沼津旅行記(ブログ) 一覧に戻る
いよいよ静岡県を西方に向かって歩きます。沼津宿~原宿を経てJR東田子の浦駅まで駿河湾の海も見ながら、白隠禅師を訪ねます。<br /><br />【沼津宿】<br />沼津宿は、12番目の宿場。これより駿河国。沼津は戦国時代に武田勝頼により城が築かれたのちに廃城になり、160年後に水野忠成が築城し、沼津藩となる。 <br />天保14年(1843年)頃の東海道宿村大概帳によると沼津宿の宿内家数は1,234軒、うち本陣3、脇本陣1、問屋場1、旅籠55軒で、宿内人口、<br /><br />【鎌倉幕府・源氏つながり】フォト9~12枚目<br />2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」物語関連の源平合戦、富士川の戦いに勝利した翌日、源頼朝と東北から駆けつけていた九郎義経が八幡神社で再会した。八幡神社境内には頼朝、義経二人の対面した時座した体面石があります。(駿東郡清水町)<br /><br /><br />関連旅行記<br />静岡県散策編:東海道の三嶋大社に参拝と日本百名水の柿田川湧水へ。伊豆の城ケ崎海岸ドライブ。<br />   https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10234812/  

東海道53次、No12 沼津宿(12)から原(間の宿)(13)を経て東田子の浦駅へ。源平合戦の源頼朝、九郎義経再会の八幡神社にも立ち寄り。

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2016/10/20 - 2016/10/20

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ムッシュ

ムッシュさん

いよいよ静岡県を西方に向かって歩きます。沼津宿~原宿を経てJR東田子の浦駅まで駿河湾の海も見ながら、白隠禅師を訪ねます。

【沼津宿】
沼津宿は、12番目の宿場。これより駿河国。沼津は戦国時代に武田勝頼により城が築かれたのちに廃城になり、160年後に水野忠成が築城し、沼津藩となる。 
天保14年(1843年)頃の東海道宿村大概帳によると沼津宿の宿内家数は1,234軒、うち本陣3、脇本陣1、問屋場1、旅籠55軒で、宿内人口、

【鎌倉幕府・源氏つながり】フォト9~12枚目
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」物語関連の源平合戦、富士川の戦いに勝利した翌日、源頼朝と東北から駆けつけていた九郎義経が八幡神社で再会した。八幡神社境内には頼朝、義経二人の対面した時座した体面石があります。(駿東郡清水町)


関連旅行記
静岡県散策編:東海道の三嶋大社に参拝と日本百名水の柿田川湧水へ。伊豆の城ケ崎海岸ドライブ。
   https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10234812/  

旅行の満足度
4.5

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  • 本日晴天。富士山もばっちり見えています。バスで出発地三島宿へ。

    本日晴天。富士山もばっちり見えています。バスで出発地三島宿へ。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五拾三次之内・三島『朝霧』広重画】<br /> 朝霧が出ている寒い早朝、箱根へ向かう旅人と四国へ向かう巡礼者を描いている。鳥居は三島大社。馬に乗っている人は飛脚とのこと。<br />  飛脚にも種類があり、良く知られているのが「継飛脚」。大量の荷物を毎月2日、12日、22日に運んでいたのが「三度飛脚」。これも徐々に荷物が増え、幕末には20度運ぶようになる。定期的に運んでいたので別名「定飛脚」とも云った。また、かぶっている笠は「三度笠」と呼ばれるようになった。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五拾三次之内・三島『朝霧』広重画】
     朝霧が出ている寒い早朝、箱根へ向かう旅人と四国へ向かう巡礼者を描いている。鳥居は三島大社。馬に乗っている人は飛脚とのこと。
      飛脚にも種類があり、良く知られているのが「継飛脚」。大量の荷物を毎月2日、12日、22日に運んでいたのが「三度飛脚」。これも徐々に荷物が増え、幕末には20度運ぶようになる。定期的に運んでいたので別名「定飛脚」とも云った。また、かぶっている笠は「三度笠」と呼ばれるようになった。

  • 【三嶋大社本殿・幣殿・拝殿・舞殿・神門・彫刻】 国・市指定建造物<br /> 三嶋大社の創建は明らかでないが、鎌倉時代(1192~1333)初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。<br /> 一遍聖絵の社頭と現在のそれとではかなり異なり、焼失記録を見ると、文永五年(1268)と永仁四年(1296)に焼け、また延亨元年(1744)と安政元年(1854)の地震で倒壊している。今の社殿は万延元年(1860)から明治 二年(1869)にかけて再建されたものである。<br /> 本殿は流れ造り(棟より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(木を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、棟には千木・鰹木をつけている。<br />拝殿は入母屋造(上部を切妻屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。<br /><br />両殿の間には軒下に納まるように相の間が造られている。<br />この建築の様式は権現造といわれる。全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さニ三m、 鬼瓦の高さ四mという豪壮なものである。<br /> 彫刻は、伊豆国名工小沢希道、駿河国名工後藤芳治良がそれぞれ門人とともに技を競い合って完成した傑作である。<br />     平成十六年三月 三島市教育委員会

    【三嶋大社本殿・幣殿・拝殿・舞殿・神門・彫刻】 国・市指定建造物
     三嶋大社の創建は明らかでないが、鎌倉時代(1192~1333)初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。
     一遍聖絵の社頭と現在のそれとではかなり異なり、焼失記録を見ると、文永五年(1268)と永仁四年(1296)に焼け、また延亨元年(1744)と安政元年(1854)の地震で倒壊している。今の社殿は万延元年(1860)から明治 二年(1869)にかけて再建されたものである。
     本殿は流れ造り(棟より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(木を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、棟には千木・鰹木をつけている。
    拝殿は入母屋造(上部を切妻屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。

    両殿の間には軒下に納まるように相の間が造られている。
    この建築の様式は権現造といわれる。全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さニ三m、 鬼瓦の高さ四mという豪壮なものである。
     彫刻は、伊豆国名工小沢希道、駿河国名工後藤芳治良がそれぞれ門人とともに技を競い合って完成した傑作である。
         平成十六年三月 三島市教育委員会

  • 【時の鐘】<br />源兵衛川沿いの三石神社境内に立つ。江戸時代に朝と夕に、時刻を知らせるために鳴らされていた。宿内に明け六つ(午前六時)、暮れ六つ(午後六時)の時。<br />現在は、脇を流れる源兵衛川のせせらぎを眺めながら休憩できる公園になっている。<br /><br />【時の鐘】 <br /> 三石神社の境内にあるこの鐘は、「時の鐘」と呼ばれ、江戸時代から町民に親しまれてきた。特に大きな鐘が宝暦11年(1761)に川原ヶ谷の鋳物師沼上氏によって造られ、三石神社境内に設置され、三島八景の一つにも数えられていました。<br /> 三島宿の人たちは、この鐘の音で時を知りました。しかし、第二次世界大戦時にはこの鐘も供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民の有志によって造られたものです。<br /> 時の鐘の存在は、当時の三島宿の賑わいを忍ばせるものとして、市民に親しまれています。<br />【源兵衛川】<br />源兵衛川は、富士山の伏流水が集められている楽寿園の小浜池に端を発し、室町時代に豪族寺尾源兵衛が、農業用水の為に作った灌漑用水路です。<br /><br />三石神社。ここの境内にある時の鐘は、宿場の人々に明け六つ、暮れ六つの時を知らせていた。<br />三石神社は、宝暦11年(1761年)の棟札が残っているが、文献によるとそれ以前よりここにあった様だ。源兵衛川の辺に三ツ石と呼ばれる大石があり、そこに社を設けたことから三石神社と呼ばれるようになった。<br />なお、三島の「み」は接頭語の御で、「島」は伊豆半島のことである。<br /><br />三島宿の時の鐘である。江戸時代宿場の人々に明け六つと暮れ六つの時を知らせた<br />右奥が三石神社そして、直ぐ左下を流れる川が源兵衛川<br /><br />この川の水が透き通っていて川の底まで丸見えであった。三島は富士山麓で湧水に恵まれたところ。柿田川の湧水群は有名だ<br /><br />

    【時の鐘】
    源兵衛川沿いの三石神社境内に立つ。江戸時代に朝と夕に、時刻を知らせるために鳴らされていた。宿内に明け六つ(午前六時)、暮れ六つ(午後六時)の時。
    現在は、脇を流れる源兵衛川のせせらぎを眺めながら休憩できる公園になっている。

    【時の鐘】 
     三石神社の境内にあるこの鐘は、「時の鐘」と呼ばれ、江戸時代から町民に親しまれてきた。特に大きな鐘が宝暦11年(1761)に川原ヶ谷の鋳物師沼上氏によって造られ、三石神社境内に設置され、三島八景の一つにも数えられていました。
     三島宿の人たちは、この鐘の音で時を知りました。しかし、第二次世界大戦時にはこの鐘も供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民の有志によって造られたものです。
     時の鐘の存在は、当時の三島宿の賑わいを忍ばせるものとして、市民に親しまれています。
    【源兵衛川】
    源兵衛川は、富士山の伏流水が集められている楽寿園の小浜池に端を発し、室町時代に豪族寺尾源兵衛が、農業用水の為に作った灌漑用水路です。

    三石神社。ここの境内にある時の鐘は、宿場の人々に明け六つ、暮れ六つの時を知らせていた。
    三石神社は、宝暦11年(1761年)の棟札が残っているが、文献によるとそれ以前よりここにあった様だ。源兵衛川の辺に三ツ石と呼ばれる大石があり、そこに社を設けたことから三石神社と呼ばれるようになった。
    なお、三島の「み」は接頭語の御で、「島」は伊豆半島のことである。

    三島宿の時の鐘である。江戸時代宿場の人々に明け六つと暮れ六つの時を知らせた
    右奥が三石神社そして、直ぐ左下を流れる川が源兵衛川

    この川の水が透き通っていて川の底まで丸見えであった。三島は富士山麓で湧水に恵まれたところ。柿田川の湧水群は有名だ

  • 源兵衛川にかかる源兵衛橋は『源兵衛白旗橋』とも呼ばれて江戸時代に駿豆五色橋の1つに数えられていた橋で、三島市には他に青木橋・赤橋があり、<br />沼津市には黒瀬橋・黄瀬川橋があるのだと。

    源兵衛川にかかる源兵衛橋は『源兵衛白旗橋』とも呼ばれて江戸時代に駿豆五色橋の1つに数えられていた橋で、三島市には他に青木橋・赤橋があり、
    沼津市には黒瀬橋・黄瀬川橋があるのだと。

  • 三島広小路駅と修善寺線電車。<br /><br />【三島宿について】<br />三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。慶長6年(1601)徳川家康 は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿 は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。<br />また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。三島宿は初代安藤広重 の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています」

    三島広小路駅と修善寺線電車。

    【三島宿について】
    三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。慶長6年(1601)徳川家康 は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿 は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。
    また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。三島宿は初代安藤広重 の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています」

  • 【千貫樋】<br />清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を、清水町にかんがい用水として送水するために、境川に架設されている掛樋です。<br />現在の千貫樋は鉄筋コンクリート製ですが、樋が、大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊する以前は、木造で、全長45.0m、深さ0.45m、幅1.8m、高さ4.5mでした。<br />なお、再建された現在の樋は、全長42.7m、深さ0.45m、幅1.9m、高さ4.2mで、従来のものと、ほぼ同規模です。<br />この樋を架設した経緯は諸説ありますが、天文24年(1555年)に、今川、武田、北条の三氏が和睦した際に、北条氏康から今川氏真に婿への引出物として楽寿園小浜池から長堤を築き、その水を駿河の今川領に送水したというのが一般的です。<br /><br />【千貫樋】<br />千貫樋(せんがんどい)は伊豆、駿河の国境の境川の上4mのところを横切って架けられている水を通す樋のことである。長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm。<br />天文24年(1555年)、今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に引き出物として、水の豊富な小浜池から、長堤を築き、その水を駿河に疎通させたことが始まり。<br />この疎水により、駿河の新宿、玉川、伏見、八幡、長澤、柿田等200石(130ha)の田を潤したとのこと。<br />樋は木で出来ていたが、はコンクリート製となっている。 <br />

    【千貫樋】
    清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を、清水町にかんがい用水として送水するために、境川に架設されている掛樋です。
    現在の千貫樋は鉄筋コンクリート製ですが、樋が、大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊する以前は、木造で、全長45.0m、深さ0.45m、幅1.8m、高さ4.5mでした。
    なお、再建された現在の樋は、全長42.7m、深さ0.45m、幅1.9m、高さ4.2mで、従来のものと、ほぼ同規模です。
    この樋を架設した経緯は諸説ありますが、天文24年(1555年)に、今川、武田、北条の三氏が和睦した際に、北条氏康から今川氏真に婿への引出物として楽寿園小浜池から長堤を築き、その水を駿河の今川領に送水したというのが一般的です。

    【千貫樋】
    千貫樋(せんがんどい)は伊豆、駿河の国境の境川の上4mのところを横切って架けられている水を通す樋のことである。長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm。
    天文24年(1555年)、今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に引き出物として、水の豊富な小浜池から、長堤を築き、その水を駿河に疎通させたことが始まり。
    この疎水により、駿河の新宿、玉川、伏見、八幡、長澤、柿田等200石(130ha)の田を潤したとのこと。
    樋は木で出来ていたが、はコンクリート製となっている。 

  • 【常夜灯】<br />千貫樋交差点を過ぎると新宿に入り、右手に弘化3年(1846)建立の常夜燈がある。笠石には秋葉大権現、富士浅間宮と刻まれている。<br />駿河では地元の火の神様、秋葉神社信仰と結びつき、他の土地に比べ、特に多く設置されている様である。<br /><br />【常夜灯】 <br />建立は、弘化三年(1846)で、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれています。いずれも火を鎮める神様です。名主をはじめ村人が防災の願いを込めて造ったものです。<br />  最初は、ここの筋向いの旧東海道の十字路の隅に立っていました。一時、耕地整理(昭和三年~同二十六年完了)に伴い氏神の地方神社に移されていましたが、東海道400年祭を記念して平成13年7月に現在地に移築されました。均整のとれた美しい姿の石灯篭です。防災、村内安全とともに東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたことでしょう。    清水町教育委員会<br /><br />  

    【常夜灯】
    千貫樋交差点を過ぎると新宿に入り、右手に弘化3年(1846)建立の常夜燈がある。笠石には秋葉大権現、富士浅間宮と刻まれている。
    駿河では地元の火の神様、秋葉神社信仰と結びつき、他の土地に比べ、特に多く設置されている様である。

    【常夜灯】 
    建立は、弘化三年(1846)で、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれています。いずれも火を鎮める神様です。名主をはじめ村人が防災の願いを込めて造ったものです。
      最初は、ここの筋向いの旧東海道の十字路の隅に立っていました。一時、耕地整理(昭和三年~同二十六年完了)に伴い氏神の地方神社に移されていましたが、東海道400年祭を記念して平成13年7月に現在地に移築されました。均整のとれた美しい姿の石灯篭です。防災、村内安全とともに東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたことでしょう。    清水町教育委員会

      

  • 三島宿と沼津宿の境。

    三島宿と沼津宿の境。

  • 一里塚の名前は【伏見一里塚】といって江戸から29番目(114km)の一里塚。<br />京都に向かって左側が宝池寺一里塚(このフォト)、右側を玉井寺一里塚(次ぎのフォト)。それぞれお寺の境内にあったのでそう呼ばれた。玉井寺の一里塚は、当時のままですが、宝井側は、昭和60年に原寸で復元された。<br />江戸時代は、立場があり、休憩所としてにぎわった。<br />秋葉神社は静岡県西部の秋葉山(標高870m)の山頂にあり、火之迦具土(ひのかぐつち)神が祭神で、火難除け(火伏せ)の神として広く信仰される。<br />一里塚は、道の両側に5間(9m)四方に?尺(3m)の盛り土をして、榎や松を植えたものである。<br /><br />	<br />【一里塚】 所在 清水町伏見玉井寺境内<br /> この一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。<br /> なお、向かいの宝池寺にも一里塚があるが、こちらは原形を改修してある。<br />                     清水町教育委員会<br /><br />「一六〇四年(慶長九)江戸時代、一里を三十六町(三九二七m)と定め、江戸日本橋を起点とし、一里ごとに道の両側に塚を築かせ道標としました。 <br />向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に「伏見一里塚」といわれ、江戸日本橋から二十九番目にあたります。 <br />長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたので、昭和六十年多くの篤志により原寸どおり復元されました。 <br /> また、宝池寺側には立場があり、人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であったと伝えられています。」

    一里塚の名前は【伏見一里塚】といって江戸から29番目(114km)の一里塚。
    京都に向かって左側が宝池寺一里塚(このフォト)、右側を玉井寺一里塚(次ぎのフォト)。それぞれお寺の境内にあったのでそう呼ばれた。玉井寺の一里塚は、当時のままですが、宝井側は、昭和60年に原寸で復元された。
    江戸時代は、立場があり、休憩所としてにぎわった。
    秋葉神社は静岡県西部の秋葉山(標高870m)の山頂にあり、火之迦具土(ひのかぐつち)神が祭神で、火難除け(火伏せ)の神として広く信仰される。
    一里塚は、道の両側に5間(9m)四方に?尺(3m)の盛り土をして、榎や松を植えたものである。


    【一里塚】 所在 清水町伏見玉井寺境内
     この一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。
     なお、向かいの宝池寺にも一里塚があるが、こちらは原形を改修してある。
                         清水町教育委員会

    「一六〇四年(慶長九)江戸時代、一里を三十六町(三九二七m)と定め、江戸日本橋を起点とし、一里ごとに道の両側に塚を築かせ道標としました。
    向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に「伏見一里塚」といわれ、江戸日本橋から二十九番目にあたります。
    長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたので、昭和六十年多くの篤志により原寸どおり復元されました。
     また、宝池寺側には立場があり、人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であったと伝えられています。」

  • 【玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚】<br />江戸時代には立場があり人夫が籠を止めて休憩できた。<br /><br />「江戸から二十九里(一一三・九km)を示す道標です。 <br />一里塚は、慶長九年(一六〇四)江戸幕府によって五街道(東海・中仙・日光・甲州・奥州)に作られました。 それは、一里(三九二七m)ごと、道の両側に五間(約九m)四方に十尺(三・〇三m)の盛土をし「えのき」あるいは「松」を植え、旅人に里程を知らせる他便宜を計りました。 <br />宝池寺一里塚も同時に作られましたが、昭和六十年(一九八五)に改修されています。 この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しています。 付記 塚原一里塚は二十八里  山王さんのものは三十里を示す。」

    【玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚】
    江戸時代には立場があり人夫が籠を止めて休憩できた。

    「江戸から二十九里(一一三・九km)を示す道標です。
    一里塚は、慶長九年(一六〇四)江戸幕府によって五街道(東海・中仙・日光・甲州・奥州)に作られました。 それは、一里(三九二七m)ごと、道の両側に五間(約九m)四方に十尺(三・〇三m)の盛土をし「えのき」あるいは「松」を植え、旅人に里程を知らせる他便宜を計りました。
    宝池寺一里塚も同時に作られましたが、昭和六十年(一九八五)に改修されています。 この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しています。 付記 塚原一里塚は二十八里  山王さんのものは三十里を示す。」

  • 【玉井寺】<br />玉井寺山門の山号金龍山は臨済宗中興の祖と云われた高僧白隠の遺墨です。<br />玉井寺は昭和50年代まで荒廃に任せるままであったという。<br />昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されている。<br />百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。<br />元亀2年(1571年)創建という古寺。

    【玉井寺】
    玉井寺山門の山号金龍山は臨済宗中興の祖と云われた高僧白隠の遺墨です。
    玉井寺は昭和50年代まで荒廃に任せるままであったという。
    昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されている。
    百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。
    元亀2年(1571年)創建という古寺。

  • 源頼朝、九郎義経が、富士川の合戦に勝利した翌日に、この八幡神社で再会

    源頼朝、九郎義経が、富士川の合戦に勝利した翌日に、この八幡神社で再会

  • 【八幡神社】鎌倉幕府・源氏つながり<br />その目印は、歴史上の有名な場面、源頼朝・義経兄弟対面石、参道は200mもあって長い。<br />治承4年(1180年)、頼朝挙兵の報に、奥州平泉より駆けつけた義経がここで始めて頼朝と対面したところだ。境内には、その時、二人が腰掛けたという伝説を持つ一対の石が残されている。<br />神社入口に「対面石 頼朝義経兄弟 八幡神社」と大きく書かれた案内標識。<br />富士川で平家軍に大勝した源頼朝が、黄瀬川宿に陣取っていたところ、奥州から義経が駆けつけ、二人涙の対面を果たしたというもの。

    【八幡神社】鎌倉幕府・源氏つながり
    その目印は、歴史上の有名な場面、源頼朝・義経兄弟対面石、参道は200mもあって長い。
    治承4年(1180年)、頼朝挙兵の報に、奥州平泉より駆けつけた義経がここで始めて頼朝と対面したところだ。境内には、その時、二人が腰掛けたという伝説を持つ一対の石が残されている。
    神社入口に「対面石 頼朝義経兄弟 八幡神社」と大きく書かれた案内標識。
    富士川で平家軍に大勝した源頼朝が、黄瀬川宿に陣取っていたところ、奥州から義経が駆けつけ、二人涙の対面を果たしたというもの。

  • 【八幡神社本殿】鎌倉幕府・源氏つながり<br />富士川の合戦に勝利した頼朝は直ちに京都に上ろうとしましたが、東国の統一が先決であるという千葉常胤らの進言で上洛を断念して、黄瀬川宿に入った頼朝を九郎義経が訪れ、過ぎし日のことなどを語り喜びあいました処<br /><br />社名からわかるとおり、神明神社と八幡神社を合祀した神社。境内入口には、「神明」と「八幡」の社号が併記された社号標が建っている。<br /><br />当社は、式内社・文梨神社の論社の一つ。鎮座地の江梨を「えなし」と書き、<br />「え」と「文」の文字の類似から文梨と記されたとする説があり<br /><br />拝殿。<br />1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。<br />翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と<br />涙の対面を果たしている。その時、頼朝によって勧請されたのが、この八幡神社だともいわれているが、創建年は定かではない。<br />祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。<br /><br />

    【八幡神社本殿】鎌倉幕府・源氏つながり
    富士川の合戦に勝利した頼朝は直ちに京都に上ろうとしましたが、東国の統一が先決であるという千葉常胤らの進言で上洛を断念して、黄瀬川宿に入った頼朝を九郎義経が訪れ、過ぎし日のことなどを語り喜びあいました処

    社名からわかるとおり、神明神社と八幡神社を合祀した神社。境内入口には、「神明」と「八幡」の社号が併記された社号標が建っている。

    当社は、式内社・文梨神社の論社の一つ。鎮座地の江梨を「えなし」と書き、
    「え」と「文」の文字の類似から文梨と記されたとする説があり

    拝殿。
    1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。
    翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と
    涙の対面を果たしている。その時、頼朝によって勧請されたのが、この八幡神社だともいわれているが、創建年は定かではない。
    祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。

  • 【対面石】鎌倉幕府・源氏つながり<br />これが、本殿左裏にある頼朝・義経の対面石です。<br />所在 清水町八幡 八幡神社境内<br />治承四年(1180年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてき時、<br />鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。<br />この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。<br />またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。<br />                       清水町教育委員会

    【対面石】鎌倉幕府・源氏つながり
    これが、本殿左裏にある頼朝・義経の対面石です。
    所在 清水町八幡 八幡神社境内
    治承四年(1180年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてき時、
    鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。
    この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。
    またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。
                           清水町教育委員会

  • 【黄瀬」この川を渡ると沼津市に入ります。<br />黄瀬川宿は旧東海道の要衝で、頼朝はここで二度陣を布いています。 一度目は維盛を総大将とする平家軍との富士川合戦です。この合戦に勝利した頼朝は上洛せずに東国を固めることを決意し、黄瀬川に戻って宿とします。<br />そこへ義経が奥州平泉から駆けつけ頼朝と涙ながらに対面した逸話はよく知られています。<br />ともに平治の乱で非業の死を遂げた源義朝を父とする兄弟、その時、兄弟が腰掛けたといわれる対面石が八幡神社境内北側にあります。<br /><br />黄瀬川は、狩野川に合流し、駿河湾に流れ込んでいる。以前は木瀬川と書かれていたとのこ

    【黄瀬」この川を渡ると沼津市に入ります。
    黄瀬川宿は旧東海道の要衝で、頼朝はここで二度陣を布いています。 一度目は維盛を総大将とする平家軍との富士川合戦です。この合戦に勝利した頼朝は上洛せずに東国を固めることを決意し、黄瀬川に戻って宿とします。
    そこへ義経が奥州平泉から駆けつけ頼朝と涙ながらに対面した逸話はよく知られています。
    ともに平治の乱で非業の死を遂げた源義朝を父とする兄弟、その時、兄弟が腰掛けたといわれる対面石が八幡神社境内北側にあります。

    黄瀬川は、狩野川に合流し、駿河湾に流れ込んでいる。以前は木瀬川と書かれていたとのこ

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五拾三次之内・沼津『黄昏圖』広重画】<br />黄昏どき、狩野川沿いに沼津宿へ向かう旅人を描いている。<br />天狗の面を背負っているのは、金毘羅参りに行く人である。<br />月が出ている五拾三次は、この絵だけである。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五拾三次之内・沼津『黄昏圖』広重画】
    黄昏どき、狩野川沿いに沼津宿へ向かう旅人を描いている。
    天狗の面を背負っているのは、金毘羅参りに行く人である。
    月が出ている五拾三次は、この絵だけである。

  • 日本三大仇討ち(曽我兄弟・赤穂義士)のひとつ荒木又右衛門の鍵の辻に由来する浄瑠璃「伊賀越道中双六沼津の段」に登場する平作ゆかりの地蔵尊です。<br />寛永11年(1634)伊賀上野鍵屋の辻で荒木又右衛門は妻の弟渡辺数馬を助け、数馬の弟の仇の河合又五郎を討ち本懐を遂げました。<br /><br />【日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来】<br /> この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる、沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。<br /> 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ自分は旅人の荷担ぎを業としてい居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫渡辺数馬の為に、平作は自害してその居場所を聞き出す。<br />~沼津千本の場面~<br /> 平作決心して自害し、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」と申します。<br /> 十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。<br /> 「仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田で逢うたと人の噂」と浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。<br /> 平作のおかげで数馬の義兄、荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討ちの本懐を遂げることが出来、平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。<br /> 現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め、例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。             山王前自治会<br /><br />狩野川のコンクリート製の堤防の下、黒瀬橋の袂にあったのが『平蔵地蔵尊』。<br />歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つであると。

    日本三大仇討ち(曽我兄弟・赤穂義士)のひとつ荒木又右衛門の鍵の辻に由来する浄瑠璃「伊賀越道中双六沼津の段」に登場する平作ゆかりの地蔵尊です。
    寛永11年(1634)伊賀上野鍵屋の辻で荒木又右衛門は妻の弟渡辺数馬を助け、数馬の弟の仇の河合又五郎を討ち本懐を遂げました。

    【日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来】
     この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる、沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
     地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ自分は旅人の荷担ぎを業としてい居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫渡辺数馬の為に、平作は自害してその居場所を聞き出す。
    ~沼津千本の場面~
     平作決心して自害し、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」と申します。
     十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。
     「仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田で逢うたと人の噂」と浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。
     平作のおかげで数馬の義兄、荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討ちの本懐を遂げることが出来、平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。
     現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め、例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。             山王前自治会

    狩野川のコンクリート製の堤防の下、黒瀬橋の袂にあったのが『平蔵地蔵尊』。
    歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つであると。

  • 【兵作地蔵尊】<br />ここは、狩野川沿いの黒瀬橋下にある、平作地蔵尊。<br />浄瑠璃では、地蔵尊のあるところに平作なる者が営む茶屋があり、平作は娘(渡辺数馬の妻)の仇でもある河合又五郎の居場所を一命にかえて旅人から聞き出した。<br />平作爺さんの義侠心に心打たれ、茶屋のあったところに碑を立て地蔵尊を建立。<br /><br />近松半二の人形浄瑠璃「伊賀越道中双六」沼津段に登場する高齢の雲助平作が、2歳で手放した子供呉服屋十兵衛と26年ぶりに再会するが、今は敵味方の立場であった。平作は十兵衛より、命を捨てて、娘お米の愛人志津馬(渡辺数馬)の父の仇沢井股五郎(河合又五郎)の在所を聞き出して行く。

    【兵作地蔵尊】
    ここは、狩野川沿いの黒瀬橋下にある、平作地蔵尊。
    浄瑠璃では、地蔵尊のあるところに平作なる者が営む茶屋があり、平作は娘(渡辺数馬の妻)の仇でもある河合又五郎の居場所を一命にかえて旅人から聞き出した。
    平作爺さんの義侠心に心打たれ、茶屋のあったところに碑を立て地蔵尊を建立。

    近松半二の人形浄瑠璃「伊賀越道中双六」沼津段に登場する高齢の雲助平作が、2歳で手放した子供呉服屋十兵衛と26年ぶりに再会するが、今は敵味方の立場であった。平作は十兵衛より、命を捨てて、娘お米の愛人志津馬(渡辺数馬)の父の仇沢井股五郎(河合又五郎)の在所を聞き出して行く。

  • 【沼津一里塚】<br />沼津の一里塚跡がある。江戸より29里(116km)である。<br />その前にある大小の石柱(大は縦189cm、小は112cm)は古墳時代(今から1200~1300年前)の石で、この石に付いている数条の直線状の溝を利用して玉類を磨いたという。2つの玉砥ぎいし。<br />この辺りは古代の駿河国駿河郡(現在の駿東郡)玉造郷と考えられている。狩野川を挟んで反対側の黒瀬橋袂には今でも玉造神社がある。<br /><br />「この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺および宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。<br />江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。<br />ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに<br />植えられています。」

    【沼津一里塚】
    沼津の一里塚跡がある。江戸より29里(116km)である。
    その前にある大小の石柱(大は縦189cm、小は112cm)は古墳時代(今から1200~1300年前)の石で、この石に付いている数条の直線状の溝を利用して玉類を磨いたという。2つの玉砥ぎいし。
    この辺りは古代の駿河国駿河郡(現在の駿東郡)玉造郷と考えられている。狩野川を挟んで反対側の黒瀬橋袂には今でも玉造神社がある。

    「この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺および宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。
    江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。
    ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに
    植えられています。」

  • 【玉砥石】<br />今から1200~1300年前に作られた玉を磨くための石。<br />古代、沼津地域は玉造郷と呼ばれ、装身具の玉類を製作していたと伝えられる。一里塚公園には大小2個の玉砥石があり、表面には玉を磨いた痕跡が残り、狩野川対岸には玉造神社がある。<br /><br />【玉砥石(たまといし)】 静岡県指定考古資料(昭和32年5月指定)<br />古墳時代  高さ:大砥石189cm、小砥石112cm<br />  玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられています。柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。<br />  承平年間(931~938)に書かれた和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という書物には、駿河国駿河郡(現在の駿東郡)に玉造郷の名が見えます。この玉造郷は、一説では香貫地区一帯であったとされています。この説を支える根拠としては、狩野川対岸にある玉造神社、玉砥石が使われていたと考えられる時代の大集落である御幸町遺跡や藤井原遺跡があります。また、この付近には古墳が多く、各種の玉類を数多く出土しています。しかし、香貫地区一帯が玉造郷であるという確かな証拠は、今のところ得られていません。<br />  この玉砥石がいつから東海道の日枝神社参道脇のこの地にあるかは明らかではありませんが、天明六年(1786)尾張藩主高力猿猴庵による見聞図集にはそれらしい大石が描かれています。<br />  玉砥石は静岡県下では他に発見されておらず、貴重なものであることは確かであり、静岡県指定の考古資料となっています。<br />                   平成十一年二月 沼津市教育委員会 <br />

    【玉砥石】
    今から1200~1300年前に作られた玉を磨くための石。
    古代、沼津地域は玉造郷と呼ばれ、装身具の玉類を製作していたと伝えられる。一里塚公園には大小2個の玉砥石があり、表面には玉を磨いた痕跡が残り、狩野川対岸には玉造神社がある。

    【玉砥石(たまといし)】 静岡県指定考古資料(昭和32年5月指定)
    古墳時代  高さ:大砥石189cm、小砥石112cm
      玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられています。柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。
      承平年間(931~938)に書かれた和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という書物には、駿河国駿河郡(現在の駿東郡)に玉造郷の名が見えます。この玉造郷は、一説では香貫地区一帯であったとされています。この説を支える根拠としては、狩野川対岸にある玉造神社、玉砥石が使われていたと考えられる時代の大集落である御幸町遺跡や藤井原遺跡があります。また、この付近には古墳が多く、各種の玉類を数多く出土しています。しかし、香貫地区一帯が玉造郷であるという確かな証拠は、今のところ得られていません。
      この玉砥石がいつから東海道の日枝神社参道脇のこの地にあるかは明らかではありませんが、天明六年(1786)尾張藩主高力猿猴庵による見聞図集にはそれらしい大石が描かれています。
      玉砥石は静岡県下では他に発見されておらず、貴重なものであることは確かであり、静岡県指定の考古資料となっています。
                       平成十一年二月 沼津市教育委員会 

  • 【川郭通り】<br />川廓町は沼津城外廓と狩野川に挟まれた狭い町。<br /><br />狩野川は、架橋されておらず、渡船で往来していた。伊豆地方の物産を江戸へ輸送する港としても重要な役割を果たした。狩野川には船高札場があり、江戸廻しの船は四艘有った。川廓町から江尻(清水)へ行く船もはっちゃくしていた。

    【川郭通り】
    川廓町は沼津城外廓と狩野川に挟まれた狭い町。

    狩野川は、架橋されておらず、渡船で往来していた。伊豆地方の物産を江戸へ輸送する港としても重要な役割を果たした。狩野川には船高札場があり、江戸廻しの船は四艘有った。川廓町から江尻(清水)へ行く船もはっちゃくしていた。

  • 『川廓通り』<br />「城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画をなす「くるわ(曲輪・郭・廓)」が由来となった「川廓通り」は、その名のとおり東側は狩野川に面し、背後は沼津城(元三枚橋城)の外廓にあたる東海道として形成されてきた。<br />川廓通りは、狩野川に舟運が開かれていた頃の舟着き場に隣接するなど、物資や人々の交流が盛んであり、江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心的な地域に位置していました。現在の川廓通りは当時の東海道沼津宿の面影を残そうと昭和30年代まであったとされる石垣をイメージしれ整備されました。」

    『川廓通り』
    「城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画をなす「くるわ(曲輪・郭・廓)」が由来となった「川廓通り」は、その名のとおり東側は狩野川に面し、背後は沼津城(元三枚橋城)の外廓にあたる東海道として形成されてきた。
    川廓通りは、狩野川に舟運が開かれていた頃の舟着き場に隣接するなど、物資や人々の交流が盛んであり、江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心的な地域に位置していました。現在の川廓通りは当時の東海道沼津宿の面影を残そうと昭和30年代まであったとされる石垣をイメージしれ整備されました。」

  • 【沼津城本丸跡の石垣】が残る。<br />武田軍が築城した三枚橋城の石垣の遺構。現在は東急ホテルが立つ。<br />武田勝頼が築城した三枚橋城廃城後、安永6年(1777年)沼津藩主になった水野忠成により、跡地に沼津城が築城された。<br />「沼津城本丸跡」の石碑があった。<br />武田勝頼が小田原の北条氏に備えて築いたと言われる三枚橋城は、慶長19年(1614年)に一度廃城となった。<br />安永6年(1777年)になって水野忠友が三河国大沼から転封となり、三枚橋城跡に沼津城(2万石、後5万石)を再建した。<br /><br />元禄1年(1688年)の沼津宿絵図によると、この先本町、下本町を中心に、本陣2、脇本陣4、旅籠78軒、家数1234軒、宿内人別5346人とある。

    【沼津城本丸跡の石垣】が残る。
    武田軍が築城した三枚橋城の石垣の遺構。現在は東急ホテルが立つ。
    武田勝頼が築城した三枚橋城廃城後、安永6年(1777年)沼津藩主になった水野忠成により、跡地に沼津城が築城された。
    「沼津城本丸跡」の石碑があった。
    武田勝頼が小田原の北条氏に備えて築いたと言われる三枚橋城は、慶長19年(1614年)に一度廃城となった。
    安永6年(1777年)になって水野忠友が三河国大沼から転封となり、三枚橋城跡に沼津城(2万石、後5万石)を再建した。

    元禄1年(1688年)の沼津宿絵図によると、この先本町、下本町を中心に、本陣2、脇本陣4、旅籠78軒、家数1234軒、宿内人別5346人とある。

  • 『沼津日枝神社(山王宮)』の芭蕉句碑<br />『都出て 神も旅寝の 日数哉(かな)』。<br />この句は元禄4年(1691)の10月に沼津宿で詠まれたものであると。

    『沼津日枝神社(山王宮)』の芭蕉句碑
    『都出て 神も旅寝の 日数哉(かな)』。
    この句は元禄4年(1691)の10月に沼津宿で詠まれたものであると。

  • 【乗運寺正門】<br />京都知恩院の末寺で、天正8年(1580年)の開基。若山牧水の墓があることで知られている。<br />若山牧水は大正9年(1920年)に沼津に移り住み、昭和3年にこの地で没したとのこと。<br /><br />【千本山乗運寺】<br />静岡県 沼津市本字出口町に境内を構えている浄土宗の寺院です。<br />乗運寺の創建は室町時代後期の天文6年(1537)、増誉長円上人(比叡山延暦寺阿闍梨乗運の法弟)が草庵を建てたのが始まりと伝えられています。増誉は読経をしながら松の苗を植え続け住民の潮風被害を防ごうとした人物とされ草庵も住民達が行いと徳を称え建てたものと伝えられています(当初の千本松原は天正8年:1580に発生した武田と北条の千本浜の合戦の兵火により焼失、又は本陣を構える為伐採されたとされ、現在見られる松林は増誉上人が植樹したものとされます)。<br />当初は成鳴寺と称していましたが天正8年(1580)に寺院として開基し乗運寺に改称、沼津城(当時は三枚橋城)の城主である松平康親が天正11年(1583)に北条家との戦いの最中に城内で死去(享年63歳。法名:空閑院殿厳誉豊月崇輝大居士)すると菩提寺である当寺に葬られています。<br />安永6年(1777)に水野忠友が当地に移封となり沼津藩を立藩すると乗運寺が水野家の領内菩提寺として指定され寺運が隆盛しました。<br />昭和3年(1928)に沼津で死去した若山牧水(戦前日本の歌人)は乗運寺に葬られて墓碑が建立されています。昭和20年(1945)の太平洋戦争の戦災により多くの堂宇が焼失しましたが昭和40年(1965)には本堂が再建されています。本堂は木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行6間半、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山号:千本山。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

    【乗運寺正門】
    京都知恩院の末寺で、天正8年(1580年)の開基。若山牧水の墓があることで知られている。
    若山牧水は大正9年(1920年)に沼津に移り住み、昭和3年にこの地で没したとのこと。

    【千本山乗運寺】
    静岡県 沼津市本字出口町に境内を構えている浄土宗の寺院です。
    乗運寺の創建は室町時代後期の天文6年(1537)、増誉長円上人(比叡山延暦寺阿闍梨乗運の法弟)が草庵を建てたのが始まりと伝えられています。増誉は読経をしながら松の苗を植え続け住民の潮風被害を防ごうとした人物とされ草庵も住民達が行いと徳を称え建てたものと伝えられています(当初の千本松原は天正8年:1580に発生した武田と北条の千本浜の合戦の兵火により焼失、又は本陣を構える為伐採されたとされ、現在見られる松林は増誉上人が植樹したものとされます)。
    当初は成鳴寺と称していましたが天正8年(1580)に寺院として開基し乗運寺に改称、沼津城(当時は三枚橋城)の城主である松平康親が天正11年(1583)に北条家との戦いの最中に城内で死去(享年63歳。法名:空閑院殿厳誉豊月崇輝大居士)すると菩提寺である当寺に葬られています。
    安永6年(1777)に水野忠友が当地に移封となり沼津藩を立藩すると乗運寺が水野家の領内菩提寺として指定され寺運が隆盛しました。
    昭和3年(1928)に沼津で死去した若山牧水(戦前日本の歌人)は乗運寺に葬られて墓碑が建立されています。昭和20年(1945)の太平洋戦争の戦災により多くの堂宇が焼失しましたが昭和40年(1965)には本堂が再建されています。本堂は木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行6間半、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山号:千本山。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

  • 【千本山乗運寺本堂】<br />増誉上人ゆかりの乗運寺は、沼津城主水野氏の菩提寺である。<br />千本松原”と深い歴史と繋がりを持つ静岡県沼津市にある千本山「乗運寺」<br />伝えられるところによると、合戦によって荒れはてたこの地に、旅の僧(長円)がやって来て、土地の人々が潮風の害に苦しんでいる姿を見て、お経を唱えながら松苗を植え続けたという。人々はこの長円の行いとその徳をたたえ、草庵を建ててそこに住んでもらうようにした。 時に天文6年(1537年)という。庵は初め成鳴寺と称したが、乗運寺と変わり、現在に至っている。<br /><br />【増譽上人】<br />  当山の開山増譽上人長円は、比叡山延暦寺阿闇梨乗運公の弟で、山城国に生まれ、知恩院にて学を修めたのち、諸国を行脚し当地に至ると、海岸の松原が戦乱により荒廃し、住民は潮風の害を受け苦しんでいた。上人は、松原の復元を発願し、松苗を一本植えるごとに阿弥陀経を誦し、辛苦の末ついに一千本の松を植える悲願を達成しました。これが今日の千本松原の基となり、人々は増譽上人の徳業に感謝し庵を建立しました。天文六年(1537)千本山乗雲寺の草創です。<br /><br /> 天正八年(1580)十二月二十日遷化 享年八十九歳

    【千本山乗運寺本堂】
    増誉上人ゆかりの乗運寺は、沼津城主水野氏の菩提寺である。
    千本松原”と深い歴史と繋がりを持つ静岡県沼津市にある千本山「乗運寺」
    伝えられるところによると、合戦によって荒れはてたこの地に、旅の僧(長円)がやって来て、土地の人々が潮風の害に苦しんでいる姿を見て、お経を唱えながら松苗を植え続けたという。人々はこの長円の行いとその徳をたたえ、草庵を建ててそこに住んでもらうようにした。 時に天文6年(1537年)という。庵は初め成鳴寺と称したが、乗運寺と変わり、現在に至っている。

    【増譽上人】
      当山の開山増譽上人長円は、比叡山延暦寺阿闇梨乗運公の弟で、山城国に生まれ、知恩院にて学を修めたのち、諸国を行脚し当地に至ると、海岸の松原が戦乱により荒廃し、住民は潮風の害を受け苦しんでいた。上人は、松原の復元を発願し、松苗を一本植えるごとに阿弥陀経を誦し、辛苦の末ついに一千本の松を植える悲願を達成しました。これが今日の千本松原の基となり、人々は増譽上人の徳業に感謝し庵を建立しました。天文六年(1537)千本山乗雲寺の草創です。

     天正八年(1580)十二月二十日遷化 享年八十九歳

  • 本堂前の前庭<br />本堂。<br />創建は天文6年(1537年)、浄土宗京都知恩院の末寺。<br />北条と武田との争いで千本松原が切り払われ潮風の害に苦しんでいる土地の人々を見て、増誉(ぞうよ)上人がお経を唱えながら植林をして松原を復旧したと伝わる。

    本堂前の前庭
    本堂。
    創建は天文6年(1537年)、浄土宗京都知恩院の末寺。
    北条と武田との争いで千本松原が切り払われ潮風の害に苦しんでいる土地の人々を見て、増誉(ぞうよ)上人がお経を唱えながら植林をして松原を復旧したと伝わる。

  • 乗運寺の庭。きれいに手入れされている。

    乗運寺の庭。きれいに手入れされている。

  • 酒と旅をこよなく愛した【漂白の詩人若山牧水の墓所】 乗運寺の境内にある。<br />牧水は、大正九年(1920)から沼津に住み、創作の他、雑誌創刊など精力的に詩歌の発展に尽力した。昭和三年(1928)に没した。<br />千本松原を愛し、この地に没した歌人・若山牧水は、当山墓地に静かに眠っています。<br /><br />『若山牧水(妻・喜志子、長男・旅人)の墓』。<br />墓前の歌碑は、喜志子十三回忌の法要の際に、長男旅人によって建立されたもの。<br />左手に牧水、右手に妻・喜志子の作の短歌が詠まれています。<br />「聞きゐつつたのしくもあるか松風の今は夢ともうつつともきこゆ 牧水」<br />「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ 喜志子」

    酒と旅をこよなく愛した【漂白の詩人若山牧水の墓所】 乗運寺の境内にある。
    牧水は、大正九年(1920)から沼津に住み、創作の他、雑誌創刊など精力的に詩歌の発展に尽力した。昭和三年(1928)に没した。
    千本松原を愛し、この地に没した歌人・若山牧水は、当山墓地に静かに眠っています。

    『若山牧水(妻・喜志子、長男・旅人)の墓』。
    墓前の歌碑は、喜志子十三回忌の法要の際に、長男旅人によって建立されたもの。
    左手に牧水、右手に妻・喜志子の作の短歌が詠まれています。
    「聞きゐつつたのしくもあるか松風の今は夢ともうつつともきこゆ 牧水」
    「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ 喜志子」

  • これより千本浜公園に入る。実際の松の本数は千どころか万本かもしれないほど沢山の松林が駿河湾沿いにあります。<br />狩野川河口から田子の浦港まで約10kmに、30万本以上の松があると言われてる。<br />この松林は、昔から農民が、防風、防潮の為に植えていたが、武田勝頼が駿河攻めのために伐採。その後塩害に苦しむ民を見兼ねて、乗運寺の開祖増誉上人(ぞうよ)が5年の歳月をかけて植え直した。<br /><br />千本松原<br />駿河湾に面した千本松公園である。この中を旧東海道とほぼ並行して走っている道が千本松道りである。<br />天文年間(1532-54年)、増誉(ぞうよ)上人がここにやってきた時は、武田勝頼により伐採され、荒涼としていた。地元の人が、塩害を防ぐため松を植えようとしていたが、なかなか根がつかず難儀していた。それを見た上人が、1本1本お経を唱えながら、手植えしたところ根がついたとのこと。村の人は感謝し、草庵を建てたのが前述の乗蓮寺である。

    これより千本浜公園に入る。実際の松の本数は千どころか万本かもしれないほど沢山の松林が駿河湾沿いにあります。
    狩野川河口から田子の浦港まで約10kmに、30万本以上の松があると言われてる。
    この松林は、昔から農民が、防風、防潮の為に植えていたが、武田勝頼が駿河攻めのために伐採。その後塩害に苦しむ民を見兼ねて、乗運寺の開祖増誉上人(ぞうよ)が5年の歳月をかけて植え直した。

    千本松原
    駿河湾に面した千本松公園である。この中を旧東海道とほぼ並行して走っている道が千本松道りである。
    天文年間(1532-54年)、増誉(ぞうよ)上人がここにやってきた時は、武田勝頼により伐採され、荒涼としていた。地元の人が、塩害を防ぐため松を植えようとしていたが、なかなか根がつかず難儀していた。それを見た上人が、1本1本お経を唱えながら、手植えしたところ根がついたとのこと。村の人は感謝し、草庵を建てたのが前述の乗蓮寺である。

  • 【若山牧水の歌碑】が立つ。<br />  「幾山河 こえさりゆかば  寂しさのはてなむ國ぞ  けふも旅ゆく」牧水<br />歌人若山牧水(本名繁)は、明治十八年(1885)宮崎県に生まれ、旧制延岡中学時代から短歌に親しみ、早稲田大学在学中に中國路を旅し、この「幾山河」の歌を作った。<br />24歳のときに出版した歌集「別離」が歌壇に認められ一躍世に出た牧水は、大正9年(1920)夏、一家を挙げて沼津に移住した。<br />その後 千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた、旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し、昭和三年(1928)九月十七日四十三歳で永眠した。<br />墓所は この近くの千本山乘運寺にある。<br />この歌碑は、全國で最初の牧水歌碑として昭和四年七月に建設された。<br />千本松原の伐採計画がもちあがったときは、先頭に立って、筆と熱弁で阻止した。<br /><br />「牧水略譜<br />明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷村字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じく<br />マキの長男として生まれ繁と命名さる 長じて十八歳のとき文学を志望して牧水と号す 故郷の母マキ並に庭前の坪谷川への追憶に由來せるものなり明治四十五年二十七歳に到り太田喜志子と結婚以后九年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二女を挙げ東京に於てその短歌の作風に一家を成せしも大正九年に到り年來の希望たりし田家の生活を志して沼津在楊原村上香貫に居を撰み次で大正十三年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して終生こゝを離れず昭和三年に到る その年七月よりにはかに健康すぐれず九月上旬より臥床仝月十七日永眠す 時に年四十三歳なりき その一生は芳醇純乎としてたゞ自然の憧憬と讃美に終始し 生を享けて四十年余その途をあやまたざりしもの 此処にその三十三年忌を迎えて之を誌す」

    【若山牧水の歌碑】が立つ。
     「幾山河 こえさりゆかば  寂しさのはてなむ國ぞ  けふも旅ゆく」牧水
    歌人若山牧水(本名繁)は、明治十八年(1885)宮崎県に生まれ、旧制延岡中学時代から短歌に親しみ、早稲田大学在学中に中國路を旅し、この「幾山河」の歌を作った。
    24歳のときに出版した歌集「別離」が歌壇に認められ一躍世に出た牧水は、大正9年(1920)夏、一家を挙げて沼津に移住した。
    その後 千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた、旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し、昭和三年(1928)九月十七日四十三歳で永眠した。
    墓所は この近くの千本山乘運寺にある。
    この歌碑は、全國で最初の牧水歌碑として昭和四年七月に建設された。
    千本松原の伐採計画がもちあがったときは、先頭に立って、筆と熱弁で阻止した。

    「牧水略譜
    明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷村字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じく
    マキの長男として生まれ繁と命名さる 長じて十八歳のとき文学を志望して牧水と号す 故郷の母マキ並に庭前の坪谷川への追憶に由來せるものなり明治四十五年二十七歳に到り太田喜志子と結婚以后九年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二女を挙げ東京に於てその短歌の作風に一家を成せしも大正九年に到り年來の希望たりし田家の生活を志して沼津在楊原村上香貫に居を撰み次で大正十三年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して終生こゝを離れず昭和三年に到る その年七月よりにはかに健康すぐれず九月上旬より臥床仝月十七日永眠す 時に年四十三歳なりき その一生は芳醇純乎としてたゞ自然の憧憬と讃美に終始し 生を享けて四十年余その途をあやまたざりしもの 此処にその三十三年忌を迎えて之を誌す」

  • 井上靖の歌碑<br /><br />井上靖談「私が小説を書くようになったのは、沼津の町のお陰であり、その頃一緒に遊び惚けていた何人かの友人のお陰である」と井上文学の原点が沼津中学校時代にあったと述懐しています。文学碑は1963年(昭和38年)に建てられたもの。後方の御影石には下記の井上靖の詩「千本浜」が刻まれています。<br /><br />千個の海のかけらが<br />千本の松の間に挟まっていた<br />少年の日 私は毎日それを<br />ひとつずつ食べて育った<br /><br />井上靖

    井上靖の歌碑

    井上靖談「私が小説を書くようになったのは、沼津の町のお陰であり、その頃一緒に遊び惚けていた何人かの友人のお陰である」と井上文学の原点が沼津中学校時代にあったと述懐しています。文学碑は1963年(昭和38年)に建てられたもの。後方の御影石には下記の井上靖の詩「千本浜」が刻まれています。

    千個の海のかけらが
    千本の松の間に挟まっていた
    少年の日 私は毎日それを
    ひとつずつ食べて育った

    井上靖

  • 【六代松】<br />平家物語は平維盛の息子六代に関連する。平家物語第12巻「六代」「長谷六代」「六代斬られ」と3章ある。伊勢平家の代数を正盛から数え、二代忠盛・三代清盛・四代重盛・五代維盛・六代、という。四代重盛あたりからかなり怪しい。清盛より前に死んでしまっているし、清盛を継ぐ人材だったかどうか。<br />青海波を舞い、光源氏にもたとえられた御曹司、しかし武者の棟梁は無理だろう。その子六代こと高清の母である新大納言局は藤原成親の娘である。しつこく清盛にたてつき、鹿ケ谷の陰謀事件の主犯級ともされる人物の血を引く。鹿ケ谷の陰謀事件そのものが清盛側の陰謀だったとしても藤原成親は平家から見て好まれない人物だ。ここに重盛の、小松家の苦境があったのだが、六代はそれを象徴するような子だったろう。<br /><br /><br />六代とは、<br />平清盛の孫である三位中将・平維盛の遺児である平家六代目を継ぐ御曹司のこと。<br />源頼朝の家来・北条時政により捕らえられ、千本松原で処刑される際、これを知った源頼朝の政治顧問であった文覚上人の命乞いにより赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり処刑された。この処刑で平家の血筋は途絶えたのであった。<br />従者が六代の首を千本松原の松の根元に埋め、弔ったと伝えられる<br /><br />「六代の松碑(平家物語ゆかりの地) <br />六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。<br />元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。<br />平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、謀せられ、その首を共の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。<br />江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭(としやす)らが文化3<br />民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政九年(1797)に板行し好評を博した『東海道名所絵図』には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって<br />掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年(1842)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。」

    【六代松】
    平家物語は平維盛の息子六代に関連する。平家物語第12巻「六代」「長谷六代」「六代斬られ」と3章ある。伊勢平家の代数を正盛から数え、二代忠盛・三代清盛・四代重盛・五代維盛・六代、という。四代重盛あたりからかなり怪しい。清盛より前に死んでしまっているし、清盛を継ぐ人材だったかどうか。
    青海波を舞い、光源氏にもたとえられた御曹司、しかし武者の棟梁は無理だろう。その子六代こと高清の母である新大納言局は藤原成親の娘である。しつこく清盛にたてつき、鹿ケ谷の陰謀事件の主犯級ともされる人物の血を引く。鹿ケ谷の陰謀事件そのものが清盛側の陰謀だったとしても藤原成親は平家から見て好まれない人物だ。ここに重盛の、小松家の苦境があったのだが、六代はそれを象徴するような子だったろう。


    六代とは、
    平清盛の孫である三位中将・平維盛の遺児である平家六代目を継ぐ御曹司のこと。
    源頼朝の家来・北条時政により捕らえられ、千本松原で処刑される際、これを知った源頼朝の政治顧問であった文覚上人の命乞いにより赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり処刑された。この処刑で平家の血筋は途絶えたのであった。
    従者が六代の首を千本松原の松の根元に埋め、弔ったと伝えられる

    「六代の松碑(平家物語ゆかりの地) 
    六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。
    元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。
    平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、謀せられ、その首を共の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。
    江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭(としやす)らが文化3
    民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政九年(1797)に板行し好評を博した『東海道名所絵図』には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって
    掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年(1842)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。」

  • 千本松原から逸れて、やっと海に出て来ました。駿河湾の海岸線がクリアーに見える。遠くは、薩った峠や清水方面。今日の波は大変穏やかです。気持ち良く海岸沿いの防波堤の上を暫く歩きます。すなわち東海道からしばし離れてる。<br />遥か先の遠地までまだまだ歩きます。<br /><br />「北に冨士沼、南に大洋漫々たり。その中の曠高(こうげん)なればこの名あり<br />原、吉原、蒲原を三原(さんげん)という」と<br />江戸時代の東海道名所図会に紹介されているところだ。<br /> そして千本松原がずっと続いているところである

    千本松原から逸れて、やっと海に出て来ました。駿河湾の海岸線がクリアーに見える。遠くは、薩った峠や清水方面。今日の波は大変穏やかです。気持ち良く海岸沿いの防波堤の上を暫く歩きます。すなわち東海道からしばし離れてる。
    遥か先の遠地までまだまだ歩きます。

    「北に冨士沼、南に大洋漫々たり。その中の曠高(こうげん)なればこの名あり
    原、吉原、蒲原を三原(さんげん)という」と
    江戸時代の東海道名所図会に紹介されているところだ。
     そして千本松原がずっと続いているところである

  • 海岸には、小石で雪を被った富士山の絵を描いてありました。やはり、この地では、富士山は外せないですね。<br />この辺り、街道は原宿です。<br /><br />【原宿】<br />天保14年(1843)頃、原宿の宿内家数は653軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠25軒で、宿内人口は約1900人、宿長は24町42間(約2.7km)。

    海岸には、小石で雪を被った富士山の絵を描いてありました。やはり、この地では、富士山は外せないですね。
    この辺り、街道は原宿です。

    【原宿】
    天保14年(1843)頃、原宿の宿内家数は653軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠25軒で、宿内人口は約1900人、宿長は24町42間(約2.7km)。

  • 再び、東海道に戻り、歩きます。<br />これより【東、沼津宿の石碑】<br />沼津藩の東西の領域範囲を示す石。安永7年(1778)に設けられた。この東杭は保存状態が良く、西は下半分が欠損してる。<br />八幡神社の前に立派な沼津藩領榜示(ぼうじ)杭がある。「従是東」しか残っていないが、この下に「沼津領」と刻まれていたとのこと。<br />江戸時代、天領や私領の入り組んだ所では領域の存在をはっきりさせるために、榜示杭が建てられていた。この榜示杭を過ぎると、次は原宿への千万松原と並行した長い一本道となる。<br /><br />【沼津藩領境傍示】<br />  安永六年(1777)十一月六日、水野出羽守忠友は、十代将軍徳川家治から沼津の城地を賜わり、築城を命ぜられた。<br />  こうして忠友は、翌安永七年正月二十九日城地を韮山代官江川太郎左衛門英征から引きつぎ、沼津藩創立と共にこの領域を示す傍示の杭を設置した。この傍示杭は当時沼津藩の西境に建てられたもので、 『従是東沼津領』と判断できるが、明治末期頃におられて下半分が失われている。<br />  しかし、下石田に『従是西沼津領』と刻まれた高さ2.12mの傍示杭が完全に現存していて、石質、字体、寸法等すべて同一であるので、同時に建てられたものと考えられる。<br />                    昭和五十九年 沼津市教育委員会<br /><br /><br />西もあります<br />『傍示石(ほうじせき)とは 杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。「従是西 沼津領」と。<br />潮音寺のすぐ先の駐車場に、従是西沼津領と書かれた傍示石が建っていた。<br />ここは現在、沼津市大岡字下石田と字木瀬川の境界だが、江戸時代には水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。<br />この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。<br />?広重の浮世絵にもあるように、この傍示石も初めは木製の傍示杭だったそうで、幕末になって作り変えられたという。江戸時代の古地図にも石柱として描かれている。傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。<br />元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があった。<br />

    再び、東海道に戻り、歩きます。
    これより【東、沼津宿の石碑】
    沼津藩の東西の領域範囲を示す石。安永7年(1778)に設けられた。この東杭は保存状態が良く、西は下半分が欠損してる。
    八幡神社の前に立派な沼津藩領榜示(ぼうじ)杭がある。「従是東」しか残っていないが、この下に「沼津領」と刻まれていたとのこと。
    江戸時代、天領や私領の入り組んだ所では領域の存在をはっきりさせるために、榜示杭が建てられていた。この榜示杭を過ぎると、次は原宿への千万松原と並行した長い一本道となる。

    【沼津藩領境傍示】
      安永六年(1777)十一月六日、水野出羽守忠友は、十代将軍徳川家治から沼津の城地を賜わり、築城を命ぜられた。
      こうして忠友は、翌安永七年正月二十九日城地を韮山代官江川太郎左衛門英征から引きつぎ、沼津藩創立と共にこの領域を示す傍示の杭を設置した。この傍示杭は当時沼津藩の西境に建てられたもので、 『従是東沼津領』と判断できるが、明治末期頃におられて下半分が失われている。
      しかし、下石田に『従是西沼津領』と刻まれた高さ2.12mの傍示杭が完全に現存していて、石質、字体、寸法等すべて同一であるので、同時に建てられたものと考えられる。
                        昭和五十九年 沼津市教育委員会


    西もあります
    『傍示石(ほうじせき)とは 杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。「従是西 沼津領」と。
    潮音寺のすぐ先の駐車場に、従是西沼津領と書かれた傍示石が建っていた。
    ここは現在、沼津市大岡字下石田と字木瀬川の境界だが、江戸時代には水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。
    この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。
    ?広重の浮世絵にもあるように、この傍示石も初めは木製の傍示杭だったそうで、幕末になって作り変えられたという。江戸時代の古地図にも石柱として描かれている。傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。
    元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があった。

  • 【八幡宮】<br />八幡宮は慶長9年(1604年)の創建で、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、金山彦神社、神明神社が合祀されています。

    【八幡宮】
    八幡宮は慶長9年(1604年)の創建で、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、金山彦神社、神明神社が合祀されています。

  • 【松蔭寺】 この辺りを白隠の里と呼ぶ。<br />ここは700年前の古寺。白隠禅師が住職になってから有名になった。白隠は、1685年この地に生まれ15歳の時この寺で出家した。それから清水の禅叢寺、美濃の瑞雲寺、越後の英巌寺で学び、信州の道鏡慧端のもとで悟りを開き、33歳の時この寺に帰ってきた。<br />以後、地元で布教し衰退していた臨済宗を復興させた。今でも臨済宗14派は全て白隠を中興の祖としている。<br />白隠を表す有名な言葉が、<br />   「駿河には 過ぎたるものが二つあり 富士のお山に 原の白隠」<br />

    【松蔭寺】 この辺りを白隠の里と呼ぶ。
    ここは700年前の古寺。白隠禅師が住職になってから有名になった。白隠は、1685年この地に生まれ15歳の時この寺で出家した。それから清水の禅叢寺、美濃の瑞雲寺、越後の英巌寺で学び、信州の道鏡慧端のもとで悟りを開き、33歳の時この寺に帰ってきた。
    以後、地元で布教し衰退していた臨済宗を復興させた。今でも臨済宗14派は全て白隠を中興の祖としている。
    白隠を表す有名な言葉が、
       「駿河には 過ぎたるものが二つあり 富士のお山に 原の白隠」

  • 松陰寺<br />宿にはいるとすぐ左手に見えてくる。「白隠禅師」ゆかりの寺としてその名を知られている。弘安2年(1279年)に鎌倉円覚寺の末社として天祥西堂が開祖の寺と伝わっていて、江戸時代の宝永4年(1707年)に起きた宝永山の噴火(富士山噴火)により大破した後、「白隠禅師」によって再び再興されたという。 白隠禅師は貞享2年12月25日、原宿の長沢に三男として生まれている。享保2年(1717年)に松陰寺の住職となっていその評判は日本中にとどろき、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。良寛さんの歌碑などもある。

    松陰寺
    宿にはいるとすぐ左手に見えてくる。「白隠禅師」ゆかりの寺としてその名を知られている。弘安2年(1279年)に鎌倉円覚寺の末社として天祥西堂が開祖の寺と伝わっていて、江戸時代の宝永4年(1707年)に起きた宝永山の噴火(富士山噴火)により大破した後、「白隠禅師」によって再び再興されたという。 白隠禅師は貞享2年12月25日、原宿の長沢に三男として生まれている。享保2年(1717年)に松陰寺の住職となっていその評判は日本中にとどろき、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。良寛さんの歌碑などもある。

  • 松陰寺本堂。<br />開基は約680年前といわれ、白隠禅師が再興し、諸国の大名が禅師の徳を慕って訪れていたといわれる。<br />富士山と並び称されるほどの高僧・白隠慧鶴。臨済宗中興の祖にして白隠さんと親しまれた名僧は、おびただし数の世界ユーモラスな禅画を残した。松蔭寺の住職となると、集まった門弟は数百を超えた。

    松陰寺本堂。
    開基は約680年前といわれ、白隠禅師が再興し、諸国の大名が禅師の徳を慕って訪れていたといわれる。
    富士山と並び称されるほどの高僧・白隠慧鶴。臨済宗中興の祖にして白隠さんと親しまれた名僧は、おびただし数の世界ユーモラスな禅画を残した。松蔭寺の住職となると、集まった門弟は数百を超えた。

  • 松陰寺

    松陰寺

  • 【白隠禅師の墓所】<br />ここまで白隠道がつながっている。<br />白隠は、この地区で生誕、産湯の井戸も残る。<br />白隠は、他の禅宗と比べ衰退していた臨済宗を復興させた名僧。享保2年(1717年)に33歳で松陰寺の住職となり、翌年”白隠”と号するようになった。この地で84歳の生涯を終えた。<br /><br />【白隠禅師墓】 静岡県指定史跡(昭和29年1月指定)<br />  本堂左手奥にあり、案内板も立っています。3基の墓石の左側が白隠禅師、中央が海山、右側が弟子の墓です。<br />  白隠禅師は、貞亨二年(1685)十二月二十五日、駿河国原宿(沼津市原)長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。幼い頃から聡明で、六才の時、お寺にお参りして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話しを聞かせたといいます。<br />  十五才のとき松蔭寺で出家し、慧鶴(えかく)と名づけられました。十九才のとき諸国行脚の旅に出、美濃・四国・京都などで修行しました。そして五百年に一人の名僧といわれ、臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。享保二年(1717)に松蔭寺に入り住持(じゅうじ)となり、その翌年白隠と号しました。白隠の名は全国に知れ渡り、『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』とうたわれました。<br />  白隠はまた禅画にも堪能で、釈迦・達磨・観音などを好んで描きました。それらの禅画は松蔭持などに多数現存しています。<br />  明和五年(1768)十二月十一日、八十四才で入寂し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(しごう)を、明治天皇より正宗国師の諡号を送られています。<br />            平成七年九月 静岡県教育委員会 沼津市教育委員会<br /><br />【白隠の摺鉢松】<br /> 数多くの参拝者の内、岡山藩主だった池田氏がお礼に何か差し上げたいと申し出ると、白隠は「味噌をする摺鉢がほしい」と言われたという。 そこで備前焼きの摺鉢を贈ったのだが、ある日台風が襲って松の木は折れてしまい、その摺鉢を折れた場所にそっと被せてあげたという。 その後、松は摺鉢を載せたまま成長して現在もそのままの姿で残っている。<br /> 

    【白隠禅師の墓所】
    ここまで白隠道がつながっている。
    白隠は、この地区で生誕、産湯の井戸も残る。
    白隠は、他の禅宗と比べ衰退していた臨済宗を復興させた名僧。享保2年(1717年)に33歳で松陰寺の住職となり、翌年”白隠”と号するようになった。この地で84歳の生涯を終えた。

    【白隠禅師墓】 静岡県指定史跡(昭和29年1月指定)
      本堂左手奥にあり、案内板も立っています。3基の墓石の左側が白隠禅師、中央が海山、右側が弟子の墓です。
      白隠禅師は、貞亨二年(1685)十二月二十五日、駿河国原宿(沼津市原)長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。幼い頃から聡明で、六才の時、お寺にお参りして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話しを聞かせたといいます。
      十五才のとき松蔭寺で出家し、慧鶴(えかく)と名づけられました。十九才のとき諸国行脚の旅に出、美濃・四国・京都などで修行しました。そして五百年に一人の名僧といわれ、臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。享保二年(1717)に松蔭寺に入り住持(じゅうじ)となり、その翌年白隠と号しました。白隠の名は全国に知れ渡り、『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』とうたわれました。
      白隠はまた禅画にも堪能で、釈迦・達磨・観音などを好んで描きました。それらの禅画は松蔭持などに多数現存しています。
      明和五年(1768)十二月十一日、八十四才で入寂し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(しごう)を、明治天皇より正宗国師の諡号を送られています。
                平成七年九月 静岡県教育委員会 沼津市教育委員会

    【白隠の摺鉢松】
     数多くの参拝者の内、岡山藩主だった池田氏がお礼に何か差し上げたいと申し出ると、白隠は「味噌をする摺鉢がほしい」と言われたという。 そこで備前焼きの摺鉢を贈ったのだが、ある日台風が襲って松の木は折れてしまい、その摺鉢を折れた場所にそっと被せてあげたという。 その後、松は摺鉢を載せたまま成長して現在もそのままの姿で残っている。
     

  • 松陰寺の墓所に、白隠禅師の墓がある。<br />白隠禅師は衰退していた臨済宗を復興させた名僧。貞享2年(1685)、原宿、長澤家に生まれ、15歳で出家、19歳で諸国行脚の旅に出て、24歳で悟りを開いた。33歳で松陰寺の住職となり、白隠と号するように なった。<br />出家して後は江戸中期の仏教界に新風を吹き込み、やがて五百年に一度の名僧と仰がれる。その名は全国に知れ渡り、<br />「駿河には過ぎたるものが2つあり 富士のお山と原の白隠」とまで言われた。<br /><br />『白隠禅師墓』説明板。<br />「白隠禅師(1685年~1768年)<br />『駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠』東海道原宿に生まれ、各地を行脚した後に故郷に戻り、50年近くにわたって松蔭寺の住職を務めました。 また、50代以降には、請われて各地で講義を行うとともに、膨大な著作や書画を残しており、終生にわたり、様々な方法を駆使して法を説きました。<br />人の往来が激しい東海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧として知られています。松蔭寺には遷化の翌年に完成した白隠禅師坐像があり、虎視牛行(こしぎゅうこう)と言われる鋭さと厳しさを感じることができます。」

    松陰寺の墓所に、白隠禅師の墓がある。
    白隠禅師は衰退していた臨済宗を復興させた名僧。貞享2年(1685)、原宿、長澤家に生まれ、15歳で出家、19歳で諸国行脚の旅に出て、24歳で悟りを開いた。33歳で松陰寺の住職となり、白隠と号するように なった。
    出家して後は江戸中期の仏教界に新風を吹き込み、やがて五百年に一度の名僧と仰がれる。その名は全国に知れ渡り、
    「駿河には過ぎたるものが2つあり 富士のお山と原の白隠」とまで言われた。

    『白隠禅師墓』説明板。
    「白隠禅師(1685年~1768年)
    『駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠』東海道原宿に生まれ、各地を行脚した後に故郷に戻り、50年近くにわたって松蔭寺の住職を務めました。 また、50代以降には、請われて各地で講義を行うとともに、膨大な著作や書画を残しており、終生にわたり、様々な方法を駆使して法を説きました。
    人の往来が激しい東海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧として知られています。松蔭寺には遷化の翌年に完成した白隠禅師坐像があり、虎視牛行(こしぎゅうこう)と言われる鋭さと厳しさを感じることができます。」

  • 松陰寺。<br />臨済宗の寺。開基は約680年前と言われる。宝永四年(1707)、富士山の噴火で大破した。その後、この原地区出身の白隠禅師が住持となり再興した。諸国の大名が禅師を慕って訪れていた。<br /><br />『東海道原宿 白隠禅師誕生地』。<br />「”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は、西暦1685年12月25日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として生まれる。 <br />15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。<br />19才から32才まで修行行脚で全国を巡り33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。 <br />現地は母妙遵(みょうじゅん)の生家屋号味噌屋 (みそや)の地でのち父宗(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。」

    松陰寺。
    臨済宗の寺。開基は約680年前と言われる。宝永四年(1707)、富士山の噴火で大破した。その後、この原地区出身の白隠禅師が住持となり再興した。諸国の大名が禅師を慕って訪れていた。

    『東海道原宿 白隠禅師誕生地』。
    「”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は、西暦1685年12月25日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として生まれる。
    15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。
    19才から32才まで修行行脚で全国を巡り33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。
    現地は母妙遵(みょうじゅん)の生家屋号味噌屋 (みそや)の地でのち父宗(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。」

  • 高嶋酒造があります、文化元年(1804)の創業、明治17年(1884)に山岡鉄舟が命名した「銘酒白隠正宗」の蔵元です。

    高嶋酒造があります、文化元年(1804)の創業、明治17年(1884)に山岡鉄舟が命名した「銘酒白隠正宗」の蔵元です。

  • 富士山からの地下霊水を、店先で飲ませていただける高島酒造さん。有名なブランドは名酒&quot;白隠,。<br />文化元年(1804年)の創業。白隠禅師にちなんで、山岡鉄舟が付けた銘の酒”白隠正宗”を製造している。<br />入口には酒造りに使っている「富士の霊水」が汲める蛇口があって、いつでもおいしい水が無料で飲めるようになっている。<br />ここには酒蔵を改造した高嶋美術館があって、白隠禅師の書画などが保存展示されている。

    富士山からの地下霊水を、店先で飲ませていただける高島酒造さん。有名なブランドは名酒"白隠,。
    文化元年(1804年)の創業。白隠禅師にちなんで、山岡鉄舟が付けた銘の酒”白隠正宗”を製造している。
    入口には酒造りに使っている「富士の霊水」が汲める蛇口があって、いつでもおいしい水が無料で飲めるようになっている。
    ここには酒蔵を改造した高嶋美術館があって、白隠禅師の書画などが保存展示されている。

  • 原宿の一里塚跡碑。江戸日本橋より数えて32里目です。

    原宿の一里塚跡碑。江戸日本橋より数えて32里目です。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五拾三次之内 【原】 朝之富士 広重画】<br />富士山が良く見え一緒に歩いている感じ。<br /><br />街道の右手には富士の景が望め、愛鷹山の稜線が横切っています。<br />広重はこの両山を背景に、手前に浮島ケ原と二羽の鶴を描く。<br />浮島ケ原湿地帯は太古の時代は入江でしたが、駿河湾の潮流によって押し上げられた土砂で堰き止められて出来上がった大沼です。<br />中央にどっしり構えるは、画面を突き破って描かれた壮大な富士山。白化粧の美しい富士山は有り難い目の保養。<br />古代の東海道は愛鷹山麓を通っていたが、その後海岸を通るようになった。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五拾三次之内 【原】 朝之富士 広重画】
    富士山が良く見え一緒に歩いている感じ。

    街道の右手には富士の景が望め、愛鷹山の稜線が横切っています。
    広重はこの両山を背景に、手前に浮島ケ原と二羽の鶴を描く。
    浮島ケ原湿地帯は太古の時代は入江でしたが、駿河湾の潮流によって押し上げられた土砂で堰き止められて出来上がった大沼です。
    中央にどっしり構えるは、画面を突き破って描かれた壮大な富士山。白化粧の美しい富士山は有り難い目の保養。
    古代の東海道は愛鷹山麓を通っていたが、その後海岸を通るようになった。

  • 【六王子神社】<br />JR東田子の浦駅の近く。<br /><br />【六王子神社 伝説「三股の伝説」】<br />  昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を『三股』と呼んでいました。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがありました。<br />  今から四百年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い『おあじ』が引き当ててしまいました。仲間の六人は国許へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。<br />  おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。<br />                  平成十二年一月 富士市教育委員会

    【六王子神社】
    JR東田子の浦駅の近く。

    【六王子神社 伝説「三股の伝説」】
      昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を『三股』と呼んでいました。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがありました。
      今から四百年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い『おあじ』が引き当ててしまいました。仲間の六人は国許へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。
      おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。
                      平成十二年一月 富士市教育委員会

  • JR東田子の浦駅

    JR東田子の浦駅

  • 源平合戦、富士川の戦いはこの辺りで戦われた。

    源平合戦、富士川の戦いはこの辺りで戦われた。

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