2015/04/02 - 2015/04/02
225位(同エリア321件中)
滝山氏照さん
岸和田城(きしわだじょう、大阪府岸和田市岸城町)はそれまで当地から500m東側の地に和田高家(にぎだ・たかいえ)が築城しましたが後に信濃泰義(しなの・やすよし)が現在の地に築城したとされ当時の岸和田城は海に面しており海城であったそうです。
応永15年(1408)細川頼長(ほそかわ・よりなが)が和泉国上守護を経て守護となり以降細川氏が岸和田城に関係するようになり、また京都の幕府政権混乱に乗じた阿波国の国人である三好長慶(みよし・ながよし、1522~1564))らは一族を率いて京都へ上る際の交通の要地として使われ、当然ながら岸和田城も一時的に三好軍勢の駐屯地的な役割もあったとも思われます。
岸和田市のホームページでは岸和田城について次のように記されています。
「 岸 和 田 城
伝承では、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。天正13年(1585)、羽柴秀吉は紀州根来寺討伐後、伯父小出秀政を城主とし、秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれました。
小出秀政・吉政・吉秀、松平(松井)康重・康映をへて寛永17年(1640)、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)、以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田城を統治しました。
天守閣は文政10年(1827)落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。
天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の模擬天守閣です。本来は5層天守であったことが絵図などで確認されています。城郭は昭和18年に大阪府指定史跡となりました。」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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岸和田駅周辺地図
南海電鉄なんば駅から特急にて岸和田駅下車、西口から南東方向に徒歩約20分の地に在ります。 -
南海電鉄・岸和田駅
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岸和田城
石垣はそう高くありませんが年代を重ねた石積みとなっており、右奥には二の丸多聞櫓が建っているのが確認できます。また石垣の角部は算木積みによって積み直しされた跡が見えます。 -
岸和田城
早朝の日差しを受ける二の丸の石垣と堀が鮮やかに映えます。 -
岸和田城
二の丸跡には心技館(道城)が建てられています。 -
岸和田城
二の丸をぐるりと回ると堀を切って大手橋が見えてきます。 -
岸和田城
大手橋を過ぎると隅櫓・多聞櫓が築かれています。 -
岸和田城総図
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大手橋
大手橋を渡ると櫓門が待ち受けています。 -
岸和田城図
櫓門を入り天守閣に通じる路に沿って幾つか当時の絵図が掲示されています。先ずは応永2年(1653)作製の岸和田城図では天守閣は5層の独立型として描かれています。また本丸は三重の堀によって囲まれています。 -
岸和田城図
文化2年(1805)当時の岸和田城絵図も掲示されています。 -
岸和田城鳥瞰図
昭和7年当時の鳥瞰絵図では二の曲輪はまだ残っています。 -
岸和田城天守閣
現在の天守閣は昭和29年建造の3層3階の模擬天守閣で、本来の天守閣は5層であったことが当時の絵図で判っています。尚天守閣は文政10年(1827)に落雷により焼失しています。(10時開城につき天守に上ることができません) -
岸和田城
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岸和田城
天守閣を東側から見上げます。 -
天守閣
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岸和田城庭園(八陣の庭)
昭和28年、作庭家である重森三玲(しげもり・みれい)によって作庭されています。 -
「八陣の庭」プレート
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岸和田城址碑
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イチオシ
岸和田城天守
重森三玲氏作庭による本丸庭園(八陣の庭)の向こうには小天守閣を従えた雄大な天守閣が聳えています。 -
隅櫓・多聞櫓
本丸跡・多聞櫓には桜の花が満開です。 -
岸和田城石碑
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岸和田城二の丸跡
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イチオシ
岸和田城
手前の堀の先には本丸石垣と樹木に隠れた小天守閣と天守閣が見えます。 -
岸和田城
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岸和田城
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