2014/09/12 - 2014/09/12
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クッキーさん
今日は一日京都の街を北から南へ、東へと廻ります。
まずは早朝の詩仙堂から。
傾斜地を利用した静かな庭に鹿威しの音が響き、さらに静寂が醸し出されます。
詩仙堂について調べるうちに石川丈山という人物について深く知ることができました。
丈山は、儒者であり、漢詩人であり、書家であり、茶人であり、 造園家でした。そしてそれぞれの分野において一流だったのです。そのために 「希代の隠士」といわれたそうで、その小伝が「続近世畸人伝」に書かれています。 畸人とはかわりもの、変人の意です。
丈山の場合、それは武士でありながら、欲しげもなくその身分を捨て、文人として、その一生を終えたことにあるのでしょう。
老境に足を踏み入れつつある身には、指針としたい生き方ですが、観光地をせわしなく廻っているようでは、まだまだですね。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
7時半にはホテルを出て、駅ビルの中を抜け、バス乗り場へ。
市バス5系統岩倉操車場行きに乗り、 -
「一乗寺下り松」で下車。
坂道を上がっていくと、寺社が選り取りみどりで、すごいことになっています。 -
さらに歩いていくと、
金福寺も近いようです。
芭蕉庵だとか、花の生涯旧跡などそそられますね。 -
詩仙堂についたのは9時前なので、少し上がったところにある八大神社に行ってみることにしました。
宮本武蔵・一乗寺下り松の決闘ですって。 -
決闘当時の下り松の古木がうやうやしく祀られている社の前には、宮本武蔵の像が。
イメージとかけ離れて、幼すぎるような気もします。 -
吉川英治「随筆 宮本武蔵」。
吉岡一門数十人との決闘におもむく前に、八大神社の前で足を止めて祈ろうとした、その時、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、下り松の決戦の場所に駆け向かったのだとか。
武蔵が後に語った「我、神仏を尊んで、神仏を恃まず」という信念は、この折に得たものだという、吉川英治さんの解釈が刻まれています。 -
八大神社。
白砂がきれいな山になっています。 -
江戸時代初期の文人、石川丈山が隠棲し、晩年の約30年間を過ごした山荘です。
入り口には「史蹟詩仙堂」の碑があり、緑の木々の間に小さな門があります。
これが 小有洞(しょうゆうどう) であり、扁額には「小有洞」の文字があるそうですが、判読できません。
門を入ると、 -
緩やかな石段の両側はさわやかな竹林になっていて、朝日の木漏れ日のなかを進んでいくと、俗界から切り離されていくような感覚になります。
この石段をのぼりつめると、 -
石を敷いた小道に出ます。その突きあたりに、左に上る石段が見えます。
見えているのは、老梅関(ろうばいかん)の門で、「梅関」の扁額が揚げられています。
ここに老梅数珠があったので、名付けられたもの。
ここに着いた時にはまだ閉じられており、9時ちょうどに開けられました。 -
その門をくぐりぬけると詩仙堂の建物へと通じます。
この裏木戸は庭に続く門。 -
江戸時代初期の漢詩人であり、書家であった石川丈山が、1641年に建てた山荘です。
詩仙の間に掲げられている「中国三十六詩仙像」は江戸時代の狩野派を代表する天才絵師、狩野探幽(かのうたんゆう)の作品。さらにその肖像画に各詩人の漢詩を丈山が書いたといわれています。
李白や杜甫ら漢、晋、宋、唐の36人の詩人を平安時代の三十六歌仙にならって「三十六詩仙」として選び、 その詩と姿を描いた絵を壁に掲げたことから、詩仙堂と呼ばれるようになりました。 -
庭に向かって開け放たれた気持ちの良い空間が広がります。
少しも狭さを感じさせません。
隣は 至楽巣という部屋だったかな。
庭と一体となるように縁が廻り、書院を繋いでいます。天井高は抑え気味。 -
枯山水の方丈庭園。
白砂に緑が映えています。
白砂を海に、サツキの刈り込みを山に、滝からの水を川に見立てているそうです。
この庭を前にしているのはただ私一人だけ。じっくりと腰を下ろし、隠棲した丈山のように庭を堪能すれば良かったのですが、なにぶんにも今日の予定を入れ過ぎています。
こんな贅沢な時間を味わう絶好の機会を逃してしまいました。 -
庭は後世に補修された箇所もありますが、造営時のつくりを残し、江戸初期の面影を伝えているとされています。
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ここから見るだけしかできないのかと残念に思っていたら、縁側の端に、庭園に出るための草履が用意されていて、庭に降りることができると分かりました。
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詩仙堂がある土地は丘の斜面にあたり、その凹凸をうまく使って上下二段に庭が造られています。
階段をおりて2段目の庭へ向かいます。 -
庭から見える3層づくりの嘯月楼(しょうげつろう)。
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静まり返った庭に、時折鹿威(ししおどし)の音が響いてきます。その音が、さらに静寂を醸し出します。
鹿威を発明したのは、石川丈山だと言われています。
当時、詩仙堂が建てられた場所は山のふもとにあり、夜中に頻繁に出没するイノシシや鹿を追い払うために鹿威が考案されました。イノシシたちはその音に驚き、畑を荒らさなくなったのだとか。
また、静寂の中でコーンと竹が石を打ちつける響きは、隠居生活を送る丈山の慰めとなったといわれており、彼がつくる庭には「ししおどし」が設置されるようになりました。それがいつしか全国に広まったといわれています。 -
谷川の流水が流れ込む小さな水辺の風情。
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詩仙堂は、本来は凹凸窠(おうとつか)という名称であり、でこぼこした土地に建てた住居という意味だそうです。
この庭を見ると、その謂れがよくわかりますね。 -
渓水の流れる水路も木々におおわれて風情があります。
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この辺りが一番低いところの庭。
本当に全く誰もいないと思っていたら、こちらの庭で木々の手入れをされている方を二人見かけました。 -
築山というより、もともとの勾配を生かしたものでしょうか。
山もみじのしだれ具合が見事です。
紅葉の季節の観光客の人ごみが想像できます。 -
足元にはひっそりと山野草。
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上の庭へ戻ります。
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芙蓉が花を付けています。
奥は藤棚でしょうか。
さまざまな草木が植えられているので、 花や実を四季折々に楽しめそうです。 -
紅カナメが竹垣に映えています。
後ろに見える建物は残月軒。 -
南側に続く瓜生山の山林を借景として、どこまでが庭か分かりません。
こんな贅沢な庭を愛でながら暮らした丈山が羨ましい。 -
石川丈山は、れっきとした徳川家譜代の武士であり、典型的な 三河武士の一族でした。
徳川の重臣とも親戚関係にあり、幕府の信頼厚い人物でしたが、33歳のとき、大坂夏の陣に参加した際、功を焦って軍規に触れ、論功を受けることができず、 それを契機に退官してしまいます。
そして35歳になってから、親友林羅山のすすめで儒学を学び、漢詩人としての第一歩をふみ出しました。
このように、隠退して風雅の道に親しんだ丈山にとって、ただ一つの心残りは老母でした。
36歳の時、本多出羽守のすすめで、はじめて紀伊の浅野長晟侯に仕えましたが、わずか数ヵ月で京都へ帰ってしまいました。
紀伊から広島に転封された浅野侯に請い、再び仕えるようにすすめられた丈山。侯は丈山を遇するに客礼を以てし、千石を与えられたのです。丈山は、素志に反すると思いつつ、老母に孝養を尽すため、ついに士官。時に41歳。京都出発に際し、羅山らに「母が天寿を全うせば、自分は必ず退官する」と言い、この年の晩秋、広島に向かって出発しました。
丈山広島の新居は、かなり広かったようで、庭には桜樹三百本を植えたといいます。老母を名勝地に伴ったリなどして孝養を尽くします。
53歳で母を見送った丈山は、素志のごとく辞そうとしましたが、藩主はなかなか許しません。翌年の春、いよいよ広島を去ろうと決心し、最後の思い出に厳島で遊び、病気療養のため有馬温泉に行くと称して広島を去ったのです。 -
丈山が京都に戻ってから相国寺畔に住むこと四ヵ年、ここから文人隠者としての生活が始まります。
この間、終生の隠棲に適する地をもとめていましたが、ついに一乗寺村に選定し、ここを凹凸?几と名付けました。
その建設費は、丈山が愛蔵する書籍を売り、衣食を節して捻出したものともいい、また、浅野侯が、丈山は有馬に入湯し、ついで京都に帰ったもので、正式に辞職したものではないとして、四年間の俸禄四千石を給したからでもあるともいわれています。
59歳で詩仙堂に移り、90歳で没するまで、約30年間 ここで隠遁生活を送ります。
詩仙堂の建物「蜂要」には望楼が設けられており、庭園の全体像はもとより、比叡山や京の町を一望することが出来ます。
丈山の没後、ここは曹洞宗のお寺として残されました。 -
実は、江戸時代の頃から丈山は徳川家のスパイとして、後水尾院や公家の動きを監視していたという説が、数多く囁かれてきたのです。たとえば、詩仙堂を修学院離宮の近くに造ったのも、御水尾院監視のためだといい、また、望楼も、修学院離宮や都の監視のためだといわれているのです。
しかし、丈山は1641年に詩仙堂を建設しており、修学院離宮は1656年に着手されていますから、決して修学院離宮を監視するために嘯月楼を建設した訳ではないのです。
ただ、蜂要という中心施設には、一階の上と二階に南向きの窓があり、また他の二方も開け放つことが出来るようになっており、南、西、北を一望することが出来ます。さらに、こうした楼閣建築としては他に例がない忍び返しが取りつけられているのも、忍者屋敷を彷彿とさせるものです。
士官や俸禄をあっさりと手放し、文人として晩年を生きた丈山ですから、望楼から庭園を愛で、比叡山や京の町を一望することを楽しんだはず。
スパイ説は、話としては面白そうですが、丈山の人生を考えるとあり得なさそうです。
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