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【瀬田唐橋「あみ定」敷地内にある「俵藤太秀郷」陶像】<br /><br />前回瀬田唐橋綱引き大会から建部大社を回りました。旅行記に組み込めなかった場所の紹介と補足の意味で今回の「歩こう旅」は始まります。<br /><br />2014年10月25日土曜日<br />野暮用で駅前にやってきました。結構暖かかったので、ちょっと歩いてみようって気になりました。さあどこへ行こうか…ってことで先週行ってきたコース+αと言うことで、「瀬田の唐橋」・「建部大社」・「龍王宮秀郷社」・「勢多城址」を歩きます。<br /><br />出発はまたまた石山駅です。そういえばこの「レンタサイクル」は撮ったことがないので改めてパシャリ。そしてバスロータリーを回って石山商店街を歩きます。途中小腹がすいたので、久しぶりに国道ガード下の「大蔵たこやき店」にお邪魔し「たこ焼き13個」をたいらげた後、また歩き始めます。以前書いた石山寺へは鳥居川交差点を直進しますが、瀬田の唐橋へは左に曲がります。しばらく歩くと京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅横の踏切を通り、次の信号が「唐橋西詰交差点」になります。<br /><br />ここから近江の国の交通の要所「瀬田唐橋」を渡ります。綱引き大会の時はかなり混んでいましたがさすがに土曜日の昼過ぎなので人はあまりいません。でもなんか「歩こう会」らしいメンバーの方がいらっしゃいました。歩くのは健康に良いことですね♪<br /><br />途中中の島に立ち寄ります。実は先週の綱引きを纏めたときに初めて知ったことですが、ここらに「俵藤太秀郷像」があるらしいとのこと。何年住んでいたのかとお恥ずかしいですが、知らないから調べます。でも目標にたどり着けません…。でもそんなときには文明の力”iPhone5s”で検索~!すると出てきました、この「あみ定」敷地内にと。でもそんなのあったっけ?っていうのが地元民の驕りになってしまいます。深呼吸をしてあたり360°を見回すと…ありました、唐橋すぐ脇の小山に。”灯台下暗し”そのものです。<br /><br />「ムカデ退治」で有名な藤原秀郷ですが、絵に描かれた「俵藤太秀郷像」は「武士像」が強く描かれているように思っていましたが、ここにある「俵藤太秀郷像」は何かが違います。なにか”ほっこり”した感じ…そういう印象を受けました。昭和54年(1979)に唐橋架橋工事の記念ということですが、時代背景の違いを表しているように思います。今から35年前(2014年10月25日現在)だとこの滋賀県大津市、その中の石山・瀬田地区と言うとホントに田舎の街だったように思います。その後京阪神のベットタウンとしてマンションが乱立し当時の面影すら残っていない今日、この「信楽焼の藤太像」が時代の生き証人としてこの瀬田唐橋の中の島に永遠にそびえたっていて欲しいと改めて思います。<br /><br />中の島を後にして「瀬田唐橋」を東進します。大橋中央部から下流方向の東岸を見ると、これまた「俵藤太像」が目に入ってきます。地元民でありながらいつこんなのができたのか???っとなってしまいます。たまには地元も歩かないとわからなくなる…っと改めて思います。唐橋東岸から手前方向に回り込むと、いくつかの石碑や祠があります。跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)宮(龍王宮秀郷社)・浄土宗龍光山雲住寺の石碑、地蔵堂がふたつなどなど。「瀬田唐橋の碑」は、唐橋の写真とともによく撮影されているので有名かと思います。近くにある「橋守地蔵尊」、こちら昭和54年の架橋工事の際に、礎から出てきた石仏を祀っています。室町後期の作品だそうですが、残念ながら謂れ等は一切わかっていません。しかし長年にわたり「唐橋の通行の安全」を見てきたことから、祠に祀り供養することで今後も安全を見守る地蔵としてご利益を期待するべく現在に至っているようです。また地蔵堂の横には、この地蔵が作られただろう室町後期から昭和54年までの架橋経歴が記されています。<br /><br />そして龍王宮秀郷社へと向かいます。こちらは名前の通り「藤原秀郷公」と「龍宮」を祀ってあります。ただこの龍宮伝説、二説あり、大蛇が「娘」と「老翁」という話になっています。なにの文献にはこれというのがないようです。「瀬田唐橋」石碑には「老翁」、その他は「娘」と書いてあり、かつ「龍王社」の祭神は、「大神霊龍王(乙姫)」と「秀郷公」になっていることから、やはり「物語的」には「乙姫」説の方がいいのかなぁ…っと勝手に思ってしまいました。<br /><br />まあご存知の方もいらっしゃるように、この「ムカデ退治」も作られた物語です。また生没年や出生等ほとんど不明な人物ですが、あえて地元として「ここらへん」は…という仮定の元のお話をすると、藤原秀郷は山城国宇治田原を領する豪族で弓の名手として知られています。官位を貰って下野守として東国へ出向く際、瀬田の唐橋でなにやら旅人が噂話をしていることを耳にします。橋の上で大きな大蛇が横たわり、橋を渡れないと聞いた秀郷は、大蛇の背中を踏みつけて橋を渡りました。その日の夜、秀郷のもとに一人の若い娘が訪れました。「我は琵琶湖に住む龍神の化身なり、公程の豪勇の方を見たことがありません。できれば私たちを苦しめている三上山に住む大ムカデを退治してはくれまいか?」との言葉に二つ返事で応じた秀郷は、三上山を訪れムカデ狩りに挑みます。しかし手強い、1本、2本と放った矢は弾き返されてしまいました。さあ残り1本…、ここで秀郷、乙姫に聞いた「ムカデは人の唾を嫌う」ことを思い出し、「南無八幡大菩薩」と念仏を唱え、ムカデの弱点左眼を見事射抜くここに成功した。それを喜んだ龍神から、とめどなくものが得られる「俵」、「布」や、「鐘」(三井の晩鐘)等色々なものを得て繁栄を保ちました。という感じでまとめましたが、実はこの大ムカデは、当時朝敵だった「平将門」の兵の多さを揶揄したものだと言われています。また「乙姫」は将門の妾で、弱点を聞いていたからこそ誅することができたとも言われています。平安中期に突如降りかかってきた東国の乱「平将門」の乱に、平和慣れしている「朱雀帝」が膨大な褒美と官位を与える代わりに「貴族」ではなく「武士」にさせたことからも当時の混乱が目に浮かびます。<br />朝敵「平将門」を誅したという大手柄をあげたにも関わらず、その後の歴史から名前が消えてしまいます。なので余計に「華やかな」話が伝わって行くのかも知れませんね…。<br /><br />という感じで参ってきました。次はちょっと被りますが、「近江一之宮建部大社」へと向かいます。こちらは前回に行きましたが、「紅葉」の様子を知りたく行ってみました。とはいえ先週のこと…あまり変わってはいないみたいです。おまけにパラパラと雨が降ってきたので、とりあえず戻る方向へと歩きます。<br /><br />大鳥居をくぐり、バス通りを歩きます。神領交差点、ここは「名神瀬田西IC」ができたときに変形複合交差点になっています。右手に進む道は国道1号線草津方面に向かう道になりますが、ここで斜め右前に見えている「辻末製菓舗」、和菓子も有名ですが、なにより県外の方には「たにし飴」で有名だと思います。まああえて「たにし飴」を買ってみます。<br /><br />しばらく西進すると「唐橋東詰」の交差点に着きます。「瀬田唐橋」を渡ると駅へと向かう<br />バスもあるのですが、雨も止んだようなのでもう一ヶ所寄ることにします。「唐橋東詰」を南進し、最初のヘアピンカーブが終わった場所こそが「瀬田城址」になります。<br /><br />この瀬田城ですが、山岡城とも呼ばれています。永享元年と言うと1430年に山岡信濃守景房が築き、九代後の美作守景隆までが暮らしていたそうです。最初近江守護佐々木六角氏に仕えるも後に織田信長に投降、三万石の大名になる。天正三年(1575)七月瀬田唐橋架橋奉行になり唐橋を再建するも、天正十年(1582)六月の本能寺の変で信長が没した後、明智光秀の誘いを断り、瀬田唐橋を焼いて光秀の安土攻めに抵抗した。その際堺で光秀の乱を聞いた徳川家康が、宇治・田上・信楽郷へと逃げ延びる際に、土寇(地元民の一揆)に出会うも山岡景隆がそれを討ち助けたそうです。約150年続いた瀬田城を瀬田唐橋共々焼き払い、家康の退路を開けてそのまま故郷の甲賀へと戻った景隆はどのような気持ちで火をかけたのか、今では想像の域で考えるしかないようです。<br /><br />その後瀬田城は復興されることもなく廃城になりました。しかし徳川の世となり、瀬田唐橋が直轄領になって、膳所城に譜代大名の本多氏が入ることになった時、この景隆の忠義を龍安寺の天寧和尚が偲びかつ伝えるために本多氏に瀬田城址に「臨江庵」を建てるよう進言しました。今はもう石碑が残るのみで、何の関係があるのかわからないマンションが建っています。当時を思うものはなにもありませんが、この風光明媚な「瀬田唐橋」を作った一大名の歴史に思いを馳せるのも良いかも知れません。<br /><br />今日の目的地をすべて回りました。あとは帰るだけですが、この「瀬田」という場所は私の住む「石山」とは瀬田川を挟んだ向かいの位置にあります。地元民の散歩ってそういうところはあると思いますが、意外と来ることは少ないです。また来ても「車」を利用することがほとんどで「歩いた」記憶がありません。なので今日はそのまま「瀬田川」沿いに南下して歩いて行きます。この区間は「帝産湖南交通」というバスが走っています。「橋本」バス停が「瀬田唐橋」最寄なのでそこから5つ目の「西武園入口」バス停を過ぎると目の前に大きな「コンクリートの橋」が見えてきます。これが「京滋バイパスとその側道」になりますが、それを渡ります。車だと橋の上まで登らないといけませんが、歩きだとチョコチョコっと階段を昇ると結構すぐ上がれます。バイパスの側道はとても橋上で停まることはできませんが、歩きだとのんびり風景を楽しめます。なので今日のラストショット、「瀬田川の流れ」をカメラに収めて今日の旅の締めくくりにします。そこからだと約30分で自宅に到着しますが、着くといつも気になる「翌々日の筋肉痛」、今回も恐怖に怯えながらの旅行記を書いています(泣)。<br /><br />これで「淡海を歩く旅その弐の③~瀬田唐橋・その周辺史跡~」を終わります。<br />

《2014.October》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのIII石山編~瀬田唐橋と周辺史跡~

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2014/10/25 - 2014/10/25

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

【瀬田唐橋「あみ定」敷地内にある「俵藤太秀郷」陶像】

前回瀬田唐橋綱引き大会から建部大社を回りました。旅行記に組み込めなかった場所の紹介と補足の意味で今回の「歩こう旅」は始まります。

2014年10月25日土曜日
野暮用で駅前にやってきました。結構暖かかったので、ちょっと歩いてみようって気になりました。さあどこへ行こうか…ってことで先週行ってきたコース+αと言うことで、「瀬田の唐橋」・「建部大社」・「龍王宮秀郷社」・「勢多城址」を歩きます。

出発はまたまた石山駅です。そういえばこの「レンタサイクル」は撮ったことがないので改めてパシャリ。そしてバスロータリーを回って石山商店街を歩きます。途中小腹がすいたので、久しぶりに国道ガード下の「大蔵たこやき店」にお邪魔し「たこ焼き13個」をたいらげた後、また歩き始めます。以前書いた石山寺へは鳥居川交差点を直進しますが、瀬田の唐橋へは左に曲がります。しばらく歩くと京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅横の踏切を通り、次の信号が「唐橋西詰交差点」になります。

ここから近江の国の交通の要所「瀬田唐橋」を渡ります。綱引き大会の時はかなり混んでいましたがさすがに土曜日の昼過ぎなので人はあまりいません。でもなんか「歩こう会」らしいメンバーの方がいらっしゃいました。歩くのは健康に良いことですね♪

途中中の島に立ち寄ります。実は先週の綱引きを纏めたときに初めて知ったことですが、ここらに「俵藤太秀郷像」があるらしいとのこと。何年住んでいたのかとお恥ずかしいですが、知らないから調べます。でも目標にたどり着けません…。でもそんなときには文明の力”iPhone5s”で検索~!すると出てきました、この「あみ定」敷地内にと。でもそんなのあったっけ?っていうのが地元民の驕りになってしまいます。深呼吸をしてあたり360°を見回すと…ありました、唐橋すぐ脇の小山に。”灯台下暗し”そのものです。

「ムカデ退治」で有名な藤原秀郷ですが、絵に描かれた「俵藤太秀郷像」は「武士像」が強く描かれているように思っていましたが、ここにある「俵藤太秀郷像」は何かが違います。なにか”ほっこり”した感じ…そういう印象を受けました。昭和54年(1979)に唐橋架橋工事の記念ということですが、時代背景の違いを表しているように思います。今から35年前(2014年10月25日現在)だとこの滋賀県大津市、その中の石山・瀬田地区と言うとホントに田舎の街だったように思います。その後京阪神のベットタウンとしてマンションが乱立し当時の面影すら残っていない今日、この「信楽焼の藤太像」が時代の生き証人としてこの瀬田唐橋の中の島に永遠にそびえたっていて欲しいと改めて思います。

中の島を後にして「瀬田唐橋」を東進します。大橋中央部から下流方向の東岸を見ると、これまた「俵藤太像」が目に入ってきます。地元民でありながらいつこんなのができたのか???っとなってしまいます。たまには地元も歩かないとわからなくなる…っと改めて思います。唐橋東岸から手前方向に回り込むと、いくつかの石碑や祠があります。跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)宮(龍王宮秀郷社)・浄土宗龍光山雲住寺の石碑、地蔵堂がふたつなどなど。「瀬田唐橋の碑」は、唐橋の写真とともによく撮影されているので有名かと思います。近くにある「橋守地蔵尊」、こちら昭和54年の架橋工事の際に、礎から出てきた石仏を祀っています。室町後期の作品だそうですが、残念ながら謂れ等は一切わかっていません。しかし長年にわたり「唐橋の通行の安全」を見てきたことから、祠に祀り供養することで今後も安全を見守る地蔵としてご利益を期待するべく現在に至っているようです。また地蔵堂の横には、この地蔵が作られただろう室町後期から昭和54年までの架橋経歴が記されています。

そして龍王宮秀郷社へと向かいます。こちらは名前の通り「藤原秀郷公」と「龍宮」を祀ってあります。ただこの龍宮伝説、二説あり、大蛇が「娘」と「老翁」という話になっています。なにの文献にはこれというのがないようです。「瀬田唐橋」石碑には「老翁」、その他は「娘」と書いてあり、かつ「龍王社」の祭神は、「大神霊龍王(乙姫)」と「秀郷公」になっていることから、やはり「物語的」には「乙姫」説の方がいいのかなぁ…っと勝手に思ってしまいました。

まあご存知の方もいらっしゃるように、この「ムカデ退治」も作られた物語です。また生没年や出生等ほとんど不明な人物ですが、あえて地元として「ここらへん」は…という仮定の元のお話をすると、藤原秀郷は山城国宇治田原を領する豪族で弓の名手として知られています。官位を貰って下野守として東国へ出向く際、瀬田の唐橋でなにやら旅人が噂話をしていることを耳にします。橋の上で大きな大蛇が横たわり、橋を渡れないと聞いた秀郷は、大蛇の背中を踏みつけて橋を渡りました。その日の夜、秀郷のもとに一人の若い娘が訪れました。「我は琵琶湖に住む龍神の化身なり、公程の豪勇の方を見たことがありません。できれば私たちを苦しめている三上山に住む大ムカデを退治してはくれまいか?」との言葉に二つ返事で応じた秀郷は、三上山を訪れムカデ狩りに挑みます。しかし手強い、1本、2本と放った矢は弾き返されてしまいました。さあ残り1本…、ここで秀郷、乙姫に聞いた「ムカデは人の唾を嫌う」ことを思い出し、「南無八幡大菩薩」と念仏を唱え、ムカデの弱点左眼を見事射抜くここに成功した。それを喜んだ龍神から、とめどなくものが得られる「俵」、「布」や、「鐘」(三井の晩鐘)等色々なものを得て繁栄を保ちました。という感じでまとめましたが、実はこの大ムカデは、当時朝敵だった「平将門」の兵の多さを揶揄したものだと言われています。また「乙姫」は将門の妾で、弱点を聞いていたからこそ誅することができたとも言われています。平安中期に突如降りかかってきた東国の乱「平将門」の乱に、平和慣れしている「朱雀帝」が膨大な褒美と官位を与える代わりに「貴族」ではなく「武士」にさせたことからも当時の混乱が目に浮かびます。
朝敵「平将門」を誅したという大手柄をあげたにも関わらず、その後の歴史から名前が消えてしまいます。なので余計に「華やかな」話が伝わって行くのかも知れませんね…。

という感じで参ってきました。次はちょっと被りますが、「近江一之宮建部大社」へと向かいます。こちらは前回に行きましたが、「紅葉」の様子を知りたく行ってみました。とはいえ先週のこと…あまり変わってはいないみたいです。おまけにパラパラと雨が降ってきたので、とりあえず戻る方向へと歩きます。

大鳥居をくぐり、バス通りを歩きます。神領交差点、ここは「名神瀬田西IC」ができたときに変形複合交差点になっています。右手に進む道は国道1号線草津方面に向かう道になりますが、ここで斜め右前に見えている「辻末製菓舗」、和菓子も有名ですが、なにより県外の方には「たにし飴」で有名だと思います。まああえて「たにし飴」を買ってみます。

しばらく西進すると「唐橋東詰」の交差点に着きます。「瀬田唐橋」を渡ると駅へと向かう
バスもあるのですが、雨も止んだようなのでもう一ヶ所寄ることにします。「唐橋東詰」を南進し、最初のヘアピンカーブが終わった場所こそが「瀬田城址」になります。

この瀬田城ですが、山岡城とも呼ばれています。永享元年と言うと1430年に山岡信濃守景房が築き、九代後の美作守景隆までが暮らしていたそうです。最初近江守護佐々木六角氏に仕えるも後に織田信長に投降、三万石の大名になる。天正三年(1575)七月瀬田唐橋架橋奉行になり唐橋を再建するも、天正十年(1582)六月の本能寺の変で信長が没した後、明智光秀の誘いを断り、瀬田唐橋を焼いて光秀の安土攻めに抵抗した。その際堺で光秀の乱を聞いた徳川家康が、宇治・田上・信楽郷へと逃げ延びる際に、土寇(地元民の一揆)に出会うも山岡景隆がそれを討ち助けたそうです。約150年続いた瀬田城を瀬田唐橋共々焼き払い、家康の退路を開けてそのまま故郷の甲賀へと戻った景隆はどのような気持ちで火をかけたのか、今では想像の域で考えるしかないようです。

その後瀬田城は復興されることもなく廃城になりました。しかし徳川の世となり、瀬田唐橋が直轄領になって、膳所城に譜代大名の本多氏が入ることになった時、この景隆の忠義を龍安寺の天寧和尚が偲びかつ伝えるために本多氏に瀬田城址に「臨江庵」を建てるよう進言しました。今はもう石碑が残るのみで、何の関係があるのかわからないマンションが建っています。当時を思うものはなにもありませんが、この風光明媚な「瀬田唐橋」を作った一大名の歴史に思いを馳せるのも良いかも知れません。

今日の目的地をすべて回りました。あとは帰るだけですが、この「瀬田」という場所は私の住む「石山」とは瀬田川を挟んだ向かいの位置にあります。地元民の散歩ってそういうところはあると思いますが、意外と来ることは少ないです。また来ても「車」を利用することがほとんどで「歩いた」記憶がありません。なので今日はそのまま「瀬田川」沿いに南下して歩いて行きます。この区間は「帝産湖南交通」というバスが走っています。「橋本」バス停が「瀬田唐橋」最寄なのでそこから5つ目の「西武園入口」バス停を過ぎると目の前に大きな「コンクリートの橋」が見えてきます。これが「京滋バイパスとその側道」になりますが、それを渡ります。車だと橋の上まで登らないといけませんが、歩きだとチョコチョコっと階段を昇ると結構すぐ上がれます。バイパスの側道はとても橋上で停まることはできませんが、歩きだとのんびり風景を楽しめます。なので今日のラストショット、「瀬田川の流れ」をカメラに収めて今日の旅の締めくくりにします。そこからだと約30分で自宅に到着しますが、着くといつも気になる「翌々日の筋肉痛」、今回も恐怖に怯えながらの旅行記を書いています(泣)。

これで「淡海を歩く旅その弐の③~瀬田唐橋・その周辺史跡~」を終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • JR石山駅のレンタサイクル&quot;駅リンくん&quot;。改札を出て左に出て、すぐのエスカレーターを下りたところで右後ろを振り返って下さい。喫煙コーナーの奥にあります。<br /><br />1日310円で借りられるので便利です♪

    JR石山駅のレンタサイクル"駅リンくん"。改札を出て左に出て、すぐのエスカレーターを下りたところで右後ろを振り返って下さい。喫煙コーナーの奥にあります。

    1日310円で借りられるので便利です♪

    石山駅

  • 国道ガード下にある「大倉たこやき店」。

    国道ガード下にある「大倉たこやき店」。

    大倉たこやき店 グルメ・レストラン

  • たこ焼き13個&quot;200円&quot;也。

    たこ焼き13個"200円"也。

    大倉たこやき店 グルメ・レストラン

  • 【資料用】<br /><br />明治天皇鳥居川御小休所。2010年頃のものだったと思います。建物はありましたが「石碑」が撤去されていました。

    【資料用】

    明治天皇鳥居川御小休所。2010年頃のものだったと思います。建物はありましたが「石碑」が撤去されていました。

    唐橋前駅

  • 近江牛の「松喜屋」さんです。今回は通過します。

    近江牛の「松喜屋」さんです。今回は通過します。

  • 京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅。

    京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅。

  • 京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅。

    京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅。

  • 〜湖かけて舟ちらばれる瀬田涼し〜<br /><br />久米幸叢の句碑。

    〜湖かけて舟ちらばれる瀬田涼し〜

    久米幸叢の句碑。

    あみ定 グルメ・レストラン

  • 〜瀬田蜆 藤咲きしかば うまからむ〜<br /><br />西沢十七星の歌碑。

    〜瀬田蜆 藤咲きしかば うまからむ〜

    西沢十七星の歌碑。

    あみ定 グルメ・レストラン

  • 水難供養地蔵尊。<br /><br />いにしえより交通の要所だったゆえ、川を渡る祭に亡くなられた方も多いと思います。「水難供養」を限定してあるため、古来の戦によるものではないように思います。

    水難供養地蔵尊。

    いにしえより交通の要所だったゆえ、川を渡る祭に亡くなられた方も多いと思います。「水難供養」を限定してあるため、古来の戦によるものではないように思います。

    あみ定 グルメ・レストラン

  • 明治天皇御聖蹟。<br /><br />石山駅から商店街を通り抜ける際、鳥居川交差点手前に「明治天皇鳥居川御小休所」があります。数年前は「石碑」確認できましたが、今回石碑がなくなっていることに気付きました。建物自体はありましたが、なにか理由があったのでしょうか…。

    明治天皇御聖蹟。

    石山駅から商店街を通り抜ける際、鳥居川交差点手前に「明治天皇鳥居川御小休所」があります。数年前は「石碑」確認できましたが、今回石碑がなくなっていることに気付きました。建物自体はありましたが、なにか理由があったのでしょうか…。

    あみ定 グルメ・レストラン

  • 俵藤太秀郷の陶像。<br /><br />信楽焼のもので昭和54年の唐橋架け替え工事の記念に作られたものだそうです。

    イチオシ

    地図を見る

    俵藤太秀郷の陶像。

    信楽焼のもので昭和54年の唐橋架け替え工事の記念に作られたものだそうです。

    あみ定 グルメ・レストラン

  • 瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治<br /><br />豪傑の誉れ高き秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。<br /><br />大津市 古都指定都市制定記念 大津東ロータリークラブ<br /><br />(これはアープしが側にあるものです)

    瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治

    豪傑の誉れ高き秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。

    大津市 古都指定都市制定記念 大津東ロータリークラブ

    (これはアープしが側にあるものです)

    ホテル アーブしが 宿・ホテル

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  • 俵藤太秀郷公。<br /><br />瀬田唐橋東岸にあります。

    俵藤太秀郷公。

    瀬田唐橋東岸にあります。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 先程の図をアップにします。<br /><br />これも俵藤太秀郷公です。

    先程の図をアップにします。

    これも俵藤太秀郷公です。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)宮・浄土宗龍光山雲住寺の石碑と地蔵堂。

    跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)宮・浄土宗龍光山雲住寺の石碑と地蔵堂。

    地蔵堂 名所・史跡

  • ベタですが&quot;日本三大名橋瀬田唐橋&quot;の碑。

    ベタですが"日本三大名橋瀬田唐橋"の碑。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 俵藤太百足退治伝承の地(前出の「日本三大名橋瀬田唐橋の碑」の裏面)<br /><br />この地は平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)が百足を退治したというところです。<br /> 藤太は承平年間(931〜938)、瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁(竜神)の願いを聞き入れ、瀬田橋から三上山に住む大百足を、弓で見事退治した伝承は良く知られています。<br /><br />平成九年四月二十六日建立<br /><br />龍光山 雲住寺<br />第廿五世<br />井野泰雄謹書<br />

    俵藤太百足退治伝承の地(前出の「日本三大名橋瀬田唐橋の碑」の裏面)

    この地は平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)が百足を退治したというところです。
     藤太は承平年間(931〜938)、瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁(竜神)の願いを聞き入れ、瀬田橋から三上山に住む大百足を、弓で見事退治した伝承は良く知られています。

    平成九年四月二十六日建立

    龍光山 雲住寺
    第廿五世
    井野泰雄謹書

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 俵藤太秀郷「ムカデ退治」伝説の絵。<br /><br />こちらは「老翁」が描かれています。<br /><br />瀬田唐橋にて。

    俵藤太秀郷「ムカデ退治」伝説の絵。

    こちらは「老翁」が描かれています。

    瀬田唐橋にて。

  • 勢多橋を制するものは、天下を制す。<br /><br />京の都にほど近い瀬田唐橋は、今も昔も変わらない交通の要所であるがため、戦乱の時代には、軍事・政略的な兵火によりいく度となく焼き払われましたが、その度に架橋工事が行われて現在に至っています。

    勢多橋を制するものは、天下を制す。

    京の都にほど近い瀬田唐橋は、今も昔も変わらない交通の要所であるがため、戦乱の時代には、軍事・政略的な兵火によりいく度となく焼き払われましたが、その度に架橋工事が行われて現在に至っています。

  • おやおや…今回も一番丸に遭遇しました。

    おやおや…今回も一番丸に遭遇しました。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • さすがに下りは楽と見えます♪

    さすがに下りは楽と見えます♪

    瀬田川 琵琶湖リバークルーズ 乗り物

  • 日本名社勢多橋龍宮神社の石灯籠。

    日本名社勢多橋龍宮神社の石灯籠。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 瀬田唐橋架橋略歴 将人調<br />1、天文14年(1545)2月吉日竣工 橋下に石仏安置?<br />   施主 近江守護佐々木定頼 奉行山岡瀬田城主<br />2、天正3年(1575)10月12日竣工 90日の突貫工事<br />   施主 織田信長 奉行瀬田城主山岡景隆、木村次郎左エ門<br />3、天正11年(1583)施主 豊臣秀吉 詳細不明<br />4、元和2年(1616)施主 戸田氏鉄 詳細不明<br />5、寛永7年(1630)12月吉日竣工 城主菅沼定芳<br />6、正保年間(1644-1647) 城主石川忠総 不詳<br />7、寛文2年(1662)4月13日竣工 城主本多俊次 奉行足立作左エ門、山川伝右エ門<br />8、延宝5年(1677)11月26日竣工 城主本多康将 奉行浅井弥一右エ門、寺元作右エ門等<br />9、元禄7年(1694)7月1日竣工 城主本多康慶<br />10、正徳元年(1711)6月23日竣工 城主本多康慶<br />11、享保12年(1727)8月14日竣工 城主本多康敏<br />12、寛保2年(1742)9月吉日竣工 城主本多康敏<br />13、宝暦7年(1757)11月吉日竣工 城主本多康桓<br />14、明和9年(1772)2月吉日竣工 城主本多康匡<br />15、寛政5年(1793)8月吉日竣工 城主本多康完<br />16、文化元年(1804)12月吉日竣工 城主本多康完<br />17、文化12年(1815)4月吉日竣工 城主本多康禎<br />18、文政13年(1830)8月吉日竣工 城主本多康禎<br />19、弘化4年(1847)1月吉日竣工 城主本多康禎<br />20、文久元年(1861)4月19日竣工 城主本多康穣<br />21、明治9年(1876)1月9日竣工 権令篭手田安定<br />22、明治28年(1895)3月1日竣工 知事大越亨<br />23、大正13年(1924)7月8日竣工 知事末松偕一郎<br />  従来の木橋を鉄筋コンクリート製、欄干と橋板は檜材使用<br />24、昭和54年(1979)7月23日竣工 知事武村正義<br />

    瀬田唐橋架橋略歴 将人調
    1、天文14年(1545)2月吉日竣工 橋下に石仏安置?
    施主 近江守護佐々木定頼 奉行山岡瀬田城主
    2、天正3年(1575)10月12日竣工 90日の突貫工事
    施主 織田信長 奉行瀬田城主山岡景隆、木村次郎左エ門
    3、天正11年(1583)施主 豊臣秀吉 詳細不明
    4、元和2年(1616)施主 戸田氏鉄 詳細不明
    5、寛永7年(1630)12月吉日竣工 城主菅沼定芳
    6、正保年間(1644-1647) 城主石川忠総 不詳
    7、寛文2年(1662)4月13日竣工 城主本多俊次 奉行足立作左エ門、山川伝右エ門
    8、延宝5年(1677)11月26日竣工 城主本多康将 奉行浅井弥一右エ門、寺元作右エ門等
    9、元禄7年(1694)7月1日竣工 城主本多康慶
    10、正徳元年(1711)6月23日竣工 城主本多康慶
    11、享保12年(1727)8月14日竣工 城主本多康敏
    12、寛保2年(1742)9月吉日竣工 城主本多康敏
    13、宝暦7年(1757)11月吉日竣工 城主本多康桓
    14、明和9年(1772)2月吉日竣工 城主本多康匡
    15、寛政5年(1793)8月吉日竣工 城主本多康完
    16、文化元年(1804)12月吉日竣工 城主本多康完
    17、文化12年(1815)4月吉日竣工 城主本多康禎
    18、文政13年(1830)8月吉日竣工 城主本多康禎
    19、弘化4年(1847)1月吉日竣工 城主本多康禎
    20、文久元年(1861)4月19日竣工 城主本多康穣
    21、明治9年(1876)1月9日竣工 権令篭手田安定
    22、明治28年(1895)3月1日竣工 知事大越亨
    23、大正13年(1924)7月8日竣工 知事末松偕一郎
      従来の木橋を鉄筋コンクリート製、欄干と橋板は檜材使用
    24、昭和54年(1979)7月23日竣工 知事武村正義

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 橋守地蔵尊。<br />

    橋守地蔵尊。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 橋守地蔵縁起<br /><br /> 御本尊は、昭和五十一年一月二十六日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏でありまして、同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って出てきました。<br /> 高さ三十八糎、彫の深い立派な石仏で、専門家の鑑定によると、室町末期(約四百数十年前)の作で、腕の良い石工が彫った珍しい石仏だそうであります。何時、誰が、何のために唐橋の下に安置したものか知る由もないが、四百年以上も川底で、唐橋を守りつづけて来られた石仏であります。<br /> 唐橋下より何か出現されると予言していた霊能者によると、この石仏は実は霊験灼然な薬師如来である、橋守社のところへ唐橋の中央に向け小堂を建て、祀ってあげるとよいというので<br />、県当局にその旨を述べ、一般の人々に解り易く親しみ易いよう通称を、橋守地蔵としてお祀りすることになりました。<br /> よって有志相謀りこの地に地蔵堂を建立し、唐橋下より出現の二十六日を縁日としてお祀り申し上げ、永く唐橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願し、茲にその縁起を記し掲げる次第であります。<br /><br />昭和五十一年九月二十六日<br /><br />有志一同建立 将人謹記

    橋守地蔵縁起

     御本尊は、昭和五十一年一月二十六日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏でありまして、同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って出てきました。
     高さ三十八糎、彫の深い立派な石仏で、専門家の鑑定によると、室町末期(約四百数十年前)の作で、腕の良い石工が彫った珍しい石仏だそうであります。何時、誰が、何のために唐橋の下に安置したものか知る由もないが、四百年以上も川底で、唐橋を守りつづけて来られた石仏であります。
     唐橋下より何か出現されると予言していた霊能者によると、この石仏は実は霊験灼然な薬師如来である、橋守社のところへ唐橋の中央に向け小堂を建て、祀ってあげるとよいというので
    、県当局にその旨を述べ、一般の人々に解り易く親しみ易いよう通称を、橋守地蔵としてお祀りすることになりました。
     よって有志相謀りこの地に地蔵堂を建立し、唐橋下より出現の二十六日を縁日としてお祀り申し上げ、永く唐橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願し、茲にその縁起を記し掲げる次第であります。

    昭和五十一年九月二十六日

    有志一同建立 将人謹記

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 龍宮神社(龍王宮秀郷社)へと入って行きます。

    龍宮神社(龍王宮秀郷社)へと入って行きます。

  • 本殿前の屋形です。

    本殿前の屋形です。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 右側が龍王宮です。

    右側が龍王宮です。

  • 左側が秀郷社です。

    左側が秀郷社です。

  • 向かって右が、瀬田橋の龍神を祀った「龍王宮」。向かって左が、俵藤太を祀った「秀郷社」です。(見辛いですが・・・)

    向かって右が、瀬田橋の龍神を祀った「龍王宮」。向かって左が、俵藤太を祀った「秀郷社」です。(見辛いですが・・・)

  • 龍宮神社と読んで良いのでしょうか…。<br /><br />明治三十七年の文字がありますが実は…。

    龍宮神社と読んで良いのでしょうか…。

    明治三十七年の文字がありますが実は…。

    瀬田の唐橋 名所・史跡

  • 横になっていた石碑でした。

    横になっていた石碑でした。

  • 本殿前に掲げてあった「勢田龍王宮秀郷社」の案内。<br /><br />「そのモノ」を写真で撮ったら反射して見辛いため、建部大社にあった「同じモノ」の看板を載せています。

    本殿前に掲げてあった「勢田龍王宮秀郷社」の案内。

    「そのモノ」を写真で撮ったら反射して見辛いため、建部大社にあった「同じモノ」の看板を載せています。

  • 本殿前に掲げてある、俵藤太秀郷「大百足退治絵巻」。<br /><br />龍宮が「娘」になっていることは「近江風土記」由来ですね。

    本殿前に掲げてある、俵藤太秀郷「大百足退治絵巻」。

    龍宮が「娘」になっていることは「近江風土記」由来ですね。

  • 俵藤太秀郷「ムカデ退治」伝説の絵。<br /><br />こちらは「老翁」が描かれています。<br /><br />瀬田唐橋にて。

    俵藤太秀郷「ムカデ退治」伝説の絵。

    こちらは「老翁」が描かれています。

    瀬田唐橋にて。

  • 瀬田川唐橋鎮守 龍王宮 秀郷社<br />祭り神 大神霊龍王 藤原秀郷公<br /><br />勢多之唐橋 龍宮<br /> 古来瀬田川には竜神が御座ると言はれて、昔は橋を社とした。唐橋中央に特殊な橋クイが打ち込んであって、これを龍神の御霊代とし舟はこの神座を通るのをおそれた。<br /><br /> 湖窄山手水也流 長橋千尺足驚き目<br /> 行舟不許橋柱触 桑艫自在過龍腹  祝星般<br /><br />唐橋は神橋の転化である。<br /><br /> 西暦千四百四十年頃、佐々木近江守が螢谷に在った橋を、現在の処へ架替えた時、工事中水底の龍神を遷座する権殿として此の社が設けられた。<br /> 以来幾度か橋架え大修理の都度、龍神を権殿が遷座する慣例が行はれた。<br />時代の推移はいつしか権殿が本宮になった。<br /><br />秀郷社<br />藤原秀郷公を祀る。創祀年代明らかならず。元是より東南数丁字舎人どうに在りたるを、寛永十年蒲生忠知、龍宮の傍らに移すとある。<br /><br />百足退治の伝説<br />秀郷、京都府宇治田原郷に住し、俵藤太と称す。天資剛勇にして弓術に長す。鎮守将軍藤原秀郷公、勢多橋を過るとき橋上に大蛇横たわる、公恐れず跨ぎ通る。暫し行きたるところ呼び止る者あり、青衣着せたる女人「我れは勢田橋水底に棲む龍神である。大蛇の姿になり橋上に横臥せり、未だ御仁ほど豪勇の人を見ず<br />年来我に仇する馬蚿(ムカデ)あり、願わくば我が為に寇を討て」、秀郷諾し相共に橋へ戻る。<br /> 日没し東方より、巨大な両眼を光らせ百足山(三上山)を七巻半する巨蜈蚣(大ムカデ)迫り来る、公一矢二矢更に効なし、ムカデは人のツバキをきらうと云う、三射目の矢尻に唾液を附して左眼を射抜き之を射せり。龍神大いに喜び、公に砂金俵、巻絹、鐘、種々宝物を賜う、秀郷衣裳身に余り財宝庫に満ちたり。これが広く人口に謳はれた伝説である。<br /><br />聞説江州百足山 勢田橋龍宮乙姫<br />秀郷俵氏今何在 風物依然八景宵  坂根松濤<br /><br />伝説の真意<br />朱雀天皇承平十五年(西暦九三五年)将門の反乱。平将門が関東八州を七州半まで侵し、百官具足ムカデの足ほどの多くの軍勢を引きつれ、都(京都)へ攻め上らんとする。秀郷朝命に依り是を討伐、将門の左眼を射抜き誅せり。<br /> これ勢多橋龍神の冥祐加護に困ると畏こみ、朝廷より当龍神に貢物を献ぜられたることは古歌に記されてある。<br /><br />貢物たえず供へる東路の 勢田之長はし音もとどろに   平兼盛<br />栗もとや勢多乃橋桁たゆむまで 運びつづけむ貢ものかな  元輔<br />東路や日つぎの貢たやさじと 雪ふみわけれ勢多之長橋   長秋詠藻<br /><br />滋賀県大津市瀬田二丁目一−九<br />勢田橋龍宮秀郷社<br />

    瀬田川唐橋鎮守 龍王宮 秀郷社
    祭り神 大神霊龍王 藤原秀郷公

    勢多之唐橋 龍宮
    古来瀬田川には竜神が御座ると言はれて、昔は橋を社とした。唐橋中央に特殊な橋クイが打ち込んであって、これを龍神の御霊代とし舟はこの神座を通るのをおそれた。

    湖窄山手水也流 長橋千尺足驚き目
    行舟不許橋柱触 桑艫自在過龍腹 祝星般

    唐橋は神橋の転化である。

    西暦千四百四十年頃、佐々木近江守が螢谷に在った橋を、現在の処へ架替えた時、工事中水底の龍神を遷座する権殿として此の社が設けられた。
    以来幾度か橋架え大修理の都度、龍神を権殿が遷座する慣例が行はれた。
    時代の推移はいつしか権殿が本宮になった。

    秀郷社
    藤原秀郷公を祀る。創祀年代明らかならず。元是より東南数丁字舎人どうに在りたるを、寛永十年蒲生忠知、龍宮の傍らに移すとある。

    百足退治の伝説
    秀郷、京都府宇治田原郷に住し、俵藤太と称す。天資剛勇にして弓術に長す。鎮守将軍藤原秀郷公、勢多橋を過るとき橋上に大蛇横たわる、公恐れず跨ぎ通る。暫し行きたるところ呼び止る者あり、青衣着せたる女人「我れは勢田橋水底に棲む龍神である。大蛇の姿になり橋上に横臥せり、未だ御仁ほど豪勇の人を見ず
    年来我に仇する馬蚿(ムカデ)あり、願わくば我が為に寇を討て」、秀郷諾し相共に橋へ戻る。
    日没し東方より、巨大な両眼を光らせ百足山(三上山)を七巻半する巨蜈蚣(大ムカデ)迫り来る、公一矢二矢更に効なし、ムカデは人のツバキをきらうと云う、三射目の矢尻に唾液を附して左眼を射抜き之を射せり。龍神大いに喜び、公に砂金俵、巻絹、鐘、種々宝物を賜う、秀郷衣裳身に余り財宝庫に満ちたり。これが広く人口に謳はれた伝説である。

    聞説江州百足山 勢田橋龍宮乙姫
    秀郷俵氏今何在 風物依然八景宵 坂根松濤

    伝説の真意
    朱雀天皇承平十五年(西暦九三五年)将門の反乱。平将門が関東八州を七州半まで侵し、百官具足ムカデの足ほどの多くの軍勢を引きつれ、都(京都)へ攻め上らんとする。秀郷朝命に依り是を討伐、将門の左眼を射抜き誅せり。
    これ勢多橋龍神の冥祐加護に困ると畏こみ、朝廷より当龍神に貢物を献ぜられたることは古歌に記されてある。

    貢物たえず供へる東路の 勢田之長はし音もとどろに 平兼盛
    栗もとや勢多乃橋桁たゆむまで 運びつづけむ貢ものかな 元輔
    東路や日つぎの貢たやさじと 雪ふみわけれ勢多之長橋 長秋詠藻

    滋賀県大津市瀬田二丁目一−九
    勢田橋龍宮秀郷社

  • 境内の摂末社・金比羅社。

    境内の摂末社・金比羅社。

  • そして建部大社へとやってきます。

    そして建部大社へとやってきます。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 【資料用】<br />近江国一之宮建部大社にあった「龍王宮秀郷社」の紹介板。

    【資料用】
    近江国一之宮建部大社にあった「龍王宮秀郷社」の紹介板。

    建部大社 寺・神社・教会

  • たにし飴で有名な「辻末製菓舗」さんです。

    たにし飴で有名な「辻末製菓舗」さんです。

    辻末製菓舗 グルメ・レストラン

  • 唐橋東詰を下流方向へ少し南下したところにある「勢田城址」。<br /><br />行かれる方にご注意です。見通しのきかない場所にありますので、見学時には気をつけて下さい。

    唐橋東詰を下流方向へ少し南下したところにある「勢田城址」。

    行かれる方にご注意です。見通しのきかない場所にありますので、見学時には気をつけて下さい。

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 瀬田城址の碑。

    瀬田城址の碑。

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 教育委員会あたりが出している謂れのように思いますが、せっかくなら読めるようにして欲しい。<br /><br />瀬田城跡には臨湖庵という料亭が建っていたが、2008年に近江・臨湖庵と名付けられた高層のマンションが建てられた。

    教育委員会あたりが出している謂れのように思いますが、せっかくなら読めるようにして欲しい。

    瀬田城跡には臨湖庵という料亭が建っていたが、2008年に近江・臨湖庵と名付けられた高層のマンションが建てられた。

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 地蔵さま。

    地蔵さま。

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 地蔵さまの後ろには…。

    地蔵さまの後ろには…。

    瀬田城跡 名所・史跡

  • この石組みは城跡と取って良いのでしょうか?

    この石組みは城跡と取って良いのでしょうか?

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 勢多城の謂れ。<br /><br />勢多城は山岡城とも呼び建武中永享元年山岡信濃守景房が築く後に三井寺を築き光浄院に葬るその後九代の裔美作守景隆に至る世々勢多に住す 景隆織田信長に仕え三万石を領す天正十年明智光秀信長を本能寺に弑し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立て勧告す景隆固く義を執りて応ぜず橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶つ光秀大いに困む時に徳川家康堺の浦にて光秀の乱を聞き東に帰る途通せず宇治より間道を経て勢田に至る景隆弟景祐を共に前導して田上山より信楽郷に達せしも土寇ありて路を遮る景隆之を討ち破り徳川の安路を計る後に宝暦九年龍安寺西源院天寧和尚は隠れたる忠議の勢多城最後の城主従五位下山岡美作守景隆を偲び膳所城主本多下総守安恒に進言す安恒勢多城跡に一守を建て臨江庵と命名す現在の臨江庵之なり茲に遠祖の功業を偲び山岡氏一族の碑を建立す<br /><br />昭和四十年十月十七日 駒井鳴水謹書<br />

    勢多城の謂れ。

    勢多城は山岡城とも呼び建武中永享元年山岡信濃守景房が築く後に三井寺を築き光浄院に葬るその後九代の裔美作守景隆に至る世々勢多に住す 景隆織田信長に仕え三万石を領す天正十年明智光秀信長を本能寺に弑し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立て勧告す景隆固く義を執りて応ぜず橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶つ光秀大いに困む時に徳川家康堺の浦にて光秀の乱を聞き東に帰る途通せず宇治より間道を経て勢田に至る景隆弟景祐を共に前導して田上山より信楽郷に達せしも土寇ありて路を遮る景隆之を討ち破り徳川の安路を計る後に宝暦九年龍安寺西源院天寧和尚は隠れたる忠議の勢多城最後の城主従五位下山岡美作守景隆を偲び膳所城主本多下総守安恒に進言す安恒勢多城跡に一守を建て臨江庵と命名す現在の臨江庵之なり茲に遠祖の功業を偲び山岡氏一族の碑を建立す

    昭和四十年十月十七日 駒井鳴水謹書

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 【資料用】<br /><br />在りし日の料亭「臨江庵」。<br /><br />2005年のものだそうです。そんな前になるのか・・・。

    【資料用】

    在りし日の料亭「臨江庵」。

    2005年のものだそうです。そんな前になるのか・・・。

    瀬田城跡 名所・史跡

  • 京滋バイパスの側道から見た瀬田川下流方向です。

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    京滋バイパスの側道から見た瀬田川下流方向です。

    石山寺 寺・神社・教会

  • アミンチュ=あみんちゅ=淡海人とは・・・、<br /><br />地元テレビ、BBCびわ湖放送の番組タイトルで、淡海(おうみ)の国に住む人のことです。古事記の時代、琵琶湖とその周りの地域は「淡海」と呼ばれていました。あわあわとしたうみのそばでのんびり暮らしていて、やさしくて、どこかかわいらしい、そんな滋賀県のひとをイメージしたことばです(番組HPより抜粋)。<br /><br />ちなみに私は一応出身は京都です♪<br /><br />今回からサブタイトルとして用いたきっかけは、ももであさんから頂いたこの情報をきっかけにしております。<br />http://4travel.jp/travelogue/10717156<br />http://4travel.jp/travelogue/10663257

    アミンチュ=あみんちゅ=淡海人とは・・・、

    地元テレビ、BBCびわ湖放送の番組タイトルで、淡海(おうみ)の国に住む人のことです。古事記の時代、琵琶湖とその周りの地域は「淡海」と呼ばれていました。あわあわとしたうみのそばでのんびり暮らしていて、やさしくて、どこかかわいらしい、そんな滋賀県のひとをイメージしたことばです(番組HPより抜粋)。

    ちなみに私は一応出身は京都です♪

    今回からサブタイトルとして用いたきっかけは、ももであさんから頂いたこの情報をきっかけにしております。
    http://4travel.jp/travelogue/10717156
    http://4travel.jp/travelogue/10663257

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  • わんぱく大将さん 2014/11/10 09:38:33
    石碑も

    石碑、倒れてる? いや、立ちっぱなしやったらやっぱり疲れるんでしょうね。寝てはりますわ。

    なに?! 13個もあって200円のたこ焼き?? タコが小さいんかも。

     大将

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん からの返信 2014/11/10 11:07:35
    RE: 石碑も
    こんにちは。

    > 石碑、倒れてる?
    そ〜ですね…、100年以上も経っていると「石」とは言え疲れちゃうんでしょうかね(笑)。でもでも…「神社仏閣」の石碑というと石碑って「名札」みたいなものと思っていたので、さすがに「横になっている」姿は不思議に思ってしまいました♪

    > なに?! 13個もあって200円のたこ焼き?? タコが小さいんかも。
    いえいえ、「小さなタコ」が入っているなら、普通のたこ焼きですね。この「大蔵たこやき店」のたこ焼きは「タコ」が入っていないものがあったりします。中学の頃から行っているお店ですが、当時から「タコ」の入っていない「たこ焼き」を探して「当たり」なんて言っていましたから(爆)。今でも「当たり」を見つけるとついつい「うれしく」なってしまうのはなんでしょうね〜!

    ちなみに我が街「石山」の駅チカには「たこ焼き」店が2店舗あります。この「大蔵たこやき店」と平和堂内の「カリカリ博士」と。大蔵たこやき店は「8個(100円)」から、カリカリ博士は「6個(160円)」で味わえるので小腹が空いた時には時には結構利用しています。あ、ちなみに「カリカリ」ではこの値段では買いません、5時になるとタイムバーゲンで「6個(110円)」になるのを待っています♪

    ちなみに昨日7時頃逝ったら、2つで「200円」にしてくれました。おまけに「7個」入っていたりして(笑)。

    わんぱく大将

    わんぱく大将さん からの返信 2014/11/14 02:37:45
    RE: RE: 石碑も
    > こんにちは。
    >
    > > 石碑、倒れてる?
    > そ〜ですね…、100年以上も経っていると「石」とは言え疲れちゃうんでしょうかね(笑)。でもでも…「神社仏閣」の石碑というと石碑って「名札」みたいなものと思っていたので、さすがに「横になっている」姿は不思議に思ってしまいました♪
    >
    > > なに?! 13個もあって200円のたこ焼き?? タコが小さいんかも。
    > いえいえ、「小さなタコ」が入っているなら、普通のたこ焼きですね。この「大蔵たこやき店」のたこ焼きは「タコ」が入っていないものがあったりします。中学の頃から行っているお店ですが、当時から「タコ」の入っていない「たこ焼き」を探して「当たり」なんて言っていましたから(爆)。今でも「当たり」を見つけるとついつい「うれしく」なってしまうのはなんでしょうね〜!
    >
    > ちなみに我が街「石山」の駅チカには「たこ焼き」店が2店舗あります。この「大蔵たこやき店」と平和堂内の「カリカリ博士」と。大蔵たこやき店は「8個(100円)」から、カリカリ博士は「6個(160円)」で味わえるので小腹が空いた時には時には結構利用しています。あ、ちなみに「カリカリ」ではこの値段では買いません、5時になるとタイムバーゲンで「6個(110円)」になるのを待っています♪
    >
    > ちなみに昨日7時頃逝ったら、2つで「200円」にしてくれました。おまけに「7個」入っていたりして(笑)。


    あたりがでたら、もう1本っていうアイスもありましたが。 大将>
  • ホーミンさん 2014/11/08 21:46:47
    大倉さんのたこ焼き♪
    こんばんは〜。

    うぉぉ〜〜、(o^v^o)大倉さんだぁ〜。
    懐かしいよぉ。

    今も繁盛しているようでうれしいです。
    店構えが変わったし、改装されたんですね?
    今も良心的なお値段。
    おいしそうだわ〜。

    あみ定さんには行ったことがないんですよ。
    イオンモールからの帰りに、前はよく通るんですけどね。
    4頭身の俵藤太がいらっしゃるんですね。^m^

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん からの返信 2014/11/08 22:48:37
    RE: 大倉さんのたこ焼き♪
    こんばんは。

    さいですか〜、思い出深い大蔵さん。
    私が毎日のように行っていたころは、お世辞にもきれいとは言えないお店でしたが、さすがに時代の波には勝てなかったようで。

    確かおばあちゃんがせっせと作っておられた記憶があるのですが、今は息子さんがメインでやっておられるようでした。ただこの前行ったときには隣でしっかり教えておられるようでした♪

    よく「小麦粉焼き」と揶揄されますが、またそこが「大蔵たこ焼き店」の良いところのように思います。事実この前もひとつありましたよ(笑)。

    うちの職場は、大蔵さんの斜め向かいの古いスーパーですが、九月に社員食堂が撤退したので、昼御飯目当てに懐かしいお店を回っています♪

    実は私も「あみ定」敷地の藤太像のことは知りませんでした。瀬田唐橋周辺の名所を探したらでてきたって感じです。あみ定も昔は旅館もやっていましたが、今は料亭のみになっていました。それに敷地内には老人ホームができているのはやはり時代の流れかな〜って思います。

    イオンの帰りにちょっと左折して、藤太像眺めてやって下さいまし!viva 石山!(笑)

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

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