2012/05/15 - 2012/05/29
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jijidarumaさん
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Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間 :2012年05月15日(火)〜05月29日(火)15日間の旅
5月22日(火); 晴、25℃、245km
ハールブルク城を11時10分に出発。−>B25 15km (Donauwoerth)−>B2(Meitingen)・L? 21km Thierhauptenで給油−>L? 26km Aichachアイヒャッハ・Sisi Schlossに到着・見学 12:10〜13:10
≪絶世の美女・皇妃エリザベートの城;シシーの水城Sisi-Wasserschloss≫
ハールブルク城から、Donauwoerthを経由し、MeitingenでB2に分かれ、36kmにある Thierhaupten ・Agipスタンドで第2回目(Euro65.95=41.77L)の給油を行う。
旅行前にヒトラー暗殺未遂事件を起こしたシュタウフェンベルク伯爵の生まれた城と、幼少期のバイエルン公爵家の王女・後のオーストリア皇妃エリザベート(Sisiシシー)が一家で過ごした城を見つけて、是非訪れてみたいと思った。
しかも2011年の春に行った旧東独の旅で、皇妃の母ルートヴィカの伯母であるプロイセン王妃・Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカの名を皇妃に与えられたと知ったのでした。
26kmを行くと、 Aichachアイヒャッハ・Sisi Schlossの裏手にある駐車場に到着した。
写真はシシーの水城:左の橋を渡って、礼拝堂、館に至ります。
裏手から見た写真になっています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
<Aichachアイヒャッハ観光>
アイヒャッハはWittelsbacher Landヴィッテルスバッハ地方の中心に位置し、凡そ1000年の歴史を有する人口2万人の町だ。
Paarパール川(ドナウの支流・全長134km)沿いにあり、アウクスブルクからレーゲンスブルクを結ぶ街道沿いにある
アイヒャッハは1384年までドイツ騎士団の司令部所在地であった。
三十年戦争の1634年、アイヒャッハは包囲戦の後、町は焼失した。町の紋章はオーク (Eiche アイヒェ) の木が描かれ、町の名は元来「オークの森の近くにある定住地」を意味している。
市庁舎、市壁や市門が一部残っている旧市街、ウンターヴィッテルスバッハの水城が見所だが、今日はともかく、この水城を見たい。 http://www.aichach.de/
写真はかつてのAichachアイヒャッハの城 -
≪"Sisi-Schloss"Wasserschloss in Unterwittelsbach
ウンターヴィッテルスバッハの水城≫
12:10〜13:10 入場券Euro7
ウンターヴィッテルスバッハの水城は1126年の歴史文書に記録が残っているが、1838年にオーストリア皇妃エリザベートの父・マクシミリアン・ヨーゼフ・バイエルン公爵が購入した事で後の世にその名が残った。水城を中心にした周辺一帯は3つの池を含み、56千?の自然公園になっている。
Kaiserin von Oesterreich Elisabethオーストリア皇妃エリザベート(1837〜1898)・愛称Sisiシシーの城として良く知られていると書かれていたが、私共には初めての訪れである。
ここは誠に小さな城館であり、シシーがかつてここで過ごした事が無ければ、歴史のかなたに忘れられていたでしょう。
写真は"Sisi-Schloss"Wasserschloss in Unterwittelsbach
ウンターヴィッテルスバッハ・シシーの水城 -
皇紀エリザベートについて作家の塚本哲也さん曰く、シシーの美しさを表して
「典雅、崇高、気品、威厳、端麗、魅惑、孤高、ロマンチシズムと、いかなる言葉を並べても表現できない存在感を持って、見る者を金縛りにした」と。
さて、そのシシーの父・Herzog Max in Bayern (正式にはHerzog Maximilian Joseph in Bayernマクシミリアン・ヨーゼフ・バイエルン公爵・1808〜1888年)バイエルンのマックス公爵が夏の離宮のウンターヴィッテルスバッハの水城で過ごした1838~1888年が、彼の最も輝ける時代であったと云う。
写真はシシーの城:濠を渡ると右に礼拝堂、その先に本館がある。かつてのJagdschloss狩猟の館。 -
写真は礼拝堂
-
写真はシシーの城:美しい礼拝堂
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写真はシシーの城:美しい礼拝堂内。
小さな礼拝堂ですが、シシ―一族の歴史にとっては大事なものだったでしょう。 -
ここで小さなシシーが、父Maxマックス公と母Ludowikaルドヴィカ公妃(1808〜1892年)、姉のHelene.ヘレーネ王女や兄弟姉妹と共に滞在したこと、小さなシシーが、城内の公園をお気に入りのポニーに乗って、乗馬の練習をして過ごしたのだと・・・。
シシーはウンターヴィッテルスバッハの頃から馬好きで、皇妃となった後も旅先に愛馬を伴っている。皇妃の颯爽とした乗馬姿は絵画や写真に多く残されているのを良く見ることでしょう。
小さなシシーの幼年期の間、何一つの心配も無く、静かな夏の日をこの城に過ごしたようである。
写真はシシーの城:小さな本館です。 -
3階建てのかつてのJagdschloss狩猟の館内は特別展・『Sisi und die starken Frauenシシーとたくましき女性たち』(5月12日〜11月4日)が開かれていた。
勿論シシーを中心としたもので、女帝マリア・テレジア、女王クレオパトラ、アレクサンドリアの聖カタリナ(287〜305年・殉教者)、アンゲリカ・カウフマン(1741〜1807年・画家)など、そこには良く知らない名前もあったが・・・。
彼女らは単に男勝りで、男を従えていただけでなく、ファッション、文化、時代の好尚に大いに影響を与えたと云う。シシーのダイエットプログラムは今も時代と共にあり、乗馬・運動(散歩)などのスポーツ好きは伝説的でもある。
写真はシシーの城:かつての水城の模型 -
写真はシシーの城:ヴィッテルスバッハ家の歴代の像
バイエルン公(公爵)と日本語訳されるHerzog in Bayern(本来のバイエルン公:Herzog von Bayernでないことに注意)は、プファルツ=ツヴァイブリュッケン系ヴィッテルスバッハ家の一流及びその子孫に用いられた称号である(Wik)。 -
ヴィッテルスバッハ家の歴代の像、シシーの玉座、シシーが特別にあつらえたと云う食器、過剰な模様の椅子、マクシミリアン・ヨーゼフ公爵一家の写真、シシーの若い頃の絵、宝石類、ファッショナブルな皇妃の衣装、ローマの木彫りの兵士が2体等を順に見た。
写真はシシーの城:玉座 -
写真はシシーの城:シシーが特別にあつらえたと云う食器
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写真はシシーの城:過剰な模様の椅子
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≪マクシミリアン・ヨーゼフ公爵一家≫
1837 年12 月24 日、バイエルン王国の首都ミュンヘンでヴィッテルスバッハ公家に女の子が誕生した。父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵はヴィッテルスバッハ分家の長。母ルドヴィカはバイエルン王マクシミリアン1世の王女である。
クリスマス・イブに生まれた、この第4子はルートヴィカの伯母であるプロイセン王妃・Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカ(1801〜1873年)から名前をもらいエリザベートと名づけられた。
参考:≪プロイセン王の一目ぼれDie Liebe auf den ersten Blick≫
http://4travel.jp/travelogue/10861035
≪バウムクーヘン発祥の地とプロイセン王ヴィルヘルム4世≫
http://4travel.jp/travelogue/10862303
写真はシシーの城:マクシミリアン・ヨーゼフ公爵一家の写真 -
写真はシシーの城:シシーの若い頃の絵、宝石類
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写真はシシーの城:皇妃の衣服・・・すごくウエストが細いドレス。現代女性に通ずるものがありますが、ウイーンの王宮にあるシシ―の体操器具を見てみると、納得します。
また、故郷のバイエルン・シュタルンベルガーゼー湖(ミュンヘンから西に凡そ30km)に皇妃エリザベートのお気に入りのホテルがあります。
ホテル近くにある散策道も湖畔(今はゴルフ場にもなっています)に沿った起伏のある道ですが、お供が付いていけないような速足で歩いたとか・・・。 -
写真はシシーの城:ローマの木彫りの兵士
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城館横に美しい礼拝堂、本館は周囲を濠に囲まれていたが、水藻で汚れた水濠はいささかシシーには似合わない思いがした。
1838年から1958年まで一族が居住したとある。
XXX
写真はSisi-Schloss:シュタルンベルク湖畔に立つ Possenhofenポッセンホーフェン城はシシー生誕の地 -
写真はWien①王宮①博物館・皇帝の住居⑤皇妃エリザベート・有名なWinterhalterヴィンターハルター作品
シシーの最も美しい写真と言われています。正面の写真でない所にとりわけ美意識が感じられるものですが、ドレスは現代でも十分通用します。 -
写真はWien①王宮①博物館・皇帝の住居⑤皇妃エリザベートの有名な絵②
『エリザベートの愛称はなぜシシー?』について書かれたプログもご参考までに
http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/sissi-episode10.htm -
写真はSisi Schloss :バイエルンのマックス公爵と家族・1854年
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写真はシシーの父・Herzog Max in Bayern (正式にはHerzog Maximilian Joseph in Bayernマクシミリアン・ヨーゼフ・バイエルン公爵・1808〜1888年)
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写真はZitherチター
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アイヒャッハの町の人たちはこんなエピソードを言い伝えている。
『ある時、小さなシシーが父マックス公と、街中の酒場にやって来て、マックス公がZitherチター(弦楽器)を奏で、曲に合わせてシシーが踊ったと。踊った後に、シシーは小さな帽子をもって皆の前を回りお金を集めたと云う。
そして、シシーは帰城した後、彼女の侍女にお金の入ったバッグを見せて、嬉しそうに、これまで彼女が得た唯一のお金であると云ったそうです。』
写真はバイエルン公のチター演奏 -
マクシミリアン夫妻は男女其々4人=8人の子供をもうけた。
長男Ludwig Wilhelmルートヴィヒ・ヴィルヘルム(女優と貴賤結婚をし、公爵位を放棄)、
次男Wilhelm Karlヴィルヘルム・カール(早逝)、
長女Helene Karoline Thereseヘレーネ・カロリーネ・テレーゼ(トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人)、
次女エリザベート(オーストリア皇妃)、
3男Carl Theodorカール・テオドール(バイエルン公:眼科医)、
3女Maria Sophie Amalieマリー・ゾフィー・アマリエ(両シチリア;南イタリアのシチリア王国とナポリ王国の総称;王フランチェスコ2世の王妃・イタリア統一戦争時において「ガエータ城塞の戦士女王」と呼ばれた。)、
4女Mathilde Ludovikaマチルダ・ルドヴィカ(両シチリア王フランチェスコ2世の最年長の異母弟にあたり、相続位第一の王子であるトラーニ伯ルイジの妻)、
4男Maximilian Emanuelマクシミリア・エマヌエル(バイエルン王家傍系出身の騎兵軍人、バイエルン王国議会議員、バイエルン公)。
XXX
写真はSisi_schloss:Ludovika_de_Baviera_母Ludowikaルドヴィカ・バイエルン公妃 -
写真は皇妃エリザベートの乗馬姿
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以下は美形の家系であることがよくわかる。
写真はカロリーネ・フォン・バーデン・・・シシーの祖母
バイエルン王マクシミリアン1世の2番目の妻で最初のバイエルン王妃。
バーデン大公子カール・ルートヴィヒと妃アマーリエ(ヘッセン・ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の娘)の娘として、カールスルーエで生まれた。
バイエルン王との間で、2組の双子を含め8子が生まれた。 -
写真は母ルートヴィカの伯母であるプロイセン王妃・Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカ
バイエルン王妃カロリーネ・フォン・バーデンの娘・双子の姉。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃。
皇妃エリザベート・シシーの名は母の伯母の名前を取った。 -
写真はゾフィー (オーストリア大公妃・シシーの伯母であり義母)
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写真はマリア・アンナ・フォン・バイエル(ザクセン王妃)
・・・ゾフィー (オーストリア大公妃・シシーの伯母)と双子 -
写真はヘレーネ・イン・バイエルン(シシーの姉・トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人)
郵便侯爵として知られるFuersten von Thurn und Taxis トゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)は郵便事業をヨーロッパで独占的に行っていた。また、皇妃エリザベートの姉ヘレーネとの結婚で、オーストリア皇帝の縁戚になっていた。
そのヘレーネはかつてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にと、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大后妃(ヘレーネの伯母になる)に望まれていて、有力な花嫁候補であった。しかし、フランツ・ヨーゼフはヘレーネの妹エリザベートに心を奪われており、いくら母がヘレーネを推しても聞かず、エリザベートとの結婚を果たした。 -
写真はマティルデ・イン・バイエルン(トラーニ伯爵夫人・シシーの妹)
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写真はマリーア・ソフィア・シチリア王妃(シシーの妹)
<イタリア統一と両シチリア王国の滅亡>
1860年9月、ジュゼッペ・ガリバルディの軍勢が首都ナポリに押し寄せると、王はカプアで体勢を立て直そうと逃走した。
しかし、カプアはヴォルチュルヌスの戦いでガリバルディ軍に陥落させられ、王と王妃はナポリ北80キロにある強固な要塞ガエータへ立てこもった。
1860年暮れから1861年初めまで行われたガエータ攻略で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の勢力は砲撃され、すぐに後退を余儀なくされた。この時からマリーア・ソフィアは『ブルボン家最後の砦』を守った『戦う王妃』という高い名声を得ることになった。
彼女は精力的に働いて兵士の志気を挙げ、要塞を陥落させようとする敵との死闘の間、傷病者を運び、自身の食物まで分け与えた。(Wik) -
写真は女優ロミー・シュナイダーとシシ―
ロミーの代表作と言うと、シシーの映画が上がりますが、いささか不思議な気がする。明らかにシシーの気品の方に軍配を上げます。 -
写真は1898年スイス・ジュネーブのレマン湖畔でイタリア人無政府主義者に暗殺される・最後の写真
-
終わりに;
愛称シシーで呼ばれた皇妃の人気は当時から、今に至るまで衰えません。この水城の存在は小さいものながら、確かにシシーの人気を示していました。
シシーについての塚本さんの表現も納得するものですが、意外なのは、父から受け継いだ詩的精神、野性味、放浪性などです。バイエルンの風土がそれを培ったとすれば、シシーにとって良かったのかどうか・・・。
日本では宝塚での上演もあって、皇妃エリザベートが若い世代にも知られたようですし、バイエルンの旅や、中欧の旅で皇妃を身近に感じる人が多いのも結構な事と思います。
写真は皇妃エリザベートの暗殺場面(享年60歳) -
ご参考に;
≪シシー街道(皇妃エリザベートの街道)≫
(ドイツ観光局抜粋)
全長約2000kmのシシー街道は、複数の国にまたがる欧州文化街道です。
オーストリア皇后にしてハンガリー王妃だった女性の生涯において、重要な意味を持つ場所へと導く、歴史的・伝記的な道標のようなルートなのです。
全長:約2000 km
テーマ:オーストリア皇后エリザベートゆかりの地
見どころ:
<ドイツ>
アウクスブルク:フッガー家、人形劇場、エリザベートの兄弟の邸宅、マクシミリアン通り
アイヒャッハ: ウンターヴィッテルスバッハ水城
フュッセン: 王城
ポッセンホーフェン: 皇后エリザベート博物館、シュタルンベルク湖
<オーストリア>
ウィーン: 王宮、シシー博物館
バート・イシュル: 皇帝の別荘
<ハンガリー>
ゲデレー宮殿
<イタリア>
メラーノ: トラウトマンスドルフ城
トリエステ: ミラマーレ城
<ギリシャ>
ケルキラ: アヒリオン宮殿
<スイス>
ジュネーヴ: ホテル・ボー・リヴァージュ
http://www.sisi-strasse.info/
XXX
写真はkarte Sisi-Srtasseシシー街道図
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