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今回の目的は三大天皇と共に世を呪うである。<br />甘やかされた私は、世の中にやってられねえよーと思い、三大天皇陵(崇峻、崇道、崇徳)に参杯し世を呪うことにしたのである。まずは、崇峻天皇様である。<br /><br />ここで三大天皇について<br /><br /> 崇徳院は、保元の乱で敗れ、讃岐の地に流された。許しを願い、五部の大乗経を写経して京都に送ったが後白河天皇に受け入れてもらえず、悲憤の内に崇徳院は呪いの言葉を吐く。<br /> 舌の先を喰い切り、その血で送り返された大乗経の軸に「日本国の大魔王となりて天下を乱り国家を悩まさん」と書いたという。爪も切らず、髪も総髪のまま、憤怒の形相で呪いながら崩御する。仁安3年(1168年)西行法師が、院の陵のある白峰を訪れると、夜中に院の御霊が現れて、近来の世の乱れは朕なすことなり、生きてありし日より魔道にこころざしをかたぶけて………死してなお朝家に祟りをなす」と言ったという。爪は獣の爪の如く伸び、髪は膝にかかるほど伸び乱れており、魔王の姿とも天狗の姿だったとも伝えられる。<br /> 江戸の川柳には、「百のうち二人変化で神となり」や「雷(らい)天狗除けば九十八人首」というのがある。天神(雷)となった菅原道真と崇徳院の二人のことを示している。<br /> さて、その後の世の乱れは、崇徳院の怨霊のせいとされ、治承4年(1180年)に崇徳院と諡号された。保元の乱の時は、新院、讃岐に流されていたときは讃岐院などと呼ばれていたわけだから、この崇徳院の諡号には、当然、鎮魂の意味が込められているに違いない。<br /> 「崇」の文字のつく諡号は、蘇我氏に暗殺された(実行犯は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま))「崇峻天皇」がそうであるし、桓武天皇の皇太弟で廃嫡され、長岡京造営時にたたった早良皇太子への鎮魂の諡号が「崇道天皇」が、そうである。<br /> 早良皇太子は、怨霊としての実績をもって「崇道天皇」と諡号されたわけだが、崇峻天皇の場合には怨霊としての実績があったか否かは知らないが、暗殺という手段で生命を奪われたことは、祟るに充分な要件であったといってよいだろう。<br /> このほかに「崇」の字がつくのは、第十代「崇神天皇」である。不幸な死に方をしたとは聞かないが、初代の神武天皇の「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と同じく「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれる神話時代との境をなす歴史時代の実在の初代天皇であろうと言われている。<br /> なんにしてもまだまだ謎の多い存在なのが「崇神天皇」である。「崇」の文字がつく理由が、他の三人とは別にあるのかもしれないし、何か共通点があるのかもしれない。<br /> さて、「崇」の文字のほかにも、諡号につかわれる「徳」の字の話もある。これはまだまだ先に。<br /><br /> 崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある<br /><br /> 592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。近年、佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。<br /><br />崇峻天皇陵<br /> 陵(みささぎ)は、奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。<br /><br />『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」とある。『延喜式』諸陵式に「無陵地?無戸」とある。『陵墓要覧』では所在地を奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする。<br /><br />現在、崇峻天皇陵は、倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。同地に、崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、陵地として決定したという。1876年(明治9年)、奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、1889年(明治22年)に現在の陵に改定された。<br /> ただし、根拠には乏しいといい、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。<br /><br />皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。<br /><br />

悪魔の密談 崇峻天皇陵参拝

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2014/10/11 - 2014/10/11

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bakaneko

bakanekoさん

今回の目的は三大天皇と共に世を呪うである。
甘やかされた私は、世の中にやってられねえよーと思い、三大天皇陵(崇峻、崇道、崇徳)に参杯し世を呪うことにしたのである。まずは、崇峻天皇様である。

ここで三大天皇について

 崇徳院は、保元の乱で敗れ、讃岐の地に流された。許しを願い、五部の大乗経を写経して京都に送ったが後白河天皇に受け入れてもらえず、悲憤の内に崇徳院は呪いの言葉を吐く。
 舌の先を喰い切り、その血で送り返された大乗経の軸に「日本国の大魔王となりて天下を乱り国家を悩まさん」と書いたという。爪も切らず、髪も総髪のまま、憤怒の形相で呪いながら崩御する。仁安3年(1168年)西行法師が、院の陵のある白峰を訪れると、夜中に院の御霊が現れて、近来の世の乱れは朕なすことなり、生きてありし日より魔道にこころざしをかたぶけて………死してなお朝家に祟りをなす」と言ったという。爪は獣の爪の如く伸び、髪は膝にかかるほど伸び乱れており、魔王の姿とも天狗の姿だったとも伝えられる。
 江戸の川柳には、「百のうち二人変化で神となり」や「雷(らい)天狗除けば九十八人首」というのがある。天神(雷)となった菅原道真と崇徳院の二人のことを示している。
 さて、その後の世の乱れは、崇徳院の怨霊のせいとされ、治承4年(1180年)に崇徳院と諡号された。保元の乱の時は、新院、讃岐に流されていたときは讃岐院などと呼ばれていたわけだから、この崇徳院の諡号には、当然、鎮魂の意味が込められているに違いない。
 「崇」の文字のつく諡号は、蘇我氏に暗殺された(実行犯は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま))「崇峻天皇」がそうであるし、桓武天皇の皇太弟で廃嫡され、長岡京造営時にたたった早良皇太子への鎮魂の諡号が「崇道天皇」が、そうである。
 早良皇太子は、怨霊としての実績をもって「崇道天皇」と諡号されたわけだが、崇峻天皇の場合には怨霊としての実績があったか否かは知らないが、暗殺という手段で生命を奪われたことは、祟るに充分な要件であったといってよいだろう。
 このほかに「崇」の字がつくのは、第十代「崇神天皇」である。不幸な死に方をしたとは聞かないが、初代の神武天皇の「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と同じく「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれる神話時代との境をなす歴史時代の実在の初代天皇であろうと言われている。
 なんにしてもまだまだ謎の多い存在なのが「崇神天皇」である。「崇」の文字がつく理由が、他の三人とは別にあるのかもしれないし、何か共通点があるのかもしれない。
 さて、「崇」の文字のほかにも、諡号につかわれる「徳」の字の話もある。これはまだまだ先に。

 崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある

 592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。近年、佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。

崇峻天皇陵
 陵(みささぎ)は、奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」とある。『延喜式』諸陵式に「無陵地?無戸」とある。『陵墓要覧』では所在地を奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする。

現在、崇峻天皇陵は、倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。同地に、崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、陵地として決定したという。1876年(明治9年)、奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、1889年(明治22年)に現在の陵に改定された。
 ただし、根拠には乏しいといい、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。

皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

旅行の満足度
4.5
交通手段
自家用車

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  • どうも以前から、崇の付く天皇は怪しいと思っていたが、歴史を紐解くと色々出てきました。崇神天皇は別のようですが。

    どうも以前から、崇の付く天皇は怪しいと思っていたが、歴史を紐解くと色々出てきました。崇神天皇は別のようですが。

  • 天皇陵前景

    天皇陵前景

  • 陵の横にある金福寺

    陵の横にある金福寺

  • エエ風情

    エエ風情

  • 陵横

    陵横

  • 陵の横には清涼な川が流れている

    陵の横には清涼な川が流れている

  • 崇峻さま。世をひっくり返す機会でございます

    崇峻さま。世をひっくり返す機会でございます

  • 他を当たってきてちょーだい。それでは崇道さまのところに行ってまいります

    他を当たってきてちょーだい。それでは崇道さまのところに行ってまいります

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