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瀬田唐橋であったご当地イベント「第二回瀬田川東西大綱引き大会」を観戦した後、最寄りの場所でこの綱引き大会の東軍本陣が置かれていた近江国一之宮建部大社へとやってきました。地元民ならではのフットワークの軽さは「撮りこぼし」があったとしても補うことはいとも簡単なため、「気楽に」ということでとにかく書きはじめてみます。こちらでは、”境内編”として、建部大社神門をくぐり、境内一周して神門を出るところまでを紹介しています。<br /><br />この記では、拙い文章にて「登場人物」を我流解釈にて紹介しております。あくまでも多数意見を元に作った「フィクション」なので「時代の流れの一解釈」としてご覧下さい。神話の時代を実際に目にすることはできない上、時系列は勿論実在かどうかもわかりません。またすべての逸話を見ているわけでもありませんので、こじつけて相関関係を合わせていることもあります。サラリと流し読んで頂けたらと思います。<br /><br /><br />2014年10月25日土曜日<br /><br />登場人物についての…我流解釈!&quot;It&#39;s showtime!!&quot;。<br />それではそれでは~…!!。<br /><br />日本武尊命(やまとたけるのみこと)【以下タケルと略します】<br />倭建命(やまとたけるのみこと)、日本童男・倭男具那命(やまとをぐなのみこと)ともいう。<br />(景行天皇2年~42年)(西暦72年~112年)<br />幼少は小碓尊命(おうすのみこと)と呼ばれていました。第12代景行(けいこう)天皇の第二皇子で、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の父君でもあります。御妃は近江国造の祖・意富多牟和気(おおたむわけ)の娘の布多遅比売(ふだじひめ)です。御子は犬上君・建部君の祖の稲依別王(いなよりわけのみこ)・足仲彦天皇(仲哀天皇)・布忍入比賣命(ぬのしいりひめのひめのみこと)・近江建部君の祖・宮道君等の祖とされる稚武彦王(わかたけひこのみこ)などがいます。<br /><br />幼少の頃より武芸達者だった小碓(おうす)は、父景行天皇が平定した九州で叛乱が起きたことで討伐を命じられます。熊襲建(くまそたける)・弟建(おとたける)兄弟を「美少女」に扮しこれを征伐しますが、その際弟建(おとたける)は「やまとをぐな」と名乗る小碓(おうす)の武勇を嘆賞し「やまとたける」の称号を譲ったとされています。このとき小碓(おうす)16才、日本武尊命(やまとたけるのみこと)と呼ばれる始まりです。<br /><br />九州征伐を終えたタケルに、景行天皇はすぐさま東征を命じました。その手荒い命令に納得のいかなかったところもあるのでしょうか・・・。タケルは東征の途中に叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王を勤める「伊勢神宮」を訪れます。そして倭姫命より「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれる)」と「火打具」を緊急時に使いなさいと授かります。そして駿河国に入ったタケルは、朝廷に属する気のない相武国造の騙し討ちに会い窮地に追い込まれます。そこで天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を払い、逆に火打具で向かい火を放って脱出しながらも相武国造を滅ぼしました。この舞台となった場所が静岡県「焼津(やいづ)」になります。また天叢雲剣が「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と銘を打たれる由来にもなっています。<br /><br />さらに進んで行くと、相模から上総に渡る際に海神「綿津見神(わたつみのかみ)」が波を起こしてタケル軍の船は進退窮まってしまいます。そこで后の弟橘比売(おとたちばなひめ:以下タチバナと略)が自ら犠牲になって入水すると、海は何もなかったかのように静かになりました。そして7日後タチバナの櫛が対岸に流れ着きます。自らを犠牲にしてタケルを助けたタチバナを想い、タケルはその地に御陵を造りタチバナを祀ります。これが橘樹(たちばな)神社の由来とされています。<br /><br />無事上総に上陸したあとまた海路を辿って陸奥(みちのく)に入り、蝦夷を征伐したタケルは、残る坂東(ばんどう)の東夷(あずまえびす)の征伐に向かうため、海路・陸路で向かいます。途中甲斐国酒折(さかおり:現山梨県甲府市)にて宴を催しました。その場所とされているところが酒折宮(さかおりのみや)とされています。ここでタケルがなにげに詠んだ歌に対し、仕えていた身分の低い従者が即座に答え、その頭の良さを褒め幾多の恩賞を授けたとされています。これが後々(連歌(れんが):別の人が続きを歌う方法)の発祥とされています。その後碓日坂(うすひざか・今の碓氷峠)を通ったとき、既に平定した眼下に広がる関東台地を眺めてタケルはため息をつきました。自らを犠牲にしてタケル一行を助けた后のタチバナのことを思い出して…。わがつま→我が妻→我妻→吾妻→東(あずま)となって、碓日坂より東の国を「吾妻の国」と呼ぶようになったそうです。それが発展し、東を「あずま」と読むようになったことを&quot;愛情&quot;と取りたいのは私だけでしょうか。<br /><br />その後タケルは家臣吉備武彦(きびのたけひこ)と軍を分けて進軍します。道のりでタケルは常人ならぬ動きで進んで行きますが、途中「山の神」が化身となって白鹿になり、タケル一行を苦しめようとします。それを退治したまでは良かったのですが、祟られてしまったか一行は道に迷って下山できなくなってしまいます。そこに現れたのが「白い犬」、近付きもせず逃げるわけでもないこの犬に、「付いて行くべし」とのタケルの判断は正しく無事下山した美濃国で吉備武彦達と合流します。ちなみに「づ」と「ず」の使い方ですが、wikipediaでは「づ」が使われていました。しかし現呼称に基づいて「ず」の方がしっくりくるので、ここではそちらを使っています。<br /><br />美濃から尾張に入ったタケルは、尾張国造の娘、美夜受比賣(みやすひめ:以下ミヤスと略)と結婚します。ここでタケルの後々が変わってしまったと言われることがおこります。実はミヤスは、娶られた時彼女は生理中だったそうです。その時代、生理中の女性は穢(けがれ)の状態になっていると判断されていたようですが、経血によって気付いたもののタケルは気にせず妻にしました。勿論今ではそのようなことをいう時代ではありませんが、時は神話の時代、「明らかに人間だとわかるミヤス」を抱いたことにより、タケルから神性霊的な力のようなものが奪われてしまったという話が多いのも確かです。なぜ神業的なことを続けていたタケルに、俗人間化するこの話が出てきているのかはわかりませんが、「神域」から「人域」になったタケルを更なる悲劇が待ち受けます。<br /><br />ミヤスと暮らす日々は余程居心地が良かったのでしょうか、タケルは長い期間尾張に滞在していました。そこに飛び込んできたのが「近江國五十葺山(いぶきやま=現在の伊吹山)の荒神(あれがみ)」の話でした。タケルは征伐をするため五十葺山(いぶきやま)に向かいます。さほど手強い相手だとは思わなかったのでしょうか…、草薙剣を持たず徒手空拳(としゅくうけん:素手の状態のこと)で向かいました。<br /><br />五十葺山に着いたタケルを、蜷局(とぐろ)を巻いた大蛇が待ち受けます。タケルはこれを「荒神の使い」だと思い、跨いで通ります。実はこの大蛇こそ実は「荒神の化身」そのものであり、タケルの振舞いに怒った荒神は天変地異を起こします。進路を断たれ衰弱するタケル一行でしたが、なんとかタケルの「神業」的な力で窮地を脱出します。しかし荒神の祟りにあい、意識がもうろうとしているタケルは、とりあえず山の麓の湧水を飲んで一旦は回復したように見えます。しかしときすでに遅し、タケルは病に侵されてしまっていました。ミヤスの待つ尾張へと行くのかと思いきや、ミヤスの待つところには戻らずそのまま故郷のヤマトへと向かったのでしょうか・・・。痛みが走る手足を使って能褒野(のぼの:今の三重県亀山市能褒野町付近)までやってきたタケルはついに力尽きました。享年三十二才。日本武尊命神話の主人公はこうして波乱の人生を終えました。<br /><br />家来の吉備武彦(きびのたけひこ)の奏上(そうじょう)でタケルの死を知った父景行天皇の嘆きは大変なものだったそうです。そして最後の地能褒野(のぼの)に陵を造りました。タケルを葬った後、御妃や御子がタケルを偲び「歌」を詠みます。するとタケルが「白鳥」になって大和の方角へと飛んできました。それを見ていた人々が棺を調べたところ、衣類のみ残されており、屍(遺体)はなかったそうです。その伝説はタケル最後の地に「白鳥陵」の伝説地が残されている話にも表れています。<br /><br />ちょっと脱線しますが、中学生だった頃の話です。多分何かの「本読み」をしていた時に、同級生が「にほんぶそんいのち」と読んだことがありました。先生もいたのかどうなのか覚えていませんが、当時「え?なんだって?」と思った記憶がありました。月日は流れ偶々旅行記を書いているとき、ふと目に入った「日本武尊命」の文字…、「あっ」と思いました。「これか…」って。ちなみに職場で「日本武尊命」の文字を読めたのはほとんどいませんでした。人によっては「倭建命」だとわかるのに…とは言っていましたが…。「知らぬが仏」ってことかも知れません。<br /><br /><br />天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)【以下アマテラスと略します】<br />天照大神(あまてらすおおみかみ)という方が有名ですが、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされています。天岩戸の神隠れで有名であり、史記によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされています。信仰の対象、土地の祭神とされる場所は伊勢神宮が特に有名です。国家安寧の神として伊勢大神宮の主祭神であり国民に多く知られている神で、広大無辺、天地に瑞光を与える神として信仰されている。<br /><br />大己貴命(大国主命)(おおなむちのみこと・おおくにぬしのみこと)<br />スサノオの七世の孫などとされている。スサノオの後に少名毘古那(すくなびこな:国造りの神とされています)と協力して天下を動かせて、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国(あしはらのなかつくに:今の日本のこと)の国作りを完成させます。しかし高天原のアマテラスからの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主・幽事の主催者となりました。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が約束したことにより、このときの名を杵築大神(つづきおおかみ)ともいいます。また「因幡の白うさぎ」伝説の主人公としても有名です。 <br />稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)伝説…大己貴命の兄弟(八十神)たちは、稲羽の八神比賣(やがみひめ)に求婚したいと思ったため、国を大国主に譲ってしまいました。そして八神比売(やがみひめ)に会うため稲羽(いなば)に向かいますが、その時八十神達は大己貴命に袋を持たせ、従者のように引き連れて行きます。<br /><br />「気多(けた:石川県羽咋市)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が苦しんでいました。ウサギは、隠岐の島から渡ってくるときに、ワニザメを騙して利用し、「毛を剥かれた」ことを八十神に言ったところ、「海に浸かってから、山の頂で強い風と日光に当たって横になっていれば良い」と言われそうしていると、当然のごとく水分が渇くにつれ表皮がわれてきます。その痛みに耐えきれず泣いていたところ、「大きな袋」を担いだオオクニヌシが現れ、「どうして泣いているのか?」と尋ねます。経緯を聞いたオオクニヌシは、ウサギに「池に浸かって体表を洗い、近くにある”ガマの穂”を敷いて転がって花粉を体表に付ければ治るだろう」と教えます。その通りにして回復したウサギは感謝の念を込めて、八十神には稲羽之八上比賣(いなばのやかみひめ)は靡きません。オオクニヌシ様、あなたを選ぶでしょうと言ったとか…。結果ウサギの言う通りになります。稲羽之八上比賣(いなばのやかみひめ)が「兎神(とじん)」と呼ばれる所以ですが、このウサギが八神比賣(やがみひめ)の「使い」だったのではないでしょうか…。<br /><br />大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主神(おおくにぬしのみこと)が「なぜ袋を持っているか」?またおおよそ「大己貴命(おおなむちのみこと)」は、ぽっちゃりした感じの「優しそうなおっちゃん」のイメージが強いのは、こんな話からもわかるような気がしますね。国譲りの話はともかく・・・。<br /><br />景行天皇(けいこうてんのう)<br />(垂仁17(紀元前13)年~景行60(西暦130)年11月7日)<br />第12代天皇(在位:景行元(西暦71)年7月11日~景行60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)でタケルの父君。<br />景行天皇の史記の多くがタケルの物語で占められているため、残るのは帝紀部分のみになるため史実性・実在性には疑問が持たれます。しかし実在を仮定すればその年代は4世紀前半かと考えられています。景行12(西暦82)年熊襲(くまそ)が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯比賣(かむなつそひめ)から4人の賊の情報「莵狭(うさ)の鼻垂(はなたり)」、「御木(みけ)の耳垂(みみたり)」、「高羽(たかは)の麻剥(あさはぎ)」、「緑野の土折猪折(つちおりいおり)」を得て誅殺しました。そして筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛(つちぐも:朝廷に従わない豪族たち)を誅して、11月ようやく日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18(西暦88)年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19(西暦89)年9月に還御した。25(西暦95)年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。この景行天皇の熊襲征伐はタケルの話と被ることが多く、同じことを言っているところもあります。ただそれは「神話の話」と流して頂きたいところではありますが…。<br /><br />播磨稲日大郎姫(はりまいなびのおおいらつめ)<br />(生年不詳~景行52(西暦122年)年5月4日)<br />第12代景行天皇の皇后。日本武尊(やまとたける)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢ともいう。<br /><br />布多遅比賣命(ふだじひめのみこと)<br />近江の安国造(やすのくにのみやつこ)の祖先の、意富多牟和気(おおたむわけ)の娘。<br />日本武尊との間の子が、建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)です。<br /><br />建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)<br />日本武尊の御子で、母親は布多遅比賣命(ふだじひめのみこと)。<br /><br />倭姫命(やまとひめのみこと)(生没年不明)<br />第11代垂仁天皇の第4皇女で母は皇后日葉酢比賣命。景行天皇とは異父兄弟です。第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の跡を継ぎ、神託により天照大神を伊勢の地に祀り、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建した皇女とされており、これ以降制度化されて後の斎宮となりました。後に東夷の討伐に向かう甥のタケルに草薙剣を与えています。伊勢の地に薨じ尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝えられています。<br /><br />弟橘比賣(おとたちばなひめ:以下タチバナと略)(生没年不詳)<br />穂積氏忍山宿禰の女(むすめ)だそうです。タケルとの間に稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)をもうける。タケルが相模から上総に海路で渡る際に、大言壮語して「こんな小さな海、一跨ぎで渡ることができよう」と言いました。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなくなりました。聞けば海神「綿津見神(わたつみのかみ)」の怒りに触れてしまったとのこと。これに気付いたタチバナが「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神の仕業ですから、賎しい私めがタケル様の身代りに海に入りましょう」と言ってすぐ波を押しわけ海に入られたところ、暴風はすぐに止み、船は無事接岸できました。時の人はその海を名づけて、馳水(はしるみず)と言ったそうです。<br />千葉県茂原市本納には玉浦に渡ったタケルが、橘の木をタチバナの墓標としたことを由来としている橘樹神社(たちばなじんじゃ)があります。また入水したタチバナの「櫛」が流れ着いた伝説の場所でもあります。この神社は唯一の正史に記されたタチバナを祀る神社であり、この神社の由緒には、タチバナがタケルに言い放ち入水して綿津見神(わたつみのかみ)にこの身を捧げることで、タケル一行は勿論のこと、今後の海上通行の平穏を祈願したことを記しています。また現在橘樹(たちばな)神社は海上の守護神と仰がれています。神奈川県川崎市にも「橘樹(たちばな)神社」がありますが、由来や御祭神を見る限り謂れは同じかと思います。<br /><br />東征の軍を率いて房総半島に渡ったタケル一行の行先はわかりませんが、陸路伝いにタケル伝説とタケルとタチバナを祭神とする神社が多く残っています。タケルは東征後、碓日坂から平定した眼下に広がる関東平野を眺め、タチバナを偲んで歌を詠みました。それが「我が妻」→「吾妻」→「東(あずま)」となって現在に至っていることは、神話の世界ゆえどこまで本当かは抜きにして胸が熱くなる話です。<br /><br />美夜受比賣(みやすひめ:以下ミヤスと略)<br />日本神話に登場する尾張国造の乎止与命(おとよのみこと)の娘。父の乎止与命(おとよのみこと)は天火明命(あまのほあかりのみこと)の子孫。タケル東征時に副将軍として仕え軍功をあげた建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹でもあります。タケルは東征の帰途尾張へ入り、東国へ向かう途中に婚姻の約束をしていた尾張氏の娘以下ミヤスを娶って滞在しました。その際タケルはミヤスの「月の障り(生理のこと)」をおして交わったと言います。<br />やがて近江国の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、草薙剣をミヤスの家に残し素手で退治に出かけました。しかし山道で神が大蛇に化して出現したのを無視したところ、神は氷を降らせてタケルを惑わせたそうです。このため意識が朦朧とした状態になったタケルは、山下の泉でようやく正気を取り戻しましたが、時既に病の身となっていた。そして尾張へと戻りますがミヤスの家には寄らず、そのままヤマトに向かったといいます。タケルが能褒野(のぼの)で亡くなると、タケルより預けられた草薙剣(三種の神器の一つ)を奉斎鎮守するために「熱田神宮(あつたじんぐう)」を建立したそうです。<br /><br />この東征出陣の途中であれば、タケルがミヤスと婚約した時に、タチバナは同行していたことになります。一夫多妻の時代ですが、他の女性との婚姻のことをタチバナはどのように感じたのでしょうか?それが歴史書からも抹消されてしまっていればそれだけで済んでしまうのかも知れません。しかしこのタチバナは焼津でタケルが相武国造に騙し討ちをされた窮地の状況で「自分の名前」名前を呼ばれたことを深く感謝していたようです。そして自ら海に身を投げタケルを助けます。そして東征が終わりに差し掛かった折、碓日坂より眺めた景色をみて詠んだ歌で、タケルが「我が妻」のことを偲んでいることから、深い愛情が二人の仲ではあった・・・あったのでは・・・あって欲しい・・・と思います。<br /><br />吉備臣武彦(きびのおみたけひこ)<br />神話の世界の武人。日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備臣武彦と大伴武日連が付けられたといいます。吉備臣武彦は途中で越国(北陸地方)視察のため派遣され、のちタケルと美濃で合流しました。その後タケルが病になると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされています。<br /><br />大伴連武日(おおとものたけひのむらじ)<br />神話の世界の武人。大伴連(むらじ)の遠祖。景行天皇40(西暦110)年タケルの東征にしたがい、蝦夷(えみし)を平定し靭部(ゆきべ)をあたえられたとされています。<br /><br />弟彦公(おとひこのきみ)<br />美濃国に住む弓の名手で、タケルの熊襲征伐に同行して活躍しました。弓取神社に祀られています。箭取神社(せんとりじんじゃ)に祀られている、現在の三重県の石占横立(いしうらのよこたち)、愛知県の尾張田子之稲置(おわりたごのいなおき)と乳近之稲置(ちちぢかのいなおき)を引き連れてタケルの元に参上しています。<br /><br />七掬脛命(ななつかはぎのみこと)<br />古代伝承上の人物。景行40(西暦110)年タケルの東征にあたり、膳夫(かしわで:食膳係)に任命されました。久米直(くめのあたい)の祖であるともいわれています。<br /><br />草野姫命(かやのひめのみこと)<br />伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の御子で、山の神さまである大山祇命(おおやまつみのみこと)の妻となりました。草の神様です。<br /><br />稲倉魂命(いなくらぎのみこと)<br />神話の世界に登場する神。穀物の神とされ、性別の記載はないものの古くから女神とされてきました。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られていました。<br /><br />素盞之男命(すさのおのみこと)【以下スサノオと略します】<br />ママテラスの弟神とされています。根の国(出雲と伯耆の間とされています)に行く途中、姉のアマテラスに挨拶をするために高天原を訪れたことを「戦争」をしかけに来たと誤解をされますがのち和解します。しかし高天原で粗暴な行動をしたことで、それを恥じた姉のアマテラスは天の岩戸に隠れてしまい、そのことにより追放されてしまいます。出雲に向かうスサノオは八岐大蛇(やまたのおろち)に生贄(いけにえ)にされかかった櫛名田比賣(くしなだひめ)を助けます。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して尻尾から得た剣が草薙剣です。それをアマテラスに奉納し、出雲で櫛名田比賣(くしなだひめ)と結婚します。後に娘の須世理比賣(すせりひめ)と大国主命(おおくにぬしのみこと)が結婚したとされています。古くより悪事災難悪魔祓の神として万病回復を祈願され、徳川時代より祇園まつりが盛んになる夏期に多い伝染病や食生活に起る病気を退散させる神として信仰されています。<br /><br />五十猛紙(いそたけるのかみ)<br />日本神話に登場する神。スサノオの子で、大屋都比賣神(おおやつひめのかみ)・抓津比賣神(つまつひめのかみ)は妹神になります。住んでいたとされる紀伊国は古来より林業の盛んな地であり、近隣の人々が林業の神として信仰していたようです。土の船を作り海を渡ったことから、造船・航海安全・大漁の神として信仰され、商売繁盛・開運招福・悪疫退散・厄除け等の神徳もあるとされます。大穴牟遅神(おおなむじのかみ:後の大国主命)がその元に逃げ込んだ木国(紀伊国)の大屋毘古神(おおやびこのかみ)と同一神とされています。<br /><br />天津日子根命(あまつひこねのみこと)<br />アマテラスとスサノオの誓約の際に、天照大神の八尺勾玉の五百箇の御統の珠から生まれた五柱の男神のうちの一柱である。天照大神の物種より生まれたので天照大神の子であるとされる。その後神話の記述には登場しないようです。<br /><br />活津日子根命(いくつひこねのみこと)<br />神話の世界の神。天照大御神の子供とされています。詳細について記述はありませんでしたが、兵庫県にある生國魂神社・天田郡生野神社・養父郡伊久刀神社等の祭神とされています。また滋賀県にある彦根の地名はこの神の名に起こるという説もあります。<br /><br />天菩比命(あまのほひのみこと)<br />神話の中の男神。天照大御神の子供で、農業・稲穂・養蚕・木綿・産業の神として信仰されていました。六甲山山頂の六甲山カントリーハウス敷地内に磐座があるそうです。<br /><br />熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)<br />熊野那智大社の主祭神であり、万物の生成・和合を司る神、縁結び、農林、水産、漁業の神としても信仰されています。<br /><br />多岐理比恵(賣)命(たきりびめのみこと)<br />宗像三女神の一柱で、多紀理毘売命・田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記されます。神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこと、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈されます。この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、またアマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。<br /><br />島比久美命(しまひびのみこと)…(市寸島比賣命:いちきしまひめのみこと?)<br />宗像三女神の一柱で、狭依毘売命(さよりびめのみこと)・市杵嶋姫命・市杵嶋姫神と表記される。水の神で松尾大社や市比賣神社に祀られています。多岐理比恵(賣)命(たきりびめのみこと)は姉神だそうです。<br /><br />伊邪那美命(いざなみのみこと:以下イザナミと略)<br />日本神話の女神。伊邪那岐命(いざなぎのみこと:以下イザナギと略)の妹であり妻。イザナミは天地開闢の時に生じた神代七代の最後に出現した女神で、イザナギの妹であり配偶神である。名が示すとおりイザナギは夫であり兄であるイザナギと交合することで国や数多の神々を生み出す、地母神的な性格を有している。 <br />神話におけるイザナミとイザナギの行動は史記でも共通しており、天浮橋から天沼矛で海をかき回し(これも交合の暗喩)、滴り落ちた塩から生じた淤能碁呂島で天御柱を巡って交合する。 最初はイザナミが先に声をかけたことから不具の子蛭子神(ひるこのかみ:戎と同一視されることもある)が生まれたことから、それを改めてイザナギから声をかけて国や万物を象徴する神々を生み出していったようです。しかしイザナミは、火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産む際にやけどを負い、これが原因で死んでしまいます。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)はその後イザナミの死に怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」で殺されてしまいますが、この際に生み出した神は水や土に関係する神であることから、やはり大地に結びつく存在として語られています。 <br /><br />死した愛妻イザナミを追って、イザナギは黄泉の国(よもつのくに=あの世)に赴きますが黄泉戸喫(よもつへぐい:黄泉の食べ物を口にすること)によってイザナミは既に”あの世”の住人になってしまっていました。イザナミは自分の姿を見ることを禁じて黄泉神に地上への帰還が可能かどうか相談しに行きますが、禁忌を破ったイザナギは腐乱して蛆がたかり八雷神(やくさいかづちのかみ)が全身を覆うイザナミの姿を目にしてしまいます。その姿に恐れ戦いて逃げ出すイザナギをイザナミは黄泉醜女(よもつしこめ)を送って追撃させ、最後に両神は互いに絶縁します。イザナミの万物を生み出した母神たる性格と、死をもたらす黄泉津大神としての相反する神性は、世界中の神話における大地の神にあてはまり、大地に根差した自然物の生成と消滅、生と死の循環を象徴するものであるとされています。<br /><br />黄泉醜女(よもつしこめ:シコメと略)<br />日本神話に伝わる黄泉の鬼女。予母都志許売ともいう。醜く恐ろしい顔をしており、一飛びで千里(約4,000キロメートル)を走る足を持っています。イザナミが自分との約束を破って逃げ出したイザナギを捕まえるため、シコメにイザナギを追わせました。イザナギは蔓草で出来た髪飾りを投げつけたところ、そこから山葡萄の実が生えます。シコメはそれに食いつくも、食べ終わると再びイザナギを追いかけます。次にイザナギは右の角髪から湯津津間櫛(ゆつつなくし)を取り、その歯を折って投げました。すると今度はタケノコが生えてきて、シコメはまたそれに食いついきました。やっとその間にイザナギはシコメから逃げ切ったということだそうです。<br /><br />大山祇命(おおやまつみのみこと)<br />神話の時代の男神。海神・酒造・軍神・武神として信仰されている。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に娘の木花開耶比賣(このはなさくやびめ)を嫁に出しました。なぜかそのときに姉の磐長比賣(いわながびめ)を一緒に嫁に出しますが、容姿の醜い磐長比賣(いわながびめ)だけが帰されますが、そのことに父の大山祇命(おおやまつみのみこと)は怒り狂い、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「お前の寿命は短くなるだろう」と言い放ったそうです。後に木花之開耶比賣(このはなさくやびめ)は日本創世の母と言われるようになります。神話の世界でも外見の話ってあるんですね・・・。<br />そういえば鹿児島の旅行記に木花開耶比賣(このはなさくやびめ)を紹介したことがありました・・・。<br /><br />さんふらわあで航(い)くかごしまマル得レンタカープラン~鹿児島の戦跡を訪ねる旅~【ハイライト&ライブ編】<br />http://4travel.jp/travelogue/10927842<br /><br />さんふらわあで航(い)くかごしまマル得レンタカープラン-鹿児島の戦跡を訪ねる旅・前編-関西~志布志~万世~知覧~指宿~鹿児島~鹿屋-<br />http://4travel.jp/travelogue/10931366<br /><br />さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933877<br /><br />きんぽう木花館<br />神話の世界に引きこまれます♪<br />http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/kagoshima/ibusuki/chiran/tips/11353857/<br /><br /><br />息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)<br />(成務40年(西暦171年)~神功69年(西暦270年)4月17日)<br />神功皇后(じんぐうこうごう)として知られている神話の時代の女神。第14代仲哀天皇の皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は葛城高顙比賣(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王(ひこいますのみこ)の4世孫、第15代応神(おうじん)天皇の母であり、聖母(しょうも)とも呼ばれます。弟に息長日子王(おきながのすくねのみこ)、妹に虚空津比賣命(そらつひめのみこと)と豊比賣命(とよひめのみこと)がいます。身重の身体で三韓征伐を指揮しました。三韓征伐とは神功皇后が新羅を降伏させ、高句麗・百済も支配下に入れた朝鮮半島への出兵のことを指しています。<br /><br />武内宿禰大臣(たけしうちすくねのおおおみ)(景行14(西暦84)年~没年不詳)<br />古代日本における神話の時代の政治家だとされています。「宿禰」は尊称。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣であります。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされています。神功皇后の大臣でもありました。<br /><br />住吉大神(すみのえのおおかみ)≒(住吉三神:すみのえさんしん)<br />底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称ですが、住吉大神(すみのえのおおかみ)の中には、住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがあります。海の神、航海の神、また和歌の神とされています。<br /><br />言葉の説明<br />天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)<br />後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれる。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出てきた神剣である。<br /><br />神話の世界ゆえ西暦との兼ね合いは勿論、実在かどうかもわからない世界ではあります。日本武尊命(やまとたけるのみこと)と言えば、「日本創世記」の武勇伝には必ず名前があがっていますが、意外に「用意周到」という性格ではなかったように思います。焼津で国造に騙し討ちされたことは「疑いを知らない純真さ」、綿津見神(わたつみのかみ)の怒りをかってしまったことや、五十葺山(いぶきやま)の荒神(あれがみ)退治に素手で向かったこと、またその荒神(あれがみ)を知らず跨いでしまった「軽率さ」など、なにか普通の人間っぽい気がします。 <br />それを最初は色々な手段で解決してこられたことはまさしく「霊・神業」的なものですが、その「霊・神業」も美夜受比賣(みやすひめ)の「月の障り」をおして交わったことが「人と人」のつながりになり、結果「人間的」になってしまったゆえ最後は病に伏せて亡くなってしまったことは、「やはり人間には限界がある」という「戒め」みたいなものを感じます。それでも自ら犠牲になった弟橘比賣(おとたちばなひめ)のことを、碓日坂から見た風景で思い出し、懐古することはロマンティストとしての一面を感じられたように思います。<br /><br />紹介ということでいろいろ書きましたが、正直言うとこれは私が作り上げた「フィクション」です。古代史の好きな方はご存じだとは思いますが、「古事記」や「日本書記」の二大歴史書で全く異なる記載があったりしています。それを良い所取りをして、一部着色や削除して書き上げたものがこの「人物史」になります。勿論私は「神話の世界」を否定するつもりもありませんし、そういう思想を持ちあわせてもおりません。個々の「人物」の特徴的な逸話を集めて編纂しているだけに過ぎません。神話の世界は「明確な根拠」がないので、深く知るには難しいと思われることが多いように聞いています。私はその「苦手感」を取り払い、この壮大なるスペクタルで時代は動いていた(かも知れない…)と興味を持って頂き、「神話伝説」のある歴史施設に足を運んでいて「見て」「聞いて」「感じて」頂ければ良いかな…と思い書き上げました。<br /><br />2014年10月25日土曜日 掲載写真追加<br />2014年11月15日土曜日 掲載写真追加<br /><br />近江国一之宮建部大社(おうみのくにいちのみやたけべたいしゃ)<br />〒520-2132 滋賀県大津市神領1-16-1<br />(TEL)077-545-0038<br />http://takebetaisha.jp/<br /><br />この&quot;あみんちゅ淡海を歩く旅その四の②~建部大社境内編~&quot;の旅行記ですが、&quot;あみんちゅ淡海を歩く旅その四の①~建部大社アプローチ編~&quot;と&quot;あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③~建部大社末社檜山神社・帰り道編~&quot;の三部作として書いております。<br /><br />あみんちゅ淡海を歩く旅その四の①~建部大社アプローチ編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10953441<br /><br />あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③~建部大社末社檜山神社・帰り道編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10954624<br /><br />またこの建部大社旅行記を書くにあたり、横浜臨海公園さんが書かれた「近江國一之宮 建部大社参拝記」を参考にさせて頂きましたのでご紹介致します。<br />http://4travel.jp/travelogue/10727400<br /><br /><br />これであみんちゅ淡海を歩く旅その四の②~近江一之宮建部大社境内編~を終わります。<br />

《2014.October》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのIV石山中編~近江国一之宮建部大社・境内編~

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2014/10/25 - 2014/11/15

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

瀬田唐橋であったご当地イベント「第二回瀬田川東西大綱引き大会」を観戦した後、最寄りの場所でこの綱引き大会の東軍本陣が置かれていた近江国一之宮建部大社へとやってきました。地元民ならではのフットワークの軽さは「撮りこぼし」があったとしても補うことはいとも簡単なため、「気楽に」ということでとにかく書きはじめてみます。こちらでは、”境内編”として、建部大社神門をくぐり、境内一周して神門を出るところまでを紹介しています。

この記では、拙い文章にて「登場人物」を我流解釈にて紹介しております。あくまでも多数意見を元に作った「フィクション」なので「時代の流れの一解釈」としてご覧下さい。神話の時代を実際に目にすることはできない上、時系列は勿論実在かどうかもわかりません。またすべての逸話を見ているわけでもありませんので、こじつけて相関関係を合わせていることもあります。サラリと流し読んで頂けたらと思います。


2014年10月25日土曜日

登場人物についての…我流解釈!"It's showtime!!"。
それではそれでは~…!!。

日本武尊命(やまとたけるのみこと)【以下タケルと略します】
倭建命(やまとたけるのみこと)、日本童男・倭男具那命(やまとをぐなのみこと)ともいう。
(景行天皇2年~42年)(西暦72年~112年)
幼少は小碓尊命(おうすのみこと)と呼ばれていました。第12代景行(けいこう)天皇の第二皇子で、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の父君でもあります。御妃は近江国造の祖・意富多牟和気(おおたむわけ)の娘の布多遅比売(ふだじひめ)です。御子は犬上君・建部君の祖の稲依別王(いなよりわけのみこ)・足仲彦天皇(仲哀天皇)・布忍入比賣命(ぬのしいりひめのひめのみこと)・近江建部君の祖・宮道君等の祖とされる稚武彦王(わかたけひこのみこ)などがいます。

幼少の頃より武芸達者だった小碓(おうす)は、父景行天皇が平定した九州で叛乱が起きたことで討伐を命じられます。熊襲建(くまそたける)・弟建(おとたける)兄弟を「美少女」に扮しこれを征伐しますが、その際弟建(おとたける)は「やまとをぐな」と名乗る小碓(おうす)の武勇を嘆賞し「やまとたける」の称号を譲ったとされています。このとき小碓(おうす)16才、日本武尊命(やまとたけるのみこと)と呼ばれる始まりです。

九州征伐を終えたタケルに、景行天皇はすぐさま東征を命じました。その手荒い命令に納得のいかなかったところもあるのでしょうか・・・。タケルは東征の途中に叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王を勤める「伊勢神宮」を訪れます。そして倭姫命より「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれる)」と「火打具」を緊急時に使いなさいと授かります。そして駿河国に入ったタケルは、朝廷に属する気のない相武国造の騙し討ちに会い窮地に追い込まれます。そこで天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を払い、逆に火打具で向かい火を放って脱出しながらも相武国造を滅ぼしました。この舞台となった場所が静岡県「焼津(やいづ)」になります。また天叢雲剣が「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と銘を打たれる由来にもなっています。

さらに進んで行くと、相模から上総に渡る際に海神「綿津見神(わたつみのかみ)」が波を起こしてタケル軍の船は進退窮まってしまいます。そこで后の弟橘比売(おとたちばなひめ:以下タチバナと略)が自ら犠牲になって入水すると、海は何もなかったかのように静かになりました。そして7日後タチバナの櫛が対岸に流れ着きます。自らを犠牲にしてタケルを助けたタチバナを想い、タケルはその地に御陵を造りタチバナを祀ります。これが橘樹(たちばな)神社の由来とされています。

無事上総に上陸したあとまた海路を辿って陸奥(みちのく)に入り、蝦夷を征伐したタケルは、残る坂東(ばんどう)の東夷(あずまえびす)の征伐に向かうため、海路・陸路で向かいます。途中甲斐国酒折(さかおり:現山梨県甲府市)にて宴を催しました。その場所とされているところが酒折宮(さかおりのみや)とされています。ここでタケルがなにげに詠んだ歌に対し、仕えていた身分の低い従者が即座に答え、その頭の良さを褒め幾多の恩賞を授けたとされています。これが後々(連歌(れんが):別の人が続きを歌う方法)の発祥とされています。その後碓日坂(うすひざか・今の碓氷峠)を通ったとき、既に平定した眼下に広がる関東台地を眺めてタケルはため息をつきました。自らを犠牲にしてタケル一行を助けた后のタチバナのことを思い出して…。わがつま→我が妻→我妻→吾妻→東(あずま)となって、碓日坂より東の国を「吾妻の国」と呼ぶようになったそうです。それが発展し、東を「あずま」と読むようになったことを"愛情"と取りたいのは私だけでしょうか。

その後タケルは家臣吉備武彦(きびのたけひこ)と軍を分けて進軍します。道のりでタケルは常人ならぬ動きで進んで行きますが、途中「山の神」が化身となって白鹿になり、タケル一行を苦しめようとします。それを退治したまでは良かったのですが、祟られてしまったか一行は道に迷って下山できなくなってしまいます。そこに現れたのが「白い犬」、近付きもせず逃げるわけでもないこの犬に、「付いて行くべし」とのタケルの判断は正しく無事下山した美濃国で吉備武彦達と合流します。ちなみに「づ」と「ず」の使い方ですが、wikipediaでは「づ」が使われていました。しかし現呼称に基づいて「ず」の方がしっくりくるので、ここではそちらを使っています。

美濃から尾張に入ったタケルは、尾張国造の娘、美夜受比賣(みやすひめ:以下ミヤスと略)と結婚します。ここでタケルの後々が変わってしまったと言われることがおこります。実はミヤスは、娶られた時彼女は生理中だったそうです。その時代、生理中の女性は穢(けがれ)の状態になっていると判断されていたようですが、経血によって気付いたもののタケルは気にせず妻にしました。勿論今ではそのようなことをいう時代ではありませんが、時は神話の時代、「明らかに人間だとわかるミヤス」を抱いたことにより、タケルから神性霊的な力のようなものが奪われてしまったという話が多いのも確かです。なぜ神業的なことを続けていたタケルに、俗人間化するこの話が出てきているのかはわかりませんが、「神域」から「人域」になったタケルを更なる悲劇が待ち受けます。

ミヤスと暮らす日々は余程居心地が良かったのでしょうか、タケルは長い期間尾張に滞在していました。そこに飛び込んできたのが「近江國五十葺山(いぶきやま=現在の伊吹山)の荒神(あれがみ)」の話でした。タケルは征伐をするため五十葺山(いぶきやま)に向かいます。さほど手強い相手だとは思わなかったのでしょうか…、草薙剣を持たず徒手空拳(としゅくうけん:素手の状態のこと)で向かいました。

五十葺山に着いたタケルを、蜷局(とぐろ)を巻いた大蛇が待ち受けます。タケルはこれを「荒神の使い」だと思い、跨いで通ります。実はこの大蛇こそ実は「荒神の化身」そのものであり、タケルの振舞いに怒った荒神は天変地異を起こします。進路を断たれ衰弱するタケル一行でしたが、なんとかタケルの「神業」的な力で窮地を脱出します。しかし荒神の祟りにあい、意識がもうろうとしているタケルは、とりあえず山の麓の湧水を飲んで一旦は回復したように見えます。しかしときすでに遅し、タケルは病に侵されてしまっていました。ミヤスの待つ尾張へと行くのかと思いきや、ミヤスの待つところには戻らずそのまま故郷のヤマトへと向かったのでしょうか・・・。痛みが走る手足を使って能褒野(のぼの:今の三重県亀山市能褒野町付近)までやってきたタケルはついに力尽きました。享年三十二才。日本武尊命神話の主人公はこうして波乱の人生を終えました。

家来の吉備武彦(きびのたけひこ)の奏上(そうじょう)でタケルの死を知った父景行天皇の嘆きは大変なものだったそうです。そして最後の地能褒野(のぼの)に陵を造りました。タケルを葬った後、御妃や御子がタケルを偲び「歌」を詠みます。するとタケルが「白鳥」になって大和の方角へと飛んできました。それを見ていた人々が棺を調べたところ、衣類のみ残されており、屍(遺体)はなかったそうです。その伝説はタケル最後の地に「白鳥陵」の伝説地が残されている話にも表れています。

ちょっと脱線しますが、中学生だった頃の話です。多分何かの「本読み」をしていた時に、同級生が「にほんぶそんいのち」と読んだことがありました。先生もいたのかどうなのか覚えていませんが、当時「え?なんだって?」と思った記憶がありました。月日は流れ偶々旅行記を書いているとき、ふと目に入った「日本武尊命」の文字…、「あっ」と思いました。「これか…」って。ちなみに職場で「日本武尊命」の文字を読めたのはほとんどいませんでした。人によっては「倭建命」だとわかるのに…とは言っていましたが…。「知らぬが仏」ってことかも知れません。


天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)【以下アマテラスと略します】
天照大神(あまてらすおおみかみ)という方が有名ですが、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされています。天岩戸の神隠れで有名であり、史記によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされています。信仰の対象、土地の祭神とされる場所は伊勢神宮が特に有名です。国家安寧の神として伊勢大神宮の主祭神であり国民に多く知られている神で、広大無辺、天地に瑞光を与える神として信仰されている。

大己貴命(大国主命)(おおなむちのみこと・おおくにぬしのみこと)
スサノオの七世の孫などとされている。スサノオの後に少名毘古那(すくなびこな:国造りの神とされています)と協力して天下を動かせて、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国(あしはらのなかつくに:今の日本のこと)の国作りを完成させます。しかし高天原のアマテラスからの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主・幽事の主催者となりました。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が約束したことにより、このときの名を杵築大神(つづきおおかみ)ともいいます。また「因幡の白うさぎ」伝説の主人公としても有名です。
稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)伝説…大己貴命の兄弟(八十神)たちは、稲羽の八神比賣(やがみひめ)に求婚したいと思ったため、国を大国主に譲ってしまいました。そして八神比売(やがみひめ)に会うため稲羽(いなば)に向かいますが、その時八十神達は大己貴命に袋を持たせ、従者のように引き連れて行きます。

「気多(けた:石川県羽咋市)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が苦しんでいました。ウサギは、隠岐の島から渡ってくるときに、ワニザメを騙して利用し、「毛を剥かれた」ことを八十神に言ったところ、「海に浸かってから、山の頂で強い風と日光に当たって横になっていれば良い」と言われそうしていると、当然のごとく水分が渇くにつれ表皮がわれてきます。その痛みに耐えきれず泣いていたところ、「大きな袋」を担いだオオクニヌシが現れ、「どうして泣いているのか?」と尋ねます。経緯を聞いたオオクニヌシは、ウサギに「池に浸かって体表を洗い、近くにある”ガマの穂”を敷いて転がって花粉を体表に付ければ治るだろう」と教えます。その通りにして回復したウサギは感謝の念を込めて、八十神には稲羽之八上比賣(いなばのやかみひめ)は靡きません。オオクニヌシ様、あなたを選ぶでしょうと言ったとか…。結果ウサギの言う通りになります。稲羽之八上比賣(いなばのやかみひめ)が「兎神(とじん)」と呼ばれる所以ですが、このウサギが八神比賣(やがみひめ)の「使い」だったのではないでしょうか…。

大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主神(おおくにぬしのみこと)が「なぜ袋を持っているか」?またおおよそ「大己貴命(おおなむちのみこと)」は、ぽっちゃりした感じの「優しそうなおっちゃん」のイメージが強いのは、こんな話からもわかるような気がしますね。国譲りの話はともかく・・・。

景行天皇(けいこうてんのう)
(垂仁17(紀元前13)年~景行60(西暦130)年11月7日)
第12代天皇(在位:景行元(西暦71)年7月11日~景行60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)でタケルの父君。
景行天皇の史記の多くがタケルの物語で占められているため、残るのは帝紀部分のみになるため史実性・実在性には疑問が持たれます。しかし実在を仮定すればその年代は4世紀前半かと考えられています。景行12(西暦82)年熊襲(くまそ)が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯比賣(かむなつそひめ)から4人の賊の情報「莵狭(うさ)の鼻垂(はなたり)」、「御木(みけ)の耳垂(みみたり)」、「高羽(たかは)の麻剥(あさはぎ)」、「緑野の土折猪折(つちおりいおり)」を得て誅殺しました。そして筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛(つちぐも:朝廷に従わない豪族たち)を誅して、11月ようやく日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18(西暦88)年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19(西暦89)年9月に還御した。25(西暦95)年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。この景行天皇の熊襲征伐はタケルの話と被ることが多く、同じことを言っているところもあります。ただそれは「神話の話」と流して頂きたいところではありますが…。

播磨稲日大郎姫(はりまいなびのおおいらつめ)
(生年不詳~景行52(西暦122年)年5月4日)
第12代景行天皇の皇后。日本武尊(やまとたける)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢ともいう。

布多遅比賣命(ふだじひめのみこと)
近江の安国造(やすのくにのみやつこ)の祖先の、意富多牟和気(おおたむわけ)の娘。
日本武尊との間の子が、建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)です。

建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)
日本武尊の御子で、母親は布多遅比賣命(ふだじひめのみこと)。

倭姫命(やまとひめのみこと)(生没年不明)
第11代垂仁天皇の第4皇女で母は皇后日葉酢比賣命。景行天皇とは異父兄弟です。第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の跡を継ぎ、神託により天照大神を伊勢の地に祀り、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建した皇女とされており、これ以降制度化されて後の斎宮となりました。後に東夷の討伐に向かう甥のタケルに草薙剣を与えています。伊勢の地に薨じ尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝えられています。

弟橘比賣(おとたちばなひめ:以下タチバナと略)(生没年不詳)
穂積氏忍山宿禰の女(むすめ)だそうです。タケルとの間に稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)をもうける。タケルが相模から上総に海路で渡る際に、大言壮語して「こんな小さな海、一跨ぎで渡ることができよう」と言いました。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなくなりました。聞けば海神「綿津見神(わたつみのかみ)」の怒りに触れてしまったとのこと。これに気付いたタチバナが「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神の仕業ですから、賎しい私めがタケル様の身代りに海に入りましょう」と言ってすぐ波を押しわけ海に入られたところ、暴風はすぐに止み、船は無事接岸できました。時の人はその海を名づけて、馳水(はしるみず)と言ったそうです。
千葉県茂原市本納には玉浦に渡ったタケルが、橘の木をタチバナの墓標としたことを由来としている橘樹神社(たちばなじんじゃ)があります。また入水したタチバナの「櫛」が流れ着いた伝説の場所でもあります。この神社は唯一の正史に記されたタチバナを祀る神社であり、この神社の由緒には、タチバナがタケルに言い放ち入水して綿津見神(わたつみのかみ)にこの身を捧げることで、タケル一行は勿論のこと、今後の海上通行の平穏を祈願したことを記しています。また現在橘樹(たちばな)神社は海上の守護神と仰がれています。神奈川県川崎市にも「橘樹(たちばな)神社」がありますが、由来や御祭神を見る限り謂れは同じかと思います。

東征の軍を率いて房総半島に渡ったタケル一行の行先はわかりませんが、陸路伝いにタケル伝説とタケルとタチバナを祭神とする神社が多く残っています。タケルは東征後、碓日坂から平定した眼下に広がる関東平野を眺め、タチバナを偲んで歌を詠みました。それが「我が妻」→「吾妻」→「東(あずま)」となって現在に至っていることは、神話の世界ゆえどこまで本当かは抜きにして胸が熱くなる話です。

美夜受比賣(みやすひめ:以下ミヤスと略)
日本神話に登場する尾張国造の乎止与命(おとよのみこと)の娘。父の乎止与命(おとよのみこと)は天火明命(あまのほあかりのみこと)の子孫。タケル東征時に副将軍として仕え軍功をあげた建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹でもあります。タケルは東征の帰途尾張へ入り、東国へ向かう途中に婚姻の約束をしていた尾張氏の娘以下ミヤスを娶って滞在しました。その際タケルはミヤスの「月の障り(生理のこと)」をおして交わったと言います。
やがて近江国の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、草薙剣をミヤスの家に残し素手で退治に出かけました。しかし山道で神が大蛇に化して出現したのを無視したところ、神は氷を降らせてタケルを惑わせたそうです。このため意識が朦朧とした状態になったタケルは、山下の泉でようやく正気を取り戻しましたが、時既に病の身となっていた。そして尾張へと戻りますがミヤスの家には寄らず、そのままヤマトに向かったといいます。タケルが能褒野(のぼの)で亡くなると、タケルより預けられた草薙剣(三種の神器の一つ)を奉斎鎮守するために「熱田神宮(あつたじんぐう)」を建立したそうです。

この東征出陣の途中であれば、タケルがミヤスと婚約した時に、タチバナは同行していたことになります。一夫多妻の時代ですが、他の女性との婚姻のことをタチバナはどのように感じたのでしょうか?それが歴史書からも抹消されてしまっていればそれだけで済んでしまうのかも知れません。しかしこのタチバナは焼津でタケルが相武国造に騙し討ちをされた窮地の状況で「自分の名前」名前を呼ばれたことを深く感謝していたようです。そして自ら海に身を投げタケルを助けます。そして東征が終わりに差し掛かった折、碓日坂より眺めた景色をみて詠んだ歌で、タケルが「我が妻」のことを偲んでいることから、深い愛情が二人の仲ではあった・・・あったのでは・・・あって欲しい・・・と思います。

吉備臣武彦(きびのおみたけひこ)
神話の世界の武人。日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備臣武彦と大伴武日連が付けられたといいます。吉備臣武彦は途中で越国(北陸地方)視察のため派遣され、のちタケルと美濃で合流しました。その後タケルが病になると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされています。

大伴連武日(おおとものたけひのむらじ)
神話の世界の武人。大伴連(むらじ)の遠祖。景行天皇40(西暦110)年タケルの東征にしたがい、蝦夷(えみし)を平定し靭部(ゆきべ)をあたえられたとされています。

弟彦公(おとひこのきみ)
美濃国に住む弓の名手で、タケルの熊襲征伐に同行して活躍しました。弓取神社に祀られています。箭取神社(せんとりじんじゃ)に祀られている、現在の三重県の石占横立(いしうらのよこたち)、愛知県の尾張田子之稲置(おわりたごのいなおき)と乳近之稲置(ちちぢかのいなおき)を引き連れてタケルの元に参上しています。

七掬脛命(ななつかはぎのみこと)
古代伝承上の人物。景行40(西暦110)年タケルの東征にあたり、膳夫(かしわで:食膳係)に任命されました。久米直(くめのあたい)の祖であるともいわれています。

草野姫命(かやのひめのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の御子で、山の神さまである大山祇命(おおやまつみのみこと)の妻となりました。草の神様です。

稲倉魂命(いなくらぎのみこと)
神話の世界に登場する神。穀物の神とされ、性別の記載はないものの古くから女神とされてきました。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られていました。

素盞之男命(すさのおのみこと)【以下スサノオと略します】
ママテラスの弟神とされています。根の国(出雲と伯耆の間とされています)に行く途中、姉のアマテラスに挨拶をするために高天原を訪れたことを「戦争」をしかけに来たと誤解をされますがのち和解します。しかし高天原で粗暴な行動をしたことで、それを恥じた姉のアマテラスは天の岩戸に隠れてしまい、そのことにより追放されてしまいます。出雲に向かうスサノオは八岐大蛇(やまたのおろち)に生贄(いけにえ)にされかかった櫛名田比賣(くしなだひめ)を助けます。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して尻尾から得た剣が草薙剣です。それをアマテラスに奉納し、出雲で櫛名田比賣(くしなだひめ)と結婚します。後に娘の須世理比賣(すせりひめ)と大国主命(おおくにぬしのみこと)が結婚したとされています。古くより悪事災難悪魔祓の神として万病回復を祈願され、徳川時代より祇園まつりが盛んになる夏期に多い伝染病や食生活に起る病気を退散させる神として信仰されています。

五十猛紙(いそたけるのかみ)
日本神話に登場する神。スサノオの子で、大屋都比賣神(おおやつひめのかみ)・抓津比賣神(つまつひめのかみ)は妹神になります。住んでいたとされる紀伊国は古来より林業の盛んな地であり、近隣の人々が林業の神として信仰していたようです。土の船を作り海を渡ったことから、造船・航海安全・大漁の神として信仰され、商売繁盛・開運招福・悪疫退散・厄除け等の神徳もあるとされます。大穴牟遅神(おおなむじのかみ:後の大国主命)がその元に逃げ込んだ木国(紀伊国)の大屋毘古神(おおやびこのかみ)と同一神とされています。

天津日子根命(あまつひこねのみこと)
アマテラスとスサノオの誓約の際に、天照大神の八尺勾玉の五百箇の御統の珠から生まれた五柱の男神のうちの一柱である。天照大神の物種より生まれたので天照大神の子であるとされる。その後神話の記述には登場しないようです。

活津日子根命(いくつひこねのみこと)
神話の世界の神。天照大御神の子供とされています。詳細について記述はありませんでしたが、兵庫県にある生國魂神社・天田郡生野神社・養父郡伊久刀神社等の祭神とされています。また滋賀県にある彦根の地名はこの神の名に起こるという説もあります。

天菩比命(あまのほひのみこと)
神話の中の男神。天照大御神の子供で、農業・稲穂・養蚕・木綿・産業の神として信仰されていました。六甲山山頂の六甲山カントリーハウス敷地内に磐座があるそうです。

熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)
熊野那智大社の主祭神であり、万物の生成・和合を司る神、縁結び、農林、水産、漁業の神としても信仰されています。

多岐理比恵(賣)命(たきりびめのみこと)
宗像三女神の一柱で、多紀理毘売命・田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記されます。神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこと、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈されます。この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、またアマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。

島比久美命(しまひびのみこと)…(市寸島比賣命:いちきしまひめのみこと?)
宗像三女神の一柱で、狭依毘売命(さよりびめのみこと)・市杵嶋姫命・市杵嶋姫神と表記される。水の神で松尾大社や市比賣神社に祀られています。多岐理比恵(賣)命(たきりびめのみこと)は姉神だそうです。

伊邪那美命(いざなみのみこと:以下イザナミと略)
日本神話の女神。伊邪那岐命(いざなぎのみこと:以下イザナギと略)の妹であり妻。イザナミは天地開闢の時に生じた神代七代の最後に出現した女神で、イザナギの妹であり配偶神である。名が示すとおりイザナギは夫であり兄であるイザナギと交合することで国や数多の神々を生み出す、地母神的な性格を有している。
神話におけるイザナミとイザナギの行動は史記でも共通しており、天浮橋から天沼矛で海をかき回し(これも交合の暗喩)、滴り落ちた塩から生じた淤能碁呂島で天御柱を巡って交合する。 最初はイザナミが先に声をかけたことから不具の子蛭子神(ひるこのかみ:戎と同一視されることもある)が生まれたことから、それを改めてイザナギから声をかけて国や万物を象徴する神々を生み出していったようです。しかしイザナミは、火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産む際にやけどを負い、これが原因で死んでしまいます。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)はその後イザナミの死に怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」で殺されてしまいますが、この際に生み出した神は水や土に関係する神であることから、やはり大地に結びつく存在として語られています。

死した愛妻イザナミを追って、イザナギは黄泉の国(よもつのくに=あの世)に赴きますが黄泉戸喫(よもつへぐい:黄泉の食べ物を口にすること)によってイザナミは既に”あの世”の住人になってしまっていました。イザナミは自分の姿を見ることを禁じて黄泉神に地上への帰還が可能かどうか相談しに行きますが、禁忌を破ったイザナギは腐乱して蛆がたかり八雷神(やくさいかづちのかみ)が全身を覆うイザナミの姿を目にしてしまいます。その姿に恐れ戦いて逃げ出すイザナギをイザナミは黄泉醜女(よもつしこめ)を送って追撃させ、最後に両神は互いに絶縁します。イザナミの万物を生み出した母神たる性格と、死をもたらす黄泉津大神としての相反する神性は、世界中の神話における大地の神にあてはまり、大地に根差した自然物の生成と消滅、生と死の循環を象徴するものであるとされています。

黄泉醜女(よもつしこめ:シコメと略)
日本神話に伝わる黄泉の鬼女。予母都志許売ともいう。醜く恐ろしい顔をしており、一飛びで千里(約4,000キロメートル)を走る足を持っています。イザナミが自分との約束を破って逃げ出したイザナギを捕まえるため、シコメにイザナギを追わせました。イザナギは蔓草で出来た髪飾りを投げつけたところ、そこから山葡萄の実が生えます。シコメはそれに食いつくも、食べ終わると再びイザナギを追いかけます。次にイザナギは右の角髪から湯津津間櫛(ゆつつなくし)を取り、その歯を折って投げました。すると今度はタケノコが生えてきて、シコメはまたそれに食いついきました。やっとその間にイザナギはシコメから逃げ切ったということだそうです。

大山祇命(おおやまつみのみこと)
神話の時代の男神。海神・酒造・軍神・武神として信仰されている。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に娘の木花開耶比賣(このはなさくやびめ)を嫁に出しました。なぜかそのときに姉の磐長比賣(いわながびめ)を一緒に嫁に出しますが、容姿の醜い磐長比賣(いわながびめ)だけが帰されますが、そのことに父の大山祇命(おおやまつみのみこと)は怒り狂い、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「お前の寿命は短くなるだろう」と言い放ったそうです。後に木花之開耶比賣(このはなさくやびめ)は日本創世の母と言われるようになります。神話の世界でも外見の話ってあるんですね・・・。
そういえば鹿児島の旅行記に木花開耶比賣(このはなさくやびめ)を紹介したことがありました・・・。

さんふらわあで航(い)くかごしまマル得レンタカープラン~鹿児島の戦跡を訪ねる旅~【ハイライト&ライブ編】
http://4travel.jp/travelogue/10927842

さんふらわあで航(い)くかごしまマル得レンタカープラン-鹿児島の戦跡を訪ねる旅・前編-関西~志布志~万世~知覧~指宿~鹿児島~鹿屋-
http://4travel.jp/travelogue/10931366

さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877

きんぽう木花館
神話の世界に引きこまれます♪
http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/kagoshima/ibusuki/chiran/tips/11353857/


息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
(成務40年(西暦171年)~神功69年(西暦270年)4月17日)
神功皇后(じんぐうこうごう)として知られている神話の時代の女神。第14代仲哀天皇の皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は葛城高顙比賣(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王(ひこいますのみこ)の4世孫、第15代応神(おうじん)天皇の母であり、聖母(しょうも)とも呼ばれます。弟に息長日子王(おきながのすくねのみこ)、妹に虚空津比賣命(そらつひめのみこと)と豊比賣命(とよひめのみこと)がいます。身重の身体で三韓征伐を指揮しました。三韓征伐とは神功皇后が新羅を降伏させ、高句麗・百済も支配下に入れた朝鮮半島への出兵のことを指しています。

武内宿禰大臣(たけしうちすくねのおおおみ)(景行14(西暦84)年~没年不詳)
古代日本における神話の時代の政治家だとされています。「宿禰」は尊称。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣であります。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされています。神功皇后の大臣でもありました。

住吉大神(すみのえのおおかみ)≒(住吉三神:すみのえさんしん)
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称ですが、住吉大神(すみのえのおおかみ)の中には、住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがあります。海の神、航海の神、また和歌の神とされています。

言葉の説明
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれる。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出てきた神剣である。

神話の世界ゆえ西暦との兼ね合いは勿論、実在かどうかもわからない世界ではあります。日本武尊命(やまとたけるのみこと)と言えば、「日本創世記」の武勇伝には必ず名前があがっていますが、意外に「用意周到」という性格ではなかったように思います。焼津で国造に騙し討ちされたことは「疑いを知らない純真さ」、綿津見神(わたつみのかみ)の怒りをかってしまったことや、五十葺山(いぶきやま)の荒神(あれがみ)退治に素手で向かったこと、またその荒神(あれがみ)を知らず跨いでしまった「軽率さ」など、なにか普通の人間っぽい気がします。
それを最初は色々な手段で解決してこられたことはまさしく「霊・神業」的なものですが、その「霊・神業」も美夜受比賣(みやすひめ)の「月の障り」をおして交わったことが「人と人」のつながりになり、結果「人間的」になってしまったゆえ最後は病に伏せて亡くなってしまったことは、「やはり人間には限界がある」という「戒め」みたいなものを感じます。それでも自ら犠牲になった弟橘比賣(おとたちばなひめ)のことを、碓日坂から見た風景で思い出し、懐古することはロマンティストとしての一面を感じられたように思います。

紹介ということでいろいろ書きましたが、正直言うとこれは私が作り上げた「フィクション」です。古代史の好きな方はご存じだとは思いますが、「古事記」や「日本書記」の二大歴史書で全く異なる記載があったりしています。それを良い所取りをして、一部着色や削除して書き上げたものがこの「人物史」になります。勿論私は「神話の世界」を否定するつもりもありませんし、そういう思想を持ちあわせてもおりません。個々の「人物」の特徴的な逸話を集めて編纂しているだけに過ぎません。神話の世界は「明確な根拠」がないので、深く知るには難しいと思われることが多いように聞いています。私はその「苦手感」を取り払い、この壮大なるスペクタルで時代は動いていた(かも知れない…)と興味を持って頂き、「神話伝説」のある歴史施設に足を運んでいて「見て」「聞いて」「感じて」頂ければ良いかな…と思い書き上げました。

2014年10月25日土曜日 掲載写真追加
2014年11月15日土曜日 掲載写真追加

近江国一之宮建部大社(おうみのくにいちのみやたけべたいしゃ)
〒520-2132 滋賀県大津市神領1-16-1
(TEL)077-545-0038
http://takebetaisha.jp/

この"あみんちゅ淡海を歩く旅その四の②~建部大社境内編~"の旅行記ですが、"あみんちゅ淡海を歩く旅その四の①~建部大社アプローチ編~"と"あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③~建部大社末社檜山神社・帰り道編~"の三部作として書いております。

あみんちゅ淡海を歩く旅その四の①~建部大社アプローチ編~
http://4travel.jp/travelogue/10953441

あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③~建部大社末社檜山神社・帰り道編~
http://4travel.jp/travelogue/10954624

またこの建部大社旅行記を書くにあたり、横浜臨海公園さんが書かれた「近江國一之宮 建部大社参拝記」を参考にさせて頂きましたのでご紹介致します。
http://4travel.jp/travelogue/10727400


これであみんちゅ淡海を歩く旅その四の②~近江一之宮建部大社境内編~を終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 建部大社の「神門」。<br /><br />境内地と神域の境いを示しているのがこの神門です。 <br />神門をくぐりぬけ、神域へと踏み出せば清らかな風と、ゆっくりとした時の流れを感じていただけると思います。<br /><br />御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で改修されています。

    建部大社の「神門」。

    境内地と神域の境いを示しているのがこの神門です。
    神門をくぐりぬけ、神域へと踏み出せば清らかな風と、ゆっくりとした時の流れを感じていただけると思います。

    御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で改修されています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、「社務所」。

    建部大社にて、「社務所」。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 神門(しんもん)をくぐったところで「菊展」をやっていました、七五三に合わせているんでしょうか?(2014年10月25日撮影)。<br />

    神門(しんもん)をくぐったところで「菊展」をやっていました、七五三に合わせているんでしょうか?(2014年10月25日撮影)。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 神門(しんもん)を入ったところの「菊展」の様子。記念写真撮影場所が変わっています。(2014年11月15日撮影)。

    神門(しんもん)を入ったところの「菊展」の様子。記念写真撮影場所が変わっています。(2014年11月15日撮影)。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 神門をくぐって拝殿の手前に、御神木の三本杉があります。<br /><br />孝徳天皇の御代天平勝宝七年(755年)大己貴命を権殿へと奉祀された際、一夜にして成長したと伝わる御神木の三本杉。 <br />日本武尊・大己貴命、この二柱の神様をもって、近江国一之宮と定められました。

    神門をくぐって拝殿の手前に、御神木の三本杉があります。

    孝徳天皇の御代天平勝宝七年(755年)大己貴命を権殿へと奉祀された際、一夜にして成長したと伝わる御神木の三本杉。
    日本武尊・大己貴命、この二柱の神様をもって、近江国一之宮と定められました。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 別角度から撮ってみました、御神木の三本杉のアップ。

    別角度から撮ってみました、御神木の三本杉のアップ。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、右斜め前からの拝殿と御神木の様子。<br /><br />天武天皇の御代白鳳四年(675年)なので、今から約1300年程前に、この瀬田の地へと遷し祀られました。それ以来近江国を守護する神社として大切に守られてきました。<br />

    建部大社境内にて、右斜め前からの拝殿と御神木の様子。

    天武天皇の御代白鳳四年(675年)なので、今から約1300年程前に、この瀬田の地へと遷し祀られました。それ以来近江国を守護する神社として大切に守られてきました。

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  • 建部大社にて、正面から見た七五三期の拝殿の様子。<br /><br />2014年10月25日撮影。<br /><br />御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で改修されています。<br />

    建部大社にて、正面から見た七五三期の拝殿の様子。

    2014年10月25日撮影。

    御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で改修されています。

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  • 夕暮れの建部大社拝殿。<br /><br />ちょっと雰囲気が変わります。

    夕暮れの建部大社拝殿。

    ちょっと雰囲気が変わります。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、拝殿右側の狛犬様。

    建部大社境内にて、拝殿右側の狛犬様。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、拝殿左側の狛犬様。

    建部大社境内にて、拝殿左側の狛犬様。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 近江国一之宮建部大社<br />御祭神<br />本 殿 日本武尊(やまとたけるのみこと)<br />権 殿 大己貴命(おおなむちのみこと)<br /><br />ヤマトタケルと草薙剣<br />九州の熊襲平定から戻られた日本武尊に景行天皇は東国平定を命じられます。<br />東国へと向かう途中、伊勢神宮に立ち寄られた日本武尊は、叔母の倭姫命から神剣(天叢雲剣)と火打具を授かります。<br />尾張の国(愛知県)を経由し、駿河の国(静岡県)に至りましたが、国造は朝廷に従属する気がない為、「野中の大きな沼に棲む荒ぶる神にはほとほと困り果てております」と、日本武尊を野に誘い出し、四方から火を放ち騙し討ちにしようとしました。<br />退路を断たれた日本武尊はその時、倭姫命から授かりし神剣で草をなぎ払い、火打具で向かい火を放ち危機から脱出し、国造を滅ぼしました。<br />爾来、この地を焼津といい、又草をなぎ払った神剣は「草薙剣」と呼ばれ、熱田神宮にお祀りされています。<br /><br />駐車場にあったこの絵をストレートにとると、日本武尊と大己貴命が描かれていると思いそうですが、大己貴命=大国主命(おおくにぬしのみこと)なので「男」です。ということは火打具を持っているということから「倭姫命(やまとひめのみこと)」ということになりますね。<br />

    近江国一之宮建部大社
    御祭神
    本 殿 日本武尊(やまとたけるのみこと)
    権 殿 大己貴命(おおなむちのみこと)

    ヤマトタケルと草薙剣
    九州の熊襲平定から戻られた日本武尊に景行天皇は東国平定を命じられます。
    東国へと向かう途中、伊勢神宮に立ち寄られた日本武尊は、叔母の倭姫命から神剣(天叢雲剣)と火打具を授かります。
    尾張の国(愛知県)を経由し、駿河の国(静岡県)に至りましたが、国造は朝廷に従属する気がない為、「野中の大きな沼に棲む荒ぶる神にはほとほと困り果てております」と、日本武尊を野に誘い出し、四方から火を放ち騙し討ちにしようとしました。
    退路を断たれた日本武尊はその時、倭姫命から授かりし神剣で草をなぎ払い、火打具で向かい火を放ち危機から脱出し、国造を滅ぼしました。
    爾来、この地を焼津といい、又草をなぎ払った神剣は「草薙剣」と呼ばれ、熱田神宮にお祀りされています。

    駐車場にあったこの絵をストレートにとると、日本武尊と大己貴命が描かれていると思いそうですが、大己貴命=大国主命(おおくにぬしのみこと)なので「男」です。ということは火打具を持っているということから「倭姫命(やまとひめのみこと)」ということになりますね。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、「婚儀殿(こんぎでん)」(御祈祷所・結婚式場)の内部の様子。

    建部大社境内にて、「婚儀殿(こんぎでん)」(御祈祷所・結婚式場)の内部の様子。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社の婚儀殿。<br /><br />入口両方向には狛犬が鎮座しています。<br /><br />御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で改修されています。

    建部大社の婚儀殿。

    入口両方向には狛犬が鎮座しています。

    御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で改修されています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社の婚儀殿と御神水の手水鉢(ちょうずばち)。<br /><br />残念ながら御神水は渇れているというか、場所が変わっています。こちらの左斜め後ろになっていました。

    建部大社の婚儀殿と御神水の手水鉢(ちょうずばち)。

    残念ながら御神水は渇れているというか、場所が変わっています。こちらの左斜め後ろになっていました。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、御神水の手水鉢(ちょうずばち)。<br /><br />現在水は枯れています。<br /><br />享保二一年(1735年)四月奉納とあります。

    建部大社、御神水の手水鉢(ちょうずばち)。

    現在水は枯れています。

    享保二一年(1735年)四月奉納とあります。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、「現在の御神水」の様子。<br /><br />「御神水」の字の重みはともかく、「水分検査記録」があることに現在を感じます。

    建部大社にて、「現在の御神水」の様子。

    「御神水」の字の重みはともかく、「水分検査記録」があることに現在を感じます。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内の「御神水」。<br /><br />「手水鉢(ちょうずばち)」と「水汲み用の水道」。

    建部大社境内の「御神水」。

    「手水鉢(ちょうずばち)」と「水汲み用の水道」。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社婚儀殿となりにある、「春秋愛花の庭」<br /><br />春には真っ白い愛らしい花を咲かせ秋には真っ赤に紅葉し、厳しい冬を凌ぎ春にはまた、花を付ける自然の息吹きを「どうだんつつじ」で表現しています。

    建部大社婚儀殿となりにある、「春秋愛花の庭」

    春には真っ白い愛らしい花を咲かせ秋には真っ赤に紅葉し、厳しい冬を凌ぎ春にはまた、花を付ける自然の息吹きを「どうだんつつじ」で表現しています。

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  • 建部大社の摂社(四社)と末社(八社)の位置関係です。

    建部大社の摂社(四社)と末社(八社)の位置関係です。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、末社のひとつ「蔵人頭(くらんどかみ)神社」。<br /><br />別名 膳夫(かしわで)神社、料理の神様です。<br /><br />七掬脛命(ななつかはぎのみこと)を祀っています。<br /><br /><br />七掬脛命とは、景行天皇40年日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にあたり,膳夫(食膳係)に任命された。久米直(くめのあたい)の祖であるともいわれる神話の中の人物です。

    建部大社、末社のひとつ「蔵人頭(くらんどかみ)神社」。

    別名 膳夫(かしわで)神社、料理の神様です。

    七掬脛命(ななつかはぎのみこと)を祀っています。


    七掬脛命とは、景行天皇40年日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にあたり,膳夫(食膳係)に任命された。久米直(くめのあたい)の祖であるともいわれる神話の中の人物です。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、末社のひとつ「行事(ぎょうじ)神社」。<br /><br />吉備臣武彦(きびのおみのたけひこ)・大伴連武日(おおとものたけひのむらじ)を祀っています。

    建部大社、末社のひとつ「行事(ぎょうじ)神社」。

    吉備臣武彦(きびのおみのたけひこ)・大伴連武日(おおとものたけひのむらじ)を祀っています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、摂社のひとつ「大政所(おおまんどころ)神社」。<br /><br />景行天皇皇后の播磨稲日大郎妃(はりまいなびのおおいらつめ) を祀ってあります。

    建部大社、摂社のひとつ「大政所(おおまんどころ)神社」。

    景行天皇皇后の播磨稲日大郎妃(はりまいなびのおおいらつめ) を祀ってあります。

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  • 建部大社、摂社のひとつ「聖宮(ひじりのみや)神社」。<br /><br />日本武尊の御父、第十二代景行天皇(けいこうてんのう)を祀ってあります。

    建部大社、摂社のひとつ「聖宮(ひじりのみや)神社」。

    日本武尊の御父、第十二代景行天皇(けいこうてんのう)を祀ってあります。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 両脇に御神燈を従えている「願い石」と「お食い初め石」。

    両脇に御神燈を従えている「願い石」と「お食い初め石」。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 願い石<br />当社に古くから伝承されています霊験あらたかな白石を持ち帰り、願い事を石に書き朝夕願掛けをしてください。 <br />無事願い事が叶ったならば石は神様にお返しください。 <br />本殿にお供えいたし貴家の安泰を御祈願させていただきます。 <br />初穂料1,000円

    願い石
    当社に古くから伝承されています霊験あらたかな白石を持ち帰り、願い事を石に書き朝夕願掛けをしてください。
    無事願い事が叶ったならば石は神様にお返しください。
    本殿にお供えいたし貴家の安泰を御祈願させていただきます。
    初穂料1,000円

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  • お食い初め石<br />お子様が一生食べ物に困らないように生後100日に行われる儀式で、歯固めの石と称し丈夫な歯が生えますようにと願いを込めて「お食い初め石」を添えます。 <br />当社では福石と申し無料でお分けしております。 <br />願い石の回りにございますのでご自由にお持ち帰りください。

    お食い初め石
    お子様が一生食べ物に困らないように生後100日に行われる儀式で、歯固めの石と称し丈夫な歯が生えますようにと願いを込めて「お食い初め石」を添えます。
    当社では福石と申し無料でお分けしております。
    願い石の回りにございますのでご自由にお持ち帰りください。

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  • 建部大社「願い石」と「お食い初め石」。<br /><br />「願い石」のまわりに「お食い初め石」が置いてあると書いてありました。なので見てみると・・・、真ん中に大きな「願い石」があって、その周りに小さな「お食い初め石」がありました。

    建部大社「願い石」と「お食い初め石」。

    「願い石」のまわりに「お食い初め石」が置いてあると書いてありました。なので見てみると・・・、真ん中に大きな「願い石」があって、その周りに小さな「お食い初め石」がありました。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、「願い石」と「お口初め石」との位置関係。

    建部大社にて、「願い石」と「お口初め石」との位置関係。

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  • 建部大社にて、「建部川柳」三句。<br /><br />「厄除けに 加えて欲しい 花粉症」<br /><br />「建部へと 孫が導く 宮参り」<br /><br />「神様に 欲と知りつつ 手を合わす」<br />

    建部大社にて、「建部川柳」三句。

    「厄除けに 加えて欲しい 花粉症」

    「建部へと 孫が導く 宮参り」

    「神様に 欲と知りつつ 手を合わす」

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  • 豊饒満帆の庭<br /><br />大海原を一艘の船が大漁旗をなびかせ、建部大社へ向かう姿を表現しています。商売繁盛、家庭繁栄の願いを込めて造られました。<br />

    豊饒満帆の庭

    大海原を一艘の船が大漁旗をなびかせ、建部大社へ向かう姿を表現しています。商売繁盛、家庭繁栄の願いを込めて造られました。

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  • 豊饒満帆の庭<br /><br />別角度より。

    豊饒満帆の庭

    別角度より。

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  • 菊花石(きっかせき)<br /><br />自然の力によって菊の模様が入った鑑賞石の最高峰。<br />神聖な力を感じさせます。

    菊花石(きっかせき)

    自然の力によって菊の模様が入った鑑賞石の最高峰。
    神聖な力を感じさせます。

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  • 建部大社、本殿裏にある「菊花石」。<br /><br />菊の紋様をおもわせる自然の化石です。これほど鮮明で大きなものは珍しいといわれています。境内神域のありがたい場所に安置しております。参拝の折に是非探してみて下さい。<br /><br />あ?ネタばれしてしまいましたか?

    建部大社、本殿裏にある「菊花石」。

    菊の紋様をおもわせる自然の化石です。これほど鮮明で大きなものは珍しいといわれています。境内神域のありがたい場所に安置しております。参拝の折に是非探してみて下さい。

    あ?ネタばれしてしまいましたか?

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  • 建部大社の本殿裏にある「八咫鏡(やたのかがみ)」、若干違うかもしれませんが・・・。<br /><br />「菊花石」と「菊紋壷」の間にあります。

    建部大社の本殿裏にある「八咫鏡(やたのかがみ)」、若干違うかもしれませんが・・・。

    「菊花石」と「菊紋壷」の間にあります。

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  • 大社、本殿裏にある伝承の古壺「菊紋壺」。<br /><br />菊紋入りの信楽焼古壺で、伝承の由来・年代の記録は残されていませんが、社宝として永い間大切にされております。

    大社、本殿裏にある伝承の古壺「菊紋壺」。

    菊紋入りの信楽焼古壺で、伝承の由来・年代の記録は残されていませんが、社宝として永い間大切にされております。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 重要文化財「石灯籠」。文永七年(1270)の文字があります。<br /><br />文永七年庚午と彫があり、県内最古の石灯籠です。現在重要文化財に指定されています。 <br />蒙古来襲で騒然となった時代、国家安泰を祈願し建立された石灯籠だと伝わります。

    重要文化財「石灯籠」。文永七年(1270)の文字があります。

    文永七年庚午と彫があり、県内最古の石灯籠です。現在重要文化財に指定されています。
    蒙古来襲で騒然となった時代、国家安泰を祈願し建立された石灯籠だと伝わります。

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  • 重要文化財「石灯籠」、アップにて。

    重要文化財「石灯籠」、アップにて。

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  • 建部大社境内にて、「昭和天皇御手植之松」。<br /><br />昭和天皇が皇太子だったとき、大正七年(1918)四月四日に植樹された「松」のようです。ということは樹齢96年と言っても良いんですかね?

    建部大社境内にて、「昭和天皇御手植之松」。

    昭和天皇が皇太子だったとき、大正七年(1918)四月四日に植樹された「松」のようです。ということは樹齢96年と言っても良いんですかね?

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  • 建部大社境内の「絵馬所」<br /><br />御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で建立されました。

    建部大社境内の「絵馬所」

    御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で建立されました。

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  • 建部大社境内の「絵馬所」の内部。

    建部大社境内の「絵馬所」の内部。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、絵馬所の奉納絵馬についての説明書き。<br /><br />ここでもゆるキャラ「タケル君」が。

    建部大社境内にて、絵馬所の奉納絵馬についての説明書き。

    ここでもゆるキャラ「タケル君」が。

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  • 建部大社境内にて、「今上天皇御手植之杉」。<br /><br />今上天皇が皇太子だったとき、昭和五十八年(1983)十月二十五日に植樹された「杉の木」です。樹齢31年ですか…。

    建部大社境内にて、「今上天皇御手植之杉」。

    今上天皇が皇太子だったとき、昭和五十八年(1983)十月二十五日に植樹された「杉の木」です。樹齢31年ですか…。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、摂社のひとつ「藤宮(ふじのみや)神社神社」。<br /><br />日本武尊の御妃の布多遅比売命(ふだじひめのみこと)を祀ってあります。<br />

    建部大社、摂社のひとつ「藤宮(ふじのみや)神社神社」。

    日本武尊の御妃の布多遅比売命(ふだじひめのみこと)を祀ってあります。

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  • 建部大社、摂社のひとつ「若宮(わかみや)神社」。<br /><br />日本武尊の御子である建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)を祀ってあります。

    建部大社、摂社のひとつ「若宮(わかみや)神社」。

    日本武尊の御子である建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)を祀ってあります。

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  • 建部大社、末社のひとつ「弓取(ゆみとり)神社」。<br /><br />弟彦公(おとひこのきみ)を祀ってあります。

    建部大社、末社のひとつ「弓取(ゆみとり)神社」。

    弟彦公(おとひこのきみ)を祀ってあります。

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  • 建部大社、末社のひとつ「箭取(やとり)神社 」。<br /><br />石占横立(いしうらのよこたて)<br />尾張田子之稲置(おわりたごのいなおき)<br />乳近之稲置(ちちぢかのいなおき)<br />計三柱を祀ってあります。

    建部大社、末社のひとつ「箭取(やとり)神社 」。

    石占横立(いしうらのよこたて)
    尾張田子之稲置(おわりたごのいなおき)
    乳近之稲置(ちちぢかのいなおき)
    計三柱を祀ってあります。

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  • 正面左側が本殿で日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、右側は大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る権殿(ごんでん)です。<br /><br />昨今の度重なる地震に対応するべく、耐震性を向上させる目的で本殿・権殿の地下に免震装置が設置されいます。

    正面左側が本殿で日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、右側は大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る権殿(ごんでん)です。

    昨今の度重なる地震に対応するべく、耐震性を向上させる目的で本殿・権殿の地下に免震装置が設置されいます。

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  • 建部大社、本殿。<br /><br />日本武尊を祀ってあります。

    建部大社、本殿。

    日本武尊を祀ってあります。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、七五三の時期の「弊殿」。<br /><br />本殿側。<br /><br />2014年11月15日土曜日撮影。

    建部大社にて、七五三の時期の「弊殿」。

    本殿側。

    2014年11月15日土曜日撮影。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、本殿。

    建部大社にて、本殿。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、権殿。

    建部大社にて、権殿。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、権殿。<br /><br />大己貴命(大国主神)(おおなむちのみこと・おおくにぬしのみこと)を祀ってあります。

    建部大社にて、権殿。

    大己貴命(大国主神)(おおなむちのみこと・おおくにぬしのみこと)を祀ってあります。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社にて、七五三の時期の「弊殿」。<br /><br />権殿側。<br /><br />2014年11月15日土曜日撮影。

    建部大社にて、七五三の時期の「弊殿」。

    権殿側。

    2014年11月15日土曜日撮影。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 昭和20年、日本で初の千円紙幣に日本武尊と建部大社が描かれています。わずか7ヶ月間という通用期間であった為、幻の紙幣とされています。

    昭和20年、日本で初の千円紙幣に日本武尊と建部大社が描かれています。わずか7ヶ月間という通用期間であった為、幻の紙幣とされています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、七五三の記念撮影コーナー。<br /><br />2014年11月15日土曜日撮影。

    建部大社境内にて、七五三の記念撮影コーナー。

    2014年11月15日土曜日撮影。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社<br /><br />瀬田神領の地に鎮座以来1300余年の古社で「近江一の宮」として知られる由緒ある大社。<br /> 文武両道勝れた神、日本武尊と大国主神を祀り、出世開運、縁結びの神として古くから崇敬が厚い。<br /> 境内には、重文の石燈籠一基、また重文の女神座像三体は、宝物殿に納められている。<br /> なお、大津三大祭の一つ「船幸祭」は、8月17日に行われる。<br /><br />大津市<br />

    建部大社

    瀬田神領の地に鎮座以来1300余年の古社で「近江一の宮」として知られる由緒ある大社。
     文武両道勝れた神、日本武尊と大国主神を祀り、出世開運、縁結びの神として古くから崇敬が厚い。
     境内には、重文の石燈籠一基、また重文の女神座像三体は、宝物殿に納められている。
     なお、大津三大祭の一つ「船幸祭」は、8月17日に行われる。

    大津市

    建部大社 寺・神社・教会

  • 神領の地名の由来。<br /><br />近江国(滋賀県)一宮の建部大社の門前に位置し、その神料田(神領)となったところから、神領という地名がついたといわれています。建部大社は天平勝宝七年(755)現在地に遷座したと伝えられ、源頼朝をはじめとして多くの人々の信仰を集めていました。

    神領の地名の由来。

    近江国(滋賀県)一宮の建部大社の門前に位置し、その神料田(神領)となったところから、神領という地名がついたといわれています。建部大社は天平勝宝七年(755)現在地に遷座したと伝えられ、源頼朝をはじめとして多くの人々の信仰を集めていました。

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  • 建部大社の「御神池」。

    建部大社の「御神池」。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 御神池とその噴水・大燈籠・蘭渓雪見燈籠・大野神社鳥居。<br />

    御神池とその噴水・大燈籠・蘭渓雪見燈籠・大野神社鳥居。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社の「御神池」。<br /><br />七五三の記念撮影ができるようになっていました。<br /><br />2014年10月25日撮影

    建部大社の「御神池」。

    七五三の記念撮影ができるようになっていました。

    2014年10月25日撮影

    建部大社 寺・神社・教会

  • 御神池とその噴水・大燈籠・蘭渓雪見燈籠。

    御神池とその噴水・大燈籠・蘭渓雪見燈籠。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 御神池と噴水・蘭渓雪見燈籠・大野神社鳥居。

    御神池と噴水・蘭渓雪見燈籠・大野神社鳥居。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 御神池とその噴水・大燈籠・蘭渓雪見燈籠・武富稲荷神社鳥居。

    御神池とその噴水・大燈籠・蘭渓雪見燈籠・武富稲荷神社鳥居。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 蘭渓雪見燈籠奉納の碑。

    蘭渓雪見燈籠奉納の碑。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 蘭渓雪見燈籠と大燈籠。

    蘭渓雪見燈籠と大燈籠。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社の「大燈籠」。<br /><br />古代百済から渡来し進んだ土木技術を持った大友氏一族が「瀬田の唐橋」の安全を祈念し奉納したと伝えられ、旧瀬田城址・臨江庵(旧膳所藩家老の別宅)の庭に建立されていた。<br />この庭は大正四年御大典記念・大正五年当社創立千八百年祭の為に整備され、当社の大祭毎に別邸と斎館として使われた由縁をもってここに移築した。<br /><br />高さ五米四十糎<br />

    建部大社の「大燈籠」。

    古代百済から渡来し進んだ土木技術を持った大友氏一族が「瀬田の唐橋」の安全を祈念し奉納したと伝えられ、旧瀬田城址・臨江庵(旧膳所藩家老の別宅)の庭に建立されていた。
    この庭は大正四年御大典記念・大正五年当社創立千八百年祭の為に整備され、当社の大祭毎に別邸と斎館として使われた由縁をもってここに移築した。

    高さ五米四十糎

    建部大社 寺・神社・教会

  • 「大野神社の鳥居」。

    「大野神社の鳥居」。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、末社のひとつ「大野(おおの)神社」。<br /><br />当地の地主神であった草野姫命(かやのひめのみこと)を祀ってあります。<br /><br />縁結びの神様です。

    建部大社、末社のひとつ「大野(おおの)神社」。

    当地の地主神であった草野姫命(かやのひめのみこと)を祀ってあります。

    縁結びの神様です。

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  • 大野神社。<br /><br />建部大社がこの瀬田の地へと遷し祀られる以前、この地域の地主神として祀られていた神社です。祭神として草野姫命(かやのひめのみこと)がお祀りされています。 <br /><br />氏子の方々は本殿に続き、必ず参拝される特別な神社です。<br />

    大野神社。

    建部大社がこの瀬田の地へと遷し祀られる以前、この地域の地主神として祀られていた神社です。祭神として草野姫命(かやのひめのみこと)がお祀りされています。

    氏子の方々は本殿に続き、必ず参拝される特別な神社です。

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  • 建部大社、末社のひとつ「武富稲荷(たけとみいなり)神社」の鳥居。

    建部大社、末社のひとつ「武富稲荷(たけとみいなり)神社」の鳥居。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、末社のひとつ「武富稲荷(たけとみいなり)神社」。<br /><br />稲倉魂命(いなくらぎのみこと)を祀ってあります。<br /><br />家内安全・商売繁盛の神様です。

    建部大社、末社のひとつ「武富稲荷(たけとみいなり)神社」。

    稲倉魂命(いなくらぎのみこと)を祀ってあります。

    家内安全・商売繁盛の神様です。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、末社のひとつ「八柱(やはしら)神社」。<br /><br />素盞之男命(すさのおおのみこと)<br />五十猛紙(いそのかみ)<br />天津日子根命(あまつひこねのみこと)<br />活津日子根命(かつひこねのみこと)<br />天菩比命(あめのぼひのみこと)<br />熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)<br />多岐理比恵命(たぎひののみこと)<br />島比久美命(しまひびのみこと)<br /><br />諸願成就の神様です。

    建部大社、末社のひとつ「八柱(やはしら)神社」。

    素盞之男命(すさのおおのみこと)
    五十猛紙(いそのかみ)
    天津日子根命(あまつひこねのみこと)
    活津日子根命(かつひこねのみこと)
    天菩比命(あめのぼひのみこと)
    熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)
    多岐理比恵命(たぎひののみこと)
    島比久美命(しまひびのみこと)

    諸願成就の神様です。

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  • 建部大社、末社のひとつ「八柱(やはしら)神社」。<br /><br />両脇に狛犬を従えています。

    建部大社、末社のひとつ「八柱(やはしら)神社」。

    両脇に狛犬を従えています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 「彌栄の御神木(産霊の樹)」全景。

    「彌栄の御神木(産霊の樹)」全景。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 彌栄の御神木(産霊の樹)<br /><br />この御神木は建部大社の大神様の御神威のまにまに幾百年の永い星霜の間彌栄え繁昌を続けた境内林中唯一の有難い御神木の松根(商魂)であります。<br />この御神木のように逞しく彌栄えまして皆様のご家庭が一層開運発展されますようお祈りください。<br /><br />昭和五十二年初冬 近江一の宮建部大社宮司識<br />

    彌栄の御神木(産霊の樹)

    この御神木は建部大社の大神様の御神威のまにまに幾百年の永い星霜の間彌栄え繁昌を続けた境内林中唯一の有難い御神木の松根(商魂)であります。
    この御神木のように逞しく彌栄えまして皆様のご家庭が一層開運発展されますようお祈りください。

    昭和五十二年初冬 近江一の宮建部大社宮司識

    建部大社 寺・神社・教会

  • 「宝物殿」全景。

    「宝物殿」全景。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 「宝物殿」入口。

    「宝物殿」入口。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社の寺宝のひとつ、重要文化財「女神像三軀」。<br /><br />平安時代の作とされています。<br />

    建部大社の寺宝のひとつ、重要文化財「女神像三軀」。

    平安時代の作とされています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、宝物殿に収められている「御神輿」。

    建部大社、宝物殿に収められている「御神輿」。

    納涼船幸祭(建部大社) 祭り・イベント

  • 「官幣中社建部神社」と「官幣大社建部神社」の石碑。

    「官幣中社建部神社」と「官幣大社建部神社」の石碑。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 「官幣中社建部神社」と「官幣大社建部神社」の石碑、裏面。<br /><br />「官幣中社建部神社」の碑は明治二十八年四月十日の建立のようです。

    「官幣中社建部神社」と「官幣大社建部神社」の石碑、裏面。

    「官幣中社建部神社」の碑は明治二十八年四月十日の建立のようです。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、「石灯籠」。<br /><br />ただし謂れは不明です。

    建部大社境内にて、「石灯籠」。

    ただし謂れは不明です。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社境内にて、「神馬舎」。<br /><br />馬がいるんでしょうか…?<br /><br />御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で建立されました。

    建部大社境内にて、「神馬舎」。

    馬がいるんでしょうか…?

    御鎮座一三〇〇式年大祭斎行記念事業で建立されました。

    建部大社 寺・神社・教会

  • いるようですが…。

    いるようですが…。

    建部大社 寺・神社・教会

  • やはりハリボテの馬でした。

    やはりハリボテの馬でした。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 檜山神社遥拝所(檜山神社旧本殿)<br /><br />この神社は境内御旅山に鎮座し、御祭神 伊邪那美命、大山祇命、息長足姫命、武内宿祢大臣、住吉大神を祀り元熊野神社、山神社(七ヶ所)、鞭指神社の御祭神を合祀して檜山神社と改称された。<br />平成七年四月本殿改築に伴い江戸時代建立の本殿を解体修理をしてこの地に移築し遥拝所として保存することになった。<br /><br />現在の檜山神社本殿については、&quot;あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③建部大社末社檜山神社・帰り道編&quot;にて紹介しています。<br />

    檜山神社遥拝所(檜山神社旧本殿)

    この神社は境内御旅山に鎮座し、御祭神 伊邪那美命、大山祇命、息長足姫命、武内宿祢大臣、住吉大神を祀り元熊野神社、山神社(七ヶ所)、鞭指神社の御祭神を合祀して檜山神社と改称された。
    平成七年四月本殿改築に伴い江戸時代建立の本殿を解体修理をしてこの地に移築し遥拝所として保存することになった。

    現在の檜山神社本殿については、"あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③建部大社末社檜山神社・帰り道編"にて紹介しています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 建部大社、末社のひとつ「檜山神社遥拝所(旧檜山神社本殿)」。<br /><br />伊邪那美命(いざなみのみこと)<br />大山祇命(おおやまつみのみこと)<br />息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)<br />武内宿禰大臣(たけしうちのすくねのおおおみ)<br />住吉大神(すみのえのおおかみ)<br />計五柱が祀られています。<br /><br />山の神様です。<br /><br />現在の檜山神社本殿については、&quot;あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③建部大社末社檜山神社・帰り道編&quot;にて紹介しています。<br />

    建部大社、末社のひとつ「檜山神社遥拝所(旧檜山神社本殿)」。

    伊邪那美命(いざなみのみこと)
    大山祇命(おおやまつみのみこと)
    息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
    武内宿禰大臣(たけしうちのすくねのおおおみ)
    住吉大神(すみのえのおおかみ)
    計五柱が祀られています。

    山の神様です。

    現在の檜山神社本殿については、"あみんちゅ淡海を歩く旅その四の③建部大社末社檜山神社・帰り道編"にて紹介しています。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 小灯籠<br /><br />禁教時代の織部型キリシタン灯籠と精査されている。大友氏と関係深いラテン語の三文字が刻まれた下に南蛮服をまとい靴を履いた西洋人の姿が見受けられる。大燈籠と同じ由縁により大小灯籠と一対でこの場所に移築した。<br />同型のものが京都北野天満宮三光門脇に建立されている。<br /><br />檜山神社旧本殿脇にあります。

    小灯籠

    禁教時代の織部型キリシタン灯籠と精査されている。大友氏と関係深いラテン語の三文字が刻まれた下に南蛮服をまとい靴を履いた西洋人の姿が見受けられる。大燈籠と同じ由縁により大小灯籠と一対でこの場所に移築した。
    同型のものが京都北野天満宮三光門脇に建立されている。

    檜山神社旧本殿脇にあります。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 檜山神社旧本殿脇にある「瀬田の蜆(しじみ)花」。

    檜山神社旧本殿脇にある「瀬田の蜆(しじみ)花」。

    建部大社 寺・神社・教会

  • 神代桜【エドヒガンザクラ】<br />推定樹齢 2,000年<br />樹高 10.3m<br />根本・幹回り 11.8m<br />1922年(大正11年)10月12日国指定天然記念物指定<br />1990年(平成2年)6月新日本名木百選指定<br /><br />山梨県北杜市武川町山高2763<br />日蓮宗大津山実相時<br /><br />ヤマトタケルノミコト(当社御祭神日本武尊)が東征の折、自ら実相寺(山梨県)に御手植されたといわれる桜。<br /><br />平成二十五年三月三十一日植樹

    神代桜【エドヒガンザクラ】
    推定樹齢 2,000年
    樹高 10.3m
    根本・幹回り 11.8m
    1922年(大正11年)10月12日国指定天然記念物指定
    1990年(平成2年)6月新日本名木百選指定

    山梨県北杜市武川町山高2763
    日蓮宗大津山実相時

    ヤマトタケルノミコト(当社御祭神日本武尊)が東征の折、自ら実相寺(山梨県)に御手植されたといわれる桜。

    平成二十五年三月三十一日植樹

    建部大社 寺・神社・教会

  • 社務所脇あたりにあった「もみじの木」、見事紅葉しています。<br /><br />2014年11月15日土曜日撮影。

    社務所脇あたりにあった「もみじの木」、見事紅葉しています。

    2014年11月15日土曜日撮影。

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  • 建部大社、「神門」遠景。<br /><br />一周参拝した後戻ってきました。

    建部大社、「神門」遠景。

    一周参拝した後戻ってきました。

    建部大社 寺・神社・教会

  • アミンチュ=あみんちゅ=淡海人とは・・・、<br /><br />地元テレビ、BBCびわ湖放送の番組タイトルで、淡海(おうみ)の国に住む人のことです。古事記の時代、琵琶湖とその周りの地域は「淡海」と呼ばれていました。あわあわとしたうみのそばでのんびり暮らしていて、やさしくて、どこかかわいらしい、そんな滋賀県のひとをイメージしたことばです(番組HPより抜粋)。<br /><br />ちなみに私は一応出身は京都です♪<br /><br />今回からサブタイトルとして用いたきっかけは、ももであさんから頂いたこの情報をきっかけにしております。<br />http://4travel.jp/travelogue/10717156<br />http://4travel.jp/travelogue/10663257

    アミンチュ=あみんちゅ=淡海人とは・・・、

    地元テレビ、BBCびわ湖放送の番組タイトルで、淡海(おうみ)の国に住む人のことです。古事記の時代、琵琶湖とその周りの地域は「淡海」と呼ばれていました。あわあわとしたうみのそばでのんびり暮らしていて、やさしくて、どこかかわいらしい、そんな滋賀県のひとをイメージしたことばです(番組HPより抜粋)。

    ちなみに私は一応出身は京都です♪

    今回からサブタイトルとして用いたきっかけは、ももであさんから頂いたこの情報をきっかけにしております。
    http://4travel.jp/travelogue/10717156
    http://4travel.jp/travelogue/10663257

    平和堂石山 スーパー・コンビニ・量販店

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