2015/06/21 - 2015/06/21
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frau.himmelさん
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ミュンヘンのケーニッヒ広場に5月にオープンしたばかりの新しい博物館に行ってまいりました。
「NS-Dokumentationszentrum Muenchen」
Lern-und Erinnerungsort zur Geschichte des Nationalsozialismus.
【ナチスの記録センター・ミュンヘン】
〜ナチズムの歴史を学び、記憶する場所〜
ヒトラーのミュンヘン一揆以来、ミュンヘンは「ナチスの発祥の街」として、その過去と向き合うためにも何らかの資料館を作らなければならないという声が上がっていました。
いろんな紆余曲折があり、戦後70年を経てようやく実現したのです。
場所はナチスの党本部があった褐色館(Braunes Haus)の跡地、隣には元総統官邸が建っています。
また周りにはナチス関連の建物がいろいろあったまさに「ナチスの活動の場所」のど真ん中です。
マイナーな博物館だから観客も少ないだろうと思っていたのですが、意に反して大勢の人々が熱心に真剣に、ナチスの過去について見入っていました。午前中に行った入場料1ユーロの美術館ノイエ・ピナコテークより、多くの人が訪れていたのではないかと思ったくらいです。
例によって、自分勝手なコメントをつけていますが、間違い勘違いなどありましたら、ご教示くださると嬉しいです。
*博物館名のドイツ語訳は、ドイツ語にご堪能な4tr会員のjijidarumaさんに助けていただきました。ありがとうございました。
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それは本当に偶然だったのです。
野外にテレビが設置してあり、何気なく見ていると、ヒトラーが・・・。 -
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ここは5月にできたばかりの新しい博物館。
その名も「ナチスのドキュメンタリーセンター・ミュンヘン」。
ミュンヘンはナチス発祥の地、ナチスとミュンヘンは切っても切れない関係なのです。
ミュンヘンにナチスの資料館を造るべきという意見が前から出ており、やっとそれが実現したのです。 -
NS-Dokumentationszentrum Muenchen
Lern-und Erinnerungsort zur Geschichte des Nationalsozialismus.
ナチスの記録センター・ミュンヘン
ーナチズムの歴史を学び、記憶する場所ー -
受付。入場無料です。
イヤホンガイドの貸し出しもあるようですが、難しいドイツ語を聞いても理解できないので、勝手に見てまわることにします。 -
5階建ての建物。
エレベーターで4階(日本では5階)まで上がり、時系列に展示されている資料を見ながら下の階へ降りていくようになっています。
写真撮影はOK。
例によってまたたくさんの写真を撮りましたので、私の勉強のつもりでアップいたします。
私の間違いや勘違いなどありましたら、ご教示くだされば嬉しいです。 -
資料室に入るなり熱気を感じました。
テーブルに並べられた資料に真剣に見入っている人たち。 -
1914-1918 第一次世界大戦、そしてドイツの敗戦。
ヴェルサイユ条約で莫大な賠償金が課せられ、それを背負ってのヴァイマール共和国の発足。 -
1918年11月8日、バイエルン王ルートヴィッヒ3世の退位を要求し、バイエルン共和国を宣言したクルト・アイスナーが暗殺されました。
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1923年、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーで国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)の集会。
1800人以上収容できるこのビアホールで、ヒトラーの巧みな演説に党員を増やし続けます。
まさにナチスの誕生はここから始まったのです。
1923年11月8日、ヒトラーは突撃隊を率いて、ビュルガーブロイケラーからオデオン広場へと向かいました。
これが「ミュンヘン一揆」
またはヒトラー一揆、ビヤホール一揆とも呼ばれるクーデターです。 -
1923年11月9日、ミュンヘン一揆。
クーデターは失敗しヒトラーは捕らえられました。 -
1924年2月26日、一揆の指導者であるヒトラーら9名に対して裁判が開かれました。
写真は裁判の被告達。
後に「長いナイフの夜」でヒトラーに粛清された突撃隊の隊長レームの姿も見えます。
裁判での演説はヒトラーの独壇場。
女性ファンが花束を持って留置所を訪れたり、ヒトラーの使った浴槽で入浴をしたいという女性も現れた。
まるでアイドルです。 -
1924年4月1日、ヒトラーは5年の禁固刑の判決を受けランツベルク刑務所に収容されます。
しかしなかなかの特別待遇だったようで、獄中、後の腹心となるルドルフ・ヘスによる口述筆記で「わが闘争」を書き上げます。
ランツベルク要塞刑務所でのヒトラー。
ルドルフ・ヘスの姿も見えます。 -
1924年12月釈放されたヒトラーは、ナチ党再建のために活動を始めました。
1928年のナチ党としての初回国会議員選挙には12議席、1930年の選挙ではナチスの得票率18%で共産党の13%と激しく対立しました。
1928年9月、ナチスの指導者会議で議長を務めるヒトラー。 -
ナチスの選挙ポスター?
1931、1932年 -
激化する共産党との対立に、ナチスの暴力私兵部隊「突撃隊」を使って押さえ込むヒトラー。
部隊の行進を閲兵しているヒトラー。
後ろの人物は突撃隊の隊長レーム。1932年7月3日 -
突撃隊による暴力的な押さえ込みも功を奏してナチス党の大躍進。
1933年1月30日、ヒトラーはヒンデンブルク大統領より首相に任命されました。
ナチス発祥の地ミュンヘンで凱旋パレードをするヒトラー。
1933年2月24日。 -
バイエルン州政府も解体され、新市庁舎の塔にナチスの旗が掲げられました。
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ナチス活動の中心都市ミュンヘン。
ケーニッヒ広場にはナチスの軍関係の建物がいくつも造られました。
濃い色の部分がそうです。 -
ナチスの思想にそぐわない「非ドイツ的」とされた書物が各地で次から次へと焼き払われました。
1933年5月10日、ミュンヘンのケーニヒ広場で焚書。 -
そして、ナチスから道徳的・芸術的に「頽廃した芸術」と認められた絵画や彫刻は押収されて、晒しものにするために「頽廃芸術展」が開催されました。
ヒトラーは、この写真のような、意思や力を強調する巨大な彫刻が好きでした。
1936年ベルリンで開催されたオリンピック会場にも同じような彫像がありました。 -
焚書や退廃芸術の対象とされた作家や画家・芸術家、さらにナチスに批判的だった知識人たちは外国へ亡命していきました。
リューベック生まれでミュンヘンで生活していたノーベル賞作家「トーマス・マン」もその一人。
1933年ヒトラーが政権を握ると、スイスやアメリカに亡命。
大戦中は、亡命先からドイツ国民に、ナチス不服従を訴え続けました。 -
政権をとったナチスはユダヤ人への締め付けがより一層厳しくなりました。
この男性はユダヤ人の弁護士。
不法に逮捕された人々の釈放を警察に求めたところ、暴行され、公衆の面前でこのような辱めを受けました。
首から提げているプラカードには
「私は二度と警察に苦情を申し立てません」と書いてあります。
そして裸足で歩かされたのです。
この弁護士もその後ナチスに全財産を没収されましたが、亡命して無事だったようです。 -
1938年11月、ドイツの各地で反ユダヤ主義暴動が起きました。
シナゴークやユダヤ人の経営する商店は次々と襲撃、放火されました。
(水晶の夜) -
壁一面になにやら文字が。
ナチス時代にはユダヤ人に対するさまざまな禁止事項条例が発令されました。
例えば、「ユダヤ人は列車内で食堂車や寝台車に入ってはならない。1938.12.3発令」
「ユダヤ人は夜8時以降は外出してはならない」など。
関連旅行記を下記に投稿していますので、良かったらご覧ください。
http://4travel.jp/travelogue/10829281 -
またこちらには壁一面に写真が掲示してありました。
ホロコーストで亡くなった方たちでしょうか。 -
ナチス女性部隊。
ドイツの女性達の間ではヒトラー人気は絶大だったようです。
ヒトラーも、自身の結婚によって人気が低下することを恐れて、一生独身で通すことを誓ったそうです。
どこぞのアイドル顔負けですね。 -
労働奉仕でハーケンクロイツの旗を作っているナチス女性部隊 1934年。
ヒトラーがドイツ女性に望むことは意外と良妻賢母でした。
立派なアーリア人の子供をたくさん産むこと。
子沢山は表彰されました。 -
1938年3月 ドイツがオーストリアを併合
関連旅行記
http://4travel.jp/travelogue/10957215 -
1938年9月29日。
イギリス・フランス・イタリア・ドイツの首脳がミュンヘンの総統官邸に集まり「ミュンヘン会談」が開催されました。
イギリス・フランスは第一次世界大戦以降力をつけてきたドイツと闘うのを避け、チェコのズデーデン地方をドイツに割譲することが決定されました。
「宥和政策」と言われています。
総統官邸の鷲の紋章。 -
そういうヨーロッパ各国の思惑も虚しく、1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し第二次世界大戦が開始されたのです。
ユダヤ人の多くは強制収容所に送られ、ガス室送りか強制労働を強いられました。 -
どうにかしてヒトラーの独裁を食い止めなければドイツの未来はないと危惧感を抱く人も出てきました。
そして、ヒトラーの暗殺を試みますが、ことごとく失敗に終わります。
写真は、ヒトラーの暗殺を企てて失敗した「ゲオルク・エルザー」。 -
ミュンヘン大学の学生であったショル兄弟などによる反ナチ抵抗運動「白バラ運動」などもありました。
またベルリンでは、シュタウフェンベルク大佐らが起こした「ワルキューレ運動」なども有名です。 -
ナチスの発祥の地、ミュンヘンは連合軍の標的とされ、激しい空爆にさらされました。
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1945年4月29日、ミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所が連合軍に占領されました。
「ナチス活動の街ミュンヘン」は終わりを告げたのです。
その翌日、4月30日、ヒトラーはベルリンの総統地下壕で自殺しました。 -
その年の選挙ポスター(?)
ナチス党本部はアメリカ軍に接収され、米軍の施設として使われていました。
写真の中にも、おぼろげながら、今は建物から外されている鷲の紋章が見えます。 -
1946年11月9日、終戦の翌年ミュンヘン一揆の記念日に6000人を集めたデモが開催されました。
ドイツの新しい出発のためにナチス犯罪者の即座の処罰を求めるというものでした。
この頃ニュルンベルク裁判とは別に、ドイツ人自身の手による反ナチス裁判を!という声が高まっていました。 -
1972年、ミュンヘンオリンピックが開催された年のケーニッヒプラッツの航空写真。
戦後、荒廃したミュンヘンの街並みは、早い段階で再建されました。 -
ドイツでは、第二次大戦後、ナチズムを肯定することや、ハーケンクロイツを公共の場で掲げることは法令上禁止されています。
しかし、若者達の中にはナチスやヒトラー、ルドルフ・ヘスをカッコいいものとして崇拝する「ネオ・ナチ集団」が現れました。
人種差別をしたり、外国人を襲撃したりする暴力事件が多発し社会問題となっています。
写真は、ミュンヘン一揆が起きたオデオンプラッツ将軍堂に集まっているネオナチ極右集団。
手に手に松明を持っています。 -
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どの階も、老若男女、みんな真剣に見ています。
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外に出ます。
正面に見えるのが総統官邸、ミュンヘン会談が行われた場所です。 -
もう一度記録センターを。
ケーニヒ広場の他の重厚な建物とはそぐわない簡素な造りです。
これは「ネオナチ」の集いの場となることだけは避けなければならないという思惑からなのだとか。
本当に「白いさいころ」みたいですね。 -
最後に資料よりとったこの写真をご覧ください。
1936年11月9日、ミュンヘン一揆記念日に、一揆の犠牲者をパンテオン(栄誉堂)に移している儀式です。
オベリスクを挟んで見える2つの白い小さな建物がパンテオン(栄誉堂)です。 -
ナチスが、ミュンヘン一揆で死亡した党員を「殉教者」として祀るために造ったのがパンテオン(栄誉堂)。
今は建物の基礎だけが残っています。
ミュンヘンを1945年に占領した米軍は、ナチス支配の象徴である栄誉堂をいち早く爆破しました。 -
残っていたら、ネオナチの崇拝の場所になりかねませんから。
こちら側は土台の上に雑草や木が生い茂り、70年の歳月を感じさせます。 -
通りを隔てて、ナチス記録センターと、総統官邸を写真に撮りました。
「ナチスの発祥の地ミュンヘン」はこれからも重い歴史を背負っていかなければならないのでしょうか。
現在のシリア難民などに対するミュンヘン市民・ミュンヘン市の寛大な対応にもその思いが垣間見えるようで、頭が下がる思いがいたします。
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この旅行記へのコメント (4)
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- jijidarumaさん 2015/11/07 02:19:43
- 第一次大戦の戦後賠償と完済したドイツ
- himmelさん、こんばんは。
副題は「ナチズムの歴史のための教育と記憶の場所(??)」でいいのでしょうか。=>
私見ながら、「ナチズムの歴史を学び、記憶する場」・・・教育されるという他動的なことより、
himmelさんの如く、自ら“学ぶ”という語の方が宜しいかと思うのですが。
さて、第一次大戦で負けたドイツが課せられた賠償金(ヴェルサイユ条約)は、戦争で疲弊したドイツの経済問題をさらに悪化させ、その結果生じた超インプレはワイマール共和国を失敗させ、ナチスとヒトラーの台頭をもたらした。
その賠償金支払いはドイツ再統一から20年後の2010年10月3日に支払いが完了した。完済まで実に89年を要したという。この事に驚きますが、
第一次世界大戦の戦後処理の失敗の教訓は第二次世界大戦後の戦後処理において生かされ、戦勝国はドイツからは賠償金ではなく動産や機器による賠償を受けたという。
歴史からやはり学んだという事でしょうか。
jjidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2015/11/07 10:53:36
- RE: 第一次大戦の戦後賠償と完済したドイツ
- jijidarumaさん、おはようございます。
「ナチズムの歴史を学び、記憶する場」・・・それいいですね!
何か副題のドイツ語訳が難しくて、つけては見たものの気に入らなくて、かと言って私の拙いドイツ語ではここまで・・・。
早速使わせていただきます!ありがとうございました。
>その賠償金支払いはドイツ再統一から20年後の2010年10月3日に支払いが完了した。完済まで実に89年を要したという。
すごい興味深いことを教えていただきました。
てっきり第一次世界大戦の莫大な賠償金は、あの強引なヒトラーのこと、そのままチャラにしてしまったのかと思っていました。
でも律儀ですねー、ドイツって国は。
日本は第二次世界大戦の問題、従軍慰安婦問題で揺れているというのに、ドイツは何十年かかっても第一次世界大戦のツケをちゃんと払ったとは。
jijidarumaさんの歴史のお話、本当にためになります。
ありがとうございました。
himmel
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- pedaruさん 2015/10/30 07:23:46
- 映像の世紀
- frau.himmelさん お早うございます。
ヒトラーがどのような経緯でナチスを率い、強大な組織を作り、国民を絶妙なプロパガンダで支持を獲得していったか、映像とともにわかり易く解説した旅行記ですね、感心しました。
現代でもマスコミを懐柔し、危機を煽り、国民をある方向に歩ませる手法は変わっていませんね。
過去を反省する上でも、このような博物館を今になって誕生させるドイツ人に敬意を払います。 有難うございました。
pedaru
- frau.himmelさん からの返信 2015/10/31 09:38:14
- RE: 映像の世紀
- pedaruさん、おはようございます。
いつもありがとうございます。
ヨーロッパの美術館や博物館は写真をパチパチ撮れるので助かっています。
もう歳ですから、写真がないと何を見てきたのやら・・??
せっかく写真を撮らせていただいたのだから、せめてそれで勉強をしようと思ってコメントつけています。
正しいのか勘違いしているのか??、ボケ防止だと思っています・笑。
「映像の世紀」、昔テレビでよく見ました。
最近も再放送をやっているのですね。
ビデオに撮るつもりが撮れていなくてガーーーンとなっています。
あの時代のドイツ、旅行をしていますと、いろんなところで見聞きしますが、やはり恐怖政治でしたね。
それをすんなりというか、むしろ熱狂的に受け入れた国民こそが反省しなければならないと、過ちを繰り返してはならないという施設がいろいろできていますが、ドイツ国民はいつまで負の遺産を背負わなければならないのでしょうね。
日本でも同じことが言えるのですが・・・。
ありがとうございました。
himmel
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