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東本願寺は、下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称で、正式名は「真宗本廟」です。西本願寺の東に位置するため、「東本願寺」と通称されています。他に「お東さん」とも通称され、「猫の集まるお寺」としても有名です。狛犬のように正座する猫たちが激写されて話題になたのは記憶に新しいのですが、修復工事中かつ猛暑日ということもあり、猫たちもどこかに身を潜めていました。<br />江戸時代に4度もの火災に遭ったために西本願寺に比べて歴史的建造物が少なく、一見すると見劣りしてしまうのですが、建築や障壁画等は明治時代の技術の粋を集めて復元、あるいは制作された珠玉の作品群と言えます。特に、「菊の門」は、西本願寺の煌びやかな「唐門」に対峙する味わい深い建造物で、侘び寂びの風情を湛えています。オリジナルを忠実に復元した意匠と思われますが、もし焼けていなかったら国宝級だったのではと惜しまれます。<br />因みに、火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄されているようですが、調べてみると東本願寺が火元となったのは1823(文政6)年の火災だけのようです。<br />境内案内図<br />http://www.higashihonganji.or.jp/about/guide/

九夏三伏 京都逍遥③東本願寺

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2015/07/28 - 2015/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

東本願寺は、下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称で、正式名は「真宗本廟」です。西本願寺の東に位置するため、「東本願寺」と通称されています。他に「お東さん」とも通称され、「猫の集まるお寺」としても有名です。狛犬のように正座する猫たちが激写されて話題になたのは記憶に新しいのですが、修復工事中かつ猛暑日ということもあり、猫たちもどこかに身を潜めていました。
江戸時代に4度もの火災に遭ったために西本願寺に比べて歴史的建造物が少なく、一見すると見劣りしてしまうのですが、建築や障壁画等は明治時代の技術の粋を集めて復元、あるいは制作された珠玉の作品群と言えます。特に、「菊の門」は、西本願寺の煌びやかな「唐門」に対峙する味わい深い建造物で、侘び寂びの風情を湛えています。オリジナルを忠実に復元した意匠と思われますが、もし焼けていなかったら国宝級だったのではと惜しまれます。
因みに、火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄されているようですが、調べてみると東本願寺が火元となったのは1823(文政6)年の火災だけのようです。
境内案内図
http://www.higashihonganji.or.jp/about/guide/

同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄
旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 正面通り<br />西本願寺の総門を潜った先にある門前町の正面通りは、ご覧のように仏具店ストリートになっています。そして、真っ直ぐに伸びた道の遥か先には、東本願寺の姿を望むことができます。<br />「正面通り」の由来は、本願寺の正面だからではなく、かつて東本願寺がなかった頃、東山山麓にあった方広寺大仏殿の正面に通じていたからです。

    正面通り
    西本願寺の総門を潜った先にある門前町の正面通りは、ご覧のように仏具店ストリートになっています。そして、真っ直ぐに伸びた道の遥か先には、東本願寺の姿を望むことができます。
    「正面通り」の由来は、本願寺の正面だからではなく、かつて東本願寺がなかった頃、東山山麓にあった方広寺大仏殿の正面に通じていたからです。

  • 正面通り<br />さて、このドームを載せた洋風の建物はいったい何だと思われますか?<br />何も知らなければ、仏教施設だと気づく方はいないような奇抜な建物です。

    正面通り
    さて、このドームを載せた洋風の建物はいったい何だと思われますか?
    何も知らなければ、仏教施設だと気づく方はいないような奇抜な建物です。

  • 本願寺伝道院(市指定有形文化財)<br />ドーム屋根を戴く8角堂の個性的な外観ですが、街並みにしっくりと馴染んでいます。<br />この奇抜な建物は、東京帝国大学教授 伊東忠太氏の設計により、1895(明治28)年に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋ですが、現在は本館のみが残されています。建造後、様々な用途を経て浄土真宗本願寺派布教研究所となり、1958年にはあそか診療所として1階の諸室が改修され使用されました。その後、本願寺伝道院となり僧侶の教化育成の道場として今日に至っています。2010年から1年間かけて修復されています。

    本願寺伝道院(市指定有形文化財)
    ドーム屋根を戴く8角堂の個性的な外観ですが、街並みにしっくりと馴染んでいます。
    この奇抜な建物は、東京帝国大学教授 伊東忠太氏の設計により、1895(明治28)年に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋ですが、現在は本館のみが残されています。建造後、様々な用途を経て浄土真宗本願寺派布教研究所となり、1958年にはあそか診療所として1階の諸室が改修され使用されました。その後、本願寺伝道院となり僧侶の教化育成の道場として今日に至っています。2010年から1年間かけて修復されています。

  • 本願寺伝道院<br />モスクを彷彿とさせるドームにハート型のテラコッタ(素焼き)が配されたユニークな造形です。<br />煉瓦造2階建で、正面および東面に塔屋が配され、北面および西面には通りに面して石造柵柱が配されています。<br />設計者の伊東氏が45歳の時の作品です。氏は、京都では祇園閣や平安神宮(共同設計)などを手がけています。法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始し、建築界ではじめて文化勲章を受章した方です。<br />伊東氏は、「日本建築も建材に石材や鉄材を使用し、その建築様式は欧化でも和洋折衷でもなく、木造の伝統を進化させることにより生み出さなければいけない」という『建築進化論』を提唱し、この社屋は氏の思いのたけを体現した代表作と言われています。そのため、外観は総煉瓦造風のタイル貼り、インド風ドームやサラセン洋式を思わせる塔屋が立ち、それらの構造は煉瓦造として、屋根は銅板葺き、屋根骨組みは木造、屋根飾りには日本建築に多く見られる千鳥破風や軒組を石造りで設え、装飾にはテラコッタをあしらっています。また内部も、和風意匠の天井にアール・ヌーヴォーやセセッションと呼ばれる水平線、垂直線を強調した幾何学模様を多用するデザイン様式の照明器具を吊るなど、日本の近代建築の発展を知る上で貴重な建物となっているそうです。

    本願寺伝道院
    モスクを彷彿とさせるドームにハート型のテラコッタ(素焼き)が配されたユニークな造形です。
    煉瓦造2階建で、正面および東面に塔屋が配され、北面および西面には通りに面して石造柵柱が配されています。
    設計者の伊東氏が45歳の時の作品です。氏は、京都では祇園閣や平安神宮(共同設計)などを手がけています。法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始し、建築界ではじめて文化勲章を受章した方です。
    伊東氏は、「日本建築も建材に石材や鉄材を使用し、その建築様式は欧化でも和洋折衷でもなく、木造の伝統を進化させることにより生み出さなければいけない」という『建築進化論』を提唱し、この社屋は氏の思いのたけを体現した代表作と言われています。そのため、外観は総煉瓦造風のタイル貼り、インド風ドームやサラセン洋式を思わせる塔屋が立ち、それらの構造は煉瓦造として、屋根は銅板葺き、屋根骨組みは木造、屋根飾りには日本建築に多く見られる千鳥破風や軒組を石造りで設え、装飾にはテラコッタをあしらっています。また内部も、和風意匠の天井にアール・ヌーヴォーやセセッションと呼ばれる水平線、垂直線を強調した幾何学模様を多用するデザイン様式の照明器具を吊るなど、日本の近代建築の発展を知る上で貴重な建物となっているそうです。

  • 本願寺伝道院<br />玄関前に安置された阿吽形の霊獣石像の片方です。<br />伊東氏は妖怪好きで知られ、柵の上柱にはユニークな石造が多数安置されています。妖怪なのかそれとも怪獣なのか、摩訶不思議な像ですが、どこか愛嬌のある石造です。中には舌を出したものも見られ、愉しい気持ちにさせてくれます。

    本願寺伝道院
    玄関前に安置された阿吽形の霊獣石像の片方です。
    伊東氏は妖怪好きで知られ、柵の上柱にはユニークな石造が多数安置されています。妖怪なのかそれとも怪獣なのか、摩訶不思議な像ですが、どこか愛嬌のある石造です。中には舌を出したものも見られ、愉しい気持ちにさせてくれます。

  • 本願寺伝道院<br />ゾウと鳥を思い切りデフォルメした作品と思われます。

    本願寺伝道院
    ゾウと鳥を思い切りデフォルメした作品と思われます。

  • 本願寺伝道院<br />こうした市街地の道路脇に漠然と安置されているため、作品の幾つかは文化財意識の欠如した輩によって痛々しい姿を晒しており、少々残念な気持ちになります。

    本願寺伝道院
    こうした市街地の道路脇に漠然と安置されているため、作品の幾つかは文化財意識の欠如した輩によって痛々しい姿を晒しており、少々残念な気持ちになります。

  • 本願寺伝道院<br />居並ぶ摩訶不思議な霊獣石像が、壮観な風景を創出しています。

    本願寺伝道院
    居並ぶ摩訶不思議な霊獣石像が、壮観な風景を創出しています。

  • 東本願寺<br />東本願寺の七条通り側(南側)に巡らされている堀です。<br />七条通りから一本北に入った筋になります。堀には蓮の花が美しく咲き誇っています。堀の水も、琵琶湖疎水の水をここまで引っ張ってきたもので、いざという時にはこの水が本願寺を守ります。<br />東本願寺は何度か焼失していますが、その最後となったのが幕末の禁門の変(蛤御門の変)です。これに懲り、いざという時のために潤沢な水を確保することにしたそうです。堀ひとつにも歴史があることが判ります。<br /><br />親鸞(1173〜1263年)は、念仏を唱えることで救われるという「本願他力=阿弥陀如来によって生かされている」の教えを説き、民衆の心を捉え、自筆の経典には「光明無量=浄土の世界には無限の光が満ちている」と記しています。国家鎮護を旨とし、いわば最先端の学問のように平安初期に受け入れられた空海や最澄というエリート僧の力量で公式の信仰となった密教とは異なり、民衆の救済をひたすら説いた信仰です。親鸞は「非僧非俗(ひそうひぞく)=僧に非ず、俗に非ず」の生涯を貫き、寺を造るな、偶像を拝むなと教えました。<br />僧にありながら肉食妻帯を行ったために一度は死刑の宣告を受けますが、罪一等減ぜられたことで流刑の身となりました。しかし、妻帯していた僧は他にも沢山いたはずです。親鸞は、権力や階級のためでなく、お金儲けのためでもなく、ただ信心の心を教えました。そのことが、迫害に繋がった最大の要因とされています。現在は、全国に1000万人の門徒を持つそうです。

    東本願寺
    東本願寺の七条通り側(南側)に巡らされている堀です。
    七条通りから一本北に入った筋になります。堀には蓮の花が美しく咲き誇っています。堀の水も、琵琶湖疎水の水をここまで引っ張ってきたもので、いざという時にはこの水が本願寺を守ります。
    東本願寺は何度か焼失していますが、その最後となったのが幕末の禁門の変(蛤御門の変)です。これに懲り、いざという時のために潤沢な水を確保することにしたそうです。堀ひとつにも歴史があることが判ります。

    親鸞(1173〜1263年)は、念仏を唱えることで救われるという「本願他力=阿弥陀如来によって生かされている」の教えを説き、民衆の心を捉え、自筆の経典には「光明無量=浄土の世界には無限の光が満ちている」と記しています。国家鎮護を旨とし、いわば最先端の学問のように平安初期に受け入れられた空海や最澄というエリート僧の力量で公式の信仰となった密教とは異なり、民衆の救済をひたすら説いた信仰です。親鸞は「非僧非俗(ひそうひぞく)=僧に非ず、俗に非ず」の生涯を貫き、寺を造るな、偶像を拝むなと教えました。
    僧にありながら肉食妻帯を行ったために一度は死刑の宣告を受けますが、罪一等減ぜられたことで流刑の身となりました。しかし、妻帯していた僧は他にも沢山いたはずです。親鸞は、権力や階級のためでなく、お金儲けのためでもなく、ただ信心の心を教えました。そのことが、迫害に繋がった最大の要因とされています。現在は、全国に1000万人の門徒を持つそうです。

  • 東本願寺<br />泥沼の中に美しい花を咲かせる蓮は、経典とも繋がりが深く、親鸞の『正信偈』の中にも「得至蓮華蔵世界」として現れます。<br /><br />親鸞の名の変遷をご存知でしょうか?幼少時の名には、松若丸や鶴充麿、忠安、忠宴(ただやす)などが伝えられています。9歳で出家した時には範宴(はんねん)と名乗り、比叡山での修行中はその名で通したそうです。しかし、比叡山時代は、「堂僧(比較的身分の低い僧)」を務めていたこと以外、何も判っていないそうです。その後、法然から授かった「釈綽空」から綽空(しゃっくう)や善信(ぜんしん)と名乗りました。この善信は、法然の門下になり、念仏者としての道を歩みはじめた頃の房号とされています。僧侶は庫裏で生活し、昔は坊とか房と呼び、僧侶はお互いに法名で呼ばずに房号で呼びあったようです。親鸞は最期の名だそうです。

    東本願寺
    泥沼の中に美しい花を咲かせる蓮は、経典とも繋がりが深く、親鸞の『正信偈』の中にも「得至蓮華蔵世界」として現れます。

    親鸞の名の変遷をご存知でしょうか?幼少時の名には、松若丸や鶴充麿、忠安、忠宴(ただやす)などが伝えられています。9歳で出家した時には範宴(はんねん)と名乗り、比叡山での修行中はその名で通したそうです。しかし、比叡山時代は、「堂僧(比較的身分の低い僧)」を務めていたこと以外、何も判っていないそうです。その後、法然から授かった「釈綽空」から綽空(しゃっくう)や善信(ぜんしん)と名乗りました。この善信は、法然の門下になり、念仏者としての道を歩みはじめた頃の房号とされています。僧侶は庫裏で生活し、昔は坊とか房と呼び、僧侶はお互いに法名で呼ばずに房号で呼びあったようです。親鸞は最期の名だそうです。

  • 東本願寺<br />初夏の頃には、双頭蓮(そうとうれん)という1本の茎から2つの花を付ける珍しい蓮も見られるそうです。<br /><br />63歳頃に親鸞は帰京しました。しかし残された関東の門弟たちは、「念仏を唱えるだけで救われる」という教えが単純なあまり、本当はそれとは別に奥義秘伝があるのではないかと疑い始めました。また、悪人正機説を誤解して、積極的に悪事を働こうとする者まで現れたのでした。 親鸞は、自分の思想が十分に理解されていないことに悲哀を覚えつつ、長男 善鸞を誤解解消に向かわせますが、門弟も善鸞も自分こそが親鸞の教えを理解していると信じて疑わず、溝が深まるばかりでした。ストレスに晒された善鸞は、やがて「父から奥義を教わった」と吹聴し、浄土真宗において最も重要な阿弥陀の第十八願を軽視するようになります。親鸞は、息子が自分の意志に背いたことを悲しみながら善鸞を義絶したのでした。 <br />こうして1263年に、親鸞は90年の生涯を終えました。親鸞は「死に際」を重要視しなかったと言われますが、「往生」という言葉を「新たな命の始まり」と考え、「信心定まる時、往生また定まるなり」と言ったそうです。門弟にも息子にも理解されなかった彼の死に際は、あまり穏やかではなかったようです。 <br />

    東本願寺
    初夏の頃には、双頭蓮(そうとうれん)という1本の茎から2つの花を付ける珍しい蓮も見られるそうです。

    63歳頃に親鸞は帰京しました。しかし残された関東の門弟たちは、「念仏を唱えるだけで救われる」という教えが単純なあまり、本当はそれとは別に奥義秘伝があるのではないかと疑い始めました。また、悪人正機説を誤解して、積極的に悪事を働こうとする者まで現れたのでした。 親鸞は、自分の思想が十分に理解されていないことに悲哀を覚えつつ、長男 善鸞を誤解解消に向かわせますが、門弟も善鸞も自分こそが親鸞の教えを理解していると信じて疑わず、溝が深まるばかりでした。 ストレスに晒された善鸞は、やがて「父から奥義を教わった」と吹聴し、浄土真宗において最も重要な阿弥陀の第十八願を軽視するようになります。親鸞は、息子が自分の意志に背いたことを悲しみながら善鸞を義絶したのでした。
    こうして1263年に、親鸞は90年の生涯を終えました。親鸞は「死に際」を重要視しなかったと言われますが、「往生」という言葉を「新たな命の始まり」と考え、「信心定まる時、往生また定まるなり」と言ったそうです。門弟にも息子にも理解されなかった彼の死に際は、あまり穏やかではなかったようです。

  • 東本願寺<br />仏像が蓮の花の上に座っているのは何故なのでしょうか?<br />蓮は、仏教発祥国のインドでは一番神聖な花として崇められ、その他の国でも遥か昔からありがたいものとされていたそうです。蓮は不浄な泥の中にありながら、決してその泥の色には染まらず、清浄無垢の美しい大きな花を咲かせます。このことが、汚れた世界でも清らかな心を持ち続けることの比喩とされるようです。<br />また、ひとつの茎にひとつの花が咲きます。これは、煩悩の世界と悟りの世界が通じており、煩悩即菩提を表しています。<br />更に、ほとんどの花は花が咲き終わってから実を付けますが、蓮は蕾の時からすでにその花弁の下の台に実を付けています。これは、皆が生まれながらにして仏に成る性分を備えていることを表しており、仏教では華果同時(けかどうじ)と尊ばれます。<br />尚、花が大きいということも大事な要素です。人が坐るほどの大きさはありませんが、足が収まるほどの大きさがあります。<br />これらのような意味付けから、仏が立ったり坐ったりする台を蓮華台にしているそうです。

    東本願寺
    仏像が蓮の花の上に座っているのは何故なのでしょうか?
    蓮は、仏教発祥国のインドでは一番神聖な花として崇められ、その他の国でも遥か昔からありがたいものとされていたそうです。 蓮は不浄な泥の中にありながら、決してその泥の色には染まらず、清浄無垢の美しい大きな花を咲かせます。このことが、汚れた世界でも清らかな心を持ち続けることの比喩とされるようです。
    また、ひとつの茎にひとつの花が咲きます。これは、煩悩の世界と悟りの世界が通じており、煩悩即菩提を表しています。
    更に、ほとんどの花は花が咲き終わってから実を付けますが、蓮は蕾の時からすでにその花弁の下の台に実を付けています。これは、皆が生まれながらにして仏に成る性分を備えていることを表しており、仏教では華果同時(けかどうじ)と尊ばれます。
    尚、花が大きいということも大事な要素です。人が坐るほどの大きさはありませんが、足が収まるほどの大きさがあります。
    これらのような意味付けから、仏が立ったり坐ったりする台を蓮華台にしているそうです。

  • 東本願寺<br />その昔、観音様がいくら人々を助けようとしてもとても、苦しんでいる人が多すぎて助けきれないことを悲しんで涙を流しました。その大慈大悲の涙が湖となって蓮が芽生えて花が咲き、やがてその花から観音様を手助けする女神が生まれたそうです。<br />その女神は観音様の化身で、両手足と額に7つの目を持ち、人々のすべての苦しみが見えるので救いの手を差し伸べてくださるのだそうです。<br />日本ではあまり知られていませんが、多羅菩薩(ターラ仏母・ターラ観音)というそうです。

    東本願寺
    その昔、観音様がいくら人々を助けようとしてもとても、苦しんでいる人が多すぎて助けきれないことを悲しんで涙を流しました。その大慈大悲の涙が湖となって蓮が芽生えて花が咲き、やがてその花から観音様を手助けする女神が生まれたそうです。
    その女神は観音様の化身で、両手足と額に7つの目を持ち、人々のすべての苦しみが見えるので救いの手を差し伸べてくださるのだそうです。
    日本ではあまり知られていませんが、多羅菩薩(ターラ仏母・ターラ観音)というそうです。

  • 東本願寺 噴水<br />噴水の蓮華設計は、山種美術館所蔵で「究極の猫」とも称される重文『班猫』を描いた竹内栖鳳(せいほう)画伯です。<br />また、設計施工は、岐阜県の名和昆虫博物館を設計した往時の建築界のビッグネーム 武田五一氏と言われています。大正7年に疏水から本願寺水道が引かれたときに造られたのですが、第2次大戦で損壊したため、戦後に復元されました。<br />因みに、武田氏は京都市役所や島津製作所河原町別館等の設計をされた方です。<br />噴水の水は、琵琶湖疏水からの水で、防火用水として整備されています。「本願寺水道」と呼ばれ、東本願寺の境内やお堀、渉成園に流れ込んでいます。<br />借景は銀杏並木です。

    東本願寺 噴水
    噴水の蓮華設計は、山種美術館所蔵で「究極の猫」とも称される重文『班猫』を描いた竹内栖鳳(せいほう)画伯です。
    また、設計施工は、岐阜県の名和昆虫博物館を設計した往時の建築界のビッグネーム 武田五一氏と言われています。大正7年に疏水から本願寺水道が引かれたときに造られたのですが、第2次大戦で損壊したため、戦後に復元されました。
    因みに、武田氏は京都市役所や島津製作所河原町別館等の設計をされた方です。
    噴水の水は、琵琶湖疏水からの水で、防火用水として整備されています。「本願寺水道」と呼ばれ、東本願寺の境内やお堀、渉成園に流れ込んでいます。
    借景は銀杏並木です。

  • 東本願寺 阿弥陀堂門<br />烏丸通りに面してある、唐破風四脚門で1911(明治44)年の建立になります。四脚門形式、切妻造、檜皮葺で前後に唐破風を付けています。四脚門としては最大級の規模であると共に頭貫木鼻や欄間に精緻な彫刻が配されています。<br /><br />

    東本願寺 阿弥陀堂門
    烏丸通りに面してある、唐破風四脚門で1911(明治44)年の建立になります。四脚門形式、切妻造、檜皮葺で前後に唐破風を付けています。四脚門としては最大級の規模であると共に頭貫木鼻や欄間に精緻な彫刻が配されています。

  • 東本願寺 阿弥陀堂門<br />門扉は幕末の火災の際にも焼け残り、菊花と桐の紋が見られます。歴史的に菊紋、桐紋は天皇、皇族のものとされてきましたが、東本願寺にはこのように家康から菊紋、桐紋が授けられて天皇、皇族並みの扱いを受けています。菊の花びらの数は16あり、明治新政府が「皇室典範」にて最高が16弁と定めたものと同じです。桐紋も元々は朝廷の紋でしたが、後醍醐天皇が足利尊氏に授与し、足利家から織田信長に授与され、その後豊臣秀吉に授けられています。<br />華やかさはありませんが、古色豊かで落ち着きと風格に満ちた造形の数々にまたもや足留めされてしまいました。

    東本願寺 阿弥陀堂門
    門扉は幕末の火災の際にも焼け残り、菊花と桐の紋が見られます。歴史的に菊紋、桐紋は天皇、皇族のものとされてきましたが、東本願寺にはこのように家康から菊紋、桐紋が授けられて天皇、皇族並みの扱いを受けています。菊の花びらの数は16あり、明治新政府が「皇室典範」にて最高が16弁と定めたものと同じです。桐紋も元々は朝廷の紋でしたが、後醍醐天皇が足利尊氏に授与し、足利家から織田信長に授与され、その後豊臣秀吉に授けられています。
    華やかさはありませんが、古色豊かで落ち着きと風格に満ちた造形の数々にまたもや足留めされてしまいました。

  • 東本願寺 阿弥陀堂門<br />江戸時代までは「唐門」と言われていたそうです。その名に恥じず、正背面に設けられた唐破風をはじめ非常に精細な装飾が凝らされて風格を湛えています。段差の無いバリアフリーの門であることも好感触です。<br />因みに、この阿弥陀堂門は、一門徒の寄進で再建されています。室町に住む松居症七氏と言う方だったそうです。<br />

    東本願寺 阿弥陀堂門
    江戸時代までは「唐門」と言われていたそうです。その名に恥じず、正背面に設けられた唐破風をはじめ非常に精細な装飾が凝らされて風格を湛えています。段差の無いバリアフリーの門であることも好感触です。
    因みに、この阿弥陀堂門は、一門徒の寄進で再建されています。室町に住む松居症七氏と言う方だったそうです。

  • 東本願寺 阿弥陀堂門<br />消失した阿弥陀堂を再建する際に規模が拡大されたため、御影堂の正面にある御影堂門と異なり、阿弥陀堂門は阿弥陀堂の真正面には位置していません。<br />巨大な姿を呈する御影堂門は改修工事中です。

    東本願寺 阿弥陀堂門
    消失した阿弥陀堂を再建する際に規模が拡大されたため、御影堂の正面にある御影堂門と異なり、阿弥陀堂門は阿弥陀堂の真正面には位置していません。
    巨大な姿を呈する御影堂門は改修工事中です。

  • 東本願寺 明治瓦のベンチ<br />境内には、御影堂修復工事の際に屋根から降ろされた明治瓦のリサイクルの一環として、明治瓦を使ったベンチが設置されています。<br />瓦の由来を知るだけに、親鸞の御真影を守ってきた誉れ高い屋根瓦の上にお尻を乗せるのは憚られてしまいます。

    東本願寺 明治瓦のベンチ
    境内には、御影堂修復工事の際に屋根から降ろされた明治瓦のリサイクルの一環として、明治瓦を使ったベンチが設置されています。
    瓦の由来を知るだけに、親鸞の御真影を守ってきた誉れ高い屋根瓦の上にお尻を乗せるのは憚られてしまいます。

  • 東本願寺 手水舎<br />手水舎の三爪の龍は、二月堂の手水舎の龍と比肩するほど大きくて圧倒されるブロンズ像です。しかも今にも動き出しそうな大迫力です。大きさもさることながら、頭から尾に至るまでリアルな造りで、思わず見入ってしまうほどです。<br />平安京は水の都と呼ばれ、地下には膨大な水を湛えているそうです。都が栄えるには豊かな水が不可欠で、風水の理論に基づいて水に恵まれたこの地が選ばれたそうです。龍によって守られている平安京には龍が降りて水を飲む龍穴があり、それは大極殿の中の大内裏の近くの神泉苑だとされています。御池の地名はこのことに由来するそうです。水と龍は一体化して平安京を護っています。東本願寺の龍も同じ思想に基づいたものなのでしょう。<br />左甚五郎の彫ったリアルな登り龍は、夜毎に水を求めて池にやって来たと伝えられます。それを受けてのものなのかもしれません。 

    東本願寺 手水舎
    手水舎の三爪の龍は、二月堂の手水舎の龍と比肩するほど大きくて圧倒されるブロンズ像です。しかも今にも動き出しそうな大迫力です。大きさもさることながら、頭から尾に至るまでリアルな造りで、思わず見入ってしまうほどです。
    平安京は水の都と呼ばれ、地下には膨大な水を湛えているそうです。都が栄えるには豊かな水が不可欠で、風水の理論に基づいて水に恵まれたこの地が選ばれたそうです。龍によって守られている平安京には龍が降りて水を飲む龍穴があり、それは大極殿の中の大内裏の近くの神泉苑だとされています。御池の地名はこのことに由来するそうです。水と龍は一体化して平安京を護っています。東本願寺の龍も同じ思想に基づいたものなのでしょう。
    左甚五郎の彫ったリアルな登り龍は、夜毎に水を求めて池にやって来たと伝えられます。それを受けてのものなのかもしれません。 

  • 東本願寺 鐘楼<br />鐘楼は1894(明治27)年の再建ですが、梵鐘と撞木は御影堂修復の延長線上で新調されています。親鸞の750回(2011年)大遠忌法要を前に、門徒で鋳物師 3代目黄地(おうち)佐平氏が寄進されたものです。飛天や鳳凰の彫刻が刻まれた梵鐘は、口径1.6m、高さ2.7m、質量4.5トンあり、旧梵鐘を踏襲した意匠で造られています。因みに、700回御遠忌では二代目が門前の烏丸通に建つ蓮形の噴水の器を寄進したそうです。<br />阿弥陀堂の改修工事の関係でこれ以上近寄ることはできません。<br />

    東本願寺 鐘楼
    鐘楼は1894(明治27)年の再建ですが、梵鐘と撞木は御影堂修復の延長線上で新調されています。親鸞の750回(2011年)大遠忌法要を前に、門徒で鋳物師 3代目黄地(おうち)佐平氏が寄進されたものです。飛天や鳳凰の彫刻が刻まれた梵鐘は、口径1.6m、高さ2.7m、質量4.5トンあり、旧梵鐘を踏襲した意匠で造られています。因みに、700回御遠忌では二代目が門前の烏丸通に建つ蓮形の噴水の器を寄進したそうです。
    阿弥陀堂の改修工事の関係でこれ以上近寄ることはできません。

  • 東本願寺 御影堂<br />御影堂と阿弥陀堂の伽藍配置は、西本願寺とは逆になっています。<br />御影堂は、境内のほぼ中心に位置する和様の道場形式の近代の巨大木造建築の代表格となる堂宇です。堂内に親鸞の御真影を安置することから、御影堂と呼ばれています。<br />瓦葺の重層入母屋造で、外観的には二重屋根のために二層建築に見えますが、下部が裳階(もこし)の単層建築です。大きさは、正面幅76m、奥行き58m、高さ38m、広さは927畳分という世界最大級であり、瓦は約17万5千枚も使われ、総質量約6000トンもあるそうです。<br />世界最大の木造建築といえば、奈良の東大寺を思い浮かべる方も多いかと思いますが、「容積」で言えばこの御影堂が世界最大だそうです。現在の建物は、1895(明治28)年に再建されたものですが、明治期の建築、芸術の粋を集めて造られた一大木造建築物であり、巧みの業が光ります。

    東本願寺 御影堂
    御影堂と阿弥陀堂の伽藍配置は、西本願寺とは逆になっています。
    御影堂は、境内のほぼ中心に位置する和様の道場形式の近代の巨大木造建築の代表格となる堂宇です。堂内に親鸞の御真影を安置することから、御影堂と呼ばれています。
    瓦葺の重層入母屋造で、外観的には二重屋根のために二層建築に見えますが、下部が裳階(もこし)の単層建築です。大きさは、正面幅76m、奥行き58m、高さ38m、広さは927畳分という世界最大級であり、瓦は約17万5千枚も使われ、総質量約6000トンもあるそうです。
    世界最大の木造建築といえば、奈良の東大寺を思い浮かべる方も多いかと思いますが、「容積」で言えばこの御影堂が世界最大だそうです。現在の建物は、1895(明治28)年に再建されたものですが、明治期の建築、芸術の粋を集めて造られた一大木造建築物であり、巧みの業が光ります。

  • 東本願寺 御影堂<br />内陣の床板は下地処理された後、漆が上塗りされ、まるで鏡のように美しい艶を放っています。錺金物(かざりかなもの)も洗浄・補修され、瓦も葺き替えられて、明治再建当時のような雅な姿を現在に見ることができます。<br />全体は和様でまとめられていますが、所々に禅宗様の様相が垣間見られます。建物の内外には多くの建築彫刻が確認できますが、高い場所にあったり、保護ネットが邪魔をしたりして目視では細部が確認できないのが残念です。

    東本願寺 御影堂
    内陣の床板は下地処理された後、漆が上塗りされ、まるで鏡のように美しい艶を放っています。錺金物(かざりかなもの)も洗浄・補修され、瓦も葺き替えられて、明治再建当時のような雅な姿を現在に見ることができます。
    全体は和様でまとめられていますが、所々に禅宗様の様相が垣間見られます。建物の内外には多くの建築彫刻が確認できますが、高い場所にあったり、保護ネットが邪魔をしたりして目視では細部が確認できないのが残念です。

  • 東本願寺 御影堂<br />虹梁は、屋根から荷重を受ける梁の役割を果たすもので、強度が求められます。中央部を弓状に反り上げた意匠により、上からの荷重に押し潰されない力強さを上品に表現しています。<br />下部に彫られたグラデーションがかかったような平行線の「眉」や両端の流れるような「若葉」の繊細な彫刻は、堅い欅材を柔らかく優美なものに見せる役割りを果たしています。<br />阿弥陀堂、御影堂や両堂山門、鐘楼堂など多くの建築物にあしらわれた虹梁には、一定の法則的な特徴が見られます。繊細な若葉の流線美を妨げるような、波模様や菊模様の余分な彫刻を削ぎ落とした明治期特有のシンプルなデザインです。簡素美に代表される控え目な虹梁と言えます。<br /><br />内部の見所のひとつは頭貫大虹梁です。堂内の外陣・参詣席境の中央に位置し、左右の柱に大きく架け渡された梁で、御影堂で使用されている木材の中でも最大級のものです。長さ約 14.5m、木幅1m以上もある欅の大木が使われています。<br />記録によるとこの大虹梁は、新潟県の阿賀野川の川底に数百年水没していた大木を数万人の門徒によって引き上げたと記されているそうです。何百年もの間水中に沈んでいたためにできた腐食箇所を取り除き、その部分に木を埋め込み、その上から荒布を巻いて材自体の強度を高め、欅色(朱)の漆を塗って変色を隠し、木目などの飾り彫りを施して備え付けられています。<br />御影堂に使われた木は約6万3千本でその6割が寄進されたものだそうです。門徒たちの情熱と全国からより選りすぐりの大工の技と知恵が集結されています。

    東本願寺 御影堂
    虹梁は、屋根から荷重を受ける梁の役割を果たすもので、強度が求められます。中央部を弓状に反り上げた意匠により、上からの荷重に押し潰されない力強さを上品に表現しています。
    下部に彫られたグラデーションがかかったような平行線の「眉」や両端の流れるような「若葉」の繊細な彫刻は、堅い欅材を柔らかく優美なものに見せる役割りを果たしています。
    阿弥陀堂、御影堂や両堂山門、鐘楼堂など多くの建築物にあしらわれた虹梁には、一定の法則的な特徴が見られます。繊細な若葉の流線美を妨げるような、波模様や菊模様の余分な彫刻を削ぎ落とした明治期特有のシンプルなデザインです。簡素美に代表される控え目な虹梁と言えます。

    内部の見所のひとつは頭貫大虹梁です。堂内の外陣・参詣席境の中央に位置し、左右の柱に大きく架け渡された梁で、御影堂で使用されている木材の中でも最大級のものです。長さ約 14.5m、木幅1m以上もある欅の大木が使われています。
    記録によるとこの大虹梁は、新潟県の阿賀野川の川底に数百年水没していた大木を数万人の門徒によって引き上げたと記されているそうです。何百年もの間水中に沈んでいたためにできた腐食箇所を取り除き、その部分に木を埋め込み、その上から荒布を巻いて材自体の強度を高め、欅色(朱)の漆を塗って変色を隠し、木目などの飾り彫りを施して備え付けられています。
    御影堂に使われた木は約6万3千本でその6割が寄進されたものだそうです。門徒たちの情熱と全国からより選りすぐりの大工の技と知恵が集結されています。

  • 東本願寺 御影堂<br />御影堂の向拝上にある隅巴瓦の上部に据えられた1対の留蓋瓦は、相國寺開山堂 開山堂碑の亀趺(きふ=贔屓)を基にしたものだそうです。こうした場所に使われる造形としては珍しいそうです。きりりと引き締まった勇壮な表情が凛々しいです。元々は隅部の接点から雨水が浸入するのを防ぐために据えられた瓦です。<br /><br />以前は屋根の総重量2600トン(瓦1500トン、ふき土1100トン)の荷重が柱にかかっていたのですが、17万5000枚の瓦のうち12万5000枚を新調した平成の大修復では、寄進者の名前を瓦にインクジェットで印刷したり、ふき土を使わない工法で700トン軽くするという現代ならではの工夫が採り入れられたそうです。

    東本願寺 御影堂
    御影堂の向拝上にある隅巴瓦の上部に据えられた1対の留蓋瓦は、相國寺開山堂 開山堂碑の亀趺(きふ=贔屓)を基にしたものだそうです。こうした場所に使われる造形としては珍しいそうです。きりりと引き締まった勇壮な表情が凛々しいです。元々は隅部の接点から雨水が浸入するのを防ぐために据えられた瓦です。

    以前は屋根の総重量2600トン(瓦1500トン、ふき土1100トン)の荷重が柱にかかっていたのですが、17万5000枚の瓦のうち12万5000枚を新調した平成の大修復では、寄進者の名前を瓦にインクジェットで印刷したり、ふき土を使わない工法で700トン軽くするという現代ならではの工夫が採り入れられたそうです。

  • 東本願寺 御影堂<br />西本願寺とは正反対に、御影堂や阿弥陀堂の内部の撮影は禁じられています。ですので内部の写真はございません。<br /><br />今回は見る機会に恵まれなかったのですが、牡丹は東本願寺大谷派の寺紋です。<br />達如(1780〜1865年)が近衛経熈の娘 熈子(ひろこ)姫を妃として迎え、その時に近衛家の家紋「抱牡丹」がもたらされたとの説がありますが、元々藤原家の筆頭 近衛家や九條家との関係が深く、それ以前に「抱き牡丹」が寺紋として用いられていたというのが真相のようです。

    東本願寺 御影堂
    西本願寺とは正反対に、御影堂や阿弥陀堂の内部の撮影は禁じられています。ですので内部の写真はございません。

    今回は見る機会に恵まれなかったのですが、牡丹は東本願寺大谷派の寺紋です。
    達如(1780〜1865年)が近衛経熈の娘 熈子(ひろこ)姫を妃として迎え、その時に近衛家の家紋「抱牡丹」がもたらされたとの説がありますが、元々藤原家の筆頭 近衛家や九條家との関係が深く、それ以前に「抱き牡丹」が寺紋として用いられていたというのが真相のようです。

  • 東本願寺 阿弥陀堂<br />改修中だった阿弥陀堂の屋根の工事が完了し、建物を覆っていた巨大な「素屋根」が撤去され、6年ぶりに建物の全貌を露にしています。2015年末が竣工予定となっています。<br />禅宗様を取り入れた仏堂で、宮殿中央には本尊 阿弥陀如来の木造立像が安置されています。瓦葺の単層入母屋造。建築規模は、床面積比で御影堂の半分ほどですが、仏堂の大きさとしては全国7位を誇ります。<br /><br />阿弥陀堂は江戸末期に4度も焦土と化しています。その都度、再建されたのですが、最後に災難に遭ったのは1860年に再建したばかりのことでした。再建後4年で灰燼と化した時の関係者の心痛はいかばかりだったことでしょう。それまでは不慮の火災が原因でしたが、4度目は長州藩と幕府軍との武力衝突「禁門の変」による御所周辺の戦火の巻き添えで焼失しています。一方、不思議なことに東本願寺から500mも離れていない西本願寺は焼失を免れています。ですから、敗走する長州兵が東本願寺に火を放ったとも言われています。<br />この逸話には、東本願寺の生い立ちが大きく影響しています。石山本願寺への籠城抗戦派 教如に土地を寄進したのが家康であり、それ以来東本願寺には「徳川贔屓」が芽生え、根を下ろしてきた経緯があります。一時期、境内に日光東照宮の別堂が設けられ、家康を東照大権現として祀っていたほどです。また慶喜が1863年に上京した際、3ヶ月間、当寺を宿舎としています。こうした連綿とした徳川との縁が、幕府を敵視する勢力の反感を買っとも囁かれています。

    東本願寺 阿弥陀堂
    改修中だった阿弥陀堂の屋根の工事が完了し、建物を覆っていた巨大な「素屋根」が撤去され、6年ぶりに建物の全貌を露にしています。2015年末が竣工予定となっています。
    禅宗様を取り入れた仏堂で、宮殿中央には本尊 阿弥陀如来の木造立像が安置されています。瓦葺の単層入母屋造。建築規模は、床面積比で御影堂の半分ほどですが、仏堂の大きさとしては全国7位を誇ります。

    阿弥陀堂は江戸末期に4度も焦土と化しています。その都度、再建されたのですが、最後に災難に遭ったのは1860年に再建したばかりのことでした。再建後4年で灰燼と化した時の関係者の心痛はいかばかりだったことでしょう。それまでは不慮の火災が原因でしたが、4度目は長州藩と幕府軍との武力衝突「禁門の変」による御所周辺の戦火の巻き添えで焼失しています。一方、不思議なことに東本願寺から500mも離れていない西本願寺は焼失を免れています。ですから、敗走する長州兵が東本願寺に火を放ったとも言われています。
    この逸話には、東本願寺の生い立ちが大きく影響しています。石山本願寺への籠城抗戦派 教如に土地を寄進したのが家康であり、それ以来東本願寺には「徳川贔屓」が芽生え、根を下ろしてきた経緯があります。一時期、境内に日光東照宮の別堂が設けられ、家康を東照大権現として祀っていたほどです。また慶喜が1863年に上京した際、3ヶ月間、当寺を宿舎としています。こうした連綿とした徳川との縁が、幕府を敵視する勢力の反感を買っとも囁かれています。

  • 東本願寺 菊の門(登録有形文化財)<br />敷地の北東に開かれた菊の門は、1911(明治44)年に勅使門として再建されました。道路側の扉に大きな菊紋が付けられているのが名の由来です。この菊紋は、かつて徳川家康が寄進したものだそうです。切妻造、檜皮葺で前後に軒唐破風を配し、木部は総漆塗になっており、寄進は神野金之助氏とその長男 重助氏によります。<br />武田五一氏の指導の下、亀岡末吉氏が設計した勅使門です。棟梁は名古屋の鈴木幸右衛門氏で、部材は名古屋で加工されたそうです。亀岡氏は、明治期後期から大正前期にかけて内務省や宮城県、京都府の技師として社寺建築の調査・保存事業に尽力された建築家です。

    東本願寺 菊の門(登録有形文化財)
    敷地の北東に開かれた菊の門は、1911(明治44)年に勅使門として再建されました。道路側の扉に大きな菊紋が付けられているのが名の由来です。この菊紋は、かつて徳川家康が寄進したものだそうです。切妻造、檜皮葺で前後に軒唐破風を配し、木部は総漆塗になっており、寄進は神野金之助氏とその長男 重助氏によります。
    武田五一氏の指導の下、亀岡末吉氏が設計した勅使門です。棟梁は名古屋の鈴木幸右衛門氏で、部材は名古屋で加工されたそうです。亀岡氏は、明治期後期から大正前期にかけて内務省や宮城県、京都府の技師として社寺建築の調査・保存事業に尽力された建築家です。

  • 東本願寺 菊の門<br />伝統的な四脚門の形式を踏襲するものの、彫刻や木鼻絵様は近代的感覚を生かした意匠を用いています。<br />見所は、植物をモチーフとした彫刻と扉の透かし彫りです。3連の花菱文の透かし彫りは、亀岡式の専売特許の意匠です。また、他の寺院の門にはあまり見られない肌色を基調とした色彩が独特の古色蒼然とした雰囲気を漂わせています。

    東本願寺 菊の門
    伝統的な四脚門の形式を踏襲するものの、彫刻や木鼻絵様は近代的感覚を生かした意匠を用いています。
    見所は、植物をモチーフとした彫刻と扉の透かし彫りです。3連の花菱文の透かし彫りは、亀岡式の専売特許の意匠です。また、他の寺院の門にはあまり見られない肌色を基調とした色彩が独特の古色蒼然とした雰囲気を漂わせています。

  • 東本願寺 菊の門<br />豊国神社にある国宝「唐門」に造りがよく似ています。焼失後、明治期に再建されたものですが、復元に近い形で再建されているそうです。だとすれば、かつての「菊の門」も伏見城や聚楽第の遺構の一部だった可能性もあります。<br />本願寺の権力を分かつために分立させた家康であれば、東西で差別する必要はなかったと思われます。

    東本願寺 菊の門
    豊国神社にある国宝「唐門」に造りがよく似ています。焼失後、明治期に再建されたものですが、復元に近い形で再建されているそうです。だとすれば、かつての「菊の門」も伏見城や聚楽第の遺構の一部だった可能性もあります。
    本願寺の権力を分かつために分立させた家康であれば、東西で差別する必要はなかったと思われます。

  • 東本願寺 菊の門<br />蟇股には黄金の五七桐紋らしき意匠がそれとなく配されています。<br />これは秀吉由縁と言うよりも阿弥陀堂門の桐紋同様に皇后紋、あるいは後世の演出と考えるのが妥当と思われます。

    東本願寺 菊の門
    蟇股には黄金の五七桐紋らしき意匠がそれとなく配されています。
    これは秀吉由縁と言うよりも阿弥陀堂門の桐紋同様に皇后紋、あるいは後世の演出と考えるのが妥当と思われます。

  • 東本願寺 菊の門<br />3段になった3連の花菱文の透かし彫りがなんとも美しいです。

    東本願寺 菊の門
    3段になった3連の花菱文の透かし彫りがなんとも美しいです。

  • 東本願寺 菊の門<br />せっかくの機会ですので常々気になっていたことを伺ってみました。本願寺にはお守りやお札の授与がないのです。何故なのか?<br />その回答は、至ってシンプルでした。「私たちはいつも阿弥陀如来様のご慈悲に護られているため、お守りやお札は必要ありません」とのことでした。

    東本願寺 菊の門
    せっかくの機会ですので常々気になっていたことを伺ってみました。本願寺にはお守りやお札の授与がないのです。何故なのか?
    その回答は、至ってシンプルでした。「私たちはいつも阿弥陀如来様のご慈悲に護られているため、お守りやお札は必要ありません」とのことでした。

  • 東本願寺 菊の門<br />門の建造年代を探るポイントのひとつが、几帳面取りです。桃山以降〜江戸時代のものに見られる技法で、角を挟んだ両面が5mmほど彫り込まれて段差ができています。細部まで丁寧にきちんと仕上げられていることから、「几帳面な性格」などと喩える由来となっています。<br />写真では判り難いのですが、下方の銅板の折れ方を見ていただくと角部に段差が付けられているのが判ります。

    東本願寺 菊の門
    門の建造年代を探るポイントのひとつが、几帳面取りです。桃山以降〜江戸時代のものに見られる技法で、角を挟んだ両面が5mmほど彫り込まれて段差ができています。細部まで丁寧にきちんと仕上げられていることから、「几帳面な性格」などと喩える由来となっています。
    写真では判り難いのですが、下方の銅板の折れ方を見ていただくと角部に段差が付けられているのが判ります。

  • 東本願寺 菊の門<br />六葉の猪目(ハート形)に七宝焼きと思しきカラフルな彩りが添えられ、アクセントになっています。<br />

    東本願寺 菊の門
    六葉の猪目(ハート形)に七宝焼きと思しきカラフルな彩りが添えられ、アクセントになっています。

  • 東本願寺 菊の門<br />道路側の烏丸通りから見る菊の門です。<br />両扉には大きな16弁菊紋が燦然と輝き、勅使門であったことを偲ばせます。<br />また、菊の門の名の由来は、この菊紋であることは想像に難くありません。<br />扉の透かし細工の奥には大寝殿が聳え建ちます。

    東本願寺 菊の門
    道路側の烏丸通りから見る菊の門です。
    両扉には大きな16弁菊紋が燦然と輝き、勅使門であったことを偲ばせます。
    また、菊の門の名の由来は、この菊紋であることは想像に難くありません。
    扉の透かし細工の奥には大寝殿が聳え建ちます。

  • 東本願寺 菊の門<br />いわゆる真宗派の欄間彫刻とはひと味違う、シャープな洗練された意匠群です。<br />唐破風の下には多数の彫刻が施され、上段の蟇股には牙をむいた鬼が彫られています。境内側にも配されていましたが、こちらは金色の歯や牙が強調され、妙に恐ろしく感じられます。<br />その下にある左右の蟇股や金物は菊の文様をあしらっています。

    東本願寺 菊の門
    いわゆる真宗派の欄間彫刻とはひと味違う、シャープな洗練された意匠群です。
    唐破風の下には多数の彫刻が施され、上段の蟇股には牙をむいた鬼が彫られています。境内側にも配されていましたが、こちらは金色の歯や牙が強調され、妙に恐ろしく感じられます。
    その下にある左右の蟇股や金物は菊の文様をあしらっています。

  • 東本願寺 菊の門<br />鬼の蟇股を少しズームアップしてみました。

    東本願寺 菊の門
    鬼の蟇股を少しズームアップしてみました。

  • 東本願寺 菊の門<br />妻の蟇股には、牡丹の彫刻があしらわれています。<br />かつての姿は、黒漆を基調にし、彫刻は極彩色で彩られていたそうです。西本願寺の唐門と張り合っていたのかもしれません。<br />秀吉は、京都を東西に結ぶ西本願寺から秀吉を祀る豊国社・方広寺に至る一種の「聖なるライン」を形造り、それを「正面通り」と呼びました。そこには興味深い説があり、家康は、天下を統一した際、豊臣家の庇護を受けた西本願寺と豊臣家の聖地「豊国社」・方広寺を結ぶラインを分断する意図でこの東本願寺を造成したと言われています。<br />西本願寺と比べて境内の見所は限られていますが、南側の堀の蓮の花など一味違った世界が広がっています。<br /><br />東本願寺をさらに東へ進み、東本願寺の飛地境内地と言われる渉成園へ向かいます。<br />この続きは、④渉成園でお届けいたします。

    東本願寺 菊の門
    妻の蟇股には、牡丹の彫刻があしらわれています。
    かつての姿は、黒漆を基調にし、彫刻は極彩色で彩られていたそうです。西本願寺の唐門と張り合っていたのかもしれません。
    秀吉は、京都を東西に結ぶ西本願寺から秀吉を祀る豊国社・方広寺に至る一種の「聖なるライン」を形造り、それを「正面通り」と呼びました。そこには興味深い説があり、家康は、天下を統一した際、豊臣家の庇護を受けた西本願寺と豊臣家の聖地「豊国社」・方広寺を結ぶラインを分断する意図でこの東本願寺を造成したと言われています。
    西本願寺と比べて境内の見所は限られていますが、南側の堀の蓮の花など一味違った世界が広がっています。

    東本願寺をさらに東へ進み、東本願寺の飛地境内地と言われる渉成園へ向かいます。
    この続きは、④渉成園でお届けいたします。

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