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日曜日の昼過ぎ、高速バスに乗って東京に向かいました。<br /><br />埼玉県に入ったあたりで渋滞している箇所があり、予定より20分ほど遅れて王子駅前に到着。<br /><br />京浜東北線で鶯谷駅まで向かい、浅草のホテルに泊まりました。<br /><br />ちょうど三社祭の日程と重なっていたため、神輿の担ぎ手の人々が多く見られました。<br /><br />もっと早い時間に着いていれば勇壮な神輿渡御を見ることもできたのでしょうが、今回は楽しむための旅ではないので、ホテルで旅の疲れを落とすことを最優先に考えます。<br /><br />夜、大阪都構想が住民投票によって否決されたニュースが流れました。<br /><br />自分が次に取り組もうとしている課題と、こうして東京を訪れることになった理由は、大阪都構想という同じ源流がら生まれています。<br /><br />地方自治のプロである我が軍師は、日本の地方行政改革はこの敗戦で20年以上遅れ、日本が自力で財政を健全化することはほぼ不可能になったと嘆いていました。<br /><br />あくる朝。<br /><br />天気も良かったため都内の名所を歩くことにしました。

神田散歩

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2015/05/17 - 2015/05/18

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倫清堂

倫清堂さん

日曜日の昼過ぎ、高速バスに乗って東京に向かいました。

埼玉県に入ったあたりで渋滞している箇所があり、予定より20分ほど遅れて王子駅前に到着。

京浜東北線で鶯谷駅まで向かい、浅草のホテルに泊まりました。

ちょうど三社祭の日程と重なっていたため、神輿の担ぎ手の人々が多く見られました。

もっと早い時間に着いていれば勇壮な神輿渡御を見ることもできたのでしょうが、今回は楽しむための旅ではないので、ホテルで旅の疲れを落とすことを最優先に考えます。

夜、大阪都構想が住民投票によって否決されたニュースが流れました。

自分が次に取り組もうとしている課題と、こうして東京を訪れることになった理由は、大阪都構想という同じ源流がら生まれています。

地方自治のプロである我が軍師は、日本の地方行政改革はこの敗戦で20年以上遅れ、日本が自力で財政を健全化することはほぼ不可能になったと嘆いていました。

あくる朝。

天気も良かったため都内の名所を歩くことにしました。

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  • 都営バスに乗って終点の日暮里駅へ向かいました。<br /><br />日暮里駅はこれまで数え切れないほど何度も通過してきましたが、駅で電車を降りたことは一度もありません。<br /><br />当然のことながら、駅前の太田道灌の像を見るのも初めてです。<br /><br />太田道灌は室町時代後期の武将で、江戸城を初めて築いたことで知られています。<br /><br />ここ日暮里は、太田道灌が鷹狩のためにしばしば訪れた場所だったそうです。<br />

    都営バスに乗って終点の日暮里駅へ向かいました。

    日暮里駅はこれまで数え切れないほど何度も通過してきましたが、駅で電車を降りたことは一度もありません。

    当然のことながら、駅前の太田道灌の像を見るのも初めてです。

    太田道灌は室町時代後期の武将で、江戸城を初めて築いたことで知られています。

    ここ日暮里は、太田道灌が鷹狩のためにしばしば訪れた場所だったそうです。

    日暮里駅

  • 日暮里駅から京成線で上野駅を目指しました。<br /><br />上り線と下り線の階層が違っていて、上野方面行のホームがなかなか見つからず焦りました。<br /><br />この区間で京成線に乗るのも初めての経験です。<br /><br />上野駅から中央通りを南下し、春日通りを西へ向かうと、湯島天満宮の裏参道の石段が見えて来ます。<br /><br />雄略天皇2年、天之手力雄命を祀る神社として創建されましたが、正平10年に菅原道真公を合祀して天満宮となりました。<br /><br />その後荒廃しますが、文明10年に復興させたのは太田道灌でした。<br /><br />天正18年に江戸城に入った家康公からも崇敬され、江戸時代を通して多くの学者が参拝に訪れました。<br /><br />例大祭を一週間後にひかえ、境内では氏子たちが掃除や設営などの作業を行っていました。

    日暮里駅から京成線で上野駅を目指しました。

    上り線と下り線の階層が違っていて、上野方面行のホームがなかなか見つからず焦りました。

    この区間で京成線に乗るのも初めての経験です。

    上野駅から中央通りを南下し、春日通りを西へ向かうと、湯島天満宮の裏参道の石段が見えて来ます。

    雄略天皇2年、天之手力雄命を祀る神社として創建されましたが、正平10年に菅原道真公を合祀して天満宮となりました。

    その後荒廃しますが、文明10年に復興させたのは太田道灌でした。

    天正18年に江戸城に入った家康公からも崇敬され、江戸時代を通して多くの学者が参拝に訪れました。

    例大祭を一週間後にひかえ、境内では氏子たちが掃除や設営などの作業を行っていました。

    湯島天満宮 寺・神社・教会

  • 湯島天満宮の表参道を南へ進むと、10分足らずで神田明神へと辿り着きます。<br /><br />神田明神を訪れるのは今回で2回目ですが、1回目の時のことはあまり記憶に残っていません。<br /><br />いったいいつ参拝したのかすらはっきり覚えておりません。<br /><br />神田明神の御祭神は大己貴命・少彦名命・平将門命の3柱です。<br /><br />創建当時は平将門公だけをお祀りしていましたが、江戸時代に大己貴命が、明治時代に少彦名命が合祀され、平将門公は主祭神から相殿神へと「格下げ」されてしまいました。<br /><br />その理由は、将門公が「新皇」を称して朝廷に弓を引いた「朝敵」であったことが、明治政府に嫌われたからでした。

    湯島天満宮の表参道を南へ進むと、10分足らずで神田明神へと辿り着きます。

    神田明神を訪れるのは今回で2回目ですが、1回目の時のことはあまり記憶に残っていません。

    いったいいつ参拝したのかすらはっきり覚えておりません。

    神田明神の御祭神は大己貴命・少彦名命・平将門命の3柱です。

    創建当時は平将門公だけをお祀りしていましたが、江戸時代に大己貴命が、明治時代に少彦名命が合祀され、平将門公は主祭神から相殿神へと「格下げ」されてしまいました。

    その理由は、将門公が「新皇」を称して朝廷に弓を引いた「朝敵」であったことが、明治政府に嫌われたからでした。

    神田神社(神田明神) 寺・神社・教会

  • 将門公は平安時代中期に生まれたとされますが、詳しい生年は伝わっておりません。<br /><br />桓武天皇の血を引く高貴な家の生まれで、故郷の下総国を少年時代に離れ、京で藤原忠平に仕えますが、重く用いられることはありませんでした。<br /><br />その後、親族や源氏との争いで何度も身の危険にさらされますが、将門公は危機を乗り越え、次第に勢力を拡大して行きます。<br /><br />将門公はそもそも朝廷に敵対する気持ちなど持っていませんでしたが、武蔵権守の興世王に操られて関東に独立国を樹立することを目指したのでした。<br /><br />将門公の勢力は最大で、関東八州を支配下に置くまで拡大しました。<br /><br />しかし反乱は朝廷軍によって鎮圧され、将門公は捕えられて処刑され、首級は京に送られて獄門にされました。<br /><br />伝説によると、将門公の身体は7つに切り刻まれ、そのうちの胴体=体がここ神田に埋められたとされます。<br /><br />「かんだ」という地名はもともと「からだ」であったとも言われています。

    将門公は平安時代中期に生まれたとされますが、詳しい生年は伝わっておりません。

    桓武天皇の血を引く高貴な家の生まれで、故郷の下総国を少年時代に離れ、京で藤原忠平に仕えますが、重く用いられることはありませんでした。

    その後、親族や源氏との争いで何度も身の危険にさらされますが、将門公は危機を乗り越え、次第に勢力を拡大して行きます。

    将門公はそもそも朝廷に敵対する気持ちなど持っていませんでしたが、武蔵権守の興世王に操られて関東に独立国を樹立することを目指したのでした。

    将門公の勢力は最大で、関東八州を支配下に置くまで拡大しました。

    しかし反乱は朝廷軍によって鎮圧され、将門公は捕えられて処刑され、首級は京に送られて獄門にされました。

    伝説によると、将門公の身体は7つに切り刻まれ、そのうちの胴体=体がここ神田に埋められたとされます。

    「かんだ」という地名はもともと「からだ」であったとも言われています。

  • 境内で御神馬「明(あかり)号」が飼われていました。<br /><br />今はまだ体毛が茶色ですが、成長すると白に変わるそうです。<br /><br />このように茶から白に変化する馬は「葦毛」と呼ばれています。<br />

    境内で御神馬「明(あかり)号」が飼われていました。

    今はまだ体毛が茶色ですが、成長すると白に変わるそうです。

    このように茶から白に変化する馬は「葦毛」と呼ばれています。

  • 学問の町として栄える神田の原点は、神田明神から南にすぐの場所に位置する湯島聖堂にあります。<br /><br />江戸幕府を開いた徳川家康公が最も恐れたのは、京におわす天皇の存在でした。<br /><br />江戸幕府の安泰のためには、皇族公家が政治に口をはさめむことがないよう、しっかり重石を乗せておかなければならない。<br /><br />そう考えた家康公は、学問をその重石とすることに決めたのでした。<br /><br />学問を奨励したのは皇族や公家に限らず、武家もまた同じでした。<br /><br />ただ武家の場合は学問を修める理由が少し違い、将軍に対する忠誠を守ることが最高の美徳であるという価値観を徹底的に叩き込まれたのでした。<br /><br />その学問が朱子学です。<br /><br />林羅山に始まる林家は代々、私設の塾で朱子学を教えていました。<br /><br />湯島聖堂は5代将軍綱吉公の時、朱子学を教える官立の学校として設立されたもので、昌平坂学問所とも呼ばれています。<br /><br />幕府が崩壊したのは、朱子学以外の学問を弾圧したことも原因の一つに数えられます。

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    学問の町として栄える神田の原点は、神田明神から南にすぐの場所に位置する湯島聖堂にあります。

    江戸幕府を開いた徳川家康公が最も恐れたのは、京におわす天皇の存在でした。

    江戸幕府の安泰のためには、皇族公家が政治に口をはさめむことがないよう、しっかり重石を乗せておかなければならない。

    そう考えた家康公は、学問をその重石とすることに決めたのでした。

    学問を奨励したのは皇族や公家に限らず、武家もまた同じでした。

    ただ武家の場合は学問を修める理由が少し違い、将軍に対する忠誠を守ることが最高の美徳であるという価値観を徹底的に叩き込まれたのでした。

    その学問が朱子学です。

    林羅山に始まる林家は代々、私設の塾で朱子学を教えていました。

    湯島聖堂は5代将軍綱吉公の時、朱子学を教える官立の学校として設立されたもので、昌平坂学問所とも呼ばれています。

    幕府が崩壊したのは、朱子学以外の学問を弾圧したことも原因の一つに数えられます。

    湯島聖堂 寺・神社・教会

  • 神田川にかかる聖橋を渡りました。<br /><br />高校生の夏休み、志望大学のオープンキャンパスに参加するため、生まれて初めて一人でホテルに宿泊したのが、御茶ノ水駅の近くでした。<br /><br />その頃は自分の専門にしか興味がなく、行動半径を広げようという意欲もなかったため、徒歩で簡単に行ける湯島聖堂も神田明神も訪れることなく地元へ帰りました。<br /><br />しかし、立体的な構造をしている御茶ノ水駅で迷ったことと、コンクリートに固められた異様な川の姿に唖然としたことは、今も強く記憶されています。<br /><br />聖橋を渡り、ニコライ堂を訪れました。<br /><br />明治時代初期に建てられた日本最大のキリスト大聖堂で、宗派は正教会に属するとのことですが、キリスト教のことはよく分かりません。<br /><br />ただ、聖橋を中心に神道・儒教(朱子学)・キリスト教の聖地が仲良く同居しているのは、日本だからこそあり得る奇蹟なのだということは理解できます。

    神田川にかかる聖橋を渡りました。

    高校生の夏休み、志望大学のオープンキャンパスに参加するため、生まれて初めて一人でホテルに宿泊したのが、御茶ノ水駅の近くでした。

    その頃は自分の専門にしか興味がなく、行動半径を広げようという意欲もなかったため、徒歩で簡単に行ける湯島聖堂も神田明神も訪れることなく地元へ帰りました。

    しかし、立体的な構造をしている御茶ノ水駅で迷ったことと、コンクリートに固められた異様な川の姿に唖然としたことは、今も強く記憶されています。

    聖橋を渡り、ニコライ堂を訪れました。

    明治時代初期に建てられた日本最大のキリスト大聖堂で、宗派は正教会に属するとのことですが、キリスト教のことはよく分かりません。

    ただ、聖橋を中心に神道・儒教(朱子学)・キリスト教の聖地が仲良く同居しているのは、日本だからこそあり得る奇蹟なのだということは理解できます。

    ニコライ堂 寺・神社・教会

  • 上野駅からしばらく歩き、ひとまず終着点となる将門塚に到着しました。<br /><br />京で獄門にされた将門公の首級が、宙を飛んで落ちた場所と言われています。<br /><br />江戸時代の寛文年間にはこの場所に、坂井家の神屋敷が置かれていました。<br /><br />そこで起きたのが原田甲斐による主筋殺害、いわゆる伊達騒動です。<br /><br />明治以後には、都心の一等地であるこの場所に新たなビルの建設が計画されますが、関係者が次々に怪死したために将門公のたたりがあると信じられ、現在も塚にはお供え物が置かれています。<br /><br />かのGHQでさえ、塚を撤去しようとして死者を出し、計画を中断したことがありました。<br /><br />将門公が神田明神の主祭神に復帰したのは、昭和59年のことです。

    上野駅からしばらく歩き、ひとまず終着点となる将門塚に到着しました。

    京で獄門にされた将門公の首級が、宙を飛んで落ちた場所と言われています。

    江戸時代の寛文年間にはこの場所に、坂井家の神屋敷が置かれていました。

    そこで起きたのが原田甲斐による主筋殺害、いわゆる伊達騒動です。

    明治以後には、都心の一等地であるこの場所に新たなビルの建設が計画されますが、関係者が次々に怪死したために将門公のたたりがあると信じられ、現在も塚にはお供え物が置かれています。

    かのGHQでさえ、塚を撤去しようとして死者を出し、計画を中断したことがありました。

    将門公が神田明神の主祭神に復帰したのは、昭和59年のことです。

    将門塚 名所・史跡

  • 東京駅の地下で昼食をとり、約束の時間に参議院議員会館へ。<br /><br />用事を済ませ、帰りのバスまで時間があったので、品川の方を少し歩くことにしました。<br /><br />品川駅でJR線から京急本線に乗り換え、新馬場駅で降りて5分ほど歩いた所に、荏原神社が鎮座しています。<br /><br />荏原神社は和同2年に大和国の丹生川上神社から御祭神を勧請した歴史ある神社で、水を司る高おかみ神などをお祀りしています。

    東京駅の地下で昼食をとり、約束の時間に参議院議員会館へ。

    用事を済ませ、帰りのバスまで時間があったので、品川の方を少し歩くことにしました。

    品川駅でJR線から京急本線に乗り換え、新馬場駅で降りて5分ほど歩いた所に、荏原神社が鎮座しています。

    荏原神社は和同2年に大和国の丹生川上神社から御祭神を勧請した歴史ある神社で、水を司る高おかみ神などをお祀りしています。

    荏原神社 寺・神社・教会

  • 新馬場駅から荏原神社とは逆に品川駅方向へ歩くと、左手に昇り龍・下り龍の姿がある鳥居が見えてきます。<br /><br />ここが准勅祭社(東京十社)に列せられる品川神社です。<br /><br />平安時代末期の文治3年、源頼朝公によって安房国の洲崎明神から天比理乃咩命を勧請して創始されました。<br /><br />天比理乃咩命は天太玉命の后神に当たります。<br />

    イチオシ

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    新馬場駅から荏原神社とは逆に品川駅方向へ歩くと、左手に昇り龍・下り龍の姿がある鳥居が見えてきます。

    ここが准勅祭社(東京十社)に列せられる品川神社です。

    平安時代末期の文治3年、源頼朝公によって安房国の洲崎明神から天比理乃咩命を勧請して創始されました。

    天比理乃咩命は天太玉命の后神に当たります。

    品川神社の太太神楽 寺・神社・教会

  • 品川神社には「品川富士」と呼ばれる富士塚があります。<br /><br />富士塚は東京の各地に見られ、富士山を縮小した富士塚に登ることで、実物の富士山に登ったのと同じご利益を得られると考えられてきました。<br /><br />実際に頂上まで登ってみると、そこには国旗掲揚塔しかなく、御社は置かれていませんでした。<br /><br />もう少し工夫を加えることで、参拝者がより満足を得られる場所になるのではないかと思います。

    品川神社には「品川富士」と呼ばれる富士塚があります。

    富士塚は東京の各地に見られ、富士山を縮小した富士塚に登ることで、実物の富士山に登ったのと同じご利益を得られると考えられてきました。

    実際に頂上まで登ってみると、そこには国旗掲揚塔しかなく、御社は置かれていませんでした。

    もう少し工夫を加えることで、参拝者がより満足を得られる場所になるのではないかと思います。

  • 帰りのバスの発車時刻が迫って来ました。<br /><br />今回の東京訪問の最後は、芝大神宮の参拝でしめくくることにします。<br /><br />JR浜松町駅から西へ向かい、3番目の交差点を右に曲がると、大鳥居のある参道が見えて来ます。<br /><br />芝大明神も品川神社同様に東京十社の一つで、伊勢の内宮・外宮に祀られる天照皇大御神・豊受大神を主祭神としてお祀りしています。<br /><br />大鳥居から階段を昇ったところに御社殿が建てられています。<br /><br />大都会の真ん中に位置し、鎮守の森もごく小さいものですが、それでも伊勢神宮に共通する雰囲気を漂わせています。<br /><br />急ぎ足で参拝し、八重洲の高速バス乗り場に向かいました。<br /><br />一度下見をしておきましたが、八重洲口の地下街ではやはり道に迷ってしまいました。<br /><br />おかげで買い物をする時間が取れず、楽しみにしていた車内でのビールを買えずにバスは出発してしまいました。<br /><br />家に帰りついた瞬間に雨が降って来たのは、短い時間で神社参拝に努めたご利益でしょうか。

    帰りのバスの発車時刻が迫って来ました。

    今回の東京訪問の最後は、芝大神宮の参拝でしめくくることにします。

    JR浜松町駅から西へ向かい、3番目の交差点を右に曲がると、大鳥居のある参道が見えて来ます。

    芝大明神も品川神社同様に東京十社の一つで、伊勢の内宮・外宮に祀られる天照皇大御神・豊受大神を主祭神としてお祀りしています。

    大鳥居から階段を昇ったところに御社殿が建てられています。

    大都会の真ん中に位置し、鎮守の森もごく小さいものですが、それでも伊勢神宮に共通する雰囲気を漂わせています。

    急ぎ足で参拝し、八重洲の高速バス乗り場に向かいました。

    一度下見をしておきましたが、八重洲口の地下街ではやはり道に迷ってしまいました。

    おかげで買い物をする時間が取れず、楽しみにしていた車内でのビールを買えずにバスは出発してしまいました。

    家に帰りついた瞬間に雨が降って来たのは、短い時間で神社参拝に努めたご利益でしょうか。

    芝大神宮 寺・神社・教会

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