2015/01/02 - 2015/01/02
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nakaohidekiさん
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旅の歌人若山牧水の処女歌集『海の声』に、こんな歌がある。
− 粉河寺 遍路の衆の打ち鳴らす
鉦々(かねがね)きこゆ 秋の樹の間にー
この中に”遍路の衆の”とあるから粉河寺は西国三十三観音霊場の一つである。第三番札所となる。
そんな霊験あらたかな古刹に、今年の正月二日初詣に行ってきた。その日は生憎全国的に荒れ模様の天気。粉河寺も例にもれず、猛吹雪の中での参拝となってしまった。
所在地は和歌山県紀ノ川市粉河である。和歌山県の北部を流れる紀ノ川の流域の寺である。ここは山里でもなければ高地でもない。そんな寺に雪などはめったに降らないのである。それが今年はどういうわけか雪の初詣でとなってしまった。
和歌山インターを下りて、国道24号線を車で走って行くと走りやすい四車線のバイパス道路が続く。30分も走るとそんなバイパスが一般国道に繋がっている。それを紀ノ川沿いに10分も進めば粉河寺へと曲がる県道へ入っていく。近くにJR和歌山線の駅がありそこからまっすぐ粉河寺の参道となる。
”粉河”という名の由来は、今は長屋川という名の大門から中門へと続く小さな川に、「粉をすって入れたような白い流れ」からきているという。現在の川はけっして白くはないのであるが。
やがて車は粉河寺の大門の前に着いた。
寺伝によると、粉河寺の創建はいまからおよそ千二百年前、奈良時代の宝亀元年(770年)だという。それなら平城京が栄えた時代であったということではないか。もっとも古刹の名に相応しい寺ではないかと思えてしまう。その創建にまつわるエピソードもまた面白いのである。それを五木寛之著『百時巡礼・関西編』の中から紹介してみたいと思う。以下は同著よりの引用である。
−紀州に大伴孔子古(おおとものくじこ)という狩人が住んでいた。孔子古はある日、谷間に光を発する場所を見つけた。日頃から、殺生をすることを後ろめたく感じていた孔子古は、その霊場に庵を結ぶ。すると、どこからか一人の少年が現れた。少年はその庵に七日間こもって、千手観音像をつくって去っていった。こうした童姿の行者を童男行者という。
孔子古は、すがたを消した少年が、じつは観音の化身だったということをさとる。深く感じ入った孔子古は、その千手観音を大切に祀り、以後は殺生をやめて仏法に深く帰依したという。
一方、河内の国に一人の長者が住んでいた。その長者の娘が業病に苦しんでいると、どこからか童男行者が訪ねてきて、千手陀羅尼経を唱えてその病気を治してくれた。長者がお礼をしたいというと、童男行者はそれを断って、ただ娘の紅の袴(はかま)と提鞘(さげさや)だけを受け取って立ち去った。そのとき、童男行者は「住まいは粉河」とのみ言い残す。
やがて長者は、病気が完治した娘をつれて、お礼参りに粉河を訪ねた。すると山中の庵の中に千手観音が安置され、その手には娘の紅の袴と提鞘(さげさや)が握られていた。
それを見て、長者はあの童男行者こそ、まぎれもなく千手観音の化身だったと気づく。長者はその地に大きな本堂を建立し、千手観音像を安置することを誓った。こうして、粉河寺の堂塔が建てられることになり、その後、長者の一族はみな出家して粉河寺の別当となったという。−
これが粉河寺の縁起である。それ以後、粉河寺は平安、鎌倉と繁栄を極めた。堂塔伽藍は最盛期には五百五十を数得たという。その繁栄の様子は『枕草子』には「寺は壺坂、笠置、法輪石山、粉河、志賀」とあり、『梁塵秘抄』には「観音験(しるす)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河、近江なる彦根山、間近く見ゆるは六角堂」と謳われたのである。こんな名刹に和歌山県人としては恥ずかしながらまだ訪れたことがなかった。今回、初詣として訪れたことが観音様のお怒りに触れたのか大雪になってしまったのである。
長屋川に架かる赤い橋を渡ると大門に行き着く。
朱塗りの大きな二層の門を見上げると威風堂々たる構えである。いよいよ名刹に来たなと感慨深い。大門を抜けて五百メートルほど進むと中門だ。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めにより五百五十を超えた伽藍のほとんどが焼け落ちたが、いまある伽藍は江戸時代の再建だという。それでもその風格は趣深い佇まいである。
到着したころはさほどでもなかった天候が、中門を過ぎたころから怪しくなり、雲行がいよいよ本格的な雪模様となってきたのは中門を入って10分ほどである。本堂に着くその頃には猛吹雪となってしまった。大雪の中の参拝である。しかし、その本堂の威風には驚嘆すべきものがあった。(表紙に使ったこの雪の本堂の写真は、NHK和歌山で初詣の写真として使われました。)その様子を五木寛之の先の著作で再び紹介してみたい。
−中門をくぐって本堂の前に立つと、のしかかってくるような全体の迫力に圧倒された。西国三十三所の札所の諸寺院のなかで、最大の本堂だそうだ。江戸時代に再建されたものだが、入母屋造りを上下に重ねたような屋根が複雑な様式で、非常におもしろい。紀州の寺の特徴なのだろうか。屋根の傾斜がすこぶるきつい感じがする。空高くそびえているように見え、あたかも海が波打つように瓦のカーブが重なっている。そのあたりに独特の雰囲気があって、見ていて少しも飽きない。−
五木寛之は「見ていて少しも飽きない」と書いているが、そういっても僕が訪ねた日は雪である。それも猛吹雪なのである。ゆっくり本堂の屋根の美しさに驚嘆している場合ではないのである。急いでカメラのシャッターを切ると慌てて本堂の中に逃げ込んだ。とにかく猛烈に寒かった。シャッターを切る手が凍てついて写真を撮るどころの騒ぎではなかったのである。
粉河寺といえばもう一つ忘れてならないものがある。創建のきっかけとなった秘仏の千手観音像についてである。
じつは粉河寺の千手観音像についてはかつて公開された記録がないのである。本尊が秘仏とされる寺院は日本各地にいくつかあるが、このようにまったく公開されていないというのは他にないのではないだろうか。
例えば花山法皇一千年忌を記念して2008年から2010年にかけて西国三十三か所のすべての寺院で秘仏の結縁開扉が行われた。このときでも粉河寺の本尊は開扉されなかったのである。
本尊が秘仏の場合、よくあるのは代わりにお前立という身代わりの仏様を開扉している。粉河寺でもお前立ちが本尊の前に安置されている。しかしこれも秘仏であり一年に一度、12月31日だけ清掃のために開扉されるだけである。普段は一般の者は拝観できなくなっている。花山法皇の一千年忌でも開扉したのはこのお前立であった。
このように粉河寺は”秘”の中の、さらに”秘”を重ねた”秘密の寺”というべきなのかもしれない。
豊臣秀吉によってほとんどが焼失してしまった粉河寺の堂塔であるが、唯一創建時より焼け残ったのが『粉河寺縁起絵巻』といわれている。これは現在京都国立博物館に寄託されている。国宝である。
写真で見ると、明らかに料紙の上下が焼けて損傷しているのがわかる。誰かが決死の覚悟で秀吉の猛攻の中、炎のなかから持ち出したのではないだろうかと想像を膨らましてしまう。
帰りがけに大門の脇にある茶店に寄って甘酒を飲みながら冷えた体を温めることにした。
茶店の壁には有名人が店のスタッフと撮った記念の写真やサインが飾られている。本文で紹介した作家の五木寛之が取材に訪れたときの写真のスナップや『男はつらいよ・フーテンの寅さん』のロケの渥美清の写真などもある。
監督の山田洋次は古刹に詳しい人だから寅さんが和歌山を旅したときにはこの寺に来るべきなのだなと思ったに違いない。一流は一流を知るということなのだと思っった。
体が温まると、雪も止んだことだし、夕闇迫る粉河寺を、そろそろ後にしようと家路を急いだのである。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- 交通
- 2.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 自家用車
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