2008/05/13 - 2008/05/24
142位(同エリア207件中)
明石DSさん
写真では平らなように見えるが凹凸激しく
この車では走れない
歩いてホルステン河へ向う
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■2時58分:ホルステン河に行く
ここで成吉思に言われていたように山丹に100元のお礼を渡した。彼女は笑顔で受け取った。さっきの監視塔に行くまでも舗装道はなく輪だちの残るだけの草原の道だったが、そこからホルステン河までは道なき道の砂漠を走ると言うものだった。でも途中で陥没が多く普通の乗用車だと無理だと言うことになり歩いて行くことになった。私は迷わずすぐに車から降り歩き出した。
成吉思も山丹も続いて来た。ホルステン河がどこにあるのか成吉思は知らないらしく途中私に後ろから声を掛け、「山丹さんに付いていかないと分からないから・・・」と言って来た。
先にそれを言えよ・・・であるが。山丹さんは私の後方右斜めに向かって歩いていた。私もすぐにその方向に修正して歩いた。車で行くより歩きたかったのだ。後で知ったのだが、この辺りは砂漠のように砂地で凹凸が多く、砂漠を歩く感じだった。それに枯れかけたように見える低い潅木が無数にある。草原とは言いがたい雰囲気の場所だった。
でも実は69年前の昭和14年当時もそうだったことがある方に教えてもらい分かった。
それは『ノモンハン戦記』を書いた小沢親光の記事の中に書かれていた↓
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凍結した川の表面に穴をあけた冬季の水飲み場は、どこが満洲国でどこがソ連か、判別できたらそれがかえって不思議なくらいだった。のちに戦場になったノモンハンは西に興安嶺がそびえ、大小の砂丘が起伏した砂漠地帯で、背丈が1メートル以下の小さな松や潅木が点在していた。そこを流れるハルハ河が国境線で、川幅70メートル、水深2メートル、流速2メートル、川には橋も、徒渉地点もなかった。
ハルハ河は、途中でホルステン河に合流するが、ホルステン側は幅10メートル、水量も少なく、水深も浅かった。付近は湖沼が多かったが、岩塩が流れ込んで塩っからいものがあり、放牧の馬はそれをよく知っていて真水のところでないと寄りつかなかった。部隊の飲料水は馬が教えてくれた。だからハルハ河やホルステン河は遊牧民にとっても命の水で、この水を求め、草を捜して国境線を移動していた。
ハルハ河の左岸、外蒙側は全体的に右岸の満洲国側より地形が高く、満洲国領を見下ろすことができた。それが、のちの戦闘でソ蒙軍を優勢にする一因となった。
夏の気温は36,7度まで上がったが、夜は16,7度に冷えた。蚊が多く、防御用の防蚊手袋と坊蚊面を離せなかった。透き通ったような草色の蚊で、その大軍団の来襲で空も暗くなった。地上に落ちた蚊はまるで砂漠の砂が隆起するようで、不気味だった。防蚊面を忘れると、鼻や耳の中にまで侵入して、刺した。
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上記の文中にも『ホルステン河は幅10メートル、水量も少なく、水深も浅かった。』と書かれているが、この河は2003年にすっかり干上がったそうだ。そして今は川の名残しかなかったが当時の雰囲気はそのまま残っているのだと思う。松の木は気付かなかったし写真でも確認は出来ないが潅木は多かった。そして私もダニに刺されたのか両足が蕁麻疹のように被れてヒリヒリが続きビックリした。18日より10日たった今日28日、未だ完治していない。
この附近を含めてこれよりモンゴル方向の広い範囲を主戦場に壮絶な戦いをしたのだ。日本軍・満洲軍vsソ連軍・外蒙古軍が・・・。二人に「先に車に戻っていて」と声を掛け、一人でそこらを歩きながら、彼らの姿が砂丘の向こうに消えた時、場所を見計らって日本から持参した森永のビスケットとキャラメルを砂漠の地に置き、手を合わせ般若心経を唱え冥福を祈った。
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国境監視塔から
ホルステン河に向うと途中 -
ホルステン河が流れ込んでいたアブダラ湖
アブダラ湖の水量が明らかに少なくなっている -
ホルステン河に近づくにつれて砂丘のような起伏が
顕著になって来た -
当時の様子を彷彿とさせるように潅木も多い
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とうとう辿り付いたホルステン河
昭和14年当時から水量少なかったようだが
2003年にすっかり干上がったそうだ
でも河の跡は紛れもなく残っていた
また一雨降れば水が流れるかのように
人も馬もこの水を飲み、
そしてまた戦場に向かって前進していったのだろう
この附近は今も起伏の多い砂丘で潅木も多い
あ〜我、ホルステン河に来る、感無量なり -
今は水なきホルステン河
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今は水なきホルステン河
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ホルステン河のそばの砂地に
森永のビスケットとキャラメルを置き
般若心経を唱え英霊の冥福を祈る -
前方がホルステン河だ
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蛇行して流れるホルステン河
水は枯れている -
写真左方、遠くに国境警備隊基地
そして、その手前に、車と、
車に向かう成吉思と山丹の二人が米粒のように写っている -
ノモンハン村に戻って来た
どこの家も庭先はこんな様子だ
生まれたばかりの子牛があちこちにいた
ここにはここの生活があり夢も希望もある
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■3時41分:サラバ諾門罕
もう一度ノモンハン村に行った。山丹が同乗して阿木古朗に行くと言うので荷物を取りに戻った。山丹はモンゴル族なので白布仁とモンゴル語で話をしていた。そして4時26分頃、阿木古朗に到着し(60kmを45分くらいで走っている)山丹と別れ一路、海拉尓に向かった。
阿木古朗から海拉爾までは160kmくらいの距離だそうだ。やはり大草原の中を突っ走るが、砂漠化が進んでいるところも多くあり痛ましい。草原は砂の上にへばりついているかのようで、ホンノ有るかないかの薄い土が表面にデリケートに覆われただけの大地に見える。草が枯れると薄いベールの土の表皮は哀れ吹き飛び砂に置き換わる。さすれば風で砂丘になり平原の風景はオウトツのある乾燥した砂漠の風景となってしまう。雲泥の差とはこのことだ。 -
車の停まっているところが山丹の実家
山丹が阿木古朗まで一緒に乗って行くとのことで
荷物を準備するのに少し待っていた -
サラバ諾門罕
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阿木古朗に戻り山丹を降ろして
一路海拉爾へ向う -
阿木古朗から海拉爾へ
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ホロンバイル草原のラクダ
ノモンハンの戦い当時もラクダが写っている写真がある
日本軍も使っていたようだ
馬も牛もラクダもそうだが、この顔見れば
草食動物と銃はミスマッチかも・・・。 -
おいラクダよ
あんたら何考えてるの?
それとも何も考えてないのか?
考えるということが出来ないのか?
ムムム、どんなんやろ頭の中は?
見た目平和やけど、ホンマはどうなんや
飼われているってことは、先どうなんの? -
海拉爾郊外の刑務所
新しい刑務所やけど
中はどうなのか?
海拉爾での犯罪とは如何なるものか?
興味あるけど・・。 -
海拉爾断橋
日本軍よって?ソ連軍の攻撃で?
両方の説があるようで、真相は知らない -
海拉爾断橋
右:海拉爾市内の一番南に架かる現在の「貝爾橋」
すぐ南側に断橋がある -
断橋と並行して架かる逆光の貝爾橋
ソ連兵士の像が立っている
この辺りではあちこちに紀念公園や慰霊碑を建てソ連軍を称えている
歴史はその時々の権力者が都合よく作る
その最たる国家が独裁国家であり、愚かな国家である -
■7時32分:海拉爾賓館に入る
最初に行ったホテルが、窓のカーテンが閉まらないので部屋を変えてくれと言ったら、空きが無かったのでホテルを変わった。海拉爾は成吉思の地元だからお手のものなのだろう。
次に行ったのが、川の傍で窓を開ければ伊敏河、その伊敏橋の西角にあるホテルだ。窓からの景色も良いし変えてもらってホント良かった。この部屋に三泊することになった。最初の契約では、成吉思の旅行社が入っている北苑賓館だったのだが・・・。
運転手の漠河さんによると今日の走行は600kmを越えたそうである。東京駅〜大阪駅が548km、東京駅〜西明石駅が610kmだから我が家から東京まで一気に走った計算になる。
9時30分:飯を食ってワンバに行ってホテルに戻る。
部屋で一服し、夕食を食べに出て行った。まだ出て行く時は外も明るかった。何故か?デジカメを持って出ていないので写真はない。ホテル近くを散歩しながら一軒の店に入った。客は一組、おっさんが二人で酒を飲みながら入口の傍のテーブルで、いろんな物を頼んで食べていた。
いつものように私が入ると、姑娘が「一位:イーウェイ=お一人ですか?」と聞いてくる。「我只一個人来」などと答えないが「一個人:イーガレン:ひとり」と言う。そして尚突っ立ていると、怪訝な顔をしだすがメニューを持ってくることが多い。そして、そのメニューを受け取り、一応開いて見ながらも「ウーン・・・」と悩む。そして、「う〜ん、見ても分からん:看不ドン」と言う。姑娘も店の人間も客も私が外国人だと多分分かる。
そして、拉麺は漢字を見て分かるので有るのは分かるが「拉麺有るか?」と聞くと、当然「有る」と言う。でもどんな拉麺か分からないので、量の少ないのを身振りで伝えると、この店には私の要望通りの「小碗」が有ると言う。そして、それを頼んだ。
「小碗」と言っても日本の普通のラーメンの量ぐらいあるのだろう・・・と、思って待っていたが、出てきたのはホントに日本のミニうどんのような「小碗」ラーメンだった。そして味も良かった、汁も飲んだ。そして尚且つ、もう一杯同じ物を頼んだ。
その頃、もう一人の若い兄ちゃんが入って来て私の隣のテーブルに座り、日本の焼きソバ風の食い物とピザのような物を頼んで旨そうに食いだしていた。私はそれを見て明日はあれを食おうと思って姑娘に「あの食い物は何て言うの?ここに書いて」と頼んで書いてもらった。
因みに私の食った小碗も書いてくれた。面条(Mian tiao) 2小碗 6元。
餅(Bing) 一張2元・・・小麦を薄く円盤状に焼いた物(ピザの具なし)、焼きソバのような物は字を書いてもらったが今も判読不明。一応腹も膨れ、姑娘にワンバの場所を聞きすぐ近くにあるようなのでそこに行った。
ワンバから帰り、水を買って部屋に戻り充実の一日は終了した。我満足す。 -
諾門罕の草原
星亮一は自著の「遥かなるノモンハン」のあとがき冒頭に以下のようなことを書いている
・・・・・・・・抜粋
ノモンハンの戦場跡に立って、思うことは、ばかげた戦争だということだった。
上級指揮官の無能さをさらけ出した戦争だった。
・・・・・・・・以上
ノモンハン戦記の書籍は、星亮一のように何でこんな大草原で「ばかげた戦争」をしたのだと言う意見ばかりだ。私はそうは思わない。戦争に無意味は無い。戦いの場所は関係ない。どんな辺境であっても命を懸けて戦うのは民族の誇りや正義を貫くためのものだ。
「何を守り、何に価値があるのか?」
その価値観の違いが思いの違いになるのだろう。
そして人間は完璧ではない。間違いがあり失敗もある。
ノモンハンの戦いに日本は敗れたのか?例えそうであっても恥じることは何一つ無い。恥ずべきは「戦うべき時に戦わない、戦えないこと」だけだ。戦後のソ連側から開示された資料では戦死傷者は敵側の方が多いという数字もある。
無論戦死傷者の数で勝敗は決まるのではなく、どちらが目的を達成したかが勝敗の分かれ目なのかもしれない。しかし私にとっては日本がその目的を達成しなくても、国家として真の独立を保つ限り、例え彼方此方での戦いに負けでも勝ちだ。
ようするに自国の大儀・正義を貫くために命を賭けて戦う国は全て勝者である。戦わずして屈する或いは戦うことを恐れて従属する、奴隷になる、誤魔化す・・・それこそが敗戦国であり敗者なのだというのが私の考えだ。
故に、米国の庇護の下に従属生存することを選択している今の日本こそ敗戦国、敗者であり卑怯なる国家であり、国民なのだ。
5月18日:ホテルのフロントに表示していた海拉爾の気温・最高11℃、最低5℃。
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ノモンハンで戦った兵士の替え歌
ハロンアルシャン出てからは
昼も夜もない行軍で
ひげに似合わず顎を出し
水さえあればと負け惜しみ
来る日来る日も米と味噌
ハルハ湖畔の穴の中
糧秣自動車来る度に
水は来たかと顔を出す
飯盒片手に雨の中
何処がおいらの穴じゃやら
見分けも付かぬたそがれに
ドッコイ落ちたは人の穴
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