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JR東海・沼津駅前の「さんさん通り」を直進、バス停「大手前」を過ぎると狩野(かの)川を渡って市役所に通ずる「あゆみ橋」にはいる手前が中央公園でここは沼津城(ぬまづじょう、静岡県沼津市大手町)の跡地となっています。<br /><br />「陣代」とはいえ事実上の家督を父信玄より引き継いだ武田勝頼(たけだ・かつより、1546~1582)は天正6年(1578)越後上杉謙信没後の内訌が発生、いわゆる御館(おたて)の乱の最中に上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を謙信後継者として認め同盟を結びます。<br /><br />それまで同盟関係にあった小田原北条氏とは上述の理由により敵対関係となったため駿河に進出の勝頼は同国防衛の為その要衝地に当たる沼津に新たに戦略拠点を造ります。それが三枚橋(さんまいばし)城となります。<br /><br />然しながら天正3年(1575)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗し信玄以来の有力重臣の多数を失った武田軍は戦力弱体を回復できないまま家康軍と戦わざるを得ず、その後駿河・遠江の戦略的な拠点を失ない、三枚橋城も勝頼が天目山で自刃する天正10年3月の僅か10日前に小田原北条軍によって落城させられます。<br /><br />旧武田領の分配に当たって信長は参陣して戦功を挙げた諸将に分け与えます。すなわち、滝川一益を関東取次役とし上野国並びに信濃国2郡(小県郡・佐久郡)を、森長可には川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を、河尻秀隆には甲斐国(穴山梅雪の河内領を除く)信濃諏訪郡を、毛利長秀には信濃国伊那郡を、木曾義昌には木曽郡安堵、安曇郡、筑摩郡をそれぞれ与えることになり、そして当初同盟者であった家康は信長家臣扱いとされ駿河国を加増(穴山梅雪の河内領を除く)されることになります。<br />                                <br />この信長の措置については武田氏対抗するするため家康と同盟してきた小田原北条氏は間接的に信長と結んできたのでこの結果に逆らうことできず、やむなく攻め取った三枚橋城を家康に譲渡する事になります。<br /><br />天正10年(1582)6月2日本能寺にて信長が横死すると、主人を失った軍臣たちは拝領した旧武田領からこぞって旧自領に戻る事になり、信濃・甲斐・上野一部は統治者不在状況に陥ります。<br /><br />同時期に訪問先堺から九死に一生を得て生還した家康は、上野国厩橋に居た滝川一益(たきがわ・かずます)が小田原北条氏との神流(かんな)川の戦いで敗走、その勢いに乗って信濃・甲斐を占有しようとする小田原北条氏政・氏直と対立する事必至とみて国境固めることになります。<br /><br />家康は三枚橋城を修築させて家康四男である松平忠吉(まつだいら・ただよし)と後見の家老松平康親(まつだいら・やすちか)を送り込み万全の態勢を整え、康親没後は息子の康重(やすしげ)によって同城を守り抜きます。<br /><br />やがて天正壬午の乱を経て徳川家康と小田原北条氏政・氏直と和解が成立、甲斐・信濃を家康領とし、西上野を北条氏領とすることに決定、併せて家康娘が五代当主北条氏直(ほうじょう・うじなお)に嫁いで双方で秀吉に対抗する姿勢に変わり、姻戚関係の証として三枚橋城の外郭取り壊しなど城郭規模の縮小を行います。<br /><br />その後家康は小牧・長久手の戦いで軍事的に勝利したものの秀吉の巧妙な交渉によって同盟の織田信雄(おだ・のぶかつ)が戦列から離れ和睦、戦いの意味が失われ家康は岡崎に兵を引くも敵対関係は継続、そののち度重なる秀吉の執拗な上洛謁見メッセージを拒否しつつもついに折れて上洛して秀吉に対し臣下の礼を取る事になります。<br /><br />家康のきわどい両面外交に対し秀吉から小田原北条氏政又は氏直の上洛説得を迫られた家康は北条氏が応じない姿勢を見てたびたび三枚橋城を舞台にして北条氏側との説得会談を実施するも調停失敗、ついに業を煮やした秀吉は小田原征伐を決定すると家康は秀吉側に立つことを鮮明にせざるを得ず再度三枚橋城の修築に入ります。<br /><br />天正18年(1590)小田原北条氏没後は家康は関東に転封、代わって駿河国拝領し駿府に入封したのは秀吉の重臣である中村一氏(なかむら・かずうじ、生誕不詳~1600)で三枚橋城主は一氏の弟である一栄(かずしげ、生誕不詳~1604)が入封、秀吉は万一関東から箱根を越えてくるようなことあれば一氏らに防御させる意図があったと推測されます。<br /><br />秀吉没後は恩顧大名の豊臣離れが加速、信長旧臣であった一氏は家康に臣従して上杉景勝討伐軍には自身が病床であったため一栄を派遣、一氏は関ヶ原の戦い前夜に没し、戦後は一氏嫡子忠一(ただかず)は江戸周辺には譜代を配するという徳川の政策に則り遠く離れた伯耆国米子に17万5千石の加増を以て転封となります。<br /><br />中村氏が去った次の三枚橋城主は小田原城主となった大久保忠世(おおくぼ・ただよ、1532~1594)の実弟にあたり長篠・設楽原合戦で兄忠世と共に軍功をあげ信長より武勇を賞賛された忠佐(ただすけ、1537~1613・11月)で慶長6年(1601)上総国茂原5千石から2万石の抜擢を以て入封、江戸を衛る東海道の要所に大久保一族を配置したのは家康のこの一門に対するゆるぎない高い評価があったと思われます。<br /><br />しかしながら家康の意向に反し忠佐には唯一の男子忠兼(ただかね、1599~1613・4月)が忠佐の死去する前に亡くなり忠佐の流れは忠佐の慶長18年(1613)の死去を以て無嗣断絶改易、翌年三枚橋城は軍事上の重要性がなくなり破却されます。<br /><br />三枚橋城は破却後は駿府領に編入されたり幕府直轄地となったりして代官支配が続きますが164年後の安永6年(1777)に水野忠友(みずの・ただとも、1731~1802)が1万3千石の三河国大浜より2万石を以て沼津に封ぜられ3年後に旧三枚橋城跡地を縮小のうえ城郭を完成させ、初代忠友から8代忠敬(ただのり、1851~1907)まで支配が続き、新政府命により明治元年(1868)上総菊間藩に移封となり沼津藩は廃されます。<br /><br /><br />2023年10月17日追記<br /><br />沼津市のホームページには下記のように説明がなされています。<br /><br />『 三 枚 橋 城 跡<br /><br />永禄3年(1560年)、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への侵入を招いた。西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の北条氏も武田氏に対抗して駿河に侵攻した。北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを広げた。<br /><br />このころの武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城であった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いては、同心円上に囲む構造になっていた。築城時期については、「北条氏政書状」によると、天正7年(1579年)、武田勝頼が築城したとされている。<br /><br />三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが、北条氏の戸倉城(清水町徳倉)で、武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。天正8年(1580年)には、武田氏と北条氏の水軍が内浦重須沖から千本浜沖の駿河湾で海戦を行なっている。<br /><br />このような武田氏の駿河における拠点であった三枚橋城も、天正10年1582年に武田勝頼・信勝親子が天目さんで自害し武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松井忠次(松平泰親)が入場した。<br /><br />以後、豊臣方の中村一栄が城主となったが、慶長6年(1601年)には徳川家康の家臣大久保忠佐が城主となり、2万石を与えられた。しかし、忠佐死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614)には廃城となった。』<br /><br /><br />『 沼 津 城 跡<br /><br />三枚橋城廃城後の沼津は、代官支配となったが、安永6年(1777年)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。<br /><br />水野家は、享保10年(1725年)忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして領地が没収されたが、徳川家康の生母の家柄であったため、大叔父である忠穀(ただよし)によって名跡相続が許され7千石が与えられた。その子忠友は出世し、沼津の地に城地を与えられて大名に復帰した彼は、田沼意次と手を結び、側用人から若年寄、老中となり、3万石に加増された。<br /><br />2代目の忠成(ただあきら)も老中、老中首座となり、さらに2万石加増された。忠成の政治は、田沼と似て賄賂が幅を利かせているとして「水の出てもとの田沼となりにけり」と批判されたが、11代将軍家斉のもとで化政文化の花が開いた時期でもある。<br /><br />忠成の後は、忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)と続き、忠良の時はペリー来航の頃で、領地に伊豆の白浜・稲取が含まれていたので海防警備に明け暮れている。忠誠は再び老中になっているが、第2次長州征伐の途次で病死し、次の忠敬(ただのりの時に明治維新になり、上総国菊間(千葉県市原市)に移送され、沼津は徳川宗家を継いだ徳川家達の府中藩の支配下に入りことになる。<br /><br />沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城される。城の南北は現在の野村證券から静岡銀行沼津支店あたりで、大手門はうなぎの浜作本店あたりに造られ、本丸は中央公園辺りにあった。かつて三枚橋城の城内であった上土町や川郭町には、東海道が通じていた。ただ、三枚橋城と比べ規模は小さい。<br /><br />明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872年)に城は県で競売に付し解体され、同22年(1889)、東海道線開通に伴い、南北に縦貫道路が設けられた。その後、沼津は2回の大火に遭い、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなった。』

駿河沼津 武田氏没後は小田原北条領、家康領、秀吉領とめまぐるしく所領の変遷を重ねた経済の要衝地である旧三枚橋城跡に築城された『沼津城』訪問

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2015/07/20 - 2015/07/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR東海・沼津駅前の「さんさん通り」を直進、バス停「大手前」を過ぎると狩野(かの)川を渡って市役所に通ずる「あゆみ橋」にはいる手前が中央公園でここは沼津城(ぬまづじょう、静岡県沼津市大手町)の跡地となっています。

「陣代」とはいえ事実上の家督を父信玄より引き継いだ武田勝頼(たけだ・かつより、1546~1582)は天正6年(1578)越後上杉謙信没後の内訌が発生、いわゆる御館(おたて)の乱の最中に上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を謙信後継者として認め同盟を結びます。

それまで同盟関係にあった小田原北条氏とは上述の理由により敵対関係となったため駿河に進出の勝頼は同国防衛の為その要衝地に当たる沼津に新たに戦略拠点を造ります。それが三枚橋(さんまいばし)城となります。

然しながら天正3年(1575)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗し信玄以来の有力重臣の多数を失った武田軍は戦力弱体を回復できないまま家康軍と戦わざるを得ず、その後駿河・遠江の戦略的な拠点を失ない、三枚橋城も勝頼が天目山で自刃する天正10年3月の僅か10日前に小田原北条軍によって落城させられます。

旧武田領の分配に当たって信長は参陣して戦功を挙げた諸将に分け与えます。すなわち、滝川一益を関東取次役とし上野国並びに信濃国2郡(小県郡・佐久郡)を、森長可には川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を、河尻秀隆には甲斐国(穴山梅雪の河内領を除く)信濃諏訪郡を、毛利長秀には信濃国伊那郡を、木曾義昌には木曽郡安堵、安曇郡、筑摩郡をそれぞれ与えることになり、そして当初同盟者であった家康は信長家臣扱いとされ駿河国を加増(穴山梅雪の河内領を除く)されることになります。
                                
この信長の措置については武田氏対抗するするため家康と同盟してきた小田原北条氏は間接的に信長と結んできたのでこの結果に逆らうことできず、やむなく攻め取った三枚橋城を家康に譲渡する事になります。

天正10年(1582)6月2日本能寺にて信長が横死すると、主人を失った軍臣たちは拝領した旧武田領からこぞって旧自領に戻る事になり、信濃・甲斐・上野一部は統治者不在状況に陥ります。

同時期に訪問先堺から九死に一生を得て生還した家康は、上野国厩橋に居た滝川一益(たきがわ・かずます)が小田原北条氏との神流(かんな)川の戦いで敗走、その勢いに乗って信濃・甲斐を占有しようとする小田原北条氏政・氏直と対立する事必至とみて国境固めることになります。

家康は三枚橋城を修築させて家康四男である松平忠吉(まつだいら・ただよし)と後見の家老松平康親(まつだいら・やすちか)を送り込み万全の態勢を整え、康親没後は息子の康重(やすしげ)によって同城を守り抜きます。

やがて天正壬午の乱を経て徳川家康と小田原北条氏政・氏直と和解が成立、甲斐・信濃を家康領とし、西上野を北条氏領とすることに決定、併せて家康娘が五代当主北条氏直(ほうじょう・うじなお)に嫁いで双方で秀吉に対抗する姿勢に変わり、姻戚関係の証として三枚橋城の外郭取り壊しなど城郭規模の縮小を行います。

その後家康は小牧・長久手の戦いで軍事的に勝利したものの秀吉の巧妙な交渉によって同盟の織田信雄(おだ・のぶかつ)が戦列から離れ和睦、戦いの意味が失われ家康は岡崎に兵を引くも敵対関係は継続、そののち度重なる秀吉の執拗な上洛謁見メッセージを拒否しつつもついに折れて上洛して秀吉に対し臣下の礼を取る事になります。

家康のきわどい両面外交に対し秀吉から小田原北条氏政又は氏直の上洛説得を迫られた家康は北条氏が応じない姿勢を見てたびたび三枚橋城を舞台にして北条氏側との説得会談を実施するも調停失敗、ついに業を煮やした秀吉は小田原征伐を決定すると家康は秀吉側に立つことを鮮明にせざるを得ず再度三枚橋城の修築に入ります。

天正18年(1590)小田原北条氏没後は家康は関東に転封、代わって駿河国拝領し駿府に入封したのは秀吉の重臣である中村一氏(なかむら・かずうじ、生誕不詳~1600)で三枚橋城主は一氏の弟である一栄(かずしげ、生誕不詳~1604)が入封、秀吉は万一関東から箱根を越えてくるようなことあれば一氏らに防御させる意図があったと推測されます。

秀吉没後は恩顧大名の豊臣離れが加速、信長旧臣であった一氏は家康に臣従して上杉景勝討伐軍には自身が病床であったため一栄を派遣、一氏は関ヶ原の戦い前夜に没し、戦後は一氏嫡子忠一(ただかず)は江戸周辺には譜代を配するという徳川の政策に則り遠く離れた伯耆国米子に17万5千石の加増を以て転封となります。

中村氏が去った次の三枚橋城主は小田原城主となった大久保忠世(おおくぼ・ただよ、1532~1594)の実弟にあたり長篠・設楽原合戦で兄忠世と共に軍功をあげ信長より武勇を賞賛された忠佐(ただすけ、1537~1613・11月)で慶長6年(1601)上総国茂原5千石から2万石の抜擢を以て入封、江戸を衛る東海道の要所に大久保一族を配置したのは家康のこの一門に対するゆるぎない高い評価があったと思われます。

しかしながら家康の意向に反し忠佐には唯一の男子忠兼(ただかね、1599~1613・4月)が忠佐の死去する前に亡くなり忠佐の流れは忠佐の慶長18年(1613)の死去を以て無嗣断絶改易、翌年三枚橋城は軍事上の重要性がなくなり破却されます。

三枚橋城は破却後は駿府領に編入されたり幕府直轄地となったりして代官支配が続きますが164年後の安永6年(1777)に水野忠友(みずの・ただとも、1731~1802)が1万3千石の三河国大浜より2万石を以て沼津に封ぜられ3年後に旧三枚橋城跡地を縮小のうえ城郭を完成させ、初代忠友から8代忠敬(ただのり、1851~1907)まで支配が続き、新政府命により明治元年(1868)上総菊間藩に移封となり沼津藩は廃されます。


2023年10月17日追記

沼津市のホームページには下記のように説明がなされています。

『 三 枚 橋 城 跡

永禄3年(1560年)、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への侵入を招いた。西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の北条氏も武田氏に対抗して駿河に侵攻した。北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを広げた。

このころの武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城であった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いては、同心円上に囲む構造になっていた。築城時期については、「北条氏政書状」によると、天正7年(1579年)、武田勝頼が築城したとされている。

三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが、北条氏の戸倉城(清水町徳倉)で、武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。天正8年(1580年)には、武田氏と北条氏の水軍が内浦重須沖から千本浜沖の駿河湾で海戦を行なっている。

このような武田氏の駿河における拠点であった三枚橋城も、天正10年1582年に武田勝頼・信勝親子が天目さんで自害し武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松井忠次(松平泰親)が入場した。

以後、豊臣方の中村一栄が城主となったが、慶長6年(1601年)には徳川家康の家臣大久保忠佐が城主となり、2万石を与えられた。しかし、忠佐死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614)には廃城となった。』


『 沼 津 城 跡

三枚橋城廃城後の沼津は、代官支配となったが、安永6年(1777年)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。

水野家は、享保10年(1725年)忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして領地が没収されたが、徳川家康の生母の家柄であったため、大叔父である忠穀(ただよし)によって名跡相続が許され7千石が与えられた。その子忠友は出世し、沼津の地に城地を与えられて大名に復帰した彼は、田沼意次と手を結び、側用人から若年寄、老中となり、3万石に加増された。

2代目の忠成(ただあきら)も老中、老中首座となり、さらに2万石加増された。忠成の政治は、田沼と似て賄賂が幅を利かせているとして「水の出てもとの田沼となりにけり」と批判されたが、11代将軍家斉のもとで化政文化の花が開いた時期でもある。

忠成の後は、忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)と続き、忠良の時はペリー来航の頃で、領地に伊豆の白浜・稲取が含まれていたので海防警備に明け暮れている。忠誠は再び老中になっているが、第2次長州征伐の途次で病死し、次の忠敬(ただのりの時に明治維新になり、上総国菊間(千葉県市原市)に移送され、沼津は徳川宗家を継いだ徳川家達の府中藩の支配下に入りことになる。

沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城される。城の南北は現在の野村證券から静岡銀行沼津支店あたりで、大手門はうなぎの浜作本店あたりに造られ、本丸は中央公園辺りにあった。かつて三枚橋城の城内であった上土町や川郭町には、東海道が通じていた。ただ、三枚橋城と比べ規模は小さい。

明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872年)に城は県で競売に付し解体され、同22年(1889)、東海道線開通に伴い、南北に縦貫道路が設けられた。その後、沼津は2回の大火に遭い、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなった。』

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル
  • 沼津中央公園全景<br /><br />沼津城跡は現在は中央公園となっており、城跡のかけらさえ見いだされません。

    沼津中央公園全景

    沼津城跡は現在は中央公園となっており、城跡のかけらさえ見いだされません。

    三枚橋 沼津城跡 名所・史跡

  • 中央公園石碑

    中央公園石碑

  • 沼津城のあゆみ<br /><br />中央公園の片隅には沼津城説明板があります。

    沼津城のあゆみ

    中央公園の片隅には沼津城説明板があります。

  • 沼津城見取図<br /><br />沼津城は旧三枚橋城のほぼ北半分の城域に造られ、縄張は本丸の虎口に二の丸、二の丸の虎口に三の丸を配した防御性の高い梯郭式となっています。

    沼津城見取図

    沼津城は旧三枚橋城のほぼ北半分の城域に造られ、縄張は本丸の虎口に二の丸、二の丸の虎口に三の丸を配した防御性の高い梯郭式となっています。

  • 沼津城本丸址石碑

    沼津城本丸址石碑

  • 沼津城本丸石碑(近景)

    沼津城本丸石碑(近景)

  • 沼津城本丸跡説明板

    沼津城本丸跡説明板

  • 本丸跡風景

    本丸跡風景

  • 沼津城位置関係<br /><br />かつては狩野川を臨む東海道の要所にありました。

    沼津城位置関係

    かつては狩野川を臨む東海道の要所にありました。

  • 狩野川風景

    狩野川風景

  • 狩野川風景

    狩野川風景

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