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 石楠花の岡寺に行く。金曜同僚より、岡寺が石楠花の開花で美しいとの情報を得る。飛鳥で花?と思いつつも朝5時半に起き、フラフラで出撃する。今回は、西名阪で香芝で降り、高田バイパスに乗る。南阪奈は、あほたれの大阪府が高い料金の接続道を作っているため、いつもパスして途中まで下道でいくのだが、信号の連携が悪い。そのため新規の経路を開拓中である。<br /> 天理まで行くと820円これは高い。ということで香芝で410円で降り南下する。おおっ本日第3目標の当麻寺がある。がスルーし岡寺に向かう。高田バイパスは、早くてらくである。到着は、7時過ぎ。途中、畝傍御陵前で朝食をとり到着。ここで駐車場ですが、早朝なら問題なく岡寺の駐車場(無料)に停めれます。8時くらいならOK。ただし細い道を行くので要注意。また岡寺前駐車場というのは私営でお金がかかります。岡寺の無料駐車場は、山門まで1分です。さすが奈良はいいねえ。<br /> ここでメールが<br />  「太陽がギラギラしているので今日は休みます。入江」<br /> ウエット入江はお休みのようです。そして岡寺などにいかついおっさんがくるはずがないのでほっとする。<br /> さあ岡寺に突撃する。<br /><br />『岡寺』と『龍蓋寺』<br /><br />岡寺は奈良県明日香村の東、岡山の中腹に位置しています。<br />『岡寺』という名は地名に因る名で正式には、<br /><br />山号は 東光山(とうこうさん)<br />院号は 真珠院(しんじゅいん)<br />法名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)<br /><br />と山号・院号・法名がそれぞれあり『東光山 真珠院 龍蓋寺』となります。しかし古来よりこの土地の名から『岡にある寺』=『岡寺』として親しみをこめて呼ばれており、現在では正式名の『龍蓋寺』ではなく『岡寺』と呼ばれております。<br />真言宗豊山派に属しており西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所です。また日本最初やくよけ霊場としても知られています。<br /><br /> 岡寺の創建は寺伝によるとおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されました。<br /><br /> 開祖の義淵僧正とは伝説にみちた人で、生年不詳(?〜728)。<br />大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、驚き中に連れて入ると馥郁たる香りがたちまちに家の中に満ちた。その後この夫婦に養育されていたが、その噂を聞いた天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662〜689)とともに育てられました。<br />この子供こそ後の義淵僧正その人である。というのが出生の伝説。<br /><br /> 後に義淵僧正はこの岡宮の地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。<br />現在岡寺は真言宗豊山派に属しておりますが、義淵僧正はわが国法相宗の祖であり、当時『当代きっての傑僧(学識や修行に特にすぐれた優秀な僧)』であると言われ、文武3年(699)にはその優秀な学行(学識・修行)を賞して稲一万束を賜り、大宝3年(703)には日本で初めて『僧正』の位になり、以後神亀5年(728)の入滅に至るまでの25年にわたり同職に就き、日本仏教界を牽引されました。その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基、その他にもおよそ奈良時代の高僧といわれる人は皆、義淵僧正の教えを受けたといわれています。<br /><br /> 岡寺が義淵僧正によって創建せられたという最も古い文献は、醍醐寺本『諸寺縁起集』に収める「龍門寺縁起」(*龍門寺・・吉野郡にあったお寺)に、龍蓋・龍門 両寺は義淵僧正が国家隆泰、藤氏栄昌のために建立するところであると記されています。また「龍蓋寺」という寺名は天平勝宝三年(751)の正倉院文書で初めて出てきますが、これ以前の天平十二年(740)七月八日付けの正倉院文書の中でも龍蓋寺所蔵と書かれた仏典があると記されています。<br /><br /> 義淵僧正は法相宗の祖でありましたから岡寺も江戸時代までは法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代以降は長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。<br />

石楠花の岡寺 新緑の候

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2015/04/25 - 2015/04/25

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bakaneko

bakanekoさん

 石楠花の岡寺に行く。金曜同僚より、岡寺が石楠花の開花で美しいとの情報を得る。飛鳥で花?と思いつつも朝5時半に起き、フラフラで出撃する。今回は、西名阪で香芝で降り、高田バイパスに乗る。南阪奈は、あほたれの大阪府が高い料金の接続道を作っているため、いつもパスして途中まで下道でいくのだが、信号の連携が悪い。そのため新規の経路を開拓中である。
 天理まで行くと820円これは高い。ということで香芝で410円で降り南下する。おおっ本日第3目標の当麻寺がある。がスルーし岡寺に向かう。高田バイパスは、早くてらくである。到着は、7時過ぎ。途中、畝傍御陵前で朝食をとり到着。ここで駐車場ですが、早朝なら問題なく岡寺の駐車場(無料)に停めれます。8時くらいならOK。ただし細い道を行くので要注意。また岡寺前駐車場というのは私営でお金がかかります。岡寺の無料駐車場は、山門まで1分です。さすが奈良はいいねえ。
 ここでメールが
  「太陽がギラギラしているので今日は休みます。入江」
 ウエット入江はお休みのようです。そして岡寺などにいかついおっさんがくるはずがないのでほっとする。
 さあ岡寺に突撃する。

『岡寺』と『龍蓋寺』

岡寺は奈良県明日香村の東、岡山の中腹に位置しています。
『岡寺』という名は地名に因る名で正式には、

山号は 東光山(とうこうさん)
院号は 真珠院(しんじゅいん)
法名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)

と山号・院号・法名がそれぞれあり『東光山 真珠院 龍蓋寺』となります。しかし古来よりこの土地の名から『岡にある寺』=『岡寺』として親しみをこめて呼ばれており、現在では正式名の『龍蓋寺』ではなく『岡寺』と呼ばれております。
真言宗豊山派に属しており西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所です。また日本最初やくよけ霊場としても知られています。

 岡寺の創建は寺伝によるとおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されました。

 開祖の義淵僧正とは伝説にみちた人で、生年不詳(?〜728)。
大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、驚き中に連れて入ると馥郁たる香りがたちまちに家の中に満ちた。その後この夫婦に養育されていたが、その噂を聞いた天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662〜689)とともに育てられました。
この子供こそ後の義淵僧正その人である。というのが出生の伝説。

 後に義淵僧正はこの岡宮の地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。
現在岡寺は真言宗豊山派に属しておりますが、義淵僧正はわが国法相宗の祖であり、当時『当代きっての傑僧(学識や修行に特にすぐれた優秀な僧)』であると言われ、文武3年(699)にはその優秀な学行(学識・修行)を賞して稲一万束を賜り、大宝3年(703)には日本で初めて『僧正』の位になり、以後神亀5年(728)の入滅に至るまでの25年にわたり同職に就き、日本仏教界を牽引されました。その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基、その他にもおよそ奈良時代の高僧といわれる人は皆、義淵僧正の教えを受けたといわれています。

 岡寺が義淵僧正によって創建せられたという最も古い文献は、醍醐寺本『諸寺縁起集』に収める「龍門寺縁起」(*龍門寺・・吉野郡にあったお寺)に、龍蓋・龍門 両寺は義淵僧正が国家隆泰、藤氏栄昌のために建立するところであると記されています。また「龍蓋寺」という寺名は天平勝宝三年(751)の正倉院文書で初めて出てきますが、これ以前の天平十二年(740)七月八日付けの正倉院文書の中でも龍蓋寺所蔵と書かれた仏典があると記されています。

 義淵僧正は法相宗の祖でありましたから岡寺も江戸時代までは法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代以降は長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。

旅行の満足度
4.5

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  • 岡寺突入!!よく写真に撮られている定番ポイントを発見。

    岡寺突入!!よく写真に撮られている定番ポイントを発見。

  • ぼたんもやる気満々です。

    ぼたんもやる気満々です。

  • 十三重石塔。朝陽がその隙間から輝く。

    十三重石塔。朝陽がその隙間から輝く。

  • どうしてもこの美しさが表せない。技術がないのか写真の限界か。プロならどう撮るこの新緑・・・・誰もいない

    どうしてもこの美しさが表せない。技術がないのか写真の限界か。プロならどう撮るこの新緑・・・・誰もいない

  • 寺に鳥居 神仏習合をきっちり守っています。この緑の美しさはなんともいえない。

    寺に鳥居 神仏習合をきっちり守っています。この緑の美しさはなんともいえない。

  • 石楠花の坂を奥に上がってゆく

    石楠花の坂を奥に上がってゆく

  • 奥のやしろにいなりさんがいる

    奥のやしろにいなりさんがいる

  • 奥の院参道中程には『瑠璃井』と言う井戸があり、現在も清冽な水が滾々と湧き出ており『大和名所図絵』巻五には「奥の院の霊水は弘法大師龍神を祈り給ひしかば忽清泉洋々として溢満せり。諸人これを?ば厄疾をのがるとぞ」とあり、お大師様ゆかりの厄除の涌き水となっています。<br /><br />その横の小さな滝を模したものに新緑が鮮やか。

    奥の院参道中程には『瑠璃井』と言う井戸があり、現在も清冽な水が滾々と湧き出ており『大和名所図絵』巻五には「奥の院の霊水は弘法大師龍神を祈り給ひしかば忽清泉洋々として溢満せり。諸人これを?ば厄疾をのがるとぞ」とあり、お大師様ゆかりの厄除の涌き水となっています。

    その横の小さな滝を模したものに新緑が鮮やか。

  • この新緑が表せない

    この新緑が表せない

  • 朝日を受けて

    朝日を受けて

  • 石楠花と青紅葉が美しい

    石楠花と青紅葉が美しい

  • 影紅葉

    影紅葉

  • 本堂の周りには、ぼたんが植えられている。

    本堂の周りには、ぼたんが植えられている。

  • 鮮やか過ぎる

    鮮やか過ぎる

  • この笠は、デコレーションだと思った。つくづく自分の無学を恥じる。花を傷めないための日よけである。

    この笠は、デコレーションだと思った。つくづく自分の無学を恥じる。花を傷めないための日よけである。

  • これが どないやという写真。岡寺らしいと自負する

    これが どないやという写真。岡寺らしいと自負する

  • 岡寺の司令部 いや本坊ですが、ここの文様が素敵であるとよく言われています。

    岡寺の司令部 いや本坊ですが、ここの文様が素敵であるとよく言われています。

  • ここは撮るのが難しい。塔に陽は当たり花は日陰。つくづく考えさせられる。

    ここは撮るのが難しい。塔に陽は当たり花は日陰。つくづく考えさせられる。

  • 岡寺本堂。現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超えるご本尊さまが安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。<br />初午の開運厄除護摩供大般若法要など主な法要はこの本堂で勤修されています。<br />

    岡寺本堂。現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超えるご本尊さまが安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。
    初午の開運厄除護摩供大般若法要など主な法要はこの本堂で勤修されています。

  • あでやか過ぎて撮れぬ!!撮れぬわ!!

    あでやか過ぎて撮れぬ!!撮れぬわ!!

  • さて本堂から降りて行こうとするとこのええ感じのアングルが

    さて本堂から降りて行こうとするとこのええ感じのアングルが

  • このワンポイントも良く考えて植えられている。岡寺の術策にはまった。

    このワンポイントも良く考えて植えられている。岡寺の術策にはまった。

  • 例の入り口の石楠花ポイントへ

    例の入り口の石楠花ポイントへ

  • 花に陽が当たっている。9時である、。この時間がチャンス

    花に陽が当たっている。9時である、。この時間がチャンス

  • 明日香展望

    明日香展望

  • うーん新緑がいい

    うーん新緑がいい

  • このワンポイントに魅かれ続ける。これが土門の眼か・・・いやいやそんなええものではない。

    このワンポイントに魅かれ続ける。これが土門の眼か・・・いやいやそんなええものではない。

  • 入り口の門から。しかし重文の仁王門など撮らずこれでエエのかと思いながらあほうな私は去ってゆく。(実は撮っているが編集が間に合わない)

    入り口の門から。しかし重文の仁王門など撮らずこれでエエのかと思いながらあほうな私は去ってゆく。(実は撮っているが編集が間に合わない)

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この旅行記へのコメント (3)

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  • 墨水さん 2015/04/29 11:26:38
    別当。
    bakanekoさん、今日は。
    室町時代の興福寺別当は、大和国守護職を兼任していた大名格式。
    (そんじゅうそこらの、別当職は違う。笑)
    当時は、もっと凄かったんだろうなと、想像出来ますね。
    竜蓋寺が国家隆盛を願った寺だったとすれば、創建当初の寺名は「隆願寺」だったかも。
    墨水。

    bakaneko

    bakanekoさん からの返信 2015/04/30 22:23:30
    RE: 別当。
    > bakanekoさん、今日は。
    > 室町時代の興福寺別当は、大和国守護職を兼任していた大名格式。
    > (そんじゅうそこらの、別当職は違う。笑)
    > 当時は、もっと凄かったんだろうなと、想像出来ますね。
    > 竜蓋寺が国家隆盛を願った寺だったとすれば、創建当初の寺名は「隆願寺」だったかも。
    > 墨水。
    >
    いやいやなんとも、今で言うISみたいなものでしょうか。宗教は麻薬であるといったところ。織田信長が焼き討ちしまくったので、政教分離が進んだかにも思えます。ふとそんなことを思いました。家康はそんなことを思い近畿を細分化したのかもしれません。どうやらお話を聞くと焼き討ちの名人松永弾正が稀代の英雄のような気がします。飛躍しすぎでしょうか。深い話をありがとうございました。

    墨水

    墨水さん からの返信 2015/04/30 23:24:04
    RE: RE: 別当。
    bakanekoさん、今晩は。

    >織田信長が焼き討ちしまくったので、政教分離が進んだかにも思えます。

    確かに、その通りですね。(笑)
    足利幕府管領職の細川晴元は、一向宗門徒を使い主君である足利義維を攻め、ついでに興福寺を攻めさせてます。
    (当時の寺院には、必ず僧兵が居たからね〜っ。)

    此により細川晴元は、将軍足利義晴に寝返って細川宗家を嗣いだ。
    最初に宗教を利用したのは、武家と言えます。

    引っ込みが付かない一向宗は、畿内一円に勢力を張り、石山本願寺を本山とし、興福寺は末寺となる。
    此の時点で、一向宗への対抗勢力は武家では居無くなった。
    其処に現れたのが、織田信長。

    片ッパシから焼き討ちにして行く事で、宗教勢力を政治の世界から追放した。
    その後の豊臣秀吉も徳川家康も、一向宗と縁切りを宣言した寺院にのみ再興を許しています。
    徳川幕府は、将軍直下の役職として寺社奉行を置いて、監視に怠りなくしていました。
    江戸時代は、大名と言っても、1万石程度の大名が大半ですからね。
    結果的に、細分化されてしまいます。(笑)

    >どうやらお話を聞くと焼き討ちの名人松永弾正が稀代の英雄のような気がします。

    そこに、飛びますか!。(笑)

    墨水。

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