2015/08/12 - 2015/08/12
41位(同エリア77件中)
滝山氏照さん
JR常磐線亘理駅から西進徒歩約30分の亘理(わたり)城跡は阿武隈山地の亘理地塁から北東へ押し出している舌状丘陵の東端部にあり臥牛城跡または亘理要害とも呼ばれています。
旧城郭跡に建てられた亘理神社境内には「亘理神社の碑(伊達成実伝)」と題する説明板があって次のように記されています。
「亘理神社の碑(伊達成実伝)
亘理伊達家初代成実(しげざね)は、伊達一門である伊達実元(さねもと)(政宗の祖父晴宗の弟)の長男として、永禄十一年(1568)信夫郡(現福島市郊外)大森城に生まれた。母は伊達晴宗の娘である。
十七歳の時父の跡を継いで、一歳年上の伊達家当主政宗公に仕えた。
若くして武勇の誉れ高く、天正十二年(1585)の人取橋の合戦には、劣勢だった政宗軍の形成を逆転させた。以後、摺上原の戦い等、戦いのたびに功績をあげて、「炎の闘将」の名を天下にとどろかせた。
豊朝秀吉時代、政宗が”逆心”の疑念をうけた時には、人質となって伊達家のために尽くしたものの、一時政宗と不仲になり高野山にこもった。
しかし、関ヶ原の戦いがおこると急ぎ帰り、上杉方白石城を攻め、その功績により晴れて慶長七年(1602年)亘理領主となった。その後、城下町亘理を建設する一方、新田開発を盛んに行って領内を治めた。同時に仙台藩主政宗公の片腕として、数々の重責を果たした。
また、成実は、深い教養を備えた人物であった。彼が著した「成実記」には、政宗公が仙台藩を築いた時期の歴史的記録としても貴重である。
政宗公の九男宗実を後継ぎとして迎え、終生、仙台藩への忠誠を貫き、その安泰に尽くして、正保三年(1646年)七十九歳で生涯を閉じた。
明治十二年、成実は亘理神社に祀られ(神号武早知雄命)、同三十年、成実の生涯を刻んだ碑がここに建立された。
昭和六十二年九月再建 亘理町教育委員会」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル
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相馬行代行バス案内
当駅から相馬駅まで各駅停車の代行バスが出発しています。相馬駅からは原ノ町駅まで列車連絡がありますが、以南は運転見合わせ(不通)状況です。 -
亘理駅の駅名由来
約千二百年前の日本記に「日理」という表記で出たのが初めてで、江戸時代中期以降に「亘理」や「互理」に表記されるようになったそうです。 -
JR常磐線亘理駅舎
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模擬天守
駅舎の反対側には悠理館と称された郷土資料館が疑似天守の建物にあります。 -
亘理要害跡
「要害」とは?
慶長20年(1615)の一国一城令によって諸大名は複数の城郭を所有すること
が禁じられますが例外的に支城を持つことが許される大名もあって仙台藩については仙台城と白石城の2城が幕府より認められました。
この一国一城令は西国(中国・四国・九州)における外様大名の城郭を意識して発令されたもので、東北などの諸大名についてはその規定は緩く、仙台藩については2城以外の城郭は藩独自の支城を「要害屋敷」として幕府に申請して認可を得ているようです。 -
亘理要害跡(臥牛城跡)
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亘理神社入口
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亘理神社石段
現在では亘理神社が配されている旧亘理城跡めがけて石段を登ります。 -
臥牛城跡標柱
亘理城は別称「臥牛城」又は「亘理要害」とも呼ばれています。 -
亘理要害跡案内板
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亘理神社社標
石段を登りきると「亘理神社」の石標が立しています。 -
鳥居
参道を経て拝殿に向かいます。 -
手水舎
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イチオシ
亘理神社・拝殿(全景)
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拝殿
上部記載の「武智早尊命」として伊達成実を祀っています。 -
境内
拝殿から境内を一望します。 -
伊達成実石標
白石城に移った片倉景綱の後を受けて入城した伊達成実入城400年を記念して石標・石碑が立っています。 -
亘理神社の石碑
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亘理神社の石碑近景
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亘理神社の碑説明
初代城主であった伊達成実に関する説明があります。 -
境内風景
亘理神社の石碑から境内を展望します。 -
本丸跡石標
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御本丸石標
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本丸跡説明板
「旧亘理要害(御館)本丸跡
ここ旧亘理要害(御館)の本丸のあった所である。
南北に通ずる町道(切通し)を隔てた東側の台地も本丸の一部で、町道は明治に入ってから開かれたものである。
本丸は北、東、南を内堀で囲まれていた。そのうち北、東の堀は埋め立てられ南の堀だけが現在残っている。
要害の大手は南で、大手門は本丸の南下にあった。本丸に南から入る詰の門・北から入る裏門は切り通しの部分にあった。
明治維新まで本丸には20棟以上の建物が建っていたことは確かであるが、維新後間もなく総て取り壊され、資料も残っていないためその実態は不明である。
戊辰戦争で仙台藩は敗れ、西軍との降伏の調印が行われたのはこの場所である。
平成14年3月
亘理町教育委員会
亘理町文化財保護協会 」
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亘理神社・拝殿
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亘理神社・拝殿
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庭園跡
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土塁
拝殿南側には崩れた土塁が所々認められます。 -
居館跡
本丸西端には藩主の居館が在ったそうです。明治維新までに本丸には20棟以上の建物があったそうです。 -
戊辰の碑
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戊辰の碑・説明板
「 戊 辰 の 碑
慶応4年(1868年)1月、鳥羽、伏見の討幕戦に端を発した戊辰戦争(戊辰の年に当る)は東北地方まで拡大した。 幕府方の最大の拠点である会津藩にどう対処するかが問題であったが、結局、会津擁護の奥羽列藩同盟をつくって政府軍に抗することになった。 仙台藩はその盟主として白河口、岩城口、相馬口を守備したが主力を海道筋に置いた。
亘理の家中(侍)たちもその麾下にあって勇戦したが6月末からの戦いで小名浜、平、広野、熊川の陣に敗れ8月、相馬藩が脱落したので、ついにその国境、駒ケ嶺城、菅谷、富倉(新地)等に奮戦したが利あらず9月24日(この月8日から明治)ここ御館で、仙台藩は降服した。
緒戦以来、亘理の戦死者33名、明治維新の尊い犠牲であった。しかも賊軍の汚名を蒙りその恥を雪ぐため、亘理伊達氏第14代邦成公の北海道開拓となった。
明治30年、公のけい子男爵伊達基氏が往時を偲び戦死者の名を刻してこの碑を建立した。
亘理町教育委員会 」 -
忠魂碑
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本殿
忠魂碑から本殿の後ろ姿を捉えます。 -
本殿
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境内風景
拝殿から境内風景を一望します。 -
亘理要害(臥牛城)図
「 亘理要害(臥牛城)
この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591年)涌谷に移った後、片倉小十郎景綱がここに入った。
慶長7年(1602年)片倉氏は白石城に移り、居城を引き継いだ伊達成実は亘理要害の改修を行い又樹下町を建設し、亘理郡と相馬郡の一部を治めた。
通称の臥牛城は賀名であって、地形が牛の臥せた形に似ているのがこの名の起こりともいわれている。 (要害見取図は略)」 -
分断された本丸
かつての本丸は明治に入ってから開通した道路によって分断されています。 -
本丸土塁
土塁が見え隠れしている東側の台地も本丸跡で明治の道路開通により分断されています。
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