2015/03/10 - 2015/03/15
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倫清堂さん
おととしの夏から集中的に九州を訪れて、一之宮を中心に離島も含めて各地を訪ね歩きました。
最後に残された一之宮の参拝を果たすための今回の旅は、九州巡遊に一つの区切りをつけるものとなります。
今回目指すのは、日本で最も保守的な気風が残る佐賀と、日本で最も開明的な歴史を持つ長崎です。
このような正反対の性格を持つ土地が隣接していることも、九州の面白さの一つなのかも知れません。
もともとは11日出発の予定で、スカイマーク便を予約していました。
しかしスカイマーク社が財政的に危険な状態となり、仙台・福岡便は大部分が運休となってしまいました。
予約した便もそこに含まれていたのです。
そこでお客センターに問い合わせたところ、前日10日の便はフライトがあるとのことなので、そちらに振り替えてもらうことにしました。
ほっとした上に、振り替えに対する協力金まで受け取ることができるとのことでした。
1泊分の宿泊代には少し足りないですが、日程的には前日に出発しても問題なく、当初の予定よりも多少余裕のあるスケジュールに変更して、出発当日を待つことにしたのでした。
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レンタカーや宿泊場所の予約変更は最小限に抑えたかったので、1日早まった初日は空港のある福岡で過ごすことに決めました。
しかしいざ考えてみると、1日で行って帰れるような所はすでに1度は行っています。
迷ったあげく、志賀島を目指すことにしました。
志賀島は生まれて初めて飛行機に乗った大学時代、2人の友人を連れて訪れた思い出の場所です。
それは、所属する合唱団が初めて全国大会への切符を手にし、福岡での全国大会に出場するために訪れた時のことでした。
自分は自動車免許を取りたてで、レンタカーを借りたのも初めての経験でした。
ちょうど別な友人の影響で神社に興味を持ち始めた自分にとって、金印が出土したことで有名な志賀島は、距離的にも意味的にも目的地として最適な場所でした。
2人の友人も異議を唱えるわけではなく、志賀島の食堂で大盛りの海鮮丼を喜んで食べたことを覚えています。
しかし今回は一人旅。
志賀島のためだけにレンタカーを借りるのは勿体ないし、電車だけでは目的地まで行けません。
バスも出ているようですが、おそらく本数は少ないはずなので、路線のイメージを持っていない旅行者にとっては利用にかかるリスクが高く思われます。
そこでさらに調べたところ、渡船が運航されていることが分かりました。
博多の埠頭にさえ行ければ、あとは船が勝手に体を運んでくれます。
博多空港へは10日の夕方に到着。
福岡市内のホテルにチェックインし、翌朝早く起きて周囲を散歩しながら、埠頭へ向かうバスの乗り場を確認しました。
大きな荷物はホテルに預け、バスでいざ埠頭を目指します。
そして終点の中央埠頭に到着しましたが、なんとなく景色がおかしいのです。
渡船は小さな船であるはずなので、桟橋がなければならないのですが、目の前にあるのは博多港国際ターミナルの巨大な建物だけ。
そこで受付の方に尋ねてみると、渡船乗り場はここではないとのこと。
事前の調査が悪かったのか、後で調べると中央埠頭ではなく博多埠頭が正しかったのです。
教えられた方向へ慌てて向かうと、ようやくそれらしい景色が見えて来ました。
少し早めのバスに乗って正解でした。福岡市営渡船 乗り物
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乗船券を買って乗り込んだのは「きんいん号」
客席は30程度の小型の船です。
博多港を出て、西戸崎桟橋・大岳桟橋に寄り、30分ほどで志賀島港に着きます。
小さな船のため、少しの波でもなかり揺れている感じがします。
あまり船に強くないので、本を読もうものなら間違いなく酔ってしまうでしょう。
なるべく景色を見ながら外に意識を向け、揺れを感じないよう心がけました。 -
志賀島乗船場の外壁には、国宝の金印の印面「漢委奴国王印」を模したデザインの飾りが取り付けられています。
歴史の教科書にも載っている金印はここ志賀島で、江戸時代に発掘されたと言われています。
「漢」とは中国の王朝、「委」とは「倭」つまり中国人による日本人の呼び方で、「奴」は地名であるというのが一般的な説ですが、「委奴」で「伊都」を表すという解釈もあります。
どちらにしても、漢の冊封に入った日本に対して漢の皇帝から下賜された国璽であり、日本の古代の姿を知るための大きな手掛かりであることは間違いありません。 -
乗船場を出るとすぐ志賀海神社の一の鳥居が見えるので、迷うことはありません。
参道はほとんど一直線に神社の境内へと続いています。
小さな商店のある住宅地ですが、日本の他の地方と同じく活気が感じられません。
そんな風景の中で異質に思える数人の集団が住宅を戸別訪問しているのを見かけました。
考えるまでもなく、新興宗教の勧誘でしょう。
志賀海神社という由緒ある神社の神域にさえ、宗教ビジネスの波は容赦なく押し寄せます。
100軒ある住宅のうち1軒だけでも信者にしてしまえば、次からはそこを拠点に「繁殖」して行きます。
神社や氏子にとっては、最初の1軒を奪われないようにすることが大切なのですが、世の中と人の心が乱れて社会への不満が高まる時代には防ぐ手立てがないというのが現実なのです。 -
一の鳥居から10分ほど歩くと、さらに先へと石段が続きます。
それほど急な石段ではありませんが、その参道の脇には摂社末社や歌碑などがあります。
楼門の前には神橋がありますが、人が渡ることはできません。
その立派な楼門をくぐると、少し右の奥に拝殿が置かれています。
御祭神は仲津綿津見神・底津綿津見神・表津綿津見神の3神、つまり綿津見三神です。
神話では、黄泉国から帰還されたイザナギ命が禊をした際、その川の底・水中・水面から現れた神と位置づけられています。
最近読んだ古代史解釈の本には、同じく海の神とされる住吉三神はそれぞれ航路を測量・掘削・潮流調査をした実在の人物がモデルになっていると書かれていました。
しかし、なぜ同じような構成の三神が住吉系と綿津見系で重複しているのかは謎です。志賀海神社 寺・神社・教会
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神功皇后が三韓征伐に赴かれる際、阿曇氏の祖である阿曇磯良が亀に乗って現れたという伝承が残されています。
阿曇氏は古代日本の海洋を支配していた一族で、志賀海神社は阿曇氏の氏神であり、半島へ渡る神功皇后にとって阿曇氏を味方につけることは遠征を成功させるために最低限の必要事項でした。
磯良が乗ってきたという亀が変化した石が、境内で丁寧に祀られています。 -
帰りの渡船はしばらく来ないので、バスで博多に向かうことにしました。
かなり距離があり、乗車時間は1時間ほどになります。
しかしありがたいことに、途中で乗り換える必要もなく、また運賃は上限が決まっているのでそれ以上の負担はありませんでした。
一度ホテルに戻って大きな荷物を受け取り、博多駅のホームで立ち食いそばを食べ、佐賀行きの在来線に乗りました。
昼過ぎには駅に到着し、駅前のホテルに大きな荷物を預け、佐賀市内の散策へと出発しました。面浮立の像 名所・史跡
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ホテルでもらった地図を頼りに、まずは反射炉跡に向かったのですが、狭い道が入り組んでいる所で迷ってしまいました。
その際、自分がいる地点を確認する手助けとなったのが、伊勢神社でした。
天智天皇の御代に創建された時の御祭神は不詳ですが、天文年間に3種の神器とともに伊勢皇大神宮から分霊され、田手太神宮と称しました。
伊勢神宮から分霊を許されたのは、日本全国でここ佐賀の伊勢神社が唯一とのこと。
その後、戦国末期に鍋島直茂公によって居館内に遥拝所が設けられ、江戸時代に入って佐賀城が築城されるのに合わせて町並みが整備されると、長崎街道の中心である現在地に遷宮されたのでした。伊勢神社 寺・神社・教会
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境内では、奉納された河津桜が、一足先に春の訪れを謳歌していました。
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「葉隠れ武士道」を生んだ佐賀は、非常に固い保守的な観念を持った人々が暮らす土地であるというイメージがあります。
おそらく現在は他の地域と同様に、その土地の人間らしい生き方というものが顧みられなくなってしまったのでしょう。
しかし明治初めに起きた「佐賀の乱」までは、確かにそのような気風が残されていました。
そういう保守的な色彩を持つ土地の大名としては、10代藩主鍋島直正公のような方は非常に珍しいタイプの人物であると言えると思います。
外国船が日本近海にしばしば現れるようになると、幕府は重い腰を上げて海防警備の政策を実施します。
そこで選ばれたのが、鍋島公が治める佐賀藩でした。
福岡藩と1年交代で長崎警備を命じられた佐賀藩は、西洋式の軍備を幕府に提言しますが受け入れられず、ついに単独で洋式反射炉の建造を成功させたのでした。
伊豆代官の江川英竜が韮山に反射炉を建造する前の年のことでした。
このことをきっかけに薩摩藩や水戸藩でも反射炉が建造され、日本国内では少しずつ西洋の技術が受け入れられ始めたのです。
反射炉とは、炉の中で発生した熱を天井や壁などに反射させることで高温にし、鉄などの金属を大量に精錬する施設です。
反射炉が完成したことで、大型の大砲や洋風帆船などの建造も可能になったのでした。
佐賀の反射炉跡は現在、小学校の校庭の敷地となっており、実物を縮小したモニュメントが建てられています。
しばらくこの場所で過去に思いを馳せていると、突然帰りの放送が鳴り響きました。
いつまでもここにいては不審者に間違えられてしまうと思い、慌てて去ったのでした。 -
次の目的地に向かうために大きな道路に出ました。
右ひざの古傷がうずき始めていました。
地図上だと行きたい場所は密集しているように見えるのですが、実際にはかなりの距離を歩かなければならないようです。
途中で江藤新平の墓を示す本行寺の案内標識を見つけました。
佐賀藩の下級藩士の家に生まれた新平は、文久2年に脱藩し、京都で長州の志士や攘夷派公家などと親交を深めました。
通常、脱藩は死罪となるはずでしたが、新平の素質を見抜いた直正公によって罪を免じられて永蟄居に処せられ、やがて大政奉還が実施されると蟄居も解かれたのでした。
彰義隊との戦いでは戦功を挙げ、戊辰戦争の後に司法と担当する役職を与えられました。
そして明治5年に司法省のトップである司法卿に就任しますが、三権分立論を唱えたことで守旧派と対立し、朝鮮出兵をめぐる政変の際に西郷らとともに下野。
佐賀に帰ると反体制派の士族たちによって領袖に祭り上げられ、佐賀城跡に駐留する熊本鎮台兵を攻めて反乱の狼煙を挙げます。
しかし頼りにしていた西郷の薩摩軍は起たず、政府軍の猛攻によって鎮圧されてしまいました。
薩摩から京を目指して逃走する新平は土佐で捕えられ、己がトップを務めた司法の場で裁かれて、獄門とされたのでした。本行寺 寺・神社・教会
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佐賀城へ向かう途中で佐賀県護国神社を参拝しました。
この日の日付は3月11日。
神職と崇敬者有志によって東日本大震災慰霊・復興祈願祭が行われていました。
佐賀県護国神社は明治3年に藩主鍋島直大公によって招魂場として創始され、昭和14年に護国神社と改称しました。
戊辰戦争から先の大戦までに殉国した英霊と、殉職自衛官をお祀りしています。 -
佐賀県庁の後ろを通り、佐賀城へと向かいます。
幅70メートルもある堀の大部分が残されています。
現在は佐賀城と表記しますが、かつては佐嘉城と表記していました。
佐嘉城だった時代に本拠地としていたは、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信公でした。
佐賀藩祖藩主鍋島直茂公は隆信公の側近で、大友宗麟に城を攻められた際には夜襲を決行して劣勢を挽回し、ついに大友軍を撃破したのでした。
しかし沖田畷で島津軍と戦った際、龍造寺軍は大敗し隆信公は討死。
直茂公は主君の遺骸を確保することもできず、佐賀へと敗走したのでした。
島津軍が佐嘉城を包囲し隆信公の首級を差し出した際には、直茂公は受け取りを拒んで島津への敵対を内外にアピールしました。
その後、秀吉公による九州征伐に協力的であったために龍造寺家は領地を安堵され、直茂公は龍造寺家を継いだ政家公に替わって実権を握るようになりました。
龍造寺の後継ぎに領地と領民を納める力がないと見た直茂公は、主家に敬意を表しつつ主家の影響力を少しずつ排除し、子の勝茂公を初代藩主に立てたのでした。 -
イチオシ
佐賀城の建築物の多くは佐賀の乱の際に焼失してしまいましたが、天保9年に建てられた「鯱の門」だけは現存しています。
しかし全く無事であったわけではなく、銃弾の跡を見ることができます。 -
失われた本丸御殿は、かつての工法を用いて復元され、内部は博物館として公開されています。
佐賀県立佐賀城本丸歴史館 美術館・博物館
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特に目を引いたのは、一之間から四之間まで合わせると320畳の大広間となる外御書院の床の間に掛けられた掛軸でした。
それは鍋島直正公直筆の書のレプリカで、「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」と書かれています。
佐賀市内では他にも見たいところが多くありましたが、思ったより右ひざの調子が悪いので、無理をしないでホテルに帰ることにしました。
駅へ向かうバスに乗ると、ちょうどノーマイカーデーに当たっているとのことで、運転免許証を見せると運賃が半額になりました。
これは我が自治体でも検討してほしいと思いました。 -
あくる日の午前はレンタカーを使って遠方まで足を延ばしました。
営業所が開くのと同時に受付を済ませ、目的地を設定していざ出発です。
最初に目指したのは肥前国一之宮の與止日女神社。
よどひめ神社と称し、神功皇后の妹とされる與止日女命をお祀りします。
駐車場から境内へ向かうと、特徴のある石の鳥居が立っています。
肥前鳥居と呼ばれる様式で、島木・笠木・柱がそれぞれ3段継の構造になっています。
佐賀県内の多くの神社で見られる他、福岡市の筥崎宮の大鳥居も非常に良く似た様式となっています。
與止日女神社の肥前鳥居は、初代藩主鍋島勝茂公によって寄進されたものです。興止日女神社 寺・神社・教会
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欽明天皇25年に創建された古社ですが、それ以前から神聖な土地とされていたことが考えられます。
日本武尊は全国平定事業の際にここに立ち寄られ、ここに茂る樟が勢いよく栄えている様子を讃え、「この国は栄の国というべし」とおっしゃったと伝わります。
この「栄」こそが佐嘉という地名の語源なのです。
樟の霊木の周囲には、勝茂公によって石垣が築かれましたが、文化10年に落雷によって枯死してしまいました。
残された樟は今も青々と茂っています。 -
與止日女神社では平成26年に行われた御創建1450年記念事業の一環として、拝殿の天井に山幸彦海幸彦縁起絵巻と菅原道真公絵巻を題材とする絵馬が描かれました。
神職の方に尋ねたところ、こころよく昇殿と拝観の許可を頂くことができました。
山幸彦海幸彦縁起は、初代神武天皇の祖父にあたる山幸彦が海の神が治める都を訪れる説話で、與止日女命が豊玉姫命と同一の神様であるという解釈をふまえて採用されたものです。
また摂社として天満宮を祀ることから、菅原道真公の一代記が採用されたのだと思われます。
以前にも天井絵馬は描かれていましたが、修築を機にその内容は一新されたとのことです。
古い絵馬がどうなったのかが気になりますが、新たによみがえらせることで永遠の生命を吹き込むという神道の観念により、価値あるものが産み出されたのなら、それはそれで歓迎すべきことだと思います。 -
次に車で多久市に向かいました。
多久市は「孔子の里」を自称するほど論語や儒教の教えを大切にする土地で、現在も学校で論語の暗誦などが行われています。
多久市で発行している「論語カルタ」は、かつて塾長をしていた時代に、子供たちの生活力や道徳心の涵養のために活用していました。
論語から100の格言が選ばれ、それを百人一首風にカルタ取りする活動ですが、小学校に入学したばかりの子供でも早ければ2〜3ヶ月で全て暗誦してしまいます。
いつか教え子を連れて多久市主催の「論語カルタ大会」に参加したいと思っていましたが、その夢を実現する前に塾を閉じることになってしまいました。
そこで今回は聖廟に祀られる孔子様に対し、己の力のなさをお詫びするとともに、論語カルタによって生徒たちが素直に育ってくれたことを感謝しようと思い、ここまでやって来たのでした。
「孔子の里」に到着し、広い駐車場に車を停めました。
他に観光客のものらしい車は見当たりません。
売店の横を通って聖廟に向かう途中、儒者らしい衣装をまとった人物の銅像を見つけました。
この人物は多久の4代邑主であった多久茂文で、特に儒学への造詣が深かったと言われています。
彼は2代藩主鍋島光茂公の4男として生まれ、多久氏に養子に入り、多久聖廟や東原庠舎を創設しました。
像は非常に柔和な顔をしていますが、自らの経験から、儒の教えを学ぶと心が丸くなるというのは真実です。 -
坂道を上ると左手に聖廟が置かれています。
領民に「敬」の心を育むため、多久茂文によって宝永5年に創建されました。
内部には孔子の他、顔子・曽子・子思子・孟子の4哲も祀られています。
ここでは春と秋の年2回、孔子を祀る釈菜という祭典が行われています。多久聖廟 名所・史跡
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坂道は、元禄12年にやはり茂文によって創設された東原庠舎に続いています。
多久を納めるためには教育が必要であると考えた茂文は、武士の子に限らず、農民や町人の子も集めて教育を施しました。
その教育内容は儒学の他、和学・礼法・武術・農学など多岐にわたり、寄宿制度も設けられていました。
平成4年には天皇陛下皇后陛下の行幸啓の折、御休息のために用いられました。
聖廟から東原庠舎を含む敷地内には数多くの歌碑が立てられており、その大部分は民間人による漢文コンテストの優秀作であることに驚きました。
和歌は未熟といえども詠めますが、漢文となるとお手上げです。
しかし多久では、今も庶民の間で漢文を詠む習慣があるのです。
佐賀県が保守的であるのは、半分以上は多久の影響なのかも知れません。 -
次に、温泉で有名な武雄市に向かいました。
もちろん温泉に入ってのんびりしている時間はありません。
事前の調査で武雄神社が気になったので、実際に参拝することにしたのでした。
駐車場の場所が分からず、神社の境内まで無理やり入ってしまいましたが、道路の反対側に大きな駐車場が備えられていました。
武雄神社は聖武天皇の御代、天平7年に御神託が下ったことによって創建されました。
御祭神は武内宿禰・仲哀天皇・応神天皇・神功皇后そして武内宿禰の父である武雄心命です。
武雄心命こそが、ここ武雄の地名の由来になった人物なのでしょう。
すぐ近くの御船山の南には住吉三神を祀る上宮が、北には武内宿禰の子である平群木兎宿禰を祀る下宮が鎮座しています。武雄神社(武雄五社大明神) 寺・神社・教会
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境内の夫婦檜は、根元ばかりか枝までもが一体となっている珍しい樹です。
ちょうどこの日は境内でテレビ番組の収録が行われており、レポーターやカメラマンなどが宮司らしき人物から説明を受けていました。
自分自身は録画されたくない身なので、遠くから一団が去るのを確認し、誰もいなくなったところで散策するという具合でした。
しかし、武雄神社の最大の見どころである大楠の方へ一団が消え、しばらく待っても戻って来ないため、仕方なく自分もそちらへ向かうことにすると、信じられないような巨木の前でちょうど録画が行われているところでした。 -
イチオシ
深い森の奥に、ただ1本だけ自在に手を広げるようにそびえ立つ御神木が現れ、物語の世界に入り込んでしまったのではないかと錯覚してしまいました。
テレビの放送局というと、聖なるものでも俗にしてしまう負のパワーを持ったものだと認識していますが、さすがにこの風景の中にあって取材の人たちも、崇高な気持ちに心が支配されているように見えました。
この大楠は樹齢3000年とも言われており、根元の空洞には12畳敷の祭祀場が設けられ、天神様が祀られています。
柵によって近寄ることが禁止されているのは、年老いた樹を保護することが目的でしょう。
3000年という時間の流れを見つめて来た御神木を前にすると、自分が次の目標を実現するために抱えている悩みなどは芥子粒のようなものであり、もし失敗したとしても何ほどのことでもないのだという思いが滲んで来るのでした。
それは勇気とも諦めとも違う、強いて言うなら無と一体になった感覚を思わせるものでした。 -
武雄から1時間ほどかけて佐賀市内に戻ると、レンタカーの返却時間まで30分ほど余裕がありました。
前日に訪れることができなかった山本常朝の墓や佐嘉神社、大隈重信旧宅などへも行きたかったのですが、市内は意外と車の通行量が多く、期限までに戻れない恐れが大でした。
ここは欲張らず、申し込んだ通りに車を返すことを優先しました。
そして佐賀駅から長崎駅に向かう電車に乗りました。
各駅停車でおよそ2時間かかりましたが、車窓から美しい海を見ながら過ごすと、長い時間には感じられませんでした。
長崎駅には、江戸時代初期に東南アジアまで渡った御朱印船の模型が飾ってありました。長崎駅 (長崎県) 駅
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ホテルにチェックインすると、もうどこかへ行こうという気力は残っていませんでした。
大相撲の中継をテレビ観戦し、それが終わると近所へ食事に出ました。
しばらく道路を歩くと、中華料理らしき店を発見。
あまり活気のある雰囲気ではありませんが、周囲には他に店はなさそうなので、そこに入ることにしました。
そして絶対に食べようと決めていた皿うどんを注文。
本当はパリパリの硬い麺が食べたかったのですが、出されたのはやわらかい麺でした。
あんかけは、あまり感じたことのない独特の臭みがありましたが、味は悪くなかったです。
翌日はかなり歩く予定なので、右ひざを大事にするためにも、夜はゆっくり休むことにしました。三角亭 グルメ・レストラン
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イチオシ
次の日も快晴となりました。
路面電車の1日券をスマートフォンで購入し、早速行動を開始します。
まずは最も混雑しそうな場所から訪れることにしました。
大浦天主堂下駅で路面電車を下車。
少し坂道を上ると、目の前に立派な教会が見えて来ました。
元治2年に建てられた日本最古の教会、大浦天主堂です。
秀吉公の命によって磔にされた26人のキリスト教信徒に捧げる目的で建てられました。
内部に入ると、ステンドグラスによって色を持った光が差し込み、壁や机などを幻想的に照らしています。
このように人工的なものによって人の心に信仰を芽生えさせるのが、西洋的な手法だと言えます。
日本人はありのままの自然物を活かして自然と一体となるか、畏れの大きいものに対しては境界線を設けるという信仰のあり方を、歴史的に実践して来ました。
大浦天主堂は先の大戦で原爆が投下されても、爆心地から比較的離れていたために焼失をまぬがれました。大浦天主堂 寺・神社・教会
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グラバー園は浦上天主堂からすぐの所にあります。
幕末から明治にかけて、リスクを負ってまでして日本に渡って来た西洋の商人たちが、日本で起きている内乱を利用して一儲けしようとしたのは、当然のことでした。
そのための最初の拠点とされたのが、ここ長崎だったのです。
他の後進国にくらべると、日本人という人種はどうも働くことが好きである。
そう思った西洋人たちは、日本を植民地とし、日本人を奴隷として強制的に働かせるのではなく、日本人が自分のために働いていると思いこませておきながら、こぼれて来る富をすくい取る手法を選んだのでした。
そのために最も手っ取り早いのは、武器を売りつけることでした。
グラバー園という名前の由来となったトーマス・ブレーク・グラバーこそ、討幕派の諸藩に武器を売って富を得たスコットランド人です。
グラバー園は花壇や噴水などでとても明るい雰囲気ですが、その陰には武器商人の思惑によって地位や財産や命を落とした無数の人々の御霊が息を潜めているように感じられます。 -
第1ゲートから入場すると、まず動く歩道で最も高い位置まで行き、そこから坂を下りながら建築物を見学する順路となっていました。
日本趣味が反映されている家は、大浦天主堂の隣から移築されたウォーカー住宅です。
ウォーカーが日本へ来たのは明治6年。
西南戦争では政府軍の輸送を助け、海運業や清涼飲料水の製造で富を築きました。 -
噴水に立っているのは、日本人として初めて世界で認められた女流オペラ歌手の三浦環の像です。
三浦環が名声を得たのは、『蝶々夫人』で主人公を演じたのを評価されてのことでした。
『蝶々夫人』のストーリーは、日本人女性が西洋人男性と結ばれるものの、夫は帰国してしまい、子供とともに残された妻が自殺するというものです。
外国との交流を数世紀にわたって経験しなかった江戸時代の日本人にとって、西洋人は鬼や獣のように思えたのでした。
しかし時代の変化によって鬼や獣とも交流しなければならなくなった時、身の回りの世話をする日本人女性が必要とされたのでした。
そういう女性こそが、西洋人も自分たちと同じ人間であることを真っ先に知ったのかも知れません。
しかし彼女らは「ラシャメン」などと言われ、日本人から軽蔑されて生きることを強いられたのでした。
このような開国前後の日本の風俗をテーマにした『蝶々夫人』は、プッチーニの甘美なメロディが吹き込まれたことで、オペラ作品としては非常に高い人気を博すものとなったのでした。
主人公「蝶々さん」にモデルが実在するかどうかは、長年の謎となっています。
グラバーの妻ツルであるという説、シーボルトの妻タキであるという説、モデルはいないという説などがあります。
どちらにしろこのような歴史が現実にあったことを、私たち日本人は知っておくべきでしょう。
近代化のために戦った日本人は、男性だけではなかったのです。 -
トーマス・ブレーク・グラバーの住宅は日本最古の木造洋風建築物です。
建物の前には円形の花壇が置かれており、今は色とりどりのチューリップが植えられていました。
また、薩摩藩主から贈られた樹齢300年の蘇鉄も植えられています。
屋内には植物を栽培するための温室が備えられており、海が見える高台で花や木に囲まれて優雅に暮らしていたグラバーの生活が想像されます。グラバー園 名所・史跡
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グラバー邸には討幕の志士たちが出入りし、時に身を潜めて難を逃れたを言われています。
グラバーが長崎に移住したのは安政5年のことでした。
その2年後にグラバー商会を設立し、生糸や茶などの貿易を始めますが、やがて倒幕運動が激化すると、長州や薩摩の志士たちに武器を売りつけて、政権奪取のために一役買ったのでした。
また貿易だけでなく、長州藩の若者5名を密かにイギリスに留学させることの手助けも行い、吉田松陰が果たせなかった海外への渡航は、弟子の伊藤博文ら5名によって実現されたのでした。
明治政府による新しい政治が始まると、グラバーは造船や掘炭などの技術を導入して事業を拡大し、日本の近代化に多大な影響を及ぼしました。
彼の中に、日本のために貢献したいという意思があったかどうかは分かりませんが、世界への扉をこじ開けた極東の小国は投資するだけの価値を持つと見ていたのは間違いないでしょう。
その後グラバーは日本政府から勲二等旭日章を授与されています。 -
グラバー園の見学を終えて出口へ向かうと、最後に長崎伝統芸能館を通ることになります。
ここでは「長崎くんち」の山車や傘鉾などを見ることができます。
長崎くんちは博多・唐津とともに「日本三大くんち」の一つに数えられます。
その始まりは江戸時代。
長崎に鎮座する諏訪神社の初代宮司によって9月7日・9日が祭礼の日と定められ、音曲や舞楽が奉納されました。
9日つまり「くにち」の祭りであることから、やがて訛って「くんち」と呼ばれるようになったと考えられています。
日本で唯一の玄関口であったことから、長崎くんちでは、南蛮船や唐船など異国情緒あふれる山車が登場します。 -
次の目的地に向かうため、先ほど降りた大浦天主堂下駅ではなく、隣の石橋駅から路面電車に乗ることにしました。
細い路地の一画に、大浦天主堂・妙行寺・大浦諏訪神社の3つの宗教施設が接する「祈りの三角ゾーン」という場所がありました。
妙行寺には仮のものではありましたが、日本で初めてイギリス領事館が置かれ、ユニオンジャックが高々と掲げられていました。
現在はユニオンジャックに替わり、電柱ばかりが天に伸びています。
イギリスが裏で支配する時代が終わり、電力が裏で支配する時代になったということでしょうか。 -
築町駅で下車し、出島へ向かいました。
出島は現在、周囲が埋め立てられたために島ではなく陸続きになっています。
東側ゲートで入場料を払い、日本最古のプロテスタント神学校の学舎から見学を始めました。
中には観光案内のボランティアの方がいたため、主に埋め立てが行われる前の地形について話を伺いました。
出島の復元事業は現在も続いていますが、ざっと見て半分以上は工事が完了しているようです。出島 名所・史跡
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出島の唯一の玄関口である表門も整備が続いています。
ここから本土に続く1本の道だけが、両者を行き来するための唯一の道でした。
江戸時代、オランダだけは交流が許可されていたとは言っても、オランダ人が出島の外に出ることは厳しく制限されていました。
出島は本来、ポルトガル人が暮らすために整備された島でした。
寛永13年に完成するも、3年後の寛永16年にはポルトガル船の来航が禁止され、国内のポルトガル人は全て国外退去を命じられます。
彼らがキリスト教の布教に熱心であったことが理由でした。
その後、布教を行わないオランダと中国だけが公式に交易相手と定められ、平戸にあったオランダ商館が移されて、出島は再利用されたのでした。 -
出島から歩いて行ける場所に、新地中華街があります。
オランダ人が出島に住まわせられたのに対し、中国人は唐人屋敷に住むことを命じられました。
寛政10年の大火で被害が出たため、幕府は新たに海を埋め立てて新たな土地を造成し、そこに貿易品を保管する倉庫を建造したのでした。
その新たな土地こそが「新地」で、中華街として整備されたのは比較的新しい時代のことのようです。長崎新地中華街 名所・史跡
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かつて中国人たちが暮らしていた唐人屋敷も、出島同様に出入口は一ヶ所しかありませんでした。
唐人屋敷は現在は普通の住宅街となっていますが、出入口のあった場所には最近になって門が建てられたようです。
実はこの場所で、我が仙台にゆかりの深い林子平が活躍しました。
仙台藩士でありながら部屋住みであったため妻子を持たなかった子平は、全国を行脚して見聞を広め、海防の必要性を説く『海国兵談』を書き上げましたが、出版元が見つからないため自ら版木を彫って自費出版を果たしました。
後にアメリカが小笠原諸島の領有を主張した際、日本が領有権を主張するための根拠としたのは、その時には既に故人となっていた子平の『三国通覧図説』だったのでした。
そんな子平が長崎を遊学中、唐人屋敷で暴動が発生し、多数の中国人が鉄砲などの武器を持って立てこもりました。
長崎奉行所の役人が手をこまねいていた所に現れたのが、林子平でした。
彼は剣の腕前も優れており、役人たちの先頭に立って唐人屋敷に突入し、みごと暴動を鎮圧したのでした。
また、その話題を作り話として一蹴したオランダ商館長に対し、ひとつに束ねた7本の西洋刀を一刀両断して見せたのでした。 -
まだ10時半でしたが、長崎のグルメを楽しむために1食増やしてもよいと思い、早めの昼食をとることにしました。
ちょうど目に入った「あっちゃん亭」という中華料理店に、「小ちゃんぽん」というメニューがあったからです。
店には贈り物らしい欄の花が咲いており、店主に訊ねたところ、まだ開店して数日しか経っていないとのことでした。
店主は長く福岡で中華料理店を営んでいましたが、そちらは2代目に譲ることにし、出身地の長崎で第2(?)の人生を歩み始めたとのことでした。
少なめの量を出す店は他にはないそうですが、良いアイデアだと思います。
商店街で協力し、多くの店で小ちゃんぽんを提供するようになれば、香川県の讃岐うどんのようにハシゴする客でにぎわうのではないかと思います。 -
次に築町駅から正覚寺下駅へ向かい、坂道を少し上って高島秋帆旧宅を訪れました。
高島秋帆も林子平と同時代の人物で、生まれ育った長崎でオランダ人からオランダ語や砲術などを学び、幕府に提言して日本で初めて砲術の演習を行いました。
その場所は板橋区の「高島平」で、言うまでもなく秋帆の苗字から取られた地名です。
演習の際に兵隊たちに着せた衣装は、幕府の役人たちを目を白黒させるほどの奇抜なものでしたが、それは彼の懐から出た資金によって調達されたものでした。
やはり砲術に関心の高かった佐賀藩に対しては、自作の大砲を献上したこともありました。
父が長崎町年寄を務めていたこともあり、長崎の旧宅はかなりの広さがあります。
おそらく自由に使える資金も豊富にあったことでしょう。
秋帆のすごい所は、そのような裕福な境遇によってもたらされた財産を国防のために費やしたところです。高島秋帆旧宅 名所・史跡
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しかし秋帆は、水野忠邦の側近であった鳥居耀蔵によって罪を着せられ、投獄とお家の断絶に処せられてしまったのでした。
幕府を衰退させたのは、己の地位を守るために優秀な人材を当然のように潰す、耀蔵に代表される保身的な役人たちだったのです。
秋帆は鳥居養造の失脚後、ペリー来航などで海防の必要性がさらに高まると罪を解かれ、幕府の砲術師範に取り上げられたのでした。
彼が学んだオランダ流砲術はやがて時代遅れとなり、フランス流・イギリス流が採用されることになりますが、オランダ語による用語のいくつかは存続されたのでした。 -
高島秋帆旧宅から正覚寺下駅へ戻り、路面電車には乗らず反対側の地域へ歩くと、そこは古寺が立ち並ぶ寺町です。
十以上もの寺が並んでいる中で最も正覚寺下駅に近いのが崇福寺です。
寛永6年、長崎在留の福建省福州出身者たちによって開かれた黄檗宗の寺院です。
長崎の唐人屋敷には非常に多くの中国人たちが住んでいたことから、彼らは出身地ごとにグループを作り、グループ毎に寺を建てたのでした。
崇福寺が創建される時には、福州から僧超然が招かれました。
境内入口に当たる三門は、まるで竜宮城の建物のような印象的な様式です。
そこに掲げられる「聖寿山」の扁額は、黄檗宗の祖である隠元大師によって書かれたものです。崇福寺 寺・神社・教会
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黄檗宗寺院の伽藍配置は複雑で、その宇宙観はまで理解できません。
崇福寺の場合、本堂に当たる国宝の「大雄宝殿」は中央にあり、その後ろに開山堂や媽祖堂などが並びます。
どの伽藍も朱に塗られているのが特徴です。
萩にある、同じく黄檗宗に属する東光寺で見た開梆(木魚の原形)はここ崇福寺にもありました。
崇福寺独自の珍しい物としては大釜があります。
人の背丈ほどもある高さの巨大な釜は、天明の大飢饉の際に粥を焚いて住民に施すために使われたものです。
一度に四石二斗、つまり約760リットルもの量を炊ける釜によって、多くの住民が救われたと伝えられています。 -
次に興福寺を訪れました。
こちらも黄檗宗ですが崇福寺よりも歴史が古く、元和6年まで遡る日本最古の黄檗宗寺院です。
崇福寺が福州出身者たちによって建てられたのに対し、興福寺は揚子江流域出身者たちによって建てられました。
承応3年には隠元禅師が訪れ、数日間にわたって説法を行ったところ、毎日あふれるばかりの人々が集まったのだそうです。
本堂に当たる大雄宝殿は原爆による爆風で少し傾いたまま、現在に悲惨な歴史を伝えています。
長崎の名所の一つである眼鏡橋は、興福寺の二代目住職黙子如定によって造られたものです。
興福寺から近い場所にありますが、今回は見ることができなかったのが残念です。興福寺 寺・神社・教会
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興福寺を拝観している途中で、カメラの電池表示が点滅を始めてしまいました。
大浦天主堂からここまで、思った以上に写真を撮影したため、電池切れまであと少しとなってしまったのです。
予備バッテリーはなく、2台用意したカメラのうち1台は荷物になると思ったのでホテルに置いて来てしまいました。
しかしここで戻るわけにはいかず、亀山社中まではなんとか辿り着きたいと思いました。
長崎の名所のうち、亀山社中は路面電車駅から最もアクセスが不便な場所なのです。
寺町の最も北側から、延々と続く階段を15分ほど上り、ようやく亀山社中に到着しました。
亀山社中は坂本龍馬によって結成された日本で初めての商社で、薩摩藩などから支援を受けて貿易などを行いました。
グラバーも取引相手となり、亀山社中を通して長州藩や薩摩藩へ軍艦などを販売したのでした。
そういう経緯があって険悪であった薩長の間柄が融和し、薩長同盟の締結へとつながって行くのです。
現在は周囲一帯が住宅地として開発されているため海はほとんど見えませんが、龍馬が活躍した当時は亀山焼の窯元くらいしか建物がなく、長崎湾を一望することができました。
なかば非合法な活動をしていたため、常に幕府の目を警戒していなければならず、もし海に異変があれば、役人が到着するより先に証拠隠滅が出来るようにと考えての立地でした。
建物には隠し部屋もあり、入場者が覗くことも出来ます。
亀山社中は慶応2年に土佐藩のお墨付きとなり、名称も「海援隊」へと変更されました。
そしてより海岸近くに移転されましたが、現在は建物等何も残されておりません。長崎市亀山社中記念館 名所・史跡
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公会堂駅から路面電車に乗り、ホテルに戻ってカメラを交換しました。
2台目の方も充電を満タンにしておいて良かったです。
そしてまた路面電車に乗り、次は新中川町駅を目指しました。
鳴滝高等学校の周辺は道路の拡幅工事が行われており、歩道が途切れている所があるので通行に注意しなければなりませんでした。
10分ほど歩くと、シーボルトの邸宅があった広場に到着しました。
邸宅は別名鳴滝塾とも呼ばれていましたが、現在は建物は残っておらず、隣接地にシーボルト記念館が建てられています。
シーボルトはドイツの医者の家に生まれた人物で、血気盛んな青年時代には数多く決闘を繰り返したため、顔や身体中に傷跡があったと言われています。
植物学の研究を進めるうちに日本という国に興味を持ち、オランダ人と偽って入国に成功したのでした。
出島で診療所を開業したところ、日本人の医者では手に負えなかった病気や疾患なども回復したため、その名はまたたくまに広がり、日本人の医者の中には教えを乞うために長崎までやって来る者もいたのでした。
オランダ人が出島から出ることが出来るのは特別な理由がある時だけでしたが、シーボルトに限っては幕府も域外での活動を認め、彼はこの地に西洋医学の医師養成所である鳴滝塾を開いたのでした。 -
鳴滝塾で学んだ日本人の中には、高野長英や小関三英など、後に幕府によって迫害を受けてこの世を去ることになる優秀な学者もおりました。
シーボルトは日本人女性のタキと結婚し、二人の間にはイネという女の子が生まれました。
イネは日本で初めての女医となった人物で、シーボルトが日本を去ってから親代わりとなった二宮敬作も、鳴滝塾の塾生でした。
シーボルトは日本研究を進めるうちに、伊能忠敬によって作成された精密な地図を手に入れました。
これを地理学のために役立てようと、写しを取って本国へ送ろうとしたのですが、詰み込んだ船が台風によって運悪く座礁してしまい、荷物の積み直しの際に幕府の役人に発見されてしまったのです。
海外へ地図を持ちだすことは禁じられていたため、シーボルトに地図を渡した高橋景保などが処罰され、シーボルト自身も日本から追放されたのでした。
シーボルト記念館には、彼が出島で暮らしていた時に描かれた絵画や、実際に使用した医療器具などが展示されています。シーボルト記念館 美術館・博物館
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次に諏訪神社前駅で降り、鎮西大社諏訪神社を参拝しました。
大きな一の鳥居は路面電車の車窓からも見ることができます。
しかし一の鳥居から社殿までが遠く、延々と続く石段を登り続けなければなりません。
その途中途中に鳥居が立っており、鳥居をくぐるたびに神界へと近づいている実感が湧いて来ます。
そして石段を上り詰めると、豪壮な社殿が目の前に現れるのです。 -
鎮西大社諏訪神社の正式な名称は諏訪神社ですが、諏訪神社は全国に数多く鎮座しているため、他との差別化という意味で「鎮西大社」を名乗っています。
これは自称ではなく、過去に朝廷から賜った正真正銘の称号です。
明治時代には国幣中社に列せられましたが、長崎県では本土に鎮座する神社で唯一となっています。
御祭神は建御名方神・八坂刀売神・伊邪那岐神・伊邪那美神・住吉三神です。
現在の長崎県は戦国時代にキリスト教がものすごい勢いで広まったため、神社や仏閣の多くは破却されてしまいました。
江戸幕府が開かれ泰平の世となった時、初代宮司となる青木賢清によって再興されたのでした。
しかし西洋人の影響力はやはり強く、住民が再びキリスト教にかぶれることを防ぐため、幕府の庇護によって盛大な祭り行事が始められたのが「長崎くんち」です。
寛永11年に始まった比較的新しい行事ですが、すっかり伝統行事として根付いています。諏訪神社 寺・神社・教会
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広い境内には様々な珍しい狛犬が置かれており、狛犬探しをするのも楽しいかも知れません。
また、大正時代を代表する和風建築物で、昭和初期には旅館としても利用された「齋館諏訪荘」があります。
今上陛下と皇后陛下も皇太子時代にご宿泊されました。
旅館が廃業すると諏訪荘も取り壊されることが決まりますが、地元不動産会社の会長が保存のために尽力し、諏訪神社境内に移築されて残ることになったのでした。 -
次に大学病院前駅まで路面電車に乗り、山王神社に向かいました。
これまで長崎駅以南を散策しましたが、ここからは爆心地に近い駅以北地域となります。
山王神社も原爆によって多大な損害を受けた神社で、それを象徴するのが柱が片方だけ残された「片足鳥居」です。
この鳥居は大正13年に山王神社の二の鳥居として建立されたものですが、昭和20年8月9日の原爆投下によって爆心側の左半分が吹き飛ばされてしまいました。
原爆というものが人類の歴史と神に対する冒涜以外の何物でもないことを無言で語っています。山王神社二の鳥居(一本柱鳥居) 名所・史跡
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山王神社は、幕府の老中であった松平信綱公がこの地を訪れた際、風景や地名が琵琶湖畔に酷似していることから、かの地に鎮座する日吉大社を勧請したのが始まりです。
台風や戦火によって何度も存亡の危機に立たされますが、地元の人々に支えられて甦り、今に続いています。
境内入口の左右に茂る大楠は、原爆による灼熱の爆風に晒されて瀕死の状態となりましたが、奇蹟的に樹勢を盛り返して生き続けています。
それでも年々弱っているのは間違いなく、現在は樹医による治療を施されながら懸命に生きている状態です。
歴史の生き証人である2本の大楠には、原爆の非道と戦争の愚かさを後世まで伝え続けてほしいと願います。山王神社の大クス 名所・史跡
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ここからは徒歩移動です。
次に訪れたのは長崎原爆資料館。
入館してすぐに目に付くのが、浦上天主堂の被爆直後の模型です。
原爆投下とはつまり、サタンが神に勝利したことを意味するのではないでしょうか。
長崎の人たちはキリスト教を受け入れ、西洋の文化や学問を受け入れて来た歴史を持っています。
そして建設したキリストの大神殿が、西洋文明によって産み出された原爆によって破壊されたのです。
戦争反対というスローガンが無意味なものであるとは思いつつも、それを叫ばずには先人に申し訳ないと気付かされます。
戦争は人命に限らず、彼らが生きてきた証までをも奪ってしまうのです。
また、原爆によって傷ついた方たちの写真の生々しさに震えましたが、現実を公にすることが明日の平和を守るという被爆地の意思によるものでしょうか。
原爆の実物大模型には、悪魔崇拝の秘儀を見せられたような禍々しさを覚えました。
平和憲法の見直しや有事法制の整備が必要な時代になったことは承知の上で、その作業を先導する政治家は、最低でも原爆資料館を見学してから慎重に進めてほしいと思います。長崎原爆資料館 美術館・博物館
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資料館からも近い爆心地には、浦上天主堂の遺壁が置かれています。
明治28年に建築が始まり、地域の信徒たちによる献金と奉仕によって大正14年に完成した浦上天主堂は、東洋で最大の規模を誇るカトリック教会でした。
しかし至近距離に原爆が投下されたため、僅かな側壁を残して砕け散ってしまったのでした。
戦後、遺構をそのまま保存するかどうかで大激論が交わされましたが、同じ場所に再建したいという教会側の希望を尊重し、遺壁の一部を爆心地に移すことで決着したのでした。 -
そのまま平和公園まで歩きました。
平和公園は長崎刑務所浦上刑務支所の跡地に整備されました。
職員など53名と受刑者ら81名は原爆によって全員命を落としました。
昭和30年に建てられた平和祈念像は、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の際にテレビに映し出されるので、知っている人も多いと思います。
人種不明で柔和な表情をした像については賛否があり、私も個人的には違和感を覚えますが、ここまで定着してしまっては、今更改めるということは不可能でしょう。
戦争犯罪とも言える大虐殺を受けながら、憤怒を表す像の一つも建てることが出来ない民族は、世界広しといえど日本だけでしょう。平和公園 公園・植物園
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次に長崎県議選に出馬する予定の友人の事務所を訪ね、激励して来ました。
自分よりもずっと若い好青年ですが、最後に会った時と比べると威厳が備わっていました。
そして最後に長崎県護国神社を参拝しました。
明治時代には長崎県内に2社の招魂社がありましたが、昭和17年に合併して現在地に社殿が造営されました。
その社殿は原爆によって失われ、昭和38年に再建されて現在に至ります。
時刻はちょうど17時を回ったところですが、神職の方の姿は見えませんでした。 -
再び中華街を訪れ、立候補する友人から教えてもらった江山楼に入り、炸麺(かた焼きそば)を注文しました。
普通盛りしかなく、実際に食べてみると大盛りを食べたかのように満腹になりました。
地元の人が推薦する店だけあって、味は最高でした。
別な店で夜食を食べるつもりでしたが、1日4食は無理でした。
ホテルに帰って熟睡し、翌朝はバスを利用して長崎空港まで行き、スカイマーク便で神戸空港へ。
神戸で友人と会って情報交換し、翌朝全日空便で仙台へ帰りました。
今回の旅で西海道の一之宮は全て参拝が叶い、未拝の一之宮は遠江国2社、志摩国1社、越中国1社となりました。江山楼 長崎中華街本店 グルメ・レストラン
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この旅行記へのコメント (2)
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- エスペラさん 2015/03/31 21:30:34
- いつも興味深い記事をありがとうございます
- いつも興味深い記事をありがとうございます。また、武雄は私の実家であり、懐かしい風景なども楽しく拝読しました。
佐賀県が保守化したのは、私の印象では高度成長以降ではないかと感じます。
たとえば、石川達三の小説「人間の壁」のモデルになった佐教組事件は昭和32年の出来事で、「闘う日教組」のはじまりという人もいます。
また、農業では戦前は高度に合理化を進めたモデル「佐賀段階」があり、戦後にはさらに圃場整備と機械化を組み入れた「新佐賀段階」が全国の模範となっていました。八郎潟干拓は新佐賀段階を目指したものだと聞いています。
一方、佐教組事件のとき、教組の支部長は皆校長であったり、私の子どもの頃は、佐賀県は平均貯蓄額が日本一だったりと奇妙な保守性もありました。
それがなぜ保守一色になったのかは興味深い課題でもあります。
そうした思考の羅針盤となるような記事をまた楽しみにしています。
- 倫清堂さん からの返信 2015/03/31 22:22:08
- RE: いつも興味深い記事をありがとうございます
- エスペラ様
拙い文章を丁寧にお読み下さり、ありがとうございます。
武雄はもっと時間をかけて散策したかったと、旅を終えて少し悔いが残ってしまいました。
佐教組事件について調べたところ、私が生まれる20年も前の出来事でした。
私が暮らす東北では、このように行動を起こせる気質の人は少数派のように思います。
もし東北で同じことが起きたら、きっと教師たちは歯を食いしばって黙って耐えるような気がします。
佐賀県人の気質は論語や葉隠れ武士道から来ているものというのは、東北人から見た、というよりは「見たい」ロマンスなのかも知れません。
佐賀段階というのも初めて耳にする言葉です。
その方式が秋田の八郎潟でも実践された事実は、別な面白さを含んでいると思います。
なぜなら秋田は、東北六県で少し異質な存在だからです。
なんと表現して良いものか悩ましいですが、佐賀県と同じ保守的という言葉が当てはまるような気がしてきました。
示唆に富んだご指摘を賜り、ありがとうございました。
倫清堂 拝
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