2014/01/03 - 2014/01/04
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後向きの猫さん
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友と二人で再び台湾へ
今回のはツアーはいつもいつも通りに友人が探してきました。
私は台北では少し自由が得られるようになってきたので、条件として「九份」に行かないコースを普段から叫んでいます。やっぱり自分で行けないところに行けたいからです。
しかし、最近のツアーで「九份」を避けるのは難しいということを実感しました。「九份」を有名にし完全に観光地化させたのは、間違いなく日本人です。日本人観光客が訪れないのは可笑しいってことになるのでしょうね。
高雄をあとにした私たちは台南にやってきました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
延平郡王祠です。
延平郡王祠 寺院・教会
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台湾をオランダの占領から開放した英雄“鄭成功”。その功績を讃える祠が台南市内にあります。いきなりなのですが、ここからは歴史の授業を思い出しながら進みたいと思います。東インド会社、清朝など懐かしい単語満載でお送りいたします。1624年、オランダの東インド会社が台湾南部を占領します。当時、ヨーロッパで莫大な利益を出していた香辛料の取引が目的でした。香辛料の確保が国力に繋がるという時代。
ちょうど同じ年、長崎の平戸にて“鄭成功”が誕生します。父は福建省出身の貿易商“鄭芝龍”、母は平戸藩田川氏の娘“まつ”でした。彼は平戸で7歳まで生活したそうです。その後、家族で福建省に戻り父とアモイ周辺で貿易、海賊、海賊退治などを行って生活していました。彼が歴史の表舞台に立つのは1644年。“明”が滅び“清朝”が建国されると明の皇族たちが各地で亡命政権を作り始めます。鄭成功達はその中の一人である“隆武帝”と手を組み清朝への抵抗運動を始めます。この辺りの流れは近松門左衛門が「国性爺合戦」という人形浄瑠璃にまとめ上げて当時の日本で大ヒットしたそうです。
隆武帝と清朝への総攻撃を行うのですがそれは大失敗に終わり、隆武帝は殺されてしまいます。同時に父とは意見が食い違い離別してしまいます。その後も鄭成功は抵抗を続けるのですが1658年南京で大敗してしまい勢力を立て直すために台湾に向かいます。そこで台湾を占領していたオランダを追放したのです。
周囲を取り囲む社殿 この祠は1662年、彼を慕う人々によって創建され開山王廟と名付けられました。日本統治時代には開山神社と改称されました。第二次世界大戦終了後、社殿は壊されすべて新しい建物に変えられ今日に至ります。中央部にある廟は細部まで凝った技巧が施され、内部に鄭成功の像が鎮座しています。周囲の社には各種の資料や鄭成功を支えた文臣や武将など59人が並んでいます。母が日本人ということで急に親しみが持てた“鄭成功”。 -
台湾に来るとどうしても、こヤツらの写真を撮ってしまいます。
あまりに人馴れしていて、人の手からエサを貰います。
日本では見ることができないので、やっぱり珍しいです。 -
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お母さんのことが書かれています。日本人だとか。
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台南赤嵌楼です。
17世紀にオランダ人の手によって建てられたもので、明、清、日本統治時代と時を重ねてきましたが、今も健在です。 -
鄭成功によりオランダ統治が終焉したの構図です。
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ここに鄭成功のことが中国語で書かれています。
明代の軍人で生まれは、字はとか、オランダを打ち負かしとかが書かれているはずです。
いつかはこれを読んでみたいです。 -
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亀の甲羅の上に石碑が乗っています。
清代に乾隆帝が福康安に送ったものです。
内乱が起きたのを3か月で治めたことに対するもので漢字と満字の両方で書かれています。
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