2014/09/28 - 2014/09/28
147位(同エリア307件中)
滝山氏照さん
JR高崎線鴻巣駅より徒歩で約10分、天照山・勝願寺(しょうがんじ、埼玉県鴻巣市本町)は関東に移封した徳川家康のもとで関東代官頭として氾濫する利根川改修工事始めとする諸整備に尽力し江戸幕府の財政基盤を作り上げた伊奈忠次(いな・ただつぐ、1550~1610)の菩提寺で真言宗豊山派の寺院です。
忠次は家康と同郷の三河出身で幡豆郡小島城主である伊奈忠家(いな・ただいえ、1528~1607)の嫡男として生まれますが波乱万丈な人生を送ります。
まず永禄6年(1563)、三河で一向一揆がおこり、家康の家臣は家康側と一揆側とに分かれて戦いその結果一揆軍は敗れ、一揆軍に属していた忠家・忠次父子は三河を追放され各地で放浪生活を余儀なくされます。
天正3年(1575)長篠の戦いにて織田・徳川連合軍が武田軍を破った時を機に父子は三河に帰参し家康長男である信康に仕える事になります。
然しながら信康の義父に当たる織田信長より信康が武田に通じているとして自害を命じられるとこれに不満を持った父子は再び出奔して堺に身を隠します。
その後本能寺の変が起り、その間信長の招待で堺を見物していた家康はこの訃報を聞き30数名の家臣と共に光秀の追手から逃れるために伊賀山中を越えて三河に戻ろうとします。
たまたま堺に身を隠していた忠次は家康が苦慮している状況を察知し家康方にはせ参じ家康一行が伊賀を越えて伊勢に辿り着くべく同道、生死を共にしながら無事三河に帰り着き、これによって二度も家康に背いた罪は許されます。
天正18年(1590)小田原北条氏の没落を受けて、豊臣秀吉命によって関東転封となった家康の方針は北条氏との戦いで荒廃した関東各地の民心を安定させ実質的な支配を早期に確立することです。
その為には徳川領における生産力を上げて財政基盤を安定させることが重要と考えた家康は次の4名を代官頭に任命、それらは大久保長安、長谷川長綱、彦坂元正そして伊奈忠次でいずれも実践力と指導力に長けた事務能力を備えている有力メンバーです。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は慶長8年(1603)江戸に幕府を創設しますが当初は組織化されていない事情により引き続き上記代官頭に依存せざるを得ない状況にあります。
その中で忠次は家康の天下構想を実現すべく武蔵国小室(伊奈町)に陣屋を構え、関東を中心に各地天領の検地・知行割り・治水利水・評定等さまざまな案件に対し適切な判断と処理を下し、現在の行政で置き換えれば高等裁判所裁判長と警視庁長官を兼ねた都知事と言った大幅な権限を行使して各地の代官・手代に指示を与え実施管理してゆきます。
忠次が関係した業績として例えば千住大橋の架橋、中条堤(熊谷付近)の築堤、(佐竹氏秋田転封に伴う)常陸旧佐竹領仕置き、下野国検地、本庄・深谷治水の開削、尾張国総検地、木曽川左岸築堤、水戸東南部治水利水の開削が挙げられる他結城秀康転封後の寂れた結城紬の殖産策として紬の改良発展に道筋をつけています。
知行は武蔵小室・鴻巣に1万3千石、官位は備前守の伊奈忠次は慶長15年(1610)激務で体調を崩し61歳で病死、その遺領を継いだ嫡男忠政(ただまさ、1585~1618)は武蔵小室藩主2代となり大坂の陣に活躍、元和4年(1618)二男である忠治(ただはる、1592~1653)は兄忠政より代官頭を引き継ぎ忠次の部下たちは忠治の下に組み込まれ、新たな知行地となった赤山(埼玉県川口市)に陣屋を構えて忠次の構想にあった利根川の治水に本格的に取り組むことになります。
2022年12月5日追記
伊奈家墓所に建てられた説明板には次のように紹介されています。
『 伊奈忠次 忠治墓
大正11年3月29日指定
伊奈忠次は三河国幡豆郡小鳥の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で1万石を賜った。関東各地を検知し桑・麻・椿の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むといわれた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。
彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検地検税の才法、すなわち、地方の方式は伊本流と云って江戸幕府地方たの基本となった。慶長4年(1599)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた。(のち大正元年正五位を追贈)。慶長15年(1610)61歳(57歳とも)で没した。法号は藤林院殿秀誉源長久運大禅定門。
伊奈忠治は忠次の次子。元和4年(1618)関東郡代を継ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え7千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は35年に及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応2(元号とも)年(1653)6月、62歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。
平成元年3月
埼玉県教育委員会
鴻巣市教育委員会 』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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JR高崎線鴻巣駅
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鴻巣めぐりマップ
鴻巣駅前に立っている周辺地図で訪問先を確認します。 -
勝願寺入口
鴻巣駅北口から大宮駅方面に戻る方向で約20分ほど線路沿いに歩きます。 -
勝願寺寺号石標
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勝願寺・総門
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勝願寺・総門扁額
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勝願寺・参道
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牧野氏累代の廟
手入れのない古い門に牧野氏累代の墓として立札が見えます。 -
「牧野氏累代の墓」説明
「 丹後国田辺城主
牧野家塁代の墓
天正18年(1590)9月牧野重成は石戸領五千石を領した。
その子信成は加増により大名に列し石戸藩主となる。
のちに関宿に転じた信成嫡子親成は京都所司代を勤めてたのち、寛文8年(1668)丹後国田辺城主3万5千石の譜代大名として約200年間続き明治維新を迎えた。ここには歴代の当主夫妻が眠っている。」 -
牧野氏家紋扉
廟の扉は施錠されて状態で参詣することができません。 -
牧野氏墓地内部
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牧野氏墓地内部
境内側から捉えようとしますが石塔の突端しか見えません。 -
勝願寺・仁王門(山門)
当寺は家康のの庇護を受けている事から将軍家の家紋である「三つ葉葵」使用が許されており、現在でも瓦や山門に見ることができます。 -
勝願寺仁王門(山門)・扁額
山門二階部に山号「天照山」と刻された扁額が見えます。 -
仁王門彫刻
山門の所々には見事な彫刻が施されています。 -
勝願寺・参道
広い左右の敷地の中央に長い参道が続いています。 -
勝願寺・歴代住職墓
参道の左手には石囲いの中に歴代住職の墓が左右と中央に整然と並んでいます。 -
勝願寺・本堂
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勝願寺・本堂上部
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狛犬と石製蓮(左)
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狛犬と石製蓮(右)
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勝願寺・境内
本堂から山門方向を捉えます。 -
勝願寺・鐘楼堂
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勝願寺境内・真田氏・仙石氏墓
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真田信之室墓石
真田信之室は小松姫(こまつひめ、1573~1620)と言い父は徳川家康の家臣で徳川四天王の一人として名高い本多忠勝(ほんだ・ただかつ、1548~1610)で、家康の養女となり真田昌幸の長男信之(のぶゆき、1566~1658)の室となります。本廟は長野県上田市にあります。 -
真田信重・室の墓石
真田信重(さなふだ・のぶしげ、1599~1648)は信之の三男で鴻巣で病死、母親の小松姫の縁で当寺に埋葬されます。本廟は長野県上田市にあります。 -
仙石久秀の墓石
仙石久秀(1552~1614)は慶長19年(1614)小諸藩主として江戸出府の帰路、鴻巣で病死し本廟は長野県上田市にありますが、遺命により当寺に分骨されます。 -
勝願寺・本堂横
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勝願寺・境内
真田氏・仙石氏墓石から境内を捉えます。 -
イチオシ
勝願寺・伊那一族墓
壮麗な石柵に囲まれた墓地の中央には4基の宝篋印塔が建っています。 -
イチオシ
伊奈忠次・忠治墓
4本のうち左端が忠次の宝篋印塔でその隣が忠次二男忠治です。忠治は父忠次の代官頭を引継ぎ武蔵国赤山(現在の川口市)に陣屋を構え、新田開拓・河川整備等に勤めます。 -
イチオシ
伊奈忠次・忠治室墓
傍らの説明では言及していませんが右端は墓石の戒名から伊奈忠次又は忠治の室と思われます。 -
伊奈忠次・忠治説明板
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横田柳几墓
横田柳几(よこた・りゅうき、1716~1788)は江戸時代中期の俳人で鴻巣の酒造家に生まれています。若い時から俳句を学び伊勢派の中川乙由の門下を経て佐久間柳居に師事して「布袋柳几」と称します。 -
横田柳几説明板
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芭蕉忌千句塚
横田柳几は松尾芭蕉の百回忌を前に天明7年に法要を取り越して行い、当寺の境内に芭蕉忌千句塚を建立しています。 -
人形塚
人形塚も境内に配されています。
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