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 今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて<br />ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを<br />船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。<br />高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。<br />乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。<br /> 観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、<br />平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。<br /> そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。<br /><br /> 今回は、花の都、芸術の都 パリ。<br />心配していた天気も良く充実した観光が出来た。<br />https://www.youtube.com/watch?v=C-kXLNvNUlk

青年は荒野をめざす Vol.32 フランス パリ~マルセイユ ルーヴル美術館でミロのヴィーナスの傍で眠る至福のひととき

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1974/11/16 - 1974/11/22

2032位(同エリア16385件中)

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ノスタルジア

ノスタルジアさん

 今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを
船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
 観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
 そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。

 今回は、花の都、芸術の都 パリ。
心配していた天気も良く充実した観光が出来た。
https://www.youtube.com/watch?v=C-kXLNvNUlk

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩

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  • 旅行記の周辺地図<br />昭和49年11月16日<br />オランダ ロッテルダム〜パリ<br />11月20日<br />パリ〜マルセイユ<br />11月22日<br />マルセイユ〜バルセロナ

    旅行記の周辺地図
    昭和49年11月16日
    オランダ ロッテルダム〜パリ
    11月20日
    パリ〜マルセイユ
    11月22日
    マルセイユ〜バルセロナ

  • 昭和49年11月16日<br />パリ 地下鉄切符 10枚セットで8フラン490円

    昭和49年11月16日
    パリ 地下鉄切符 10枚セットで8フラン490円

  • パリ地下鉄の乗り方「ヨーロッパ歴史の旅」紅山雪夫著 から

    パリ地下鉄の乗り方「ヨーロッパ歴史の旅」紅山雪夫著 から

  • 昭和49年11月16日<br />パリ 買い物レシート 0.75フラン 46円

    昭和49年11月16日
    パリ 買い物レシート 0.75フラン 46円

  • 昭和49年11月17日<br />パリ シャンゼリゼ大通り<br /><br /> シャンゼリゼ大通りはパリ一番の散歩路でこの辺りが<br />開けたのは割に新しく17世紀初にまず東半分に多くの樹が植えられて、<br />しゃれた庭園のようになり「極楽の野」シャンゼリゼと呼ばれたのが<br />事の起こりである。<br />https://www.youtube.com/watch?v=BgrR2BE-If0

    昭和49年11月17日
    パリ シャンゼリゼ大通り

     シャンゼリゼ大通りはパリ一番の散歩路でこの辺りが
    開けたのは割に新しく17世紀初にまず東半分に多くの樹が植えられて、
    しゃれた庭園のようになり「極楽の野」シャンゼリゼと呼ばれたのが
    事の起こりである。
    https://www.youtube.com/watch?v=BgrR2BE-If0

  • 昭和49年11月17日<br />パリ 凱旋門<br /><br /> 凱旋門はドゴール広場(旧エトワール広場)の中心に立ち、<br />エトワールとは星という意味でここから12の大通りが放射し、<br />広場にも色違いの敷石で星の形が表わされている。<br /> 1816年に着工され完成しないうちにナポレオンは失脚した。

    昭和49年11月17日
    パリ 凱旋門

     凱旋門はドゴール広場(旧エトワール広場)の中心に立ち、
    エトワールとは星という意味でここから12の大通りが放射し、
    広場にも色違いの敷石で星の形が表わされている。
     1816年に着工され完成しないうちにナポレオンは失脚した。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ 凱旋門屋上で<br /><br /> 凱旋門は1836年、ルイ・フィリップ王の時代に<br />ようやく完成した。<br /> ナポレオンは既に1821年にセントヘレナ島で亡くなっていたが、<br />1840年、彼の遺骸は掘り起こされてフランスに返還される事になった。<br /> ナポレオンと共に戦った老兵達が昔の軍服に威儀を正して居並ぶ中、<br />折からの氷雨をついて粛々と凱旋門を通り、アンバリッドに新しく<br />造られた墓へと進んだのである。<br /> 凱旋門は、幅45m、高さ50mでビルの12階に相当する。

    昭和49年11月17日
    パリ 凱旋門屋上で

     凱旋門は1836年、ルイ・フィリップ王の時代に
    ようやく完成した。
     ナポレオンは既に1821年にセントヘレナ島で亡くなっていたが、
    1840年、彼の遺骸は掘り起こされてフランスに返還される事になった。
     ナポレオンと共に戦った老兵達が昔の軍服に威儀を正して居並ぶ中、
    折からの氷雨をついて粛々と凱旋門を通り、アンバリッドに新しく
    造られた墓へと進んだのである。
     凱旋門は、幅45m、高さ50mでビルの12階に相当する。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ 凱旋門屋上から<br /><br /> パリはフランスの政治、経済、文化の中心であるとともに<br />国際観光都市としても名高い。<br /> パリ盆地の中央に位置し、セーヌ河が市街南東部でマルヌ川を合わせて<br />市内を流れ、市街を南北両岸に2分している。<br /> セーヌ河の中州にパリ発祥の地、シテ島とサンルイ島がある。<br />地名は紀元前58年にローマが遠征してくる以前にケルト人の<br />パリシー族の居住地であったことに由来する。

    昭和49年11月17日
    パリ 凱旋門屋上から

     パリはフランスの政治、経済、文化の中心であるとともに
    国際観光都市としても名高い。
     パリ盆地の中央に位置し、セーヌ河が市街南東部でマルヌ川を合わせて
    市内を流れ、市街を南北両岸に2分している。
     セーヌ河の中州にパリ発祥の地、シテ島とサンルイ島がある。
    地名は紀元前58年にローマが遠征してくる以前にケルト人の
    パリシー族の居住地であったことに由来する。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ パリ 凱旋門屋上から

    昭和49年11月17日
    パリ パリ 凱旋門屋上から

  • 昭和49年11月17日<br />パリ 凱旋門屋上からシャンゼリゼ大通り

    昭和49年11月17日
    パリ 凱旋門屋上からシャンゼリゼ大通り

  • 昭和49年11月17日<br />パリ ノートルダム大聖堂<br /><br /> ノートルダム大聖堂は1163年に着工され、<br />ノートルダムとは「我らの貴き婦人」つまり聖母マリアの事である。<br />フランスゴシック建築様式の精華とされる正面は1250年に完成し、<br />1345年に全体が完成した。<br /> 182年かかったわけだがこの規模の大寺院としては早い方である。<br />日本の建築は木造だから、やりかけたら完成してしまわないと雨水で<br />腐ってしまうが、こちらは石造りだから、途中どこで中断しても<br />あまり差し支えはないわけで、石壁が出来ると板で仮屋根を<br />造っておくのが普通だった。

    昭和49年11月17日
    パリ ノートルダム大聖堂

     ノートルダム大聖堂は1163年に着工され、
    ノートルダムとは「我らの貴き婦人」つまり聖母マリアの事である。
    フランスゴシック建築様式の精華とされる正面は1250年に完成し、
    1345年に全体が完成した。
     182年かかったわけだがこの規模の大寺院としては早い方である。
    日本の建築は木造だから、やりかけたら完成してしまわないと雨水で
    腐ってしまうが、こちらは石造りだから、途中どこで中断しても
    あまり差し支えはないわけで、石壁が出来ると板で仮屋根を
    造っておくのが普通だった。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ ノートルダム大聖堂<br /><br /> 動乱、飢餓、財政難などの為、この様な大寺院の工事は<br />何度も中止するのが常で、資金をひねり出す為にも、<br />長い年月が掛かる事は避けられなかった。<br /> 建築には専門の職人ばかりでなく、多くの一般市民が協力した事が<br />記録に残っている。

    昭和49年11月17日
    パリ ノートルダム大聖堂

     動乱、飢餓、財政難などの為、この様な大寺院の工事は
    何度も中止するのが常で、資金をひねり出す為にも、
    長い年月が掛かる事は避けられなかった。
     建築には専門の職人ばかりでなく、多くの一般市民が協力した事が
    記録に残っている。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ ノートルダム大聖堂<br /><br /> 387のらせん形の石段を踏みしめて昇ると、<br />この石の山とも言うべき大聖堂を築き上げた人々の<br />辛苦が偲ばれた。<br /> 大回廊の上に出るとパリは一望の下で、魔除けの怪物ガーゴイルたちも<br />肘をついて見下ろしていた。<br /> 更に狭いらせん階段を昇りつめると高さ135mの南塔の屋上に出た。

    昭和49年11月17日
    パリ ノートルダム大聖堂

     387のらせん形の石段を踏みしめて昇ると、
    この石の山とも言うべき大聖堂を築き上げた人々の
    辛苦が偲ばれた。
     大回廊の上に出るとパリは一望の下で、魔除けの怪物ガーゴイルたちも
    肘をついて見下ろしていた。
     更に狭いらせん階段を昇りつめると高さ135mの南塔の屋上に出た。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ ノートルダム大聖堂のステンドグラス<br /><br /> 有名なバラ窓のステンドグラスを撮らなかった、撮れなかったのか、<br />憶えていない。

    昭和49年11月17日
    パリ ノートルダム大聖堂のステンドグラス

     有名なバラ窓のステンドグラスを撮らなかった、撮れなかったのか、
    憶えていない。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ セーヌ河に架かるグラン・ポン大橋とコンシェルジュリー<br /><br /> コンシェルジュリーは、シテ島西側にあるかつての牢獄。<br />王宮として新築したのは13世紀のサン・ルイ王で、後にルーブルに<br />移ると共に、この建物には高等法院が入り、それが大革命後、<br />近代的な裁判所に改組されて現在に及んでいる。<br /> マリー・アントワネットが処刑される前に2か月半過ごした独房もあった。

    昭和49年11月17日
    パリ セーヌ河に架かるグラン・ポン大橋とコンシェルジュリー

     コンシェルジュリーは、シテ島西側にあるかつての牢獄。
    王宮として新築したのは13世紀のサン・ルイ王で、後にルーブルに
    移ると共に、この建物には高等法院が入り、それが大革命後、
    近代的な裁判所に改組されて現在に及んでいる。
     マリー・アントワネットが処刑される前に2か月半過ごした独房もあった。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ コンコルド広場で<br /><br /> コンコルド広場はもとルイ15世広場と呼ばれ中央にルイ15世の像があり、<br />この像は大革命の進展と共に打ち壊され革命広場と改称された。<br /> ここでギロチンが設置されてルイ16世、マリー・アントワーネットが<br />処刑された。

    昭和49年11月17日
    パリ コンコルド広場で

     コンコルド広場はもとルイ15世広場と呼ばれ中央にルイ15世の像があり、
    この像は大革命の進展と共に打ち壊され革命広場と改称された。
     ここでギロチンが設置されてルイ16世、マリー・アントワーネットが
    処刑された。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ チュイルリー公園で<br /><br /> チュイルリー公園は彫刻や噴水で美しく飾られ芸術と自然が一体化した、<br />まさに野外美術館で西はシャンゼリゼ大通り、東はルーヴル美術館まで<br />広範囲に広がるパリ市内にある最古の庭園。<br /> チュイルリーという名前は、かつてこの地に瓦(チュイール)を<br />製造する工場があったことに由来し、<br /> 公園があった場所は、もともとは簡単なイタリア式庭園があって、<br />その後、チュイルリー宮殿の庭園として、<br />17世紀に造園師ル・ノートルにより造り変えられた。<br /> ヴェルサイユ宮殿の庭園を設計したことでも知られる<br />ル・ノートルは、公園を、広大で優雅な、左右対称の典型的な<br />フランス式庭園に変身させた。<br />

    昭和49年11月17日
    パリ チュイルリー公園で

     チュイルリー公園は彫刻や噴水で美しく飾られ芸術と自然が一体化した、
    まさに野外美術館で西はシャンゼリゼ大通り、東はルーヴル美術館まで
    広範囲に広がるパリ市内にある最古の庭園。
     チュイルリーという名前は、かつてこの地に瓦(チュイール)を
    製造する工場があったことに由来し、
     公園があった場所は、もともとは簡単なイタリア式庭園があって、
    その後、チュイルリー宮殿の庭園として、
    17世紀に造園師ル・ノートルにより造り変えられた。
     ヴェルサイユ宮殿の庭園を設計したことでも知られる
    ル・ノートルは、公園を、広大で優雅な、左右対称の典型的な
    フランス式庭園に変身させた。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ オペラ座<br /><br /> 1862年に着工、1875年に完成し広さは3,350坪もあって<br />世界一の劇場と言われる。<br /> 幅55m、高さ37mの大舞台に対し客席は僅か2,158席である。

    昭和49年11月17日
    パリ オペラ座

     1862年に着工、1875年に完成し広さは3,350坪もあって
    世界一の劇場と言われる。
     幅55m、高さ37mの大舞台に対し客席は僅か2,158席である。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ エッフェル塔<br /><br /> エッフェル塔はパリ万博の一部として1889年に完成した。<br />設計者はそれまで鉄橋などを手掛けていたエッフェルで、<br />当時としては前例のない斬新奇抜なものだったので、<br />大変な賛否両論を巻き起こした。<br /> 文化人たちは、パリの美観を損なうから取り壊せと主張し、<br />またいつ倒壊するか分からないと云う事で周囲の地価が下がったとか。<br /> それで1909年には解体される運命にあったが、<br />たまたま電気通信が発達して来たのが幸いし、アンテナ塔として<br />解体を免れた。<br /> 建設当時の高さは312.3mであった。

    昭和49年11月17日
    パリ エッフェル塔

     エッフェル塔はパリ万博の一部として1889年に完成した。
    設計者はそれまで鉄橋などを手掛けていたエッフェルで、
    当時としては前例のない斬新奇抜なものだったので、
    大変な賛否両論を巻き起こした。
     文化人たちは、パリの美観を損なうから取り壊せと主張し、
    またいつ倒壊するか分からないと云う事で周囲の地価が下がったとか。
     それで1909年には解体される運命にあったが、
    たまたま電気通信が発達して来たのが幸いし、アンテナ塔として
    解体を免れた。
     建設当時の高さは312.3mであった。

  • 昭和49年11月17日<br />パリ トロカデロ庭園で<br /><br /> トロカデロ公園はセーヌ川に面した緑地で<br />樹齢100年以上の樹木や30年代の彫刻が点在し、<br />この庭からは、エッフェル塔の素晴らしい眺めが見られる。<br /> 最初の庭園は、1878年の万国博覧会のために造られ、<br />そして1937年の万国博覧会のために改造され、現在の庭園に形作られた。<br /><br /> 中央には広い芝地や台地、1937年に造られた有名なヴァルソヴィの噴水があり、<br />巨大な噴水盤は20もの水砲を備え(1秒間で5,700リットルの水が出る)、<br />水が人工滝の泉水をたどりながら、セーヌ川方向へ流れる。<br /> 両側には、水が吹き上がる噴水が二重に並んでいて<br />夜には、光のショーで雄牛頭部の彫像や、黄金の馬の彫像がライトアップされる。<br />

    昭和49年11月17日
    パリ トロカデロ庭園で

     トロカデロ公園はセーヌ川に面した緑地で
    樹齢100年以上の樹木や30年代の彫刻が点在し、
    この庭からは、エッフェル塔の素晴らしい眺めが見られる。
     最初の庭園は、1878年の万国博覧会のために造られ、
    そして1937年の万国博覧会のために改造され、現在の庭園に形作られた。

     中央には広い芝地や台地、1937年に造られた有名なヴァルソヴィの噴水があり、
    巨大な噴水盤は20もの水砲を備え(1秒間で5,700リットルの水が出る)、
    水が人工滝の泉水をたどりながら、セーヌ川方向へ流れる。
     両側には、水が吹き上がる噴水が二重に並んでいて
    夜には、光のショーで雄牛頭部の彫像や、黄金の馬の彫像がライトアップされる。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿<br /><br /> 宮殿の前庭の中央に自らを太陽に例えたルイ14世の騎馬像がある。<br />「朕は国家なり」と言ったのはルイ14世自身ではないそうであるが、<br />その言葉がいかにもぴったりするほどに王の治世はフランス絶対王権<br />の最盛期であり、それがこの広大なベルサイユ宮殿によく象徴されている。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿

     宮殿の前庭の中央に自らを太陽に例えたルイ14世の騎馬像がある。
    「朕は国家なり」と言ったのはルイ14世自身ではないそうであるが、
    その言葉がいかにもぴったりするほどに王の治世はフランス絶対王権
    の最盛期であり、それがこの広大なベルサイユ宮殿によく象徴されている。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿<br /><br /> ベルサイユの辺りはもと沼地に囲まれた砂地の丘で、<br />狩りの獲物が多かった為、ルイ13世が狩りの為の小さな館を建てた。<br /> それは後に修復され今でもベルサイユ宮殿東正面の中央に組み込まれて<br />残っている。<br /> フロンドの乱でパリのルーブル宮殿には嫌な思い出ばかりしかなかった<br />ルイ14世は、この小さな狩りの館を改築して素晴らしい王宮にしようと<br />思い立った。<br /> 時に1661年、ルイ14世は僅か23歳だった。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿

     ベルサイユの辺りはもと沼地に囲まれた砂地の丘で、
    狩りの獲物が多かった為、ルイ13世が狩りの為の小さな館を建てた。
     それは後に修復され今でもベルサイユ宮殿東正面の中央に組み込まれて
    残っている。
     フロンドの乱でパリのルーブル宮殿には嫌な思い出ばかりしかなかった
    ルイ14世は、この小さな狩りの館を改築して素晴らしい王宮にしようと
    思い立った。
     時に1661年、ルイ14世は僅か23歳だった。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿で<br /><br /> 工事は50年以上に及び、ルイ14世の長い治世中ずっと続けられた。<br />まずこの地は大宮殿を建てるには地盤が悪かったので周囲の沼地の<br />排水からから始め、更に毎日数千台の荷車で土を運んだ。<br /> 沼地のせいか悪疫が流行し工事に駆り出された多くの農民たちが<br />次々と死んでいった。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿で

     工事は50年以上に及び、ルイ14世の長い治世中ずっと続けられた。
    まずこの地は大宮殿を建てるには地盤が悪かったので周囲の沼地の
    排水からから始め、更に毎日数千台の荷車で土を運んだ。
     沼地のせいか悪疫が流行し工事に駆り出された多くの農民たちが
    次々と死んでいった。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿で<br /> <br /> ベルサイユの丘は、その大部分がこのようにして人々の汗と死の苦しみと共に<br />築かれた人工の丘である。<br />ここは沼地に囲まれているが良い水が無く、その為セーヌ河の水を<br />1.3Km離れたマルリ―の丘まで引き、巨大なポンプを並べて154mの<br />高さまで水を汲み上げた。<br /> 更にそれを8Kmの水路によってベルサイユまで引いた。<br />ベルサイユの庭園には多数の噴水があったが、それでも足りず、<br />もう1本の用水路も造った。<br /> この工事で多数の労働者が凍傷で亡くなった。<br />ベルサイユの庭園の広さは何と30万6千坪もあって東京ドーム21個分に<br />相当する。<br />

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿で
     
     ベルサイユの丘は、その大部分がこのようにして人々の汗と死の苦しみと共に
    築かれた人工の丘である。
    ここは沼地に囲まれているが良い水が無く、その為セーヌ河の水を
    1.3Km離れたマルリ―の丘まで引き、巨大なポンプを並べて154mの
    高さまで水を汲み上げた。
     更にそれを8Kmの水路によってベルサイユまで引いた。
    ベルサイユの庭園には多数の噴水があったが、それでも足りず、
    もう1本の用水路も造った。
     この工事で多数の労働者が凍傷で亡くなった。
    ベルサイユの庭園の広さは何と30万6千坪もあって東京ドーム21個分に
    相当する。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿庭園で<br /><br /> 宮殿が一応出来てルイ14世と宮廷が引っ越して来たのは1678年である。<br />9千人の近衛兵が宮殿前の兵舎に、5千人の使用人が宮殿付属の建物に、<br />更に4千人の召使いが宮殿の中に住んでいた。<br /> 王の日常は起床式に始まり就寝式に終わるまで厳重に時間割が<br />定められていた。<br /> ルイ14世は僅か5歳で即位し、初めは宰相マザランが<br />国政を取り仕切っていたが、22歳の時、マザランが死んでから宰相を置かず<br />自ら政務を取った。<br /> そうして72年の長い治世中、ほとんど絶え間なく外国に兵を出していたから<br />フランスの領土は拡張された。<br /> しかし、国威は輝き渡ったけれども、その為に払った軍資金と人命の損失は<br />莫大なものだった。<br /> また王が私生活の為に費やした金もそれに負けず劣らず莫大な額にのぼり、<br />宮殿や造園、宴会、園遊会、狩猟、賭博、オペラ、劇、音楽会など<br />のべつ幕無しに行われたのである。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿庭園で

     宮殿が一応出来てルイ14世と宮廷が引っ越して来たのは1678年である。
    9千人の近衛兵が宮殿前の兵舎に、5千人の使用人が宮殿付属の建物に、
    更に4千人の召使いが宮殿の中に住んでいた。
     王の日常は起床式に始まり就寝式に終わるまで厳重に時間割が
    定められていた。
     ルイ14世は僅か5歳で即位し、初めは宰相マザランが
    国政を取り仕切っていたが、22歳の時、マザランが死んでから宰相を置かず
    自ら政務を取った。
     そうして72年の長い治世中、ほとんど絶え間なく外国に兵を出していたから
    フランスの領土は拡張された。
     しかし、国威は輝き渡ったけれども、その為に払った軍資金と人命の損失は
    莫大なものだった。
     また王が私生活の為に費やした金もそれに負けず劣らず莫大な額にのぼり、
    宮殿や造園、宴会、園遊会、狩猟、賭博、オペラ、劇、音楽会など
    のべつ幕無しに行われたのである。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿庭園で<br /><br /> こういう戦争と王の豪奢な生活の為の税金は、<br />当時貴族と僧侶は免税だったところから全て平民の上に重くのしかかってきた。<br />その為ルイ14世の晩年にはフランスの財政はほとんど破産寸前になっていた。<br /> それでもルイ14世の時代は、戦争の度に勝った勝ったで<br />景気が良かったので、国民の不平、不満はそらされていたのだが、<br />その後ルイ15世、16世と凡愚な王が続いた為、遂に国民の不満が爆発して<br />フランス大革命となったのである。<br />

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿庭園で

     こういう戦争と王の豪奢な生活の為の税金は、
    当時貴族と僧侶は免税だったところから全て平民の上に重くのしかかってきた。
    その為ルイ14世の晩年にはフランスの財政はほとんど破産寸前になっていた。
     それでもルイ14世の時代は、戦争の度に勝った勝ったで
    景気が良かったので、国民の不平、不満はそらされていたのだが、
    その後ルイ15世、16世と凡愚な王が続いた為、遂に国民の不満が爆発して
    フランス大革命となったのである。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿庭園で<br /><br /> あまりに広大でどこまで行っても庭園だった。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿庭園で

     あまりに広大でどこまで行っても庭園だった。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿 鏡の間<br /><br /> 幅10m、奥行75m、高さ13mの鏡の間には、当時としては最大の大きさだった<br />鏡が400枚はめ込まれている。<br /> 大革命の時略奪されて今は無いが、天井から吊り下げられたシャンデリア、<br />壁に沿って並ぶ燭台に数百の大ローソクが灯され、それが鏡にあい映じて<br />さぞかし壮観であっただろう。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿 鏡の間

     幅10m、奥行75m、高さ13mの鏡の間には、当時としては最大の大きさだった
    鏡が400枚はめ込まれている。
     大革命の時略奪されて今は無いが、天井から吊り下げられたシャンデリア、
    壁に沿って並ぶ燭台に数百の大ローソクが灯され、それが鏡にあい映じて
    さぞかし壮観であっただろう。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿 ルイ14世の寝室<br /><br /> そんなにいい趣味とは思わなかった。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿 ルイ14世の寝室

     そんなにいい趣味とは思わなかった。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿 王妃の居間

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿 王妃の居間

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿 王妃の寝室<br /><br /> 大革命以来荒れていたのをすっかり修復して革命前の寝室を復元した。<br />マリー・アントワーネットの肖像画と宝石を納める豪華な家具があった。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿 王妃の寝室

     大革命以来荒れていたのをすっかり修復して革命前の寝室を復元した。
    マリー・アントワーネットの肖像画と宝石を納める豪華な家具があった。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿のオペラ劇場<br /><br /> 絢爛豪華を極めるオペラ劇場は、ルイ15世が造り、<br />1770年5月16日、皇太子時代のルイ16世とマリー・アントワーネットの<br />婚礼の儀式として初めて使われた。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿のオペラ劇場

     絢爛豪華を極めるオペラ劇場は、ルイ15世が造り、
    1770年5月16日、皇太子時代のルイ16世とマリー・アントワーネットの
    婚礼の儀式として初めて使われた。

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿

  • 昭和49年11月18日<br />ベルサイユ宮殿 王室礼拝堂<br /><br /> ルイ14世は、1710年に完成したこの礼拝堂を5年間しか使用できなかった。<br />1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世は壊疽の悪化により亡くなった。

    昭和49年11月18日
    ベルサイユ宮殿 王室礼拝堂

     ルイ14世は、1710年に完成したこの礼拝堂を5年間しか使用できなかった。
    1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世は壊疽の悪化により亡くなった。

  • 昭和49年11月19日<br />パリ バンクオブアメリカでトラベラーズチェック200ドルを10ドルに小分け

    昭和49年11月19日
    パリ バンクオブアメリカでトラベラーズチェック200ドルを10ドルに小分け

  • 昭和49年11月19日<br />パリ バスティーユ広場<br /><br /> バスティーユ広場は元々は城壁外の野原で14世紀末にパリの東辺を守る<br />城砦が築かれ、その後政治犯を裁判もしないでいつまでも幽閉しておく<br />牢獄となり、圧政の象徴と考えられていた。<br /> 1789年7月14日、蜂起した民衆はまずこの城砦を包囲攻撃した。<br />これが大革命の発端になった。<br /> 革命後、城砦は忌まわしい圧政の思い出を消し去る為に取り壊され、<br />その跡は今なお広場の上に色違いの敷石で示されている。<br /> 中央に立つ大円柱は自由の女神を載せており、7月革命と2月革命の為に<br />生命を捧げた人々の記念として造られた。

    昭和49年11月19日
    パリ バスティーユ広場

     バスティーユ広場は元々は城壁外の野原で14世紀末にパリの東辺を守る
    城砦が築かれ、その後政治犯を裁判もしないでいつまでも幽閉しておく
    牢獄となり、圧政の象徴と考えられていた。
     1789年7月14日、蜂起した民衆はまずこの城砦を包囲攻撃した。
    これが大革命の発端になった。
     革命後、城砦は忌まわしい圧政の思い出を消し去る為に取り壊され、
    その跡は今なお広場の上に色違いの敷石で示されている。
     中央に立つ大円柱は自由の女神を載せており、7月革命と2月革命の為に
    生命を捧げた人々の記念として造られた。

  • 昭和49年11月19日<br />パリ サクレ・カール寺院<br /><br /> サクレ・カール寺院はキリストの聖なる心臓という意味で、<br />1871年の普仏戦争の敗戦を悔悟し、新しい希望を得る為、と云う事で<br />造られた。<br /> ロマネスクとビザンチンの様式を基本にしたものだが、<br />かなりモダンな所もあって、結局どっちつかずの妙なものなっていると<br />云われている。

    昭和49年11月19日
    パリ サクレ・カール寺院

     サクレ・カール寺院はキリストの聖なる心臓という意味で、
    1871年の普仏戦争の敗戦を悔悟し、新しい希望を得る為、と云う事で
    造られた。
     ロマネスクとビザンチンの様式を基本にしたものだが、
    かなりモダンな所もあって、結局どっちつかずの妙なものなっていると
    云われている。

  • 昭和49年11月19日<br />パリ テルトル広場<br /><br /> 昔、モンマルトルが農村だった時の村の広場で、<br />今は多くの無名の画家たちが画商の目に留まるように<br />モンマルトル界隈の絵を描いていた。 <br /> 中には観光客の似顔絵を描いて日銭を稼ぐ画家も多くいた。

    昭和49年11月19日
    パリ テルトル広場

     昔、モンマルトルが農村だった時の村の広場で、
    今は多くの無名の画家たちが画商の目に留まるように
    モンマルトル界隈の絵を描いていた。 
     中には観光客の似顔絵を描いて日銭を稼ぐ画家も多くいた。

  • 昭和49年11月19日<br />パリ ボージュ広場で<br /><br /> 昔、ここは低地で池や畑があり、パリの東の外れでマレ(沼)と呼ばれた。<br /> アンリ4世はスペイン風の四方を同じ形の建物で囲んだ正方形の広場を造り、<br />王様の広場と呼ばれていたが、集会やページェントなどが行われた。

    昭和49年11月19日
    パリ ボージュ広場で

     昔、ここは低地で池や畑があり、パリの東の外れでマレ(沼)と呼ばれた。
     アンリ4世はスペイン風の四方を同じ形の建物で囲んだ正方形の広場を造り、
    王様の広場と呼ばれていたが、集会やページェントなどが行われた。

  • 昭和49年11月19日<br />パリ ムーランルージュ<br /><br /> ムーランルージュ(赤い風車)のポスターを斬新なスタイルで<br />描いて売り出したロートレックは、ピガール広場から少し南に<br />入った所にアトリエを持っていた。<br /><br /> 映画の看板はロジャー・ムーア主演「007 黄金銃を持つ男」

    昭和49年11月19日
    パリ ムーランルージュ

     ムーランルージュ(赤い風車)のポスターを斬新なスタイルで
    描いて売り出したロートレックは、ピガール広場から少し南に
    入った所にアトリエを持っていた。

     映画の看板はロジャー・ムーア主演「007 黄金銃を持つ男」

  • 昭和49年11月19日<br />パリ<br /><br /> 背後の橋の名前、知ってる方、教えてください。

    昭和49年11月19日
    パリ

     背後の橋の名前、知ってる方、教えてください。

  • 昭和49年11月20日<br />ルーヴル美術館 ミロのヴィーナス像と親切で優しい監視員  <br /><br /> 入館後、何はともあれ一番観たかったミロのヴィーナスの展示室を目指した。<br />展示室は予め頭に入れていたので、入って左方向に行くと<br />白く浮かび上がったヴィーナス像が見えて来た。<br />10時の開館と同時に入ったので椅子に腰かけている年配の監視員の他に<br />誰もいなかった。<br /> これがミロのヴィーナスか、、一期一会、見納め、<br />もう2度と見られないかしれない、と思って、<br />間近から正面、右横、背中、左横の順にじっくり時間をかけて<br />鑑賞することにした。<br /> すると監視員が椅子を持って来て、これに座って観たら、というジェスチャーだったので、お礼を言って座って観る事にした。<br /> 誰もいなかったせいか監視員はどこかへ行ってしまった。<br />それから、どれくらいの時間が経ったのか分からないが、<br />肩を揺すられて目を覚ました。<br /><br /> 監視員が腕枕をしてここで眠ったらダメ、というジェスチャーだったが<br />優しい表情だった。<br />旅の疲れでいつの間にか居眠りしてしまったらしい。<br />憧れのミロのヴィーナスの傍で居眠りするなんて、こんな幸せな心地良い、<br />これぞ至福のひと時だった。<br />ヴィーナスに添い寝した気分だった。<br /><br /> 心ゆくまで鑑賞して監視員にお礼を言いながら、<br />これから2階のモナ・リザを見に行くと言ったら、<br />笑いながら居眠りしたら駄目のジェスチャーをした。<br />モナ・リザの前は人だかりで居眠りどころではなかった。<br /> それにしてもミロのヴィーナスの展示室にいた時、<br />誰も来なかったのは本当にラッキーだった。<br />

    昭和49年11月20日
    ルーヴル美術館 ミロのヴィーナス像と親切で優しい監視員  

     入館後、何はともあれ一番観たかったミロのヴィーナスの展示室を目指した。
    展示室は予め頭に入れていたので、入って左方向に行くと
    白く浮かび上がったヴィーナス像が見えて来た。
    10時の開館と同時に入ったので椅子に腰かけている年配の監視員の他に
    誰もいなかった。
     これがミロのヴィーナスか、、一期一会、見納め、
    もう2度と見られないかしれない、と思って、
    間近から正面、右横、背中、左横の順にじっくり時間をかけて
    鑑賞することにした。
     すると監視員が椅子を持って来て、これに座って観たら、というジェスチャーだったので、お礼を言って座って観る事にした。
     誰もいなかったせいか監視員はどこかへ行ってしまった。
    それから、どれくらいの時間が経ったのか分からないが、
    肩を揺すられて目を覚ました。

     監視員が腕枕をしてここで眠ったらダメ、というジェスチャーだったが
    優しい表情だった。
    旅の疲れでいつの間にか居眠りしてしまったらしい。
    憧れのミロのヴィーナスの傍で居眠りするなんて、こんな幸せな心地良い、
    これぞ至福のひと時だった。
    ヴィーナスに添い寝した気分だった。

     心ゆくまで鑑賞して監視員にお礼を言いながら、
    これから2階のモナ・リザを見に行くと言ったら、
    笑いながら居眠りしたら駄目のジェスチャーをした。
    モナ・リザの前は人だかりで居眠りどころではなかった。
     それにしてもミロのヴィーナスの展示室にいた時、
    誰も来なかったのは本当にラッキーだった。

  • パリのどこかの博物館の入場券 2フラン126円

    パリのどこかの博物館の入場券 2フラン126円

  • 昭和49年11月20日<br />パリ〜リヨン〜マルセイユ<br />ヨーロッパ国際列車TEEレ・ミストラル座席予約券<br />12号車52番<br /><br />レ・ミストラルはフランスを代表する豪華列車で1等車のみである。<br />コンパートメントのドア、テーブルは透明のガラス。<br />ボーイが来てフルコースの食事の注文をすると料理毎に<br />ルームサービスしてくれる。<br />同室はいかにも金持ちそうな太ったフランス紳士一人で<br />注文したフルコースの食事だった。<br /> こちらは持ち込みのフランパン、ハム、レタス、牛乳だった。<br /><br /> 牛乳と云えば今朝こんな事があった。<br />食料品スーパーで野菜、ハムと一緒に牛乳を買おうとしたら<br />見当たらないので店員に「MILK」と言ったが「Ha?」という顔する、<br />何度も「MILK!」と言うが、通じないのである。他の店員、2人連れの<br />オバさん客まで集まって来たが、誰も「MILK」分からなくて<br />お手上げという感じである。<br />そこへ乳呑み児を抱っこした母子が入って来た。<br />そこで寝ていた赤ちゃんを指さして、母親のおっぱいを飲む<br />ジェスチャーをした。<br /> それを見て皆、「le lait ル・レ」と言いながら大笑いして、<br />オバちゃんの一人が「面白い事をするね。」と言わんばかりに<br />肩を2、3回叩いた。<br /> 日本で云えば牛乳と言わないとミルクを買えないのである。<br />田舎では大都会のパリでもMILKが通じないのである。<br />「le lait」は、絶対に忘れないフランス語になった。<br /><br /> 信じられないかもしれないが、パリで「ワン、ツー、スリー」が<br />通じない事が多くあった。<br /> 当時、フランス人はプライドがあって英語は話せるけど使わない、<br />と聞いていたが、そうではなく、喋れないのだと思った。<br />

    昭和49年11月20日
    パリ〜リヨン〜マルセイユ
    ヨーロッパ国際列車TEEレ・ミストラル座席予約券
    12号車52番

    レ・ミストラルはフランスを代表する豪華列車で1等車のみである。
    コンパートメントのドア、テーブルは透明のガラス。
    ボーイが来てフルコースの食事の注文をすると料理毎に
    ルームサービスしてくれる。
    同室はいかにも金持ちそうな太ったフランス紳士一人で
    注文したフルコースの食事だった。
     こちらは持ち込みのフランパン、ハム、レタス、牛乳だった。

     牛乳と云えば今朝こんな事があった。
    食料品スーパーで野菜、ハムと一緒に牛乳を買おうとしたら
    見当たらないので店員に「MILK」と言ったが「Ha?」という顔する、
    何度も「MILK!」と言うが、通じないのである。他の店員、2人連れの
    オバさん客まで集まって来たが、誰も「MILK」分からなくて
    お手上げという感じである。
    そこへ乳呑み児を抱っこした母子が入って来た。
    そこで寝ていた赤ちゃんを指さして、母親のおっぱいを飲む
    ジェスチャーをした。
     それを見て皆、「le lait ル・レ」と言いながら大笑いして、
    オバちゃんの一人が「面白い事をするね。」と言わんばかりに
    肩を2、3回叩いた。
     日本で云えば牛乳と言わないとミルクを買えないのである。
    田舎では大都会のパリでもMILKが通じないのである。
    「le lait」は、絶対に忘れないフランス語になった。

     信じられないかもしれないが、パリで「ワン、ツー、スリー」が
    通じない事が多くあった。
     当時、フランス人はプライドがあって英語は話せるけど使わない、
    と聞いていたが、そうではなく、喋れないのだと思った。

  • 昭和49年11月20日〜22日<br />マルセイユ 市内バス切符<br />駅からユースホステルまで使用

    昭和49年11月20日〜22日
    マルセイユ 市内バス切符
    駅からユースホステルまで使用

  • 昭和49年11月20日〜22日<br />マルセイユ 市内バス切符<br /><br />バス停で切符を買おうとしたら老婦人から切符2枚頂いた。<br /><br /> 

    昭和49年11月20日〜22日
    マルセイユ 市内バス切符

    バス停で切符を買おうとしたら老婦人から切符2枚頂いた。

     

  • 昭和49年11月20日、21日<br />マルセイユのユースホステル<br /><br /> 11月20日<br /> 朝から大失敗した。マルセイユ行の列車のホームを間違えた為、<br />乗り損なった。<br /> 13時20分発のヨーロッパ国際列車TEEレ・ミストラルでマルセイユに行き、<br />ユースホステルに着いたのは21時過ぎであった。<br /> 後の日程を検討したら明日にはスペインに向かう事にした。

    昭和49年11月20日、21日
    マルセイユのユースホステル

     11月20日
     朝から大失敗した。マルセイユ行の列車のホームを間違えた為、
    乗り損なった。
     13時20分発のヨーロッパ国際列車TEEレ・ミストラルでマルセイユに行き、
    ユースホステルに着いたのは21時過ぎであった。
     後の日程を検討したら明日にはスペインに向かう事にした。

  • 昭和49年11月20日、21日<br />マルセイユのユースホステル<br /><br /> 11月21日<br /> 昨日に引き続いて大失敗した。<br />余裕を持って駅に着くつもりで早めにバス停に行ったが、<br />バスがなかなか来なくて、結局、駅に着いたらバルセロナ行きの列車は<br />出た後だった。<br /> 仕方なくユースホステルに戻りもう1泊する事にした。

    昭和49年11月20日、21日
    マルセイユのユースホステル

     11月21日
     昨日に引き続いて大失敗した。
    余裕を持って駅に着くつもりで早めにバス停に行ったが、
    バスがなかなか来なくて、結局、駅に着いたらバルセロナ行きの列車は
    出た後だった。
     仕方なくユースホステルに戻りもう1泊する事にした。

  • 昭和49年11月21日<br />マルセイユ 買い物レシート 13,24フラン811円

    昭和49年11月21日
    マルセイユ 買い物レシート 13,24フラン811円

  • 昭和49年11月21日<br />マルセイユ ユースホステルの近くの海岸で<br /><br /> バルセロナ行の列車に乗り遅れたので仕方なくユースホステルに<br />に戻り、近くの海岸を散歩した。<br /> 美しい砂浜の海岸線で夏には大勢の海水浴客が来るとか。<br />今はオフシーズンで静かそのもので沈みゆく夕陽を見ていると<br />ノスタルジアを感じた。

    昭和49年11月21日
    マルセイユ ユースホステルの近くの海岸で

     バルセロナ行の列車に乗り遅れたので仕方なくユースホステルに
    に戻り、近くの海岸を散歩した。
     美しい砂浜の海岸線で夏には大勢の海水浴客が来るとか。
    今はオフシーズンで静かそのもので沈みゆく夕陽を見ていると
    ノスタルジアを感じた。

  • 昭和49年11月21日<br />マルセイユ ユースホステルの近くの海岸で<br /><br /> 日没後、ユースホステルの戻ると薄暗いロビーの壁一面に<br />描かれた巨大な世界地図に気づいた。<br /> 当然、フランスは真ん中に、日本は右端にあった。<br />思えば遠くに来たもんだ、横浜出港して4か月経った、<br />日本に帰りたい、のではなく、帰れるだろうか、と思った。<br /> 部屋に入り2段ベッドの上の段に身体を横たえた。<br />1基しかない20ワットぐらいの暗い電燈が侘しくさせた。<br />他に日本人はいなかった。<br />そのうち、部屋に入って来たフランス人大学生がフランス語で<br />話しかけて来たが、通じないと思って自分と同レベルのたどたどしい<br />英語で「今からキャンプファイアするので良かったら参加しないか。」と<br />誘ってくれたが、気持ち的にも、体力的にも疲れていたせいか<br />気乗りせず断ってしまった。<br /> どうもあの世界地図のせいだと思った。

    昭和49年11月21日
    マルセイユ ユースホステルの近くの海岸で

     日没後、ユースホステルの戻ると薄暗いロビーの壁一面に
    描かれた巨大な世界地図に気づいた。
     当然、フランスは真ん中に、日本は右端にあった。
    思えば遠くに来たもんだ、横浜出港して4か月経った、
    日本に帰りたい、のではなく、帰れるだろうか、と思った。
     部屋に入り2段ベッドの上の段に身体を横たえた。
    1基しかない20ワットぐらいの暗い電燈が侘しくさせた。
    他に日本人はいなかった。
    そのうち、部屋に入って来たフランス人大学生がフランス語で
    話しかけて来たが、通じないと思って自分と同レベルのたどたどしい
    英語で「今からキャンプファイアするので良かったら参加しないか。」と
    誘ってくれたが、気持ち的にも、体力的にも疲れていたせいか
    気乗りせず断ってしまった。
     どうもあの世界地図のせいだと思った。

  • 昭和49年11月20日、21日<br />マルセイユのユースホステルの宿泊スタンプ<br /><br />

    昭和49年11月20日、21日
    マルセイユのユースホステルの宿泊スタンプ

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