新発田・胎内旅行記(ブログ) 一覧に戻る
JR羽越線と白新線が合流する新発田駅から市内循環バスで約7分、新発田城跡公園下車すると目の前には城跡公園、そしてその向こうには慶長3年(1598)加賀国大聖寺より6万石を以て入封した溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ、1548~1610)の入部400年記念事業として復元した三階櫓(さんかいやぐら)に代表される新発田城跡が在ります。<br /><br /><br />現地入手のパンフレットには築城の経緯について次のように記載されています。<br /><br />「新発田城の築城<br /><br />新発田に入封した秀勝は、まず五十公野に仮の住居を構えましたが、上杉景勝と戦って滅びた新発田(しばた)氏の館跡(江戸時代は古丸と呼ばれていた)に築城を開始しました。縄張り(建物の配置計画)は家臣の軍事学者長井清左衛門(ながい・せいざえもん)と葛西外記(かさい・げき)が行い、入封から56年後の承應3年(1654)3代宣直(のぶなお)のときに完成しています。<br /><br />城の構えは本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南方につき出した変形の輪郭・梯郭式併用型の平城です。これは、南以外の三方面が「馬足不叶(ばそくかなわず)」といわれた湿地であったこと、また、親藩である会津領方面の守りを重用視したことが理由と考えられます。<br /><br />新発田城は、本丸が舟のような形をしているため「舟形城(ふながたじょう)」、周囲の湿地にアヤメが咲いていたことから「菖蒲城(あやめじょう)」と呼ばれていました。また、縄張りを命じられた長井清左衛門が設計に苦労しているとき一匹のキツネが現れ、雪の上に尾を引きながら図を示してヒントを与えたという言い伝えから「狐尾曳ノ城(きつねおひきのしろ)」とも呼ばれています。」<br />

越後新発田 秀吉恩顧でありながら関ヶ原で東軍に付き家康から所領安堵され維新まで転封改易なく善政を敷いた外様大名溝口秀勝築城『新発田城』訪問

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2015/08/09 - 2015/08/09

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR羽越線と白新線が合流する新発田駅から市内循環バスで約7分、新発田城跡公園下車すると目の前には城跡公園、そしてその向こうには慶長3年(1598)加賀国大聖寺より6万石を以て入封した溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ、1548~1610)の入部400年記念事業として復元した三階櫓(さんかいやぐら)に代表される新発田城跡が在ります。


現地入手のパンフレットには築城の経緯について次のように記載されています。

「新発田城の築城

新発田に入封した秀勝は、まず五十公野に仮の住居を構えましたが、上杉景勝と戦って滅びた新発田(しばた)氏の館跡(江戸時代は古丸と呼ばれていた)に築城を開始しました。縄張り(建物の配置計画)は家臣の軍事学者長井清左衛門(ながい・せいざえもん)と葛西外記(かさい・げき)が行い、入封から56年後の承應3年(1654)3代宣直(のぶなお)のときに完成しています。

城の構えは本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南方につき出した変形の輪郭・梯郭式併用型の平城です。これは、南以外の三方面が「馬足不叶(ばそくかなわず)」といわれた湿地であったこと、また、親藩である会津領方面の守りを重用視したことが理由と考えられます。

新発田城は、本丸が舟のような形をしているため「舟形城(ふながたじょう)」、周囲の湿地にアヤメが咲いていたことから「菖蒲城(あやめじょう)」と呼ばれていました。また、縄張りを命じられた長井清左衛門が設計に苦労しているとき一匹のキツネが現れ、雪の上に尾を引きながら図を示してヒントを与えたという言い伝えから「狐尾曳ノ城(きつねおひきのしろ)」とも呼ばれています。」

旅行の満足度
4.5
交通手段
JRローカル

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  • 新発田城址公園<br /><br />市内循環バスから降り立つと芝生を敷き詰めたような公園が現れます。公園とは別に整備された城郭が一部温存されています。

    新発田城址公園

    市内循環バスから降り立つと芝生を敷き詰めたような公園が現れます。公園とは別に整備された城郭が一部温存されています。

  • 城下町新発田案内マップ<br /><br />今から行く新発田城と溝口氏の菩提寺である宝光寺を予定としています。

    城下町新発田案内マップ

    今から行く新発田城と溝口氏の菩提寺である宝光寺を予定としています。

  • 新発田城説明図<br /><br />説明図が薄くなっており良く見えません。

    新発田城説明図

    説明図が薄くなっており良く見えません。

  • 復元三階櫓<br /><br />初代藩主溝口秀勝入封400年の記念事業として平成16年に復元された三階櫓は古文書や古絵図などの資料に基づいて忠実に復元されています。<br /><br />

    復元三階櫓

    初代藩主溝口秀勝入封400年の記念事業として平成16年に復元された三階櫓は古文書や古絵図などの資料に基づいて忠実に復元されています。

  • 新発田城跡石柱

    新発田城跡石柱

  • 日本百名城石碑<br /><br />話題性に乏しいながらも「日本百名城」に選ばれています。

    日本百名城石碑

    話題性に乏しいながらも「日本百名城」に選ばれています。

  • 三階櫓全景<br /><br />事実上の天守に相当する櫓でですが、幕府や親藩大名に遠慮して「天守」という名称は用いず、「三階櫓」と呼んでいました。

    三階櫓全景

    事実上の天守に相当する櫓でですが、幕府や親藩大名に遠慮して「天守」という名称は用いず、「三階櫓」と呼んでいました。

  • 本丸内堀<br /><br />本来は本丸を囲む内堀の他二の丸及び三の丸を囲む堀がそれぞれありましたが、二の丸・三の丸の堀は埋め立てられ現在では本丸部分のみしかありません。

    本丸内堀

    本来は本丸を囲む内堀の他二の丸及び三の丸を囲む堀がそれぞれありましたが、二の丸・三の丸の堀は埋め立てられ現在では本丸部分のみしかありません。

  • 本丸内堀<br />

    本丸内堀

  • 鉄砲櫓<br /><br />本丸に配された四櫓の一つで鉄砲櫓があります。この櫓は門に近づいた敵を鉄砲で一斉に攻撃できるよう表門側に向けて30度傾いた独特の設計となっています。

    鉄砲櫓

    本丸に配された四櫓の一つで鉄砲櫓があります。この櫓は門に近づいた敵を鉄砲で一斉に攻撃できるよう表門側に向けて30度傾いた独特の設計となっています。

  • 鉄砲櫓と堀<br /><br />当櫓は二の丸の北部にあった旧二の丸櫓が移設されたもので表門と共に新潟県内で江戸時代から現存する建物となっています。

    鉄砲櫓と堀

    当櫓は二の丸の北部にあった旧二の丸櫓が移設されたもので表門と共に新潟県内で江戸時代から現存する建物となっています。

  • 土橋門<br /><br />東から南にかけて本丸を取り囲む帯曲輪(おびくるわ))を渡る唯一の土橋が曲輪の南西に設置され、厳しく人の出入りを管理されている門となっています。

    土橋門

    東から南にかけて本丸を取り囲む帯曲輪(おびくるわ))を渡る唯一の土橋が曲輪の南西に設置され、厳しく人の出入りを管理されている門となっています。

  • 土橋門設置場所<br /><br />本丸と二の丸との間に帯曲輪という防衛線を設置する事で本丸表門の入口を固める重要な門となっています。

    土橋門設置場所

    本丸と二の丸との間に帯曲輪という防衛線を設置する事で本丸表門の入口を固める重要な門となっています。

  • 土橋門説明板

    土橋門説明板

  • 帯曲輪<br /><br />土橋を渡ると帯曲輪が控え、本丸に行くには更に橋を渡らなくてはならず、スムーズな通行を意図的に遮っている造作となっています。

    帯曲輪

    土橋を渡ると帯曲輪が控え、本丸に行くには更に橋を渡らなくてはならず、スムーズな通行を意図的に遮っている造作となっています。

  • 新発田城説明板

    新発田城説明板

  • 帯曲輪<br /><br />この曲輪跡は今では自動車が往来する道路となっています。

    帯曲輪

    この曲輪跡は今では自動車が往来する道路となっています。

  • 土橋門・帯曲輪説明板

    土橋門・帯曲輪説明板

  • 表門(正門)<br /><br />

    表門(正門)

  • 内堀<br /><br />表門に向かう渡橋から内堀を一望します。

    内堀

    表門に向かう渡橋から内堀を一望します。

  • 内堀<br /><br />同様に渡り橋から内堀を捉えます。

    内堀

    同様に渡り橋から内堀を捉えます。

  • 表門<br /><br />当門は鉄砲櫓に移築された旧二の丸櫓と共に、新潟県で唯一江戸時代から現存する建造物で、二階建ての構造で二階の正面に敵を攻撃するための「石落(いしおとし)」という仕掛けがあります。

    表門

    当門は鉄砲櫓に移築された旧二の丸櫓と共に、新潟県で唯一江戸時代から現存する建造物で、二階建ての構造で二階の正面に敵を攻撃するための「石落(いしおとし)」という仕掛けがあります。

  • 表門<br /><br />内側の上部には逞しい梁が二階部を支えています。<br /><br />

    表門

    内側の上部には逞しい梁が二階部を支えています。

  • 溝口秀勝立像<br /><br />新発田藩初代で慶長3年(1598)秀吉の命によって6万石を以て、加賀国大聖寺から入封、秀勝は秀吉恩顧でしたが関ヶ原の戦では徳川方につき上杉景勝遺民一揆を鎮圧その功により所領安堵、溝口氏は外様大名としては珍しく維新を迎えるまで一度も国替えはなく12代の270年の知行支配が続きます。

    溝口秀勝立像

    新発田藩初代で慶長3年(1598)秀吉の命によって6万石を以て、加賀国大聖寺から入封、秀勝は秀吉恩顧でしたが関ヶ原の戦では徳川方につき上杉景勝遺民一揆を鎮圧その功により所領安堵、溝口氏は外様大名としては珍しく維新を迎えるまで一度も国替えはなく12代の270年の知行支配が続きます。

  • 秀勝立像裏面<br /><br />新発田城入封400年記念事業により立像建立した経緯が刻されています。

    秀勝立像裏面

    新発田城入封400年記念事業により立像建立した経緯が刻されています。

  • 新発田城跡説明板<br /><br />本丸には藩主の居館である御殿があり、杮葺きの二階建てで130室にも及ぶ室数であった由です。

    新発田城跡説明板

    本丸には藩主の居館である御殿があり、杮葺きの二階建てで130室にも及ぶ室数であった由です。

  • 辰巳(たつみ)櫓<br /><br />木造の二層二階櫓で入母屋造り、本瓦葺となっていたそうで、秀勝入封400年記念事業として三階櫓と共に平成16年6月に復元されています。

    辰巳(たつみ)櫓

    木造の二層二階櫓で入母屋造り、本瓦葺となっていたそうで、秀勝入封400年記念事業として三階櫓と共に平成16年6月に復元されています。

  • 城外風景<br /><br />辰巳櫓脇から城外の風景を一望します。

    城外風景

    辰巳櫓脇から城外の風景を一望します。

  • 辰巳櫓説明板

    辰巳櫓説明板

  • 辰巳櫓内部

    辰巳櫓内部

  • 城外展望<br /><br />辰巳櫓から外部を一望します。

    城外展望

    辰巳櫓から外部を一望します。

  • 溝口氏家紋<br /><br />辰巳櫓を出て本丸跡を見渡すと赤旗に白で染めた旗が視野に入りますが、恐らく溝口氏家紋と思われます。

    溝口氏家紋

    辰巳櫓を出て本丸跡を見渡すと赤旗に白で染めた旗が視野に入りますが、恐らく溝口氏家紋と思われます。

  • 表門説明板<br /><br />享保17年(1732)に再建された櫓門となっています。

    表門説明板

    享保17年(1732)に再建された櫓門となっています。

  • 表門渡り橋<br /><br />表門二階部から渡り橋を捉えます。

    表門渡り橋

    表門二階部から渡り橋を捉えます。

  • 表門二階内部<br /><br />秀勝を始めとする歴代藩主の説明と共に各種資料が展示されています。

    表門二階内部

    秀勝を始めとする歴代藩主の説明と共に各種資料が展示されています。

  • 溝口藩の施策説明<br /><br />「領民に慕われた新発田藩」と題する当該藩の施策が掲載されており、治水工事・新田開発の他農業政策・教育制度・福祉医療政策について紹介されています。

    溝口藩の施策説明

    「領民に慕われた新発田藩」と題する当該藩の施策が掲載されており、治水工事・新田開発の他農業政策・教育制度・福祉医療政策について紹介されています。

  • 帯曲輪風景<br /><br />表門二階部から内堀を隔てた帯曲輪を一望します。

    帯曲輪風景

    表門二階部から内堀を隔てた帯曲輪を一望します。

  • 旧二の丸櫓<br /><br />現存する二層二階建ての櫓で元々は二の丸北部にあったものが昭和34年から35年にかけた解体修理を行った際、鉄砲櫓跡に移築して現在に至っています。

    旧二の丸櫓

    現存する二層二階建ての櫓で元々は二の丸北部にあったものが昭和34年から35年にかけた解体修理を行った際、鉄砲櫓跡に移築して現在に至っています。

  • 旧二の丸隅櫓説明板

    旧二の丸隅櫓説明板

  • 内堀風景<br /><br />旧二の丸隅櫓から内堀を一望します。

    内堀風景

    旧二の丸隅櫓から内堀を一望します。

  • 旧二の丸隅櫓内部

    旧二の丸隅櫓内部

  • 旧二の丸内部<br /><br />棟上式に使用された式具が陳列されています。

    旧二の丸内部

    棟上式に使用された式具が陳列されています。

  • 帯曲輪風景<br /><br />旧二の丸二階部から帯曲輪方向を一望します。

    帯曲輪風景

    旧二の丸二階部から帯曲輪方向を一望します。

  • 本丸跡風景<br /><br />旧二の丸櫓を出て本丸跡風景を見渡します。

    本丸跡風景

    旧二の丸櫓を出て本丸跡風景を見渡します。

  • 渡り橋<br /><br />表門から渡り橋を通して帯曲輪方向を一望します。

    渡り橋

    表門から渡り橋を通して帯曲輪方向を一望します。

  • 堀部安兵衛立像<br /><br />帯曲輪の一角には堀部安兵衛の立像があります。安兵衛は通称で本名は武庸(たけつね)と言い、藩主溝口氏の家臣である中山弥次右衛門の長男として当地で誕生しています。<br /><br />

    堀部安兵衛立像

    帯曲輪の一角には堀部安兵衛の立像があります。安兵衛は通称で本名は武庸(たけつね)と言い、藩主溝口氏の家臣である中山弥次右衛門の長男として当地で誕生しています。

  • 堀部安兵衛立像<br /><br />父中山弥次右衛門は櫓の失火の責を負って溝口家を離れ浪人生活を送る中死亡、のちに武芸を身に着け高田馬場の決闘で名を馳せ、後に赤穂浅野家家臣である堀部金丸との養子縁組が相成って金丸の婿養子となり併せて赤穂浅野家の家臣となります。<br />

    堀部安兵衛立像

    父中山弥次右衛門は櫓の失火の責を負って溝口家を離れ浪人生活を送る中死亡、のちに武芸を身に着け高田馬場の決闘で名を馳せ、後に赤穂浅野家家臣である堀部金丸との養子縁組が相成って金丸の婿養子となり併せて赤穂浅野家の家臣となります。

  • 堀部武庸略伝

    堀部武庸略伝

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