2015/04/07 - 2015/04/09
148位(同エリア364件中)
倫清堂さん
桜の季節に吉野を訪れることは、ずっと望んでいた夢でした。
調べてみたところ、金峯山寺の蔵王権現の御開帳が春に予定されていたため、昨年の予定を参考にしながら日程を組みました。
新年度の予定が発表されると、予想どおりの日程で休みが入っていました。
しかし予約便の確認をしたところ、致命的なミスをしていたことに気付いたのです。
行きの便は7日の午前に関西空港着。
帰りの便は8日の午前に関西空港発。
つまり奈良に丸一日も滞在することができず、吉野での花見などしていられない日程だったのです。
8日の夜の便を予約したつもりでしたが、勘違いして朝の便を取ってしまったのでしょう。
飛行機はピーチ便の格安航空券なので、変更や払い戻しはできません。
余計な出費は避けたいところですが、春の吉野を御開帳まで重なる時に訪れるチャンスなど、今後二度と来ないかも知れません。
仕方がないので帰りの便はANAで取り直し、ピーチの搭乗料金は寄附することにしました。
どうせならもう1泊して、2回分の旅を1回にまとめることにしました。
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ピーチ便は関西空港着陸まで順調だったのですが、搭乗口に別な飛行機がいるためにしばらく足止めされてしまい、その結果予定の特急に乗れませんでした。
南海線急行で大阪市内に入り、新今宮駅でJR大和路線に乗り換え。
大阪阿部野橋駅では乗り換え時間が短く滑り込みでしたが、なんとか近鉄線に乗ることができ、終点の吉野駅までのんびりと車内で過ごしました。 -
今にも雨が降りそうな天気でしたが、吉野は曇り空で留まっていました。
千本口駅からロープウェイに乗り、吉野山駅まで運んでもらいました。
ロープウェイの正式な名前は吉野大峯ケーブルといいます。
15分おきに運行し、千本口駅から吉野山駅を3分で結びます。
現存する最古のロープウェイで、15名も乗れば満員になってしまいます。
ロープウェイを利用しない人は、歩行者天国となっている「七曲り」を歩くことになります。 -
千本口駅の周辺は「下千本」と呼ばれる地区で、桜はすでに葉が見え始めていました。
今にも雨が降り出しそうな天気です。
予報では大雨になると言われていたので、この程度で済むのならありがたいことです。
金峯山寺へ向かう道は、桜を見るための観光客であふれていました。
前に訪れた時は桜の季節を外れていたため、この道を車で通ったはずです。
観桜期は、一般車輌の進入は制限されます。
まず現れるのが黒門。
金峯山寺の総門であり、吉野山全体の総門に位置付けられます。
かつては公家や大名といえど、黒門より中に入る時は槍を伏せ、馬を降りて歩かなければなりませんでした。 -
次に、石段を少し上がった先にある銅鳥居が見えて来ます。
銅鳥居は、宮島の海上鳥居・四天王寺の石鳥居とともに、日本三大鳥居の一つに数えられます。
金峯山寺は寺ですが、なぜ鳥居があるのか。
日本に仏教が入った当初は、神様と仏様との間で争いが起こりましたが、やがて天皇が仏様も認めたことで、両者は日本に同居することになったのです。
同居した神様仏様の良い所を取り上げ、さらに中国大陸から入り込んだ道教や神仙思想などの要素も九州して成立したのが修験道です。
金峯山寺は修験道の総本山であることから、神社もお寺も仲良く支え合っているのです。 -
蔵王堂(本堂)の手前にある仁王門は、修復工事のため素屋根がかけられていました。
その隙間から見える仁王像を拝み、蔵王堂のある境内へと進みます。
普通は門から入ると正面に本堂がありますが、金峯山寺における仁王門は蔵王堂の裏側に位置します。
今来た道は裏参道であり、表参道は遠く熊野三山へと続く大峯奥駆道なのです。
熊野古道の中で最も過酷な道で、修験者はこの道を歩いて己の心を鍛えて来ました。金峯山寺蔵王堂(国宝) 寺・神社・教会
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参道の混み具合から、秘仏蔵王権現の御開帳を拝観する人で行列ができているものと予想していましたが、受付でも堂内でも並ぶ必要はありませんでした。
あまり大々的に宣伝していないからかも知れません。
今回の御開帳は仁王門修復のための勧進という趣旨ですが、これで費用が集まるのか心配になってしまいました。
しかし一般の拝観者にとって混んでいないのは有難いことです。
高さ34メートルもある蔵王堂の内部に進み、脇仏などを参拝し、最後に正面に進んで3体の御本尊を拝しました。
御本尊、秘仏蔵王権現は役行者が吉野の山中で修行した際に現れた権現様で、本地仏は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊です。
権現とは仮の姿という意味で、三尊が蔵王権現として役行者の前に現れた時の姿を再現したのが御本尊です。
その全身は青い色をしていて、怒髪天を突き、尊顔は牙を見せる憤怒の表情。
右手に法具の三鈷杵を持ち、左手は腰のところで刀印を結ぶ。
そして右足を大きく振り上げ、悪魔を祓っています。
3体の御本尊は同じ姿をしていますが、向かって左から未来・過去・現在を司ります。
我が心にある迷いや邪な思いは、その巨大な足で思いっきり踏みつけて消してもらいたいです。 -
二天門側にある吉野ビジターセンターで、世界遺産登録10周年を記念して、吉野山内秘蔵大絵巻展が行われていました。
1階の常設展には、蔵王権現像の足の部分の実物大模型が置かれています。
誇張ではなく、本当に人が踏みつけられそうな巨大さであることが分かります。
現在の蔵王堂は関ヶ原の戦いの直前に当たる天正20年頃に再建されたと考えられるので、蔵王権現の御尊像も同じころに作られたと思われます。吉野山ビジターセンター 美術館・博物館
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険しい山に踏み込んで修行する人たちのことを修験者や山伏などと呼びます。
以前、失われた出雲の歴史を追った際、空白を埋めるカギとなったのが山伏の存在でした。
古代から近世にかけて、地域の有力者も知らない道を山伏は知っており、山伏同士のネットワークは全国に張り巡らされていました。
鎌倉幕府の打倒を目指す後醍醐天皇を支えたのも山伏の勢力で、忠臣といわれた大楠公や名和長年や児島高徳もみな山伏のネットワークに組み込まれていたのでした。
山伏は大峯修行の際に12の道具を身に付けることになっています。
それは不動明王の姿を表すものとされて来ました。
特に特徴的なのは胸の前に垂れ下げている左右2つずつの丸いボンボンです。
実はボンボンは背中にも2つ垂れ下がっており、合わせて6つを身に付けているのです。
このボンボンは「梵天」という名前で、ブッダになるために必要な6つの実践「六波羅蜜」を表します。
常設展の見学を終え、次に特別展が行われている2階へ進みました。
江戸時代に書かれたいくつかの絵巻が展示されていて、ここまで電車で通った駅の名前や、これから行こうとしている地名なども見られ、親しみを覚えました。
今はなき二天門が書かれた絵巻もあり、往時の姿が偲ばれました。 -
イチオシ
この日はかろうじて曇り空ですが、翌日には確実に雨が降るだろうと思われたので、徒歩移動が必要な脳天神社を目指すことにしました。
脳天神社には、吉野皇宮址に建てられている南朝妙法殿の脇を通って行きます。
満開の桜に囲まれるような八角形の堂宇が霞の中に浮かび上がる様は幻想的でした。吉野朝宮跡 名所・史跡
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その先に仏舎利宝殿。
昭和42年、金峯山寺初代管長五條覚澄大僧正がインドに渡りガンジー首相から頂いた仏舎利が納められています。 -
仏舎利宝殿の裏手には役行者の像が建てられています。
役(えん)とは公の事業に従事する人々を管轄する役職のことで、役行者は代々役を務めてきた賀茂役氏として生まれました。
賀茂氏とは、神武天皇を橿原に導いた八咫烏の子孫を名乗る一族で、初期の何代かの天皇は賀茂氏の女を妃に迎えています。
役行者の母が賀茂役氏の娘で、父は出雲出身の高賀茂氏であると伝えられます。
頭脳明晰であった役小角(役行者の本名)は、仏教の経典を学ぶだけでは飽き足らず、実際に山中に入って自然の中で心身を鍛える修行を実践したのでした。
像の左右を守るのは、修行中の役小角の前に現れた鬼の夫婦の前鬼・後鬼で、手力男命の末裔を名乗ったと言われています。
このようにどの説話一つ見ても、修験道は神仏混交の非常に柔らかい信仰が守られていたことが分かります。
讒言を信じた文武天皇の命によって伊豆に流されたこともありましたが、幽居を抜け出しては富士山に飛んで修行を繰り返したという、超人的なエピソードも残されています。 -
役行者の像から先は、延々と下り階段が続きます。
途中、狐忠信霊碑を見つけました。
忠信とは源義経公の家臣、佐藤忠信のこと。
歌舞伎「義経千本桜」では、静御前を守る忠信は実は静御前愛用の鼓の皮となった狐の子であったという設定から、狐忠信という固有名詞が碑に刻まれたのだと思われます。 -
下りの石段はどこまでも続きます。
これを登って帰るのは辛そうです。 -
そしてようやく脳天神社に到着。
脳天神社の正式名称は脳天大神龍王院。
初代管長五條覚澄大僧正が、頭が割られて死んでいた大蛇を見付け、丁重に供養した場所であることから、脳天の名がつけられました。
死んだはずの大蛇はその後も大僧正の前に繰り返し姿を表し、ついに自分は蔵王権現の化身であることを名乗ったのでした。脳天大神 龍王院 寺・神社・教会
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日頃の運動不足のため、登り階段でかなり体力を消耗しました。
だんだん暗くなり始めていたので、そろそろ宿へと向かうことにしました。
帰りまでロープウェイに乗るのは味気ないと思い、七曲りの坂を歩いて下ることに決めました。
下り坂ならいくらでも歩けます。
吉野山駅の少し先に、川もないのに掛けられた赤い橋があります。
この橋の下にあるのは、大塔宮護良親王が鎌倉幕府軍と戦った時に築かれた空堀です。
時代が移って現在はコンクリート造りとなりましたが、後醍醐天皇や宮方の勢力が戦った跡であることを思うと、感慨深いものがあります。 -
七曲りの坂を歩き、やっぱり安易にケーブルカーを利用しなくて良かったと思いました。
どこを切り取っても華やかに咲く桜が見える風景が、そこには広がっていました。
サクラという言葉は、サとクラに分けられると言われています。
クラは磐座などと同じ「依り代」の意味を持ち、「サ」が宿る依り代が桜であるということです。
では「サ」とは何か。
それは春にやって来る田植えの神様のことです。
田植えの神が木に宿ることで花が咲く、それがサクラなのだというわけです。 -
イチオシ
そんな豆知識がどうでもよくなるくらい、吉野山の桜は見事でした。
この辺りは「下千本」と呼ばれ、最も早く開花する地域とされます。
吉野山の桜の名所は他に「中千本」「上千本」「奥千本」と、全部で4つの地域に分かれています。
それぞれ1000本ずつ、合わせて4000本もの桜が植えられているのかと思いきや、実際は桁が違っていて、合計3万本もの桜が植えられているのだそうです。 -
いったい誰が、何のために、これだけ多くの桜を植えたのでしょうか。
桜を一本一本植えたのは、吉野を修行場とする修験者たちだったのでした。
吉野の地で蔵王権現を感得した役行者は、その姿を桜の木に刻み、蔵王堂に安置したのでした。
その後、修験者たちは、蔵王権現の御神木を桜であると考え始めたのです。
平安時代に入ると、蔵王権現に生きた花を捧げるための桜の献木が流行しました。
当時は吉野山全体が金峯山寺の持ち物であったため、どこに桜を植えても良いことになっており、桜の苗木を売る少年があちこちに立っていたそうです。
天正期には、大阪の豪商が一度に1万本もの献木を行ったこともありました。
こうして吉野は、日本一の桜の名所となったのでした。
宿泊したのは、近鉄線下市口駅から歩いて10分ほどの場所に位置する民宿でした。
風呂もトイレも共同でしたが、部屋は清潔で、何かと親切に言葉をかけて下さるご主人がいて、安心して過ごすことができました。
部屋に入って冷蔵庫を開けると、中に缶ビールが一本ありました。
なかなか粋な気遣いだと思い、ご主人のところへ行ってお礼を言うと、「確認し忘れたかな」と言って謝罪されました。
どうやら前日の客が飲まずに置いて行った物だったようです。 -
次の日の朝、雨の音で目が覚めました。
前日と同じように電車で吉野へ向かい、駅のコインロッカーに荷物を置いて、始発のロープウェイに乗りました。
さすがに雨の中、七曲りの坂を上る気にはなれません。
吉野山駅から金峯山寺方向に歩き、そこから更に先の中千本方面へと向かいました。
あらかじめ調べておいた情報によると、奥千本へ向かうバスが出ているはずです。
まずはそのバス乗り場を探さなければなりません。
途中で分かれ道があり、どちらに進めばよいのか分からなくなってしまいましたが、中千本の桜の風景が見え、道に迷うのも悪くないと思いました。 -
谷崎純一郎や吉川英治も逗留した櫻花壇という宿を発見。
内部の公開はされていませんでした。文芸の宿 櫻花壇 宿・ホテル
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いくつかの寺院が立ち並ぶ地域に、勝手神社が鎮座していると聞いていました。
吉野八明神の一つに数えられ、戦の神として武人たちから崇敬されて来た神社です。
金峯山寺の山の入口に位置することから、山口神社とも呼ばれていました。
源義経公と別れた静御前が、幕府の追手に捉えられ、舞いを舞った場所と伝えられています。
これほどの由緒を持つ神社ですが、不思議なことに境内は荒れていて、社殿がありません。
どこかへ遷座したのかと疑って見たところ、案内の立札があります。
そこには、平成13年に不審火によって社殿が焼失したため、再建復興の協賛金を募っている趣旨が書かれていました。
歴史や文化に対し敵対心を持つ者が存在しているというのが、この世の悲しい現実です。勝手神社 寺・神社・教会
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イチオシ
勝手神社の少し先に、やっぱりバス乗り場はありました。
ここから奥千本まで、深い霧の中をバスで移動しました。
バスを降りると、外は4月とは思えない寒さです。
地面には雪が残っています。
金峯神社の入口を示す鳥居は、霧の中にぼんやりと浮かんでいます。
鳥居に掲げられる扁額には、「修行門」の文字が刻まれています。
先に見た銅鳥居には「発心門」の文字があり、この「修行門」の先にはさらに「等覚門」「妙覚門」と、悟りへの段階を示す4つの門があるそうです。金峯神社 寺・神社・教会
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霧に包まれる神社というのも風情があります。
金峯神社は、金属の神である金山彦神を主祭神とします。
金峯山という名前から分かるように、この山ではかつて金が取れたらしいです。
鎌倉時代に書かれた伝説によると、ある男が金峯山で採れた金を持ち帰り、金箔にして一儲けしようとしたところ、その金箔一枚一枚に「金御岳」の文字が浮かび上がったため、神罰を恐れた人々の手によって金峯山に戻されたとされます。
その男は捕えられて死にました。
修験者が修行場とした山の多くは、金や銅や鉄などの鉱脈を持っています。
それらの金属は、修験者ネットワークを支える財源であったのかも知れません。
この獄死した男は修験者の脱落者か、あるいは修験者ネットワークに入っていない俗人だったのでしょう。
既得権を損なわれた修験者の怒りが、神罰として伝えられたように思います。 -
金峯神社の裏に少し歩くと、源義経公が幕府の追手から逃れるために潜んだとされる「義経隠れ塔」があります。
この四角い小堂も、修験者の修行に使われます。
修験者がここに籠ると、扉が閉じられ、内部は真っ暗闇になります。
修験者が真言を唱えながら堂内をぐるぐる回ると、突然頭上の鐘が鳴らされて、煩悩から解き放たれるのです。義経隠れ塔 名所・史跡
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ここ奥千本から上千本、中千本方面へと帰るには、バスを待つ手もありますが、下り坂でもあるし途中に寄りたい所もあるので、雨の中を歩くことにしました。
道の両脇は木々が茂っていますが、少し進むと左手に公園のような広場が見えました。
かつて安禅寺が置かれていた場所です。
この寺は今どこへ行ってしまったのかと言うと、もうこの世には存在していません。
明治時代に起きた廃仏毀釈運動によって堂宇は破壊され、いくつかの仏像が難を逃れて蔵王堂に安置されるのみとなってしまったのです。
勝手神社が焼けてしまったことにも怒りを禁じられませんが、明治政府が国民を扇動して全国で同じことを起こさせた歴史があったことは、しっかり学んでおかなければならないと思います。
などと考えながら歩いていると、吉野水分神社の鳥居が見えて来ました。吉野水分神社 寺・神社・教会
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イチオシ
水分と書いて「みくまり」と読みます。
吉野水分神社は『延喜式』にも記載が見られる古社で、田に流れ込む水を適切に配分する水の神様をお祀りします。
みくまりは「身籠り」に近く聞こえることから、子守の神としても信仰を集めて来ました。
特に国学者本居宣長の両親が幾度も祈願に訪れたことが知られています。
宣長は後にここ吉野水分神社を参拝し、
父母の昔思へば袖ぬれぬ
水分山に雨はふらねど
などと詠んで、両親の愛情に感謝しています。 -
しばらく歩いたので、右膝の古傷が痛み始めました。
水分神社の先に花矢倉展望台があったので立ち寄ってみましたが、霧しか見えません。
晴れていれば蔵王堂までが望め、しかも今の季節は満開の桜も楽しめたはずです。
しばらく霧が晴れるのを待ってみたのですが、一向に晴れる気配はないので、後ろ髪引かれながらその場をあとにしました。
この辺りは上千本エリアなので、歩いても桜は充分に楽しむことが出来ます。 -
右足を引きずるように歩き、バス停のある所まで戻って来ました。
午後から奈良県の職員の方と会う予定を入れているので、そろそろ吉野を去らなければなりません。
最後に竹林院の桜を愛でることにしました。
竹林院は聖徳太子が椿山寺として開いたのが最初であると伝えられています。竹林院群芳園 宿・ホテル
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イチオシ
弘仁9年には弘法大師空海が大峯山に入り、寺の初代住職になったと伝えられています。
南側には、空海が水垢離をとったと伝えらる池があるそうです。
回遊式庭園の池泉はそれとは違うと思いますが、舞い散る桜の花びらが水面に浮かび、美しい花筏を見せていました。 -
椿山寺から竹林院に名称を変更したのは、後小松天皇の命によってでした。
その名の通り、今も多くの椿が茂っており、開花の季節には桜とはまた違う風景を見せてくれるでしょう。
庭園「群芳園」は21世住職によって室町時代に整備され、その後花見に訪れる豊臣秀吉公のために千利休と細川幽斎が改修し、現在の姿になったのでした。 -
予定していた時刻になったので、次の目的地へ向かうことにしました。
奥千本とは違うバス乗り場から、近鉄吉野駅までのバスが出ていたので、それに乗ることにしました。
このバスは如意輪寺の方を通って吉野駅に至ります。
駅から急行に乗って橿原神宮前駅へ。
駅前でレンタカーを借りる予定ですが、申し込んだ時刻より1時間ほど早く着いたので、橿原神宮の方へと歩きながら、昼食をとれそうな飲食店を探しました。
しかし結局飲食店は見つからず、橿原神宮に辿り着きました。
橿原神宮は初代神武天皇が皇居を置いたと考えられる場所に明治時代に創建された神社です。
雨が降る中、重い荷物を持って右足を引きずるように参道を歩きました。
参拝は今回で2回目なので、無理して参拝することもなかったのですが、何かに呼ばれるようにここまで来てきまいました。橿原神宮 寺・神社・教会
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橿原神宮の境内は広大で、一の鳥居から拝殿まで歩くだけでも10分はかかります。
その広い境内に池があることは、今回初めて知りました。
水面を横切るように遊歩道が整備されたこの池は、深田池という名前です。
池の周囲には桜が咲いていました。
やはり桜と水の組み合わせは最高に美しい。 -
ちょうどよい時刻になったので、レンタカーの営業所に向かいました。
手続きを済ませ、目的地に向けて出発。
まだ昼食をとっていなかったので、途中のコンビニでおにぎりを買って食べました。
そして目指す建物に到着。
ここは奈良県橿原総合庁舎。
あらかじめ電話で確認していた職員の方のお時間をいただき、吉野と高野山を結ぶ「弘法大師の道」事業についてお話を伺いました。
この聞き取りを我が宮城県で活用できるかどうかは、今後の自分自身の努力にかかっています。
貴重なお時間を割いて丁寧にご説明下さった2名の職員の方に、心より御礼申し上げます。 -
さて、レンタカーを借りた本来の理由は、行けそうでなかなか行けなかった葛城地方を今度こそ訪れるためです。
葛城は、役行者を生んだ賀茂氏の本拠地であった地域です。
そこには、おそらく神武天皇の即位よりも古い歴史を持つと考えられる神社が、いくつも鎮座してます。
その中でも特に規模の大きな神社を選び、順に参拝することにします。
最初はずっと南まで下がって、葛木御歳神社を訪れました。
鳥居の横には宮司宅があり、宮司は学習塾を経営する他、カフェの開業を準備中とのことです。
古代の雰囲気を残す神社で飲むコーヒーというのも、乙なものかもしれません。 -
葛木御歳神社の主祭神は御歳神。
社殿背後に位置する御歳山に住み、五穀豊穣を守る神様です。
作物が実るのは年に一度であるので、年を司る神と解釈することもできます。
全国に年神を祀る神社は多数鎮座していますが、葛木御歳神社はそれらの総本社になります。 -
次に全国の鴨社の総本社である高鴨神社に向かいました。
境内に桜が咲いています。
高鴨神社の御祭神はアジスキタカヒコネ命など出雲系の神々です。
葛城地方を含む奈良県内、特に山岳信仰がさかんであった地域には、出雲系の神を祀る神社が多く鎮座します。
出雲地方には、山岳信仰の聖地が多く存在しています。
よって古代、出雲と大和は山岳信仰で深い結び付を持っていたというのが私の考えです。高鴨神社庭園 寺・神社・教会
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高鴨神社の歴史は弥生時代にまで遡ることができ、生活の跡は縄文時代のものも発掘されています。
賀茂氏は山を知悉し、薬草や製鉄の他、暦や稲作などの高い技術を持っていました。
彼らがそれらの技術をどこから手に入れたのでしょうか。
渡来人によってもたらされたとか、賀茂氏自身が渡来人であったとか、いろいろな説が言われています。
神武天皇が大和へ攻め入った際も、八咫烏に象徴される賀茂氏の協力がなければ、おそらく東征は成功しなかったことでしょう。
大和政権が鴨氏を大切にした事実は、初代から3代までの天皇が賀茂氏の女を妃に迎えていることからも明らかです。
高鴨神社はあるいは神武天皇が即位する以前から、祭祀の場所であったのかも知れません。 -
室町時代の天文12年に再建された高鴨神社の本殿は、国の重要文化財に指定されています。
境内には数多くの摂社・末社が置かれています。 -
社務所の横には楠木正成公の像が置かれていました。
高鴨神社の社紋は、楠公さんと同じ菊水の紋です。
菊水はこの地方では珍しくなく、楠公さんの本拠地である千早赤阪も、金剛山を越えればすぐそこです。
ただ、楠公さんと全く縁がないかと言うとそうでもなく、後醍醐天皇に敵対する勢力を倒すために武運長久の祈願に訪れたことがあったと伝えられています。
楠公さん自身、遠い祖先の誰かが賀茂氏であったとしても不思議ではありません。 -
次は高天彦神社を参拝。
日本の原風景とも言える景色が広がっています。
現在は高皇産霊尊などをお祀りしていますが、かつては社号でもある高天彦をお祀りしていたのではないかと考えられます。
高天彦という名前は神話などに見当たりませんが、おそらく葛城山の地主神ではないでしょうか。
そうであるとするなら、やはり山岳信仰のつながりで出雲系の神である可能性も排除できません。高天彦神社 寺・神社・教会
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高天彦神社の鎮座地は、高天という地名です。
天照大御神が治めたという高天原は、神話における架空の世界であると思われがちですが、実在する土地であったのではないかと私は考えます。
その所在地として最も妥当性があるのが、ここ高天なのです。
このあたりを車で走っていて思うのは、標高の高い西側から東側の平野(盆地)を見ると、下界を見下ろしているような気になるということです。
高天彦神社は金剛山を背に東向きに鎮座しており、平野を一望することができます。
神話では神として伝えられる人物たちは、大和政権の成立以前、この場所で政治を行っていたのではないでしょうか。 -
高天彦神社の北に、やはり数多くの伝説に彩られた神社が鎮座しています。
葛木一言主神社です。
とは言っても伝説となった出来事があった時代は、今のように豪華な社殿があったわけではなく、おそらく磐座や自然木などが神の依り代として信仰されていたのでしょう。
雄略天皇4年、天皇はここ葛城の地を行幸され、ある長身の人物に出会いました。
その人物はまるで王のように振る舞っていたため、天皇は不審に思って名前を尋ねたところ、彼は一事主神であると答えました。
『日本書紀』には、その後2人は仲睦まじく狩りを楽しんだと書かれていますが、実際には雄略天皇の命によって一事主神は土佐国へ流されてしまったです。
高知県に鎮座する土佐国一之宮の土佐神社は、一言主神とアジスキタカヒコネ神をお祀りしています。
土佐神社の社伝によると、雄略天皇と争って敗れた賀茂氏は土佐へ流され、その際に2神の御魂を土佐に勧請したとされます。
一言主神がこの地に呼び戻されたのは、流罪に処せられてから300年後の天平宝字8年のこと。
復興を許したのは、天皇位を目指した僧道教でした。葛城一言主神社(一言さん) 寺・神社・教会
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天孫族による大和支配が進む頃、この地に住む原住民は「土蜘蛛」と呼ばれていました。
そういう伝説がもとになったのか、謡曲「土蜘蛛」は、源頼光が朝廷に従わない土蜘蛛を退治するというストーリーとなっています。
源頼光は丹波の大江山で酒呑童子を退治したという伝説も持つ武人で、清和源氏の興隆に寄与した人物です。
彼が戦った土蜘蛛は葛城山に逃げ帰り、ついにこの地で退治したことになっています。
一言主神社の境内に置かれる蜘蛛塚は、祟りをもたらすとして丁重に扱われて来ました。
一言主神が土佐に流される前の磐座ではないのかと、勝手に結びつけて想像してみるのも面白いです。 -
一言主神は、修験道の開祖である役行者とも接点がありました。
葛城の古来の信仰から離れて仏教を学んだ役行者は、修行によって身に付けた能力によって、葛城から吉野まで巨大な橋をかけようと目論みました。
一言主神は困り果て、ある男に憑依して、役行者が文武天皇に対して謀反を企てていると讒言をさせたのでした。
この讒言が理由で、役行者は伊豆へと流されたのです。
しかし先にも述べたとおり、役行者は異様な能力を身についていたため、閉じ込めたつもりでも自由に行動していたのでした。
恩赦によって罪を帳消しにされた役行者は、一言主神に呪法をかけて呪縛してしまったのでした。
境内には樹齢1200年とも1500年とも言われる乳銀杏が枝を伸ばしています。
一言主神がたどった苦難の歩みを、この乳銀杏は間近に見ていたのでしょうか。 -
最後に鴨都波神社を参拝。
周囲が開発されてしまったために、古代の面影はほとんど残されていませんが、その祭祀の歴史は弥生時代にまで遡ることができます。
高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、そして鴨都波神社を下鴨社と並び称し、大和政権の成立以前から葛城地方の守り神として崇敬されて来ました。
大和国一之宮の大神神社の別宮とされること、御祭神は事代主神であることなど、やはり出雲系であることは間違いありません。
明治時代の廃仏毀釈に近いことが古代の出雲信仰にも降りかかり、よほど強い信仰を持つ地域以外は天孫族系の信仰に宗旨替えを求められた。
葛城地域は、例外的に強い信仰を持つ地域だったのではないでしょうか。
現在の信仰のあり方をそのまま後世に伝えることも大事ですが、変更を余儀なくされた過去の信仰のあり方を明らかにすることも、私たち日本人の大切な使命であると思うのです。鴨都波神社 寺・神社・教会
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