2013/05/27 - 2013/05/27
15位(同エリア43件中)
ベームさん
5日目、5/27(月)。
今日はハレのホテルに荷物を置いてまずアイスレーベンに行き、ハレに戻りハレを見てからヴィッテンベルクに行きます。泊まりもヴィッテンベルク。
アイスレーベン、ヴィッテンベルク、マルチン・ルターが生まれ活動し亡くなった町ですね。
アイスレーベン:正式にはルターシュタット・アイスレーベン。
人口2万5千人。997年には文献に出ている古い町。1483年マルチン・ルターはこの町で生まれ、また遊説中に亡くなったのもこの町でした。もっともアイスレーベンには1年しか住まなかったようです。ハレの西、ザーレ川が流れている。
ちょっとルターの略歴に触れます。他の文献を参照しています。
1483年:アイスレーベンにて鉱夫だった父ハンス、母マルガリータの二男として生まれる。
1498~1501:アイゼナハのギムナジウムで学ぶ。
1501~1505:エアフルト大学で法学を学ぶ。1505、落雷に遭い、その恐怖から修道士になることを決意、父の反対を押し切りエアフルトのアウグスティーヌ修道院に入る。
1505~1511:エアフルトのアウグスティーヌ修道院。
1511:ヴィッテンベルク大学に移り神学の教授、司祭を務める。ここで盟友となるメランヒトンと知り合う。
1517:マインツ大司教がローマのサン・ピエトロ大聖堂改修費用調達を名目に贖宥状(免罪符、金でこれを買えばこの世の罪は許される)を売り出したのに疑問を感じ、10月に有名な「95か条の論題」を大司教に送るとともにヴィッテンベルクの城の教会の扉に張り出した。ルターは罪の許しは聖書に基づく信仰によってのみ得られると考えていた。
これが宗教改革の始まりとなった。
長くなりますのでその後のことはヴィッテンベルクの旅行記に回します。
写真は1520年、ヴィッテンベルクでローマ教皇からの破門状を民衆の前で破り捨てるルター。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ハレからアイスレーベン、ハレに戻りヴィッテンベルクへ。
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今日も朝から小雨。
ハレのホテルは朝食なしなので駅のマックで写真の如きもので済ましました。
7ユーロ。 -
7:04発のRE。
この車両のドアはノブを左右に回すもので旧式。今は殆ど緑のボタンを押す形式です。去年はICの車両のドアの開けかたが上手くいかなかったなかったが今年はうまくいきました。 -
ルターシュタット・アイスレーベン7:32着。
ハレの少し西です。 -
アイスレーベン駅。
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朝早いせいか寂しい駅前風景。
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駅前。人っ子一人いない。
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駅から市街地まで離れているので1番遠いところまでタクシーを利用しました。帰り片道だけ歩く形になるので足腰の疲労軽減になります。8ユーロ。
クロスタープラッツの聖ゲルトルート教会。 -
聖ゲルトルート教会。
朝早く中には入れませんでした。 -
聖ゲルトルート教会。
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聖ゲルトルート教会。
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クロスター広場。
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広場の片隅にはこんな廃屋もあります。アイスレーベンは旧東独の町でした。
旧東独の町はドレスデン、ライプツィヒなど大都市を除きどこも寂しい雰囲気でした。 -
ニコライ通り。
まだ人通りは有りません。 -
通りにある古物商のウインドー。
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聖ニコライ教会へ行く途中の高台から町の中心部の教会の塔が見えます。
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聖ニコライ教会。
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聖ニコライ教会。
1191年。昔城砦も兼ねていました。 -
聖ニコライ教会。
ここも早くて入れません。ようやく子供たちが登校する時間です。 -
街並み。
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フライ通り。
市を南北に貫くメイン通りで少し交通量が増えてきました。 -
シュロスプラッツにやって来ました。
郵便局です。ドイツの郵便局や役所はこういった古い建物を使っているものが多いです。 -
シュロスプラッツは昔城塞があった所です。当時のミニチュアがありました。
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昔のルターギムナジウム。
今も学校関係でしょうか、学生さんらしい女性が開門を待っています。 -
1882年に建てられ1929年までギムナジウムとして使われた。
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お役所?
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シュロスプラッツ界隈は官庁街のようで古いどっしりした建物が並んでいます。
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広場の片隅に建つマラソンランナーの像。
1826~1926年と読めますが後は読めません。 -
食品スーパー。
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町の中心に向かいます。
ブッハー通りの玩具屋のウインドー。 -
聖アンドレアス教会が見えてきました。
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聖アンドレアス教会。
1546年2月、マルチン・ルターはこの教会に招かれて説教中に倒れ、これが最後の説教となりました。13世紀の建築。 -
聖アンドレアス教会。
此処も開門前で中に入れません。 -
聖アンドレアス教会。
余り早くから行動するのも考え物です。 -
昔のギムナジウム。
1601年。 -
マルチン・ルターの臨終の家。
聖アンドレアス教会のすぐ前にあります。ここでルターは62歳の生涯を閉じました。
博物館になっていますが10時開館なのでここも入れません。 -
「この家で1546年2月18日マルチン・ルター死す。」
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マルチン・ルター臨終の家。
聖アンドレアス教会の向かいにありました。3軒並んでいる1番奥の家。 -
少し離れたところにあるルター薬局。
マルチン・ルターと関係なさそう。 -
マルクト広場です。
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中央にマルチン・ルターの像。
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市庁舎。
曇天で綺麗な写真が撮れません。 -
市庁舎。
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市庁舎。
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市庁舎の前に建つ破門状を破り捨てるルター像。
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実際に破門状を破ったのはここではなく、ヴィッテンベルクです。
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ルター像と市庁舎。
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人気のないマルクト広場。
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マルクト通りの奥に市庁舎が見えます。
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レーヴェンアポテーケ。
前の写真のルターアポテーケより古そうです。古い町には必ずと言っていいほどレーヴェン/獅子と名のつく薬局があります。あと多いのがマルクトアポテーケ/市場、ラーツアポテーケ/市役所薬局。 -
どこでしたか?。
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グロッケン通り。
パソコンでコピーした地図を頼りにルターの生家を探しています。 -
水路がありました。
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水路の手前を左に曲がるとルター通りに出ます。
寂しい通りです。 -
こんな風景もあります。旧東ドイツの経済はまだまだ苦しいようです。
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真ん中、自動車が止っているところの右がルターの生家でした。。
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ルター関係らしい絵が架かっている廃屋があります。
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ルター生家。
左の家。現博物館。1689年再建されています。 -
ルター生家。
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ルターの頭の上の丸い紋章はルター・ローズではないかと思います。
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「この家で1483年11月10日にマルチン・ルターが生まれた。」
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生家の角のルター像。
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ルター生家から聖ペテロ・パウリ教会へ通じる道。
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先ほど見た水路を渡ります。
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ルターが洗礼を受けた聖ペテロ・パウリ教会。
ルター、妻カタリーナ、ルターの父ハンス、母マルガリータの墓標画があるそうです。 -
聖ペテロ・パウリ教会。
工事中で中に入れず。結局アイスレーベンでは一つも博物館、教会の中に入ることは出来ませんでした。 -
教会の裏の小さな公園を上って行きます。
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公園に建つフリードリヒ・ケーニヒ像。
「アイスレーベンの息子フリードリヒ・ケーニヒ。シュネルプレスの発明者」となっています。Schnellpresseとは速報新聞とか号外の類でしょうか。 -
公園を上った所は豪邸が並んでいました。
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高級住宅街といったところ。
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これで駅に向かいます。
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木立の中を通るバーンホフ通りをひたすら歩きます。
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バーンホフ通りのはずれに小さな墓地がありました。墓石の頭に金色の鎌と槌を彫った星形のマークが乗っています。
鎌と槌といえばかってのソビエト共産党のシンボルではありませんか。ここはこの地で亡くなったソビエト共産党員もしくはソ連人の墓地なのでしょうか。 -
碑はロシア語で書かれているので分かりませんがかろうじて1941~1945年と読めるので第2次世界大戦の犠牲者の墓地のようです。
しかし墓石に彫られた死亡年には1946年2月というのもあるので必ずしも大戦の犠牲者ばかりとは限らないのかもしれません。 -
この地に住んでいて亡くなったのか、この地に攻め込んで戦死したのか、いずれにしても異国の地に眠る寂しい人たちです。
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駅に戻ってきました。
駅前の何でしょう、自転車置き場にも見えますが。 -
アイスレーベン駅のホーム。
これでマルチン・ルターが生まれ、最後の説教中に倒れ客死した町を終わります。
それほどの歴史的重要性を持つ町なのに旧東独に属したことによるのか、未だ町中には廃墟がありうらぶれた通りが残っていました。昨日のフランクフルト(オーダー)と共に寂しいことです。
時間が早かったので教会にも博物館にも入れず短時間の滞在でした。
10:22発のREでハレに向かいました。
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