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佐賀城(さがじょう、佐賀県佐賀市城内)は平安時代末期に藤原秀郷庶流が龍造寺村の領主となって土着、その子孫が佐賀を中心として伸長しやがて九州北部の五州(肥前・肥後・筑前・築後・豊前)に勢力を拡大し豊後の大友氏と覇権を争うほどに躍進した龍造寺(りゅうぞうじ)氏の拠点でした。<br /><br />然しながら薩摩・大隅の統一を果たした島津氏はその余勢をかって九州北部に進出、龍造寺氏の迫害を受けた有馬氏を支援するという名目で龍造寺氏と対峙、天正12年(1584)沖田畷の戦いにて当主龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ、1529~1584)は敗死すると、島津軍の北進、大友軍の築後乱入、加えてそれまで隆信に服従していた諸将の離反により龍造寺氏は危機に陥ります。<br /><br />隆信死後家督を継いだのは嫡子政家(まさいえ、1556~1607)は龍造寺家を率いる器量に乏しく、これを案じた一門並びに重臣たちは危機を乗り切るには隆信の右腕とも言われた家臣で名軍略武将鍋島直茂(なべしま・なおしげ、1538~1618)のほかには居ないとして領国支配と経営の権限を直茂に委ねる事になり、政家の了承のもと平和裡に龍造寺氏の領国支配権が鍋島氏に移譲されるに至ります。<br /><br />関ケ原の戦い後幕府を開いた徳川家康により鍋島直茂が佐賀藩主と認められるとかねてより構想を練っていた佐賀城(当時は村中城と称していた)の改修工事を手掛ける事になり、慶長7年(1602)に改修に着手し二代藩主勝茂(かつしげ、1580~1657)に引き継がれ9年の歳月を経て慶長16年(1611)に完成に至ります。<br /><br /><br />2023年11月12日追記<br /><br />城内に建てられた案内板には見取り図とともに「佐賀城」の紹介があります。<br /><br />『 佐 賀 城<br /><br />佐賀城は戦国大名龍造寺氏により築かれた城(いわゆる村中城)を拡張して、近世初頭(約400年前)に鍋島氏により築かれました。北の山麓まで2里(8Km)、南の海まで1里(約4Km)の平野部に位置する平城でした。大きな特徴である80m前後の幅を持つ広大な堀は、江戸時代には「40間  堀」と呼ばれ、特に北堀は福岡藩の助力を得て造られたことから「筑前堀」とも呼ばれました。<br /><br />隣の西御門橋は、城内に入るため堀に架けられた4本の橋のひとつです。<br />城内側には門と番所、防御のための枡形虎口が設けられていたことが絵図から分かります。今では堰も埋め立てられ、当時の半分程の面積となっていますが、西御門橋から北側は、江戸時代の堀幅がそのまま残る唯一の区域で、土手の古木も往時の景観を忍ばせています。<br /><br />橋の先に広がる城内(約12万坪)の構成は、島状に独立している南東隅が本丸と二の丸で、三の丸や西の丸も藩主鍋島家および一門の区域にあたります。そのほかは御馬屋(厩舎)、百間御蔵(武器庫)などの公的な施設や家臣の屋敷地で占められていました。』

肥前佐賀 九州五州の太守龍造寺隆信が島津勢に討ち取られ後継となった家老の鍋島直茂が拡張して平城ながら広大な堀を防御とする『佐賀城』訪問

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2016/11/22 - 2016/11/22

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滝山氏照

滝山氏照さん

佐賀城(さがじょう、佐賀県佐賀市城内)は平安時代末期に藤原秀郷庶流が龍造寺村の領主となって土着、その子孫が佐賀を中心として伸長しやがて九州北部の五州(肥前・肥後・筑前・築後・豊前)に勢力を拡大し豊後の大友氏と覇権を争うほどに躍進した龍造寺(りゅうぞうじ)氏の拠点でした。

然しながら薩摩・大隅の統一を果たした島津氏はその余勢をかって九州北部に進出、龍造寺氏の迫害を受けた有馬氏を支援するという名目で龍造寺氏と対峙、天正12年(1584)沖田畷の戦いにて当主龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ、1529~1584)は敗死すると、島津軍の北進、大友軍の築後乱入、加えてそれまで隆信に服従していた諸将の離反により龍造寺氏は危機に陥ります。

隆信死後家督を継いだのは嫡子政家(まさいえ、1556~1607)は龍造寺家を率いる器量に乏しく、これを案じた一門並びに重臣たちは危機を乗り切るには隆信の右腕とも言われた家臣で名軍略武将鍋島直茂(なべしま・なおしげ、1538~1618)のほかには居ないとして領国支配と経営の権限を直茂に委ねる事になり、政家の了承のもと平和裡に龍造寺氏の領国支配権が鍋島氏に移譲されるに至ります。

関ケ原の戦い後幕府を開いた徳川家康により鍋島直茂が佐賀藩主と認められるとかねてより構想を練っていた佐賀城(当時は村中城と称していた)の改修工事を手掛ける事になり、慶長7年(1602)に改修に着手し二代藩主勝茂(かつしげ、1580~1657)に引き継がれ9年の歳月を経て慶長16年(1611)に完成に至ります。


2023年11月12日追記

城内に建てられた案内板には見取り図とともに「佐賀城」の紹介があります。

『 佐 賀 城

佐賀城は戦国大名龍造寺氏により築かれた城(いわゆる村中城)を拡張して、近世初頭(約400年前)に鍋島氏により築かれました。北の山麓まで2里(8Km)、南の海まで1里(約4Km)の平野部に位置する平城でした。大きな特徴である80m前後の幅を持つ広大な堀は、江戸時代には「40間  堀」と呼ばれ、特に北堀は福岡藩の助力を得て造られたことから「筑前堀」とも呼ばれました。

隣の西御門橋は、城内に入るため堀に架けられた4本の橋のひとつです。
城内側には門と番所、防御のための枡形虎口が設けられていたことが絵図から分かります。今では堰も埋め立てられ、当時の半分程の面積となっていますが、西御門橋から北側は、江戸時代の堀幅がそのまま残る唯一の区域で、土手の古木も往時の景観を忍ばせています。

橋の先に広がる城内(約12万坪)の構成は、島状に独立している南東隅が本丸と二の丸で、三の丸や西の丸も藩主鍋島家および一門の区域にあたります。そのほかは御馬屋(厩舎)、百間御蔵(武器庫)などの公的な施設や家臣の屋敷地で占められていました。』

交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • 佐賀城本丸全景<br /><br />JR佐賀駅隣接のバスセンタ-より約15分博物館前下車しますと本丸の全景が現れます。

    佐賀城本丸全景

    JR佐賀駅隣接のバスセンタ-より約15分博物館前下車しますと本丸の全景が現れます。

  • 佐賀城本丸北側<br /><br />公園として整備されています。訪問時は更なる工事中のためかロ-プにて本丸御殿への道案内が施されていました。

    佐賀城本丸北側

    公園として整備されています。訪問時は更なる工事中のためかロ-プにて本丸御殿への道案内が施されていました。

  • 本丸歴史館イベント<br /><br />「葉隠と忠臣蔵」と題した展示ポスタ-が葉隠成立300年記念特別展として企画されています。(期間 2016・11・11~2017・1・15)

    本丸歴史館イベント

    「葉隠と忠臣蔵」と題した展示ポスタ-が葉隠成立300年記念特別展として企画されています。(期間 2016・11・11~2017・1・15)

  • 鯱の門櫓

    鯱の門櫓

  • 鯱(しゃち)の門<br /><br />屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と称されています。

    鯱(しゃち)の門

    屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と称されています。

  • 現存石垣<br /><br />門の周辺には「現存石垣」が特別に保存されています。

    現存石垣

    門の周辺には「現存石垣」が特別に保存されています。

  • 本丸跡広場

    本丸跡広場

  • 本丸跡広場<br /><br />鯱の門から本丸御殿方向を一望します。

    本丸跡広場

    鯱の門から本丸御殿方向を一望します。

  • 佐嘉城内絵図説明板

    佐嘉城内絵図説明板

  • 佐嘉城内絵図(近景)<br />

    佐嘉城内絵図(近景)

  • 城内から見た鯱の門<br /><br />

    イチオシ

    城内から見た鯱の門

  • 本丸歴史館玄関

    本丸歴史館玄関

  • ア-ムストロング砲(模型)<br /><br />本丸御殿脇に設置されたア-ムストロング砲模型ですが幕末に鍋島藩が独自に製作したものとされます。

    ア-ムストロング砲(模型)

    本丸御殿脇に設置されたア-ムストロング砲模型ですが幕末に鍋島藩が独自に製作したものとされます。

  • 佐賀城本丸復元説明板

    佐賀城本丸復元説明板

  • 本丸御殿

    本丸御殿

  • 天守台<br /><br />どういうわけか本丸内側からの登リ口は見つかりません。

    天守台

    どういうわけか本丸内側からの登リ口は見つかりません。

  • 本丸御殿説明板

    本丸御殿説明板

  • 本丸御殿

    本丸御殿

  • 本丸御殿

    本丸御殿

  • 本丸御殿広場<br /><br />御殿広場の南側から天守台方向を一望します。

    本丸御殿広場

    御殿広場の南側から天守台方向を一望します。

  • 本丸御殿広場<br /><br />佐賀城は平城であったため周辺は高い土塁で囲まれており、御殿の南側には高い土塁が配置されています。

    本丸御殿広場

    佐賀城は平城であったため周辺は高い土塁で囲まれており、御殿の南側には高い土塁が配置されています。

  • 本丸御殿広場

    本丸御殿広場

  • 本丸御殿と広場

    本丸御殿と広場

  • 本丸御殿と広場

    本丸御殿と広場

  • 石製樋管と赤石積水路<br /><br />西側土塁石垣の下を潜る水路から赤石を使った水路が見られます。

    石製樋管と赤石積水路

    西側土塁石垣の下を潜る水路から赤石を使った水路が見られます。

  • 石垣を潜る水路説明板

    石垣を潜る水路説明板

  • 南西隅櫓台

    南西隅櫓台

  • 本丸御殿<br /><br />南西から見た本丸御殿の裏側を一望します。

    本丸御殿

    南西から見た本丸御殿の裏側を一望します。

  • 内堀(南側)<br /><br /><br />

    内堀(南側)


  • 本丸威御殿西側

    本丸威御殿西側

  • 本丸御殿西門方向

    本丸御殿西門方向

  • 復元できなかった石垣説明板

    復元できなかった石垣説明板

  • 天守台登り口<br /><br />天守台石垣の北側は工事中の様子で柵が設けられて自由な動きが取れません。

    天守台登り口

    天守台石垣の北側は工事中の様子で柵が設けられて自由な動きが取れません。

  • 天守台登リ口<br />

    天守台登リ口

  • 天守台<br /><br />南北に31m、東西に27mそして高さ9mの天守台に建っていた天守は享保11年(1726)の火災で焼失、その後は幕府への遠慮もあってか再建されることはありませんでした。

    天守台

    南北に31m、東西に27mそして高さ9mの天守台に建っていた天守は享保11年(1726)の火災で焼失、その後は幕府への遠慮もあってか再建されることはありませんでした。

  • 天守台への入口<br /><br />どういうわけか本丸の外側から登ることになります。

    天守台への入口

    どういうわけか本丸の外側から登ることになります。

  • 天守台石段

    天守台石段

  • 天守台石段

    天守台石段

  • 天守台から見る本丸御殿

    天守台から見る本丸御殿

  • 佐賀城址石碑

    佐賀城址石碑

  • 佐賀城本丸歴史館・説明板

    佐賀城本丸歴史館・説明板

  • 天守台から見る北方向

    天守台から見る北方向

  • 天守台上部に配された天守台・説明板

    天守台上部に配された天守台・説明板

  • 天守台上部

    天守台上部

  • 枡形<br /><br />天守台上部からは枡形入口が見渡せます。

    枡形

    天守台上部からは枡形入口が見渡せます。

  • 本丸御殿西門

    本丸御殿西門

  • 本丸御殿と石垣<br /><br />南側から眺める石垣と本丸御殿建物を望みます。

    本丸御殿と石垣

    南側から眺める石垣と本丸御殿建物を望みます。

  • 本丸御殿南側の堀

    本丸御殿南側の堀

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