喜界島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
第十章あみんちゅ歴史を学ぶ旅奄美群島喜界島~戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~<br /> <br />2014年7月に訪れた沖縄県摩文仁の平和祈念公園に端を発した第二次世界大戦における戦跡巡りの旅ですが、今回は鹿児島県第二弾として喜界島の戦争史跡である<br />①	戦闘指揮所跡<br />②	海軍航空基地戦没者慰霊之碑<br />③	掩体壕<br />の三ヵ所を訪れました。<br /><br />まず喜界島と戦争との結びつきですが、昭和6(1931)年に海軍の不時着用飛行場として、今の空港のある中里集落に喜界島飛行場が建設されたことから始まります。当時は勿論舗装もされていないものでした。そして第二次世界大戦が勃発し、次第に南方戦線へと補給輸送ルートの中継地としての役割を担うこととなります。日本を取り巻く戦況の悪化に伴い、昭和18(1943)年には島民を総動員して、東西南北各1,000mの滑走路を持つ全天候型の離発着ができる海軍喜界島飛行基地が作り上げられました。その後敗戦色濃厚となってきた昭和20(1945)年には、沖縄戦に向かう特攻機や戦闘機のための給油や整備を行う中継基地としての役割を担い、陸海軍問わずに戦闘機を受け入れ、そして送り出しました。<br /><br />沖縄戦の終焉とされる昭和20(1945)年6月23日を過ぎてもその情報は伝わって来ず、連合国の前線基地への戦略爆撃は止まらず、結果8月15日のポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏に至るまで、喜界島とその周辺区域では航空戦が行われていたというのが一般論とされているもののようです。しかし検証の度合いに疑問が残る説の中には、終戦当時には〝情報網〟が断絶しており、沖縄戦の終結とされる昭和20(1945)年6月23日の第32軍司令官牛島満中将の自決の情報すら伝わってきておらず、昭和20(1945)年8月15日の正午昭和天皇の玉音放送のもと、ポツダム宣言の受諾により日本が無条件降伏をした〝史実〟が、どうやら奄美を守備していた独立混成64旅団長を説得するものではなかったことと伝えているものもあることから、戦闘の終了は昭和20(1945)年8月15日〝以降〟説も、ひとことで〝フィクション〟とも言い切れないもののようにも思えてなりません。<br /><br />そのため〝事実上の終戦〟ではなく〝実際の終戦〟が、昭和20(1945)年9月7日沖縄島越来村森根(現在の米軍嘉手納基地付近)にて、南西諸島に於ける降伏文書に第28師団長納見敏郎中将(宮古島)、第64混成旅団長高田利貞少将(奄美)、沖縄方面根拠地隊加藤唯雄少将(参謀長)の3名が調印した日にまで〝ずれ込んだ〟という説ことこそ、この奄美群島に於ける〝本当の終戦〟ではなかったのではないかと推測します。この話を裏付ける話は、奄美群島を守備していた独立混成64旅団長高田利貞少将が、停戦勧告に訪れた米軍の使者を迎えたときのエピソードとして書かれていることからも伺えます。<br />ただ沖縄戦でも、〝戦闘の停止〟=〝武装解除〟とは必ずしも一致しない事例が多く存在しています。事実奄美地区でも昭和20(1945)9月7日に旅団長は調印しているものの、米軍の進駐は奄美群島へは9月21日の徳之島にはじまり、喜界島に至っては10月3日となっています。これにより正式な〝武装解除〟が〝終戦〟を意味するのであれば、この〝南西諸島〟の終戦は、昭和20(1945)年10月3日となる解釈も根拠のないものではないようにも思います。<br /><br />この降伏調印を持って奄美群島は、アメリカの軍政統治下に入ります。統治下での貧窮した生活に対する奄美群島島民の祖国復帰を願う気持ちは年々高まりをみせ、昭和26(1951)年2月19日から始まった署名活動は、最終的に14歳以上の実に99.8%に及びます。結果昭和28(1953)年8月8日のダレス声明による権利放棄を受けて、昭和28(1953)年12月25日に〝日本へのクリスマスプレゼント〟と揶揄されながらも復帰を果たします。沖縄の返還は昭和47(1972)年5月15日だったことも考えると、20年近く早かったことでした。<br />このあたりの話は、沖縄と奄美が置かれていた〝政治的背景〟を含めた違いによるもの、また〝住民運動の高まり〟に対する米軍基地等の〝軍事施設数〟の違いにより、統治下にしておくことへの〝損得論〟の絡みがあったこと等があったとされているようですが、やはり明確な確信をついている説ではないようにも思います。<br /><br />日本復帰を果たした奄美群島でしたが、南国戦線への前線基地としての役割を担ったことは先述しました。しかし平和な時代になってしまうとただの〝田舎〟と捉えられてしまうことには例には漏れませんでした。海軍の不時着飛行場に端を発したこの喜界空港、全盛期には全天候型の滑走路を持つ大きなものだったことは想像できるにしても、終戦を迎えしばらくの間歴史の表舞台から消えていました。再び空港として息を吹き返したのは、昭和34(1959)年8月のことです。喜界町が運営する地方空港として、南北方向1,080mの非舗装の滑走路を持ち、鹿児島空港(旧鴨池空港)との便を持つ今では考えられない〝奄美のハブ空港〟としての復帰でした。その当時奄美大島には空港がなく(旧奄美空港は昭和39年開設)、当時奄美空港の設営に携わる方々は、喜界空港に降り立ち、〝船〟を利用して奄美へと渡って行かれたそうです。その後YS-11が就航していた時代もあり、再び全盛期を迎え、1968年12月28日には舗装された1,200mの滑走路を持つ空港になりました。昭和46年4月1日に喜界町から鹿児島県へと運営が変わって現在に至っています。<br /><br />終戦時に運用されていた全国の多くの空港がほとんど原型を留めない程の爆撃を受けたことを考えれば、その跡地の利用をしている喜界空港は、ある意味〝戦跡〟ではないかとも思います。勿論その面影を残すことで、当時を知る方々には複雑な想いをされることもあるようには思うものの、その海軍航空隊喜界島基地の流れを持つ〝歴史の生き証人〟としての役割を恒久的に続けて行って貰いたいようにも思います。空港臨海公園にそびえ立つ〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟があり、その慰霊之碑が見守る現喜界空港と滑走路という〝絶妙の関係〟、それがあってこそ、島に点在する〝戦跡〟の重要性が増すことは間違いのないことだと思います。いっときの〝奄美のハブ空港〟としての役割は終わったものの〝歴史と謂れのある空港〟として今後も輝き続けて欲しいと放浪癖のある観光客は思います。<br /><br />記録の上では、最後に喜界飛行場から飛び立った特攻機は、昭和20(1945)年8月13日に5機と記されていると聞きました。それから70年の歳月が経とうとする今日、果たして人類は〝戦争〟という過ちに気付いているのでしょうか?いささか疑問にも思える日々の出来事に憤りを感じずにはいられません。<br /><br />それでは個々の史跡をご紹介します。<br /><br />①戦闘指揮所跡【鹿児島県大島郡喜界町中里】<br />空港建物より歩いて2~3分位の距離にあり、Jネットレンタカー喜界空港店の隣にあります。駐車場がないため、先にレンタカーを借りてしまうと不便なので、車を借りる前に行かれることをお勧め致します。建物の形には特徴的なものがありますが、煙突のようにも見えなくはない部分は、〝監視台〟の役割をしていたのではないかと言われています。戦闘指揮所跡としては、全国で唯一現存する貴重なものになりますが、建てられた時期などは高度の軍機密事項だったようでわかってはいません。四ヶ所ある入口は、一ヶ所破壊されても出入りに困らないためとされています。<br />解説文が書いてある看板が、入口として入った方向と逆の場所に立っていることは少し〝おや?〟と思われるかもしれません。しかし〝わかりやすい場所〟にあると、機密事項にする意味がないことを考えると納得がいくかも知れません。<br />戦闘指揮所跡という名の通り、大戦末期には〝沖縄戦〟へと向かう〝特攻隊員〟に最後の命令を出したところであります。建物内通路がH型になっており、向かい合う入口部分が高くなっており、中央部には日の当たらない部分に横につながる〝暗室〟のような空間があります。素人の目線では、ここに〝裸電球ひとつ〟あって机があり、そこに指揮官が座って指示を出したのではなかろうかと思います。<br />入口のひとつに〝破壊〟された部分が目につく箇所がありますが、これは飛行場が爆撃された際に破壊されたものだそうです。作りは非常に立派なものですが、中の鉄筋が剥き出しになっていることはその爆撃の凄まじさを物語っています。<br />この建物、少し浮いた場所に建っているようにも見えますが、個人の敷地内にあるとのことでした。戦争と言う〝破壊〟の時代が終わり、強制収用していた土地が返還され、使い勝手の悪いものは時代の流れとともに取り潰されてきた〝戦跡〟を取り巻く環境の中で、〝保存〟に尽力して頂けると言うことはありがたいという言葉でしか表現できません。その姿に感動したイチ観光客には〝なにかできること〟を探しても見つけることはできませんでした。もしできることがあるとすれば、多分唯一拙い言葉でそのありのままの姿を表現し、少しでも興味を持って頂きたいというメッセージの発信だけだと思ってこれを書いています。これが私にできる〝戦闘指揮所跡〟の見て聞いて感じたことになります。<br /><br /><br />②掩体壕【鹿児島県大島郡喜界町湾】<br />〝掩体壕〟とは、飛行機を爆撃から守るために作られた〝格納庫〟です。戦闘機を格納する必要があったこと、すなわち軍の飛行場があった場所ということになりますが、大戦末期の物資枯渇の時代に作られたものは、コンクリートの使用量を減らし、その分を〝石ころ〟などを混ぜ込んだ素人の目にも質が悪いことがわかる〝粗悪品〟が多々見られました。鉄筋など入れられるはずもなかったものは強度不足も明らかで、結果として本来の目的である爆撃から戦闘機を守れるはずもなく、米軍の執拗な戦略爆撃のもと、軽ジュラルミンの戦闘機に〝重し〟となる形で破壊されていくこととなりました。終戦後強制収用された土地に作られた〝飛行場〟は、その目的がなくなり、〝農地〟として民間に払い下げられました。その時代の流れの中で〝俺体壕〟としての役割を果たせずに、爆撃によって破壊されたものも多い中で、〝作られた数〟そのものが多いために、広大な敷地の中ポツンと取り残されたものも数多くありました。本来なら〝歴史の生き証人〟としての役割を担うことのできるもののようにも思いますが、戦闘機を守るために〝カマボコ状〟に作られた巨大な建造物は、思った以上に使い勝手が悪かったようで、その上〝質〟まで悪いものだということであれば、経年劣化とともに取り壊されていくものが多くなることは容易に想像がつく結果ではありました。<br />その中にあってここで紹介させて頂いた〝掩体壕〟は、鉄筋入りのしっかりしたつくりをしており、保存状態が良いことが特徴として挙げられます。旧海軍の航空基地があった喜界島には、こちらの他にも〝質の悪い俺体壕〟も現存していることを地元の方からの情報を得ています。残念ながら細かい場所までは聞いていなかったこと、そしてなにより〝時間切れ〟という理由のため行くことができませんでした。そのため単純に〝ビジュアル〟での比較を今回はすることができません。しかし今回訪れることができた〝掩体壕〟を見る限り、私有地である広場に忽然と現われるその様は、その区画に占める〝広さ〟をまざまざと思い知らされることになりました。今までの文献考察の中に出てきた〝掩体壕〟は、あくまで写真の中だけのものであって、数字の上の大きさだっただけに過ぎません。しかし目の前にあるものは、正しく70年前に〝戦闘機〟を格納したものであり、経年劣化はあるもののすこぶる保存状態も良いものでした。〝使い勝手の悪さ〟とことばで連呼するのは容易いことですが、どう使い辛いのかということは〝実物〟を目の当たりにして初めて感じることができるものではないでしょうか。世界に誇る〝ゼロ戦〟は、性能もさることながら〝見た目の格好の良さ〟もいわれています。単発機ゆえ前面にはプロペラが付いており、その後方にコクピット、そして主翼、そして尾翼といった構造になりますが、相対的に後方が狭くなっているため、俺体壕の建設時に必要とされる〝場所〟、そして〝資材〟のことを考えて、必要以上の広さを持たそうとしなかったこともあり、それが〝同じ高さ〟と〝同じ幅〟で作るより強度を保てる〝力学上のメリット〟を得られることを踏まえると、〝再利用〟など木っ端微塵も考えていない当時のことであれば、この〝カマボコ型〟に行き着いたことは容易に想像がつくことだと思います。掩体壕の〝特異的な形状〟ゆえ〝保存といった目的を、ひとことでは簡単に片付けられる問題ではなく、その遂行には〝計り知れない苦労〟が伴うもののように思います。喜界島では数多くの戦争史跡が保存されていることは先述しましたが、この戦跡は〝私有地〟に残っています。あまりきれいな言い方ではありませんが、やはり〝保存〟と〝維持〟をするにもコストがかかるため、その費用負担等の〝公的資金の投入〟等で賄えるものは賄うとし、せっかくの目的遂行が〝息切れ〟状態になったことで〝尻切れトンボ〟状態になってしまった…。それだけにはならぬように願うことしかできない一観光客の想いではありました。<br /><br />③海軍航空基地戦没者慰霊之碑【鹿児島県大島郡喜界町中里:空港臨海公園内】<br />喜界島南西部に位置する喜界空港の海側に広がる〝空港臨海公園〟内に位置する〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟は、旧海軍飛行場跡地をベースに作られた〝喜界空港〟を望む位置に平成6年に建立されました。先の大戦末期には、特攻機を含む南方戦線へと向かう飛行機の中継基地としての役割を果たし、数多くの兵士の方々がこの地を後にし、二度と戻ることのない旅路につかれました。<br />現在ではそのような過去などなにもなかったかのように、のんびりとした田舎の一ローカル空港として、鹿児島と奄美の空港へとそれぞれ3便ずつの日本エアコミューターのSAAB340B型機が飛んでいます。〝喜界島飛行場〟があったから〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟があるという理由ではあるのですが、〝着陸する航空機〟を出迎え、〝離陸する航空機〟を見送る位置にその慰霊之碑があることは、戦争を知らない世代が〝航空機〟を武器として戦争を仕掛けようとすることに警鐘を鳴らしているように思えてなりません。実際の思惑はともかく、現飛行場を慰霊之碑が見守っていることには、〝言葉では表現できない〟〝訴え〟を感じます。<br />今年戦後70年の節目の年を迎えました。日本を取り巻く国際情勢の複雑さは、年を追うごとに複雑にはなってきているようには思えます。しかし戦争という〝破壊〟と〝憎しみ〟<br />しか生み出さない〝解決法〟を選択することは、〝大多数の犠牲〟を払った〝軍国主義〟<br />への〝逆戻り〟でしかありません。先の大戦に於いて、自らのひとつしかない命を懸けて家族は勿論、未来将来に渡る人々のことを想って逝かれた兵士の方々の崇高な考えを無下にすることは許されざることだと思います。言い方は悪いですが、どんなことをしても戦死された兵士の方々が生き返る訳ではありません。しかしその想いを国民全てが再認識し、頭をひねり、平和解決の糸口を見つけていくことこそが急務ではないかと思います。<br /><br /><br />〝まとめ〟と言う程のことではありませんが、今回列挙した事柄は戦争を知らない世代の一観光客が偉そうに言うことではないことなのかも知れません。しかし一昨年公開の映画〝永遠の0〟によって、〝特攻隊〟というものがクローズアップされ、その結果〝特攻隊関連〟の資料館である〝万世〟〝知覧〟〝鹿屋〟への来客数が増えたことは以前にも述べたことがありました。勿論〝関心を持った〟、そして〝訪れた〟だけでは、本来の目的を達成したとは言えません。しかしこの〝戦争〟という暗黒の時代を今の時代へと伝える戦跡の多くは、〝埋もれている〟要素が多いように思えてなりません。その一方戦場となった場所では不発弾の問題など、今尚日常生活に影響をきたすような問題を数多く抱えている事実を踏まえると、部外者が安易に〝戦跡〟として周知を計り、関心を引こうとする考え方に〝嫌悪感〟を抱かれてしまうことも懸念しないといけないのでとも思います。見た目ではなく〝本当の生活の質の向上〟につながる〝開発〟であるならば、それが優先課題となって当然のことでしょうし、そういう思いも私自身が持っていることも事実です。確かに〝保存〟と〝開発〟という両端の選択肢を、〝折衷案〟を用いることによって、両者を並立させることは大変難しいことだとは思います。しかしそこに〝共存を考える接点〟を追求することは本当にできないことなのでしょうか。その答えを出すことは、〝一部外者〟としての私の立場ではできないことであり、今後も出来るようにはならないとも思っています。なかなか上手く言うことができないのですが、〝多数意見〟だけに捉われない、〝過去と現在の在り方〟を問うことは必要な時期に差し掛かってきているように思います。<br /><br />コロンブスの卵状態の話ではあるのですが、戦跡保存に尽力されている喜界島であっても戦跡の地点登録は、カーナビ上はされていません。運良くレンタカー利用者が過去に行ったことがあって、偶然履歴に出てくるというケースはともかく、頂いた地図をもとにして現在地をナビで表示させながら場所を特定していくことは、思いのほか手間のかかる作業でした。勿論そのような苦労があってこそたどり着ける場所だからこそ感じる〝ありがたみ〟は旅の醍醐味のひとつであることには違いありません。しかし効率が良いものとは到底思えるものではなく、結果〝見て回ることができる〟件数は限られてしまう上に、ゆっくり時間をかけることは不可能なこととなってしまいます。<br />このご時世スマートフォンという便利なものはありますが、その〝ナビ機能〟を使うにしても、目的地の〝座標打ち〟をしないと役目を果たしません。ようは〝データベース化〟をする必要がある訳ですが、これには〝目的地〟の数だけの〝地点情報〟が必要となるため、そう簡単にはいかないように思います。端的に言うと〝デジタル戦跡マップ〟の作成になりますが、営利目的の会社が作るためにその内容が充実していることを考えると、〝非営利目的〟でどこまでのものができるかと言うと、たいしたものはできないように思います。しかし〝できないからやらない〟にしてしまうと前進することは絶対にありません。ダメダメ続きになってしまい、論じている内容にも自信が持てなくなりそうですが、これがもし作ることができるのであれば、今現在話題に取り上げられることもなく、時代の流れに埋もれている戦跡が陽の目を浴びて、新たな歴史の生き証人として息を吹き返すことはおおいに期待できるのではないでしょうか。<br /><br />戦後70年の節目の年、なにかやってもやらなくても時は過ぎて行きます。実現できるか否かは〝結果論〟であり、行動を起こすか起こさないかの〝過程論〟は論ずるより生むが易しではないかと思います。<br /><br />喜界島の方々は、皆さんあたたかく観光客を受け容れてくださり、口を揃えて〝何もない島〟を強調されます。しかし〝何もない島〟に偽りありで、ホントは〝宝の島〟だと私は思っています。勿論〝どのように捉える〟かは個人の自由ではありますが、平和そのもののLOCAL ISLANDに見え隠れする70年前の遺構に触れ、今の時代を見つめ直す機会を持つことは、〝生きた平和教育〟そのもののようにも思えます。<br /><br />長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで【通番009】あみんちゅ戦跡を巡る旅鹿児島その弐~喜界島:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~を終わります。<br /><br />※なお先述しました〝座標データ〟収集のため、写真の注釈にTIFFのデータを貼り付けています。<br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br />【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933877<br /><br />【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933914<br /><br />【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10963283<br /><br />【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10981023<br /><br />【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10974454<br /><br />【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990537<br /><br />【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990699<br /><br />【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990539<br /><br />※未完成<br />【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10964521

第十章あみんちゅ歴史を学ぶ旅奄美群島喜界島~戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~

36いいね!

2015/05/18 - 2015/05/22

24位(同エリア67件中)

3

30

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第十章あみんちゅ歴史を学ぶ旅奄美群島喜界島~戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~

2014年7月に訪れた沖縄県摩文仁の平和祈念公園に端を発した第二次世界大戦における戦跡巡りの旅ですが、今回は鹿児島県第二弾として喜界島の戦争史跡である
① 戦闘指揮所跡
② 海軍航空基地戦没者慰霊之碑
③ 掩体壕
の三ヵ所を訪れました。

まず喜界島と戦争との結びつきですが、昭和6(1931)年に海軍の不時着用飛行場として、今の空港のある中里集落に喜界島飛行場が建設されたことから始まります。当時は勿論舗装もされていないものでした。そして第二次世界大戦が勃発し、次第に南方戦線へと補給輸送ルートの中継地としての役割を担うこととなります。日本を取り巻く戦況の悪化に伴い、昭和18(1943)年には島民を総動員して、東西南北各1,000mの滑走路を持つ全天候型の離発着ができる海軍喜界島飛行基地が作り上げられました。その後敗戦色濃厚となってきた昭和20(1945)年には、沖縄戦に向かう特攻機や戦闘機のための給油や整備を行う中継基地としての役割を担い、陸海軍問わずに戦闘機を受け入れ、そして送り出しました。

沖縄戦の終焉とされる昭和20(1945)年6月23日を過ぎてもその情報は伝わって来ず、連合国の前線基地への戦略爆撃は止まらず、結果8月15日のポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏に至るまで、喜界島とその周辺区域では航空戦が行われていたというのが一般論とされているもののようです。しかし検証の度合いに疑問が残る説の中には、終戦当時には〝情報網〟が断絶しており、沖縄戦の終結とされる昭和20(1945)年6月23日の第32軍司令官牛島満中将の自決の情報すら伝わってきておらず、昭和20(1945)年8月15日の正午昭和天皇の玉音放送のもと、ポツダム宣言の受諾により日本が無条件降伏をした〝史実〟が、どうやら奄美を守備していた独立混成64旅団長を説得するものではなかったことと伝えているものもあることから、戦闘の終了は昭和20(1945)年8月15日〝以降〟説も、ひとことで〝フィクション〟とも言い切れないもののようにも思えてなりません。

そのため〝事実上の終戦〟ではなく〝実際の終戦〟が、昭和20(1945)年9月7日沖縄島越来村森根(現在の米軍嘉手納基地付近)にて、南西諸島に於ける降伏文書に第28師団長納見敏郎中将(宮古島)、第64混成旅団長高田利貞少将(奄美)、沖縄方面根拠地隊加藤唯雄少将(参謀長)の3名が調印した日にまで〝ずれ込んだ〟という説ことこそ、この奄美群島に於ける〝本当の終戦〟ではなかったのではないかと推測します。この話を裏付ける話は、奄美群島を守備していた独立混成64旅団長高田利貞少将が、停戦勧告に訪れた米軍の使者を迎えたときのエピソードとして書かれていることからも伺えます。
ただ沖縄戦でも、〝戦闘の停止〟=〝武装解除〟とは必ずしも一致しない事例が多く存在しています。事実奄美地区でも昭和20(1945)9月7日に旅団長は調印しているものの、米軍の進駐は奄美群島へは9月21日の徳之島にはじまり、喜界島に至っては10月3日となっています。これにより正式な〝武装解除〟が〝終戦〟を意味するのであれば、この〝南西諸島〟の終戦は、昭和20(1945)年10月3日となる解釈も根拠のないものではないようにも思います。

この降伏調印を持って奄美群島は、アメリカの軍政統治下に入ります。統治下での貧窮した生活に対する奄美群島島民の祖国復帰を願う気持ちは年々高まりをみせ、昭和26(1951)年2月19日から始まった署名活動は、最終的に14歳以上の実に99.8%に及びます。結果昭和28(1953)年8月8日のダレス声明による権利放棄を受けて、昭和28(1953)年12月25日に〝日本へのクリスマスプレゼント〟と揶揄されながらも復帰を果たします。沖縄の返還は昭和47(1972)年5月15日だったことも考えると、20年近く早かったことでした。
このあたりの話は、沖縄と奄美が置かれていた〝政治的背景〟を含めた違いによるもの、また〝住民運動の高まり〟に対する米軍基地等の〝軍事施設数〟の違いにより、統治下にしておくことへの〝損得論〟の絡みがあったこと等があったとされているようですが、やはり明確な確信をついている説ではないようにも思います。

日本復帰を果たした奄美群島でしたが、南国戦線への前線基地としての役割を担ったことは先述しました。しかし平和な時代になってしまうとただの〝田舎〟と捉えられてしまうことには例には漏れませんでした。海軍の不時着飛行場に端を発したこの喜界空港、全盛期には全天候型の滑走路を持つ大きなものだったことは想像できるにしても、終戦を迎えしばらくの間歴史の表舞台から消えていました。再び空港として息を吹き返したのは、昭和34(1959)年8月のことです。喜界町が運営する地方空港として、南北方向1,080mの非舗装の滑走路を持ち、鹿児島空港(旧鴨池空港)との便を持つ今では考えられない〝奄美のハブ空港〟としての復帰でした。その当時奄美大島には空港がなく(旧奄美空港は昭和39年開設)、当時奄美空港の設営に携わる方々は、喜界空港に降り立ち、〝船〟を利用して奄美へと渡って行かれたそうです。その後YS-11が就航していた時代もあり、再び全盛期を迎え、1968年12月28日には舗装された1,200mの滑走路を持つ空港になりました。昭和46年4月1日に喜界町から鹿児島県へと運営が変わって現在に至っています。

終戦時に運用されていた全国の多くの空港がほとんど原型を留めない程の爆撃を受けたことを考えれば、その跡地の利用をしている喜界空港は、ある意味〝戦跡〟ではないかとも思います。勿論その面影を残すことで、当時を知る方々には複雑な想いをされることもあるようには思うものの、その海軍航空隊喜界島基地の流れを持つ〝歴史の生き証人〟としての役割を恒久的に続けて行って貰いたいようにも思います。空港臨海公園にそびえ立つ〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟があり、その慰霊之碑が見守る現喜界空港と滑走路という〝絶妙の関係〟、それがあってこそ、島に点在する〝戦跡〟の重要性が増すことは間違いのないことだと思います。いっときの〝奄美のハブ空港〟としての役割は終わったものの〝歴史と謂れのある空港〟として今後も輝き続けて欲しいと放浪癖のある観光客は思います。

記録の上では、最後に喜界飛行場から飛び立った特攻機は、昭和20(1945)年8月13日に5機と記されていると聞きました。それから70年の歳月が経とうとする今日、果たして人類は〝戦争〟という過ちに気付いているのでしょうか?いささか疑問にも思える日々の出来事に憤りを感じずにはいられません。

それでは個々の史跡をご紹介します。

①戦闘指揮所跡【鹿児島県大島郡喜界町中里】
空港建物より歩いて2~3分位の距離にあり、Jネットレンタカー喜界空港店の隣にあります。駐車場がないため、先にレンタカーを借りてしまうと不便なので、車を借りる前に行かれることをお勧め致します。建物の形には特徴的なものがありますが、煙突のようにも見えなくはない部分は、〝監視台〟の役割をしていたのではないかと言われています。戦闘指揮所跡としては、全国で唯一現存する貴重なものになりますが、建てられた時期などは高度の軍機密事項だったようでわかってはいません。四ヶ所ある入口は、一ヶ所破壊されても出入りに困らないためとされています。
解説文が書いてある看板が、入口として入った方向と逆の場所に立っていることは少し〝おや?〟と思われるかもしれません。しかし〝わかりやすい場所〟にあると、機密事項にする意味がないことを考えると納得がいくかも知れません。
戦闘指揮所跡という名の通り、大戦末期には〝沖縄戦〟へと向かう〝特攻隊員〟に最後の命令を出したところであります。建物内通路がH型になっており、向かい合う入口部分が高くなっており、中央部には日の当たらない部分に横につながる〝暗室〟のような空間があります。素人の目線では、ここに〝裸電球ひとつ〟あって机があり、そこに指揮官が座って指示を出したのではなかろうかと思います。
入口のひとつに〝破壊〟された部分が目につく箇所がありますが、これは飛行場が爆撃された際に破壊されたものだそうです。作りは非常に立派なものですが、中の鉄筋が剥き出しになっていることはその爆撃の凄まじさを物語っています。
この建物、少し浮いた場所に建っているようにも見えますが、個人の敷地内にあるとのことでした。戦争と言う〝破壊〟の時代が終わり、強制収用していた土地が返還され、使い勝手の悪いものは時代の流れとともに取り潰されてきた〝戦跡〟を取り巻く環境の中で、〝保存〟に尽力して頂けると言うことはありがたいという言葉でしか表現できません。その姿に感動したイチ観光客には〝なにかできること〟を探しても見つけることはできませんでした。もしできることがあるとすれば、多分唯一拙い言葉でそのありのままの姿を表現し、少しでも興味を持って頂きたいというメッセージの発信だけだと思ってこれを書いています。これが私にできる〝戦闘指揮所跡〟の見て聞いて感じたことになります。


②掩体壕【鹿児島県大島郡喜界町湾】
〝掩体壕〟とは、飛行機を爆撃から守るために作られた〝格納庫〟です。戦闘機を格納する必要があったこと、すなわち軍の飛行場があった場所ということになりますが、大戦末期の物資枯渇の時代に作られたものは、コンクリートの使用量を減らし、その分を〝石ころ〟などを混ぜ込んだ素人の目にも質が悪いことがわかる〝粗悪品〟が多々見られました。鉄筋など入れられるはずもなかったものは強度不足も明らかで、結果として本来の目的である爆撃から戦闘機を守れるはずもなく、米軍の執拗な戦略爆撃のもと、軽ジュラルミンの戦闘機に〝重し〟となる形で破壊されていくこととなりました。終戦後強制収用された土地に作られた〝飛行場〟は、その目的がなくなり、〝農地〟として民間に払い下げられました。その時代の流れの中で〝俺体壕〟としての役割を果たせずに、爆撃によって破壊されたものも多い中で、〝作られた数〟そのものが多いために、広大な敷地の中ポツンと取り残されたものも数多くありました。本来なら〝歴史の生き証人〟としての役割を担うことのできるもののようにも思いますが、戦闘機を守るために〝カマボコ状〟に作られた巨大な建造物は、思った以上に使い勝手が悪かったようで、その上〝質〟まで悪いものだということであれば、経年劣化とともに取り壊されていくものが多くなることは容易に想像がつく結果ではありました。
その中にあってここで紹介させて頂いた〝掩体壕〟は、鉄筋入りのしっかりしたつくりをしており、保存状態が良いことが特徴として挙げられます。旧海軍の航空基地があった喜界島には、こちらの他にも〝質の悪い俺体壕〟も現存していることを地元の方からの情報を得ています。残念ながら細かい場所までは聞いていなかったこと、そしてなにより〝時間切れ〟という理由のため行くことができませんでした。そのため単純に〝ビジュアル〟での比較を今回はすることができません。しかし今回訪れることができた〝掩体壕〟を見る限り、私有地である広場に忽然と現われるその様は、その区画に占める〝広さ〟をまざまざと思い知らされることになりました。今までの文献考察の中に出てきた〝掩体壕〟は、あくまで写真の中だけのものであって、数字の上の大きさだっただけに過ぎません。しかし目の前にあるものは、正しく70年前に〝戦闘機〟を格納したものであり、経年劣化はあるもののすこぶる保存状態も良いものでした。〝使い勝手の悪さ〟とことばで連呼するのは容易いことですが、どう使い辛いのかということは〝実物〟を目の当たりにして初めて感じることができるものではないでしょうか。世界に誇る〝ゼロ戦〟は、性能もさることながら〝見た目の格好の良さ〟もいわれています。単発機ゆえ前面にはプロペラが付いており、その後方にコクピット、そして主翼、そして尾翼といった構造になりますが、相対的に後方が狭くなっているため、俺体壕の建設時に必要とされる〝場所〟、そして〝資材〟のことを考えて、必要以上の広さを持たそうとしなかったこともあり、それが〝同じ高さ〟と〝同じ幅〟で作るより強度を保てる〝力学上のメリット〟を得られることを踏まえると、〝再利用〟など木っ端微塵も考えていない当時のことであれば、この〝カマボコ型〟に行き着いたことは容易に想像がつくことだと思います。掩体壕の〝特異的な形状〟ゆえ〝保存といった目的を、ひとことでは簡単に片付けられる問題ではなく、その遂行には〝計り知れない苦労〟が伴うもののように思います。喜界島では数多くの戦争史跡が保存されていることは先述しましたが、この戦跡は〝私有地〟に残っています。あまりきれいな言い方ではありませんが、やはり〝保存〟と〝維持〟をするにもコストがかかるため、その費用負担等の〝公的資金の投入〟等で賄えるものは賄うとし、せっかくの目的遂行が〝息切れ〟状態になったことで〝尻切れトンボ〟状態になってしまった…。それだけにはならぬように願うことしかできない一観光客の想いではありました。

③海軍航空基地戦没者慰霊之碑【鹿児島県大島郡喜界町中里:空港臨海公園内】
喜界島南西部に位置する喜界空港の海側に広がる〝空港臨海公園〟内に位置する〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟は、旧海軍飛行場跡地をベースに作られた〝喜界空港〟を望む位置に平成6年に建立されました。先の大戦末期には、特攻機を含む南方戦線へと向かう飛行機の中継基地としての役割を果たし、数多くの兵士の方々がこの地を後にし、二度と戻ることのない旅路につかれました。
現在ではそのような過去などなにもなかったかのように、のんびりとした田舎の一ローカル空港として、鹿児島と奄美の空港へとそれぞれ3便ずつの日本エアコミューターのSAAB340B型機が飛んでいます。〝喜界島飛行場〟があったから〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟があるという理由ではあるのですが、〝着陸する航空機〟を出迎え、〝離陸する航空機〟を見送る位置にその慰霊之碑があることは、戦争を知らない世代が〝航空機〟を武器として戦争を仕掛けようとすることに警鐘を鳴らしているように思えてなりません。実際の思惑はともかく、現飛行場を慰霊之碑が見守っていることには、〝言葉では表現できない〟〝訴え〟を感じます。
今年戦後70年の節目の年を迎えました。日本を取り巻く国際情勢の複雑さは、年を追うごとに複雑にはなってきているようには思えます。しかし戦争という〝破壊〟と〝憎しみ〟
しか生み出さない〝解決法〟を選択することは、〝大多数の犠牲〟を払った〝軍国主義〟
への〝逆戻り〟でしかありません。先の大戦に於いて、自らのひとつしかない命を懸けて家族は勿論、未来将来に渡る人々のことを想って逝かれた兵士の方々の崇高な考えを無下にすることは許されざることだと思います。言い方は悪いですが、どんなことをしても戦死された兵士の方々が生き返る訳ではありません。しかしその想いを国民全てが再認識し、頭をひねり、平和解決の糸口を見つけていくことこそが急務ではないかと思います。


〝まとめ〟と言う程のことではありませんが、今回列挙した事柄は戦争を知らない世代の一観光客が偉そうに言うことではないことなのかも知れません。しかし一昨年公開の映画〝永遠の0〟によって、〝特攻隊〟というものがクローズアップされ、その結果〝特攻隊関連〟の資料館である〝万世〟〝知覧〟〝鹿屋〟への来客数が増えたことは以前にも述べたことがありました。勿論〝関心を持った〟、そして〝訪れた〟だけでは、本来の目的を達成したとは言えません。しかしこの〝戦争〟という暗黒の時代を今の時代へと伝える戦跡の多くは、〝埋もれている〟要素が多いように思えてなりません。その一方戦場となった場所では不発弾の問題など、今尚日常生活に影響をきたすような問題を数多く抱えている事実を踏まえると、部外者が安易に〝戦跡〟として周知を計り、関心を引こうとする考え方に〝嫌悪感〟を抱かれてしまうことも懸念しないといけないのでとも思います。見た目ではなく〝本当の生活の質の向上〟につながる〝開発〟であるならば、それが優先課題となって当然のことでしょうし、そういう思いも私自身が持っていることも事実です。確かに〝保存〟と〝開発〟という両端の選択肢を、〝折衷案〟を用いることによって、両者を並立させることは大変難しいことだとは思います。しかしそこに〝共存を考える接点〟を追求することは本当にできないことなのでしょうか。その答えを出すことは、〝一部外者〟としての私の立場ではできないことであり、今後も出来るようにはならないとも思っています。なかなか上手く言うことができないのですが、〝多数意見〟だけに捉われない、〝過去と現在の在り方〟を問うことは必要な時期に差し掛かってきているように思います。

コロンブスの卵状態の話ではあるのですが、戦跡保存に尽力されている喜界島であっても戦跡の地点登録は、カーナビ上はされていません。運良くレンタカー利用者が過去に行ったことがあって、偶然履歴に出てくるというケースはともかく、頂いた地図をもとにして現在地をナビで表示させながら場所を特定していくことは、思いのほか手間のかかる作業でした。勿論そのような苦労があってこそたどり着ける場所だからこそ感じる〝ありがたみ〟は旅の醍醐味のひとつであることには違いありません。しかし効率が良いものとは到底思えるものではなく、結果〝見て回ることができる〟件数は限られてしまう上に、ゆっくり時間をかけることは不可能なこととなってしまいます。
このご時世スマートフォンという便利なものはありますが、その〝ナビ機能〟を使うにしても、目的地の〝座標打ち〟をしないと役目を果たしません。ようは〝データベース化〟をする必要がある訳ですが、これには〝目的地〟の数だけの〝地点情報〟が必要となるため、そう簡単にはいかないように思います。端的に言うと〝デジタル戦跡マップ〟の作成になりますが、営利目的の会社が作るためにその内容が充実していることを考えると、〝非営利目的〟でどこまでのものができるかと言うと、たいしたものはできないように思います。しかし〝できないからやらない〟にしてしまうと前進することは絶対にありません。ダメダメ続きになってしまい、論じている内容にも自信が持てなくなりそうですが、これがもし作ることができるのであれば、今現在話題に取り上げられることもなく、時代の流れに埋もれている戦跡が陽の目を浴びて、新たな歴史の生き証人として息を吹き返すことはおおいに期待できるのではないでしょうか。

戦後70年の節目の年、なにかやってもやらなくても時は過ぎて行きます。実現できるか否かは〝結果論〟であり、行動を起こすか起こさないかの〝過程論〟は論ずるより生むが易しではないかと思います。

喜界島の方々は、皆さんあたたかく観光客を受け容れてくださり、口を揃えて〝何もない島〟を強調されます。しかし〝何もない島〟に偽りありで、ホントは〝宝の島〟だと私は思っています。勿論〝どのように捉える〟かは個人の自由ではありますが、平和そのもののLOCAL ISLANDに見え隠れする70年前の遺構に触れ、今の時代を見つめ直す機会を持つことは、〝生きた平和教育〟そのもののようにも思えます。

長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで【通番009】あみんちゅ戦跡を巡る旅鹿児島その弐~喜界島:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~を終わります。

※なお先述しました〝座標データ〟収集のため、写真の注釈にTIFFのデータを貼り付けています。

以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~

以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~
【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877

【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914

【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283

【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023

【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454

【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537

【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699

【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539

※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
4.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス レンタカー JALグループ JRローカル 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
その他
利用旅行会社
阪急交通社

PR

この旅行記のタグ

36いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (3)

開く

閉じる

  • Theresiaさん 2020/02/11 09:53:10
    初めまして
    祖父母の故郷の喜界島のことを調べていたら、
    貴方様のページにたどり着きました。

    祖父母は戦争中に喜界島から本土に移住してきたことだけ、
    知っていました。
    それ以外は聞くことも難しく、
    今までずっと生きてきました。

    貴方様の記事を見て、祖父母が言わなかった出来事を知って、
    涙が溢れ出ます。

    お伺いしたいことがあるのですが、、、。
    その島に神社らしき建物はありましたか?

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん からの返信 2020/02/11 17:52:43
    初めまして
    Theresiaさん
    初めまして。ありがたいコメント痛み入ります。ご質問に対してですが、喜界島に神社は数多くありました。ただ御祭神は内地と同じのものが多かったように記憶しています。

    元々は流人の島とされており、鹿ヶ谷の陰謀に加わった俊寛僧都が流された場所のひとつだという伝承も残っています。

    戦時中は海軍航空隊の非常時の飛行場に歴史が始まり、終戦前には徳之島同様特攻隊の中継地となっています。何もない島と島民の方々は仰いましたが、沖縄へと向かう特攻機が最後に立ち寄った場所でもあり、喜界空港隣にはその記念碑や慰霊塔が建立されています。

    何もない場所ではありながら特攻機の基地でもあったため、空襲も受けており、疎開された方も少なくはないと聞きました。

    この旅行記は戦争に特化したものを取り上げています。観光を兼ねたものは喜界島を取り上げたものを2編アップしておりますので、またそちらもご覧になって下さい。

    奄美大島のすぐそこにありながら、観光地ではされておらず近くて遠いと言われる喜界島です。一周が約20kmと小さな島ですが、Theresiaさまのように目的地を探して行くのであれば車は必需品です。Jネットレンタカーを利用する確率が高いと思いますが、レンタカー屋さんのおじぃは島人なんで、戦跡情報を仕入れるにはもってこいです。

    また百之台や七島鼻に夕暮れに立ち寄ると、喜界島の歴史や自然を記録しているおじさんと出会うかも知れません。会われたら色んなことを教えてくれます。

    私で答えられることならばなんでもお聞き下さい。

    今後とも宜しくお願い致します。

    たかティム。

    Theresiaさん からの返信 2020/02/11 21:01:04
    Re: 初めまして
    ありがとうございます。

    そうです、疎開してきたと聞きました。
    喜界島のご先祖様のお墓はなく、
    一定区域のところに埋めてあって、
    そこには立ち寄ってはいけないと言われたようで、
    去年他界した祖母がそのように呟いていました。

    なので島独特の神様なのかな?と思っていました。

    喜界島に行ってみたいのですが、
    家族に大反対されているので、
    いまだに行けずにいます。

    少しでもご先祖様のことを知ることができて、
    本当によかったです。ありがとうございます😊
    またお邪魔させていただきます。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP