2015/08/12 - 2015/08/12
311位(同エリア540件中)
滝山氏照さん
JR郡山駅から磐越東線(ばんえつとうせん、又は「ゆうゆうあぶくまライン」)にて2駅目三春駅から町営バスにて健康センター下車すると三春城跡入口にあたります。
三春城(みはるじょう、福島県田村郡三春町)は標高約400mの独立した丘陵地にあり、永正元年(1504)に田村義顕(たむら・よしあき、生誕不詳~1561)が郡山・守山城より当地に本拠を移し現在の地に築城、田村氏を始め歴代の城主は山頂部に居館を構えます。
田村氏は平安時代の征夷大将軍である坂上田村麻呂の後裔と伝えられていますが真偽のほどは不明です。義顕の後隆顕(たかあき、生誕不詳~1574)・清顕(きよあき、生誕不詳~1586)と続く中、隆顕・清顕領主時代には仙道地域(福島県中通り)への進出が顕著になります。即ち会津の蘆名氏、南相馬の相馬氏、岩城の岩城氏、出羽の伊達氏、常陸の佐竹氏など周辺の有力領主が勢力拡大をもくみ盛んに侵攻を企てます。
この状況に対し各有力領主の動向を見ながら婚姻などの血縁関係を結ぶことで自らの領土保全に傾注します。例えば永禄元年(1568)の蘆名盛氏の仙道侵攻に対しては城主隆顕は正室の実家伊達氏を後盾として対抗し、天正元年(1573)の佐竹氏の進出に際しては蘆名氏と呼応して佐竹氏を撃退します。しかしながら蘆名氏と佐竹氏が同盟を築き周辺の小領主(二本松氏・大内氏等)も巻き込んだ反田村包囲網を敷かれる危機的状況にみまわれます。
そうした中義顕に代替りした清顕は正室が相馬顕胤(そうま・あきたね、1508~1549)の娘で有友好関係は保たれていましたが、一層の安寧を考え清顕は一人娘(愛姫)を伊達輝宗(だて・てるむね、1544~1585)の嫡男である政宗(まさむね、1567~1636)に嫁がせて伊達氏との同盟を結ぶことで佐竹・蘆名の仙道進出を阻止する方策を取ります。
天正12年(1584)伊達政宗が伊達氏家督を相続すると懸案の仙道地域進出を開始、これに対し佐竹氏・蘆名氏・岩城氏・相馬氏は周辺の小領主と連合を組んで伊達氏に対抗します。
天正13年(1585)に人取橋合戦(人とりばしがっせん・現福島県本宮市)において伊達・田村軍は少数軍勢(約7千人)ながらも佐竹・蘆名を中心とする連合軍(約3万人)と激突しこれに勝利して進出を阻止し、その勢いを買って伊達氏は奥州南部経略を進める契機となります。
清顕死去暫くは藩主不在が続きその間清顕正室が藩主代行を務め、この状況を好機と捉え正室出身の相馬氏より藩主を招く考えの家臣と現状を考慮して伊達氏より迎えるべきとの考える家臣の分裂が藩内で広がり収拾がつかなくなります。
天正16年(1588)こうした状況を察知した政宗は軍勢を派遣して相馬派が招いた相馬義胤(そうま・よしたね、1548~1635)の三春入城を阻止し、その年8月自ら三春城に入った政宗は家中の相馬派を一掃、清顕の甥にあたる宗顕(むねあき、生没不詳)を城主とします。尚「宗顕」は政宗から「宗」の偏諱を与えられて名乗りそれまでは顕季と名乗っていました。
天正18年(1590)小田原征伐には宗顕は伊達氏の傘下にあると政宗と共通の認識にあって参陣しなかったのですが、一方の秀吉は三春氏を独立大名として見なしていたので奥州仕置によって改易、宗顕は不本意ながら浪人を身を経て白石城主の片倉重長に仕えることになります。
江戸時代では戦役の懸念もなくなり正保2年(1645)常陸宍戸から5万5千石を以て入封した秋田氏はそれまでの山頂の居館を現在の三春小学校がある山麓へ移っています。
城郭の途中に立っていた「三春城跡」と題した説明は次の通り書かれています。
「 三 春 城 跡
永正元年(1504)田村義顕が築城したと伝えられ、以後田村氏・松下氏の居城となる。
正保2年(1645)、秋田俊季が五万五千石で入城し、明治維新を迎えた。
近世の城は、本丸・二の丸・三ノ丸を中心に形成され、本丸には表門・裏門・三階櫓などの建造物が置かれていた。
藩主は現三春小学校の場所に屋敷を構え、そこで政治を行った。
明治初年廃城となり、建造物・石垣のほとんどを失ったが遺構の保存状態はよく、また県内で中世から近世にかけて同じ場所に城が築かれた例も少ないため、貴重な史跡と言える。
三春町教育委員会 」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル
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健康センタ−
町営バスに乗ってこの健康センタ−で下車します。 -
三春城跡入口
案内板には「舞鶴城址」と記載されていますが三春城の別称と思われます。 -
三春市街案内図
JR三春駅から約2Kmの地であり、帰路は町営バスの時間合わないので徒歩で三春駅に向かいます。 -
お城阪石柱
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お城坂
暫くは直線道路を歩きますがしだいに勾配が厳しくなってきます。 -
お城坂途中
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城山公園案内図
木製の案内図は秋田氏入府(江戸時代初期)の頃の城郭想定図となっています。 -
二之門跡
右側の広い空間が駐車場となっています。 -
愛(めご)姫生誕の石碑
三春城主田村清顕(きよあき)は四面楚歌となった田村家の存続を伊達氏に委ねるため一人娘の愛姫を政宗に嫁がせます。秀吉による奥州仕置で田村家は改易するも復興を願う愛姫は息子二代藩主忠宗に子供が生まれるたら孫による田村家再興を遺言して86歳で生涯を閉じます。忠宗は母の遺言を守り田村家を再興し、孫田村宗良(たむら・むねよし)は分家大名として3万石で岩沼藩主となり、更に宗良の世子建顕(たつあき)は二代藩主を経て一ノ関初代藩主に取立てられ幕府より藩主格の扱いを受ける事になります。 -
二之丸切通
案内板に従って二之丸に行ってみます。 -
二の丸方向
二の丸の外周に造られた小路を歩きます。 -
二の丸
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二の丸連絡ル−ト
他のル−トからも二の丸に繋がっています。 -
二の丸展望
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二の丸土塁
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二の丸
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あずまや
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二の丸虎口
二の丸は東側が上段、西側が下段の構造になっており、下段から上段に向けて登ります。 -
遊園設備
二の丸上段は様相が変わり遊園地となっています。 -
二の丸
遊園設備から二の丸下段に向けて振り返ります。 -
堀切
二の丸の東端は堀切となっており、本丸との間は道路が走っています。 -
本丸
石段を登って本丸に入ります。尚右手はスぺ−スがあって駐車場となっています。 -
矢倉跡
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本丸石段
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本丸石段
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イチオシ
舞鶴城址石柱・説明板
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舞鶴城址石柱
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三春城跡説明
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二の丸跡
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本丸虎口
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本丸跡標柱
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本丸跡
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本丸跡
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羅針盤石
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二の丸展望
本丸から二の丸を捉えます。 -
大広間跡
儀式・謁見の場として使用されたようです。 -
本丸高台
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本丸高台
石垣で覆われた高台に石碑が見えます。 -
イチオシ
秋田家供養塔
「秋田家祖先尊霊」と刻された供養塔が認められます。 -
本丸風景
秋田家先祖供養塔辺りから本丸を見下ろします。 -
秋田家供養塔(後ろ姿)
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明治戦役三春藩烈士碑
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周辺風景
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断崖
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周辺風景
本丸より外部風景を捉えます。 -
搦手門方向
帰路は搦手門跡を経て下る事にします。 -
登城石段
今まで登って来た石段が見えます。 -
搦手門跡
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搦手門跡
なぜかロ−プが張って通行止めとなっています。 -
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お城坂
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藩主居館跡
秋田氏移封後はそれまでの山頂から麓に藩主の居館を移し、現在の三春小学校にあたる敷地で政治を行っていました。 -
お城坂
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三春城跡
三の丸跡であった健康センタ−を通して三春城跡方向を捉えます。 -
藩校所正道館跡
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三春町歴史民俗資料館入口
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三春町役場
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第九十三国立銀行本店跡
現在では商工会館となっています。 -
第九十三国立銀行本店跡石標
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JR三春駅と磐越東線
駅に通じる陸橋から改めて線路と三春駅を遠望します。 -
JR三春駅舎
ダイヤが1時間に1本なので予め把握しておく必要があります。
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この旅行記へのコメント (1)
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- ANZdrifterさん 2015/09/13 17:45:02
- 秋田氏のこと
- 何時か訪れたいと思っていた城なので興味深く拝見しました。
たしか、明治まで秋田氏が城主でした。秋田氏は十三湖あたりに覇を唱えていた安東氏の末裔で、つまりエミシの血をひく安倍一族の流れとされています。
明治維新で華族に列せられ(確か伯爵)ましたが、日本の名家の中で唯一エミシの血を引くという点で、特異な名家です。
小浜市の安倍家の菩提寺?を修理したり、私の旅の中でいろいろなところで出会った秋田氏なので、一度訪れたいと思っていたわけです。
有難うございました。 ANZdrifter
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