2015/07/28 - 2015/07/28
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montsaintmichelさん
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<前編>に引き続き、<後編>をお楽しみください。
西本願寺は広大な敷地内に多彩な建造物を擁し、それぞれが国宝や重要文化財といった一級品に相当する類稀なる寺院です。
後編では、写真撮影が自由にできる御影堂や阿弥陀堂の内部や唐門(境内側)のレポートを中心に、伝説の初代梵鐘の龍頭、新撰組との所縁のある寺院には珍しい太鼓楼、木造建築としては世界最大級の建造物を支える耐震構造など、ユニークながらあまり知られていない隠れた魅力を炙りだし、西本願寺のマニアックな愉しみ方に迫ってみました。
また、親鸞の教えや本願寺が東西に分立した経緯などにも軽く触れながら、建造物を通して歴史を紐解いていきたいと思います。
境内マップです。
http://blog-imgs-34.fc2.com/k/i/m/kimamanikaiteru/img14922.jpg
http://sp.hongwanji.or.jp/map/img/map.jpg
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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西本願寺 御影堂(ごえいどう:国宝)
堀川通から御影堂門を潜って一歩境内に足を踏み入れると、目の前に重厚な甍を連ねる2つの巨大なお堂が迫ってきます。その巨大さにはただただ圧倒され、また、その美しい姿には心を奪われてしまいます。
このように御影堂と阿弥陀堂を南北に連ねて東向きに建て、親鸞像を安置した御影堂の方を本尊を安置した阿弥陀堂よりも大きく造るのは真宗建築の典型だそうです。
因みに、2014年に御影堂と阿弥陀堂が新たに国宝に昇格しています。 -
西本願寺 阿弥陀堂(国宝)
御影堂の北(右)側に軒を連ねています。
1617年、本願寺は火災に見舞われ堂宇を焼失しましたが、翌年には阿弥陀堂が、1636年には御影堂が相次いで再建されました。江戸時代中期には親鸞500回大遠忌に寄せて阿弥陀堂が建て替えられ、1760年に現在の姿の阿弥陀堂が竣工しました。
尚、建て替え前の旧阿弥陀堂は本願寺西山別院に移築され、その本堂として現存しています。 -
西本願寺 虎の間の玄関(重文)
手水舎で清めた後は、時計回りに境内を回ってみたいと思います。南東角にある鐘楼を後に、堂宇の南側にある書院方面を目指します。
西本願寺の特徴は、御影堂・阿弥陀堂という純粋な堂宇の背後に白書院や黒書院といった古式ゆかしい建物が配されていることです。社務所がある龍虎殿の左を奥に進むと、突如それまでとは全く趣きが異なる景観が目の前に現れて吃驚します。最初に目にするのがこの虎の間の玄関です。
玄関先に虎の絵があったため、虎の間と呼ばれています。
狩野派の描く絵は、一定のルールの下で描かれており、それを覚えておくと解釈が容易です。障壁画の画題は建物の機能や部屋の格に対応し、通常は入口の「走獣図」に始まり、下段には「花鳥図」、そして上段には「人物画」、更に高貴な人の居所には「山水画」と順に格が高くなります。 -
西本願寺 浪の間の玄関(重文)
入母屋造りの妻入りに唐破風を載せた、壮麗な浪の間の玄関です。
少し前までは、事前に申し込むことで書院や飛雲閣のある庭園を拝観させてもらえたそうですが、社務所に問い合わせたところ、現在は行われていないそうです。書院や庭園は、信徒向け(一般人でもOK)の不定期の特別公開の時でなければ見られないようです。
ただし、堂宇などを案内しながら説明していただける境内ツアーは、日に数回催されているようです。
興味のある方は、社務所にお問い合わせください。 -
西本願寺 浪の間の玄関
唐破風の後方に見える切妻には、2羽の鳳凰が仲睦まじく翼と尾を広げている様子が彫られています。 -
西本願寺 浪の間の玄関
反対側から見た鳳凰の彫刻です。 -
西本願寺 書院(鴻の間:国宝)
正面奥の一番高く聳えている屋根が鴻の間に当たります。その左手前にある屋根が南能舞台、そこから右手に塀に沿って伸びた屋根が、通常の能舞台よりも距離が長く、役者の間が取り難いことから役者泣かせと言われる橋掛(はしがかり)のものです。重要文化財の能舞台は、春日大社、厳島神社とこの南能舞台に限られています。
対面所の西隣は、「雀の間」「雁の間」「菊の間」と続き、白書院に至ります。白書院は賓客をもてなす正式な書院で、一の間、二の間、三の間からなり、いずれも優れた欄間彫刻や障壁画で飾られています。「一の間」には床や違棚、付書院、帳台構が備えられ、典型的な書院の様相を見せています。尚、白書院の東側にある「装束の間」は、 韃靼(モンゴル)狩猟図で飾られていますが、寺院において殺生の絵が描かれるのは珍しいそうです。各部屋を囲む廊下は「狭屋の間」と称され、天井画として「北狭屋の間」には様々な花の絵が、「東狭屋の間」には書物の絵が描かれています。枯れ易い種類の花の茎に湿らせた和紙が巻かれていたり、書物の中に鼠避けの猫が混じっていたりと、往時の粋な気風が随所に見受けられるそうです。
黒書院 は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとられた所です。白書院は原則非公開で不定期の特別公開のみです。黒書院は公開された事はありません。 -
西本願寺 唐門(国宝)
今度は境内から唐門をじっくり堪能します。
この唐門には幾つかの言い伝えがあります。
妻入りに彫刻された鶴は、江戸時代の彫刻師 左甚五郎作と伝えられています。本山には沢山の鳩が生息していますが、不思議なことにこの唐門にだけは他の鳥も含めて留まらず、蜘蛛も巣を張らないそうです。あまりの彫刻の見事さに、鳥や虫さえも一目置いているかと思いきや、実際には鳥や虫が嫌がる香り成分が顔料に含まれているのだそうです。
「左甚五郎の彫刻に恐れをなして寄り付かない」との都市伝説が、儚くも崩れ去りました。 -
西本願寺 唐門
1980(昭和55)年に修復され、35年経過しているため多少色が落ちかけているのが気になります。その分、柱や梁に見られる金色の飾金具が映えています。
現時点で唐門の修復計画があるのかないのかネットには情報はありませんが、ここ数年の間に修復に入るのかもしれません。修理となれば2年ほどかかるのではないかと思います。 -
西本願寺 唐門
境内側はちらほらと唐門の見学に来られる方もおられますが、堂宇参拝者数の比ではありません。
信心深い人ばかりで、当方のような不純な動機で西本願寺を訪れる方は少ないと言うことなのでしょうか?
罪悪感にさいなまれながらも、ひたすらフォトジェニックに迫るのでした。 -
西本願寺 唐門
この梁面の彫刻群は、豪華さの点では道路側と同等です。
強いて挙げれば、鳳凰の尾羽の本数が若干豪華になっています。 -
西本願寺 唐門
獅子は、道路側とは色彩を違えており、異なった印象を受けます。
そのせいか、体の屈曲もパワーアップしているように感じられます。 -
西本願寺 唐門
こちらの獅子も色合いが変えられています。 -
西本願寺 唐門
形は道路側と似ていますが、色彩の青が強調され、シャープなイメージです。 -
西本願寺 唐門
この麒麟は、道路側の睨みを利かせた恐ろしいものとは異なり、精悍な顔つきをしています。
左右の麒麟で阿吽の形を表しているようです。 -
西本願寺 唐門
鳳凰は、道路側と境内側で阿吽の対になっているのかと思いましたが、どちらも阿形です。 -
西本願寺 唐門
扉がある面の蟇股は、孔雀がいない分、あっさりしています。
孔雀の後姿が少しだけ見えますが…。
孔雀の下にいたはずの2頭の龍の姿も見えません。 -
西本願寺 唐門
子獅子の姿は、この扉には見当たりません。
眼目である守護目的に徹底されているようで、遊び心はありません。 -
西本願寺 唐門
境内側、門の左右には、古代中国の三皇五帝時代の故事を現わした透かし彫りが見られます。
右側は、「許由(きょゆう)が頴川(えいせん)で耳を洗う」という故事の透し彫りです。
時の帝が許由の高潔な人柄を聞き、位を譲ろうとすると当の許由は箕山に隠れてしまいます。許由をさらに高い地位で処遇しようとしたところ、許由が頴川の畔で「汚らわしいことを聞いた」と川の流れで自分の耳をすすいだという故事がモチーフです。 -
西本願寺 唐門
一方、対になっている左側は、「許由、耳を洗えば巣父牛をひいて帰るの図」の故事の透かし彫りです。
帝と許由のやりとりを見聞きしていた伝説の隠者 巣父が許由のエピソードを知り、「汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかない」と言って牛を連れて帰ったと言う故事をモチーフにしています。 -
西本願寺 唐門
右側面の彫刻です。
こちらは竹に虎の図象のようです。 -
西本願寺 唐門
左側面の彫刻です。
こちらも竹に虎の図象です。雌虎の豹は道路側の一匹だけのようです。 -
西本願寺 唐門
境内側の彫刻は、道路側にあった孔雀や龍がない分、若干寂しい感じがしないでもありません。
しかし、境内側唯一のアドバンテージが、入母屋の妻入りにある鶴の彫刻を真正面から見ることができる点です。このように唐門の右側の塀が道路側に張り出し、丁度よい鑑賞スペースを作っています。 -
西本願寺 唐門
入母屋の妻入りには金色に縁取られた鶴が典雅な姿で舞い、懸魚の褐色に白色の鶴が映えます。多少、色落ちしている気もしないではありませんが…。
また、左右の妻入りで鶴の形を違え、阿吽の形を表しています。その周りには豪華な金色の菊紋と桐紋が配され、格調高く仕上げられています。
かつて、鶴は仙人の乗り物として尊ばれたそうです。その由縁でここに彫られたそうです。 -
西本願寺 唐門
鶴の背景はハニカム(=蜂の巣)模様になっており、キリシタンからスタートして聖書に記述されたミツバチ・蜂蜜と辿る文脈には興味深いものがあります。
しかし、この場合は、亀甲模様と読むのが正しいのかもしれません。鶴と亀で永遠の繁栄を願ったとした方がすっきりします。
また、16弁菊紋と五七桐紋で、天皇と豊臣家の両方を重んじる姿勢が窺えます。頂点に君臨するのは菊門ですが、数では桐紋が上回ります。どちらがごねてもうまく説得できる仕組みになっているのには頭が下がる思いです。
考えさせられる図象と言えます。 -
西本願寺 唐門
妻入りに彫刻された鶴は、江戸時代の彫刻師 左甚五郎作と伝えられているのですが、夜毎に門から抜け出して飛び回り、鳴いて騒いだと言われています。あまりに騒々しいたため、その鶴の首を切り落としたという生々しい逸話まであるほどです。
首部をまじまじと観察しましたが、分断された形跡は見つけられませんでした。確かに折れそうなほど細くはありますが…。
都市伝説だとしても、通常は何らかの合致点が見出せるものなのですが…。 -
西本願寺 中雀門
平唐門の中雀門です。扉の透かし彫りがなんとも美しい素朴な門です。門の傍らには「明治天皇行幸所本願寺」の石標(生憎、松葉に隠れています)が立てられています。
因みに、中雀門は、扉に真鍮の金具を打った門を「鍮石門」と呼ぶことからその当て字とも、城内または武家屋敷の内部に設けた門を「中柵門」と呼びことからその転化とも言われています。 -
西本願寺 中雀門
中仕切の塀の内側は、黒書院・白書院・対面所などを配し、この門は結界ともなっています。ですから、中雀門には雀も住まないと言われています。
白壁塀の軒丸瓦の紋は、五七桐紋となっています。 -
西本願寺 大玄関(重文)
江戸時代中期に建造された、本瓦葺、入母屋造の妻入りに唐破風を設けた建物で、公式の行事などで来客を迎えたりするのに使用される玄関です。
大玄関の創建年代については、1760(宝暦10)年の親鸞500回忌の時にはその姿を見ることができるため、これよりあまり遡らない時期に造られたものと考えられています。
この玄関の正面にあるのが大玄関門になります。 -
西本願寺
幼稚園の敷地の手前からの景観です。
左側には書院群の建物、右側には大玄関門や唐門が並ぶ閑寂な空間が広がり、時代劇に出てきそうな風景です。手前から、大玄関、書院(鴻の間)、中雀門、浪の間と瓦葺から檜皮葺の屋根に移り変わる景観は壮観です。 -
西本願寺 御影堂
より多くの門徒を収容できるよう巨大化した真宗仏堂の到達点と言われています。亀腹基壇の上に建ち、屋根は本瓦葺の入母屋造、軒は二軒繁垂木で支輪を回しています。主体部の平面は桁行15梁間12間。そのうち手前8間を外陣部とし、奥側3間を内陣部としています。外陣部の周囲には2間幅の広縁と、擬宝珠高欄付きの落縁を回し、正面には3間幅の向拝を付して木階 (きざはし)6級を設けています。主体部の柱は上下をすぼめた粽(ちまき)付きの円柱、広縁に立つ側柱は粽付きの唐戸面取角柱です。また、落縁の外側には、面取角柱の軒支柱が石製礎板の上に立っています。 -
西本願寺 御影堂
外陣の畳の数は441枚と阿弥陀堂に比べて大幅にアップし、1200名以上が一度に参拝できるそうです。屋根は本瓦葺きの招造で、軒は木舞打ちの2軒疎垂木です。227本の柱で約115000枚の瓦を支えています。 -
西本願寺 御影堂 天水桶
御影堂の正面に左右一対ある天水桶を、各4体の愛嬌たっぷりのほぼ二頭身の天邪鬼が懸命に、されど力強く背中で支えています。膝に手をつく者や手を合わせる者などポーズはそれぞれ異なりますが、どれも大きな目を見開き、唇を噛みしめて踏ん張り、重さに耐える姿がけなげです。 -
西本願寺 御影堂 天邪鬼
仁和寺の天邪鬼と同様に、地震の揺れから天水桶を守る効果があるのかもしれません。仁和寺のものは、天邪鬼ぶりを発揮して揺れを逆に戻そうとするそうです。
天邪鬼とはひねくれた神を指し、仁王や四天王に踏み付けられた小さな鬼も天邪鬼と言います。仏教では、天邪鬼は人間の煩悩の象徴とされています。
こうした背景から、昔の職人さんの遊び心でこの様な天水桶と天邪鬼の組み合わせが実現したようです。いつもは踏み付けられている天邪鬼ですが、天水桶を「自ら支えている」と思えば、ポジティブに受け取れるかもしれません。
因みに、この天邪鬼は1636(寛永13)年から380年もの間ずっとこの天水桶を支え続けているそうです。 -
西本願寺 御影堂 沓石
向拝の柱を支えている礎石です。かつては柘榴の木で造られていたそうですが、腐食したために江戸時代の1861年に石製に替えられたそうです。表面を木で覆い、木製のようにカモフラージュしています。
隙間から覗くと、中身は石だと判ります。修理の際に腐らない石を用い、昔の面影を残すために表面を厚さ3?の木で覆っているそうです。 -
西本願寺 御影堂
こういう荘厳な空間に身を置いた刹那、思わず背筋が伸びてしまいます。
御影堂は、門徒が親鸞と対面する場であり、内陣は親鸞が想い描いた浄土の世界を再現しています。18本の円柱は、漆を3回塗り重ねて艶のある光沢に仕上げています。床の仕上げに使われる特上の漆は岩手県浄法寺町産のもので、20年間以上成長させた木から1年間にわずか200gしか採れない貴重な漆です。
内陣と一般の方がお参りする外陣の境目の上部に金箔を貼った10組の牡丹の彫刻欄間があります。照明が当たらないので見え難いのですが、この牡丹の花の姿がそれぞれに違えてあります。どう違うかと言うと、北(右)から正面へ向かうにつれて花が咲いていき、そして正面から南(左)に向かうにつれて萎んでいきます。こうした心憎い演出がなされています。こういった遊び心のある彫刻は寺院では珍しく、これを見た時はささやかな幸福感に包まれました。 -
西本願寺 御影堂
内陣部と外陣部の境には彫刻欄間が嵌められ、柱や長押は金箔で彩られています。内部の中央三間は内陣となり、高く上げた床には漆が塗られ、その中央には一間幅の来迎壁を立てた須弥壇を設けて親鸞の木像を納めた厨子を祀っています。内陣の天井は格の高い折上格天井であり、彩色や金箔を用いて荘厳な信仰空間を創り出しています。内陣の左右三間は余間とし、そのさらに外側には三の間、飛檐(ひえん)の間、鞘の間の三室をそれぞれ左右対称に並べています。尚、余間と三の間は小組格天井ですが、飛檐の間と鞘の間は根太天井になっています。
写真では伝わり難いかもしれませんが、仄暗い堂宇の中でも反射率の高い金は障子越しの柔らかな外光で燦然と輝いています。これが浄土のイメージだと言われれば、電気もなく菜種油を燃やす灯明しかなかった時代には、素直に受け入れられたのは想像に難くありません。 -
西本願寺 御影堂
中央には親鸞の遺灰が塗り込められた親鸞の木像、その左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事はこの御堂で行われています。
親鸞の木像は御影と呼ばれ、その御影を安置するお堂のため御影堂と言います。木像は、鎌倉時代の1243(寛元元)年の作と伝えられ、高さ約82cmの座像です。檜の寄せ木造りで、表面に漆が塗られた荘厳なものです。
親鸞の木像が安置されている厨子は、1998〜2008年まで行われた修復工事の折に金箔などが貼り直され、創建当時の輝きを蘇らせています。 -
西本願寺 御影堂
扁額に「見真」とあるのは、明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)と追贈された親鸞の諡号(しごう:贈り名)です。その意味は、「智慧によって真理を見きわめる」です。
しかし、2008年に行われた浄土真宗本願寺派の憲法に当たる「宗制」の改正により、「見真大師」の語は「宗制」からは削除されています。明治天皇から贈られた諡号であることを鑑み、本願寺教団が国家権力に随順する象徴との誤解が懸念されることから、靖国問題に絡む課題として教区から「見真大師号」の額を降ろす「建議」が提出されたことを酌んだ結果だそうです。
時代の潮流により、何時の日か、この扁額が降ろされる日が来るのかもしれません。 -
西本願寺 御影堂 北余間障壁画(重文)
内陣の北余間を飾るのは、親鸞が極楽浄土にあると唱えた蓮の池を描いた巨大な障壁画です。370年前に狩野派の絵師 徳力善宗、善雪父子が描いたもので「浄土の蓮」と呼ばれています。金地に鮮やかなブルーを呈する池には、屈託なく緑の葉を広げた蓮が浄土を物語ります。
その中央には、十字名号「帰命尽十方無碍光如来」が安置されています。天親が『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)に、「世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来 願生安楽国」と著し、自己の信念を表したことに基づきます。
見た目に近いブルーを再現しようとホワイトバランスを調整してみました。 -
西本願寺 御影堂 南余間障壁画(重文)
障壁画「浄土の蓮」には、しなやかな強さを持つ美濃紙や日本一丈夫と言われる石州紙がその特長を買われて使われているそうです。
中央には、九字名号「南無不可思議光如来」を安置しています。名号とは、仏や菩薩の称号を指します。曇鸞が『讃阿弥陀佛偈』に、「不可思議光一心帰命稽首礼」と著し、自己の信念を表したことに基づきます。 -
西本願寺 御影堂 鞘の間障壁画(重文)
右端にある鞘の間の襖絵は、吉村孝敬筆「雪松図」です。
江戸時代後期の京都出身の絵師で、円山応挙晩年の弟子ながら応門十哲のひとりに数えられています。
左端には「雪梅竹図」があるはずなのですが、取外されているのか見当たりませんでした。 -
西本願寺 御影堂
2005年のことですが、阿弥陀堂に包丁を持った男が侵入して床に灯油をまいた事件で、男が投げつけた金属製ナットで「御真影」の親鸞の木像の肩や腹など3ヶ所が傷付けられたそうです。
本来は御影堂に安置されていますが、修復工事中のため、たまたま阿弥陀堂内に安置されていたそうです。発見された傷は、親鸞像の右膝、腹部、左肩の3カ所で、いずれも縦横5mm程。乱入した男が阿弥陀堂の内陣で暴れた際、金属製ナット約20個を周囲に投げつけ、うち数個が親鸞像に当たったとみられています。
この乱入男は、元神職で突入時には「皇心会」と刺繍された戦闘服姿だったそうです。おまけに4リットルのポリタンクを数個持っていたということですから、警備が手薄だった訳です。男は、内陣の灯明の火をまいた灯油に引火させようと思っていたらしく、未遂とは言え出火寸前まで行った訳ですから、大惨事にならなかったのが不思議なほどです。凶器の沙汰と言えば、サン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロ作『ピエタ像』を破壊しようとした狂人たちの話を思い出してしまいます。
世界遺産を守るため、今後このようなことがないことを祈りたいと思います。 -
西本願寺 御影堂 蟇股「虞舜」
2014年に御影堂と阿弥陀堂が新たに国宝に昇格しています。国宝は、「重要文化財のうち極めて優秀、かつ文化史的意義の高いもの」を文科相が指定します。90年代後半からは、江戸期の建造物が次々に指定されはじめ、御影堂もその一角に収まりましたが、御影堂の国宝への「昇格」の立役者は、府教委による大規模修理に伴う調査記録だったそうです。梁に貼られた4枚の棟札が見つかり、再建時期に加えて文化年間に大規模修理を施したことが裏付けられたそうです。これが建物の歴史的変遷や文化史的な価値を証明する切り札ともなり、高評価につながったそうです。
葺き替えのために屋根から降ろされた瓦は約11万2千枚にも及び、文字を一つひとつ確認して記録しました。また、74カ所もある蟇股の配置と大きさ、施された彫刻のモチーフなどを丹念に記録しました。こうした情報が調査報告書にまとめられ、国宝指定を検討する際の決め手になったようです。
因みに、今年5月に松江城天守が国宝指定されました。城が完成した年を裏付ける2枚の祈祷札が発見され、また、それを掲げた柱の釘跡が一致したためで、天守が国宝に指定されるのは63年ぶりだそうです。
晴れて国宝に指定されたことで、調査員さんは気の遠くなるような地道な努力が報われた思いではなかったでしょうか。まさに人知れず心血を注いだ縁の下の力持ちですね!国宝誕生の裏にもこうした胸が熱くなるようなドラマがあったことに気付かされました。 -
西本願寺 御影堂 蟇股「迦陵頻伽に雲」
西も東本願寺も元々は親鸞が開祖の浄土真宗の総本山です。では何故東西に分立したのでしょうか?その背景には、戦国大名とも対等に渡り合ってきた本願寺の信徒の力を削ぐという、徳川 幕府の政治的な意図が見られます。そして、その導火線となったのが、織田信長と戦った石山合戦でした。
顕如が大坂石山本願寺を構えていた時、信長との間で戦いが起り、持久戦の末、顕如は信長に屈して和議を画策しました。しかし、顕如の長男 教如は徹底抗戦を主張して籠城しました。これを契機に親子の間に亀裂が入り、信長の死後、豊臣秀吉の支持を受けた三男 准如を跡継ぎに選び、秀吉から現在の西本願寺のある土地を寄進されました。
実質的な信長の後継者選びとされる柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦の折、本願寺坊官 下間頼廉が「信徒を動員してお味方しまっせ」と秀吉に囁いたとの噂もあります。つまり、本願寺は、石山合戦を契機に方向性を「権力への対抗」から「権力の庇護の下に生きる」に180度転換したのです。その方向転換を目ざとく察した徳川家康は、三河国での浄土真宗の禁制を解いて信徒を見方に付けるべく画策を練ります。しかし、信長の後継者を巡って家康を味方に付けた信長の次男 信雄と秀吉の間で勃発した小牧・長久手の戦いでは、家康は信徒を味方に付けようと顕如にすがるも袖にされます。これに対する秀吉の褒美が七条堀川の寺地寄進ということです。西本願寺が京都に返り咲いた時代は、南蛮寺というキリスト教会が各地に建立され、京都にも勢力を伸ばしていました。この頃にはキリスト教徒が全国に60万人いたとも言われています。こうしたキリスト教の勢力拡大を恐れた秀吉は、1589年に南蛮寺の焼き討ちを敢行し、その2年後、本願寺に七条堀川の地を与えています。もしかしたら、秀吉は、拡大し続けるキリスト教勢力に対抗できるのは戦国大名と比肩する勢力を誇った本願寺しかないと考えたのかもしれません。 -
西本願寺 御影堂 蟇股「箏に雲」
籠城事件以来、教如は隠居の身でしたが、本願寺の建造中に顕如が亡くなり、後を継いだのは意外や教如でした。この秀吉の許可に「待った」をかけたのが准如です。生母の如春尼が准如に味方し、顕如直筆の「譲状」を振りかざして抵抗しました。業を煮やした秀吉が仲介に入り、「10年後に准如に交代」で決着させました。ところが、今度はその采配に不満を持った教如側の僧侶が「譲状は偽物」と騒ぎ、再び一触即発の状態に陥ったのです。これが秀吉の逆鱗に触れ、「それなら、即刻交代だ」と准如を法主と定めたのでした。
しかし、やがて不遇の生活を送っていた教如が再び日の目を見る時がやってきます。家康は、関ヶ原の合戦の直前に陣中見舞いに訪れた教如を気に入り、バックアップする決意を固め、亡き秀吉が支援した准如を排除しようと企みました。教如が信長に楯突いて籠城した心意気に絆されたのかもしれません。教如は関ヶ原の戦いでは東軍の後方支援に回っています。逆に准如は、石田三成に説き伏せられ、西軍側に与することになります。
家康の企てに対し、重臣 本多正信が進言します。「どちらか一方に味方すれば、他方に不満が残り、遺恨を残すことになります。ここは一つ、准如の本願寺はそのままに、教如に別の寺地を寄進してはどうでしょう?これで、本願寺信徒の力を半分に削ぐことができます」。かくして家康は教如に六条烏丸に寺地を寄進し、そこに東本願寺が建造されたのです。
維新後、東本願寺は、苦しい立場に追いやられますが、西本願寺と歩調を合わせ、新政府に戊辰戦争の軍資金を出資するなど、償いの姿勢を見せることで生き延びたようです。 -
西本願寺 御影堂 蟇股
本願寺が分立した歴史的背景を知った上で2つのお寺を参拝すると、一層興味深くなるはずです。即ち、西本願寺には秀吉の色彩が色濃く遺され、絢爛豪華な安土桃山文化の趣があります。東本願寺は、度重なる火災で焦土と化したため、明治初期の建物や文化を象徴した荘厳で直線的な建物が並びます。内部は、絢爛豪華と言うよりも金ピカで真新しい感じがします。
幕末には、西本願寺が勤王に対し、東本願寺は佐幕に動いているのも興味深いところです。東本願寺は、家康によって創建され、幕府に縁の深かった所縁と言えます。一方、西本願寺は、石山合戦の折、毛利輝元が本願寺を支援したことからその後も長州と関係が続き、幕末には別邸 翠紅館を尊攘派志士の密談所として提供し、蛤御門の変では長州藩邸からの避難者を受け入れる等の支援をしています。
結局、どちらに転んでも暖簾を分けた西か東本願寺のいずれかが生き残れる訳で、幕末期に一部の藩が採った存続戦略に近いものになっているのは興味深いところです。教如がそこまで読んで父 顕如に背いたとしたら、あるいは親子示し合せた演技だとしたら、家康は利用されたに過ぎないことになります。本願寺の方が一枚上手だったのかもしれないと思うのは、当方だけではないように思います。 -
西本願寺 御影堂
入母屋の妻入りの妻飾は、二重虹梁大瓶束であり、唐草や波をあしらった透かし彫りが蟇股の隙間を埋め尽くしています。
蟇股は、中央が獅子、両脇にはなんと邪鬼が載せられています。二重虹梁の外部側の破風板と呼ばれる部材には、懸魚と呼ばれる彫刻が吊り下げられています。 -
西本願寺 御影堂 縁側と廊下の埋め木
西本願寺の御影堂と阿弥陀堂結ぶ廊下も国宝に指定されています。その縁側や廊下に、いつの時代か、動物や植物、モノを象った木によって節穴や亀裂を補修する「埋め木」が施されています。古くなった柱など木部の穴や亀裂を別の木材で修繕した跡です。それがなんとも、遊び心満載の小粋な悪戯が施されています。探せば探すほど面白い形のものが見つかり、子どもたちには宝探しのようで人気があります。
参拝者々を少しでも癒すことができればという宮大工さんの粋な気遣が伝わってきます。これも文化遺産たる所以かもしれません。 -
西本願寺 御影堂 縁側と廊下の埋め木
古色と言って、薄めた墨を上から塗り、周りに木との色合いをとるそうです。古色にも色や調合、水加減は宮大工各々のレシピがあるそうです。しかし、墨を薄めたものを塗っているに過ぎませんので、人が往来する通路などはこのように擦れて剥げてしまうため、埋め木がすぐに目立ってしまうようです。これもまた味わいのあるものです。 -
西本願寺 御影堂 縁側と廊下の埋め木
地震に立ち向かって築かれた世界最大級の木造建築が持つ優れた耐震構造が、超高層ビル時代の今、新たに見直されています。
現在の姿の御影堂は、安土桃山時代の1636年に建造されました。古来より受継いだ匠の技と江戸時代初期の最高技術を駆使して建立され、3度の巨大地震に襲われても伽藍はビクともしていません。地震に強い理由が判ったのは、10年かけて実施された「平成の大修理」の賜物でした。 前身の御影堂は京阪神に甚大な被害を及ぼした1596年の「慶長伏見の大地震」で伏見城もろとも崩壊の憂き目に遭いましたが、この災害を踏まえて次世代に向けた御影堂が築かれていたのです。
筆頭に挙げられるのが、ねじれ抑制の構造です。柱を等間隔に狭く並べた4つのブロックを軒柱と土壁の柱で1つに束ね、ねじれに強い構造を実現しています。超高層ビルの魁は、1973年に建てられたシカゴのSears Towerですが、それを可能にしたのが柱で囲んだブロックを束ねたバンドルチューブ構造でした。しかし、これは340年も前に築かれた御影堂と同じ設計思想です。
もうひとつが古来から伝わる木組みによる制振構造です。屋根と柱の間に設けられた大斗と肘木による緩衝構造が、上下の動きの差を調整しています。これにより地震波の伝播が駒送りにされ、揺れを減衰し、木組みの摩擦が揺れを吸収します。つまり、運動エネルギーを熱エネルギーに変換して振動を素早く収める免震、制震技術は、日本では1000年以上も前の平安時代に実現されていたことになります。
このように大地震で1度は倒壊した御影堂の再建には、現代にも通じる古来の技術と独創的な技術が融合されていたのです。温故知新と言うか日本の伝統工法を謙虚に学ぶことで、技術向上が期待できるよい事例ではないかと思います。 -
西本願寺 渡り廊下
阿弥陀堂と御影堂は「渡り廊下」および「喚鐘廊下」で接続され、これら2本の廊下も国宝に指定されています。そのうち外陣部の広縁を結ぶ「渡り廊下」は門徒のための廊下であり、その規模は梁間が1間で5.4m、桁行は8間で24.2mあります。屋根は本瓦葺の唐破風造で、軒は2軒繁垂木です。 -
西本願寺 渡り廊下
まるで鏡のように磨きあげられた廊下の床は、歩くとキュッキュッと音がします。鶯張りになっているのか、創建された時代にタイムスリップしたような気分に浸れます。 -
西本願寺 喚鐘廊下
内陣部と外陣部の境を繋ぐ「喚鐘廊下」は僧侶のための廊下であり、梁間は1間で2.8m、桁行は11間で26.4mとなっています。
廊下の中央には喚鐘が吊り下げられています。 -
西本願寺 阿弥陀堂
親鸞の有名な言葉と言えば、「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。「善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから、悪人は言うまでもなく極楽へ行ける」という超ポジティブ思考と勘違いしそうな言葉ですが、実はそうでなく、奥が深いものになっています。
ここで言う「悪人」とは、「俺って、悪人なんだ!」と悟った人の事であり、「自分を善人だと思っている人は身の程知らずだ」と説きます。つまり、自分の悪い事に気付けない人ですら極楽に行けるのだから、自分が犯した罪を認めている悪人こそが極楽浄土に行く資格があると説いたのです。ですから、親鸞上人の教えは、瞬く間に農民や町民、武士に広がったのです。
この解釈を誤り、悪事を働けば極楽へいけると思い込んだ人も多く、悪事を薦めた宗教とも罵倒されたようです。何時の時代も物事を自分の都合の良いように解釈してしまうのは、政治家ならずとも起こり得るものです。慢心することなく、回りの声に傾聴することを忘れたくないものですね! -
西本願寺 阿弥陀堂
天井に吊るされた金燈篭がなんとも荘厳な雰囲気を漂わせています。
こうしたものが信者の心を捉えるのでしょうか? -
西本願寺 阿弥陀堂
内陣の中央に本尊阿弥陀如来の木像を安置し、インド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像がその脇を固めています。 -
西本願寺 阿弥陀堂
ふと振り返れば、障子を透かした採光が侘び寂びの世界を語りかけてくれます。 -
西本願寺 阿弥陀堂
見上げると海老虹梁と呼ばれる大きくうねった梁が通され、。まさに海老の胴体のような形をした梁です。鎌倉時代に禅宗様建築が大陸から伝わったのに伴って用いられるようになり、江戸時代の建物には宗派に無関係で用いられています。主に柱の頂部に高低差がある所に使われます。時代が下がると共に意匠性が強くなり、建物によっては彫刻物で埋め尽くされたものもあり、海老虹梁も建物の時代判定の目安になっています。 -
西本願寺 阿弥陀堂
階段の高欄にも深い味わいがあります。 -
西本願寺 阿弥陀堂(重文)
阿弥陀堂の規模は、桁行45.2mに梁間42.1m、御影堂の規模は桁行62.1mに梁間48.3mと巨大な建物です。
阿弥陀堂の外陣は285畳あり、一度に800名以上が参拝できます。 -
西本願寺 経蔵(重文)
回転式書架を持った高さ6m、直径4mほどもある巨大な8角形の堂で、「転輪蔵」とも呼ばれています。8角形の各面に計360個の引き出しがあり、その中には6323巻にものぼる『大蔵経(一切経)』が納められています。
納められている『大蔵経』は天海が開版したもので、1635年、上野 寛永寺で発起し、12年かけて完成させたものです。元々は、親鸞が『教行信証』を書く基にしたものです。寛永寺を開山した天台宗 天海から銀27貫目で購入したため、天海版または寛永版とも称されます。何故、他宗の僧侶 天海のお経を購入したのかと言えば、江戸幕府からの圧力に屈したと言うしかないのですが、13代 良如の希望だったとも伝えられています。
転輪蔵を1回転させると、大蔵経を全て読んだことになるそうです。誰もが仏の教えに触れられるようにとの願いが込められています。 -
西本願寺 経蔵
寂如の染筆による「転輪蔵」の扁額が掲げられています。
経蔵は1678(延宝6)年に創建され、大工は伊豆守 宗俊と伝えられます。
内部は公開時にしか見ることができないのですが、正面に回転式書架の発案者とされる中国の南北朝時代の傅大士という居士の像、その左右に2童子及び8天像を安置しているようです。これらの像は渡辺康雲の作と言われていますが、寂如が自らその彫刻に当たられたとも伝えられています。尚、内壁に貼られた腰陶板は、肥前 伊万里の有田焼柿右衛門系の陶工によるもので、柿右衛門系としては最も初期の作で、2種類の龍を描いたものだそうです。 -
西本願寺 経蔵
二重屋根で、屋上には古鏡1000枚を用いて造ったという銀宝珠が誇らしげに載せられています。 -
西本願寺 安穏殿 梵鐘(重文)
安穏殿前にさりげなく置かれていますが、重要文化財です。
この梵鐘は、元々は太秦広隆寺に伝わる古器で、藤原通憲入道信西の銘が入れられた由緒あるものです。大坂石山本願寺を退出する際に持ち出し、ここの鐘楼に吊られたそうです。
因みに。音色は黄鐘調だそうです。 -
西本願寺 安穏殿 梵鐘
何故か木製の龍頭が付けられており、これについて次のような伝説があります。
この梵鐘は、聖徳太子が鋳造させて太秦広隆寺に釣られていたが、ある日、龍宮まで通ずるという底なしの池に沈んでしまった。鐘を東寺の人が無限の綱で引き揚げたら、鐘から龍頭が外れてしまった。やむなく東寺の人は龍頭だけを大切に持ち帰った。その後、鐘が本願寺に行きたいと訴える夢告があり、太秦の人が釣り上げて本願寺に運ぶも、龍頭がないので鐘楼に吊れないために困っていた。するとそこへ老女が現れ、老婆が手にしていた自作の木製龍頭で吊られたが、危うげに見えたために鐘の下に台を据えたという。 -
西本願寺 安穏殿 梵鐘
半対面です。
龍頭というより、老婆の顔そのものではないかと思ってしまうほど凄みがあります。
夢に出てきそうです。
梵鐘は、1600年頃に太秦広隆寺から2300貫文で購入したものだそうです。銘文中に「久安六年正月」とあり、口径106.4cm、高さ158.2cm、質量1.8トンあるそうです。また、近年の研究により、平等院の梵鐘と外形がほぼ一致することから、同時期に同工房で制作された兄弟鐘と想定されています。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
江戸後期の1802年創建の四脚門です。切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺で、重厚な姿を呈し、装飾も煌びやかな門構えです。
1983年、檜皮の一部葺替、飾金具の修正、金箔押などの補修が行われ、創建当初の美しい姿が再現されています。また、2009年に御影堂門・築地塀修理の際に合わせて修復工事が行われています。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
話す言葉は違えども、立ち止まり、見上げる目線の先にあるものはどちらも金燈篭。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
門扉には菊の透かし細工が施されています。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
近くで観ると緻密な細工であることが判ります。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
大きな菊の花です。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
普通なら浮いてしまうような金色の装飾も、チョコレート色の柱の色彩にうまく馴染んでいます。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
下方に突き出した矩形部にあるのが西本願寺の寺紋です。西本願寺の寺紋は、各門主によって使い分けられているのが特徴です。
現在は「下がり藤」と「牡丹唐草」が寺紋に用いられていますが、中世〜戦国時代にかけては「牡丹唐草」や「鶴丸」、「五七桐」などが用いられ、江戸時代は「五七桐」で統一されたそうです。欧米列強の脅威に晒された時代には、天皇を中心とした貴族制度が敷かれ、本願寺門主も初めて華族「大谷」家という氏を名乗りました。その際、公家の九条家の了解を得て「九条下り藤」をアレンジした「西六條下り藤」を用いるようになっています。
何故使い分けられたかというと、元々紋は門主の個人的な人格に付与されたものだったからです。ですから、門主が変われば寺紋も変わるのが当たり前でした。
『牡丹唐草』:宗祖 親鸞が藤原家の出身ということに由来しています。「牡丹」は藤原家の定紋で、副紋が「藤」でした。室町時代以降に「藤」が定紋になったとの説があります。
『鶴の丸』:親鸞の出生である日野家の紋です。JALのマークと似ています。
『八藤』:第10代 証如が九條家の猶子となったことに由来します。
『五七桐』:第11代 顕如が門跡に列せられ、宮中との関係が生じたことにより皇室の副紋を使うことが許されるようになりました。
『四っ藤』:第13代 良如が「鶴の丸」から「四っ藤」に改めました。
『菊花紋(十六菊)』:第21代 明如の明治維新に際しての功績に対し、皇室の定紋である菊花紋の5條袈裟が下賜されました。
『下り藤』:第22代 鏡如は九條籌子(かずこ)と結婚し、その際に夫人が持参した家紋をアレンジしたものです。この紋は「西六條下り藤」と通称され、「九條家下り藤」は房の花が円く、花と花との間の開きが広くなっています。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
銅板に施された龍のレリーフです。
御影堂門の獅子に対抗し、こちらは龍で統一されています。 -
西本願寺 阿弥陀堂門
堀川通り側から見る阿弥陀堂門です。
一旦境内から出て北東角にある太鼓楼へ向かいます。 -
西本願寺 太鼓楼(重文)
北東角に一風変わった姿形をした重層の楼閣があります。現在の太鼓楼は、1760年の親鸞500回忌に再建されたものです。本願寺内には2つの新撰組屯所があり、北集会所は現在姫路の亀山本徳寺にその一部が移築されています。
内部にある大きな太鼓は、江戸時代には周囲に時刻を告げるものでした。楼内には新旧2つの太鼓が置かれ、旧太鼓は奈良西大寺の遺品で豊臣秀吉から寄進されたものだそうです。胴の部分にツツジの木の胴をくりぬいた珍しいもので、裏には朱塗りの銘があり、豊心丹の薬方や梵字が沢山書かれているそうです。しかし、寺院に太鼓楼があるのは極めて珍しいことだそうです。本来なら、鐘楼だけで済むところ、わざわざユニークな楼閣を造ったのは、秀吉との蜜月関係を維持しようとした現れとされています。
また、内部には、幕末に本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が残されているそうです。その縁かどうか、戊辰戦争後の新撰組結成時からの元隊士である島田魁が、明治維新後には本願寺の守衛を務め、終生念仏を唱えながら太鼓番をしたとの逸話が残されています。今は亡き志士たちを思い、手を合わせながら念仏を唱えたのでしょうか? -
西本願寺 太鼓楼
新撰組は、元々は壬生 八木家が屯所でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びて幕府の支援も厚くなり、200人を超える大所帯となり、屯所を親長州派の西本願寺内に移転しました。これは、西本願寺と長州系志士の繋がりを絶つ狙いがあったとされています。
戦国時代、本願寺は石山合戦で織田信長と長期抗争状態にあり、その間毛利家は本願寺に兵糧を運んで援助しました。こうした縁から、幕末期には、本願寺は長州藩・長州系志士を支援していたからです。露骨な長州贔屓が京都守護職 松平容保の逆鱗に触れ、傘下の新撰組を境内に駐屯させたのです。
新撰組は、僧侶や信徒の迷惑も顧みずに武芸の稽古や砲撃訓練などを2年間繰り返しました。境内では仏教で忌避される肉食も大っぴらに行い、傍若無人な態度を続けた新撰組は招かれざる客でした。業を煮やした本願寺は、新たな屯所を建設する費用を負担するという条件で退去を具申し、西本願寺からほど近い不動堂村に厄介払いしたそうです。
最近、西本願寺から、新撰組とのやりとりを書き留めた書簡類が発見されました。「鬼の副長」と恐れられた土方歳三の苦悩や焦りが滲んだ貴重な資料だそうです。
慶応元年6月の「諸日記」には、北集会所に駐屯した隊士の様子が生々しく記されているそうです。土方は、「畳1枚に隊士1人が寝る手狭な環境と炎暑によって『誠々以凌兼(誠に我慢できない)』ので病人が出て隊士の不満を制止できない」と窮状を説明し、阿弥陀堂の一部、50畳分の貸与を懇願しています。寺側が代替案として北集会所の改修を申し出ると、土方から感謝の手紙が届けられたそうです。
また、西本願寺が僧侶らに、隊士に対して傲慢な態度を取らないようお触れを出したことや、同寺と同寺に関係する商人が500両を新撰組に支払ったことも記録されているようです。往時の門主が北集会所近くにあった御成道を使わず新選組を避けるように同寺に出入りしたことや新撰組が寺を出て行くことに尽力した寺関係者に褒美を与えたことなども記されており、新撰組に対する同寺の複雑な胸中が窺えるそうです。 -
西本願寺 総門(重文)
1711(宝永8)年の建立とされ、現在の地に移るまでに3度移築されています。門扉の上に大きな屋根、左右の控柱の上に小さな屋根を載せた「高麗門」と呼ばれる形式です。この形式は、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役の頃に城郭建築に用いられ始め、神社仏閣の出入口を仕切る門としても使われるようになったのは江戸時代のことです。虹梁には大柄な2組の蟇股を配しています。
西本願寺の境内と切り離され、堀川通と交差する正面通の入口に建ち、しかも門の周囲に塀や垣などがなく、門扉が常に開かれているため、乗用車がごく当たり前に門を通り抜け、「何のための門?」といぶかしく思われる観光客も多いそうです。
この総門は 西本願寺の地所(寺内町)を取り囲んでいた門のひとつだそうです。本来は西本願寺の門ではなく寺内町の門という位置付けのようです。かつては南に七条門、北に天狗門という総門がありましたが、今はこの門だけが残されています。
総門を潜って次の目的地の東本願寺へ歩を進めます。
この続きは、③東本願寺でお届けいたします。
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