2015/06/25 - 2015/06/25
11位(同エリア41件中)
ビケ♪さん
来年出版予定の、初の著書を執筆中に 突然決めた取材旅行の記録です。
この旅行記では、7日目ツェルプストについて書いています。
==行程==(★印がこの旅行記の記事)
19日(金) 00:30 羽田空港 発 13:20 チューリッヒ空港 着 (タルヴィル泊)
20日(土) 終日 ザンクト・ガレン (チューリッヒ泊)
21日(日) 午前 チューリッヒ 午後 チューリッヒ→ヴュルツブルク (ヴュルツブルク泊)
22日(月) 終日 ヴュルツブルク (ヴュルツブルク泊)
23日(火) 午前 ヴュルツブルク→ハノーファー 夕方 ハノーファー→マグデブルク (マグデブルク泊)
24日(水) 終日 ケーテン (マグデブルク泊)
★25日(木) 終日 ツェルプスト (マグデブルク泊)
26日(金) 午前 マグデブルク 午後 マグデブルク→リューベック (リューベック泊)
27日(土) 終日 リューベック (ハンブルク泊)
28日(日) 終日 ハンブルク (ハンブルク泊)
29日(月) 午前・午後 ハンブルク 21:25 ハンブルク空港 発
30日(火) 22:45 羽田空港 着
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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マルクト広場。ローランド像の隣にいた熊さん。
おそらくアンハルトの始祖・アスカーニエン家のアルブレヒト一世が「熊公」と呼ばれたことにちなんで、熊がワッペンなどによく現れるのでは?
なぜアルブレヒト一世の呼び名が「熊」となったのか、理由は不明とのこと。 -
先ほどスルーした聖ニコライ教会を見学。ここも1945年の破壊で、廃墟になっています。
12世紀に、すでにこの場所に、花崗岩の切石でできたロマネスク様式のバジリカがあったとのこと。
エルベ川の東側で最も古い石造りの聖堂で、2つの塔のうち南の塔は当時のものが現存。 -
塔。アップで。北側の塔には現在、「グロリオーザ」という名の、アンハルトで最も大きな鐘が吊るされているそうです。
鐘について・・・
1338年に鋳造された「グロリオーザ」は直径約2メートル、重さは4540?。1726年からは南塔をいたわるために鳴らされていなかったが、1934年に北塔の鐘架に移された。現在は5つの鐘が6mの鐘架にかけられていて、見学もできる。
グロリオーザ(1378年)4540kg
自由の鐘(1443/1660年)2620kg
ニコラウスの鐘(1477年)1510kg
喜捨の鐘(2007年)938kg
ヨハネの鐘(1447年)104kg -
1430年頃から、ホール式(会衆席の屋根の高さが中央部と左右で同じ)の身廊が作られ、その後に西側の内陣が作られました。1447年に完成。
ホール式の聖堂としては、アンハルトで最大のものだそう。
写真は、身廊を横から見たところ。 -
窓をアップで。
建築にあたったのはドレスデンのハンス・クモラーHans Kumollerで、プラハのファイツ大聖堂を建設したペーター・パーラーPeter Parlerからの影響が伺われる、とのこと。
1488年に献堂式が行われるまでは、南側の入り口と西側の側壁の間の空間で礼拝が行われていたそうです。 -
聖ニコライ教会は16世紀、侯爵家と深い関係があったとともに、改革派の強い影響下にあった。
ツェルプストに長く滞在した改革派の旗手フィリップ・メランヒトンと聖ニコライ教会の司祭ファブリティウスが親しかったためなのだが、ルター派との対立は次第に深まっていった。ちなみに侯爵家はルター派。 -
1679年にカール・ヴィルヘルム候は、聖ニコライ教会を改革派の教会として認める代わりに、数百メートルも離れていない場所に新しいルター派の教会を建てるため、12000ターラーの寄付を強要した。
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19世紀になると、プロテスタントの各宗派は和解し融合していく。ここにはドイツで唯一の「和解記念碑」がある。戦後13の破片から修復され、内陣に設置されているということだが・・・中に入れなかったので、見られませんでした・・・
こちらは西側の内陣の写真。 -
そしてこちらが、1683年から96年にかけて建てられたルター派の三位一体教会。
当初は12000ターラーの予算で建設が始まったが、実際には30344ターラーという大幅予算オーバーの末に完成。 -
建築家はツェルプスト城の設計をしたオランダ人コルネリウス・リュックヴェルト。
1945年に破壊された後建て直されたが、内部の芸術品はすべて焼けてしまったとのこと。 -
プレート
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聖堂の中にはなんと!!!アスレチックが〜!!!
現在はいろんな教会の行事やコンサートなどにも使われているという。
まあ、他の教会が破壊されたままだと、そうなるわね。 -
祭壇。大理石の部分はオリジナルに忠実に修復されているが、磔刑図と下の方の最後の晩餐の2つの絵は、ミヒャエル・エミッヒ(1949− )によるもの。1985年に完成。
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祭壇。アップで。
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説教壇は、ザンガーハウゼンの聖ウルリヒ教会からの移築された、バロック期に作られたオリジナル。
足の部分は、モーゼが十戒の書かれた石版を持っているところ。
台には福音書を書いた4人が描かれている。(聖マタイ・聖マルコ・聖ルカ・聖ヨハネ) -
中学生の移動教室?に行きあたった。説教壇で声を出してみてる!
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マルクト広場に戻り、ようやくお昼にすることに。
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マルクト広場にあるギリシャ料理屋さん、Restaurant Athos。
http://www.restaurant-athos-zerbst.de/ -
ギロス+タツィキ、水、コーヒーで10.40ユーロなり。
こうして写真を撮ったり、今まで見てきた場所の資料を読んだりしていたので、お店の人は私のことをグルメライターか何かと勘違いしたようです。
食前酒と、なんとデザートまでサービスしてくれた上、帰りに名刺と分厚いメニューを下さった・・・(荷物重くなるよ〜)
店員さんは、みなとても感じが良くて親切で、気持ちの良いランチでした。
でも私はグルメライターではないので、Facebookでいいねしてあげた(笑)。 -
ランチ後は、すぐにツェルプスト城へ向かう。
丁度2時の城内ツアーが始まるところだった。城内は撮影禁止でした。 -
もともとはコの字型の城館でしたが、現在は東翼しか残っていません。これと同じスケールのものがコの字に並んでいるところを想像してみてください。「ポツダムのサンスーシ宮殿と並ぶ中部ドイツの代表的なバロック建築だった」と言われる訳が分かると思います。
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城内への入り口。「お城、開いてます」の表示。ドアに立てかけてある時計は、次回の城内ツアー時間を示しています。
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城内は外部と同じく、レンガがむき出しのままのところが多かった。2013年より、2階部分の観覧もできるようになった。そして一部の部屋は、戦災前の写真を原寸に拡大加工して張り付け、当時の外観を再現していた。良い工夫だと思う。
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この城館の建築は、1681年から1747年まで、5つの工期に分けて建設されました。
バッハと並ぶバロック時代の大音楽家・ヨハン・フリードリッヒ・ファッシュ(1688−1758)がこの城館に務めた時代(1722―1758)が、この宮廷の最も華やかな時代でした。 -
そして、この城館には名だたる音楽家が続々と客演にやってきました。
バッハとも深〜い関係のある○○とか▽▽とか・・・
おっと、この先は来年出版される書籍をお楽しみに!っていうことで、とりあえず城館の佇まいをお楽しみください。m(__)m -
この城館が第2次世界大戦後にたどった運命は、涙なくしては語れません・・・
しかし2003年に、社団法人として支援機関が設立されました。
そこのチーフで学者のDirk Hermann氏とは、何度かメールのやり取りをしましたが、
今回、お忙しくてお目にかかることが出来なかったのが残念でした。
この城館が老朽化して永遠に無くなってしまう前に、みんなで寄付をしよう!!!↓
http://www.schloss-zerbst-ev.de/html/start.htm -
廃墟と青空・・・
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こんな姿になってしまって、本当に残念・・・
つづく・・・
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