2015/08/06 - 2015/08/07
16位(同エリア283件中)
こあひるさん
ジオパークとは、ジオ(大地・地球)に親しみ、ジオを学ぶ旅(ジオツーリズム)を楽しむ場所です。山や川をよく見て、その成り立ちとしくみに気づき、生態系や人間生活との関わりを考える場所なのです。足元の地面の下にある岩石から宇宙まで、数十億年の過去から未来まで、山と川と海と大気と、そこに住む生物について考える・・・つまり地球を丸ごと考える場所・・・それがジオパークです
湯沢は、日本ジオパークとして認定されており、世界ジオパーク認定を目指して活動・アピール中。
湯沢市は、東北地方のちょうど中央に位置しています。日本海と奥羽山脈、対馬海流の影響で、世界でも例を見ない豪雪地帯になっています。そんな豪雪地帯の中で、はるか昔から人々の生活が営まれてきました。
湯沢には「見えない火山」があり、過去から現在まで続く火山活動に起因する「鉱物」「水」「地熱」といった、大地からのさまざまな恩恵を受けながら、この地で産業をおこし、豊かに暮らしてきたのです。
そしてこれからも、時には大地の変動による試練を乗り越えながら、未来に向かって、豊かな大地の恵みとともに歩み続けるのです。
湯沢には、ジオパークの見どころである「ジオサイト」(地質や地形、歴史など、そのジオパークを特色づける見学場所や、拠点となる博物館・資料館などの施設があるスポット)を16ヵ所設定しています。
16ヶ所のジオサイトが市内に点在するため、市全体をゆざわジオパークとしています。
ジオサイトを意識して、観光したいスポットを決めたわけではなかったのですが、湯沢市の中で魅力的な風景をみよう・・・と求めると、たいがいジオサイトに該当するみたいです。
ゆざわジオパーク
http://www.yuzawageopark.com/
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
8時頃・・・朝食を食べにホテル1階のレストランへ・・・。
湯沢グランドホテル 宿・ホテル
-
ブッフェでないので、楽ちんでいいわ〜。
自家用車がないと、観光すべきスポットがない・・・(酒造と湧き水くらい)湯沢・・・。帰りの高速バスは、17時のみ(朝7時の便ならあったけど・・・)で、それまでたっぷり時間があるので・・・今日は大奮発して、観光タクシーを依頼しました。
昨日、近くにある湯沢タクシーの事務所に立ち寄って、観光パンフレットを見ながら・・・お薦めスポットを聞いたりしながら・・・行きたいスポットを相談し、4時間貸切りということになりました。 -
10時にホテルに迎えに来たタクシーに乗り・・・15分ほどで、まずは「稲庭城」へ。
城・・・といっても、中世時代の山城があった跡・・・というスポットで、今ある建物は、平成になって建てられたものなので、ほとんど魅力を感じませんでしたが、上からの眺めがいい・・・とお薦めされたので、寄ってみることにしたのです。
それにしても・・・だ〜れもお客さんいないね〜〜。
お城よりも、お城に来る途中で車窓から見た、稲庭の町並みが、意外とと〜ってもいい感じだったなぁ。どっちかっていうと、町をブラついてみたかったですね〜。稲庭うどんを製造している個人経営の工場をいくつも見かけました。稲庭城 名所・史跡
-
スロープカーで山を登れます。
うわ〜〜!籠の形をしたスロープカーです〜〜。凝ってますねぇ〜〜。 -
内部もけっこう高級風な造りです。
「御発〜ち〜〜!!」という大げさな掛け声とともに、時代劇の音楽が流れ・・・なんだかと〜っても居心地悪いわ〜。係員の兄さんは、どう思って働いてんのかな・・・。 -
3〜4分で二の丸跡に到着しました。
二の丸跡にある天守閣のような建物は、平成元年に建てられた資料館です。
稲庭城は、鎌倉時代に、源頼朝から雄勝郡を賜った戦国大名・小野寺氏が初めて築いたお城です。室町末期に沼館城に移るまで、本拠地として使われていました。その後、小野寺氏は横手城に移り、稲庭城はその支城となりました。
標高300mの大森山系にあり、山と川に守られた中世の山城でした。
小野寺氏の繁栄ぶりは県南一体に及び、城館は、仙北・平鹿・雄勝・由利・山形領まで入れると、470もあったと言われています。
稲川町には、三又城、大館、八幡館、川連城、稲庭城などがあり、一村一城館で納めていました。
しかし、隣り合う領主と戦いを繰り返したため、勢力は次第に弱くなり、慶長5年(1600)、山形の最上義光の攻撃を受けて敗退。さらに翌年の関ヶ原の戦いで、上杉氏へ味方したという疑いによって、城や領地がすべて取り上げられてしまいました。そして小野寺氏も、津和野(島根県)にお預けの身となったと言われています。
昭和61年からの発掘調査の結果、古代から近世まで、地域の人々と深い関わりがあったことを示す、土師器などの遺物が城跡から出土しています。 -
二ノ丸跡には、櫓台の跡もあります。
今日も相変わらず、カメラを超高感度設定にしたまま、(おかしいとは思いつつも)まだ気づいていないので・・・荒くて汚い写真ばかりです(いい加減、気づけって・・・)。 -
本丸は、ここからさらに登って行ったところにあるようですね。
観光タクシーだと、時間制なので(しかも日本では高額なので)、ゆっくり余裕をもって観光していられないのが残念です(必要以上に気持ちが焦る傾向の私)。 -
天守閣のような形の4階建ての資料館に入ってみます。
-
ゆざわの伝統産業品の展示がありました。
こちらは、絵どうろうの美人画を思わせる絵柄のこけし。 -
どこにいっても地元産業の漆器はありがちですが、湯沢にも、川連(かわつら)漆器というものがあります。
-
川連漆器は、中世(平安後期〜鎌倉初期)に始まったと言われています。
当時の稲庭城主・初代重道の弟・道矩が、武具に漆を塗らせたのが始まりという説が有力だそうです。
このほかに、文治5年(1189)源頼朝によって、平泉の藤原泰衡が滅びた時、多くの漆工・木地師工人が逃げ落ちてきて、その技術を伝えたという説もあります。 -
こちらが現在の川連漆器。
-
小野寺氏ゆかりの品々や、城跡発掘の出土品など鎌倉、江戸、現代へとつながる歴史が展示されています。
こちらは「黒瀧観音(マリヤ観音)」。
特徴としては、観音さまの抱いている赤ちゃんが、母の胸に刻まれている星を指していることです。日本では、ほとんど見ることのない姿で、聖母マリアがキリストを抱いている聖像・・・と言われる所以です。 -
稲庭小野寺上野守道俊が、大永5年(1525)に、稲庭城周辺の三熊野神社に奉納した懸仏(かけほとけ)。
懸仏とは、鏡や円板の表面に、神像や仏像を鋳像にしたり線で彫って、神社や寺院に奉納し、掛けて礼拝したもの。
この懸仏は、中央に蓮華座上の弥陀坐像を取り付け、左右に花瓶を鋲止めし、下に青海波を線刻しています。奉納時には、金色に輝いていました。 -
稲庭城復元想像図。
稲庭城は、中世に県南を支配した小野寺氏の居城でした。小野寺氏は、県南に470もの城や館を持ち、一大勢力を誇りました。
ここ稲庭城は、稲庭系小野寺氏の本拠地であり、鎌倉時代初期、小野寺重道が築城したと伝えられています。
険しい山を巧みに利用した天然の要害でした。標高704mの大森山の西側尾根を削って平らにし、主郭、二郭、曲郭、堀切りなどで構成された典型的な中世の山城でした。
山上には、戦争になった時に立てこもる山城があり、その麓に、根小屋と呼ばれる住まいがありました。
山城の造りはシンプルで、最も高いところに櫓が立っています。下の段に開けられた木戸のわきに竪堀が・・・それをへだてて横矢がかりがあります。
ここからジグザグの坂道で、根小屋に下りることができます。こちらは日常生活をする建物なので、造りも立派で、周りに櫓や、門前に堀を造り、土橋を設けています。
この復元想像図を見ると、今、建てられている資料館のような天守閣を持ったお城には見えないのですが・・・。 -
稲川町では、縄文時代の遺跡が17ヶ所確認されています。
-
その後、古代から中世にかけても人々の営みは続き・・・小野寺氏の支配を経て・・・慶長6年(1601)には、小野寺氏一族は、全所領を没収され、佐竹氏の支配へと変わります。
-
佐竹氏の藩政下では、土地改良が行われ、また、稲庭うどんや川連漆器が、殖産興業策として保護され発展しました。
-
資料館の4階は展望台になっています。
資料館の前にある二ノ丸の櫓台跡は、上から見るとこんな感じ。櫓台の横にある2本の松(写真右側)は「夫婦松」と呼ばれる松の木です。
稲庭城主14代・小野寺上野介道勝は、山形の最上義光に攻められていましたが、「命の限り戦い、ともに散ろう」と味方を鼓舞し、弓や鉄砲で戦いましたが、味方は次々に倒れていきました。城中には水がなくなり、落城を悟った道勝は、城に火をつけ、わずかに残った家来をつれ、峰づたいに逃げ去ったと言われています。
その落城の際、道勝と奥方が、城への名残りを惜しんで植えた松だとされています。 -
標高300mほどだけど・・・けっこう見晴らしがいい〜〜!
-
ひどく汚い写真で・・・まるで何十年も前に撮った写真が色褪せたって感じ〜。
-
資料館から出て・・・櫓台跡に上ってみました。何か石碑がありましたが、どういった石碑なのかよくわかりませんでした。
-
わが家ふたり以外にはお客さんいないので・・・わが家が資料館を出る時に、受付のおじさんが、下からスロープカーを呼び寄せるって感じなので・・・上がってくるまで数分待ってね・・・と言われました。
そして数分後・・・籠スロープカーがやってきました(2両編成なんですよね、しかも)。 -
さて・・・稲庭城から約20分で、やってきたのは「小安峡」。
連れ合いにとってはかなり大変なのですが・・・九十九折になった階段を、かなり下まで降りて行かないとなりません。 -
小安峡エリアは、16あるジオサイトのひとつ。温泉地(小安峡温泉)としても、また、渓谷の紅葉スポットとしても有名らしいです。
やっと・・・渓谷の下まで降りてきました。川の水がとても澄んでいて・・・キレイです。
カメラの設定ミスで・・・写真がすべて台無しで残念です・・・。 -
穏やかな流れの川沿いに・・・渓谷の遊歩道をしばらく進みます。
-
岩盤の地層が・・・すごいですね。
-
遊歩道の先に・・・もくもくと真っ白い蒸気が噴出している光景が・・・!!
小安峡は・・・皆瀬川の急流が、長年にわたり両岸を浸食してできた天然のV字の渓谷です。
この「小安峡大噴湯」では・・・高さ約60mの谷底から、大地の息吹きを感じさせるように熱湯と蒸気が激しく噴出しています。 -
川の両脇の岩盤のすき間の至る所から・・・温泉や蒸気が噴き出していて、迫力あります!
地下深部に入り込んだ雨水などは、マグマから伝わる熱で熱せられて、岩石中に貯留されるのが普通ですが、ここでは再び地表まで上昇し、地層の隙間や割れ目から噴出しているんです。 -
遊歩道のところまで・・・蒸気が勢いよく吹きかかっています〜。ちょっと怖い〜〜!
-
通って大丈夫か〜〜!?ってほど、勢いよく噴き出している熱湯と蒸気。
この地域では、地熱資源の活用が盛んに行われていて、温室での農産物の栽培や乳製品の製造など、様々な分野で利用しているそうです。 -
来た方を振り返ってみました。かなり切り立ったダイナミックな形状の渓谷ですね。
-
この先は、荒々しい道のようで(行けるのかしら?)、ますます険しくなっていくので、このあたりで引き返すことにします。
この先に滝が見えるのですが・・・雨不足で、水量がかなり少なく、いつもならもっとよく見えるんだそうですが・・・まぁ、写真もボケボケだし・・・ちょっとわかりづらいですかねぇ・・・。 -
真ん中あたりに滝が・・・見えますか???
-
このへんは・・・温泉が大噴出しているあたりよりも、岩がゴロゴロしています。
-
来た方へ戻ります。
上に見える橋の高さから降りて来たんです〜。 -
地球の活動の息吹をひしひしと感じられる場所ですね。
-
さて・・・連れ合いにとって降りるのは大変だったけど・・・上りは、ヘタレの私にも辛いなぁ。
-
先ほど下から見上げた橋の上へ行ってみます。
-
ここから見る眺めは、紅葉シーズンのときには、一番の撮影スポットなんだそうです。ポスターなどの写真に使われるのはここからの眺めだそう。
この左右がカラフルに色づいていたら・・・確かにキレイだろうな〜〜ぁ。 -
反対側。
-
ちょうど正午になったので・・・近くのお蕎麦屋さんに寄って、運転手さんと一緒にお昼を頂きました。
-
小安峡の終わり地点にある不動滝にやってきました。ここも下へ降りて行かなければなりません。
この場所で湧く温泉のシリカ成分は、長い時間をかけて、地層のすき間に染み込み、周囲の岩を硬く変質させました。そのため皆瀬川は、この地点より上流の大地を削ることができず、小安峡はここで終わっているのです。
そうして出来上がった段差によって、不動滝が生まれたのだそうです。
そのため、不動滝の上流と下流では、異なった地形が見られます。 -
あ、木々のすき間から、ほそ〜い滝が見えます。
-
木々のすき間からみえるのが(たぶん)不動滝。
下まで降りていくのが大変なわりに、今は水量が少なくて全然迫力がない・・・ってことなので・・・ここらへんでいいです・・・ってことにしました。 -
3万〜1万年前、不動滝より上流の地層が、温泉作用により硬く変質したため、川による浸食作用を受けませんでした。
-
ですので・・・不動滝から上流側には、深い渓谷が造られることはありませんでした。
-
次の目的地に向かいます。鬱蒼とした山道を走ります。
-
走ること約20分あまり・・・泥湯温泉というところを通ります。
泥湯温泉を見たとたん、わ〜〜!なんと風情ある温泉町(?)なの〜〜!!と・・・思わず車を停めてもらいました。
この雰囲気・・・一目惚れ〜〜!! -
しかしながら・・・泥湯温泉に行くには・・・バス便がなく(たぶん廃線になった?)、自家用車以外ではアクセス不可だそう・・・湯沢からだと、タクシーで1万円以上かかる(え〜〜!?そんなに遠かったっけ?)・・・とのこと・・・。
-
運転手さんが言うには、岩手内陸地震で土砂崩れして(←岩手内陸地震だとしたら・・・だいぶ前のことだと思うが・・・まだ工事中なの?)・・・その砂防工事中ってことらしいが・・・豪雨などの時には、泥湯温泉・・・今でも危ないってことかな・・・。
タクシーの運転手が言うには、湯沢駅で、泥湯温泉の送迎バスを見かけるらしい(タクシーとしては面白くない様子・・・笑)・・・ということは、どこかの旅館が送迎をしてくれるってことなのか・・・?
泥湯温泉に一目惚れしたものの・・・目の悪い連れ合いがいるわが家には、難しい点の多い秘湯・・・。
タクシーでも約3000円以内でアクセスできて・・・貸切風呂などがあって(混浴は、結局、着替えや洗い場が男女別のようなのでダメだと思われる)・・・という条件が必須なので、こういった秘湯は・・・私がどんなに行きたくても難しいのです。
ところが・・・この旅行後にも、泥湯温泉がすごく気になってチェックしたら・・・湯沢までの送迎あり・・・でしかも貸切風呂もあり・・・というミラクルな旅館があって・・・(トイレが共同なのは何とかクリアできるだろう)さっそく、10月下旬に訪れることにしちゃいました〜〜!嬉しい〜〜!!! -
泥湯温泉から5分くらいで、目的地の「川原毛地獄」に到着しました。
今日の観光で、私が最も見てみたかったスポットです。
山全体が白い山肌と奇岩に覆われ、特異な自然景観となっています。これは、凝灰岩類からなる山が、温泉や噴気活動の影響で変質したためで、原岩の構造は分かりにくくなっています。
タクシーから降りると・・・白い粉を被ったような山が・・・周りの緑の山々の間で異彩な存在感を持ち・・・そこだけ異空間のように感じられます。
ここも16あるジオサイトのひとつです。 -
今、私たちは、このマップの右下にある道路の右端あたりにいます。「現在地」と書かれているところまで(このマップは、現在地と書いてあるところにあったものです)、道路を徒歩で歩いているところです。
マップでわかるように、今見えている白い山は、山のずっと向こう側に広がっています。
川原毛地獄は、恐山、立山と並ぶ日本三大霊地の一つだそうです。古くから、多くの修験者や参詣人が訪れ、女人禁制の山でした。
大同2年(807)、月窓和尚が霊通山前湯寺を建立、天長6年(829)、慈覚大師が訪れ、法羅陀地蔵と自作の面を奉献しています。明徳4年(1393)、前湯寺は、梅檀上人により、三途川に移されました。
ここには血の池地獄や針山地獄など136の地獄があり(ひょえ〜〜(;゚Д゚))、極楽もあります。この先では、熱湯が噴出して湯の川となり、川原毛大湯滝や川原毛温泉跡もあります。
硫黄の採掘は、元和9年(1623)から、昭和41年まで344年間行われていました。 -
かなりの硫黄臭があたりを覆っています。
窪みに溜まった池のようなものが見えます。 -
なんだか神秘的〜。
-
荒涼とした不思議な光景です〜。
-
遊歩道がず〜っと続いていますが・・・誰も歩いていないようです・・・今日は立ち入れないのでしょうか(わが家は全然歩く気もないですが)。
-
白い山肌は、勢いよく噴き出す酸性火山ガスの漂白作用によるものだそうです。火山ガスは、生物にとって有毒で、植物もほとんど生えていません。
人々は、古くからこの光景を畏れ敬い、信仰と修行の場所としてきました。 -
ボケた写真なのでわかりづらいですが、ところどころで、水蒸気が噴出しています。
-
硫黄臭がきつく・・・長時間いたら、頭が痛くなってきそうです。
こんな臭いところを・・・歩き回るのはちょっと無理だなぁと思いました。 -
-
火山ガスが噴き出す穴には、硫黄の結晶が見られます。
-
いや〜〜!それにしてもここにはわざわざ来てよかったなぁ〜〜。
運転手さんが言うには、湯沢に見どころはたくさんあるけれど、ひとつひとつの場所が離れているので、車で周るにしても、けっこう移動時間が長くなっちゃうんですよね〜ぇ・・・とのことです。
湯沢のパンフレットなんかで見ると、あちこちのスポットを、車だと容易に周れそうに見えますが、実際には、意外と離れて点在していて、移動時間がかかるようです。
湯沢市って・・・いくつかの市や町が合併したらしいので、やたら広いんですよねぇ・・・しかしながら・・・観光スポットが、旧・湯沢じゃないところばっかりなのもビミョ〜(笑)。 -
さて・・・また次のスポットへ・・・。一度、来た方向へやや戻るような形になって・・・山から平地へ降りてきました。
-
川原毛地獄から45分ほどかかって・・・やって来たのは、私が訪れてみたいと思ったもうひとつのスポット「院内銀山」。
入口には、可愛らしい絵の全体マップが立てられているし、それぞれの遺跡場所にも説明板が立ててあり、それなりに観光スポットらしさはあるのですが・・・
ここに行きたい・・・と思ったのは、寂れたような坑跡の写真を見て・・・なのですが、詳しい情報がなかったので、ネットで検索してみると・・・
まじめな観光スポットとしての情報よりも・・・心霊スポットとしての情報ばかりがかなり多くてビックリ!そういうスポットに冷やかし半分で行く趣味は全くないので・・・行くべきかやめとくか・・・ちょっと迷いました・・・。
タクシー会社の人が、昼間なら大丈夫(でも夜はヤバいですと言ってました←でも夜には、ここには行かんだろう・・・?真っ暗だし・・・と思いましたが)と言うので・・・結局、行ってみることにしました。
・・・で、マップでは、主だった建物の場所がシンプルに示されていますが、現在は、建物という建物は朽ち果てて・・・全く残っていません(金山神社を除く)。 -
院内銀山は、慶長11年(1606)に発見され、翌12年から操業された、わが国有数の銀山でした。
開坑直後から、資本家・技術者・労働者が全国から集まり、銀山町が形成され、最盛期には人口1万人を超えたと伝えられています。また人と共に、諸国の文化が流入し、出羽の都と称されるほどの繁栄を見ました。大量の産出銀はもとより、莫大な税収や専売収入が得られる院内銀山は、秋田藩の重要な財源でした。
藩政時代においては、20トンの最高年産を記録した慶長期と、4・5トンの平均年産が10年以上も続いた天保期と、ピークと減退を繰り返しました。
近代に入り、明治9年(1876)工部省の直営となり、巨大な投資によって、ドイツ人鉱山技術者が招かれ、近代化が図られました。明治18年(1885)には、古河市兵衛に払い下げになりますが、鉱山量は増加し続け、明治22〜38年には、年間産量が27・5トンにも達しました。
しかし、明治39年(1906)に、坑内火災で坑夫102名が死亡するという打撃を受け、産量が減少し、また銀価暴落が起こり、明治41年(1908)には製錬を中止しました。大正10年(1921)以後、院内銀山は一時休止しました。
昭和9年に再興を図りましたが、昭和29年(1954)に鉱況が悪化したため、全山閉山となり、350年の歴史に幕を下ろしました。
院内銀山も、16のジオサイトのひとつです。
この写真は、かつての院内銀山町です。今となっては、木々や雑草が広がるのみ・・・ですが・・・かつてはこのように、たくさんの家々が建ち並び、ひとつの町として、大きな発展を遂げていたのですね・・・。
こういう写真を見ると、具体的に銀山町の様子がイメージできますが、今のこの地との違いがあまりにもありすぎて、けっこうショックです。 -
院内銀山の入口であるここには「十分一御番所(じゅうぶんいちごばんしょ)」がありました。
院内銀山で唯一の出入口でした。
十分一という名前は・・・銀山内で課せられる税の中に「入役(にゅうえき)」というものがあり、山内に入る全ての物品について価格評価し、十分の一(1割)の入役を徴収することを主目的に設置された番所であったことに由来しています。
また、ここには種々の掟を揚げた高札場が設けられ、銀山の警備を担当する役人もいました。出入りする人物を調べ、キリシタンの潜入や、坑夫や犯罪人の逃亡を防ぎ、浪人者を取り締まるなど、院内銀山を警備する重要な役割を果たしていました。
わずかに、石垣のようなものが残っているのが名残りでしょうか。 -
説明板のあるポイントでは、車から出て見よう・・・と考えていたのですが・・・車の周り、恐ろしいほどの数のアブが集まってきていて(アブって、聞いたことあったけど、初めて遭遇しました)・・・運転手さんによると、アブは刺すし、刺されると痛いという・・・。
車の温度に反応してか、ガラス窓の外を何百匹も飛び交い集まってきているので・・・絶対に外に出れませんでした。そもそも1匹であっても・・・虫が大嫌いなのでムリです。車の窓も開けられません。
8月頃は、アブが発生している時期なんだそうですが、9月になるとピタッといなくなるそう。この時期には、院内銀山・・・徒歩で出歩くのはやめておいた方がいいですよ・・・。
・・・というわけで、タクシーが止ってくれるところで、ガラス越しにしか見ることができませんでしたが・・・。
この石垣と石段は・・・「異人館跡」。
明治政府は、富国強兵のもと、日本の重要な鉱山の再開発と経営の近代化のために、ドイツなどから鉱山技術者を招きました。院内銀山にも、ドイツ人技師5人が派遣されました。
異人館は、ドイツ人技師の住居でした。当時珍しい洋式住宅で、人々は、異人が住む屋敷「異人館」と呼んで、奇異の目で見ていました。
最後の技師が帰国した翌年の明治17年には、院内銀山の民間払い下げに伴い、古河組の鉱山所長宅となりましたが、銀山は衰退し、大正末期に当時の植田銀行に引き取られ解体されました。 -
木造の家々は朽ち果てようとも・・・石は残っている・・・んですね。
-
さらに奥へ・・・車1台がやっと通れるほどの道・・・。ま、誰もいないけど・・・。
細い道の両脇には、これでもかと言わんばかりに、木々や雑草が茂りまくり・・・ここに家が建てられていて、たくさんの人が生活していた町があったとは・・・全く信じられません。 -
細い道の左右は・・・自然いっぱい・・・。
-
-
そして・・・心霊スポットと言われる大きな理由となっている場所・・・突然、草むらの中に、古びた・・・寂れた・・・墓石たちが現れる・・・。
一応、説明板もあるので、観光スポットでもあるはずなのですが・・・「院内銀山三番共葬墓地」です。 -
院内銀山は、開山以来、大変な賑わいを極め、諸国より入山の有縁無縁の者たちが、ここ銀山で生涯を終え、数知れない人々が、数ヵ所の寺に葬られています(院内銀山には、11の寺がありました)。しかし、それ以外の多くは、この共葬墓地に葬られ、閉山までに、その数はおよそ3千余柱となった・・・と推定されます。
古くから開かれたと思われるこの墓地・・・当初は土盛りや鉱石そのものを墓誌としたものも数多くあり、墓石に彫りつけられている年号の最も古いものは、延享5年(1748)と記されたものがあります。のちの銀山最盛のころには、親分や兄弟分の手によって埋葬された名の知れぬ者もあります。 -
賃金は、他と比べるとかなりよかったそうですが、一方で、労働環境が悪いため、職業病により短命だった者も多かったという面もあるようです。
単純に賃金目当てで働きに来た人もいるでしょうが、色々な事情を抱えた人々もたくさん集まってきていたようです。
隠れキリシタンのお墓や、興行に来た力士のものもあるそうです。 -
-
現在は500基ほどの墓石があるそうです。
忘れ去られて荒れ果てた・・・打ち捨てられた墓地・・・なのかと思いきや・・・時々はお墓参りに来る人もいるそうで・・・自分のルーツを探しにやって来た人もいるそうです。 -
わりと最近になってから、供養のために観音像が建てられ、老人クラブの手により、たまには清掃されているそうです。
-
再び細い道をしばらく行くと・・・「金山神社」の鳥居が見えました。
車から降りることができないので・・・神社の境内までは見ることができませんでしたが・・・。
院内銀山が発見された当初から、銀山の守り神として、藩から大事にされていました。最盛期の1800年代前半に奉献や献上が盛んに行われ、歴代藩主から、金どうろう、書画、狛犬、石どうろうなどが多数奉献されました。
現在の社殿は、1830年に造られたもので、彫刻も凝っており、奥殿は総ケヤキ、総漆塗りの流れ造りの精巧を極めたものだそうです。山門は、変形の楼門形式で、秋田県内ではほかに見られない形をしているそうです。
神社も打ち捨てられて荒廃している・・・のかと思いきや・・・年に一度、例大祭があって、その時には、ここに人々が集まって来るんですって・・・。
今の雰囲気からは、想像できません。・・・と思ったけど・・・鳥居が新しくてキレイだものねぇ・・・。 -
2度目の最盛期頃の院内銀山マップ。
左下の「表御門」から入り、道をまっすぐ・・・「山神堂(現・金山神社)」の石段の下あたりまできたところです。
金山神社のところで、道は右に曲がりますが・・・その奥には、なんと多くの家々があったんでしょう〜〜〜!!!
現在は、この先すぐの「五番坑(現・御幸坑)」より奥へは行けないそうです。 -
-
車が通ってもいいのか?と思うような道を・・・さらにガタガタと進みます。
この両脇にも、かつては家屋が並んでいたのですね。 -
「正楽寺跡」。
一向宗正楽寺は、村山宗兵衛により創建された銀山最初の寺で、昭和中期まで銀山最後の寺として存続していました。
境内には、銀山盛時の有力者の墓がたくさんあったそうです。
銀山盛時には、院内銀山に全部で11の仏院があったそうです。 -
そして・・・この石橋の先にあるのが「五番坑(御幸坑)」。
数ある坑道の中で、唯一の坑夫の出入口でした。江戸時代には、坑口広場に、労務管理の五番役所が置かれていました。
明治14年(1881)9月21日の明治天皇東北地方御巡幸の際に、五番坑に入坑されました。随行した吉井工部大輔によって御幸坑と命名され、この日(9月21日)を鉱山記念日と定めました。
しかし、明治39年1月4日、銀山史上最大の火災事故があり、延焼を恐れ、空気を遮断するために、出口の鉄の扉を閉めました。そのため、逃げ遅れた多数の坑夫が、坑内で亡くなりました。
これまた・・・心霊スポットとなるにうってつけの・・・(´゚д゚`)。
運転手さんによれば、その時に閉鎖したままなので(コンクリートで固めたって言ってました)、坑中には、そのまま焼け死んだりして亡くなった人のご遺体がある・・・って・・・(ほんとですか・・・?)
アブが集まってきていて、ちょっとでも窓を開けようものなら、大変なことになるので・・・この位置からしか見えないので・・・よくわからないわね、御幸坑の入口が・・・。 -
ちょっと車をズラしてもらい・・・木々の間からなんとか御幸坑の入口が見えました・・・。
説明板があるから、あそこの前まで行けるんだねぇ・・・ほんとは。それなら、事故のご遺体がそのまま中に・・・ってことはなさそうな気がするけどな・・・。
運転手さんが言うには、現在、院内銀山は民間所有なので、市としても、観光スポットとして整備したくても、思うようにはできない・・・のだそう。そういう点も、霊感スポットと言われるような・・・荒れ果てた雰囲気となってしまう一因のようです。 -
御幸坑から奥へは行けないらしいので・・・引き返します。再び金山神社の鳥居の前を通り・・・。
アブのせいで、全く外に出れず・・・いまひとつ物足りないような・・・一方で、一応スポットはざっくり押さえてきたので・・・この程度で十分かな・・・と思ったり・・・。
10月に泥湯温泉を訪れる際、院内銀山にリベンジするかどうか・・・迷い中です。心霊スポットとしても有名な場所を冷やかすのもどうかな・・・とも思うので・・・のどかな稲庭町をブラブラする方が・・・連れ合いにも楽しいだろうし、健全でいいかなぁ〜〜。 -
院内銀山から15分ほどでやってきたのは・・・「小町堂」。
小野小町は、湯沢市小野の地で誕生したと伝えられ、晩年もこの地に戻り庵を結び閑居したと伝えられています(小町の誕生の地といわれるところは、ほかにもいくつかあるそうですが)。
小野小町に思いをよせていた深草少将が、京都から姿を消した小町を追ってこの地にやって来ました。少将は小町に会いたいと手紙を送りましたが、小町はすぐに会おうとせず、シャクヤクを毎日1株ずつ100株植えることを条件にしました。
100日目の夜、少将は100本目のシャクヤクを手に、小町に会いに行こうとしましたが、その途中で水かさの増した川に流され亡くなってしまいました。小町は深く悲しみ、99本の芍薬に99首の歌を捧げると、人目を忍んで余生を過ごしたと言われています。その後、小町はひとり岩屋堂に住み、世を避け、香をたきながら自像を刻み、92歳で生涯を閉じました。
現在の「小町堂」は、平成7年、小野小町の霊をまつるために建てられたお堂で(それ以前から、小町堂はあったようです)、芍薬塚もあります。芍薬塚は、深草少将が小町に贈った芍薬を植えた場所・・・と言われています。現在ではその面影はないそうですが。 -
さほど広くない敷地です。
特に小野小町に興味があったわけではないのですが、小町まつりで、小町娘がこの建物の前に並んでいる写真を見たことがあって、雰囲気があるお堂だな〜と思ったので見にきました。
小さな建物とお庭があるだけで、記念撮影するくらいしか・・・やることはないのですが。 -
この小野エリアも、ジオサイトのひとつです。小野小町が関わったとされるスポットがいくつか残されています。
-
院内銀山の到着時点で、約束の4時間が経ってしまっていました。運転手さんが、1時間延長でもいいですか?と聞いてきたので、院内銀山は外せない!と思い、延長OKということで・・・。
ホテルに戻って来たら、ちょうど5時間・・・15時少し前でした。
1時間の延長料金(観光タクシーは、1時間いくら・・・という設定になっています)を当然覚悟していましたが、運転手さんは、4時間分でいいです・・・とおっしゃってくれました〜〜。
わ〜〜!うれしいです!ありがとうございました〜。かなり得した気分〜(←わたしの撮影のせいで時間がかかった・・・と連れ合いはちょっと思ったようですが・・・)。
ホテルに戻って・・・もうそれ以上歩きまわる元気はなかったので、ホテルのカフェでパンケーキを食べて・・・17時のバスの時間までダラダラ過ごしました。湯沢グランドホテル 宿・ホテル
-
17時少し前、駅のそばのバス停で待ちます〜。西日が当たって暑いわ〜。
ほぼ時間通りに来たバスに乗り・・・仙台へ帰ります。 -
仙台に20時半ころに到着。
夕食は、バスを降りて駅まで向かう途中・・・東口で適当に入ろう・・・ということで、見かけた居酒屋さん「豆千代」に入りました。
これ、お通しです!!!こんなゴージャスなお通しって初めて〜(笑)!豆千代 グルメ・レストラン
-
豆千代、何でも美味しくて・・・よかったです!
東口ヨドバシカメラの並び・・・交差点のロッテリアのすぐ横です。
http://tabelog.com/miyagi/A0401/A040102/4001052/
弘前から帰って、翌日からの湯沢への旅・・・。
七夕絵どうろうまつりは、目新しい七夕まつりで・・・ステキな灯りイベントだったし、お金かかっちゃったけど、湯沢観光も、色々な景色に巡り合えて楽しかったです。
明日(8日)は・・・仙台七夕最終日だけど・・・見に行く元気が残っているかどうか・・・(笑)。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- aoitomoさん 2015/10/05 15:49:20
- ゆざわジオパーク巡り
- こあひるさん
『観光タクシー』
湯沢のジオパークは主な観光ル−トも決まっているようですし、タクシーは効率がいいですね〜
それにしても太っ腹〜
タクシー代オマケしてくれたのも良かったですね〜
『稲庭城』
高台からの景観が美しいですね〜
籠スロープカーがあるので助かります。
朝早いからかスロープカーも貸し切り状態〜(笑)
『小安峡』
ここも素敵です。
白い蒸気が雲のように立ちこめる景観がいいです。
これだけ素晴らしい景観があるのに人がいないのが不思議というか、写真も撮りやすくて最高です。
人がいなくてあれだけ蒸気が出ているとちょっと怖いですが、訪れて見たくなる景観です。紅葉の時期にも気になります。
『泥湯温泉』
風情ある景観はここも穴場な感じがしますが、温泉はまだかなり遠いようですね。
泥湯温泉を画像検索したら、確かに泥湯で面白そう〜
早速今月末ですか。
超楽しみです。
『川原毛地獄』
凄い景観ですね〜
人がいなくて、きつい硫黄臭はちょっと怖いです。
歩いてみたいですが専門のガイドさんがいないとお手上げな感じですね〜
でもこの景観も直に見てみたいです。
『院内銀山』
ここは歴史を知ると観光が何倍も楽しくなりそうですね。
五番坑(御幸坑)の痛ましい火災事故とその対応はショックです。
心霊スボットとされてしまうのも頷けますが、
民間所有なため観光スポットとして整備が難しいというのも残念ですね〜
私はこあひるさんの旅行記でよく勉強になりましたよ。
『泥湯温泉』もいい写真をよろしくです。
aoitomo
- こあひるさん からの返信 2015/10/07 16:45:50
- RE: ゆざわジオパーク巡り
- aoitomoさん、こんにちは〜。
観光タクシーは、楽ちんだし効率的ですが・・・ふたりだとか〜なり高くつくのが玉にキズ・・・。
でも今回は、運転手さんが、自分の周り方の効率のせいで1時間延長になったと思ったらしく(連れ合いは私のせいだと思ってたようですが)、延長料金を請求せず、とっても親切でした。
しかしながら・・・観光タクシーといっても・・・普通のタクシーの運転手さんなので、高いお金を払って得したな・・・というようなガイドには巡り合っていません。単に貸切タクシーってところかな。地元の人なので、ある程度は知識があるけど、見聞きした自分の知識だけで、勉強したわけではないので、ガイドの体はなしていません、残念ながら・・・。日本の観光タクシーはそんなもんだと諦めています。aoitomoさんの済州島のタクシーが羨ましく思いました。
稲庭城・・・土日になれば訪れる人も増えるのかなぁ・・・。まぁ、稲庭うどんの本場の町なので、そのついでにちょっと寄ってみよっか・・・って人が多いのかもしれません。
小安峡は、紅葉の時期にはキレイらしいのです〜〜。
今月末に泥湯温泉に行っても、歩いて行ける距離ではないし、宿からの送迎も、翌日は8時半と超早いので・・・ちょっと行くことはできなさそうで、近くまで行ってるのに残念〜〜。泥湯温泉でも、それなりに紅葉が見られるようなのでちょっと期待しています。
川原毛地獄は、荒涼としていて・・・なかなか絶景だと思いました。ああいう場所は、箱根の大涌谷くらいしか見たことがないのですが、大涌谷よりも、真っ白くて雪山みたいで・・・寂寥感がありました。これ見たら、やっぱり恐山にも行ってみたくなりました(連れ合いはあんまり乗り気になってくれませんが)。
硫黄のにおいがかなりきつく、あれ以上あそこにいたら、頭が痛くなっちゃいそうでした。あの地獄を山越えするなんて・・・身体に悪くないんでしょうか(笑)。ガスの濃度が高すぎる時には、逆に臭いがしなくなるので(感じなくなるんだっけな・・・??)もっと危ないそうです。
院内銀山は、心霊スポットとして有名という皮肉な場所ですが・・・まぁ、そうなっちゃうよね〜・・・絶対に何かはいそうだよね・・・と思わせる・・・荒廃ぶりと・・・痛ましい火災事故があったので・・・。
8月にはアブのせいで誰も入れないので、あんな感じなのかも・・・とも思ったり???9月には、金山神社で例大祭があるらしいので、10月に再訪したら(することになりました・・・笑)ちょっとは雰囲気が違っているかな(そう望みます)?
こあひる
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったスポット
この旅行で行ったグルメ・レストラン
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
PR
2
94