟で、有名な高僧である曇曜がリードして造営したので“曇曜五窟”と呼ばれる。洞窟の形は同じで、平面は馬蹄形で、天井は穹廬頂で、三世仏を掘った。主像の彫刻は装飾が誇大で、それぞれ北魏の5人の皇帝を象徴する。
    第16、17窟は一組である。第16窟の主像は釈迦の立像で、高さ13. 5メートルで、波紋の形の髷で、美しくて抜きんでている。仏像は褒衣博?式の袈裟をかぶって、胸先は垂れ下がるリボンを結んで、北魏太和年間に漢化を推進する時の服の様式だ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 <br /><br /> 左から第13窟(文殊菩薩洞)、第12窟(離垢地菩薩洞)、第11窟(来迎仏洞)、

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 

     左から第13窟(文殊菩薩洞)、第12窟(離垢地菩薩洞)、第11窟(来迎仏洞)、

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年 <br /><br /> この窟は俗称で“音楽窟”と言う。 前後室の窟で、前室の外壁の上方に窟の庇を作って、窟の入口は正面に列柱を並べる。北壁は前室の最上層に伎楽天は14体舞って、それぞれ吹指、齊鼓、排簫、琵琶、横笛、琴、五弦、篳篥、箜篌、腰太鼓、義口笛、法螺などの楽器を演奏する。家柄の上で一組のダンスする舞姫の群は動作がつながり良くて、気品が溢れて、現世の舞う姿の芸術的再現だ。窟頂にある逆な髪型の伎楽天は体格が逞しくて、北方少数民族の性格の特徴がある。この窟にある楽器の形と構造、演奏方法と楽団の組合せの形式、集中的に北魏の宮廷楽団の姿と社会の音楽の制度を体現していて、中国の古代の音楽を研究する貴重な資料だ。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

     この窟は俗称で“音楽窟”と言う。 前後室の窟で、前室の外壁の上方に窟の庇を作って、窟の入口は正面に列柱を並べる。北壁は前室の最上層に伎楽天は14体舞って、それぞれ吹指、齊鼓、排簫、琵琶、横笛、琴、五弦、篳篥、箜篌、腰太鼓、義口笛、法螺などの楽器を演奏する。家柄の上で一組のダンスする舞姫の群は動作がつながり良くて、気品が溢れて、現世の舞う姿の芸術的再現だ。窟頂にある逆な髪型の伎楽天は体格が逞しくて、北方少数民族の性格の特徴がある。この窟にある楽器の形と構造、演奏方法と楽団の組合せの形式、集中的に北魏の宮廷楽団の姿と社会の音楽の制度を体現していて、中国の古代の音楽を研究する貴重な資料だ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第12窟離垢地菩薩洞 西暦471-494年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 <br /><br /> 画像左から第13窟(文殊菩薩洞)、第12窟(離垢地菩薩洞)、第11窟(来迎仏洞)、第10窟(毘盧舍那仏洞)、第9窟(阿閦仏洞)、第7窟(西から来る第一仏洞)、第6窟(釈迦仏洞)

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 

     画像左から第13窟(文殊菩薩洞)、第12窟(離垢地菩薩洞)、第11窟(来迎仏洞)、第10窟(毘盧舍那仏洞)、第9窟(阿閦仏洞)、第7窟(西から来る第一仏洞)、第6窟(釈迦仏洞)

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟<br /><br /> 左から第11窟(来迎仏洞)、第10窟(毘盧舍那仏洞)、第9窟(阿閦仏洞)、第8窟(仏音の窟)、第7窟(西から来る第一仏洞)

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟

     左から第11窟(来迎仏洞)、第10窟(毘盧舍那仏洞)、第9窟(阿閦仏洞)、第8窟(仏音の窟)、第7窟(西から来る第一仏洞)

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 <br /><br /> 左から第8窟(仏音の窟)、第7窟(西から来る第一仏洞)、第6窟(釈迦仏洞)

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 

     左から第8窟(仏音の窟)、第7窟(西から来る第一仏洞)、第6窟(釈迦仏洞)

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟<br /><br /> 左から第8窟(仏音の窟)、第7窟(西から来る第一仏洞)、第6窟(釈迦仏洞)

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟

     左から第8窟(仏音の窟)、第7窟(西から来る第一仏洞)、第6窟(釈迦仏洞)

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞 西暦471-494年 <br /><br /> この窟は中心塔柱がある洞穴で、名は支提窟、塔廟窟と言って、彫刻装飾は華麗で、“雲岡の第一偉観”と誉められて、世界芸術史の奇跡と誉められている。洞窟の内で中央に、高さ15メートルの四角形の塔柱は彫りつけてある。上層の四方にそれぞれ一仏陀二菩薩を刻んで、四角は象が九重の楼閣式の方塔を載せるのを刻んである。下層の四方は龕をつけて仏像が座る。窟内で四方の壁の上層に十一体の立仏が立って、華蓋が差されて、意気が奮い立つ。天井は格天井で、格の間にクジャク、ライオン、トラ、長尾の鳥などの動物を騎乗する多臂多首の天神が刻まれてある。洞窟の内で釈迦一生の本生譚図が30数枚残って、集中的に仏陀が誕生、成長、婚姻、出家するまでの一連の物語が現れている。これらのストーリの彫刻は構造が合理的で、手法が質朴で、ガンダーラの芸術が東へ伝わった新しい創造で、とても貴重だ。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞 西暦471-494年

     この窟は中心塔柱がある洞穴で、名は支提窟、塔廟窟と言って、彫刻装飾は華麗で、“雲岡の第一偉観”と誉められて、世界芸術史の奇跡と誉められている。洞窟の内で中央に、高さ15メートルの四角形の塔柱は彫りつけてある。上層の四方にそれぞれ一仏陀二菩薩を刻んで、四角は象が九重の楼閣式の方塔を載せるのを刻んである。下層の四方は龕をつけて仏像が座る。窟内で四方の壁の上層に十一体の立仏が立って、華蓋が差されて、意気が奮い立つ。天井は格天井で、格の間にクジャク、ライオン、トラ、長尾の鳥などの動物を騎乗する多臂多首の天神が刻まれてある。洞窟の内で釈迦一生の本生譚図が30数枚残って、集中的に仏陀が誕生、成長、婚姻、出家するまでの一連の物語が現れている。これらのストーリの彫刻は構造が合理的で、手法が質朴で、ガンダーラの芸術が東へ伝わった新しい創造で、とても貴重だ。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第6窟釈迦仏洞

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 <br /><br /> 左から第6窟(釈迦仏洞)、第5窟(大仏洞)

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 

     左から第6窟(釈迦仏洞)、第5窟(大仏洞)

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟<br /><br /> 第39窟の中心は、枡組み状に六柱、柱頭が軒を支えている五重の塔であり、早期造塔の建築方法を研究する上で、重要な資料となっている。また40窟全体の構図も見事に調和がとれていて美しい。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

     第39窟の中心は、枡組み状に六柱、柱頭が軒を支えている五重の塔であり、早期造塔の建築方法を研究する上で、重要な資料となっている。また40窟全体の構図も見事に調和がとれていて美しい。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第39窟塔廟窟

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年<br /><br /> 西暦494年、孝文帝の洛陽の遷都の後では雲岡石窟の大規模な皇室工事は止まった。民間の開鑿造像がその後に起きて、ずっと孝明帝の正光年間まで継続した。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

     西暦494年、孝文帝の洛陽の遷都の後では雲岡石窟の大規模な皇室工事は止まった。民間の開鑿造像がその後に起きて、ずっと孝明帝の正光年間まで継続した。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年 <br /><br /> 第21〜53窟は西部の諸窟と言われている。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

     第21〜53窟は西部の諸窟と言われている。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年<br /><br /> 末期の洞窟は中小型の窟で多数を占めて、タイプは複雑で、デザインはよく変わる。四壁に三つの龕と三壁に重複龕の窟はこの時期流行ったスタイルでだ。造像題材が三世仏で、釈迦弥勒、釈迦多宝の二仏と文殊維摩の組合せはよくある。仏像は全て褒衣博?で、美しくて抜きんでている。菩薩は刺繍入りの肩掛けの絹織物をはおって、細い首に撫で肩だ。飛天の体つきは細長くて、マキシで足を巻く。龕の入り口上のアーチ面の帳幕は益々繁雑で、中国の仏教の造像の芸術は全面的に中国化、世俗化に向かって、そして竜門石窟の切り開く見本になる。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

     末期の洞窟は中小型の窟で多数を占めて、タイプは複雑で、デザインはよく変わる。四壁に三つの龕と三壁に重複龕の窟はこの時期流行ったスタイルでだ。造像題材が三世仏で、釈迦弥勒、釈迦多宝の二仏と文殊維摩の組合せはよくある。仏像は全て褒衣博?で、美しくて抜きんでている。菩薩は刺繍入りの肩掛けの絹織物をはおって、細い首に撫で肩だ。飛天の体つきは細長くて、マキシで足を巻く。龕の入り口上のアーチ面の帳幕は益々繁雑で、中国の仏教の造像の芸術は全面的に中国化、世俗化に向かって、そして竜門石窟の切り開く見本になる。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 西部の諸窟 西暦494-525年

  • 平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年<br /><br /> 閉門時間は18時だった。1時間近くあったので外からの写真は多く撮れたが、窟内の見学は閉門時間を気になって出口近くの西部の諸窟が主だった。<br />出口を出る時入れてくれた警備員に挨拶をしたかったがいなかった。その為まだ見てない窟も多くあったので12日の午前中にまた来る事にした。<br />帰りのタクシー乗り場で声を掛けて来た運ちゃんが往きと同じ45元(623円)と言ったので乗った。発車しようとしたら中国人が乗り込んで来た。車内で二人は喋りっ放しだったので、知り合いかと思い、また、嘉峪関のタクシーみたいにこの男のタクシー代はこっち持ちかと覚悟していたら、大同市で先に降りる時、同じ45元を払っていたので45元はぼったくり料金ではなかった。

    平成22年6月10日(木)大同 雲岡石窟 第20窟白仏洞 西暦460-470年

     閉門時間は18時だった。1時間近くあったので外からの写真は多く撮れたが、窟内の見学は閉門時間を気になって出口近くの西部の諸窟が主だった。
    出口を出る時入れてくれた警備員に挨拶をしたかったがいなかった。その為まだ見てない窟も多くあったので12日の午前中にまた来る事にした。
    帰りのタクシー乗り場で声を掛けて来た運ちゃんが往きと同じ45元(623円)と言ったので乗った。発車しようとしたら中国人が乗り込んで来た。車内で二人は喋りっ放しだったので、知り合いかと思い、また、嘉峪関のタクシーみたいにこの男のタクシー代はこっち持ちかと覚悟していたら、大同市で先に降りる時、同じ45元を払っていたので45元はぼったくり料金ではなかった。

  • 平成22年6月10日(木)大同 雁北賓館ホテル パンフレット<br /><br /> ホテルに戻ってフロントにいくと、男性の支配人がいたので、従業員から100元の返金して貰う為、顛末を話した。幸い支配人は英語が堪能で自分の英単語会話をすぐに理解してくれて従業員を呼び、100元を返金させて解決したのである。<br />支配人の対応に満足したので、明日の懸空寺、恒山観光のタクシーの手配を頼んだ。というのも毎日のように交通事故を目撃しているので、そろそろ自分が遭うのでは、と心配になって来たのである。<br />・スピードを出さない安全運転をするドライバー<br />・シートベルトがあるタクシー<br />・英単語が分かるドライバー<br />・無愛想、怒りっぽいドライバーは駄目<br />この条件をクリア出来るのなら手配をお願いしたいと言ったら、<br />英単語話せるドライバーは難しいが、それ以外は大丈夫、大丈夫と例の如く調子良く言い、気になる料金については328元(4,546円)の提示、少しは値引き交渉はしたが、そもそもこっちは相場自体を知らないし、こちらから頼んだ事だったので即決となった。迎えのタクシーは明朝8時となった。<br />

    平成22年6月10日(木)大同 雁北賓館ホテル パンフレット

     ホテルに戻ってフロントにいくと、男性の支配人がいたので、従業員から100元の返金して貰う為、顛末を話した。幸い支配人は英語が堪能で自分の英単語会話をすぐに理解してくれて従業員を呼び、100元を返金させて解決したのである。
    支配人の対応に満足したので、明日の懸空寺、恒山観光のタクシーの手配を頼んだ。というのも毎日のように交通事故を目撃しているので、そろそろ自分が遭うのでは、と心配になって来たのである。
    ・スピードを出さない安全運転をするドライバー
    ・シートベルトがあるタクシー
    ・英単語が分かるドライバー
    ・無愛想、怒りっぽいドライバーは駄目
    この条件をクリア出来るのなら手配をお願いしたいと言ったら、
    英単語話せるドライバーは難しいが、それ以外は大丈夫、大丈夫と例の如く調子良く言い、気になる料金については328元(4,546円)の提示、少しは値引き交渉はしたが、そもそもこっちは相場自体を知らないし、こちらから頼んだ事だったので即決となった。迎えのタクシーは明朝8時となった。

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