2015/08/02 - 2015/08/02
4707位(同エリア19695件中)
熱帯魚さん
香港在住の台湾人ナンシーと
西貢に行ってきました。
食後、どこに行こか相談した結果、
鹽田梓に行くことになりました。
気になっていた旧客家村のある島です。
この島には約300年前から客家人が移住し、
最盛期には200名余りの島民がいたそうです。
この島の一番の特徴は、イタリア人神父が
宣教に訪れ、全島民が洗礼を受けて
カトリック教徒になったという点。
そんな不思議な旧客家村のある鹽田梓へ
西貢から船に乗って出かけました。
★★ 鹽田梓について ★★
族譜に記載されているところによると、200年あまり前に陳孟徳の家族が広東の内陸から粉嶺坪洋村に移住し、その後、西貢の鹽田梓に移住してきたそうです。彼らは採塩、農業、漁業に従事していました。1860年代になると西洋からカトリックの宣教師が訪れ、町の長老の呼びかけのもと、全村民がカトリックを進行するようになり、鹽田梓はカトリック教徒の村となりました。塩田梓の陳姓家族は伝統的な華南客家のグループで、住宅や生活様式にその特徴がみられます。1990年代後期からは、村民が次第に島を出て行きはじめ、鹽田梓もそれとともに廃れて行ってしまいました。
★★ 香港8/2 ★★
1★西貢へ!お昼はなぜか海南鶏飯
http://4travel.jp/travelogue/11037875
2★鹽田梓 ~全村民がカトリック教徒だった客家村をたずねて~
http://4travel.jp/travelogue/11038255
3★鹽田梓 ~島内自然散策~
http://4travel.jp/travelogue/11038563
4★夜九龍 (油麻地~佐敦)
http://4travel.jp/travelogue/11038688
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
西貢から船に乗って鹽田梓に向かいます。船は往復で45HKドル。
-
船を待っているところ。
この船ではなく、 -
こちらの船でした。
-
2時、船に乗り込みました。
-
内部はこんな感じ。
-
天井にはこの帽子。あちこちでかぶっている人を見かけました。
-
-
船からの景色
-
船からの景色
-
船からの景色
-
舵をとるのは女性です。
-
イチオシ
鹽田梓に到着しました。
丘の上に教会が見えました。 -
乗って来た船。
-
来ちゃいました〜!!
鹽田梓は鹽田仔とも表記されるようです。いずれにせよ、発音は同じですね。 -
あちこちに貼られていたプレート。鹽田ビールは鹽田梓特産ではありません、と書かれています。
-
カヤックを楽しむ人々がいました。
-
島にお店は2,3軒しかありません。しかも、船着き場のそばだけ。飲み物が必要な場合はまず船着き場あたりで調達しておくことをお勧めします。
-
イチオシ
こんな日差しの強い日にカヤックは大変そう。
-
○ 鹽田梓村公所
村の役所の建物。小さい〜 -
それでは島散策スタート。
-
-
イチオシ
今は廃墟となった住居が並んでいました。
-
-
教会まで来ました。
-
イチオシ
○ 聖若瑟堂 St. Joseph's Chapel
鹽田梓は早くから香港では主要な宣教地区でした。1864年、イタリアからヴォロンテリ神父とオリゴ神父の2人が、鹽田梓を訪れ宣教活動を行いました。1875年には島内の全島民が洗礼を受けカトリック教徒になったそうです。
オーストラリア出身の聖ヨセフ神父が西貢を訪れたのは1879年のこと。鹽田梓を含めた西貢一帯で宣教活動を開始しました。1879年に聖ヨセフ神父が建てた教会が聖若瑟堂です。もともとはここから少し離れたところに建っていました。この写真の聖若瑟堂が建てられたのは1890年のことです。 -
右にたっているのが、オーストリア人神父ヨセフ像。
-
教会内のステンドグラスには、キリストとオーストリア人神父ヨセフが描かれています。彼はのちに聖人となり、教会名も聖ヨセフ教堂(St. Joseph's Chapel)となっています。
-
教会から階段を降りたところにあった廃墟。
-
なんとなくモノクロで。
-
そしてその家の中にはコウモリが…(゚д゚)!
-
-
-
あちらにも廃墟になった住宅がありました。
-
-
家の入り口には酒甕が無造作にいくつも置かれていました。
-
イチオシ
○ 鹽田梓文物陳列室 (澄波學校)
文物陳列室はもともと鹽田梓澄波學校の教室だった建物を利用しています。澄波學校の校舎は1846年に創建され、1997年まで使用されていました。
当時の他の村の学校と同じく、講師は同じ教室内で学年の異なるなる生徒を教えていました。(ただし、澄波學校は広東語ではなく客家語で教えていたそうです)ある学年が授業をしているときは、ほかの学年の生徒たちは自習をするというスタイルです。生徒の数が非常に少なかったため、生徒と講師の関係は非常に密でした。
現在は陳列室内に展示されている黒板、そろばん、テレビラック、机といすなどからのみ、当時の様子をうかがい知ることができます。 -
1990年代に、村民のほとんどが鹽田梓を離れて行きました。その際に、村の住居の中に残された資料(学校の宿題、絵画、新聞の切り抜き、結婚写真、教会活動記録など)には、当時の村民の文化や社会生活が記載されていました。その一部をここで紹介しています。
また、生活用品(食器や籠など)、農工具なども展示されています。 -
こちらが學校で使われていた椅子と机、そして黒板。
-
これは授業の時に、先生が使用していた大き目のそろばん。
-
学校のテレビラックの上に置かれた麒麟。
-
島内には塩田があるのですが、そこで採れた塩でしょうか?
-
畑のように見える場所が塩田です。
-
-
すでに崩れてしまった住居跡。
-
-
-
「聖ヨセフ神父、聖人への道」
という看板があり、聖ヨセフ神父の功績が紹介されていました。 -
廃墟の中に目が…(-_-;)
-
-
この先に聖ヨセフ神父の紹介があります。
-
聖ヨセフ神父はオーストリア出身。香港で宣教するにあたり、まず広東語を習得し、布の靴を履き、髪を辮髪にして、中国人のような恰好をしていたそうです。まさに郷に入り手は郷に従え、というタイプ。
香港教区の高司教が彼を九龍区に宣教のため派遣した際には、彼に「福若瑟」という中国名をつけました。
こういった彼の地元に根差した宣教方法も、彼が聖人に選ばれた理由の一つだったようです。 -
ここにも説明書きがありました。
1841年にはすでに宣教師が香港を訪れ宣教活動を開始。1864年になると、ヴォロンテリ神父とオリゴ神父の2人が、鹽田梓を訪れ宣教活動を行いました。
そして、1866年のクリスマスには陳氏家族のうちの30名が洗礼を受けました。彼らは広大な土地を教会に寄付し、小さな教会と学校を建てました。そして、1875年には当時鹽田梓に住んでいた全島民が洗礼を受け、カトリック教徒となったそうです。
1879年になると、聖ヨセフ神父が鹽田梓に小さな教会を建てました。聖ヨセフ神父はこの小さな教会でミサを行ったほか、教会に寝泊まりして村民たちと一緒に過ごすこともありました。当時、鹽田梓の村民は70人にも達しておらず、1日2度聖歌を歌い、日曜日にミサに参加するという、伝統的なヨーロッパのカトリック村のような生活を過ごしていました。聖ヨセフ神父は1879年8月と1880年4月に村民の洗礼を行いました。彼は1881年の夏まで香港に滞在し、山東に引っ越して行きました。 -
イチオシ
立っているのは在りし日の聖ヨセフ神父。
-
こちらが教会跡。
○ 旧聖若瑟教堂址
先ほど見た教会(聖若瑟堂 St. Joseph's Chapel)は1890年に建てられたもので、その前に古い教会と聖ヨセフ神父の故居(1879〜1881年)がこの場所にありました。 -
○ 陳志明副主教祖居
-
-
可愛らしいおうち。廃墟だけど。
-
ここからは自然散策です。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
58