2014/10/31 - 2014/10/31
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belleduneさん
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基坂(もといざか)を上ったところに元町公園があります。明治時代に里数を測る基点とする里程元標が立っていたので、そう呼ばれました。室町時代以前には、ここに道南十二館の一つ、宇須岸館がありました。道南十二館とは、蝦夷地渡島半島にあった渡党領主の館の総称で、花沢館、比石館、原口館、禰保田館、大館、軍部館、隠内館、脇本館、中野館、茂別館、志苔館、宇須岸館の十二館。函館八幡宮が鎮座し、松前藩亀田番所がありましたが、江戸時代後期の蝦夷公議御料(幕府直轄領)時代には、箱館奉行所が五稜郭移転まで置かれていました。その後、旧北海道庁函館支庁庁舎がありました。公園内には、函館写真歴史館、旧開拓使函館支庁書籍庫、函館四天王像などがあります。
- 旅行の満足度
- 4.5
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基坂を上ると、旧市立函館病院跡にペリー提督来航記念碑が立っています。ペリー来航150周年を記念して、平成14年(2002)5月17日に建てられました。銅像の足下には、アジア東北部原産で、寛文8年(1668)に日本へ渡来した「クロフネツツジ」が植えられています。
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一段高くなったところに、旧函館区公会堂が見えています。
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旧開拓使函館支庁書籍庫は、明治13年(1880)に建てられましたが、明治40年の
函館の大火でも類焼を免れ、庫内になった行政資料も無事保存されました。フランス積みの煉瓦壁の書籍庫は、木造扉と鉄の扉の二重構造で、年に1度だけ防火点検の際に扉が開けられます。煉瓦は、茂辺地村に明治5年に建てられた開拓使直営の煉瓦製造所で焼かれたものが使われています。外壁の四隅に補強のための隅石が組まれ、桟瓦葺きの屋根、鉄製扉、柵の付いた窓などが特徴になっています。また、2階の外壁にL字型の金具が付いていますが、これは板を乗せたり、コモを下げて放水、防寒のためだそうです。 -
鎖国を解いた幕府は、諸外国に対する防衛策として、安政2年のペリー来航の2ヶ月後に、箱館とその遊歩地域5里(20km)四方を松前藩から没収して、幕府直轄地とした上で、箱館奉行所を五稜郭に移転するまで、ここにありました。
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昔の写真ですが、江戸時代の箱館奉行所が左手奥に見えています。
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ちょっと曇っていて残念ですが、基坂下に箱館港が一望出来る場所です。
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旧北海道庁函館支庁庁舎は、創建時の建物が明治40年の大火で焼失し、明治42年(1909)に建てられた洋風木造2階建です。昭和32年(1957)まで北海道関連の施設として使用されていました。平成3年に火災で被害を受け、復元工事が行われました。平成6年から再利用され、現在、1階は観光案内所として、2階は写真歴史史料館として利用されています。玄関ポーチの上部ペディメントをコリント式の柱頭飾りが付いた柱が4本建っています。
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函館四天王像は、いずれも函館の発展に貢献した今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の4人です。今井市右衛門は、能登出身で、当地で西洋雑貨店を開業し、その後、北海道初の新聞社「北溟社」を創設。私財を投じて、医師と共同で福祉事業の育児会社や鶴岡学校を創立しました。
平田文右衛門は、函館出身で、呉服太物商を営み、その後、造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社などを設立しました。
渡邉熊四郎は、大分竹田出身で、金森洋物店を開業し、海運業、函館病院の再建、2代、3代に亘って人材を育成しました。
平塚時蔵は、青森田名部出身で、函館の平塚家の養子となり、呉服太物商、西洋雑貨販売を行い、慈善事業に貢献しました。 -
明治時代には、この辺りに開拓使函館支庁、函館県庁、北海道函館支庁が置かれ、政治の中心になっていました。
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旧函館区公会堂は、明治40年の大火で町会所が焼失した後、豪商・相馬哲平が当時5万円もの寄付(現在の10億以上でしょうか)を申し出て、明治43年に完成したものです。相馬哲平は、越後の出身で、函館で財を成し、「郷土報恩」の通り、函館の発展に尽くした人物です。
建物は、北海道特有の木造2階建ての擬洋風建築です。設計は、函館市技師の小西朝次郎、請負は村木甚三郎です。 -
アメリカのコロニアル風洋館で、左右対称のポーチがあり、回廊で中央のベランダに繋がっています。
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桟瓦葺きの屋根で屋根窓が付いています。ポーチの袖妻には、唐草模様を施し、玄関や回廊を支えるコリント式円柱の柱頭に洋風装飾が付けられています。
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昭和55年(1980)に解体修理、復元工事が行われ、2年後に完了し、当初の姿に戻りました。
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1階は中廊下に面して、食堂、球戯室、寝室、会議室などの小部屋があります。2階は、大広間があり、バレルヴォールド式の吊り天井技法を使っているので、柱がありません。
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附属棟は、管理人の住居の木造平屋建てで、桟瓦寄棟屋根となっており、本館と渡廊下で繋がっています。
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旧函館公会堂から横に歩いて行くと、函館市が歴史的建築物に指定している民家が並んでいます。
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下見板張りの白い洋館は、小林家住宅で、大正11年(1922)に建てられたそうです。
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函館市まちづくり景観課のHPを見ると、函館市西部地区歴史的町並み基金による補助制度や景観形成指定建築物等外観改修事業補助、指定建造物等防寒改修事業補助などが良く分かります。一度指定されてしまうと、簡単に売買することは問題がありそうですね。
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日和坂と呼ばれているこの坂からは港が見えて、天候が良く分かったため、こう呼ばれていたとか。
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カトリック元町教会の塀に蔦が絡まって、秋ですね。
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函館ハリストス正教会(ロシア正教)日本ハリストス正教会に属し、主の復活聖堂を有する正教会の教会。ハリストスとは、キリストのギリシャ語読みです。安政5年(1859)にロシア領事ゴシケヴィッチが領事館敷地内に聖堂を建てました。ビザンチン建築にロシア建築の影響を受けていて、煉瓦造り一部3階建ての平屋で、基礎は石造り、外壁は漆喰でした。明治40年の大火で全焼しましたが、大正5年に再建されました。昭和63年には大規模な修復工事が行われました。
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「チャチャ登り」という急な坂で、誰もが腰を曲げて登ることからこう呼ばれたという。
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函館聖ヨハネ教会(日本聖公会)
明治7年(1874)にイギリス人デニング宣教師が道内最初の聖公会として活動しました。明治11年に末広町に最初の聖堂が建てられましたが、数度の火災で移転を余儀なくされ、また函館の大火で聖堂を焼失。現在の地に大正10年(1921)に再建されました。今の建物は、昭和54年(1979)に完成したものです。 -
カトリック元町教会は、カトリック札幌教区の教会です。安政6年にパリ外国宣教会司祭メルメ・デ・カションが仮聖堂を建て、慶応3年に仏人司祭ムニクーとアンブルステルが仮聖堂を建てました。その後、明治10年になって、仏人司祭マレンが初代の木造聖堂を建立しました。明治40年の大火で焼失しましたが、明治43年に煉瓦造りの2代目が竣工。これも大正10年に焼失。焼け残った煉瓦の外壁を使用して、3年後に33mの尖塔を持つ鐘楼のあるゴシック様式の聖堂として再建されました。大聖堂内部の豪華な祭壇、副祭壇、両壁の14景の十字架の道行きは、火事見舞いとしてローマ教皇ベネディクト15世から贈られたものだそうです。
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八幡坂は、昔八幡神社があったことからこう名付けられました。教会入り口は、この坂から入ります。
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この先にも古い町並みが続いています。
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