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和歌山城(わかやまじょう、和歌山県和歌山市一番丁)は天正13年(1585)紀伊を制圧した豊臣秀吉が和歌山の地を実弟の秀長(ひでなが、1540~1591)に与え築城させます。<br /><br />秀長は大和郡山に在城していた事情を考慮して同年5月に秀吉から秀長の家老職を命ぜられた桑山重晴(くわやま・しげはる、1524~1606)は3万石を以て和歌山城代として入城、天正19年(1591)秀長が大和郡山で病死、家督を継いだ秀保(ひでやす)も事故死により断絶となり重晴は秀吉の直参大名となります。<br /><br />慶長元年(1596)長男一重(かずしげ)の死去により孫の一晴(かずはる)が家督を相続、重晴は知行地4万石を一晴に譲渡し自ら隠居するも秀吉の御伽衆として仕え和泉国谷川において1万6千石を領有します。<br /><br />一方重晴二男である元晴(もとはる)は重晴と共に秀長・秀保に従っていましたが秀保死後は秀吉に出仕、慶長元年(1595)父重晴より大和国御所(ごせ)にて1万石を分与、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し戦功を挙げ2千石加増され合わせて1万2千石となり最終的には大和御所2万6千石の大名となりますが二男貞晴(さだはる)に後嗣ないまま病死したためお家断絶改易処分となります。<br /><br />他方和歌山4万石を継承した一晴(かずはる)は関ヶ原の戦いでは途中で西軍から東軍に属し戦後大和国布施に移封、慶長19年(1604)家督を継いだ一直(かずなお)大和国新庄に国替えとなり、5代新庄藩主一伊の代での天和2年(1682)には改易処分を受け、その2年後には一伊は病死して桑山家は途絶えてしまします。<br /><br /><br />JR和歌山駅舎の観光案内所で入手した和歌山城パンフレットでは次のように紹介されています。<br /><br />「史跡 和歌山城<br /><br />天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎福山)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえる。秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めた。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組んだ。<br /><br />慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万石6千石の領主となり、城の大規模な増築を行った。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。<br /><br />元和5年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万石5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸、砂の丸を内部に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城のすがたとなった。紀州徳川家は「南海の鎮(なんかいのしずめ)」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出した。<br /><br />明治4年(1871)の廃藩置県により、和歌山城は陸軍省の管轄とる。明治34年和歌山公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。」

紀伊和歌山 紀伊・和泉・大和の太守大納言秀長城代桑山氏が支配し関ヶ原後は浅野幸長を経て頼宣が徳川御三家で入部将軍吉宗を輩した『和歌山城』訪問

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2015/04/02 - 2015/04/02

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滝山氏照

滝山氏照さん

和歌山城(わかやまじょう、和歌山県和歌山市一番丁)は天正13年(1585)紀伊を制圧した豊臣秀吉が和歌山の地を実弟の秀長(ひでなが、1540~1591)に与え築城させます。

秀長は大和郡山に在城していた事情を考慮して同年5月に秀吉から秀長の家老職を命ぜられた桑山重晴(くわやま・しげはる、1524~1606)は3万石を以て和歌山城代として入城、天正19年(1591)秀長が大和郡山で病死、家督を継いだ秀保(ひでやす)も事故死により断絶となり重晴は秀吉の直参大名となります。

慶長元年(1596)長男一重(かずしげ)の死去により孫の一晴(かずはる)が家督を相続、重晴は知行地4万石を一晴に譲渡し自ら隠居するも秀吉の御伽衆として仕え和泉国谷川において1万6千石を領有します。

一方重晴二男である元晴(もとはる)は重晴と共に秀長・秀保に従っていましたが秀保死後は秀吉に出仕、慶長元年(1595)父重晴より大和国御所(ごせ)にて1万石を分与、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し戦功を挙げ2千石加増され合わせて1万2千石となり最終的には大和御所2万6千石の大名となりますが二男貞晴(さだはる)に後嗣ないまま病死したためお家断絶改易処分となります。

他方和歌山4万石を継承した一晴(かずはる)は関ヶ原の戦いでは途中で西軍から東軍に属し戦後大和国布施に移封、慶長19年(1604)家督を継いだ一直(かずなお)大和国新庄に国替えとなり、5代新庄藩主一伊の代での天和2年(1682)には改易処分を受け、その2年後には一伊は病死して桑山家は途絶えてしまします。


JR和歌山駅舎の観光案内所で入手した和歌山城パンフレットでは次のように紹介されています。

「史跡 和歌山城

天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎福山)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえる。秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めた。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組んだ。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万石6千石の領主となり、城の大規模な増築を行った。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。

元和5年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万石5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸、砂の丸を内部に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城のすがたとなった。紀州徳川家は「南海の鎮(なんかいのしずめ)」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出した。

明治4年(1871)の廃藩置県により、和歌山城は陸軍省の管轄とる。明治34年和歌山公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。」

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • JR和歌山駅

    JR和歌山駅

  • 和歌山市街地図<br /><br />JR和歌山駅前からバスで「公園前西」まで乘ります。

    和歌山市街地図

    JR和歌山駅前からバスで「公園前西」まで乘ります。

  • 和歌山城・大手門<br /><br />石垣に沿って並んでいる桜の木には満開の花が見応えがあります。

    和歌山城・大手門

    石垣に沿って並んでいる桜の木には満開の花が見応えがあります。

  • 和歌山城案内図

    和歌山城案内図

  • 一の橋<br /><br />大手門に通じる一の橋を渡ります。関ケ原合戦後に入封した浅野氏は従来の「市之橋御門」を途中から大手門とし、安政8年(1796)に大手門及び一の橋と改称されます。

    一の橋

    大手門に通じる一の橋を渡ります。関ケ原合戦後に入封した浅野氏は従来の「市之橋御門」を途中から大手門とし、安政8年(1796)に大手門及び一の橋と改称されます。

  • 一の橋展望<br /><br />石垣・堀に満開の桜並木の組み合わせは最高の景色です。

    一の橋展望

    石垣・堀に満開の桜並木の組み合わせは最高の景色です。

  • 一の橋展望

    一の橋展望

  • 「大手門と一の橋」説明板

    「大手門と一の橋」説明板

  • 和歌山城堀<br /><br />一の橋大手門を過ぎると堀に沿った桜並木が現れます。

    和歌山城堀

    一の橋大手門を過ぎると堀に沿った桜並木が現れます。

  • 和歌山城堀

    和歌山城堀

  • 井戸

    井戸

  • 中御門跡<br /><br />食い違い虎口を構成する石垣は角部は切込みはき、角部以外は打ち込みはぎとそれぞれ混在しています。

    中御門跡

    食い違い虎口を構成する石垣は角部は切込みはき、角部以外は打ち込みはぎとそれぞれ混在しています。

  • 伏虎像<br /><br />和歌山城が建つ山が虎の伏した姿に似ていたため別名「虎伏竹垣城」と称されていた事でその像が造られます。

    伏虎像

    和歌山城が建つ山が虎の伏した姿に似ていたため別名「虎伏竹垣城」と称されていた事でその像が造られます。

  • 「虎伏像」説明板

    「虎伏像」説明板

  • 本丸・石垣<br /><br />最も初歩的な石積みである野面積みの石垣も散見されます。藩主秀長の和歌山城を預かった城代の桑山重晴時代に積まれた石垣と思われます。

    本丸・石垣

    最も初歩的な石積みである野面積みの石垣も散見されます。藩主秀長の和歌山城を預かった城代の桑山重晴時代に積まれた石垣と思われます。

  • 二の丸庭園

    二の丸庭園

  • 二の丸御殿・表<br /><br />御殿は表・中奥・大奥で構成され、表は藩主の謁見や儀式の場として使用されたとあります。<br /><br />

    二の丸御殿・表

    御殿は表・中奥・大奥で構成され、表は藩主の謁見や儀式の場として使用されたとあります。

  • 二の丸・表図面(拡大)

    二の丸・表図面(拡大)

  • 「二の丸御殿跡」説明略図

    「二の丸御殿跡」説明略図

  • 二の丸・中奥

    二の丸・中奥

  • 「二の丸・中奥」説明板<br /><br />中奥は藩主の公邸にあたり藩主の居間、家老や側近の部屋、世話係の空間、風呂や台所関係の部屋があります。

    「二の丸・中奥」説明板

    中奥は藩主の公邸にあたり藩主の居間、家老や側近の部屋、世話係の空間、風呂や台所関係の部屋があります。

  • 二の丸・中奥図面(拡大)

    二の丸・中奥図面(拡大)

  • 和歌山城天守閣

    和歌山城天守閣

  • 裏坂方向<br /><br />市之御門が大手門となってもそこから通じる裏坂の呼称はそのままだったようです。

    裏坂方向

    市之御門が大手門となってもそこから通じる裏坂の呼称はそのままだったようです。

  • 裏坂

    裏坂

  • 銀明水石碑

    銀明水石碑

  • 裏坂<br /><br />勾配がだんだん急になってきます。

    裏坂

    勾配がだんだん急になってきます。

  • 裏坂

    裏坂

  • 市街展望<br /><br />石段を上り切り今までの通路を振り返ります。かなりの勾配を登ってきたと思います。

    市街展望

    石段を上り切り今までの通路を振り返ります。かなりの勾配を登ってきたと思います。

  • 本丸御殿跡<br /><br />更に左側の石段を登りますと本丸御殿跡に辿り着きます。<br /><br /><br /><br />

    本丸御殿跡

    更に左側の石段を登りますと本丸御殿跡に辿り着きます。



  • 「本丸御殿跡」説明板

    「本丸御殿跡」説明板

  • 本丸御殿跡(現在給水場)<br /><br />秀長時代には二の丸でしたが徳川時代には城郭拡張をして二の丸を北麓に移転させ、その跡に本丸御殿を建立します。やがて本丸御殿の不自由さと敷地の狭さにより接見の場所限定で使用、日常藩主は二の丸御殿にて政務を執ることになります。

    本丸御殿跡(現在給水場)

    秀長時代には二の丸でしたが徳川時代には城郭拡張をして二の丸を北麓に移転させ、その跡に本丸御殿を建立します。やがて本丸御殿の不自由さと敷地の狭さにより接見の場所限定で使用、日常藩主は二の丸御殿にて政務を執ることになります。

  • 天守閣<br /><br />本丸御殿跡から天守閣を望みます。(ここが撮影スポットのようです)

    イチオシ

    天守閣

    本丸御殿跡から天守閣を望みます。(ここが撮影スポットのようです)

  • 天守閣<br /><br />本丸御殿跡は天守閣を捉える絶好の撮影ポイントのため多数の人が天守閣に向けてシャッターを押していました。

    イチオシ

    天守閣

    本丸御殿跡は天守閣を捉える絶好の撮影ポイントのため多数の人が天守閣に向けてシャッターを押していました。

  • 天守閣と満開<br /><br />現在の天守は昭和33年に再建されてますが、実は当天守は昭和10年に国宝指定されるも戦火で焼失し国宝指定が解かれてしまった経緯があります。

    イチオシ

    天守閣と満開

    現在の天守は昭和33年に再建されてますが、実は当天守は昭和10年に国宝指定されるも戦火で焼失し国宝指定が解かれてしまった経緯があります。

  • 本丸への道

    本丸への道

  • 桜に囲まれた天守閣

    桜に囲まれた天守閣

  • 本丸広場

    本丸広場

  • 天守閣

    天守閣

  • 天守閣入城口<br /><br />ここで登城券を買い求めます。

    天守閣入城口

    ここで登城券を買い求めます。

  • 二の門櫓

    二の門櫓

  • 和歌山城沿革

    和歌山城沿革

  • 天守閣<br /><br />小天守から入り大天守に向かいます。和歌山城の天守閣は大天守、小天守、台所、乾櫓、二門櫓などが連結したり、多聞櫓で繋がっている連結式造りで他には姫路城、伊予松山城で見られる貴重な城です。

    天守閣

    小天守から入り大天守に向かいます。和歌山城の天守閣は大天守、小天守、台所、乾櫓、二門櫓などが連結したり、多聞櫓で繋がっている連結式造りで他には姫路城、伊予松山城で見られる貴重な城です。

  • 天守閣説明板

    天守閣説明板

  • 市街展望<br /><br />天守閣から市街を一望します。天気に恵まれ視界は良好です。

    市街展望

    天守閣から市街を一望します。天気に恵まれ視界は良好です。

  • 市街展望<br /><br />紀ノ川及び和歌山港方向を捉えます。

    市街展望

    紀ノ川及び和歌山港方向を捉えます。

  • 城郭

    城郭

  • 小天守閣前通路

    小天守閣前通路

  • 天守閣概要

    天守閣概要

  • 楠門

    楠門

  • 「楠門」説明

    「楠門」説明

  • 天守閣石垣<br /><br />打込みはぎでの石積みがなされています。

    天守閣石垣

    打込みはぎでの石積みがなされています。

  • まりと殿さま歌碑

    まりと殿さま歌碑

  • 「まりと殿さまの歌碑」説明板

    「まりと殿さまの歌碑」説明板

  • 天守閣<br /><br />表門方向から見た天守閣は雄大です。

    天守閣

    表門方向から見た天守閣は雄大です。

  • 本丸表門方向

    本丸表門方向

  • 本丸表門前<br /><br />

    本丸表門前

  • 本丸表門跡方向

    本丸表門跡方向

  • 七福の庭方向

    七福の庭方向

  • 七福の庭<br /><br />藩祖の徳川頼宣(よりのぶ)が藩の永遠の隆盛を祈念して元和7年(1621)本丸御殿の中央に作庭したと伝えられ、大正12年(1923)本丸御殿跡んみ上水道貯水池設置のためこの石組みを当所に移しています。

    七福の庭

    藩祖の徳川頼宣(よりのぶ)が藩の永遠の隆盛を祈念して元和7年(1621)本丸御殿の中央に作庭したと伝えられ、大正12年(1923)本丸御殿跡んみ上水道貯水池設置のためこの石組みを当所に移しています。

  • 「七服の庭」説明板

    「七服の庭」説明板

  • 石垣<br /><br />七服の庭の向かい側の石垣は野面積みの姿が一面に残っています。

    石垣

    七服の庭の向かい側の石垣は野面積みの姿が一面に残っています。

  • 桜並木<br /><br />城内の石垣の中でも最も高い石垣の3上から満開の桜を一望します。

    桜並木

    城内の石垣の中でも最も高い石垣の3上から満開の桜を一望します。

  • 岡口門<br /><br />松の丸角櫓跡辺りから桜の樹木が並んでいる岡口門方向を見降ろします。岡口門はかつては大手門でしたが、浅野氏支配中に一の橋が大手門に変更されています。

    岡口門

    松の丸角櫓跡辺りから桜の樹木が並んでいる岡口門方向を見降ろします。岡口門はかつては大手門でしたが、浅野氏支配中に一の橋が大手門に変更されています。

  • 石垣<br /><br />素朴な野面積みの石垣もしっかりと保存されています。

    石垣

    素朴な野面積みの石垣もしっかりと保存されています。

  • 表坂登城口<br /><br />奥の石垣は切込みはぎ、手前の石垣は打ち込みはぎと石積工法の違いが鮮明に出ており、工事時期の変遷が見られます。<br /><br />

    表坂登城口

    奥の石垣は切込みはぎ、手前の石垣は打ち込みはぎと石積工法の違いが鮮明に出ており、工事時期の変遷が見られます。

  • 石垣<br /><br />石積み工法が進歩して角部は切込みはぎで石積みがされています。従い石の稜線がきれいに出ています。

    石垣

    石積み工法が進歩して角部は切込みはぎで石積みがされています。従い石の稜線がきれいに出ています。

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